20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

怪奇!イルカ人間恋愛奮闘記。というより、トンデモ映画としての『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』(1988/リュック・ベッソン)

ドン引き海物語。知ってはいるけれど実は観てない映画というのは幾多もあり、『グラン・ブルー』もその一本だった。作品の内容を、恐らくは雰囲気重視のラブストーリーだと予想していて「男は恋をした、イルカのような女に。女は恋をした、イルカのような男に」みたいな俺キャッチコピーを勝手に夢想していた。イルカちゃんは観たいけれど、人間の恋物語はどうでもいいや……なんて思っていた。ところが、いざ観てみると全くそんな生優しい映画ではなかった。ラブストーリーですらないかもしれない。端的に言ってこれはエゴの物語だし、より深層を追求すれば「すこしふしぎ」という意味でSF映画かもしれない。

主人公のジャックがまずやばくて、結論、コイツは人間じゃなくて"イルカ"なのだ。水中に潜ることしか出来ない男は、ご丁寧に「心臓が人間というよりイルカみたいな動きをする」という説明があり、だから人間の女と恋ができない。恋には落ちるのだけれど、家庭は持てない。人間じゃないから。彼が目指すのは彼女との地上での幸福ではなく、ひたすら海の底でしかない。陸上の方が息苦しく、水中の方が心地よい。そんな彼は最終的に、彼女も胎児も置き去りに、まるで黄泉の国のような深海で"イルカ"と共にGONEしてしまう……ので、これを一般的なラブストーリーとして鑑賞していること自体が相応しくなかった。逆人魚姫みたいな寓話だったし、結局は人魚姫は人間になれませんでした、帰省、みたいな悲劇でもある。しかし、悲劇と感じるのもまた我々のエゴであって、または残された恋人のエゴなのかもしれなく、主人公視点で見れば、この物語は完全にハッピーエンドになっているところもやばい。

リュック・ベッソンという作家がやばいのは、とにかくひたすらに何もかも(ストーリーも演出も台詞も)が"ダサい"ことだ。しかもそのダサさは、まるで自信過剰な中学生が考えたベストアイディアのような寒気を帯びている。そのダサさが臨界点を突破して爆裂した傑作が『フィフス・エレメント』であるし、キャラクターの魅力に救われながら作劇が奇跡的に成功したのが『レオン』だと思う。そして、ベッソンの映画はひたすらにダサいけれど、それが彼の良さであり、嫌いになれない魅力だと感じる。
たとえば、自由帳に書き散らしたアイディアを、己のアティテュードを徹底して具現化してみせる様を見て、クリストファー・ノーランとの類似を感じる。ノーランも、厨二アイディアをそれなりの高品質でパッケージする作家性があるけれど、その欲求自体は無邪気で、荒唐無稽な可愛さがある。『テネット』で見せた「俺だって007がやりたい!」という二次創作的な欲望はベッソンにも通じるし、『インターステラー』でアン・ハサウェイが「愛は時空を超えるのよ」と言い出した時は、『フィフス・エレメント』を想起した。
二人の作家の作品がダサければダサいほど、自分は好きになる。かっこつければつけるほど、かっこ悪くて愛おしくなる。

『グラン・ブルー』に通底するのは、ベッソンの映画への想いに他ならず、彼は自分のことを"人間"ではく"映画作家"だと本気で信じていると思う。本気、なのがダサくていい。女も子供も放置して、映画を撮りに行ってしまう。映画を撮ってる時が幸福で、当たり前の日常が息苦しくて仕方ない。そんな彼が自身を重ね合わせた存在が、実在の天才ダイバーであるジャック・マイヨールだ。ベッソンの両親はスキューバダイビングのインストラクターで、彼もまた幼い頃はダイバーとして生きていた。だから『グラン・ブルー』は、虚構の自伝、でもある。

ベッソンは『ニキータ』のアンヌ・パリロー、『フィフス・エレメント』でオペラを歌ったディーバ役マイウェン・ル・ベスコ、そしてミラジョボといった、出演女優との結婚と離婚を繰り返してきた。一緒に映画を作り上げた女性と恋に落ちてしまう、けれども長続きしない彼は、まるで主人公ジャックのようだ。しかし、ベッソンは反省どころか、俺はそういう人間だ、とビッグダディよろしく宣言する。彼が女性たちから投げ掛けられたい言葉は、「行ってらっしゃい、わたしの愛を見つけてきて」なのだ。この言葉は、実は「あなたの身勝手な部分を許すわ」というニュアンスが内包されている。

ラスト、行かないでと嘆く恋人ジョアンナの手を握るジャック。しかしその行為は、彼女の想いに共鳴を示すものではなく、ダイビングのためのよく分からん機械を彼女に握らせるためのものだった。子供のことを知らせても微妙リアクション。ごめんとも言わない。立ち止まりもしない。既に水面に身体を浸したジャックと船の上のジョアンナは分断されている。そしてジョアンナは「わたしの愛を見つけてきて」と言う、というより、彼女に"言わせる"のだ。このジャックのエゴとも取れる行動は、ベッソンの恋愛観・表現への飽くなき追求を強烈に露呈したものかもしれない。パートナーの隣にいるよりも、彼は"海底にいるはずのないイルカ"へと逢いに行くことを選ぶのだ。自分勝手も甚だしい。でも、それが映画監督なんだ。そして俺は、その"映画監督"なんだ。とでも言うかのように。

しかし、『グラン・ブルー』にはもう一つの重要な側面がある。

自らを慰めるかのようなフィルムの最後には「娘のジュリエットに捧げる」と出る。映画の撮影中に生まれたジュリエットは、アンヌ・パリローとの間の子供だ。ジュリエットは、生後間もなく心臓に障害があることが分かり、以来6ヶ月間、手術を繰り返して生死の境目を彷徨っていた。ベッソンは撮影での相次ぐトラブルに対処しつつ、病と格闘する娘の無事を心から祈った。ベッソンにとって、『グラン・ブルー』とはジュリエットの命そのものでもあった。映画の完成と娘の生死。どちらも無事に完成/完治したという繋がりをスピリチュアル的に連結させることはしない。ただ、『グラン・ブルー』は単なる無邪気な映画少年のエゴの物語ではなく、新たなる命への「祈り」でもあるのだ。

エゴと祈り。父親と娘。映画と命。母親という海から上がった愛娘が、再び海に沈むことのないように、疑似的に父親が先に"海へと潜った"というのは暴論が過ぎるだろうか。"海底にいるはずのないイルカ"は、盟友エンゾや父親との邂逅かもしれないけれど、愛する娘の生命そのものだったのかもしれない。

偶発的とはいえ、ここまで作家のエゴと祈りが同時に存在していながら、ダサくて美しくて、寒気がしてあたたかい気持ちになる映画も珍しい。珍作です。

パスタをモリモリ食べるロザンナ・アークエットがひたすら可愛い。メガネっ子だった前半の方が萌えポイント高し。あとイルカちゃんたち最高🐬エリック・セラの音楽がイルカの声を模したサウンドで良い。悪夢シーンは『エルム街の悪夢』をパクって撮ってるぞ!