20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

世界に向けられた呪詛としての『私、オルガ・ヘプナロヴァー』

大傑作。めちゃくちゃ好きだ。

この映画は「ホラー映画」もとい「心霊映画」であると自分は感じた。

その理由も含めて、以下に書けるだけ感想を書く次第。
自分がこの映画の存在を認知したのは2017年だった。
それは、親愛なるジョン・ウォーターズによる毎年恒例のベストテンにおいて、彼が『I, Olga Hepnarová』という謎のチェコ映画を2位に選出していたからだ(ちなみに1位は『ベイビー・ドライバー』だった)。

オルガ・ヘプナロヴァーという名前を見聞きして反応する者は、よっぽどの殺人鬼マニア以外には恐らくいないだろう。オルガは1973年チェコの首都であるプラハで、路面電車を待っていた人々の列へとトラックで突っ込んだ。12人が負傷、8人が死亡、オルガは死刑を宣告され、チェコで最後に絞首刑に処された女性となる。

あの大量殺戮犯オルガ・ヘプナロヴァーを映画化したのか、という驚き以前に、モノクロームのスチール写真やポスターから滲み出る暗黒映画の予感、紛れもなく"イルな"映画の雰囲気に胸が高鳴った。
それから待てど暮らせど、『I, Olga Hepnarová』が配給されることは無かった。輸入版で観たシネフィルたちの熱気を帯びた感想を、悔しさを胸に読み進めるしかなかった。

つまり、この2016年のチェコ映画を、自分は6年間も「ああ観たい」と懇願しながら待ってしまった。だから期待値は過剰に膨れ上がっていたものの、いざ本編を観て、それが"自分が観たかった映画の一本"であったことを思い知った。あるいは"自分が作りたかった映画の一本"かもしれない。

本作の抑制された描写の数々に、ひとりの少女がどんどん不幸になっていく姿を冷徹に見つめ続けた、ブレッソンの『少女ムシェット』を想起するのは容易い。『少女ムシェット』はトリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にも影響を与えているが、あの作品も絞首刑で映画が終わる。
ひとりの男が自殺するまでの48時間を観察した、ルイ・マルの『鬼火』も思い起こさせるが、オルガの手には自殺のための拳銃も無ければ、彼女は自殺にすら"拒絶"されてしまう。

映画の冒頭で、母からの「オルガ、起きなさい」という声に反抗するように、オルガは起き上がらない。やがて彼女が大量に睡眠薬を飲んで自殺を試みたことが発覚するが、母は心配も叱責も慰めも見せずに言う。「お前に自殺は無理。諦めなさい」

オルガの自殺は物理的な失敗そのものではなく、この母親からの言葉によって完全に"拒絶"されてしまう。同時に、オルガが自殺を決意した理由が描かれていない冒頭においても、この言葉だけで、少なくとも母親との確執が示唆される。

オルガと母親との確執は凄まじい。たとえば食卓で「誕生日に何が欲しいか」と母親に問われたオルガは「この家から出たい」と答えるが、ここでオルガと母親の会話は"拒絶"され、母親は食卓を囲む他の家族に対して「召し上がれ」とだけつぶやく。
家出して山奥にある何も無い小屋で暮らすことにしたオルガは、そこを訪れた母親に対して「わたしに指図しないで!」と激昂するが、母親は手の平を彼女に向けて"拒絶"し、視線すら合わせない。当然、そこに会話も無く、母親は黙って小屋から出て行く。
母と娘は、ひたすらに拒絶の関係性でのみ繋がっている。

母親からの拒絶から逃避し、なんとか社会に溶け込もう、自立しようと試みるオルガは運転手として働き始める。

この映画における"車"とは、オルガが社会と接点を持つための道具であったと同時に、彼女が社会から逸脱するための道具としても機能している。
自らのハンドルさばきによって自走する自動車そのものが、自立したいと願うオルガの欲望と呼応している。しかし、車は運転手の手によって暴走することも可能だ。
オルガは結局、愛車だったトラバントを終盤で山に破棄する。

オルガは職場でも、車を運転している時以外は情緒不安定に過ごしている。

給料の受け取りの列に並ぶ、小柄で猫背の彼女の前後には、屈強な男性たちが並んでいる。それはまるで『羊たちの沈黙』で、エレベーターで屈強な男性たちに囲まれて"孤立"するクラリスのようだ。いざ彼女の番になると、別の女性に割り込みされてしまう。その時の彼女の、心が怒りと悲しみでざわつくものの、怒ることも悲しむことも出来ない"所作"は、あまりにも素晴らしい。真に"ざわめいた"演技だ。
情緒不安定と前述したものの、こういった溢れ出しそうな感情の抑制/抑圧を経験したことのない人はいないのではないだろうか。
オルガがことさらに泣き喚いたり、怒鳴り散らしたりしないのも、この映画の"抑制"された美しさに他ならない。そして、それこそが現実的な、リアリスティックな叙述なのだ。

オルガは職場でイトカという女性と出会い、親密になっていく(イトカは前述した列に割り込みした女性で、オルガは最初イトカへ憎悪をまとって接近するが、振り返ったイトカから食事に誘われ、呆気に取られる)。
この映画では劇判が一瞬も流れないが、唯一、イトカとディスコに行った際にのみ音楽が蔓延している。オルガは音楽という文化と接点が無いような生活で、まるで初めて音楽というものに触れたかのように、劇中で初めて笑顔を見せる。
音楽のビートと彼女の鼓動が重なるように、そこでオルガはイトカへの恋心に気付く。二人は音楽の中で官能的な時間を過ごし、オルガの想いはあっさりとイトカに受け入れられる。
そう、この映画で初めて、オルガを"拒絶"しない人物が現れたのだ。

しかし、本作はひたすらに冷徹さを貫く。
この出会いも、やがてはオルガを"拒絶"するための前振りでしかなかったのだ。
レズビアンであることで社会から受ける抑圧以前に、オルガは自分が"他者"と関係できないことにもがき苦しみ始める。
イトカはオルガ以外にもパートナーがいて、彼女の恋はボロボロに引き裂かれる。
失恋に絶望したオルガが全裸になり、月光に照らされながら佇むショットは果てしなく美しいが、そこで彼女はイトカに「自殺するから見ていてほしい」と懇願してしまう。
『MEN 同じ顔の男たち』の過剰なまでに膨れ上がった被害者意識を思い出す。
イトカはドン引き、こうして再びオルガの自殺は"拒絶"される。
その後も別の女性と身体を重ねるが、どうしたって関係が成立しない。虚しさのみが、彼女と共にある。

オルガは後に、犯行声明の手紙に次のように記す。

"私たちは他者を理解することなど出来ない、夫にしろ妻にしろ、親にしろ子供にしろ"
それは、まやかしに気付いた者の真実の告発である。オルガのそういった繊細な感受性が、何度も死から生へと動いたにも関わらず、社会や世界そのものの無慈悲さによって、彼女はさらに絶望する。

社会と積極的に関係しようとしたオルガは、働いてみたり、恋人を作ってみたり、オッサンと飲み友になってみたり、病院に通院してみたり、とにかく彼女なりに色々と試みるのだが、何もかも失敗しながら、どんどんに孤独になっていく。
まるで、世界そのものから"拒絶"されているかのように。
だから彼女は、自分を"拒絶"する世界に対して呪詛を連ねる。

1970年代のプラハの閉塞感は、それが「プラハの夜」直後の時期だからということでもあるが、この映画ではそういった政治的な側面は排除されている。
排除されているのはそれのみならず、意図的に起伏も、脈略も、カタルシスも排除されている。編集は場面の断片を提示しているようで、連続性(コンティニュイティー)が無い。ひたむきに"断絶"され続けている。
その無機質さは、もちろんモノクロームの撮影も起因している。オルガを囲む白と黒の世界は、彼女の精神、心象風景そのものだ。荒涼としていて、そこには何も無い。
映画にとっても、興奮も悲哀も一切無い。
感情移入すら断絶されていて、映画そのものがオルガを"拒絶"して、冷徹に突き放している。
むしろ、オルガの方から、観客へと接近しているかのような感覚すら抱かせるのだ。
彼女を"拒絶"するかどうか、それはひとりひとりの観客へと託される。

社会から"拒絶"されて孤立を深め、自己破壊へと走るオルガ。
自殺の失敗、あらゆる試みの失敗が、彼女の疎外感に拍車をかける。
観客のほとんどが、彼女の顛末を知りながら映画を観るしかない。
時間は不可逆である、ということを、映画というメディアはいつだって我々に思い知らさせる。刻一刻と迫る運命の日、ひとつひとつの運命の歯車に、抗うことのできない残酷さを目の当たりにする。

あまりにも呆気なく、オルガは大量殺人を犯す。
前述したように、そこには何の興奮も悲哀もカタルシスも無い。全てが排除されている。
運転席のオルガの主観から、轢き殺されていく人々の"呆気ない"消失が描かれる。しかし、運転席から降りた彼女の目の前には、大勢の死体と血の海が広がっている。そこに、先ほどまでの"呆気なさ"は皆無だ。惨劇が客観的に映し撮られる。オルガの主観を"拒絶"するかのように。

オルガは劇中、終始ふらふらと漂い続けている。それは物理的な動作や事象を指しているわけではなく、彼女は常に地に足が着かず(着けられず)、宙に浮いているようだ。
まるで、幽霊のように、現世をさまよっているようにも見える。
冒頭での自殺に失敗し、母親から「お前に自殺は無理」とあきらめられた、言い捨てられた時点から、オルガは"死ぬこと"から拒絶され、生き永らえてしまう。
それは同時に、既に"死んでいる"と読み解いても良いだろう。オルガの死は延期され、始めから、その発動を待つのみとなる。
もしくは、オルガの"時計の針が止まった"というきっかけとも思える。
俗に、心霊映画というジャンルは、幽霊が出てきて人間に恨みを晴らす作品、ということではない。"時計の針が止まってしまった人"を描く作品のことである。
世界のどこにも居場所がない、"拒絶"され続ける彼女は、この世界では"死んでいる"に等しい。
その後の彼女の行動の全てが、自分が"生きていること"への証明のように描かれている。
まるで止まってしまった時計の針を、必死で動かそうとするかのように。
死にたいと言う少女は、本当は生きたいだけなのだ。
だから、物理的にも彼女の自殺は失敗し続けている。
本当は死ぬ勇気すらない、か弱いただの少女なのだ。
それにも関わらず、世界は彼女の"生き返し"を否定し、お前はこの世の者ではない、この世にお前の居場所はない、と非情さを突き付ける。
世界から拒絶され続けて、疎外されてしまった彼女の耳には、いつだって世界からの「死ね」という声が聞こえていたのだろう。
世界への呪詛が結実し、オルガは何度目かの死を決意するが、「もう既に死んでいる」彼女は、自殺が出来ない。
だから、あの有名な手紙の記述シーンに至る。

「私は孤独なのです。破壊された女です。人々に打ち砕かれた女です。自分を殺すか、他人を殺すかという選択肢があります。だから、私は自分に憎しみを向けてきた人たちに復讐する方を選びました。誰にも知られずに自殺してこの世を去るのは簡単すぎます。言葉でなく実行を。社会はあまりに無関心すぎる。私の評決は以下の通りです:私、オルガ・ヘプナロヴァーは、あなた方の残忍な行為の被害者として、皆様に死刑を宣告します」

それはまるで、幽霊の怨念のようだ。
彼女が死にこだわり続けたのも、"死にぞこなったこと"=未清算の過去への落とし前でもある。

オルガは死刑の前に、「私は、オルガ・ヘプナロヴァーである」というアイデンティティそれ自体を"拒絶"する。
「私は、オルガ・ヘプナロヴァーではない」
かくして、映画は"オルガ・ヘプナロヴァー"を死刑に処すことに"失敗"する。
ぶら下がって幽霊のように宙に浮かぶ一体の死体は、"オルガ・ヘプナロヴァー"ではないのだ。
オルガは、映画からも"死"を与えられない。
どこまでも映画は、彼女を突き放す。
では、死ねなかったオルガ・ヘプナロヴァーは、一体どこへ行ったのか……?
無差別殺人、テロ、自殺。
死ぬことも、生きることも許されない彼女は、いつの世も、どの場所をもさまよい続けている。
オルガは判決の前に「二度と私のような人間が出ないために、社会に努力してほしい」という旨の供述をする。
そして、社会はそれを"拒絶"し続けている。
"オルガ・ヘプナロヴァー"は、現代においても、この先の未来においても、常にどこにでも、"そこ"に"いる"のだ。
これはそういう「ホラー映画」なのではないだろうか。

オルガを演じた主演のミハリナ・オルシャンスカは、まさにオルガを演じるために生まれてきたかのような"空虚さ"に満ちている。
まずもって、オルガ・ヘプナロヴァーとは空っぽの器である。そして、この器は代替え可能で、誰しもが"オルガ・ヘプナロヴァー"となる可能性はいくらでもあるのだ。この映画は、ひとりの大量殺人の犯人をセンセーショナルに描写した作品なのではなく、そういったセンシティブな可能性について思考してほしい作品なのではないだろうか。あなたがトラックで人を轢き殺さない可能性は、本当に100%だろうか。100%自分はそんなことはしないと言い切れてしまう人にこそ、この映画はまず向けられているような気がする。
ミハリナは、紛れもなくオルガのパーソナリティを全身で体現してみせるが、その憎悪に淀んだ肉体と精神に、"空っぽさ"までをも感じさせる芝居の技術が、名演の証明に他ならない。

彼女は1992年ワルシャワ生まれのポーランド人で、だから実は本作のロケ地も全編ポーランドで、台詞も全て吹き替えである。そして彼女の両親も俳優らしい。

ミハリナもまた、子供時代に辛い想いをしたとインタビューで語っており、オルガへの共感が達成されたわけではないが、少なくとも思春期を過ごした少年少女のひとりとして、彼女の苦しみに寄り添える部分があったという。
極寒に身を震わすオルガが、ベッドの下へと唾を吐き捨てる所作は、誰もがやったことは無いのに、誰もがやったことがあるかのような錯覚をさせる。自分で自分自身がままならない状態の時、我々は彼女のように"何か"が乱雑となり、思わず自暴自棄に陥るのではないだろうか。
反抗の象徴として切られたボブヘアは、それが『パンドラの箱』のルイーズ・ブルックスに酷似していると指摘できる。つまりは、モノクロームの暗黒の映画、フィルムノワールを想起するに至り、この映画がフィルムノワール的作法によって撮られた作品であることは、撮影からも把握できる。『レオン』のマチルダことナタリー・ポートマンの趣きすら感じられるミハリナの顔付きは、真に暗黒に染まった闇マチルダと言っても過言ではない。
その鎧のような黒髪、怨念で満ちた眼、対抗する力を奪われた痩せ身に、社会の圧力に潰され掛かっているかのような猫背、その全てのフォルムが素晴らしい。
絶えず、大量の煙草を吸い続ける彼女は、煙のように漂ってしまう存在であること以前に、イトカからは「油臭い」と侮辱される。しかしそれは比喩的に、世界から煙たがられる"臭い"を発していることに他ならず、それは貧困と不幸の臭いなのだ(ポン・ジュノの『パラサイト』においても、この貧困の臭いについては明確に描かれていた)。
そして、彼女が煙草を揉み消すショットは1ショットだけ存在しているが、煙草は灰皿にではなく、机上へと無造作に、暴力的に押し当てられる。彼女は"外してしまう"のだ。何もかも。そういった動き、アクションのひとつひとつを読み取ってこそ、この抑制された映画の輝きに気付けるはずだ。だから映画は面白い。

終盤、カメラはオルガの顔を真正面から撮り続け、彼女の鋭い眼差しを観客へと提示する。そこから何を読み取るか、答えは無く、思考は促される。

やがて、抑制されていた感情が、ひとつの叫びによってこの映画に刻印される。

現実のオルガが絞首刑に至るまでの様子には諸説あり、堂々と自ら絞首台まで足を進めたという説もあれば、死刑を拒み無理やり絞首台まで運ばれたという説もある。
また、絞首台までオルガを連れて行った看守のひとりが「あまりにも若く、あまりにも美しい少女を死刑に処することに酷く後悔してしまった」とも述べていたらしい。

この映画には、そういった優しさも慈しみも無ければ、彼女のたくましさや強さをショットに残す気さえない。死の瞬間さえ撮られず、カメラの前に立つ人々によって、オルガと観客は"断絶"されてしまう。断絶から解放された時、彼女はもう、宙に浮いている。断末魔さえも、観客は聞くことが許されない。
ただひとつの"叫び"しか映されない。
そして、その叫び声は、聞こえてほしかった家族には、まるで届いていないのだ。

おそろしいラストショットだと思った。
そこまでして、この映画は彼女を突き放すのかと驚嘆した。
驚嘆していたら、この映画のエンドロールは無音で、それはもしかすると"黙祷"なのかもしれないと感じて、スクリーンを静かに見つめた。
彼女は許されるべき存在では無くとも、安らかに眠りたまえと黙祷することは、決して間違っていないと思う。
いや、間違っていたとしても、だ。

少なくとも、それしかオルガと観客は"関係"出来ないのだから。