映画について書いたことの墓場 (記事一覧)
【映画(えいが)とは、長いフィルムに高速度で連続撮影した静止画像(写真)を映写機で映写幕(スクリーン)に連続投影することで、形や動きを再現するもの。活動写真、キネマ、シネマとも呼ばれる】と、ウィキペディアでは定義されている、明滅する光と暗黒の記憶装置に関する、ファンダメンタルな備忘録。てきとうなことをそれっぽく書いているだけです。
随時更新されていくはずです。
【MULTIVERSE】
演劇について書いたこと、の墓場 - 20世紀ゲネラールプローベ
演劇について書いたことの墓場 (記事一覧)
【演劇(えんげき、英語: theatre, theater)とは、観客に対し、俳優が舞台上で身振りや台詞などで、何らかの物語や人物などを形象化し、演じて見せる、芸術のこと。俳優が観客を前にして、舞台上で、なんらかの思想や感情などを表現し伝達しようとする一連の行為】と、ウィキペディアでは定義されている、奇妙な異教徒たちの生態観察備忘録。てきとうなことをそれっぽく書いているだけです。
随時更新されていくはずです。
【MULTIVERSE】
映画について書いたこと、の墓場 - 20世紀ゲネラールプローベ
2023年映画ベストテン&ワースト3
ちなみに、マーゴット・ロビー繋がりで言えば、今年は『バビロン』もありました。アレもトップ画像にしたら絵になる雰囲気がありますね。え?『バビロン』も好きなのかって?うるせえ!嫌いじゃないよ!(怒る人の気持ちも分かるけれど、過剰に酷評されすぎていると年末になって感じるに至ったり)(2020年に世界中から嫌われていた『キャッツ』をベスト1にしているので、マジで世間の評なんて気にする必要ないと思います)
10位『あいの里』(2023年/Netflix)
9位『TAR/ター』(2022/トッド・フィールド)
8位『首』(2023/北野武)
7位『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』(2023/ジョナサン・ゴールドスタイン ジョン・フランシス・デイリー)
6位『アラビアンナイト 三千年の願い』(2022/ジョージ・ミラー)
5位『ミンナのウタ』(2023/清水崇)
4位『フェイブルマンズ』(2022/スティーブン・スピルバーグ)
3位『ベネデッタ』(2021/ポール・ヴァーホーヴェン)
2位『Pearl パール』(2023/タイ・ウェスト)
1位『私、オルガ・ヘプナロヴァー』(2016/トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ)
【ワースト3】
1位 シン・仮面ライダー
2位 エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス
3位 アントマン&ワスプ クアントマニア
【超楽しかった&それはどーなんだ?とも思った、でもぼくは大好きです特別賞】
それでは、長文失礼致しました。来年も映画を観まくろう!!!
映画の「首」すらも斬首したかのような「失敗」に成功した嘲笑の傑作『首』
戦国版『アウトレイジ』を渇望する観客の期待に一切応えようとせず、芸術三部作(『TAKESHI'S』『監督ばんざい!』『アキレスと亀』)というリハビリを経た末に肩の力を抜いて『アウトレイジ』という娯楽映画を撮るも、再び『みんな〜やってるか!』で挑戦した「ビートたけし監督作品」に猛進する北野武の姿に虚しさを感じた。この"虚しさ"は『君たちはどう生きるか』を作った宮崎駿とニアイコールという意味合いで「天才映画監督がおじいちゃん=死ぬ前に作る映画」としての強固さがある。お前らが観たい壮大なロマン溢れる戦国時代(特に大河ドラマ)なんかハナから見せねえよという、アンチロマン映画。そしてそれは、紛れもなく「北野武監督」不在の「ビートたけし監督」の映画であった。
『首』は終始虚しい映画だ。ニヒリズムを徹底しながら展開するブラックコメディでありながら、あまりにも軽く首が飛びまくる残酷絵巻でありつつ、それでいて紛れもなく時代劇としてのルックも保っている。加瀬亮演じる織田信長は終始尾張弁で叫び続けて、西島秀俊演じる明智光秀は真面目に耐え続けて、たけし演じる羽柴秀吉はバカヤロウとボヤき続けて、大森南朋演じる秀長と浅野忠信演じる黒田官兵衛はさながらたけし軍団。演技指導をしないことで有名な北野武だけれど、彼の作品でここまで演技が各々バラバラ、全く統一されていないというのは初めてではなかろうか。一体このアンバランスな「素晴らしいバランス感覚」は何なのだろう。
北野映画に通底するニヒリズムが、時代劇残酷コメディとしてここまで炸裂するとは思いもよらなかったし、この達観した眼差しは、たけし演じる秀吉そのもののようでもあった。そして、ニヒリズムの極地として、この映画自体が明確に「笑われる」か「怒られる」かのどちらかを思ってくれればいいです、とでも言うかのように、絶賛とか賛辞とかを全く求めていない。格調高い、世界中に褒められるような、巨匠の映画なんか撮る気ゼロ。傑作なんか作る気ナシ。「成功」も「失敗」も諦めている、文字通りニヒリズムそのものみたいな映画。それが凄すぎる。
言ってみれば北野武による黒澤明の『乱』みたいな映画だけれど、黒澤明ができなかった達観の眼差しを、たけしはここに来て獲得しちゃった感じ。
未だかつて観たことのない明るい北野武の芝居にも驚く(本能寺の変の頃の秀吉に死にたい願望があるわけもなく、めっちゃ楽しかった時期だろうし、歴史通りなら秀吉が死ぬはずがないので、『首』の秀吉はコメディリリーフに徹している)。死ぬことばかり考え続けながら映画を撮り続けたコメディアンが、76歳にしてついに死の香りが全く消え去る。『アウトレイジ最終章』ですら、「死」そのもののような老人たちの生前葬のような映画だったのに。老人コメディ『龍三と七人の子分たち』ですら、死が怖くない=無敵の爺さんたちが死に急ぐ「死」の戯れだったのに。そこまで考え抜いて、ついに「死くだらん」の域に達したたけし。生きるのも死ぬのも、尊くなんかないし怖くもない。くだらねえ。この世の全部バカバカしい。そんな達観思想の結実が『首』。
秀吉は常に見ているだけだ。見ながら「バカヤロウ」と言ったり「あいつには死んでもらうか」と言うだけ。それは、バラエティ番組で後輩芸人たちに囲まれながら、ボケたりツッコんだりしつつVTRを見つめるビートたけしのようでもあるし、ディレクターズチェアに座って全体を客観視している映画監督・北野武のようでもある。
家康の影武者の天丼ギャグがあったが、そういう意味で、『首』の秀吉は北野武の影武者のようでもあり、ビートたけしの影武者のようでもある。分裂した自我に関する精神分析は『TAKESHI'S』で終えていて、その影響が芸術三部作以降だと最も感じられた。
北野武は『みんな〜やってるか!』と『監督ばんざい!』で「失敗」することに失敗した過去があり、それは自殺願望とは若干異なったベクトルで「ビートたけしが北野武を殺す」ことへの執着であった。その試みは『TAKESHI'S』において「北野武がビートたけしを殺す」という相反する自他殺願望によって成功するも、本来の願望「ビートたけしが北野武を殺すこと」には「失敗」し続けてきた。
『TAKESHI'S』を撮り終えた北野武は、何の迷いもなく『監督ばんざい!』で「正しく失敗してみたい」と挑戦するも「失敗」に失敗(同年、同じくコメディアンの松本人志第一回監督作品『大日本人』は、正真正銘「失敗」できていた。松本は全く「失敗」も「叱責」も望んでいなかったが)。
そんな経験を経て、「失敗」を目指すから失敗できないのだと悟ったかのように、『首』ではあらゆる欲望が諦められている。そこには、承認願望や誇大思想、面白い映画を作りたいという意思すらない。同時に、つまらない映画を作るという『みんな〜やってるか!』や『監督ばんざい!』にあった衝動もない。あるのは、権力争いのための裏切りと殺し。と言ってもまだカッコつけてるかのような、なんにもカッコよくない、バカみたいな挿話の積み重ね。首に固着し、首に翻弄され、首を追う男たち。……いや「首」て。天下のために誰かの首を刎ねたら、今度は自分の首が狙われる。その繰り返し。いや、なに、コレ……? バカじゃないの……? 戦国時代、それは英雄たちが活躍した激動の時代……でかい刃物持って斬り合うとか、切腹するのがカッケーとか、アホじゃん……? お前らがカッコいいと思ってる戦国時代なんかな、なんにもカッコよくねえぞ!!とたけし口調で言われているかのような。戦国時代をニヒリズム的に達観することの意義は、第三者から客観的に見たらバカみたいに滑稽なことの繰り返しなのに、当の本人たちは誰もそれに「気付かない」ということだ。そんな男たちがこの国の歴史を作りました、さあ今年の大河ドラマはこの武将が主役です……いやイヤだよそんなの!そんなバカな男たちの歴史なんにもカッコよくないよ!と、叫ぶ現代日本を生きるあなたは、果たして歴史上の彼らより「バカ」じゃないだろうか。「上」にのし上がるという幻想、「下」を蹴落とし差別する、どんなに賢い者も結局は逃れられずひっそりと消えていく、権力のためなら平気で嘘をつき、「首」のことばかり考えている男たちの国として、漏れなく我が国は歴史を繰り返し続けている。
結局、男は男が好き。という風刺も、現代社会のみならず、芸能界、お笑い業界にも突き刺さる。男色社会を描いた『首』にジャニーズの俳優が一人も出ていないことは、強烈な風刺のように響く。男がつくった社会は、ずっと昔からバカです。なぜなら男がバカだからです。そして、男はバカなのでそれに「気付くこと」が出来ません。
そりゃあ、21世紀にもなってまだ戦争してるわ、「男たち」は。
メンツのための単なる報復合戦で、武将のみならず農民や村人たちも簡単に戦争に突入する時代。命が粗末に扱われすぎた時代。現代の目線で見てみろ、戦国時代なんか無茶苦茶だぞ!という視点そのものが存在する現代もちゃんと無茶苦茶じゃん、と提示する無茶苦茶な映画。
そういう「あきらめ」が、清々しいまでに正しく「あきらめられていて」、しかもそれが映画の演出とか作風にまで徹底されていることが本当にすごい。ヤクザ映画を壊し続けてきた北野武が時代劇を壊す!とかでもない(『座頭市』はちゃんと壊す意志があった)。なんにもない。北野映画特有の映像とか編集の妙とかも全くない。ショットはサラッとただ流れていく。好きなシーンとか美しいショットとかない。次に起こることの暗示かのように、あらゆる死のイメージが連結しているような見方も可能だけれど、編集にその意図と意志がない。たけしの映画監督としての腕が落ちているって批判があったけれど、そうは感じなかった。映画監督としての才能が右肩上がりに上達するとか、かつての才能はどこへやらと枯れ果てていくとか、そういう二元論じゃない。「才能」すら利用していないような感覚こそがヤバい。全く北野武の映画を観ているという感覚がない。にも関わらず、他の誰も、どの映画監督もこんな映画は作ることができない。北野武以外にはあり得ない北野武とは思えない映画。そういったアンビバレントをもってして、「ビートたけしが北野武を殺すこと」は達成されたのではないだろうか。
たけしがついに「北野武をあきらめる」ということに成功していると思えて、胸が高鳴った。ぼくは北野武映画のファンなので、その試みに虚しさを感じるわけだけれど、それは皮肉ではなく、極めて満足感のある虚しさだ。既存の映画の構造なんかに興味がない。若造とか巨匠とか関係なく、ここまで「映画」というもの自体を(作為的にではなく無意識的に)突き放すことが可能なのだろうか。全く傑作とは思えない。思えないことが最高のニヒリズムって感じで、「たけし、バカだなぁ〜やっと不真面目になれたのか〜良かったね〜」と、虚しさの中で微笑んでいた。楽しい映画でも面白い映画でも、シリアスな映画でもおそろしい映画でもない。物語も演出も含めて、あらゆる意味で虚しいこの作品の魅力は、ちょっと暫く引きずることになるかもしれない。
だから変な映画を観たという満足感は確かに高いのだけれど、作品のシニカルさに反して世間では絶賛されがち、たけしの予想よりも受け入れられがちなのがちょっと寂しい(まあ宣伝も戦国版アウトレイジみたいな宣伝しちゃったし)。特に、たけしの映画なんか観たことない、もしくは『アウトレイジ』だけ観ました大好き!みたいな若者がもっとガチギレしていい映画だと思う。
「なんだコレ!コントかよ!真面目に作れよ!」とブチギレる観客が一定数いることが豊かなことだと思う。「たけしの映画なんか二度と観るかよバカヤロウ!」もうたけしが『首』で求めている「批評」は、絶賛とか酷評とかではなく、そういうことなのに……。
まあしかし、ペシミスティックならまだ分かりやすいだろうに、こんな大作でそんなことしていいの……すげえな……という感動はあるけれど。
矢継ぎ早に北野組・歴代新旧出演者が総出演しながら、出演時間に関わらず各人が「キャラ立ち」しているので、キャスティングは成功している(ここに大杉漣がいないのが寂しい)。重ねて、演技の統一は全然なってなくてダメダメとは感じるけれど、そういった次元の作法がとっくにあきらめられているのが、ビートたけしの映画という趣きがある。
曽呂利新左衛門に木村祐一は決して間違いではなかったけれど(大竹まこととのキレ芸人フレーム外対決は良かったけれど)、たけしの狙い通りにキャスティングするのならば、ここは岡村隆史こそが相応しかったのではないか、と提言。
中村獅童演じる百姓の茂助が首のためなら仲間も裏切ったり、首を偽装したり、「女房も親父もみんな死んでこれで自由じゃ」と言わせてみたり、黒澤明が描いてきた農民の尊さ・強さみたいなものへのアンチテーゼが良い。
差別される側が時に応じて今度は差別する側になり、被害者は加害者と化す。出てくる人間漏れなくヒューマニズムのかけらもない。命を軽く扱う権力の元で生活する人々もまた、命を軽く扱ってしまう滑稽な無限地獄。
「差別」といえば、個人的に興味深かったのは弥助の描写だ。北野武は自身の作品で、常に黒人をギャグとして扱ってきた。そこにあるのは黒人差別というよりも「だって外国人を茶化すのって面白いんだもん」くらいの無邪気な戯れにすぎない(ゾマホン然り)。けれども、その言い訳自体が「差別的」であり、やっぱり北野武は黒人を差別し続けてきた作家なのは間違いない。特に現代の視点において、過去の北野武作品を観てみると、この居心地の悪さは歴然としているが、そういった反省が『首』にはあった。
つまるところ、『首』は上下の主従関係の話というよりは、差別意識の話とも捉えることができて、「差別する側は差別される」という寓話でもある。ここで活きてくる弥助の描かれ方は、まるで黒人差別をし続けてきた北野武自身を「差別」する形で断罪しているようだった。
本能寺の変で信長の首の行方がわからないという歴史上最大のミステリーにさほど興味のない北野武が、歴史改変として施したアッと驚く演出にこそ、フィルモグラフィ最大の反省を見る。
あの狂気の塊のような、自らを第六天魔王と名乗る信長が、結局は跡目を息子に継がせるダサさ、そして「結局はただの人間だったのか!」と嘆く光秀のダサさ。
遠藤憲一演じる村重がこの映画のヒロインで、みんな村重のことが大好きなのだけれど、その実、村重越しに別の誰かと恋愛をしているという悲壮感が凄まじく、これぞロマンチスト北野武の悲劇のヒロインという感じは興味深かった。北野武自身のセクシャリティは定かではないけれど、たけし軍団を統率しながら男たちと遊びまくってきたたけしの同性愛感が、最も誠実に色濃く反映された映画なのも間違いない。
『その男凶暴につき』や『ソナチネ』の頃の編集の切れ味もなく、かと言って『Dolls』のような生への冷めた眼差しもない。芸術三部作のような実験もない。死へのカタルシスもロマンも皆無に、引いた視点から絶命の瞬間が描かれる呆気なさ。莫大な予算が掛けられた、緩急のないストーリーとコントのような会話劇。人間へのあきらめに満ちた、映画へのあきらめに満ちた、北野武へのあきらめに満ちた、ビートたけしの映画としての完成形。
全てを文字通りに放り投げるラストが、最高に素晴らしかった。
首になっちゃえば、全員同じ!!
人形(=人類)実存主義『バービー』
作り手が語りたいテーマの主語を"女"とか"男"とか容易く使用してしまっているせいで、これがフェミニズムだとかマスキュリズム批判だとか論争されてしまっているわけだが、そうではなくて、死の恐怖や不安、自己実現や自由意志に関する、実存主義的な映画として意義があると感じた。
それはつまり、人間が人形を演じることによって"人形"から脱却するまでの物語で、人間は神の操り人形でもないし、自分自身で定型を決めつける必要もない、哲学でいうところの決定論、必然論、デターミニズムへ反旗をひるがえす、アイデンティティーを巡る普遍的なメッセージがある。
実存的恐怖を描いた映画といえば『マトリックス』がある。人間は機械に夢を見させられていて、そこに自由意志はない、ふざけんな俺たちは自分の意志で生きたいぞ!と機械にカチコミをかける。
押井守の『攻殻機動隊』でも、それまで自分の人生だと思っていた記憶は、全て捏造された偽物の記憶だったという恐怖が描かれる。
元を辿れば、アラン・レネの『去年マリエンバートで』は、見知らぬ男から「わたしとあなたは、去年マリエンバートで愛し合いましたね」と言われて、主人公は全くその記憶が無かったにも関わらず、次第にその記憶を植え付けられていく。
夢の中で"記憶を植え付ける"というアイデアで展開するノーランの『インセプション』は、「今生きてるこの世界は夢なのよ、だから目覚めないと」と"実存"に揺れ動く主人公の妻が自殺する。
ノーランは映画監督を目指した時から、常にボルヘスの『伝奇集』を持ち歩いていたという。そこに収録されている『円環の廃墟』から『インセプション』への影響は計り知れない。円形の神殿の廃墟にたどり着いた主人公が、繰り返し見る夢の中で"世界"と"息子"を創造するが、やがて己もまた他者が夢見ている幻にすぎないと悟る。自分の人生が、誰かが見ている夢の一部に過ぎないという、実存の恐怖。
そんなノーランのオールタイムベストをご存知?『マトリックス』と『2001年宇宙の旅』。
『2001年宇宙の旅』は、オスとかメスとか関係なく平和に暮らしていた猿たちの目の前にモノリスが出現し、猿がそれに触れて以降、動物の骨を武器として使い、猿が猿を殺す。猿が放り投げた骨は、一瞬で宇宙船へとジャンプカットする。これは人類の文明が、骨からやがて宇宙船にまで進化したことを表現しているのではない。ここで映る宇宙船は「核ミサイルがのせられている」核爆弾衛星なのだ。
人類の歴史は、小さな殺人から始まり、やがて世界規模の戦争にまで発展してしまった。戦争を始めた男たちは、その男社会のまま宇宙にまで到達してしまった。それが人間なのか?人間は自由なのに、どうして戦争を止められないのか?それが自由意志?それとも人間は自由ではない?人間って、なんだ?!
と、ここで一旦連想ゲームを止めてしまうが、果たして『バービー』も、この類の作品だったのではないかと感じる。
結局フェミニズムでもマスキュリズムでもない、男女どちらも平和な世界がいちばんいいじゃん!という人間個々に対するメッセージは普遍で、そういった映画が特大メガヒットしているというのは素直に嬉しい。
そして、『アイ、トーニャ』のトーニャ・ハーディング、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のシャロン・テート、『バビロン』のネリー、『ハーレイクインの華麗なる覚醒』のハーレイ・クイン、そしてバービーと、常にツァイトガイスト的な女性を演じてきたマーゴット・ロビーのセルフプロデュース力に乾杯。
地面にうつ伏せになってメソメソするバービー、最高にユーモラスでチャーミングだった。
ところで、これは対義的な意味ではなく本作はケンの映画でもあったけれど、ライアン・ゴズリングのコメディアンとしての才能は特筆に値する。
『ナイス・ガイズ』で披露した女々しすぎるアホ悲鳴に爆笑させられたけれど、一体何度ケンの挙動で笑ったことか。
ケンたちが謎空間で歌い踊るシーンなんかは、「この映画は一体どこに行くんだ?!」とフィクションラインがグラグラして、心から楽しかった。
「mojo dojo casa house!」爆笑。
そしてフィクションラインの話で言うと、バービーランドと人間の世界を、単に虚構と現実として処理していないのが、この映画の最も巧い演出だと思う。
完全に地続きで、不条理ということではないけれど、歴然と異なる世界がシームレスに繋がっている。あれが虚構と現実の対比だったならば、それは類型的なフィクション論に帰結しそうなイヤな予感があったのだけれど、全然そんなことなさすぎて巧いと思う。
アバンタイトル、オープニングの多幸感も最高。バービーが2階から宙に浮いて車の元へと行く、あのマジック。
サルトルの『嘔吐』のパロディがあったり、プルーストギャグが出てきたり、いちいち洒落が秀逸だっただけに、本国公式アカウントのアレが如何に浅はかだったか……
原爆とバービー本編は全く関係ないので、届くべき客層に届いてほしい。
アメリカ・フェレーラ演じるグロリアの演説は力強く、誰もが抱く苦しみを代弁していた素晴らしい芝居だっけれど、あれは憲法改正前に国会でやった方がエモくないか??あそこでやって良かったの??と、作劇上の配置にはちょっと疑問を抱いた。
あとケンが人間界で「この世は男社会だ!」ってなるシーン、あそこにドナルド・トランプって映ってましたっけ?映ってなかったとしたら絶対映すべき。映ってたらごめんなさい。ってかイーロン・マスクも映るべき。
ラスト、鑑賞直後はえ?そういうオチでいいの?と腑に落ちなかったけれど、いやちょっと待てと考え直したら素晴らしいオチだった。自分の身体について知る権利。そして同時に、くだらねえ〜って笑える。
完全に見誤ったのは、オチのフリとなるある台詞の訳があまりにも良くなくて。ぼくがバカなのも理由の一つだけれど、でもあの訳は意味を変化させてしまう気もする。あれは笑っていいギャグというよりは、バービーという人形=記号の哀しみでもあるわけじゃんか。意訳ではなく、原文のまま訳してほしかったな……。女性器をNGワードにすな!!
あとcrazyを「メンヘラ」と訳すのもどうかと……「ポリコレ」ってのもあったり、ネットスラングを多用するのは意図が変わりはしないかなと感じた。まあ、戸田ナッチよりはもちろん良いですけど……
オスカー作品賞、フツーに獲るんじゃないですか??(どうでもいいけど)
いや、どうでもいいけど、マーゴット・ロビーが喜ぶなら、それでいいです。
グレタ・ガーウィングは良い仕事をしたけれど、旦那であるノア・バームバック的なギャグが多かった(褒めてます)。
本作はグレタとノアの夫婦で共同脚本。なるほど、共著なのも納得で、これは女性目線、男性目線のどちらか一方だけでは成り立たない。そんな二人の映画作家の共同作業としても、この映画が好きでした。
世界に向けられた呪詛としての『私、オルガ・ヘプナロヴァー』
大傑作。めちゃくちゃ好きだ。
この映画は「ホラー映画」もとい「心霊映画」であると自分は感じた。
その理由も含めて、以下に書けるだけ感想を書く次第。それは、親愛なるジョン・ウォーターズによる毎年恒例のベストテンにおいて、彼が『I, Olga Hepnarová』という謎のチェコ映画を2位に選出していたからだ(ちなみに1位は『ベイビー・ドライバー』だった)。
オルガ・ヘプナロヴァーという名前を見聞きして反応する者は、よっぽどの殺人鬼マニア以外には恐らくいないだろう。オルガは1973年チェコの首都であるプラハで、路面電車を待っていた人々の列へとトラックで突っ込んだ。12人が負傷、8人が死亡、オルガは死刑を宣告され、チェコで最後に絞首刑に処された女性となる。
あの大量殺戮犯オルガ・ヘプナロヴァーを映画化したのか、という驚き以前に、モノクロームのスチール写真やポスターから滲み出る暗黒映画の予感、紛れもなく"イルな"映画の雰囲気に胸が高鳴った。それから待てど暮らせど、『I, Olga Hepnarová』が配給されることは無かった。輸入版で観たシネフィルたちの熱気を帯びた感想を、悔しさを胸に読み進めるしかなかった。
つまり、この2016年のチェコ映画を、自分は6年間も「ああ観たい」と懇願しながら待ってしまった。だから期待値は過剰に膨れ上がっていたものの、いざ本編を観て、それが"自分が観たかった映画の一本"であったことを思い知った。あるいは"自分が作りたかった映画の一本"かもしれない。
本作の抑制された描写の数々に、ひとりの少女がどんどん不幸になっていく姿を冷徹に見つめ続けた、ブレッソンの『少女ムシェット』を想起するのは容易い。『少女ムシェット』はトリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にも影響を与えているが、あの作品も絞首刑で映画が終わる。
ひとりの男が自殺するまでの48時間を観察した、ルイ・マルの『鬼火』も思い起こさせるが、オルガの手には自殺のための拳銃も無ければ、彼女は自殺にすら"拒絶"されてしまう。
映画の冒頭で、母からの「オルガ、起きなさい」という声に反抗するように、オルガは起き上がらない。やがて彼女が大量に睡眠薬を飲んで自殺を試みたことが発覚するが、母は心配も叱責も慰めも見せずに言う。「お前に自殺は無理。諦めなさい」
オルガの自殺は物理的な失敗そのものではなく、この母親からの言葉によって完全に"拒絶"されてしまう。同時に、オルガが自殺を決意した理由が描かれていない冒頭においても、この言葉だけで、少なくとも母親との確執が示唆される。オルガと母親との確執は凄まじい。たとえば食卓で「誕生日に何が欲しいか」と母親に問われたオルガは「この家から出たい」と答えるが、ここでオルガと母親の会話は"拒絶"され、母親は食卓を囲む他の家族に対して「召し上がれ」とだけつぶやく。
家出して山奥にある何も無い小屋で暮らすことにしたオルガは、そこを訪れた母親に対して「わたしに指図しないで!」と激昂するが、母親は手の平を彼女に向けて"拒絶"し、視線すら合わせない。当然、そこに会話も無く、母親は黙って小屋から出て行く。
母と娘は、ひたすらに拒絶の関係性でのみ繋がっている。
母親からの拒絶から逃避し、なんとか社会に溶け込もう、自立しようと試みるオルガは運転手として働き始める。
この映画における"車"とは、オルガが社会と接点を持つための道具であったと同時に、彼女が社会から逸脱するための道具としても機能している。自らのハンドルさばきによって自走する自動車そのものが、自立したいと願うオルガの欲望と呼応している。しかし、車は運転手の手によって暴走することも可能だ。
オルガは結局、愛車だったトラバントを終盤で山に破棄する。
オルガは職場でも、車を運転している時以外は情緒不安定に過ごしている。
給料の受け取りの列に並ぶ、小柄で猫背の彼女の前後には、屈強な男性たちが並んでいる。それはまるで『羊たちの沈黙』で、エレベーターで屈強な男性たちに囲まれて"孤立"するクラリスのようだ。いざ彼女の番になると、別の女性に割り込みされてしまう。その時の彼女の、心が怒りと悲しみでざわつくものの、怒ることも悲しむことも出来ない"所作"は、あまりにも素晴らしい。真に"ざわめいた"演技だ。情緒不安定と前述したものの、こういった溢れ出しそうな感情の抑制/抑圧を経験したことのない人はいないのではないだろうか。
オルガがことさらに泣き喚いたり、怒鳴り散らしたりしないのも、この映画の"抑制"された美しさに他ならない。そして、それこそが現実的な、リアリスティックな叙述なのだ。
オルガは職場でイトカという女性と出会い、親密になっていく(イトカは前述した列に割り込みした女性で、オルガは最初イトカへ憎悪をまとって接近するが、振り返ったイトカから食事に誘われ、呆気に取られる)。
この映画では劇判が一瞬も流れないが、唯一、イトカとディスコに行った際にのみ音楽が蔓延している。オルガは音楽という文化と接点が無いような生活で、まるで初めて音楽というものに触れたかのように、劇中で初めて笑顔を見せる。
音楽のビートと彼女の鼓動が重なるように、そこでオルガはイトカへの恋心に気付く。二人は音楽の中で官能的な時間を過ごし、オルガの想いはあっさりとイトカに受け入れられる。
そう、この映画で初めて、オルガを"拒絶"しない人物が現れたのだ。
しかし、本作はひたすらに冷徹さを貫く。
この出会いも、やがてはオルガを"拒絶"するための前振りでしかなかったのだ。
レズビアンであることで社会から受ける抑圧以前に、オルガは自分が"他者"と関係できないことにもがき苦しみ始める。
イトカはオルガ以外にもパートナーがいて、彼女の恋はボロボロに引き裂かれる。
失恋に絶望したオルガが全裸になり、月光に照らされながら佇むショットは果てしなく美しいが、そこで彼女はイトカに「自殺するから見ていてほしい」と懇願してしまう。
『MEN 同じ顔の男たち』の過剰なまでに膨れ上がった被害者意識を思い出す。
イトカはドン引き、こうして再びオルガの自殺は"拒絶"される。
その後も別の女性と身体を重ねるが、どうしたって関係が成立しない。虚しさのみが、彼女と共にある。
オルガは後に、犯行声明の手紙に次のように記す。
"私たちは他者を理解することなど出来ない、夫にしろ妻にしろ、親にしろ子供にしろ"それは、まやかしに気付いた者の真実の告発である。オルガのそういった繊細な感受性が、何度も死から生へと動いたにも関わらず、社会や世界そのものの無慈悲さによって、彼女はさらに絶望する。
社会と積極的に関係しようとしたオルガは、働いてみたり、恋人を作ってみたり、オッサンと飲み友になってみたり、病院に通院してみたり、とにかく彼女なりに色々と試みるのだが、何もかも失敗しながら、どんどんに孤独になっていく。
まるで、世界そのものから"拒絶"されているかのように。
だから彼女は、自分を"拒絶"する世界に対して呪詛を連ねる。
1970年代のプラハの閉塞感は、それが「プラハの夜」直後の時期だからということでもあるが、この映画ではそういった政治的な側面は排除されている。
排除されているのはそれのみならず、意図的に起伏も、脈略も、カタルシスも排除されている。編集は場面の断片を提示しているようで、連続性(コンティニュイティー)が無い。ひたむきに"断絶"され続けている。
その無機質さは、もちろんモノクロームの撮影も起因している。オルガを囲む白と黒の世界は、彼女の精神、心象風景そのものだ。荒涼としていて、そこには何も無い。
映画にとっても、興奮も悲哀も一切無い。
感情移入すら断絶されていて、映画そのものがオルガを"拒絶"して、冷徹に突き放している。
むしろ、オルガの方から、観客へと接近しているかのような感覚すら抱かせるのだ。
彼女を"拒絶"するかどうか、それはひとりひとりの観客へと託される。
社会から"拒絶"されて孤立を深め、自己破壊へと走るオルガ。
自殺の失敗、あらゆる試みの失敗が、彼女の疎外感に拍車をかける。
観客のほとんどが、彼女の顛末を知りながら映画を観るしかない。
時間は不可逆である、ということを、映画というメディアはいつだって我々に思い知らさせる。刻一刻と迫る運命の日、ひとつひとつの運命の歯車に、抗うことのできない残酷さを目の当たりにする。
あまりにも呆気なく、オルガは大量殺人を犯す。
前述したように、そこには何の興奮も悲哀もカタルシスも無い。全てが排除されている。
運転席のオルガの主観から、轢き殺されていく人々の"呆気ない"消失が描かれる。しかし、運転席から降りた彼女の目の前には、大勢の死体と血の海が広がっている。そこに、先ほどまでの"呆気なさ"は皆無だ。惨劇が客観的に映し撮られる。オルガの主観を"拒絶"するかのように。
オルガは劇中、終始ふらふらと漂い続けている。それは物理的な動作や事象を指しているわけではなく、彼女は常に地に足が着かず(着けられず)、宙に浮いているようだ。
まるで、幽霊のように、現世をさまよっているようにも見える。
冒頭での自殺に失敗し、母親から「お前に自殺は無理」とあきらめられた、言い捨てられた時点から、オルガは"死ぬこと"から拒絶され、生き永らえてしまう。
それは同時に、既に"死んでいる"と読み解いても良いだろう。オルガの死は延期され、始めから、その発動を待つのみとなる。
もしくは、オルガの"時計の針が止まった"というきっかけとも思える。
俗に、心霊映画というジャンルは、幽霊が出てきて人間に恨みを晴らす作品、ということではない。"時計の針が止まってしまった人"を描く作品のことである。
世界のどこにも居場所がない、"拒絶"され続ける彼女は、この世界では"死んでいる"に等しい。
その後の彼女の行動の全てが、自分が"生きていること"への証明のように描かれている。
まるで止まってしまった時計の針を、必死で動かそうとするかのように。
死にたいと言う少女は、本当は生きたいだけなのだ。
だから、物理的にも彼女の自殺は失敗し続けている。
本当は死ぬ勇気すらない、か弱いただの少女なのだ。
それにも関わらず、世界は彼女の"生き返し"を否定し、お前はこの世の者ではない、この世にお前の居場所はない、と非情さを突き付ける。
世界から拒絶され続けて、疎外されてしまった彼女の耳には、いつだって世界からの「死ね」という声が聞こえていたのだろう。
世界への呪詛が結実し、オルガは何度目かの死を決意するが、「もう既に死んでいる」彼女は、自殺が出来ない。
だから、あの有名な手紙の記述シーンに至る。
「私は孤独なのです。破壊された女です。人々に打ち砕かれた女です。自分を殺すか、他人を殺すかという選択肢があります。だから、私は自分に憎しみを向けてきた人たちに復讐する方を選びました。誰にも知られずに自殺してこの世を去るのは簡単すぎます。言葉でなく実行を。社会はあまりに無関心すぎる。私の評決は以下の通りです:私、オルガ・ヘプナロヴァーは、あなた方の残忍な行為の被害者として、皆様に死刑を宣告します」
それはまるで、幽霊の怨念のようだ。
彼女が死にこだわり続けたのも、"死にぞこなったこと"=未清算の過去への落とし前でもある。
オルガは死刑の前に、「私は、オルガ・ヘプナロヴァーである」というアイデンティティそれ自体を"拒絶"する。
「私は、オルガ・ヘプナロヴァーではない」
かくして、映画は"オルガ・ヘプナロヴァー"を死刑に処すことに"失敗"する。
ぶら下がって幽霊のように宙に浮かぶ一体の死体は、"オルガ・ヘプナロヴァー"ではないのだ。
オルガは、映画からも"死"を与えられない。
どこまでも映画は、彼女を突き放す。
では、死ねなかったオルガ・ヘプナロヴァーは、一体どこへ行ったのか……?
無差別殺人、テロ、自殺。
死ぬことも、生きることも許されない彼女は、いつの世も、どの場所をもさまよい続けている。
オルガは判決の前に「二度と私のような人間が出ないために、社会に努力してほしい」という旨の供述をする。
そして、社会はそれを"拒絶"し続けている。
"オルガ・ヘプナロヴァー"は、現代においても、この先の未来においても、常にどこにでも、"そこ"に"いる"のだ。
これはそういう「ホラー映画」なのではないだろうか。
オルガを演じた主演のミハリナ・オルシャンスカは、まさにオルガを演じるために生まれてきたかのような"空虚さ"に満ちている。
まずもって、オルガ・ヘプナロヴァーとは空っぽの器である。そして、この器は代替え可能で、誰しもが"オルガ・ヘプナロヴァー"となる可能性はいくらでもあるのだ。この映画は、ひとりの大量殺人の犯人をセンセーショナルに描写した作品なのではなく、そういったセンシティブな可能性について思考してほしい作品なのではないだろうか。あなたがトラックで人を轢き殺さない可能性は、本当に100%だろうか。100%自分はそんなことはしないと言い切れてしまう人にこそ、この映画はまず向けられているような気がする。
ミハリナは、紛れもなくオルガのパーソナリティを全身で体現してみせるが、その憎悪に淀んだ肉体と精神に、"空っぽさ"までをも感じさせる芝居の技術が、名演の証明に他ならない。
彼女は1992年ワルシャワ生まれのポーランド人で、だから実は本作のロケ地も全編ポーランドで、台詞も全て吹き替えである。そして彼女の両親も俳優らしい。
ミハリナもまた、子供時代に辛い想いをしたとインタビューで語っており、オルガへの共感が達成されたわけではないが、少なくとも思春期を過ごした少年少女のひとりとして、彼女の苦しみに寄り添える部分があったという。極寒に身を震わすオルガが、ベッドの下へと唾を吐き捨てる所作は、誰もがやったことは無いのに、誰もがやったことがあるかのような錯覚をさせる。自分で自分自身がままならない状態の時、我々は彼女のように"何か"が乱雑となり、思わず自暴自棄に陥るのではないだろうか。
反抗の象徴として切られたボブヘアは、それが『パンドラの箱』のルイーズ・ブルックスに酷似していると指摘できる。つまりは、モノクロームの暗黒の映画、フィルムノワールを想起するに至り、この映画がフィルムノワール的作法によって撮られた作品であることは、撮影からも把握できる。『レオン』のマチルダことナタリー・ポートマンの趣きすら感じられるミハリナの顔付きは、真に暗黒に染まった闇マチルダと言っても過言ではない。
その鎧のような黒髪、怨念で満ちた眼、対抗する力を奪われた痩せ身に、社会の圧力に潰され掛かっているかのような猫背、その全てのフォルムが素晴らしい。
絶えず、大量の煙草を吸い続ける彼女は、煙のように漂ってしまう存在であること以前に、イトカからは「油臭い」と侮辱される。しかしそれは比喩的に、世界から煙たがられる"臭い"を発していることに他ならず、それは貧困と不幸の臭いなのだ(ポン・ジュノの『パラサイト』においても、この貧困の臭いについては明確に描かれていた)。
そして、彼女が煙草を揉み消すショットは1ショットだけ存在しているが、煙草は灰皿にではなく、机上へと無造作に、暴力的に押し当てられる。彼女は"外してしまう"のだ。何もかも。そういった動き、アクションのひとつひとつを読み取ってこそ、この抑制された映画の輝きに気付けるはずだ。だから映画は面白い。
終盤、カメラはオルガの顔を真正面から撮り続け、彼女の鋭い眼差しを観客へと提示する。そこから何を読み取るか、答えは無く、思考は促される。
やがて、抑制されていた感情が、ひとつの叫びによってこの映画に刻印される。現実のオルガが絞首刑に至るまでの様子には諸説あり、堂々と自ら絞首台まで足を進めたという説もあれば、死刑を拒み無理やり絞首台まで運ばれたという説もある。
また、絞首台までオルガを連れて行った看守のひとりが「あまりにも若く、あまりにも美しい少女を死刑に処することに酷く後悔してしまった」とも述べていたらしい。
この映画には、そういった優しさも慈しみも無ければ、彼女のたくましさや強さをショットに残す気さえない。死の瞬間さえ撮られず、カメラの前に立つ人々によって、オルガと観客は"断絶"されてしまう。断絶から解放された時、彼女はもう、宙に浮いている。断末魔さえも、観客は聞くことが許されない。
ただひとつの"叫び"しか映されない。
そして、その叫び声は、聞こえてほしかった家族には、まるで届いていないのだ。
おそろしいラストショットだと思った。
そこまでして、この映画は彼女を突き放すのかと驚嘆した。
驚嘆していたら、この映画のエンドロールは無音で、それはもしかすると"黙祷"なのかもしれないと感じて、スクリーンを静かに見つめた。
彼女は許されるべき存在では無くとも、安らかに眠りたまえと黙祷することは、決して間違っていないと思う。
いや、間違っていたとしても、だ。
少なくとも、それしかオルガと観客は"関係"出来ないのだから。
2022年映画ベストテン&ワーストテン
2022年をもってして、映画は何度目かの「死」を迎えたと断言することは過言ではありません。
ゴダールの死、青山真治の死、吉田喜重の死、石井隆の死、
ぼくのようなエセシネフィル、ボンクラ映画ファンにとっても、
さて、例年通りに「もしも観ていたらベスト確実だった」
【外国映画ベスト10】
10位『クライ・マッチョ』(2021年/クリント・イーストウッド)
9位『リコリス・ピザ』(2021年/ポール・トーマス・アンダーソン)
8位『ニューオーダー』(2020年/ミシェル・フランコ)
7位『NOPE』(2022年/ジョーダン・ピール)
6位『トップガン マーヴェリック』(2022年/ジョセフ・コシンスキー)
5位『私ときどきレッサーパンダ』(2022年/ドミー・シー)
4位『MEN 同じ顔の男たち』(2022年/アレックス・ガーランド)
3位『アネット』(2021年/レオス・カラックス)
2位『TITANE / チタン』(2021年/ジュリア・デュクルノー)
1位『エルヴィス』(2022年/バズ・ラーマン)
【日本映画ベスト10】
10位『フィルム・インフェルノ』(2022年/皆口大地・寺内康太郎)
9位『映画 ゆるキャン△』(2022年/京極義昭)
8位『恋は光』(2022年/小林啓一)
7位『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年/井上雄彦)
6位『こちらあみ子』(2022年/森井勇佑)
5位『マイスモールランド』(2022年/川和田恵真)
4位『ケイコ 目を澄ませて』(2022年/三宅唱)
3位『はい、泳げません』(2022年/渡辺謙作)
2位『麻希のいる世界』(2022年/塩田明彦)
1位『ザ・ミソジニー』(2022年/高橋洋)
【ワースト10】
①シン・ウルトラマン
②わたしは最悪
③フレンチ・ディスパッチ
以下、特に語りたくもない同率ワースト
激怒
ジュラシック・ワールド/新たなる支配者
女神の継承
キャメラを止めるな!
モービウス
哭悲 THE SADNESS
大怪獣のあとしまつ
③つまらないです。3つの短編がそれぞれゴダールやジャック・
特に2話目『宣言書の改定』
逆に言えば、これはスノッブっぽく聞こえるかもしれないですが、
とは言え、断片的で流動性の無い作劇は、
極め付けはクライマックスで、
たとえば、『ムーンライズ・キングダム』
②『わたしは最悪』、わたしには最悪でした。
周囲の信頼できる目利きたちから、大傑作!、今年ベストだよ!
2章「浮気」において「どこからが浮気か?」
そういったテーマは非常に賢明で興味をそそられはするのですが、本作が果てしなく「作為的」であること、は、
本作の主人公は、
最終的な結末に至るまで、ああ、作り手が「この結末」のために、
「作為的」なのがよろしくないのではなく、「作為が丸見え」
しかし、現実はそんな作為よりも「作為的」なのかもしれません。実際、わたしは一体「何者」なんだ?
そんな人々に寄り添い、共感し、讃えあうことが出来ない、『
①いや、結局、良いところも悪いところも、樋口さんと庵野さん、
『シン・ゴジラ』のようにあれ、とまでは言いませんが、
数打ちゃ当たると言わんばかりのマルチアングルは、
なんですかあのラストカット。あれ、
真のワースト1位『オビ・ワン』
ディズニースターウォーズ関係なく、
それでは、長文失礼致しました。来年も映画を観まくろう!!!
四方八方を"調律"で埋め尽くす、あらかじめ完成された堂々巡りの音楽【あんよはじょうず。#3『地獄変をみせてやる。-人生失笑(疾走)篇-』雑感】
ぼくは所謂、アンダーグラウンドな演劇の観客ではない。演劇のマッピングさえままならない、一般的な観客ですら無い。まずはそこからだ。
あんよはじょうず。に関しては、劇団「地蔵中毒」繋がりで、コンプソンズの星野花菜里さんからスタッフの誘いを頂戴した。ぼくは「やるよ!」と返せはしたものの、公演日程が年末年始をまたぐスケジュールだということではなく、果たして自分は「観客」として機能できるのだろうか、という微かな不安があった。
ぼくは寺山修司も丸尾末広もグラン・ギニョールも好きだ。昨年も唐組の公演『ビニールの城』を新宿・花園神社で観た。「アングラ」と銘打たれるモノへの、差別心も偏見もない。
外部への憎悪として、ぼくをアングラから離脱させたのはアングラそれ自体だったし、内部への憎悪として、「いや〜アングラってオモロいよねぇ〜」と何の羞恥心も無く表明できない自分自身の気味が悪い。
こういった病理の場合、最も効果的な処方は「自分から離れた其れを、再び呼び戻すほどの優れた其れを、事故的に摂取すること」だろう。食わず嫌いの患者は、食ってさえしまえば高い確率で克服に達するけれども、食った上で"不味かった"という記憶が舌に焼き付いた者は、積極的にそれを食すこと自体が難しい。しかし、ごく当たり前に"美味しい"料理は存在していて、あまつさえそれを食べる機会に恵まれた暁には、治療は完了するはずだ。
ぼくの場合、学生時代にアングラのエピゴーネンを嫌というほど喉に押し込まれ、その吐瀉物で自らの身体を汚してしまった。度々、それを再び食べることを避けてしまった。あんよはじょうず。に留まらず、月蝕歌劇団だって本当は観たかった。昨年に唐組を観に行って、アレルギー反応はそれなりに減少してもいた。そして、外部から事故的に、ぼくはスタッフのオファーを受けた。
トラウマは、自分自身が予想もしていない奇跡によって、あっという間に治る。そういった"おそれ"は、自分が胸に抱えている限り、どんなに遠くまで逃げても、死ぬまで一緒だ。旅は道連れとまでは言わないが、端的に言って、この状態はとてもロマンティークなものだと感じる。自分が最もおそれているものは、永遠に自分と共にある。それならば、"おそれ"から逃げ去ろうと足を速めるのではなく、”おそれ”と歩幅を合わせることこそ試みるべきではないのか。”おそれ"を緩和するのは、もう”おそれ"でしかないのだ。
結論、あんよはじょうず。には感謝しかない。トラウマに罹患していたぼくは、そのおそれの内部に接近・侵入することによって再びそれを摂取することが出来たし、その強度が高かったことによって、純粋にそれを味わうことが出来た。楽しめたのだ。「観客」として、「作品」を。
本作はもちろん、天井桟敷や状況劇場の影響を受け継ぎながらも、丸尾末広や古屋兎丸といった漫画からのパスティーシュも存分に感じられる。そして何より、夢野久作『ドグラ・マグラ』を想起させる堂々巡りのメタ構造が、矛盾と快楽を混同させながら通底している。
事ここにおいて、これは映画ファンというアイデンティティからの指摘になるが、本作はクリント・イーストウッド監督『ミスティック・リバー』の作劇方法と似ている。
まさかの『Air / まごころを、君に』のラストをレファレンスしたような終幕は、コータローの哀愁漂う表情も相まって、揺るぎない美しい余韻を残す。「物語」が「物語」として完結し、そして絶命する時の、微かな静寂。以降の幸福の笑み。それが地獄の光景とは思わない。笑い合っていた二人は幸せそうだった。
ほとんどの公演で、終演後なおよそ1分間も拍手が絶えない時間があった。スタッフだから嬉しいのではない。灯された火が、めらめらと燃えている様子が「観客」の目から見えたのが嬉しかった。
2021年映画ベストテン&ワースト3
ところが、結局年末になってみれば、そんなシンエヴァよりも好きと思える作品が4本もあったわけです。こういった現象は、個人的ではあるにせよ、毎年なるべく多くの映画を観ようとする理由ですし、同時に、ベスト10を作ることの豊かさだと思います。
また、ベストの10本に共通するテーマは「新しいことをやっている」かもしれません。
10位『パーム・スプリングス』(2020年/マックス・バーバコウ)
『恋はデジャ・ヴ』の現代的なアップデートであり、ロマンティックコメディの秀作。タイムリープが繰り返されることによる「虚無」へ打ち勝つための喜怒哀楽とアツい努力が描かれていて、ちゃんと新しいし清々しい。
タイムリープから脱出するために行われる、"タイムリープ機能を利用した実践的脱出方法"にはサムズアップ。低予算のインディーズ映画ですが、アイディアと俳優の力でぐいぐい引っ張る見事な出来です。
途中に挿入される「恐竜を幻視する」シーンは、フィクションやナラティヴの力強さを補強する素晴らしいシーンでした。
9位『マトリックス レザレクションズ』(2021/ラナ・ウォシャウスキー)
1作目を当時劇場で初めて観た観客の感情を再現したような、あの前半のメタ構造による不安感と高揚感が素晴らしい。そして、ラナ・ウォシャウスキーという作家のアイデンティティーに寄り添う「女性の映画」になっていたことに胸を打たれました。かつて、望まない性別である自分が撮った映画を、よりその本質に接近する形で解体して、生まれ変わった今の自分がアップデートする、というのは、端的に言って映画史上でも他に類を見ず、興味深く評価することも出来るはずです。
トリニティーが旦那に愛想笑いをしてしまったというエピソードには胸を締め付けられました。一体我々は、自分を嘲笑う者たちと共に、どれだけ自分自身を笑ってしまったことでしょう。こういった印象深い挿話を、バランス良く配置できるラナ・ウォシャウスキーはやはり流石です。ネオの、攻撃ではなく防御に徹したアクションも、アクションそれ自体によってテーマを物語っており素晴らしいと思いました。アクションがバカカッコいい映画から、引き画の美しさを追求したフィルムになっていたのは、そういった意味で予想を超えましたし、今、作られる意義を感じました。
大事な余談ですが、「トリニティーを破壊しろ!」と命令されたイカロボットちゃんたちが、全速力でトリニティーの元へ駆け付けるのですが、「あれ?! いない!?」と慌てふためいてキョロキョロするシーンが、本当に可愛くて、ほっこりしました。
8位『彼女が好きなものは』(2021/草野翔吾)
『ノー・ウェイ・ホーム』は、今年一番の「最大瞬間風速」を叩き出した作品です。正直、ぼくにとってはそれ以上でも以下でもありません。ただ、映画を観ていてこんなに何回も脊髄反射的に泣かされたのは、今年はコレが一番でした。
もしかすると、『フォースの覚醒』や『ローグワン』に近い感覚なのかもしれませんし、キャラクターを「作り手の勝手な意志によって」再び物語に呼び戻す、ということへの違和感は強い方なのですが、コレは参りました。お見事。
加えて、ジョン・ワッツ監督は交通整理力があり、本当に上手い作家だと思います。ドクターストレンジが絡むので、騙し絵的トリップ映像がわんさか出てくるのも、個人的にはイェーイ!でした。
6位『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(2021/吉川知宏)
正直、シンエヴァよりも「面白い」と思います。とにかく、シンエヴァの「ゴルゴダオブジェクト」のシークエンスは短いけれど、スタァライトは尺の半分以上でゴルゴダオブジェクトを披露してみせるという、ちょっと常識的には考えられない新しさがあります。
ぼくは『マルホランド・ドライブ』や『TAKESHI'S』や『風立ちぬ』や『8 1/2』などの、心理描写や主観を客観として具現化して描いてみせる映画が大好きなのですが、スタァライトの面白さもそういった種類のものです。だから実は『Air/まごころを、君に』に大変近く、尚且つ、こちらは鬱バージョンではなく躁バージョンで、どっちが優れてるとかではなく、どっちも好きです。
おっかなびっくりするくらい状況説明が無いのですが、それこそが観客の能動性を仰いでいて素晴らしいです。TVシリーズを観る必要ありません。まずはこの一度きりの驚きを体験していただけると嬉しく思います。
3位『最後の決闘裁判』(2021/リドリー・スコット)
MeTooムーブメントで株を落としかけたベン・アフレックとマット・デイモンによる共作脚本は彼らの懺悔のようでもあり、そこにニコール・ホロフセナーを加えたことによって、間違いなくスクリプトの格上げに成功しているのもサムズアップ!
2位『ザ・スーサイド・スクワッド』(2021/ジェームズ・ガン)
金の掛かったトロマ映画。超最高。こんな映画、もう二度と作られない。
優生思想に対するあまりにもきらきらと光り輝くアンチテーゼ&アゲインスト。この世に、無意味な人間なんていない、それはどんなクソッタレもだ!ちゃんと怪獣映画をやるところも、ウルトラマンをやるところも好き。ハーレイがバトる時にメリーポピンズよろしく鳥ちゃんが飛んできたり、ぶわーっと花びらが舞ったりするシーンも白眉。彼女は狂っているが故に、彼女の目からはああいった景色が見えているという美しさは、これまでのハーレイの実写化作品で、最も彼女のキャラクター性と映画的な美学を連結させることができている描写だった。そしてクライマックスでハーレイが見る景色、今までのどんな映画でも観たことがない優しい景色で、その美しさに感涙しました。
あとはポルカドットマン!アイツ最高!大好き!「俺はヒーローだ!」泣くわあんなの。『ダンボ』が好きなので。いや、あんなん最高だよ。デヴィッド・ダストマルチャンの実人生も知ってると、余計に泣けちゃうよ。最高かよ。なんかサイコーしか言ってないな、俺……。
ディズニーにクビ切られたジェームズ・ガンが大反省しながらも、笑うしかないレベルまでやりたい放題大暴れしていて、特にクライマックスはネズミー・ミッキーへの当て付けですよね。いいぞ、もっとやれ!!!
1位『マリグナント 凶暴な悪夢』(2021/ジェームズ・ワン)
3位から上は、はっきり言って全部1位級に好きな作品です。だから、ぜんぶ1位です。『最後の決闘裁判』も『ザ・スーサイド・スクワッド』も『マリグナント』も、ああ、自分は「映画」を観ているな、こういう作品と出会うために映画館に来てるな、と、ニコニコ、ぽかぽかしました。とは言え、やっぱり『マリグナント』よ。超絶最高大傑作。何もかもが素晴らしくてうっとりです。とにかく徹頭徹尾、展開が上手いのはもちろんのこと、ナラティブとして偉すぎるのです。
特にデパルマのファンなので、あそことあそことあそことあそこも感涙しました。
『狼の死刑宣告』においてスゴすぎ駐車場アクションシーンを撮ったジェームズ・ワンらしく、途中大アクションチェイスになったりするのも本当に偉かった。
カーテンが揺れてるのも偉かった。アルジェントの『サスペリア』だけじゃなく『オペラ座』もオマージュしてて偉かった。『死霊のはらわた』みたいに天井から部屋を撮ったのも偉かった。突然、女囚映画みたいになるのも偉かった。妹が姉のために頑張る映画として、アナ雪よりも俺は好きだった。
本件のトリガーとなる出来事が、男性の暴力であって、それがマリグナント(生命を授かること)とも密接に関わることが現代の映画としてもヤバイ。上手い……。
10位 パームスプリングス
9位 マトリックス レザレクションズ
8位 彼女が好きなものは
7位 スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム
6位 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト
5位 シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇
4位 フリー・ガイ
3位 最後の決闘裁判
2位 ザ・スーサイド・スクワッド
1位 マリグナント 凶暴な悪夢
【ワースト3】
1位 JUNK HEAD
2位 えんとつ町のプペル(去年の映画ですが、今年の1本目として観ました)
3位 隔たる世界の2人
去年、『バイバイ、ヴァンプ』を観て以来、もうハズレと分かっているような凡作をわざわざ当たり屋的に観に行くのはやめにしようと決意しましたので、今年はワースト級に嫌悪感を抱く作品を、幸いなことにあまり観ておりません。
とか言いつつ、『えんとつ町のプペル』を年明け早々に観て、『海獣の子供』の制作会社ですから、「意外に良かったりするんじゃないのぉ?!」と割と期待もあったのですが、始まって早々に感情は打ち砕かれ、映画館という牢獄の中で、あまりの悲惨さにお金と時間の大切さを悟りました。
「あきらめるな!」とか「夢は素晴らしい!」とか「上を向いて歩こう!」とか「人を笑うな!」とか、そういった文言は道徳の教科書かブログに書いてもらえれば結構です。子供たちへの教育的な悪影響も感じられ、やはり俗悪と感じざるを得ません。
めちゃめちゃ泣いている観客もいらっしゃって、なんだか道徳的な同調圧力を感じる作風も、場内で俺以外が泣いている様子も含めて、去年の『アルプススタンドのはしの方』と同じ欺瞞を受け取りました。
3位の『隔たる世界の2人』はNetflixオリジナルの短編でアカデミー賞も短編部門で受賞した作品です。タイムリープとブラックライブズマターを掛け合わせたのは発明ですし、素晴らしい着眼点でした。しかし、発明ではあるけど発見はありません。ソーシャルメディアやニュース番組で見聞きしてきたメッセージ以上の「ことば」は無いのです。
だからこれでは映画を利用したプロパガンダになっちゃうし、最後の被害者たちの実名の羅列はあまりにも下品でした。欺瞞だと言いたいのではなく、あの演出には余韻を消し去る作用があって、観客を信頼してないのが良くありません。これぐらい言わないと分からないだろ、考えないだろ、食らわないだろ、という作り手の過剰な接待と言語感覚が、自ら感想を単一化していて本当によくないです。
映画はシュプレヒコールのためのプラカードでもスローガンでもないです。本来は、観客の心にそれぞれ"発見"させないとならないはずじゃないですか、そういう気持ちや考え方って。メッセージが先行している、メッセージのために作られた映画は、ぼくはあまり好きではありません。
独創性に欠ける、とまでは言わないが、端的に言って音が全くダメで、音が一音も楽しくない。音よりも画面に精神が注がれるのは、自主映画が最も陥りやすい罠です。劇場でこんな音流すなよ。『スター・ウォーズ』原理主義ではありませんが、SFの音ってセンスオブワンダーなんだよ、どれだけ重要か知ってるか。
粘土遊びも大概にしてください。そして、「もう粘土で遊ぶのやめろよ」と肩をポンと叩く、優秀なプロデューサーと出逢えることを切に祈ります。
ちなみに、ワーストとは言いませんけれど、『ラストナイト・イン・ソーホー』の出来には未だにモヤモヤしています。前半は超面白い。上京映画として、大学進学時の痛みや苦しさ、それでも明るい未来を目指す高揚感に、田舎から上京した者ですから大変共感を覚えました。
結局のところ、この映画の魅力はサンディなのですが、この映画を錯綜させたのもサンディだと思います。そうであるならば、エドガー・ライトは、シスターフッド、あるいはニアイコール・シスターフッドを撮る必要なんて無かったし、やっぱりブロマンスの手癖を自ら否定出来ていない辺り、覚悟が足りません。どんでん返し以降の結末も、フィクションで何でも救えると思うなよ、なんならフィクションでお前ら救われたと思うなよ、というナラティブへの抵抗をやってのけていて、これはこれでぼくは好きなのですが、でも結局エドガー・ライトは「フィクションは素晴らしくて崇高なものだ」という信仰から離脱できていません。離脱できていないのに、信じ切っていないことを同時代的な新しいクリシェとしてやろうとしているのが、お前さん、分かっておらんなあと感じた次第です。アニャさんもトーマシン・マッケンジーも魅力的ですが、それは彼女たちの存在自体が元々魅力的なだけであって、全く彼女たちを美しく撮ろうとしていません。セットに灯されるマリオ・バーヴァな照明は素晴らしかったですが、彼女たちに当てられる照明は全然なってない。
エドガー・ライトによる演出が全然感じられず、ただただ抑制されていない女優たちが、「意外性」のためにおっかなびっくりする「装置」として「配置」されているだけの作品……やっぱりエドガー・ライトは男の映画しか撮れないのだろうか……。
と、長々と想いを馳せれるくらいには、やっぱり面白くも観たし、ワーストとは言い難いです。
怪奇!イルカ人間恋愛奮闘記。というより、トンデモ映画としての『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』(1988/リュック・ベッソン)
ドン引き海物語。知ってはいるけれど実は観てない映画というのは幾多もあり、『グラン・ブルー』もその一本だった。作品の内容を、恐らくは雰囲気重視のラブストーリーだと予想していて「男は恋をした、イルカのような女に。女は恋をした、イルカのような男に」みたいな俺キャッチコピーを勝手に夢想していた。イルカちゃんは観たいけれど、人間の恋物語はどうでもいいや……なんて思っていた。ところが、いざ観てみると全くそんな生優しい映画ではなかった。ラブストーリーですらないかもしれない。端的に言ってこれはエゴの物語だし、より深層を追求すれば「すこしふしぎ」という意味でSF映画かもしれない。
主人公のジャックがまずやばくて、結論、コイツは人間じゃなくて"イルカ"なのだ。水中に潜ることしか出来ない男は、ご丁寧に「心臓が人間というよりイルカみたいな動きをする」という説明があり、だから人間の女と恋ができない。恋には落ちるのだけれど、家庭は持てない。人間じゃないから。彼が目指すのは彼女との地上での幸福ではなく、ひたすら海の底でしかない。陸上の方が息苦しく、水中の方が心地よい。そんな彼は最終的に、彼女も胎児も置き去りに、まるで黄泉の国のような深海で"イルカ"と共にGONEしてしまう……ので、これを一般的なラブストーリーとして鑑賞していること自体が相応しくなかった。逆人魚姫みたいな寓話だったし、結局は人魚姫は人間になれませんでした、帰省、みたいな悲劇でもある。しかし、悲劇と感じるのもまた我々のエゴであって、または残された恋人のエゴなのかもしれなく、主人公視点で見れば、この物語は完全にハッピーエンドになっているところもやばい。
リュック・ベッソンという作家がやばいのは、とにかくひたすらに何もかも(ストーリーも演出も台詞も)が"ダサい"ことだ。しかもそのダサさは、まるで自信過剰な中学生が考えたベストアイディアのような寒気を帯びている。そのダサさが臨界点を突破して爆裂した傑作が『フィフス・エレメント』であるし、キャラクターの魅力に救われながら作劇が奇跡的に成功したのが『レオン』だと思う。そして、ベッソンの映画はひたすらにダサいけれど、それが彼の良さであり、嫌いになれない魅力だと感じる。
たとえば、自由帳に書き散らしたアイディアを、己のアティテュードを徹底して具現化してみせる様を見て、クリストファー・ノーランとの類似を感じる。ノーランも、厨二アイディアをそれなりの高品質でパッケージする作家性があるけれど、その欲求自体は無邪気で、荒唐無稽な可愛さがある。『テネット』で見せた「俺だって007がやりたい!」という二次創作的な欲望はベッソンにも通じるし、『インターステラー』でアン・ハサウェイが「愛は時空を超えるのよ」と言い出した時は、『フィフス・エレメント』を想起した。
二人の作家の作品がダサければダサいほど、自分は好きになる。かっこつければつけるほど、かっこ悪くて愛おしくなる。
『グラン・ブルー』に通底するのは、ベッソンの映画への想いに他ならず、彼は自分のことを"人間"ではく"映画作家"だと本気で信じていると思う。本気、なのがダサくていい。女も子供も放置して、映画を撮りに行ってしまう。映画を撮ってる時が幸福で、当たり前の日常が息苦しくて仕方ない。そんな彼が自身を重ね合わせた存在が、実在の天才ダイバーであるジャック・マイヨールだ。ベッソンの両親はスキューバダイビングのインストラクターで、彼もまた幼い頃はダイバーとして生きていた。だから『グラン・ブルー』は、虚構の自伝、でもある。
ベッソンは『ニキータ』のアンヌ・パリロー、『フィフス・エレメント』でオペラを歌ったディーバ役マイウェン・ル・ベスコ、そしてミラジョボといった、出演女優との結婚と離婚を繰り返してきた。一緒に映画を作り上げた女性と恋に落ちてしまう、けれども長続きしない彼は、まるで主人公ジャックのようだ。しかし、ベッソンは反省どころか、俺はそういう人間だ、とビッグダディよろしく宣言する。彼が女性たちから投げ掛けられたい言葉は、「行ってらっしゃい、わたしの愛を見つけてきて」なのだ。この言葉は、実は「あなたの身勝手な部分を許すわ」というニュアンスが内包されている。
ラスト、行かないでと嘆く恋人ジョアンナの手を握るジャック。しかしその行為は、彼女の想いに共鳴を示すものではなく、ダイビングのためのよく分からん機械を彼女に握らせるためのものだった。子供のことを知らせても微妙リアクション。ごめんとも言わない。立ち止まりもしない。既に水面に身体を浸したジャックと船の上のジョアンナは分断されている。そしてジョアンナは「わたしの愛を見つけてきて」と言う、というより、彼女に"言わせる"のだ。このジャックのエゴとも取れる行動は、ベッソンの恋愛観・表現への飽くなき追求を強烈に露呈したものかもしれない。パートナーの隣にいるよりも、彼は"海底にいるはずのないイルカ"へと逢いに行くことを選ぶのだ。自分勝手も甚だしい。でも、それが映画監督なんだ。そして俺は、その"映画監督"なんだ。とでも言うかのように。
しかし、『グラン・ブルー』にはもう一つの重要な側面がある。
自らを慰めるかのようなフィルムの最後には「娘のジュリエットに捧げる」と出る。映画の撮影中に生まれたジュリエットは、アンヌ・パリローとの間の子供だ。ジュリエットは、生後間もなく心臓に障害があることが分かり、以来6ヶ月間、手術を繰り返して生死の境目を彷徨っていた。ベッソンは撮影での相次ぐトラブルに対処しつつ、病と格闘する娘の無事を心から祈った。ベッソンにとって、『グラン・ブルー』とはジュリエットの命そのものでもあった。映画の完成と娘の生死。どちらも無事に完成/完治したという繋がりをスピリチュアル的に連結させることはしない。ただ、『グラン・ブルー』は単なる無邪気な映画少年のエゴの物語ではなく、新たなる命への「祈り」でもあるのだ。
エゴと祈り。父親と娘。映画と命。母親という海から上がった愛娘が、再び海に沈むことのないように、疑似的に父親が先に"海へと潜った"というのは暴論が過ぎるだろうか。"海底にいるはずのないイルカ"は、盟友エンゾや父親との邂逅かもしれないけれど、愛する娘の生命そのものだったのかもしれない。
偶発的とはいえ、ここまで作家のエゴと祈りが同時に存在していながら、ダサくて美しくて、寒気がしてあたたかい気持ちになる映画も珍しい。珍作です。
パスタをモリモリ食べるロザンナ・アークエットがひたすら可愛い。メガネっ子だった前半の方が萌えポイント高し。あとイルカちゃんたち最高🐬エリック・セラの音楽がイルカの声を模したサウンドで良い。悪夢シーンは『エルム街の悪夢』をパクって撮ってるぞ!