20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

人形(=人類)実存主義『バービー』

作り手が語りたいテーマの主語を"女"とか"男"とか容易く使用してしまっているせいで、これがフェミニズムだとかマスキュリズム批判だとか論争されてしまっているわけだが、そうではなくて、死の恐怖や不安、自己実現や自由意志に関する、実存主義的な映画として意義があると感じた。

それはつまり、人間が人形を演じることによって"人形"から脱却するまでの物語で、人間は神の操り人形でもないし、自分自身で定型を決めつける必要もない、哲学でいうところの決定論、必然論、デターミニズムへ反旗をひるがえす、アイデンティティーを巡る普遍的なメッセージがある。

実存的恐怖を描いた映画といえば『マトリックス』がある。人間は機械に夢を見させられていて、そこに自由意志はない、ふざけんな俺たちは自分の意志で生きたいぞ!と機械にカチコミをかける。
押井守の『攻殻機動隊』でも、それまで自分の人生だと思っていた記憶は、全て捏造された偽物の記憶だったという恐怖が描かれる。
元を辿れば、アラン・レネの『去年マリエンバートで』は、見知らぬ男から「わたしとあなたは、去年マリエンバートで愛し合いましたね」と言われて、主人公は全くその記憶が無かったにも関わらず、次第にその記憶を植え付けられていく。
夢の中で"記憶を植え付ける"というアイデアで展開するノーランの『インセプション』は、「今生きてるこの世界は夢なのよ、だから目覚めないと」と"実存"に揺れ動く主人公の妻が自殺する。
ノーランは映画監督を目指した時から、常にボルヘスの『伝奇集』を持ち歩いていたという。そこに収録されている『円環の廃墟』から『インセプション』への影響は計り知れない。円形の神殿の廃墟にたどり着いた主人公が、繰り返し見る夢の中で"世界"と"息子"を創造するが、やがて己もまた他者が夢見ている幻にすぎないと悟る。自分の人生が、誰かが見ている夢の一部に過ぎないという、実存の恐怖。
そんなノーランのオールタイムベストをご存知?『マトリックス』と『2001年宇宙の旅』。
『2001年宇宙の旅』は、オスとかメスとか関係なく平和に暮らしていた猿たちの目の前にモノリスが出現し、猿がそれに触れて以降、動物の骨を武器として使い、猿が猿を殺す。猿が放り投げた骨は、一瞬で宇宙船へとジャンプカットする。これは人類の文明が、骨からやがて宇宙船にまで進化したことを表現しているのではない。ここで映る宇宙船は「核ミサイルがのせられている」核爆弾衛星なのだ。
人類の歴史は、小さな殺人から始まり、やがて世界規模の戦争にまで発展してしまった。戦争を始めた男たちは、その男社会のまま宇宙にまで到達してしまった。それが人間なのか?人間は自由なのに、どうして戦争を止められないのか?それが自由意志?それとも人間は自由ではない?人間って、なんだ?!

と、ここで一旦連想ゲームを止めてしまうが、果たして『バービー』も、この類の作品だったのではないかと感じる。

結局フェミニズムでもマスキュリズムでもない、男女どちらも平和な世界がいちばんいいじゃん!という人間個々に対するメッセージは普遍で、そういった映画が特大メガヒットしているというのは素直に嬉しい。
そして、『アイ、トーニャ』のトーニャ・ハーディング、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のシャロン・テート、『バビロン』のネリー、『ハーレイクインの華麗なる覚醒』のハーレイ・クイン、そしてバービーと、常にツァイトガイスト的な女性を演じてきたマーゴット・ロビーのセルフプロデュース力に乾杯。
地面にうつ伏せになってメソメソするバービー、最高にユーモラスでチャーミングだった。

ところで、これは対義的な意味ではなく本作はケンの映画でもあったけれど、ライアン・ゴズリングのコメディアンとしての才能は特筆に値する。
『ナイス・ガイズ』で披露した女々しすぎるアホ悲鳴に爆笑させられたけれど、一体何度ケンの挙動で笑ったことか。
ケンたちが謎空間で歌い踊るシーンなんかは、「この映画は一体どこに行くんだ?!」とフィクションラインがグラグラして、心から楽しかった。

「mojo dojo casa house!」爆笑。
そしてフィクションラインの話で言うと、バービーランドと人間の世界を、単に虚構と現実として処理していないのが、この映画の最も巧い演出だと思う。
完全に地続きで、不条理ということではないけれど、歴然と異なる世界がシームレスに繋がっている。あれが虚構と現実の対比だったならば、それは類型的なフィクション論に帰結しそうなイヤな予感があったのだけれど、全然そんなことなさすぎて巧いと思う。

アバンタイトル、オープニングの多幸感も最高。バービーが2階から宙に浮いて車の元へと行く、あのマジック。

サルトルの『嘔吐』のパロディがあったり、プルーストギャグが出てきたり、いちいち洒落が秀逸だっただけに、本国公式アカウントのアレが如何に浅はかだったか……
原爆とバービー本編は全く関係ないので、届くべき客層に届いてほしい。

アメリカ・フェレーラ演じるグロリアの演説は力強く、誰もが抱く苦しみを代弁していた素晴らしい芝居だっけれど、あれは憲法改正前に国会でやった方がエモくないか??あそこでやって良かったの??と、作劇上の配置にはちょっと疑問を抱いた。

あとケンが人間界で「この世は男社会だ!」ってなるシーン、あそこにドナルド・トランプって映ってましたっけ?映ってなかったとしたら絶対映すべき。映ってたらごめんなさい。ってかイーロン・マスクも映るべき。

ラスト、鑑賞直後はえ?そういうオチでいいの?と腑に落ちなかったけれど、いやちょっと待てと考え直したら素晴らしいオチだった。自分の身体について知る権利。そして同時に、くだらねえ〜って笑える。

完全に見誤ったのは、オチのフリとなるある台詞の訳があまりにも良くなくて。ぼくがバカなのも理由の一つだけれど、でもあの訳は意味を変化させてしまう気もする。あれは笑っていいギャグというよりは、バービーという人形=記号の哀しみでもあるわけじゃんか。意訳ではなく、原文のまま訳してほしかったな……。女性器をNGワードにすな!!

あとcrazyを「メンヘラ」と訳すのもどうかと……「ポリコレ」ってのもあったり、ネットスラングを多用するのは意図が変わりはしないかなと感じた。まあ、戸田ナッチよりはもちろん良いですけど……

オスカー作品賞、フツーに獲るんじゃないですか??(どうでもいいけど)
いや、どうでもいいけど、マーゴット・ロビーが喜ぶなら、それでいいです。
グレタ・ガーウィングは良い仕事をしたけれど、旦那であるノア・バームバック的なギャグが多かった(褒めてます)。

本作はグレタとノアの夫婦で共同脚本。なるほど、共著なのも納得で、これは女性目線、男性目線のどちらか一方だけでは成り立たない。そんな二人の映画作家の共同作業としても、この映画が好きでした。