20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

四方八方を"調律"で埋め尽くす、あらかじめ完成された堂々巡りの音楽【あんよはじょうず。#3『地獄変をみせてやる。-人生失笑(疾走)篇-』雑感】

f:id:IllmaticXanadu:20220106011709j:plain


ぼくは所謂、アンダーグラウンドな演劇の観客ではない。演劇のマッピングさえままならない、一般的な観客ですら無い。まずはそこからだ。

あんよはじょうず。に関しては、劇団「地蔵中毒」繋がりで、コンプソンズの星野花菜里さんからスタッフの誘いを頂戴した。ぼくは「やるよ!」と返せはしたものの、公演日程が年末年始をまたぐスケジュールだということではなく、果たして自分は「観客」として機能できるのだろうか、という微かな不安があった。
 
そりゃあテメェはスタッフで参加するのだからそんなの要らぬ心配だろうよと思われるかもしれない。ところが、ぼくは常人として当たり前に良く出来た人間では決して無いので、いただいた仕事と主観を別個に処理できない。否、したくない。役職の関係抜きに、ひとりの「観客」として「作品」を満喫できるか。「作品」が必要とするひとりの「観客」として「作品」を欲求できるか。そんなことを考えていた。

ぼくは寺山修司も丸尾末広もグラン・ギニョールも好きだ。昨年も唐組の公演『ビニールの城』を新宿・花園神社で観た。「アングラ」と銘打たれるモノへの、差別心も偏見もない。
ところが、そんな彼らのナラティブを表面上のみ真似たエピゴーネンたちのままごとは好きではない。
学生時代、山のようにそういったエピゴーネン演劇を観てきた。「ちょっと変わったことをしている」というだけで満足感に浸り、しかしながら演出も芝居も、何もかもが幼稚で終幕まで到底耐えられない。そんな劇ばかりだった。つまらない洒落を垂れるとしたら、あんよはへた、まだ歩行すらできていなかった。歩けないのに歩こうとすること自体の挑戦は認めるけれども、それが実際に"面白い"作品として結実しているかどうかは別問題だ。
型破りとは、型を熟知して初めて遂行できる。既存の作劇構造自体を解体し、脱構築を試みてきた「アングラ演劇」のアティテュードとは、そうではなかったのか。
そして、こうして「アングラっぽい演劇」を「アングラ演劇」とジャンル分けする行為や、何かといえばエセ劇評家たちがテラヤマの名前を容易く挙げる行為は、当事者ではないぼくでも、共感性羞恥がはたらき、居心地が悪い。

外部への憎悪として、ぼくをアングラから離脱させたのはアングラそれ自体だったし、内部への憎悪として、「いや〜アングラってオモロいよねぇ〜」と何の羞恥心も無く表明できない自分自身の気味が悪い。

こういった病理の場合、最も効果的な処方は「自分から離れた其れを、再び呼び戻すほどの優れた其れを、事故的に摂取すること」だろう。食わず嫌いの患者は、食ってさえしまえば高い確率で克服に達するけれども、食った上で"不味かった"という記憶が舌に焼き付いた者は、積極的にそれを食すこと自体が難しい。しかし、ごく当たり前に"美味しい"料理は存在していて、あまつさえそれを食べる機会に恵まれた暁には、治療は完了するはずだ。

ぼくの場合、学生時代にアングラのエピゴーネンを嫌というほど喉に押し込まれ、その吐瀉物で自らの身体を汚してしまった。度々、それを再び食べることを避けてしまった。あんよはじょうず。に留まらず、月蝕歌劇団だって本当は観たかった。昨年に唐組を観に行って、アレルギー反応はそれなりに減少してもいた。そして、外部から事故的に、ぼくはスタッフのオファーを受けた。

トラウマは、自分自身が予想もしていない奇跡によって、あっという間に治る。そういった"おそれ"は、自分が胸に抱えている限り、どんなに遠くまで逃げても、死ぬまで一緒だ。旅は道連れとまでは言わないが、端的に言って、この状態はとてもロマンティークなものだと感じる。自分が最もおそれているものは、永遠に自分と共にある。それならば、"おそれ"から逃げ去ろうと足を速めるのではなく、”おそれ”と歩幅を合わせることこそ試みるべきではないのか。”おそれ"を緩和するのは、もう”おそれ"でしかないのだ。

結論、あんよはじょうず。には感謝しかない。トラウマに罹患していたぼくは、そのおそれの内部に接近・侵入することによって再びそれを摂取することが出来たし、その強度が高かったことによって、純粋にそれを味わうことが出来た。楽しめたのだ。「観客」として、「作品」を。

本作はもちろん、天井桟敷や状況劇場の影響を受け継ぎながらも、丸尾末広や古屋兎丸といった漫画からのパスティーシュも存分に感じられる。そして何より、夢野久作『ドグラ・マグラ』を想起させる堂々巡りのメタ構造が、矛盾と快楽を混同させながら通底している。

事ここにおいて、これは映画ファンというアイデンティティからの指摘になるが、本作はクリント・イーストウッド監督『ミスティック・リバー』の作劇方法と似ている。
 
少年時代の過去に発生した因果が、大人となった現代の彼らに「清算」を詰め寄る。そのため、再三「これはアングラ版『スタンド・バイ・ミー』だ」という感想を拝見した。その指摘が誤りであるとは決して言わないが、つぶさに考えて、過去と現代を自在に行き来する本作の構造は、ブックエンド方式である『スタンド・バイ・ミー』とは異なるものともいえるだろう。戻れない時間への哀愁が描かれていた『スタンド・バイ・ミー』と、時空を超越したミステリー構造を持つ本作は、本質的に差異があるのだ(それよりは、同じスティーブン・キング原作の『イット』や『ドリームキャッチャー』の方が、少年時代から現代への因果律を色濃く意識させている)。
 
より厳密に紐解くならば、過去に生じた事件、つまりは「未清算の過去」を心に閉じ込めたまま、再びその闇に奇襲される本作の構造は、上記『ミスティック・リバー』との類似が見られる。したがって、ぼくにとっては「アングラ版『ミスティック・リバー』」と銘打つ方が心地が良い。
 
「物語は複雑でよく分からないけれど、パワーに圧倒されて面白かった」という評が多く挙げられるのも、本作の総合演出の高さを物語る言葉でありながら、個人的には釈然としない部分もある。世の中には確かに「分からないけれど面白いもの」は存在しているが、あまりにもその特質に頼ってしまうと、演劇の「観客」は思考停止に陥ることになる。「分かろうとする」能動性こそを、劇作品の完成度を磨き上げる燃料にするべきだろう。読み解く自由が与えられているのが観客の特権なのだから。
 
加えて、ここで使用されている「分からない」という状態は、恐らく「物語」が分からないことを意味すると察する。物語性やドラマツルギーを排除した自由で不条理な作品は数あれど、本作には歴然と書き手特有のナラティヴと時間感覚が刻印されており、その用意されたコードに乗っかってさえしまえば、いささか「物語」が分からないという思考は抱くに至らない。そして、その独自の作法や便法を咀嚼させるだけの「演出」が、本作では成されていたと考えられる。
 
この場合の「演出」は、「調律」に近い。あるいは「指揮」である。あんよはじょうず。に結集された俳優たちは、それぞれが異なる音色を持ちながらも、本作のマナーに準ずる形で、その音の「調律」を行われている。無論、その調律師かつ指揮者は高畑亜実氏だが、彼女は声が良いだけではなく、その「耳」の良さが素晴らしいとまず断言しておきたい。
 
一見すると、配役のバランスも集客率も兼ね備えた文句なし・唯一無二のキャスティングだが、あんよはじょうず。のアティテュードにあるように「好きな俳優と共演すること」が最も遵守されている事柄だろう。そして、これはぼくの推測に過ぎないけれど、彼女が想う「好きな俳優」の要素の一つには「音色」があると思われる。敢えて誤用してしまうが、文字通りに「音の色気」である。優れた声=音を持っている俳優、もしくは、求める声=音を発する余地がある俳優を、彼女が意識的にせよ無意識的にせよ、招集することに成功していることは、ぼくがあんよはじょうず。を信頼する一要因でもある。そして、そのたった一つの音を求めて、厳格なまでに調律が徹底された様は、公演を見れば明確なことだ。
 
演劇素人のぼくが個人的に演劇に求めるものは、作劇的な驚きやシェイクスピア級の悲劇でもなければ、アカデミー賞級の芝居の上手さでもない。ぼくは演劇を観るとき、いつも「音楽」を聴きたいと思う。そしてそれは、オペレッタやオペラのようなものでもなく、ましてやミュージカル的な意味合いでもなく、オーケストラのような、交響曲のような「音楽」を指している。つまり、互いに異なった楽器が揃い、指揮者のコンダクトによってひとつの楽曲を奏で上げる、その時間に感銘を受けるのだ。
 
演劇は尚更、声が重要なファクターになり得るだろう。もちろん、動作やアクションによって魅せる作劇もあるけれど、むしろそれは映画に近い。演劇が野球ならば映画はサッカーと言っていいくらいに、それぞれの芝居やルールも異なる。演劇は良い意味でも悪い意味でも「ことば」の表現であることからは逃れられない。しかしそれは同時に、「声」や「音」の表現に長けていることも意味するだろう。ぼくは映画よりも演劇の方が、「音楽」に近いと感じる。
 
本作はそういった面において、まず「音楽」としての強固さを評価したい。全出演者の「音」のバランス感覚は、そのテンポ感も含めて、あまりにも鮮やかに調律されていた。そこに不確かな音色は存在していない。キャストアンサンブルの見事さは、芝居で語る以前に「交わっても心地の良い音」が鳴っていたことの作用によるものだともいえる。
 
これは、8人の奏者による八重奏(オクテット)なのだ。そして、その中に自作自演の指揮者、高畑亜実氏がいる。「あなたにはこの音がきっと出せる」と目論む調律=演技指導は、流石は好きな俳優を集めているだけあって、それぞれの音色を熟知しているし、妥協がない。また、動きの所作の一つにしても、それが段取りになることはなく、アクションとして楽しいのも良い。たとえば、俳優の所作を訂正するとき、彼女はとっさに目の前で手本を見せて、その刹那、俳優の芝居は更に良くなっているのだ。まるでコレオグラファーのようだった。こうして、劇団員たった一人のひとりぼっちユニットは、正しい調律によってペルソナは形作られ、ひとつの集団として完成する。たった一曲を演奏し切るために、全員がその努力を惜しまなかったように見えた。
 
そして、これもぼくの独断と偏見になるけれど、本作は出演者の全俳優が、それはそれはべらぼうに芝居が上手かった作品であることを記録しておきたい。
よしんば、そんなの当たり前じゃないかと言われたとしても、そんな当たり前が稀少なことであることを、我々のような観客も俳優自身も、常に認識しておかないとならない。上記した通り、誰しもが上手いというのは思考停止だ。全然なっとらンじゃないか、と感じることなんて何度もある。しかしながら本作は、先に述べたように徹底した「調律」によって整った彼らの、芝居そのものの魅力が倍増しているように感じられた。各々のポテンシャル以上の幅の広さを見せ付けるかのように、抑制されながらも、それでいて軽やかに超越する瞬間があるという、俳優泣かせ&俳優冥利に尽きるようなアッパレ演技のオンパレード。久々に、特定の誰かではなく、出演者の全員が好きになってしまう演劇作品を観てしまった。
 
こうした演技巧者たちが発生させる特有の磁場は、それこそ作品のナラティヴそれ自体への強固な肉付けとなっている。ぼくにとっては、もはやこの肉の部分がとにかく美味かった。何度でも食べられる。めちゃ高カロリーなんだが。それでも食べられる。小屋入りして、スタッフとして、観客として7回ほど本作を観た。毎回美味かった。というより、食べれば食べるほど美味かった。あんなに高カロリーだったのに、食後の余韻は最高に爽やかで、まるで焼肉屋で会計後にもらうミントガムのような、そういう清々しささえあるのだ。
 
これは決して適切な称賛ではないし、そもそも配役数が成立しないのだけれど、書いておきたい。この座組で『ロッキー・ホラー・ショー』が出来る。絶対。そしてそれはめちゃ美味いと思う。何言ってんの?と思われるかもしれないが、ぼくにとっては、「このメンバー全員で『ロッキー・ホラー・ショー』が出来ますよ」というのは、最上級の絶賛である。
 
たとえば、ここで俳優の皆さんについて「可愛かった」「かっこ良かった」とインプレッションを羅列することが、ぼくにとっては相当恥ずかしいこと(出演者のことばかりダラダラと書き連ねるような、俳優最優先で劇評する観劇おじさんが得意ではないので)なのだけれど、やはりあまりにも全員素晴らしかったので書いてしまう。ラブレターではない、決して。これはそういった記録でもあるので。そして敬称略。と思ったけれど、失礼なきよう"さん"付けにて。
 
金子清文さんと久保井研さんの両者が同時に観られる作品ということで、まずは価値が付帯されているだろう。もちろん、この作品には容姿端麗・お美しい(美少年を演じる)女優陣がいらっしゃることも確かだが、大変恐縮ながら、ぼくにとってのキャバクラは完全にこっちだ。俺にとってのキャバクラ。そこでは両脇に金子さんと久保井さんがいるのだ。一体何本ボトル開けちゃうのかと心配になるくらいに、彼らの存在感が好きだ。そして、二人ともキュートだ。
 
金子さんは中野坂上デーモンズの憂鬱や映画・ドラマなどでも拝見していたし、久保井さんは去年の唐組でやっと拝見できた。一見、ぼくらの年代からすればオトナで先輩な彼らは、多少なりとも厳格なイメージが纏わりついていても不思議ではない。しかし、本作における両者は、年齢とは程遠いほどの愛らしさに満ちており、実は笑いどころはほとんど彼らによって起きていた。端的に、二人ともお茶目さがある。それは、実人物がそうだからという楽屋オチではなく、キヨフミとケンイチというキャラクター自体がそうだったのだ。
金子さんは女優とのアンサンブルが特に良かった。出版社の受付嬢とのやり取りなんか特に良い。これは相性の良さというよりも、色気とお茶目さが多少なりとも母性本能をくすぐるようでいて、しかし確かなダンディズムが根底にあることによる異化効果に近いものだった。キヨフミを狂気の人として描くのでなく、狂気を演じる人、を演じるという姿勢も、キャラクターへの視線として正しかった。留置場でのコータローとのやり取りも、ここでは敢えて道化に徹するが、過去の因縁を知る者には緊張感が与えられる構造になっており、多層的なレイヤーを味わえるシークエンスになっていたと思う。それもひとえに「マックを食らうジョバンニ」と発声しても似合ってしまう金子さんの芝居の力であるし、そこでデュエットする西川康太郎さんのリズム感と「調律」していることが完成度を高めている。『銀河鉄道の夜』のカムパネルラとジョバンニの関係性を彷彿とさせるのも、説明台詞に頼らずにサッと洒落で済ませる辺りがスマートで仕方がない。クライマックス、絶叫する金子さんに合わせて映像を操作した。あの時のキヨフミは、物語それ自体、あるいはさらにその上にいる存在に叫んでみせるが、毎公演ぼくと視線がほとんど合うので、まるで物語を操作する者とそれに抗うキャラクターのような図になっていた。結果、いつもキヨフミが勝っていたと思う。
 
久保井さんは様々にイジられ尽くし、ついには亀甲縛りまでされる始末だが、そのすべてが相応しいほどに似合ってしまう辺り、流石は唐組である。そんなにケンイチをいじめないでおくれよと思いつつ、それを期待してしまっているし、だからこそあのクライマックスでの彼の行動には胸が締め付けられる。あの瞬間、あの時のたったひとりのために、彼の旅路はあった。ラストの彼の背中が、それこそ『スタンド・バイ・ミー』ばりに泣かせる。あれは、若い俳優には絶対にできない種類の芝居だ。背中で語るという行為を容易く魅せる。そして「飽きられたいんだ」という言葉は、もしかすると「飽きてしまいたいんだ」と同義なのかもしれない。時計の針が止まってしまった者は、その針をどうにかして動かそうと、願いを物語り続けるしかないのだろうか。何かを物語ることは昇華ではなく、反対に永遠の呪縛なのかもしれない。亀甲縛りのまま後退りするケンイチは、こうして文字で書くとギャグのように感じられるかもしれないが、実際に観ている時には、久保井さんの芝居の説得力によって、誰も違和感を感じない。ただ、観客は「知らないよ」と後退りする彼に即座に移入するだけで、誰も紐のことなど見ていないのだ。こうしたスムースな状況転換は、作劇的な技術というよりも俳優の表情やアクションによる効果の方が大きいと感じられた。
ファミリーマートでの「ハリボテが落ち着くね。空っぽなんだもの」はハリボテと"空っぽ"の"カラ"も相まって、唐組・久保井さんへのアテ書きなのかしら、と推理したりもした。
 
西川康太郎さんは、長髪・火傷・ハイヒールにコルセットが似合ってしまうヴィジュアルの美しさもさることながら、動いている所作の中で僅かに哀しみが垣間見られる芝居が素晴らしかった。表情も、顔の半分をメイクで隠されていようとも十二分に豊かで、我々の視線を奪う。特筆すべきはやはり、ラストで彼が見せる表情の見事さなのだけれど、ここでは敢えて独唱シーンについて記しておく。突然のウルトラミュージカルシーンに突入するわけだが、道化に徹する際にも哀しみは帯びていて、だからこそ最後の台詞「そっか、おじさんはぼくだ」が響く。
ぼくは康太郎さんとほとんど私語を交わしていないが、実は映像スタッフとして、最もタイミングを合わせる回数が多かったのがコータローだった。特に打ち合わせることもせずに、コータローの動きや台詞に合わせて、独唱の歌詞を手動で映写していく。歌詞の量も多くテンポも速い中で難儀に思えたが、そんなことは杞憂だった。舞台上の康太郎さんと、回を重ねるごとにシンクロしていった。康太郎さんの動きの一つ一つや発声に集中した。それは、全くおこがましいけれど、まるで同じ舞台の上に立ってデュエットしているかのような錯覚さえあったのだ。だからぼくは、西川康太郎さんと「共演」したのだ。楽しかった。
 
テツロウ役の奥泉さんも素晴らしい俳優だ。本作があんよはじょうず。2回目の芝居というだけあって、調律の度合いが半端ない。それは発声に留まらず、まるで軟体動物かのようにクネクネと動き回る動きのそれぞれが、しっかりと毎公演同じだったのには驚いた。ほとんどエチュード的に処理してしまってもいいような動きの数々を、正確に再現し続ける彼の才能にうっとりした。言ってしまえば、それは「踊り」や「舞踊」のようだった。彼の動きが最もコレオグラフィーのそれと近くて、身体そのものをただ眺めているだけで楽しい感覚があった。肉体が台詞よりも雄弁に物語るキャラクター性があり、彼のような才能が脇に回るのは、作品全体にとってかなりの補強性がある。めちゃめちゃ必要な人材だ。ぼくも欲しい。
また、言うまでもなく美男子でいらっしゃる奥泉さんだが、実は劇中メイクが最も似合っていたんじゃないかと感じている。ああいう顔に弱い。画になる顔に弱い。眉でちゃんと表情の芝居をしていたのも可愛らしかった/凛々しかった。
 
中村ナツ子さんとは唯一知己がある。と言っても、ぼくが彼女から「ハリポタの感想ブログめちゃ良かったです!」と褒められて浮かれていたくらいなのだが、所謂アングラの磁場でのナツ子さんを観るのは初めてだった。再三、ぼくは劇団「地蔵中毒」の『つちふまず返却観音』における、違法駐輪を許さない女が大好きで、あのナツ子さんの「火事!カジカジ!」の絶叫には腹を抱えて笑ったものだ。本作でも、彼女は絶叫を完遂しているのだけれど、やはりこの方も音の魔術師だと感じる。たとえば、これは劇評家だろうが観劇おじさんだろうが絶対に指摘しない事柄だと断言できるが、ケンイチが秘密道具がある扉を発見した際に発する「なにこれ」は、ニコニコ動画で有名な『つくってワクワク』のMAD『空気を読まないゴロリ』https://www.youtube.com/watch?v=a6kH79FHxr0内における、ゴロリの発する「なにこれ」とほとんどイントネーションが同じである。だから何だという話だが、えっ、もしかして、とあらゆる発見が許されているのが観客の特権ではないか。単なる「なにこれ」を、あの抑揚による「なにこれ」と発しているだけで、ああ分かっているなあと、ぼくなんかは感心してしまうのだ。
お姫様のような衣装に身を包んだ彼女の発声もまた、あまりにもお手の物で、あの場での奥泉さん演じるホストとのやり取りはスピンオフを希望したい。そうそう、ナツ子さんは道化に徹しても面白いんだよなと、流石は『道化師のソネット』を日頃から聴いてるだけあるよなと、深く悟る。ウルフカットのような髪型にも、最も少年らしさを感じられた。
 
亀田梨紗さんの芝居の特性は、これがあんよはじょうず。初出演とは信じられないほどの調律の正確さで、演出家の求める音色を自在に現出できていたように見えた。それこそ、少年らしい抑揚やアクセントも相まって、どこかあどけないイノセントすら感じる。しかし、時折見せる「生まれたばかりの狂気」の雰囲気も漂っており、そういった意味で最も多層的なキャラクターなのかもしれない。長台詞での独白においても、音量のコントロールが抜群に上手く、「音楽」として聴き惚れる。それは受付嬢を演じている時も同様で、「銃!」と叫んだ次に発する「ありがとうございます」まで、ノンストレスで「音」を連結させてしまうのが素晴らしい。大声で「じょや?」や「ぼんのう?」と騒ぎ立てるのもストレスが無いし、加えて小声でぽつりとつぶやくのも大変に美しかった。奥泉さんと同様に、彼女もクネクネと身体が柔らかい女優でいらっしゃり、やはり動いているだけで楽しい。
余談だが、ぼくは入江悠監督Presents「僕らのモテるための映画聖典」というポッドキャストを愛聴していた。通称「僕モテ」。そのパーソナリティーの中に、亀田梨紗さんもいた。大変失礼ながら、ぼくは亀田梨紗さんのことを「かめりささん」と認識しており、小屋入りするまであの「かめりささん」が「亀田梨紗さん」だと気付かずにスタッフをしていた……。申し訳ございません。ついでに言うと、友人で「かめりささん」と知り合いがおり、その際も「かめりささん」と紹介されて、ぼくの中では「かめりささん」は「かめりささん」だったのだ……。失敬極まりない。でも本音は、リスナーとしてめちゃめちゃ嬉しかった。亀田梨紗さん、いや、かめりささんとは、次は是非とも映画談義を交わしたい。
 
千歳まちさんの独白・長台詞は圧巻だった。椅子(というより玉座)に座り、我々を敢えて見下してみせる様には、本当にこの人は神様なんじゃないか?という神秘性すら感じられた。すなわち、神様とかいうものが実際にいるならば、千歳さんのような姿でいらっしゃればいいだろう。あんなお美しい方に罵詈雑言を言わせて、終いには「ばーか」とあっかんべーのダブルパンチ。高畑さんのフェティッシュを存分に感じる。スラリと伸びた手足をダイナミックに動かす動作も多く、それはまず、キャラクター性以前に、俳優の肉体性によって「圧倒」されるのだ。そして、こんなにも「圧倒」することが似合ってしまうのも素晴らしいキャスティング。大きく開かれた瞳も、もはや瞳孔開いているんじゃないかと不安になるほど力強かった。また、闇を帯びていることが幾度となく示唆され、それはやはり彼女の表情の豊かさによるものだと思われる。否、表情が強固だ。顔面の上が「戦場」と化しており、そこでは火花が散っているのが分かる。その最中、誰しもが彼女の「表情」に敵わない。千歳さんの「強さ」とはそういった種類のものだった。
ぼくは彼女が発する「テツロウくん、ほっときなよ」の「音」がとても心地良かった。うわあーいい音、と思った。吸い込まれるような誘引性を持ったあの声に、表情の強さも比例して、ほとんど最強に感じる。とは言え、誰よりも強い人は、実は誰よりも繊細だったりもする。ただ圧倒を達成するだけではなく、コータローの最も繊細な部分も芝居に表れており、それは西川康太郎さんのコータローにも引き継がれているだろう。
 
高畑亜実さんは、言わずもがなあんよはじょうず。の主宰であり作・演であるが、彼女はまず、俳優として最上級に優れていることを書き残しておく。ウマすぎ。素晴らしかった。優れた俳優である彼女が創作した舞台が、優れた芝居で埋め尽くされているのは、実は当たり前なことかもしれない。しかし、その地点まで到達すべく行われた「調律」の手腕は、もちろん並走した俳優陣も見事ながら、やはり高畑さんのアンファンテリブルな才能と努力の結果だろう。文字通りオーケストラの指揮者のように演者たちを統制していく様は、僅かながらも、まるで自らを律しているかのようにも見えた。すなわち、音を正す者が音を乱すわけにはいかないという意志だ。その意志の貫き様は、実際に彼女の演技を観た者には明確なことだろう。演者に対しても、観客に対しても、説得力がまず違う。音と同様に、やはり所作が美しい。
たとえば、長台詞後の「僕も捨てられたってことだね」の「ね」で、僅かに、ごく僅かに首がリズムを合わせるかのように動く様は、自然でありながらも一連の運動の連なりを途切れさせない技だ。そういった無意識の小さな運動にこそ、そのキャラクターの全てが垣間見られる。その瞬間を目の前で観て”おそれること”が、芝居を観る醍醐味だと感じる。彼女は退場時の歩行ひとつにしても、姿勢や歩幅や速度、その全てが美しい。そういう当然が、当然のメソッドとして機能していることの清々しさは、あんよはじょうず。の魅力の一つでもあるし、それをまずは高畑さんが完璧にこなしているのが良い。
「タバコに混ぜた・僕の身体の小ささだときっと・天国に行けちゃうだろうモノに火を点けようと」という表現も、詩的で印象に残っている。劇作家が俳優をやっているのではない。決して。ここにおいては、演じることに没頭した純粋なひとりの俳優が、その場を設けるためのことばの集約と、きっと大嫌いな天国よりも優雅な地獄を共にするための仲間たちの招集によって、ひとりの俳優として果てしなく煌めいていただけのことだ。
 
そして、全出演者の衣装やメイクの美しさにも感銘を受けた、と書き添えておく。それこそ、そのまま『ロッキー・ホラー・ショー』が出来てしまうクオリティ。
 
照明や音響、美術にしても、このハイクオリティを常備しているのは、良い意味で常軌を逸している。つまるところ、旗揚げ3年目・本公演3回目(番外公演も含めると4回目)で、このバジェットと高品質を披露できていることの凄まじさだ。つぶさに考えて、この高品質な演劇は過小評価されている、と言ってしまっていい。もはや、もっと「上」に君臨していいし、あるいは君臨するだろう。「上」とは何かよく分かってはいないが。間違いなく、今後も界隈をさらに騒がせるだろうし、界隈を超えて、その旋律/戦慄が世に成り響くだろう。
 
バジェットや演出の出し惜しみしないこだわりも、いささか信じ難いレベルで及第点以上の120点を叩き出している。そこに加えて、高い技能を備えたキャスティングもある。これらあらゆる面における「演出」の水準の高さには、ほとんど文句の付け所がない。しいて言えば、「アングラ」という語が発する不可解性に、アレルギー反応を起こしてしまう者が「観客」に成り損ねる可能性は否めないが、それではあまりに勿体ない。年中神経症で欺瞞に満ちた猿たちよ、ぼくもその猿のひとりだったが、あっけなくアレルギーは完治したよ。
 
劇中で絵本がマクガフィンの機能を持つように、演劇それ自体が「絵本」のようなものだ。もしくは、絵巻物と言ってしまってもいいかもしれない。しっかりと一枚の「絵/画」として構築されている場面が多かったのも頷けるし、所謂「作劇」それ自体からの脱構築も、演劇をより純朴な状態に回帰させることに成功していた。それは小説でもないし、音楽でも映画でもない。ことばと動きと時間の総合芸術が放つ、自由自在で変幻自在な雄弁性と特異性は、ページをめくるたびに開かれる絵本の世界のように、実はシンプルでイノセントで、尊いものなのだ。
登場人物たちは、未清算の過去に翻弄されながらも、「物語」や「演劇」の中では「なんだってできる」「すべてがゆるされている」というアティテュードを懸命に実行していく。そこでは、決められた軌道を次々と破壊し、定められた運命を自らの手で変貌させていく「物語」へのアゲインストが描かれる。
同時に、間違いなく誰かに書かれたキャラクターたちが、誰によっても操られていないと度々表明し行動していく様は、「物語」へのアンチテーゼであり、作者の不在をも意味する。絵本のページは、どこからだって開いていい。気に入らないページは、破り捨てたっていい。そして、自分で絵本を書き換えてしまっても、それらはすべてゆるされているのだ。
そういったナラティヴの中で、決定論は否定され、普遍的な自由意志で絶命した「物語」は、我々の目の前であまりにも美しく、燃え上がった。地獄は、変えられる。

まさかの『Air / まごころを、君に』のラストをレファレンスしたような終幕は、コータローの哀愁漂う表情も相まって、揺るぎない美しい余韻を残す。「物語」が「物語」として完結し、そして絶命する時の、微かな静寂。以降の幸福の笑み。それが地獄の光景とは思わない。笑い合っていた二人は幸せそうだった。
 
本作はカーテンコールまで魅せる。ぼくはカーテンコール反対派(キャラクターが俳優に戻る瞬間があったり、半強制的に拍手を求める意図が昔から乗れない)なのだけれど、思わずスタッフ・ブースから拍手を送った。
音楽に合わせて行われるそれは、それこそ指揮され、調律され、統制された動きの連なりでしかなく、俳優陣が舞台上から消失するまで、完全にコントロールされていた。こういった、ある意味ミュージカル的な「全員の動きが一致され統一化されている」状態に、フェティッシュなのか滅法弱い。そして嬉しくなる。
ほとんどの公演で、終演後なおよそ1分間も拍手が絶えない時間があった。スタッフだから嬉しいのではない。灯された火が、めらめらと燃えている様子が「観客」の目から見えたのが嬉しかった。
 
一般的に考えてしまえば、これこそが「燃え尽きた」と言ってしまって良いほどの尽力具合である。しかしながら、それが恐らく杞憂に終わるほどに、彼らにはまだ燃料が残っている。こんなにも燃えてみせて、まだまだ燃えそうな予感しかないのだ。そういったパワフルさは、演劇本来の本質のようで、きっと彼らが次の舞台を目指してくれることへの期待しかない。我々「観客」はその炎の中に、ますますガソリンを投入し続けなくてはならない。いや、それとも共に燃えてしまおうか。そんな信頼が湧くくらいには、ぼくはこの演劇が好きだった。燃え尽きた炎の記録の結びに、「もう次の炎が見えるよ」と記しておく。闇を照らす炎の美しさは、闇の中でそれを観た者にしか味わえない。
 
劇中、懐中電灯を使った大変印象的な光のダンスがあった。素晴らしいアイデアだと思うと同時に、ああいったアクションそれ自体に、高畑亜実さんのナラティブは現出していると思う。次なる闇への期待を込めて、わたしとあなたで笑い合いながら闇へと向かいましょう。手には懐中電灯を。そして、もう片方の手であなたの手を握って。わたしたちは、闇を照らすために、闇へと導かれるのです。
 
f:id:IllmaticXanadu:20220106013239j:image