20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

無教訓・意味なし演劇の華麗なる意味を求めて三千里、「意味があること」への高度な反論としての『地蔵中毒の人力ネットフリックス vol.1~紅茶の美味しい粘液直飲み専門店』雑感(あるいは、ヴェルタースオリジナルおじさん補完計画)

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地蔵中毒について書くべきことは何一つない。

 
ぼくが初めて地蔵中毒という異教徒との接近を果たし、驚嘆の旨をSNSに投稿するなり「ブログに感想書いてください!」という熱烈なラブコールを、一度ではなく幾度となく頂戴した。そういった声そのものは有難い。映画ファンという異教徒である自分が、演劇という聖域への侵入を許されたような気さえする。しかし、重ねて結論は、地蔵中毒について書くべきことは何一つない。
 
なぜなら、地蔵中毒について「書く」という行為それ自体が、彼らへの失敬と敗北を意味するからだ。よしんば、地蔵中毒の公演を観劇した際に、あまりにも果てしないナンセンスとアイロニーの完璧な設計に思わず泣けてしまったぼくは、「これは間違いなく天才が作った演劇だ」と唇を噛み締めながらダラダラと流血していたわけだけれど、その類の賛辞が、彼らに「似合わない/ふさわしくない」という実感は、芸術を愛する者として十二分に理解しているつもりだ。「地蔵中毒とは天才である」という絶賛の言葉は、まるで無理やり着用させられた七五三の衣装のように、よっぽど「着させられている感」がある。そういった絵に描いたようなあからさまに健全な言葉よりも、「頭おかしい」「狂ってる」「どーかしている」とゲンナリするくらいの反応が、より良く彼らを活気付けることも心得ている。
 
加えて、地蔵中毒が創作するユーモアの根底には、人間や虚構そのものへの「おぞましさ」や「かなしみ」に寄り添う美しさが絶対的に存在している。人間や虚構を、どうしようもなく「あきらめながら」、仕方なく「信じている」。作・演の大谷さんが綴る台詞や物語には、必ずこの磁場が出現している。この磁力に引き寄せられる哀しき獣は、決してぼくだけではないはずだ。そういった磁場の発見を、これ見よがしに報告する行為自体が、作者のしなやかな「粋」に反する醜さであると認識している。ピエロに向かって「キミは心では泣いている」と指摘することに、粋もへったくれもない。指摘した側が容易く敗北する、それだけのことだ。
 
ぼくは地蔵中毒に関して、もはやファナティックな観客のひとりへと成り下がってしまった自負がある。だから、愛すべき彼らへの無礼な真似はしたくないし、決して彼らへの負けを認めたくない。
 
それでも、こうしてキーパンチしながら駄文を記そうと試みたのはなぜか。ぼく自身が、多少の失敬を承知で彼らのことを言語化しなくてはならないと欲求し得たこと、そして、彼らにならば大喜びで敗北を提示して白旗を振りながら捕虜と化すことを望む、からである。結局、書くべきことはオール・ナッシングと記しつつ、この劇団に対する感情を吐露せずにはいられない、という鬱屈したオブセッションは、地蔵中毒を愛する異教徒、並びに我々映画ファンにも理解が簡単な事柄だと思う。人間には、野暮と承知しつつも言葉にせずにはいられない瞬間がある。筆はそのためにある。
 
コロナ禍がもたらした不幸中の幸いは、地蔵中毒の過去公演がストリーミング配信されたという事実以外、特筆すべきことは見当たらない。何よりも、現実は地蔵中毒の作品よりも「遥かにどうかしていて狂っていた」ということは、間違いなく記憶するべき事象である。この配信は赤字補填を目的として、人力ネットフリックスというふざけたネーミングを銘打たれていた(実際、赤字は免れたようで幸い極まりない)。
 
そしてそれは、演劇という非・映像表現を映像化することへの健康的なアゲインストと軽やかなアジャストをもってして、不肖ぼくらのような映画ファンにこそ与えられた最高のオモチャだった。ぼくはそれまで、地蔵中毒の公演を目にしたことは一瞬もない。ぼくが演劇について何かを書くときに繰り返し注釈してしまうことだけれど、映画ファンの端くれであるぼくは、演劇に関するマッピングがほとんど白紙に近い。その上で、異教徒たる演劇への興味を持続させながら、出逢うべき作品や団体との邂逅を遂行している。地蔵中毒の存在は当然のように認知していた。延期となった公演も、もちろん足を運ぶつもりだった。何より、「キミはたぶん地蔵中毒が好きだよ」と、演劇界隈の友人たちから何度も薦められてきた。今回、そうした身分である自分が、地蔵中毒の過去公演を観劇できる機会に巡り合えたのは、造物主のお導きだと思わずにはいられなかった。結果、いくつかの過去公演を通過したぼくは、当たり前のようにこの劇団のファンになっていた。
 
 
 
 
−ラウンジ・タイム#1−
 
「という具合で書き進めているのだけれど、キミ、率直にどう思うかね?」
「いやさ、エッセイストが地蔵中毒とタクシーの運転手との会話を書き始めたら失職の前触れだってよく言うじゃありませんか。こんなに世の中が大変なんですよ? 他に書くべきことはいくらだってあります。そこで地蔵中毒についてって……ちょっと、ねえ……」
「キミみたいな偏見まみれのクソ溜めゴミクズファックオフ野郎が、彼らの絶対的な価値の獲得を妨げるのだ。いいかね。地蔵中毒こそが、真の、最も享受されるべき芸術表現だよ。彼らの天才的な術を、キミもその目で見たじゃないか。ええ?」
「まあ、観ましたけど、観た上でですね……」
「そんな審美眼の持ち主だからパーソナルコンピューターと空気清浄機を間違えて冷凍庫に入れて凍らせてしまうんだ。恥を知ってリア・ディゾンが今どこで何やってるのか教えたまえ!」
「そ、それは知らない……誰も知らない……」
「『誰も知らない』の監督って野田秀樹だっけ?」
「そんなわけないじゃないですか。『学校の怪談3』で人体模型やってた人でしょあの人。確か監督はリュック・ベッソンでしたよ」
「そうか、ベッソンか。キミは亀頭のような小指をしながらも、大変に物知りだな。そうだ、媚薬の生成方法は知っているかね?」
「え、媚薬ですか。一体何に使うんですか」
「キミとのアナルセックスだよ。最近は全然求めてくれないじゃないか。さびしいじゃないか。わびしいじゃないか」
「はあ……流石に媚薬の作り方までは僕も存じ上げてませんで……」
「キミはマクドナルドのキャラクターの泥棒みたいな格好をしたヤツみたいだな」
「紫色のナスみたいなヤツも不気味極まりなかったですね」
「得体が知れない……誰も知らない……」
「僕、 マクドナルドのキャラクターの泥棒みたいな格好をしたヤツと呼ばれるのは自宅に『パルプ・フィクション』と『トレインスポッティング』のポスターを貼っている男よりも屈辱なので、親戚の叔父の従兄弟の妹の彼氏のセフレの通っている明光義塾でバイトしているどエロいチャンネーに媚薬の作り方を聞いてきます!」
「塾講師でどエロいのなら絶対に知っているはずだ。我々のためのミッションだぞ。ゆけゆけ!いっちまえ!」
「すたこらさっさ!」
 
− (暗転)−
 
 
 
他意なく告白してしまうけれど、ぼくは地蔵中毒に対する偏見と誤解を抱いていた。なんとなく、意味もないことを意味もなくやっている、とてもアンダーグラウンドな集団だと勝手に推測していた(ちなみに、同ジャンルであると定義するつもりは皆無だけれど、ゴキブリコンビナートに対しても類似した感覚があったことは認めておきたい)。そういった表現がもたらす一種の虚脱感のようなものを、今の自分には受容できるか自信がなかった。こういった感覚は、演劇の門外漢である自分にとっては不思議なものではない、ということをご理解いただきたい。
 
ところが、そんな予感は邂逅を果たした途端に砕け散った。偏見も誤解も容易に撤回できたし、無知な自分を心から恥じた。地蔵中毒が構築するナンセンス、ユーモア、マジックリアリズム、シュルレリスム、デペイズマンは、あらゆる意味で才覚に富んでいた。経験したことのない「くだらなさ」と「でたらめさ」に襲われた。この「くだらなさ」と「でたらめさ」のセンスは、言葉そのものの意味で常軌を逸している。
 
ぼくは「くだらなさ」や「でたらめさ」のファンダメンタリストである。芸術、もとい演劇や映画は「くだらなくて」「でたらめな」ものであってほしい。「くだらなさ」や「でたらめさ」が無い芸術を蔓延させてはならないと思っている。くだらないことはくだらないんだ、でもそれはすごく高度なことなんだ、と、ぼくらはバランスを保つことよりも、アンバランスな歪さに向かっていく必要があると考えている。完璧なんて求めてはいけない。くだらなさやでたらめさをあらかじめに回避しては、芸術はつまらなくなるに決まっている。地蔵中毒には、それらへの崇高なリスペクトとほとばしる愛が、ぼくなりに明確に感じられた。
 
あらゆる国のあらゆる作家が、同時代的な風俗に知らぬ間におもねってしまっている。だから、不気味さが芸術から失われてしまっているように感じられる。優れた芸術は、影がないくらいに明るくて、その透明さがかえって気味悪かったものだ。あの透明性こそ、今の日本になくてはならない。何処の国にもおさまりがつかない、国籍不明の不気味さが、絶対に必要なのだ。そして、地蔵中毒こそが、ぼくが欲求していた「影がないくらいに明るくて気味の悪い透明」、そのものだった。
 
 
 
−ラウンジ・タイム#2−
 
「これを飲むんです。ヤル前に。そうすると、アソコであろうがアヌスであろうが、すぐにじゅんわりとしてくるんです。透明で、ダイエットマウンテンデューの味がする液体が出ます。アソコやアヌスのびらびらを通って。びらびらを通った、じゅんわりした液体が、カラダの奥底から滲み出てきます」
「男のアヌスにもびらびらはあるのかい」
「あるに決まってるじゃない。あなた自分のカラダのことを何も知らないのね」
「ところで、相手は炭酸飲料が飲めないんだ。だからダイエットマウンテンデューと同じ味というのは、少しばかり心配だな」
「烏龍茶とヤクルトを1:1の割合で混ぜたことはありますか」
「いや」
「もちろん、シェイクした後にステアするのを忘れてはいけません」
「ないよ、そんな飲み方をしたこと」
コーヒーフレッシュを1滴垂らすと、神秘なんです。びらびらを通ったじゅんわりした液体と同じ味になります」
「そうなのか。想像できないな」
「あなた、コーヒーフレッシュと精液をメタフォリカルに連結させて、今、勃起していますね」
「している。しかし、君と話し始めた時から勃起はしているんだ」
「煙草は吸いますか?」
「ああ」
「喫煙者の精液が苦くなるって、あの迷信はちゃんとウソですよ」
「これは徳を得た。ユリイカ。ならば僕の精液を飲んでくれるかい」
「わたしは精液の味が苦手です」
「食わず嫌い王で見たよ。実食の時、君は我慢できずにタカさんの隣でザーメンをドロドロと吐き出してしまっていた」
「トラウマは、発話してしまうとその根深さを増します。もしくは、あの瞬間に克服したのかもしれません。みなさんのおかげでした
「さあ、もういいだろ。僕のペニスを舐めてくれ」
「ペニスを舐める前に、一度ケンタッキーフライドチキンの骨を舐めないと、わたし動脈が破裂してしまうの」
「なんてこった。間違えてシェーキーズのフライドチキンを買ってしまったよ。なんだかクソ不味いと思っていたんだよ」
「では代わりの方法があるわ。ハイネケンの瓶の中に、日清カップヌードルの圧縮合成肉を4粒入れてシェイクして。それでうがいが出来れば、なんとかあなたのペニスを舐められるはず。さあ。早く。急いで」
「わかった………………ああ。瓶を振ったら溢れてしまった」
「ペニスを見て」
「あれ? いつのまに射精している」
「これがファムファタールのテクニックよ」
「こりゃあ、参ったなあ」
 
− (暗転)− 
 
 
 
ぼくが初めて観劇した公演は『つちふまず返却観音』だった。結論から言えば、この作品は自分にとって、演劇作品のオールタイムベストに入る。と、宣言するほどの観劇数を持ち合わせていないものの、自身が念願する「くだらなさ」や「でたらめさ」が、あまりにも素晴らしい純度と技術によって構築されていながら、同時に、あまりにも映画的な感覚に満ちている作品だった。
 
この作品からは、ぼくが敬愛するあらゆるレファレンスを感じ取ることができた。ルイス・ブニュエル、サミュエル・ベケット筒井康隆フェデリコ・フェリーニアレハンドロ・ホドロフスキーガブリエル・ガルシア=マルケスジャン=リュック・ゴダールトマス・ピンチョンカート・ヴォネガット高橋源一郎チャールズ・ブコウスキーモンティ・パイソンなど。作品から漂うそれらの香りに、反射的に嗅覚が反応していた。しかも、それらの「くだらなさ」や「でたらめさ」の設計が、的確な配置によって強固さを保っていた。
 
客演として参加していた日本のラジオ・屋代さんがアフタートークにて仰っていた通り、本作は映像作品としても強固だった。それは、「映画」に最も近いかたちで「活劇」を披露できていたし、とめどないスラップスティック性が見事なまでに俳優陣のアクションと結実していたからに他ならない。ただ饅頭を食べるだけの、その光景を延々と提示し続ける時間には、まるでタルコフスキーアンゲロプロスの神聖な長回しシーンを目撃しているかのような奇跡が起きていた。恥も外聞もなく断言してしまうが、こんな作品、馬鹿には絶対に作れない。天才が作ったとしか思えない。IQ(もしくは運)がめちゃくちゃ高い人間にしか、作ることができない。
 
この感覚は、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』二部作を鑑賞したときと酷似している。一般的に(つまりパンピーの視野において)、『キル・ビル』はタランティーノの好きなものを詰め込んだひっちゃかめっちゃかで奇抜な映画だという評が多く確認できる。肉ばかりで骨がない、といった具合に。さりとて、少しでも映画と接見を果たしてきた人間ならば、あの映画の計算高い完璧なまでの構築力と、ポスト・モダン最終結論と呼べるまでの論旨展開の見事さに、天才が作ったとしか思えないという感覚が残るはずだ。実際、タランティーノのIQは160ある。大谷さんのIQは、一体いくらあるのだろうか。かくして、ぼくは真っ直ぐに「天才」と絶賛を示すことから逃れられない。
 
 
 
 
 
−ラウンジ・タイム#3−
 
※諸事情により、この会話は公安警察とFC2動画運営によって削除されました。
代わりに、筆者の独断と偏見による「地蔵中毒を感じさせる映画作品」をセレクトしましたので、
読者の皆さまにおかれましては、ご理解の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
 


Gremlins 2: The New Batch (1990) Trailer


Mars Attacks [1996] Main Titles Blu-Ray


Federico Fellini - 8 1/2 (New Trailer) - In UK cinemas 1 May 2015 | BFI Release


Le Fantôme de la liberté luis bunuel à la table


Pink Flamingos, live homicide


どですかでん(プレビュー)


The Holy Mountain - Official Trailer | ABKCO Films


2000 Maniacs! (1964) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]


Week-End / Week-end (1967) - Trailer French


Kantoku Banzai (JAPAN 2007) - Trailer


Faster, Pussycat! Kill! Kill! (1965) Trailer


'Monty Python and the Holy Grail' 40th Anniversary Official Trailer


plan 9 from outer space (trailer)


The Dinner Game (Le Diner de Cons) - Film Trailer With Subtitles


The Kentucky Fried Movie (1997) Official Trailer


映画「発狂する唇」劇場予告


Bloodsucking Freaks (aka The Incredible Torture Show) (1976, USA) Trailer


Climax | Official Trailer HD | A24

 
− (暗転)− 
 
 
 
たとえば、演劇作品や劇団それ自体について書くときに、俳優(彼らのことは"役者"ではなく、敢えて前述の通り"俳優"と呼称する)の魅力について綴ってしまうということは、ぼくにとっては内輪的な閉塞感と界隈における戯言のような機能を備えているように感じられる。しかしながら、地蔵中毒の俳優陣は、本当に、本当に素晴らしい。ひとり残らず、漏れなく魅力的な面々が、縦横無尽にアクションを起こしていく様は、誠に「演劇」を「観劇」しているという躍動感に包まれる。こういった瞬間に遭遇した際に、彼らのパーソナリティは宙吊りとなって、(役名は実際の固有名がほとんどにも関わらず)作品内のキャラクターとしての存在感・立体感という圧が、客席へと難無く奇襲する。俳優がキャラクターを演じているという次元ではなく、その場に「虚構」を身にまとった人間が生きているという感覚が場内を支配し、その呼吸音がぼくらに笑いと、失笑と、おそろしさとかなしみを付与していく。ぐちゃぐちゃの人々を見つめながら、次第に観客の心もぐちゃぐちゃにかき乱されていく。その高揚感。多幸感。は、何ものにも代え難い地蔵中毒のオリジナルな才気に他ならない。ぼくらが地蔵中毒ジャンキーへと変貌を遂げることに成功するのは、作・演の大谷さんが売人だとするならば、素晴らしい俳優陣は副作用バチボコな薬であり、並外れに優れた毒のようだからだ。
 
キャストアンサンブルの秀逸さについて、印象深かった事柄を個人の裁量で書き残しておく。
 
徹頭徹尾、ぼくはかませけんたさん、関口オーディンまさおさん、立川がじらさんが何かを発声するたびに、可笑しくてたまらない気持ちになる。もちろん、これは揶揄ではない。三者が備えている「喜劇俳優」としてのポテンシャルの高さは、老若男女共通の「おかしさ」の境地に達していると思う。人を笑わすことへの、気品と技術と愛が感じられる芝居だ。そして、「おかしさ」と「おそろしさ」が表裏一体であるが如く、実はこの三者は恐ろしくもある。そのアクセントが素晴らしい。思えば、かませさんは(これは後述する小野カズマさんが指摘していたことだけれど)時折『ワールド・イズ・マイン』のモンちゃんを彷彿とさせる鋭い眼差しを覗かせるし、関口さんは超絶に人が良さそうな印象とは真逆のベクトルで狂気のペルソナが大声を張り上げるし、がじらさんのあの口調と声色とニヤケ顔がもたらすペテン感には静かな不気味さが垣間見られる。ぼくは、ユーモアの奥に闇を意識させるような芝居が好きだ。闇に潜みながら、光を求めて右往左往する狂人には、それだけのエネルギーとダイナミズムがある。これは暴論だけれど、おもしろい役を演じられる俳優は、おそろしい役を演じることも絶対にできるはずだ。ふつつかながら、この御三方が悪人を演じ切った暁には、御三方とそのキャスティング担当者に、精一杯の祝杯を挙げさせていただきたい。
 
声という側面においても、地蔵中毒の俳優陣は絶妙に職務を全うしている。ぼくは演劇を観劇する際、個人的に最も着目する点は「声」にある。俳優がどのような「音」を出すのか、演出家はその「音」をどのように「発声」させているのか。ライブ会場で生演奏を聴くかのように、視覚と共に聴覚を研ぎ澄まさせる。振り返れば、元々演劇なんて全く観劇したことが無かったぼくが惹かれていった劇団は、排気口、肉汁サイドストーリー、盛夏火、ヴァージン砧、ゴキブリコンビナートといった、どれも発声的調和とコントロールが完遂されていたものばかりだった。映画では「画」に惹かれるけれど、演劇では「音」を摂取したいと願っている。そしてまたもや当たりくじを引いたような趣きに浸りながら、地蔵中毒が作り出す「音」が好きだった。事ここに於いて歴然としていることは、作・演の大谷さんもまた「声」あるいは「発声」についてこだわり抜く作家だということだろう。それは、台詞におけるアクセントの置き方、イントネーションの独自性を聴くだに予想できる。彼と、俳優陣が鳴らす「音」が、ぼくにはたまらなく心地良かった。
 
もっとも、東野良平さんの「声」は、その美声、滑舌、的確なリズム感覚からして特筆すべき「音」のひとつだろう。東野さんの役柄は、たとえば何かを話したりやってみた後に、くっきりとした大声で「〜を〜で〜してみたんだ!」と発声する、みたいな言い回しがあって、ぼくはこの言葉の流れと音のリズムがツボになってしまった。つまるところ、東野さんがパニックになればなるほど、面白くて仕方なかった。彼にコサックダンスや全く無意味な踊りをさせたりする辺りが、観客の望む「キャラクターの困惑」というものをすこぶる承諾している。「はっきりと発声可能なキャラクターがしどろもどろになる」ことへのユーモアを、決して失念してはいない。また、そんな東野さんにこそ、キザだったり不良だったりする人格を当てはめるのも、累乗するかたちで面白味が倍増していく。純朴な狂気。そして、あんなに眼鏡が似合う人はいない(ところで、無意味な踊りで想起したことと言えば、かませさん扮する祭男の舞いもまた印象的で、かませさんご自身はトラウマだとアフタートークでおっしゃっていたけれど、観客のぼくらにとっては、大谷さんの軽快な悪意という感覚があり、他意なくとても楽しく拝見しました。し、残酷なことに、やはり俳優陣が困惑しつつ完遂を試みる勇姿に対して、ぼくら観客は否応なく感動を覚えてしまうのだと改めて感じられた)。
 
エキゾチックな顔立ちのhocotenは、そのボディランゲージによってエロティークを憑依されがちだけれど、彼女の「声」もまた、もっと評価されて良いはずだ。hocotenの発声の美しさは、もちろんエロティークを遂行する際の、色っぽくなまめかしい発話法にも表れており、地蔵中毒におけるあでやかなキャラクターは、彼女以外には考えられない確立した魅力が散見される。しかし、その力量が最も色濃く噴出する時間は、彼女が何かを「叫んだ」とき、である。意味不明な教育概念を咆哮したり、天丼ネタのように重ねられる「やめてよ!」の発声だけで、彼女は作品と観客を関係させていく。彼女は叫ぶことが許されている女優だ。その役柄が被害者であれ加害者であれ、空間を切り裂く腹の底からの音色が、可笑しくも美麗に耳に残ってしまう。あの音を認知している大谷さんが、彼女をボソボソと喋らせたがらないのがよく理解できる。加えて、彼女の「顔」がもたらすデペイズマンについては勝手ながらココ(https://filmarks.com/movies/86970/reviews/75857189)に記したのだけれど、たとえば『ずんだ or not ずんだ』において彼女が演じたお母さん先生や天草四郎といったキャラクターは、その「和」を意識させる衣裳も相まって、西洋の香りが漂いながらも彼女が備える「和との調和性」を克明に証明してみせていた。こうして、彼女に掛け算のように要素を付帯させることでもたらされる異化効果は、地蔵中毒の魅力のひとつであると言って過言ではない。
 
個人的に、声によるアンサンブルの極点を叩き出したのが、『つちふまず返却観音』における小野カズマさんと中村ナツ子さんの共演場面だった。小野カズマさんのスラッとした肉体から発声されるツッコミの鋭さとボケの異常さによって、ぼくら観客の視線と興味は迷わず彼へと向けられる。豊かな身のこなしを行使して、とぼけたような表情を炸裂させながら、どこかでぼくら観客を安堵させている存在でもある。対する中村ナツ子さんは、宝塚オマージュと呼称すること自体が勿体ない、透き通るような力強い声が容易にインパクトをもたらす。まずもって、真っ直ぐにピンと伸びた背筋と立ち方からして脱帽の佇まいだけれど、そこから発せられる音の強さによって、ぼくらは目が離せなくなる。そんな両者がついに対峙する。「火事火事!火事ッ!火事カジッ!」と叫び続ける狂気に対して「どうしたんですかぁ?」と言い残して暗転。この音。この発音。この台詞。このタイミング。完璧すぎる。墓場まで忘却できない音と出逢ったような感覚に、ぼくは笑いながら思わず涙してしまった。
 
 
 
 −ラウンジ・タイム#4
 
「どうしましょう!このままだと世界中の人間がヴェルタースオリジナルのCMのおじいちゃんに侵食されてしまいます!」
「旧エヴァまごころを、君に』の人類補完計画シーンの、一番やっちゃいけないオマージュを現実が始めてしまったな!」
「なんてこった……僕が媚薬を貰いに行って射精なんかしてしまったから……」
「時を同じくして、地蔵中毒について書いていたら、主宰の大谷氏が会社をクビになってしまったじゃないか。ぎゃふん!」
「大谷さんが無職になったと見聞きして、ほくそ笑みながら楽しそうに書いていたじゃないですか。なにがぎゃふんですか。ぎゃふんじゃ済まされませんよ。ぎゃふん!」
「しっかし、つくづく面白いことが転がっているものだなあ、こんなドッポン便所みたいな世の中にも。絶対にますます面白くなるに決まってるぞ。無職で無教訓意味なし演劇なんて、素晴らしきアウトサイダーアートではあるまいか」
「会ったこともない主宰の不幸を蜜の味として楽しまないでください……」
「それはそうと、地蔵中毒について書くという行為は、だし巻きたまごを作るくらいに肉体浪費を伴うな。観劇して感激、ただでさえブレインダメージを受けているというのに、後からその素晴らしさを論じようとすると、まるで正しい言葉が浮かばない。キミの忠告通り、ポスト・コロナ時代におけるAV女優のツイートにリプライする人々について論じるべきだった」
「僕は深田えいみに一度だけ「よーいドンのつもりで、尿意ドン、と言っておしっこしたことある?」とリプしたことがあります」
「彼らがもたらす虚脱的な破壊力は、よっぽど天才の手腕として足立区辺りでも評価されて然るべき功績だ」
「足立区辺りなら、もう評価されてるんじゃないですか」
「足立区をナメんなよ貴様。じゃあ、パプアニューギニア
「ふつうにパプアニューギニアでもウケそうですけどね」
「地蔵中毒は国境を越える」
「……越えるかな」
「もう少しで脱稿する。書き上げたら、キミに推敲と訂正をお願いするよ」
「承知しました。……しかし、先生」
「ん?」
「先生はどうして、地蔵中毒について書こうと思われたんですか? だって、無教訓意味なし演劇ですよ? 意味、ないんですよ? ってか無かったじゃないですか! 意味のないものに意味を見出すって、それって逆張りというかひねくれというか……だって、意味ないんですよ。意味……」
「意味がないことをすることは、意味のあることへの反論なんだよ」
「反論……」
「意味のないことは、意味がないから劣っているだとか間違っているだとか、そんなことはない。無意味、であるということの認識さ。無意味であることへの理解だよ。人間も、人間が作ったあらゆるモノも、その人間を作った神も、皆等しく意味がない。だからこそ、無意味の状態である限り、我々は意味を追い求めることを決してやめない。たとえこの世界にも自分自身にも、意味が無かったとしても、意味が無いと感じている自分が今ここにいるということ、それだけは確かだ。それ以上の意味も、それ以下の意味もない。地蔵中毒こそが、人間の原初的な全裸の姿であって、胎内であって、我々はいつだって"無意味"を認識するために、そこへと向かうんだ。地蔵中毒はこれからも生き続ける。母のように、我々の無意味さを包み込む。私のおじいさんが教えてくれた初めての劇団。それは劇団・地蔵中毒で、 私は4才でした。それは甘くてクリーミーで、こんな素晴らしい劇団を教えてもらえる私は、きっと特別な存在なのだと感じました。今では私がおじいさん。孫に教えてあげるのはもちろん、劇団・地蔵中毒。 なぜなら、彼もまた、特別な存在だからです」
 
− (爆発音)− 
 
− (沈黙)− 
 
− (暗転)− 
 
 
 
とは言え、こうした過剰なまでの賛辞の享受を、地蔵中毒もとい大谷さんが目的としていないことは、作品を観ることによってスムースに把握できる。天才を天才と呼ぶことのよるべなさ。演劇を言語化することの「醜さ」を前にして、シロウトが無教訓・意味なし演劇に関する「意味」や「価値」を説くこと自体が、無礼と敗北に値することは明瞭な事実だ。しかしながら、その「醜さ」を前提としながら、地蔵中毒に一歩でも、否、半歩でも寄り添うかたちで言葉を残す試みをすることで、初めて現出する「美しさ」もまたあるはずだ。「地蔵中毒を言葉で語ること」のどうしようもなさと真正面から対峙して、ぼくら観客は意志表明を目指せねばならない。くだらなくて、でたらめで、意味のないものを、そう言い切るだけで消費してはならない。地蔵中毒がぼくらに誘発させる多幸感は、紛れもなく、高度な技術と、俳優陣の絶えまない努力と、尽きぬ表現への愛ゆえのものだ。褒め称えずに、愛さずにいられるわけがない。
 
大谷さんが書き上げた作品には、潜在的に「罪の意識」が内包されている。それは「演劇を書くこと」に対するアンビバレントな意識と、「物語やフィクション」に対する憧れとあきらめのようなものだと思われる。
 
『つちふまず』のラスト、文字通りに「嘘を本当にすること」へと突入する美しい運動は、彼が心から「物語」へと寄り添っている誠意を感じさせる。「間違ってしまう人々」に対する、肯定でも否定でもない、ただ「存在を認めること」の優しさがみなぎっている。だから大谷さんは、本当はウェルメイドな物語が書ける作家だとぼくは感じる。それでも尚、「褒められたもんじゃない」という意識が、霧のように作品を覆っていることも確かだ。そういった書き手に対して、賞賛の金切り声を贈ること自体がナンセンス極まりない。賞賛すればするほど「いや、そんなに褒められたモンじゃないっスよ」と、距離は遠のき、届くことがない。
 
「無教訓・意味なし」と銘打たれた演劇を言語化する行為の「醜さ」は、地蔵中毒について何か書こうとするたびに露呈される。地蔵中毒は、こうしたぼくの言葉から逃げ続ける。逃げ続けていくのが素晴らしい。天衣無縫で、無責任で、デタラメの限りを尽くしながら、あらゆる観客に己の痕跡を焼き付けていく。混血列島に落とされた「地蔵中毒」という名の未確認生物は、遊撃と逃走を繰り返し、ジグザクな逃走線を描きながら、その才覚を照れ笑いで隠しつつ、こうしてぼくらを虜にしてみせる。
 
そして、トリコロールケーキとの合同公演『懺悔室、充実の4LDK』における、ラストの美しさを失念してはならない。トリコロの今田健太郎さんと大谷さんが、墓石へ肩肘を乗せたまま微動だにしない。その二人の「書き手」を乗せて、出演者一同が墓石を移動させようと押し続ける。力一杯に押す。動かない。それでも、押し続ける。少しずつ、確実に動いていく暮石。まるで「書き手」たちは、彼ら俳優陣の結束した力を信頼しているかのように、全く動かない。この光景は、あまりにもエモーショナルで、映画のクライマックスのような大団円で、もんどり打つほどに美しかった。自分が演劇を観る「意味」が、しっかりとそこにはあった。
 
演劇はものを考えさせるためにあるのではない。考えていたことがぐらぐらと崩れるようなものこそが、ぼくが演劇に求める最たる衝動だ。地蔵中毒は、そういった震源地だ。ぐらぐらと、近づく者を揺れ動かすし、揺れ続けているし、揺れ動いてすらいない。ともすれば、そんな不気味で、くだらなくて、でたらめで、可笑しくて、おそろしくて、かなしくて、ちょっと幸福な、この世界そのものに似た劇団・地蔵中毒への追走は、これからも続く。どんな乗り物に乗っても追い付けないので、ゆっくりと後を追いながら、狂喜乱舞する彼らを見ていたい。もちろん、劇場の座席で。

最近観た映画の備忘録#7(スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスな映画たち)

f:id:IllmaticXanadu:20200520103717j:plainポンヌフの恋人』(1991年/レオス・カラックス)

DVDにて。カラックスは『汚れた血』がオールタイムフェイヴァリットに大好きで、あとは『ホーリー・モーターズ』と『TOKYO!』の『メルド』も大好きで、実はアレックス三部作それ自体への思い入れはそこまで過多しているわけではないけれど、久しぶりに観た本作は、やっぱりどう考えてもスゲー映画で感銘を受けた。こんな映画、マジで一生に一本しか撮れない類のヤツじゃん。あの有名な、フランス革命200年祭で花火ボッカンボッカンなポンヌフで乱舞するドニ・ラヴァンとビノシュのシーンよりも、地下に貼られたビノシュの顔面デカポスターを全部ブチ燃やすシーンが泣ける。カラックスの心の叫びに全映画ファンが共鳴……。世界のすべてとすれ違ったとしても、それでも走り続けたいと願ったカラックスが、最もすれ違いたくなかったビノシュとのすれ違いを経て、映画による再現/復讐/救済/成就まで辿り着く、ラストの「まどろめ、パリ!」へと辿り着く、映画少年とミューズの世界一美しい失恋のカタチ。ヌーヴェルヴァーグの孫と呼ばれたゴダール大好きカラックスが、その失恋の仕方までゴダールと同じになる辺り、宿命とは恐ろしい。取り返しのつかない気持ちは、映画によって取り返せる。恋も失恋も、映画があれば怖くなんかない。面会にやって来たビノシュの顔のヨリ、からの「治らないものはないわ」、からのこぼれ落ちる一粒の涙、オールタイムベストシーンの一つ。どのビノシュよりも、最も美しいビノシュ。ゴダール然り、カラックス然り、やっぱりカレシが撮るカノジョがいちばん綺麗なんでしょうか。『汚れた血』のスカイダイビング同様に、ビノシュにガチで水上スキーさせて無茶させる辺り、とても可愛い。眼帯トラックスーツ姿のビノシュも可愛い。ドニ・ラヴァン、車に足轢かれてたけど大丈夫なん?!としばらく心配しながら観てしまった。映画が最高潮にジョイフルに到達するポンヌフでの二人の再会シーンで幕を下ろさず、ちゃんとビノシュへ怨念をぶつける行為があって、からの、すべてを水に流そうと言いたげな水中落下があるの、カラックスのことを考えると泣けてしまう。カラックスとビノシュが打ち上げた最後の花火。花火そのものが刹那的な事象であるかの如く、アレックス三部作は事実上、カラックスにとって呪われた映画群となった。しかし、事ここにおいて歴然としていることは、カラックスからビノシュへの愛と私怨以上に、本作は製作過程も含めて「呪われまくった映画」であり、若き映画作家にとっての呪いとは、祝福と同義の機能をしていることに他ならない。ということで、借金、撮影延期、どんどん不機嫌になるビノシュといった地獄のようなメイキングも面白い。

f:id:IllmaticXanadu:20200601183136j:plain『ファイアbyルブタン』(2012/ブリュノ・ユラン)

DVDにて。最ッ高オブ最ッ高。自分が好きなもの、愛してやまないもの、恍惚するもの、憧れを抱くもの、興奮するもの、恐ろしいもの、エロいと感じるもの、そして何よりも超絶に美しいと感じるもの、そのすべてが詰め込まれていた。素晴らしい映画と出会うたびに「もしかして、コレって俺のために作られたんじゃね?」とパラノイア的自意識過剰が起きてしまうのだけれど、クリスチャン・ルブタン監修による「FIRE」という芸術が、まさにそれだった。俺の好きなものしか映らない!やっほう!多幸感!やっぴー!以前『ムーラン・ルージュ』や『NINE』の感想でも記した通り、ぼくはキャバレーやバーレスクやストリップへの強烈なオブセッションとフェティッシュを抱いている。豪華絢爛・ゴージャスフルな空間で歌い踊る女性の肉体/裸体に対する憧れと恐怖は、恐らく死ぬまで続く。そんな自分にとって、本作が最上級の歓びに満ちたものだったことは言うまでもない。パリの老舗ナイトクラブ「クレイジーホース」で、たった80日間のみ披露されたルブタン演出のナイトショー。その映像化を試みた本作。音楽にはデヴィッド・リンチも参加していて、実はほとんどリンチ的なヴィジョンや世界観を漂うことができるというのも、彼のファンには果てしなく嬉しい。もう冒頭のヌード美女兵隊たちからして最高のパフォーマンスだし、エロティックだったりサイケデリックだったりポップだったりモダンだったりして、全パフォーマンス漏れなく素晴らしい。圧巻はラスト。『ブレードランナー』のセクサロイドオマージュな女性たちが、やっぴぃやっぴぃ!くれいじぃくれいじぃ!とファンタスティックに歌い踊る映像には、感情それ自体の震撼を経験した。一生観ていられる。一生観ていたい。映像だけでこの多幸感ならば、もし自分が実際のクレイジーホースを観劇してしまったら、泡吹いて昇天してしまうんじゃないか。いやもう絶対死ぬまでに行くぞクレイジーホース。その夢叶うまでは、DVDを購入したので、今後も繰り返し鑑賞しつつ浸り続けたい。なるべく色鮮やかなカクテルを片手に乾杯しながら観ます。

f:id:IllmaticXanadu:20200531062616p:plainアクロス・ザ・ユニバース』(2007年/ジュリー・テイモア)

DVDにて。よしんば「ビートルズの楽曲だけでミュージカル映画を作っていいよ」と言われたら、どの曲をどんな場面で如何にして並べるか誰しもが高度に夢想してしまうことだけれど、それをホントにやりました、ハイ33曲オールビートルズ、どんなもんじゃい、な映画。ミュージカル映画スキー+ビートルズスキー=自分なので、あまりにもちょろく「最高の映画だ!」と好きな映画の一本になっていたけれど、久しく再見できていなかった(と、思っていたけれど、記憶を辿ればダニー・ボイルの『イエスタデイ』を観る前になんとなく観ていたことを思い出した)。見直して観ると、やっぱりビートルズのみが歌唱されるミュージカルってだけで満点ですという甘々な感想になってしまうのだけれど、映像面でも、良い意味で荒唐無稽でサイケデリックでとても楽しかった。映画の文法に重きを置くというよりは、気持ちイイように繋ぐんだい!という健全なでたらめさに好感が持てる。Strawberry Fields Foreverが流れる中、映写映像でアメリカとベトナムを連結してみたり、バーの鏡に映る主人公・ジュード(めちゃフラグネーム)にマックスがオーバーラップしてHey Judeを歌ったり(ジュードの母ちゃんも「彼女のとこ行ってき」と歌うのが可愛い)、I've Just Seen a Faceを歌いながらのボウリングシーンでは、皆テンション上がりすぎて人間ボウリング会場と化してしっちゃかめっちゃかヘルタースケルター、と、ずっと映像が楽しい。舞台装置バコバコ使うぞーい!という勢いで割と機械仕掛けに動くセットが多くて、特にベルトコンベア式の横移動が印象深かった。I Want You (She's So Heavy)を徴兵スローガンと絡めたり、Oh! Darlingの歌詞を使って舞台上で喧嘩したり、ビートルズのこの曲のこの歌詞だから物語が展開するんです!という逆プレハブ方式シナリオ術によって関連性をちゃんと持たせているのも良い。Happiness Is a Warm Gunのシーンでエッチなナース服のお姉さんが5人も登場してエッチに注射を打っていたので加点対象です。吹き替えなし、しかも生録音で挑んだ俳優陣の芝居・歌唱力も素晴らしかった。ヒロインのエヴァン・レイチェル・ウッドは、どうしても『サーティーン』のゴスっ娘とマリリン・マンソンの元カノという、なんだかダークな印象があったのだけれど、本作では心機一転、学生運動に励む純真かつ燃える正統派ヒロインを見事に演じ切っていた(翌年の『レスラー』ではミッキー・ロークの娘、翌々年の『人生万歳!』ではウディ・アレンの分身のジジイと恋仲になったり、なんとなく女優としてのシフトチェンジに挑んだ3年間だったと思う)。主人公のジム・スタージェスペ・ドゥナの元カレだ!ジョー・アンダーソンが演じるヒロインのルーシーの兄貴・マックスがナイスガイで、ちょっとこのキャラクターへの想いは忘れ去れない。ずっと酒飲んでタバコ吸ってひねくれながらも楽観主義で自由なヒッピー青年なのだけれど、要はめっちゃ「俺たち」側なのだ。ガキの頃にビートルズを聴いて、ロックってカッケー!フリーダム!オールユーニードイズラブ!と憧れていた「俺たち」が、あの兄ちゃんへの親近感に集約されている。加えて、「愛こそはすべてさ」と愛する女性に向かって歌うダチの後ろで「彼女は!マジで!お前のことを!愛してるぞおおお!」と歌い叫ぶ彼の優しさに爆泣き。このShe Loves Youの使い方はすごい。これは完全に脱帽。本当にラスト直前の歌唱だけれど、このアンサンブルにめちゃくちゃ胸を打たれてしまった。映画の中でちゃらんぽらんだった人がクライマックスでかっこ良いところ全部持ってくの、あれズルいよね?泣いちゃうじゃん。

f:id:IllmaticXanadu:20200601151345j:plainメリー・ポピンズ』(1964年/ロバート・スティーヴンソン、ハミルトン・S・ラスク)

DVDにて。いつ何度観ても圧倒的に素晴らしすぎるアルティメット・オールタイムベスト。そりゃもちろん、人生や人格形成にあらゆる影響を与えてきたオールタイムベスト級の映画は山のようにあるけれど、仮にも「俺が一番好きな映画は『メリー・ポピンズ』だ!」と豪語してしまっても過言ではないくらいに、何度も観ているし、永遠不滅の愛すべき大切な一本。

とにかく「映画が喜んでいる」という楽しさでみなぎっている。ほとんどドラッグ的な幸福感の連べ打ち。ジュリー・アンドリュースは生きて歌って踊る「幸福」そのもの。ウルトラナイスガイの我らがディック・ヴァン・ダイクは、彼が楽しそうに思い切り踊っているだけで、涙が出るような感動が湧き上がる。本作が名作たる所以は、漏れなく画面に映っているすべての事柄が最高という点もあるけれど、実は物語の深部に込められた想いにこそ、今尚、ぼくらの感情を揺さぶる力がある。

メリー・ポピンズ』は極めて重層的な作品になっている。この映画の主人公はメリー・ポピンズではない。本編内でメリー・ポピンズは、全く成長しない、言わばスーパーヒーロー/超人/天使として君臨する。彼女が救いに降りた人物とは、果たして子供たちだったのだろうか。否、誰よりも成長すべき登場人物がいたはずだ。それは、彼らの厳格で頑固な父親・バンクス氏のことだ。

現実は誠に辛く厳しい。想像すらできない絶望がそこら中で息を潜めている。しかしメリー・ポピンズは子供たちに対して、そんな「現実の厳しさ」を教えるのではなく、「厳しい現実を生き抜くための武器」を与えていく。例えば、面倒くさい片付けは「ゲームのように楽しくやる」、落ち込んだ時は「意味もない言葉を喋ってみる」、貧しく苦しんでいる人を見かけたら「慈悲とお金を恵んであげる」など。メリー・ポピンズは言う。「苦いお薬も、ひとさじのお砂糖さえあれば飲めるようになるわよ」ここでの「苦いお薬」とは「現実」のことを、「ひとさじのお砂糖」とは「笑顔やユーモア」を指している。バートと共に屋上に登った子供たちは「世界を上からの視点と広い視野で見ること」を学ぶ。そしてバートはこうも教える。「お父さんは寂しくて孤独な人なんだ。お父さんは檻に入っている。銀行という形をした檻だよ」バンクス=銀行という洒落は、ここで意味が付帯される。その後のディズニー映画がそうであったように、実は物語がターゲットにしているのは子どもではない。その子供を連れて来た親だ。すなわち、メリー・ポピンズやバートは、子供ではなく、親に向けて間接的に「厳しい現実を生き抜く術」を伝授している。なぜなら、親たちは「厳しい現実」というものを既に知っているからだ。メリー・ポピンズは、親が子供たちに対してどのように教育をするべきか、そして子供を持つ親たちはどのように生きるべきなのかを説き続ける。

メリー・ポピンズ』の真の主人公は父親であるバンクス氏だ。彼は出世こそが男の生きる道だと自らに定め、その固定観念の中で不器用にもがき苦しむことになる。それはまるで「これまでも、これからも、父親とはそうであって然るべき」という自縛の中で、本来最も大切にするべきだったものを見失っているかのようだ。彼に「大切にするべきだったもの」を気付かせたのは、メリー・ポピンズやバートであり、子供たちの優しい心によるものだった。『メリー・ポピンズ』の真の物語は、バンクス氏の苦悩と、その状況からの脱却にある。鮮やかな色調の果てに到来する、あの夜道を歩く惨めな男の後ろ姿たるや。あまりにも、あまりにも切なく、泣けてしまう名ショットだ。それでも歩き続け、社会や時代や固定観念の象徴たる社長や重役の前に立った彼は、子供たちから教わった「魔法の言葉」をつぶやいて成長する。仕事や出世よりも、家族を愛して、一緒に笑って楽しく生きることを、俺は選ぶ!バンクス氏はここで初めて敵対者と逃げずに「闘い」、「勝利」した彼は笑顔で家へと帰宅する。最初は子供たちと共に上げられなかった凧を、今度は家族4人揃って、一緒に……。

本作の公開年である1964年とは、アメリカにビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!の年として重要で、ここで『アクロス・ザ・ユニバース』と本作は繋がってくる。ビートルズアメリカデビュー以降、アメリカはカウンターカルチャーの時代へと突入した。それまでの古臭い固定観念はすべて撤廃し、ラブ&ピースのために若者たちが「闘い」を始めた。そのアゲインストの様子こそ、『アクロス・ザ・ユニバース』で描かれていたベトナム戦争への反対運動だ。バンクス氏の「闘争心」は、まるで歴史を予言するように、現実の若者たちへと伝播していっている。カウンター・カルチャーにとってのメリー・ポピンズこそが、バンクス氏だったのかもしれないと連結させるのは暴論だろうか。

と、あまりにも愛している映画なので初めて改行して記してしまったけれど、まあ、あれです、いつか自分も子を持つ親になったら、絶対に家族でこの映画を観たいということ。メリー・ポピンズが空から降りてこないように、当たり前に子供を愛してあげたいです。そして、ぼくにとっては「映画」こそが、「苦い薬」を飲ませるための「ひとさじの砂糖」であることを、『メリー・ポピンズ』はいつも実感させてくれます。

余談だけれども、いつ観てもペンギンちゃんたちが超絶に可愛い。映画史上最高のペンギン。『メリー・ポピンズ』を観るたびに、脊髄反射的にペンギンに逢いたくなって水族館への欲求が高まるのがやめられない。いやでも『バットマン・リターンズ』のペンギン軍団もすこぶる可愛いくて仕方なかったな……まあいいや!みんなも営業再開した水族館へ行く前に『メリー・ポピンズ』を観よう!(暴論)

f:id:IllmaticXanadu:20200606061706j:plainファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#6(なんとなく読み続けている読者の方は察すると思うのですが、わたしは女優について特に書くことが多く、それは美しい女優へのファナティックな幻想によるものと言うよりは、スクリーン一杯に映る女優の顔に対する、うっすらとしたフォビア(恐怖)があり、その美しさとグロテスクさに、魅惑されながらも脂汗を流してしまう、人生で最も興味を抱く存在だからなのかもしれません。そんなこんなで、今回も女優について書いている感想が多いです)

f:id:IllmaticXanadu:20200528021719j:plain『スキャンダル』(2019年/ジェイ・ローチ)

U-NEXT先行配信にて。観たかったのだけれど劇場鑑賞のタイミングを逃してしまったので配信にて初見。めちゃくちゃ面白かった。『オースティン・パワーズ』シリーズのジェイ・ローチが監督?と疑うほどに、ストレートに社会派やってた。ぼくはこの手のセクハラ告発モノは結構苦手で、というのも、どうしたって女性が酷い目に遭う様子を生々しく見せられるのは、男女関係なく怒りが湧くし嫌悪感を覚えてしまうからだ(同様の理由でレイプ描写も超苦手)。本作も愛しのマーゴット・ロビーがそういうシーンに挑戦するのだけれど、ヒヤヒヤして動悸が激しくなりほんとキツかった。しかし、便宜上「女ナメんな」映画でもある本作は、キモくて最低な男たちへのリベンジ&アゲインストとしてのカタルシスもしっかりと用意されているので、紛うことなきエンターテインメント。観ながら共に「ふっざけんなクソジジイ!!」とムカついた人ほど「ザマア!!」感は強い。セクハラオヤジ、ロジャー・エイルズをジョン・リスゴーが久しぶりに悪意たっぷりに怪演していて、往年の彼のファンには嬉しい芝居だった。加えて、エイルズ自身を単なる悪役・敵役と定型化せずに、アメリカの政治とテレビジョンの癒着関係の、その悲しき犠牲者の側面もある「かわいそうなひと」として哀愁漂わせる着地に導いているのも良かった。エイルズ自身は最低のファックオフ野郎なのに変わりはないけれど、作り手からのキャラクターへの眼差しとしてはとても好感を持てた。エイルズ以上にファックオフなルパート・マードックに、『時計じかけのオレンジ』でマチズモ的象徴みたいなアレックスを演じたマルコム・マクダウェル御大をキャスティングしている辺り、皮肉が効いていてサムズアップ。兎にも角にも、カズ・ヒロ氏による特殊メイクアップが神業の素晴らしさ。画面にシャーリーズ・セロンが登場した瞬間「マジでか」とその変貌ぶりに、あまりにも自然な顔つきに超びっくりした。シャーリーズ・セロンの真ん丸ふっくらした顔つきが、メーガン・ケリーのシャープな骨格に「見えるように」陰影や目の錯覚を利用したその技術は、誠にオスカー受賞にふさわしいとしか言いようがない。カズ・ヒロ氏は現代のディック・スミスだ。もちろん、シャーリーズ・セロン本人も、その発声法からしてほとんどメーガン・ケリー本人の完コピで素晴らしかった。実際のトランプとの映像を、映画ならではの詐術で半強制的にカットバックしてしまう暴力性も良かった。セクハラオヤジのキモ発言に対して、台詞では社交辞令で礼儀正しく対応するも、その実モノローグの声では「クソッ!キモすぎる!」とか言っている描写も面白かった。ケイト・マッキノンはどんな映画でも本当に最高のパフォーマンスを披露する女優で大好きだ。顔もいいし声もいい。『ゴーストバスターズ』でファンになって以来ずっと好きな女優のひとりだけれど、今後もかっけー彼女の活躍が見たい。飾るべき写真を飾れない状況について、耐えるか、逃げるか、それとも闘うか。状況は現在進行形なので、しばらく、まだしばらくこの問題に関しては考え続ける他ない。また、あまりにも地味な演出なのだけれど、終盤でセクハラ告発を決意したメーガン・ケリーに対して、名もなき女性社員が「一杯の水」を差し出すアクションがあり、これはバストサイズからアクション繋ぎしてわざわざ丁寧にロングショットで撮られているのも踏まえて、かなりグッときた。毒入りのコーヒーを飲んで嘔吐していたケリーに対して、辛過ぎて言えなかった過去の傷を癒すように、映画から彼女に授けられた「一杯の水」のように思えたからだ。「大丈夫、あなたも水を飲んでいいのよ」という救いと慈悲。その水を見つめるケリーが、意を決して過去を語ることのエモーショナル。こういう派手でもなんでもない、一見すると見落としがちなスマートな演出をこそ見習っていきたい。

f:id:IllmaticXanadu:20200528022209j:plain 『ジュディ 虹の彼方に』(2019年/ルパート・ゴールド)

U-NEXT先行配信にて。休業前の劇場で滑り込み鑑賞できたけれど、『オズの魔法使』を観たので改めて観た。レニー・ゼルウィガーのドヤ演技博覧会!これに尽きる。ジュディ・ガーランドというよりは、どちらかと言えば娘ライザ・ミネリに似てるじゃん?と思っていたレニー・ゼルウィガーが、ステージで歌唱する際にあのジュディのバッキバキの瞳を完全再現していて超絶すぎた。こりゃ確かに主演女優賞だわ。『シカゴ』でキャサリン・セタ・ジョーンズばかりが褒められたのがよっぽど悔しかったのか、とりあえず良かったねレニー。当たり前のように『オズの魔法使』ファナティックなので、冒頭で黄色いレンガのセットが出てきた時点で泣けた。もちろん、嫌われジュディの一生パートも楽しく観たけれど、どうしても過去ジュディパートをもっと観たかったなあという印象が残ってしまった。と言うか、ビハインド・オブ・『オズの魔法使』を、『ハリウッド・バビロン』的な舞台裏暴露映画を観てみたいと思った(ジュディだけじゃなくマンチキン関連のゴシップネタもめちゃくちゃあるので)。『キャリー』の「おいっちに!おいっちに!」なバカみたいな体操がフェティッシュな映画ファンなので、ちゃんと過去ジュディがダンス・レッスンで「おいっちに!おいっちに!」とバカみたいな振り付けをしていたのは加点対象ですね。ロンドン公演でジュディの世話役をしていたロザリン・ワイルダーさんを演じた女優(ジェシー・バックリー。脳内メモ済み)がめちゃくちゃ綺麗な人で、ちょろいので普通にファンになってしまったし、ロザリンさんがジュディにめちゃくちゃ困り果てつつ陰ながら支えるので、世話役・マネージャー奮闘映画としても素晴らしい。ダンブルドアことマイケル・ガンボンは全然仕事してねーなと感じた。個人的に大変印象に残ったのは、ジュディと子どもたちがクローゼットに入るシーン(ひとりで先に入ったレニー・ゼルウィガーの、暗闇で哀しみを噛みしめる表情も素晴らしい)と、ロンドンの赤い電話ボックスからジュディが娘へ電話を掛けるシーンが対比されているのがとても良かった。別れの象徴のように描かれる同じ箱が、希望と絶望のコントラストで結ばれる構成には涙が出た。その数日後にジュディが棺桶という「箱」に入ることを認知している観客からすると、より一層切ない。こうしてロケーションやアイテムで物事や感情を繋げていく行為がぼくは好きなので、地味ながら概ね楽しい映画だった。ただし、なにがなんでも、あのラストの幕切れは酷すぎる。豪速で欺瞞と偽善にギアチェンジされて、一気に興醒めした。あんなウソのハッピーエンド、ジュディのことを想えば想うほど失礼だよ。加えて、あのゲイマリッジの二人のキャラクターには文句は無いけれど、フィナーレの説得力を保持するだけの演技力を持ったキャスティングをしなくてはならないはずだろう。あの程度の芝居では、レニーのドヤ演技とは全く釣り合わず、映画は宙に浮いたまま何処にも着地せずに、なんとなく終わってしまう。ダメだそんなの。たとえば『ダークナイト』における例の客船爆破選択シークエンスも、乗客を演じた俳優の芝居に全く説得力が無さすぎて、ぼくは未だにピンときていない。脇役にこそ、主要登場人物と張れるだけの「上手い」俳優をキャスティングしてほしい。というのが、近年のハリウッド映画へ抱くぼくの小さなシュプレヒコールなのですが。

f:id:IllmaticXanadu:20200517125809j:imageオズの魔法使』(1939年/ヴィクター・フレミング)

 U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。何もかもが健全に狂っていて最高。セピアカラーからテクニカラーの景色がひろがる瞬間の絶対的多幸感ヤバすぎる。改めて観たら、やっぱりデヴィッド・リンチってこの映画からの影響力莫大なのだなと感じた。『ワイルド・アット・ハート』、と言うか『マルホランド・ドライブ』じゃん。トト名犬すぎる。マンチキンランド楽しすぎる。西の悪い魔女の手下の空飛ぶサルが一斉に飛行するシーンの悪夢感ヤバい。北の良い魔女ことグリンダ、いつ見てもアホで自分勝手で嫌なオンナで可愛いな。ライオンは『CATS』観た後だと、あのCGではなく自在に揺れ動く尻尾とかに感動して、なんだか胸いっぱいになる。「やっぱりおうちがいちばんだわ!」とか、田舎出身者としては、いやカンザスなんか嫌に決まってるだろ、ドロシーの悪夢は続くんだなあとひねくれ思考が働いてしまう。エメラルドシティのショットごとに体毛の色が変わる馬、地味にすごかったな。「どれだけ愛するかではなくて、どれだけ人から愛されるかが大事なのだ」ウーン、泣ける。

f:id:IllmaticXanadu:20200528021502p:plainバッファロー'66』(1998年/ヴィンセント・ギャロ)

U-NEXTにて。オシャレ版『タクシードライバー』。ダメ男と小太りのぽちゃ娘の拉致から始まる恋愛という設定からしてヘンテコなのだけれど、やっぱり面白い。ヴィンセント・ギャロのナルシズムが(良い意味で)キモくて可愛くて、アーティスティックな作風にてらいが無いのも、今になればとても好感が持てる。この作品自体がぼくにとって、なんとなく微妙な位置・距離にあった感覚というのは、たとえば「『バッファロー'66』が好きな自分=オシャレ」という、映画をファッションとして機能させたがるバカを生んだことが多分にあったと思われる(よしんば『アメリ』やウェス・アンダーソンやあらゆるミニシアター系の観客にもそういう層がいることは伺えるけれど、作品単体を純粋に愛している個人を否定しているつもりは微塵もない)。そういう勘違い錯覚幻想ファックオフ野郎とは映画の話なんか一瞬もしたくないのだけれど、とは言え、ひねくれたルサンチマンを忘却して久々に観た本作は、ちゃんと面白かったし好きな映画だった。カメラ位置とかコンテとか、シネフィルに怒られそうな小津オマージュがたくさんあるのも楽しかったし、プログレ音楽の選曲や鳴らし方・魅せ方もいちいち痒いところに手が届く気持ち良さがある。何よりも、既存のコードとは異なるコードで映画を作ってやる、というヴィンセント・ギャロのオリジナル(俺ジナル)なクリエイティビティは、今なお色褪せていない。配役がユニークで、チョイ役で出演しているミッキー・ロークロザンナ・アークエットが、チョイ役ゆえに印象深い(どっちも嫌な役)。ベン・ギャザラとアンジェリカ・ヒューストンが演じる夫婦がずっと頭おかしくて最高。居心地の悪い食卓シーン(特に家族との会食)がある映画は、たとえば『悪魔のいけにえ』とか『ヘレディタリー』然り、それだけで偉い。白眉なのはクリスティーナ・リッチ。あの『アダムス・ファミリー』のウェンズデーちゃん役で世界中のロリコンの症状を発症させた彼女が、ぽちゃぽちゃキュートにまたもや我々を誘惑する。クリスティーナ・リッチは本当に大好きな女優のひとりで、『キャスパー』や『スリーピー・ホロウ』を観てきた自分にとって、文字通り天使のような存在感がある。ボウリング場で彼女が突然、キング・クリムゾンの『Moon Child』に合わせてタップダンスを踊るシーンは、ベタ(とか言うヤツはブッ殺すぞ)なのだけれど大好きすぎる。このタップダンスのシーンは、物語には一ミリも関与しない。映画には「あってもなくてもいいシーン」というものがある。それは、物語の文脈とは切り離された、関係のない時間や空間が切り取られたシーンだ。そして逆説的に、それらのシーンは「あった方がいいシーン」として忘れ去ることができないものがほとんだったりする。映画とは、過去でも未来でも現在でもない、ただ「スクリーンにしか存在しない時間」というものを描くことができるのだ。

f:id:IllmaticXanadu:20200422033557j:plain『午後の網目』(1943年/マヤ・デレン)
DVDにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。なにもかもが悪夢的フェティッシュに満ちていて素晴らしい。デヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』は、実質この映画の3時間版リメイクです。 

f:id:IllmaticXanadu:20200528022221j:plainアイズ・ワイド・シャット』(1999年/スタンリー・キューブリック)

U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。どこまでも現実で、どこまでも夢。目を開いて見る悪夢と、目を閉じている夫婦のアクチュアリティ。裸やセックスというよりは、ニコール・キッドマンがトイレで排泄しているシーンが冒頭にある通り、これは「排泄すること/排泄できないことの悦びとおぞましさ」についての映画だといえる。加えて、抑圧と解放の映画。人間はあらゆる意味で「排泄」をする生き物だ。キューブリックの映画には必ずと言っていいほどトイレ(バスルーム)が登場するけれど、そこには人間の原初的な本質があることを彼は知っている。キューブリックが作品を通して生涯遂行していたことは、人間の本質を暴いてやりたいという衝動に他ならない。友人や奥さんまでもが性的欲求に満ちていて、自分の周囲がセックスに溢れていることを知ったトム・クルーズは、両手をバシン!と叩いて「ちくしょう!俺だってセックスしてやる!」と夜の街を彷徨い歩く。性のオデッセイ。セックス版『2001年宇宙の旅』。フロイト的な夢の論理で紡がれる挿話の数々は、やがて朝を迎えると同時に消えてゆく。まるで、昨日見た夢の内容を忘れてしまうかのように。夫婦のベッドルームには、夜の会話と朝焼けの会話があることをキューブリックもまた知っている。しかし、どんな問題に直面しようとも、夫婦がするべきことはただ一つ。「ファック」。とりあえず喧嘩したらセックスしておけ、という親戚のエロオヤジのような結論になるのがすごいし、それが遺作なのがすごいし、と言うか遺作が乱行パーティのハナシってマジで最高すぎるのだが。ぼくは、もし自分が死ぬ直前に観る映画を一本選ぶとすれば、この『アイズ・ワイド・シャット』だと妄想している。ニコール・キッドマンに「ファック」と言われて生き絶えるなんて、それこそ、人生の本質を表しているようで、とても素敵じゃありませんか。

f:id:IllmaticXanadu:20200529024417j:plainファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#5(緊急事態の解除は自粛期間の終焉ではない、ので、まだまだ自宅で映画を観まくるぞ!とか甘えた幻想を言ってられないくらいには映画館で新作が観たいです。大嫌いなNO MORE映画泥棒のCMを観て、妙な安心感とノスタルジーを感じてしまうのだろうか……だとしたら、それは嫌だな……)

f:id:IllmaticXanadu:20200528051055j:plainSUNNY 強い気持ち・強い愛』(2018/大根仁)

アマプラにて。個人的には『サニー 永遠の仲間たち』がオールタイムフェイヴァリットに大好きな人間なので、この日本版リメイクには拭い切れない違和感がどうしてもあった。とは言え、興味深く観た点も確かにあったし、結構引き裂かれて曖昧な印象にはなってしまっている……。何よりも、劇中で鳴らされる90年代J-POPは、驚嘆するレヴェルで果てしなく映像と合致していない。90年代リアルタイムを知る/知らないの前提は関係なく、あまりにも不細工な選曲、映像素材とのミスマッチ、フェードアウトは聞くに耐えない。たとえば、あの名曲『Reality』が流れる『ラ・ブーム』パロディ名シーンの再構築で、CHARAの『やさしい気持ち』が流れたときは顔から火が出るほど恥ずかしかった(言うまでもなくCHARAは好きです、そのテキトーな使われ方に赤面した)。その後、過去と現在が交錯する映画的マジックとしか言い様のない『サニー』屈指の失恋シーンにおいても、『Reality』ではなく『やさしい気持ち』が、でもなく、アムロちゃんの『SWEET 19 BLUES』が流れる。ごちゃごちゃしている。よしんば、ぼくがオリジナル版主義者だということを隅に置いたとしても、その篠原涼子広瀬すずを捉えたショットのサイズや編集が、なぜそんなアンチ・エモーショナルでテキトーな繋ぎ方ができるのだろうかと疑問に感じるほどに、平坦で凡庸。そして「恥ずかしい」。というか、そもそもオザケンが、やっぱり「恥ずかしい」のだ……。また、中盤で広瀬すずがいじめっ子にお好み焼きを投げつけるシーンがあり、ここはスローモーションとおどけたポージングでスラップスティックに済ませようとするのだけれど、なぜかこのような「歌が流れ出してほしい瞬間」には、本作は小室哲哉による腑抜けた劇伴しか流さない。大根監督は音楽的な編集とサブカルへの博識が感じられる人だった。過去パート導入と同時にコギャルたちによるダンス(ミュージカル)シーンが始まり、その辺は『モテキ』ライクな画に成っていくのだけれど、さりとて、本当に『モテキ』を撮った監督なのだろうか。と、疑うほどの音楽的な配置ミスの数々。この本編映像との不一致な違和感は、音楽的なマッチングやコントロールに長けていた大根監督の仕事とはにわかにも信じ難い「ダサさ」だ。そういった音楽/音楽的な多幸感を排した大根作品には、ちょっと自分は惹かれない。大根さん、本当は『サニー』も90年代J-POPもギャルも好きじゃないのでは……今回は職人監督に徹したと信じますが……。ノスタルジーに目配せしているようでいて、その実ディテールは即物的でしかなく、タイムカプセルのように時間は閉じ込められておらず、なんら実在感はない(マクドナルドの昔のデザインのカップとか確かに懐かしいのだけれど、それには"それ"以外の意味は何も無い)。カルチャーへ言及する台詞も、妙なリアリティラインで喋らせていて、これは口語ではなく文語に近いなと感じた。たとえば「福山雅治オールナイトニッポン」とか「伊藤家の食卓」とか「小沢健二」というワードが台詞として発声されるけれど、劇中の登場人物の「リアルな」口調ならば「福山の〜」「伊藤家」「オザケン」と発せられるのが本来のリアリティラインだと思う。正式名称という呪い。と、なんだか文句が多くなってしまったけれど、まあ、ギャルがいっぱい出ているんだしええじゃないかと、心を無理やり和らげるムーヴを起こしたりもした(実際、ぼくは90年代生まれなので、コギャル文化へのノスタルジーは無く、どちらかといえばプレモダンとしてのフェティッシュな憧れの方が強い。あとギャルは自由でいい。きゃぴきゃぴしているのもとてもいい)。とりわけ、女優陣は皆とても良かった。映画が開始しても中々加速しないなあと腕組みしていると、ミューズ・山本舞香さんが登場した瞬間から、画面が色合いを増して一気に魅力的になる。この山本舞香さんは、文字通りに好演している。山本舞香さんが兼ね備えている「ヤンキー感」は異様な美しさだ。ヤンキーが好きなのではなくて、ヤンキーが似合ってしまう女優は勝手に加点対象となってしまう(まあ、劇中ではあくまでもコギャルなんだけれど)。実際に身体アクションが特技である彼女は、やはり肉体の動きが大変美しく、どんな時も揺れ動くことなく安定しているので、静止している時でさえ凛としている。山本舞香さんに蹴られたい。終始アンニュイな表情と流し目で我々を殺しにかかる池田エライザさんにも感謝を表する。広瀬すずに関しては、演技巧者というより、ちゃんと監督の演技指導を聞いて芝居に落とし込んだ方がいいのではないかしらと思うくらいには暴走していて、これはあまり好印象には感じられなかった。あるいは、監督が彼女に的確な"演技指導"をしていないのかもしれない。渡辺直美のコメディエンヌとしての器用さは言うまでもないけれど、小池栄子が本当に素晴らしい。映画に祝福されている女優。もっと彼女をスクリーンで観たいと切に願い続けている。そして無いものねだりだけれども、降板してしまった真木よう子山本舞香さんを、マジで顔がキツネ顔でヤンキー感があるからという理由で繋げようとした大根監督を、やっぱり信頼してしまう。山本舞香さんの顔が20年経つと真木よう子の顔になる映画の魔術を、是非ともこの目で見たかった。オバサン4人で制服コスプレして宮崎吐夢をボコボコにリンチするシーンは、オリジナル同様楽しかったけれど、鉄パイプで人の顔殴っちゃっていいんですかね?!めっちゃ血出てましたけど……。

f:id:IllmaticXanadu:20200528082832p:plainイレイザーヘッド』(1977年/デヴィッド・リンチ)

DVDにて。何度観ても最高のオールタイムフェイヴァリット。元祖ミッドナイトムービーであり元祖カルト映画であり元祖自主映画。俺はまだまだアートをやりたいのにカミさんが妊娠してしまったー!父親になりたくなーい!赤ちゃん怖ーい!んぎゃー!という制作当時のリンチが見た悪夢が原作であり、男性版マタニティ・ブルーみたいな、逆『反撥』、逆『ローズマリーの赤ちゃん』。そんな超個人映画を完全にセルフコントロールして作り上げた本作は、処女作にしてリンチの代名詞的な役割を未だに備えている(その後、娘リンチのジェニファーちゃんはパパと同じく映画監督になりました。娘からしたらどんな気持ちだこの映画)。改めて観たら美術すごすぎるな。ほとんど全部リンチが自分で作ったらしいけれど、もうモノとかセット自体がキャラクターの一部というか、言語の一種みたいな。というか、ちゃんと自分で作って偉い。スパイクこと赤ちゃんは造型の不気味さに着目しがちだけれど、あのピーピーという金切り声に神経を逆撫でするおぞましさがあった。終盤でヒャッハッハと笑うのも嫌だったな。そういう点で考えると、終始工場や胎内音のようなノイズが鳴り続けている本作は、リンチ自身によるサウンドデザインの見事さもまた素晴らしい。電気や照明のスパークは、その後の『ツイン・ピークス』などリンチ映画のキービジュアルになるので、処女作から一貫してやること変わらないなこのオッサン!と思った。ラジエーターレディがへその緒みたいな、胎児みたいなよくわからんミミズをぷぎゅ!と足で踏み潰した後に「てへへ」と笑うのが可愛い。メアリーX家での夕食で、チキンが股から血噴き出しながら絶叫しているとオカンも一緒に絶叫するの可愛い。メアリーXが寝ながら眼球をぐりんぐりんこするの生理的嫌悪感ありまくりで良い。メアリーXが実家帰る!とヒステリー起こしてベッド下からキャリーバッグ抜き取ろうとするけど中々抜けないの良い。スパイクの眼球がギョロっと動く超クローズアップ超こわい。エレベーターのドア全然閉まってくれないの最高。エロいおねえさんとセックスしている時に、エロいおねえさんがキスしながらスパイクを見てドン引きするの良い。ドン引きした後、そのままベッドの中に文字通りに二人が沈んでいって、エロいおねえさんの髪の毛がちょっと浮いて残っているのも良い。ヘンリーの首が抜け落ちてスパイクの頭がおぎゃあと出てくるの笑う。でかいスパイクの顔が三頭くらいフラッシュしながら部屋で動いてるの、あれ欲しい。そして何度観ても、消しカスを手ではらい落とした後に、宙を舞う消しカスをバックにヘンリーがガビーンって顔してるの、もう何度観ても、何度観ても面白い。

f:id:IllmaticXanadu:20200520055453p:image『カフェ・ソサエティ』(2016年/ウディ・アレン)

アマプラにて。簡潔に言えば、ウディ・アレン版『ラ・ラ・ランド』。より厳密に言えば、『ラ・ラ・ランド』のラスト10分間についての映画とも言える。30代の若手監督と80代の高齢監督が、ほぼ同様の題材を同じ時代に作っているのは大変興味深い。そしてそれは、ウディ・アレン前作のヒロインがエマ・ストーンであったことを考えると、つくづく映画というのは繋げて観るのが面白いなあと感じる次第。兎にも角にも、名匠ヴィットリオ・ストラーロの撮影!これに尽きる。やはりストラーロは今尚健在していたという喜び。しかもデジタルにして鮮やかな画面設計、キャメラの動きは凄まじく、満席の場内でジサマとバサマたちに挟まれながら「ぎゃあ!」とか「うわぁ!」と叫びそうになったのを憶えている。もっと早くウディ・アレンと組むべきだったのではと感じた。ロサンゼルスなのにニューヨークに見えるし、何ならイタリア映画のようにも見えてしまうから、勘弁してくれよおじいちゃんたち。ジェシー・アイゼンバーグは超良い。元々早口なのがウディ・アレンそっくりだし、『ミッドナイト・イン・パリ』のオーウェン・ウィルソンと言い、ウディ・アレンの物真似をさせている俳優をウディ・アレンが撮る、という構造がある彼の作品は大変楽しい。モストオブ目つき悪いティーン女優のクリステン・スチュワート様は、浮世離れした美しさが映画本編からも浮いている節は否めないものの、またそこが非常に良い。何よりも美しく、ウディおじいちゃん相変わらず若い娘がお好きなのがよく分かる。ブレイク・ライブリーは勿体なかったな。シャネルが衣装を監修しているので人物が身に着けている服が素敵なのだけれど、少し時代考証としてそれはどうなのかしら?な箇所もあった。もっとも、クリステン様は短パン衣装なのだけれど、40年代のハリウッドでは、それはスポーツ用の衣装だったりするのだ。あとは否応なく、いよいよウディ・アレンが自身の過去を整理し始めた気配を感じた。その辺が、野心に燃えるデイミアン・チャゼルくんとは別の結論。言い換えればネチネチしていない。チャゼっちゃんが「忘れられないんだよおお(;_;)」なのに対して「ま、忘れとこか(^.^)」って感じ。本作に関するチャゼっちゃんの感想をお聞きしたいものです。

f:id:IllmaticXanadu:20200528055753j:plainオースティン・パワーズ:デラックス』(1999年/ジェイ・ローチ)

U-NEXTにて。人間は平等にクソで、平等になんの意味もない。そして、そんな人間の100年も無い人生なんてクソまみれだ。苦しみや絶望が止まない雨のように降り続け、欺瞞と嘘で溢れ返った最低の世界で、ぼくらは今日も「クソッタレが」とつぶやきながら、腹にクソを溜め込んで生き続ける。クソッタレが。しかし、どんなに辛いときにも、芸術や表現はすぐ隣でぼくらに微笑みかけてくれる。待ってくれている。歓迎してくれている。そして、このクソみたいなすべてを、一瞬だけでも忘れさせてくれる凄まじいパワーを宿している。パワー。オースティン・パワーズ。ぼくは辛いとき、絶望の淵に追いやられたとき、なにもかもブチ壊してやりたいと拳を握るとき、もういっそ死んでしまいたいと嘆き悲しんでいるときに、いつも必ず本作のオープニング・クレジットを観るようにしている。これは映画を利用したライフハックだ。『オースティン・パワーズ:デラックス』のオープニング・クレジットは、あまりにもバカで、あまりにもアホで、あまりにも美しい。前作であんなに意気投合して結婚までしたヴァネッサが、本作の冒頭で実はオッパイマシンガンロボットのフェムボットだったと発覚し自爆する。最愛の妻を目の前で喪ったオースティンは、しかし涙ひとつ見せずに「ちゅーことは、独身に戻れたってことじゃ〜ん!いえ〜い!」と裸一貫で文字通りに狂喜乱舞する。映画をクリエイトしたスタッフやキャストの名前は、次々とオースティンの股間を隠すためだけに表示される。最終的にはシンクロナイズドスイミングを披露しながら、アホみたいにギンギラブルーのタキシードを着たオースティンが登場してフィナーレを迎えるのだ。そう、これも人間の正体であり、人間の生き様だ。人間は、どんな絶望に直面しようとも、それを乗り越えられるだけのバカな頭もちゃんと持っている。悲しみ以上のユーモア。大の大人が、ここまで真剣にバカをやってくれている。クソみたいな人生をペシミスティックに嘆き悲しむよりも、全裸で一瞬一瞬を笑い飛ばすような人間に、ぼくはなりたい。自滅なんかしてたまるか。そして、バカでアホでどーしようもない映画には、それだけでちゃんと価値があるということは強く述べておきたい。

f:id:IllmaticXanadu:20200520101636j:image『その男ヴァン・ダム』(2008年/マブルク・エル・メクリ)

アマプラにて。確か公開当時、シネコンが一軒しかない田舎(実家)に住んでいたぼくは、ヴァン・ダムのメタ映画!俺の住む街ではやらない!でも観るっきゃない!と、この映画を観るためだけにユナイテッド・シネマ豊洲まで片道2時間掛けて上京したのだった。豊洲のロビーには007の『慰めの報酬』のバカでかいポスターが吊るされていて、やっぱり東京はスゲーやと胸躍らせながら客席へと向かった。豊洲の映画館はガラガラで、というか自分と脂汗かいたオッサンの二人しかいなかったと記憶しているけれど、終了後にそのオッサンと「ヴァン・ダム最高!」と固く握手したくなるくらいには感動した(脂汗かいていたので握手しなかった)。そういったノスタルジーと共に、本作はぼくの人生に刻み込まれている。あまりにも個人的な感情だけれど、この世の映画なんて、結局は自分にとってどれだけ意味があるか、そんなもんだ。映画を観るという行為は孤独なのだから。だから、孤独な意味を一つでも見つけていきたい。久々に本作を見返してみた際、脳内にひろがる景色は、映画の即物的な映像ではなくて、当時の映画館の暗闇の懐かしさだ。映画館へ行くということは、鑑賞ではなく体験だ。小さな旅のような楽しさがある。鑑賞した映像は徐々に忘れてしまっても、体験したことは生涯心に残る。それが、ぼくが映画館で映画を観る理由だ。帰り道に食べた東京チカラめしの味、マジで未だに憶えているのです。アー、早く映画館へ行きたいなー。ところで作品の内容は、端的に言えば『狼たちの午後』をヴァン・ダム本人役でリメイク、プラス自虐ネタ満載、みたいなものでそれなりに楽しい。ラストもハートフルというか、人間を信じている着地でほっこりする。白眉であるヴァン・ダムのマジ独白シーン(映画のセットから文字通りクレーンが上昇していき、映画の外側でヴァン・ダムがメソメソしながら長回しワンカットで延々とボヤく)で涙を流せない男は、『キックボクサー』100回観て出直して来い!

f:id:IllmaticXanadu:20200528073816p:plainゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-』(2010年/三池崇史)

U-NEXTにて。なんとなくYouTubeレディー・ガガのMVを観ていたら、なんとなく本作の仲里依紗を観たくなって、なんとなく観た。ゼブラクイーンを演じる仲里依紗がとにかく素晴らしい。終始目つきが悪いし、ギャーハッハッハ!とちゃんと空を見上げて高笑いしたり、昭和のアタマの悪い悪役感がとても可愛い。ほとんどレディー・ガガルックな歌唱シーンは、彼女のエキゾチックな顔つきと真っ黒なゴス衣裳も相まってぼくは好きです(そういえば仲里依紗アルターエゴとして、当時のミュージックステーションにもゼブラクイーンのまま出演していたなあ)。あとはあまりにもどうでも良い内容で、というかほとんど何も憶えていない。三池とクドカンって絶対相性悪いと思うのだけれど、俺だけ……? レスリー・キー仲里依紗を撮影しているオフショットをそのまま本編にもメタ流用している辺り、三池の健全な暴力性を感じた。ミニスカ・ゼブラポリスの皆さんもとてもいい仕事をしていた。スザンヌがバカな歌手役でほんの少しだけ出ていて、仲里依紗にモップでブチ殺されてすぐ退場するあまりにもバカな役柄でちょっと面白かった。

f:id:IllmaticXanadu:20200520044750j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#4(「人生は祭りだ、共に生きよう」と投げかけるほどの人生が、こうしてしばらく喪われつつある燃えるゴミのような世界で、燃えるゴミのような我々は、燃えるゴミのような映画を観ること、そして書くことによって、記録を記憶へと変換させ得て、つまり芸術に救われながら豊かさを噛み締めた、そのとき、わたし自身も、燃えるゴミから誰かが忘れ去った燃えない宝物へと変貌できる、そしてあなたに投げかけられる「人生は祭りだ、共に生きよう」)

f:id:IllmaticXanadu:20200517140005j:image8 1/2』(1963年/フェデリコ・フェリーニ)

U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。こうして改めて見返してみると、現在自分が好きな映画や監督たちとの親和性が極めて高く、あらゆる芸術の祖たる存在であることを意識する。たとえば、『オール・ザット・ジャズ』、『スターダスト・メモリー』、『仮面/ペルソナ』、『TAKESHIS'』、『未来世紀ブラジル』、『鏡』、『風立ちぬ』、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』、『脳内ニューヨーク』、『バードマン』、『マルホランド・ドライブ』、『アメリカの夜』、『気狂いピエロ』……すべて、本作が存在し得なければ産声をあげることがなかったのかもしれないと思うと寒気がする。映画史は星座を繋げるようにして影響し合い、決して単体では成立していない。そのマッピングパラダイムシフトを起こす作品というのは必ずあって、『8 1/2』とはまさに、新たな地図を拡張させるための大事件だったと感じる。逆に言えば、所謂「よくわからない」とされている映画群は、本作さえ履修しておけば嚙んで含めるが如くスルスルと理解でき、同時に楽しめるはずだ(よしんば、岩切一空監督の『花に嵐』や『聖なるもの』が「よくわからなかった」観客は、まずは本作を観てみましょう)。構成は勿論のこと、構図や照明など、どの場面の映像も美しすぎて至福。おしゃれでかっこよくてエロくてバカみたいでおそろしい。映画って自由で最高だ。世界一眼鏡が似合う女優、アヌーク・エーメ。我が愛しのクラウディア・カルディナーレは、実はちょびっとしか出演していないにも関わらず、グイドも映画も、すべてを救済する。まさにミューズ、愛しのCC。それにしても、マルチェロ・マストロヤンニって本当に嫌味のない、めちゃくちゃいい俳優だよなあ。

f:id:IllmaticXanadu:20200517140140j:imageムーラン・ルージュ』(2001年/バズ・ラーマン)

U-NEXTにて。チャカチャカ高速カッティングが賛否両論のバズ・ラーマンだけれど、ぼくは「アゲ感」を重視した映画はすべからく好きなので、いえーい!どどーん!じゃーん!やっぴー!という擬音がちゃんと似合う本作も大いにフェイヴァリット。ガキの頃にミュージカル好きの母親と映画館で観て、その時は「公爵がかわいいなあ」くらいの印象で、いや当然「ニコール・キッドマン爆可愛いなあ」とも思いつつ(序盤で何度も「アウッ!アウッ!」と声出すところ最高)、既存の使用楽曲は全然知らなかったのだけれど、今になって聴けば知らない楽曲は一曲もないという、洋楽ファンはガチ泣き爆アゲのサウンドトラックで十二分に最高。久々に観たらユアン・マクレガー歌唱のエルトン・ジョン"YOUR SONG"がエモすぎて泣いてしまった。他にも、ポリス"Roxanne"のタンゴに合わせた激しいカットバックだったり、公爵とジドラーのコントみたいなマドンナ"Like A Virgin"が可愛かったり、もうここしかないいい!というタイミングでクイーン"The Show Must Go On"を高らかに歌い上げる終盤だったり、ミュージカル映画として満遍なく楽しかった。幼い頃からキャバレーやバーレスクへのフェティシュとリスペクトと憧れがある人間なので(もし自分が億万長者だったら、映画なんか作らずにキャバレーのオーナーになって死ぬまで楽しく経営する)、そういう意味でも「普通に行きてぇー、最高ー」という多幸感すらある。映像もほとんどサイケデリックなほどに色鮮やかで、衣裳や美術も抜群にゴージャス、映画が喜んでおるなーという高揚感でみなぎっている。まさに豪華絢爛。そう、ミュージカル映画なんて、豪華絢爛な世界で多幸感に身を委ねて歌って踊ってさえしてくれれば、もうそれでいい。たとえば、ここで比べてしまうのは野暮かもしれないけれど、同じミュージカル映画として『ラ・ラ・ランド』が備えていなかったと思うのは、こういった「過剰な」ゴージャスさ、豪華絢爛さだ。『ラ・ラ・ランド』がどんなにテクニカラーオマージュでカラフルを装っても、ぼくにとってはまだまだ足りない。画面いっぱいを埋め尽くすゴージャス感が、あの作品のパラノイア的な暗い構図の中からは溢れ出ていない。ワンカット長回し重視のカメラワークよりも、瞬きする間に過ぎ去ってしまう、記憶すらできない刹那的なHIGHを愛してしまう。浴びさせてほしいのだ。過剰さを。バカみたいに大金を注ぎ込んだゴージャスなミュージカル映画に、バカみたいにいえーい!と興奮し続けたい。ところで『ムーラン・ルージュ』劇中でカイリー・ミノーグ演じる緑の妖精さんトリップシーンは超超超最高である、ということは今後も強く述べていきたい。

f:id:IllmaticXanadu:20200520043339j:image『NINE』(2009年/ロブ・マーシャル)

U-NEXTにて。我が愛しの『8 1/2』(のブロードウェイ舞台版)のミュージカルリメイクであり、アメリカ人シェフが作ったトラットリア。つまりは、紛うことなき粗悪品でしかないのだけれど、本場トラットリアよりも時たまジャンクフードが食べたくなる愚かなぼくにとって、これはこれで残さず食べる。とは言え、ジャンクフードというよりはイタリアン・ランチ味のキャンディーみたいな劣等ぶりで、ハッキリ言って不味いのだけれど、なんかね、珍品で好きなのね、この映画。すごい珍品だと思う。すなわち、めちゃくちゃチャーミングな魅力がしっかりとある。チャーミングな粗悪品。ということで、ぼくは劇場でオバサマたちに囲まれながら鑑賞して、その後も結構な回数見直しているくらいにはこの映画が可愛くて好きだ。確かサントラも買っていたはず。だからフェリーニファナティックなシネフィルたちが「こんなのただのMVじゃん、しかもミュージカルシーンと非ミュージカルシーンをなんの美学もなしにカットバックしやがって、リズム感ねえのかよ、フェリーニに土下座したって許されないからな」と罵詈雑言に貶すほどに、この映画には移入も嫌悪もしていない。監督のロブ・マーシャルは大嫌いだったけれど、たぶん不器用なだけだからそんなに嫌わなくてもいいかな……と、最近は温厚なスタンスで迎えている。でも、ロブ・マーシャルがマジで監督として凡庸で、加えて演出力が乏しいことは、本作に招集された女優たちの芝居を見れば一目瞭然だ。本家『8 1/2』であんなにも魅力的だったキャラクターたちは、書き割りのような棒立ちでロボットのように台詞を吐き、何一つとして予定調和からはみ出さない。映画オリジナルキャラのケイト・ハドソンなんて、彼女が鏡に映るラストカット、なんであんな不細工に撮ってしまうんだろう、酷すぎる。ゴールディ・ホーンの娘だぞおいバカ。極め付けは『8 1/2』で僅か数分しか出ていないにも関わらずグイドを救済する女神、クラウディア・カルディナーレを、ロブ・マーシャルニコール・キッドマンに全然「着衣」させない。さりとて、女優たちに罪は全くない。人物を描き込もうとしなかった、描き切らなかった監督と、粗末な脚本を断罪する。このオールスターキャスト7人の女優たちで、よしんば監督がペドロ・アルモドバルだったら、どれだけ傑作になっていただろうかと映画ファンなので夢想する(ペネロッペーをメインにするだろうな)。で、こんなに文句を垂れつつ、でも好きなんです。というか、ぼくはフランソワ・オゾンの『8人の女たち』とかが好きな人間なので、女優さんが吹き替えなしで歌って踊ってくれていれば、結局楽しくなってしまう馬鹿野郎だ。楽曲はとてもいい。ペネロッペーはそんなポーズまでしてくれるんですかというハレンチなダンスで、本人も楽しそうだったし可愛かった。唯一の現役歌手・ファーギーは見事なサラギーナっぷり(太っちょぶり)と歌唱力を発揮していて、彼女の歌う"Be Italian"は、砂を使ったエキゾチックな振り付けも相まって圧巻だった。キャラとしては残念だったケイト・ハドソンも、彼女がノリノリで歌う"Cinema Italiano"は超楽しい(だけど予告編で使われていたバージョンと本編で流れているバージョンはテイクが異なっている……予告編のテイクの方がいいのに……ロブ・マーシャルよ……)。特に今回久しぶりに観て、グイドの妻・ルイザを演じるマリオン・コティヤールが歌う二曲"My Husband Makes Movies"と"Take It All"が個人的には好きだった。前者は、ほとんど舞台照明のようなライティングの中で、夢と狂気の世界を生きる映画監督の妻としての心の叫びがエモーショナルに歌い上げられる。後者は打って変わって、スケベな旦那に堪忍袋の尾が切れた奥さんがブチ切れて、鬼の形相でストリップをするという恐ろしくて美しい曲。『ムーラン・ルージュ』の感想でも記した通り、ぼくはキャバレーやバーレスク的なものへの憧れがあるので、当然、映画にストリップシーンが出てきたら加点なわけです。って何言ってんだ自分……。そういえば、俳優業は引退すると宣言していたくせに、美女と共演できる本作にはちゃっかりと出演したダニエル・デイ=ルイスは、そういうスケベさと色気とチャーミングさが、グイドにぴったりだったとは思う。

f:id:IllmaticXanadu:20200518162420p:plain『その夜の妻』(1930年/小津安二郎)

U-NEXTにて。NOTローアングル・NOTタタミで挑む小津流サイレント・フィルム・ノワール。とは言え、足元を映したローアングルはあるっちゃあるのだけれど、もうこれはほとんどハリウッドのサイレント映画そのものに近い。洗練された横移動ショットの美しさや、手前の対象物による豊かな奥行き表現、きっちりノワールやりまっせと明暗鮮やかな照明、そして、執拗なまでに完璧な動きと構図で捉えられたクローズアップ……す、すごすぎる。当たり前に小津はすごすぎるし、超絶モダンでかっけー。帽子を被る、というアクションによって事態が展開したり、拳銃所有の瞬間をぐいーんとトラックバックすることで形勢逆転を表したり(何度かある決定的瞬間におけるT.B演出がめちゃエモい)、配置された小道具それぞれが物語を動かしていく躍動感もすごい。たとえば、帰り際の医者が鞄を無造作に置くブレッソン的な手のヨリ、からの字幕、からの二回振り返る医者のアクション、からのドアを開けて見送る妻のお辞儀でアクション繋ぎ、からの後々反復されるドアフレームに納まった妻の正面ショットと階段を下りる医者の切り返し、からのドアを閉める妻の動作でアクション繋ぎ、からのポットで珈琲を注ぐヨリ、からの砂糖瓶の中のスプーンがキラーンと光る!なんていう運動の連鎖が、全く飽きさせることなく観客を物語に移入させてしまう。敢えてのノワールオマージュとは言え、この現代的なリズム感覚、TikTokとかやってるティーンの方にも体感してもらいたいなあ(TikTokってまだ流行っているんですか)。ぼくが今更ここで何かを書くまでもなく、小津が撮るブツ撮りや実景はすごすぎる。ショットそのものの構図の美しさや長さの的確さ以前に、どの箇所に配置するのか、挿入するのか、そういうタイミングがドンピシャすぎてもんどりうつ。ソン・ガンホに見える瞬間があるハンサム・岡田時彦(我が愛しの岡田茉莉子嬢のパパ)、顔はほとんどジョシュ・ブローリンで緊張感と共に最終的には哀愁で泣かせる刑事役・山本冬鄕、そして凛とした八雲恵美子の美しき勇姿、二丁拳銃と着物!小津はかっこいい!

f:id:IllmaticXanadu:20200519185250j:plainヒッチコックトリュフォー』(2015年/ケント・ジョーンズ)

U-NEXTにて。めちゃくちゃ勇気をいただきました、ありがとうございます。本編でオリヴィエ・アサイヤスが語っている通り、『映画術』とはトリュフォーが作った「映画」の一本である。インタビューを試みるド緊張のトリュフォーの気合の入れっぷりは、周到で入念な準備に到るまで、まるで新作映画を撮る映画監督の姿そのものだ。だから名著や必読本というよりも、『映画術』自体がトリュフォー監督による必見の名画のひとつなのだと言ってしまおう。世代も作風も異なる両者が、互いを尊重しながら行われる世紀のインタビューは、やはり音声と写真が加わることによって、活字以上にスリリングで感動的だ。ゆったりとユーモアを交えて鋭い意見を飛ばすヒッチコックは、ほとんどゴッドファーザーのような風格。そんな父の目を真っ直ぐに見つめて、てらいなく質問を投げかけるトリュフォーの純真さ。膨大な量のヒッチコック・フィルモグラフィが引用されて、その映像のどれもが当たり前のように素晴らしく、ヒッチコック作品なんて一本も見たことがないようなビギナーにとっても、入門編のような楽しさがあると思う。「サイレント映画こそ映画の言語だ。映画に音は必要なかった」と語るヒッチコックに、トリュフォーくんがウンウンと頷く。「ぼくが撮った『大人は判ってくれない』にも、ちゃんとサスペンスを生む視線の交錯があってですね……」「どんなシーンだい?詳しく」「かくかくしかじか……」「ほーう、台詞が無かったほうが良かったな」「てへへ!」なんだこの可愛いやり取り!いやしかし、ヒッチコックの言葉はどれも背中を押してくれるな。ということで、本作には背中を押されたヒッチコック大好き監督たちが10人出てきて、それぞれが熱くヒッチコックのすごさを語り尽くす構成となっている。このように、当時の関係者ではなく現役の映画監督へのインタビューが挿入されているのが興味深い。なぜなら、皆ヒッチコックのことを語っていながらも、実のところ自らの作家性を語り直している、という構成になっているから。『めまい』オマージュの『ゴーン・ガール』を撮ったフィンチャーが「『めまい』って変態映画だよな。美しい変態だけど」と話しているのも面白い。ピーター・ボグダノヴィッチ、一瞬ウィリアム・フリードキン?と思った。キヨシ、ニヤニヤしすぎ。後半でやっぱり『めまい』と『サイコ』の論考に行き着き、結論どっちも超スゲー映画と皆が煽りまくるのも楽しい。ぼくは『めまい』がオールタイムベストの変態なのだけれど、概ねこのドキュメンタリーで指摘されている事柄には納得できた。『めまい』には急速に突き進むストーリーテリングの巧みさは無くても、夢の中をさまよい続けているかのような、おぞましさと美しさが真空パックされている。『めまい』は失敗作なんかじゃない。結局、映画は「観客」にどう楽しんでもらえて、どう受け止めてもらえて、どう語られていくかが最も大事なのかもしれない。ヒッチコックを語る本作を観て、誰よりも大衆や観客を意識し続けた「作家」たるヒッチコックの高邁さを改めて感じた。

f:id:IllmaticXanadu:20200519201852j:plain『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールトリュフォー』(2010年/エマニュエル・ローラン)

U-NEXTにて。めちゃくちゃ勇気をいただきました、ありがとうございます。シネフィルぶってカッコつけたいわけではなくて、やっぱりぼくはゴダールトリュフォーも、二人のことがあまりにも大好きだ。この二人はとにかく、伝統とか権威とか、あらゆるものとの「闘争」をやめなかったし、あらゆるものから「逃走」することもやめなかった。闘いながら自由に呼吸すること、それがヌーヴェルヴァーグであり、ゴダールトリュフォーだ。本作はゴダールトリュフォーの邂逅から、やがての決別までを膨大な映像や音声と共に振り返っていく。若い頃のゴダールがまんま菊地成孔みたいで、というか菊地成孔ゴダール学部卒なファナティックなわけだけれど、人間、好きな人に自然と似てくるものだな。先にトリュフォーがカンヌに行っちゃって、ゴダールがシネフィル仲間に「俺は文無しだしめちゃくちゃ焦ってるし、ってか俺だって映画撮りたいし、しかもトリュフォーの野郎俺のこと無視しやがったんだよ、ふざけんな」とボヤいていたというエピソードが愛おしい。その後、トリュフォーとシャブロルが、若い監督を探していたプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールに「ゴダールってすげえ奴がいます」と推薦文書いてあげたの、いい話。フリッツ・ラングにインタビューするゴダールが「もう高齢ですよね」と訊ねると「恐竜並みだよね」と笑うラングが可愛い。続けてラングが「映画は若者のためにある」とつぶやくと「僕もそう思います!映画は若者のためにあるんです!」と嬉しそうなゴダールも可愛い。トリュフォーが死んだ時、ゴダールにアンヌ・マリー・ミエヴィルが言った「トリュフォー亡き今、あなたを守る人はいない。ヌーヴェルヴァーグの中で彼だけが、既存の映画界に受け入れられ、あなたの守護神になり得た」という言葉で映画が始まるのが切ない。政治的な思想へ突き進んだゴダールと、己の映画愛へ献身的な姿勢を崩さなかったトリュフォー五月革命を機に、異なる道を進む親友同士。『アメリカの夜』を批判するゴダールからトリュフォーへ届いた手紙には「こんな映画を作った君はウソつき野郎だ。これは悪口ではない。これは批評だ」と書かれている。それは、不器用で頭でっかちなゴダールの、彼なりの最後の叫びだったのかもしれない。トリュフォーはこの手紙におよそ20ページにも及ぶ反論を書いて、結局二人は再会することがなかった。共に協力し合って映画を作り続けた二人の、友情の終わり。共闘から別離へ。映画によって繋がった友情が、映画によって引き裂かれていく。ヌーヴェルヴァーグの息子として、二人の父親の間で揺れ動くジャン=ピエール・レオの視点が挿入されるのも素晴らしい。ゴダールトリュフォー、二人の人生それ自体が、果てしなく映画的であることを、このドキュメンタリーは克明に証明してみせた。 

f:id:IllmaticXanadu:20200429065924j:image『鞄を持った女』(1961年/ヴァレリオ・ズルリーニ)

U-NEXTにて。当たり前のようにクラウディア・カルディナーレが大好きなのだけれど、コレ初見。いきなり彼女の野ションから始まる辺り、「イタリア映画が始まった!」という感覚でワクワクしていたけれど、途中からぼんやりしていて眠ってしまっていた……いや、映画が決してつまらなかったわけではない。と、言い切れるほど記憶も出来ていないし曖昧なのだけれど……しかし、我が愛しのCCが主演だというのに寝落ちしてしまったというのは、誠に信じがたい愚行をやってのけたなと我ながら思う。自責の念。俺は愛するCCの映画で、寝たのだ。寝ちまったのだ。こんな感想、ちゃんと改めて再見してから書けばいいのだろうけれど、俺には、俺にはできないよ、そんなこと。愛しのCCに、ちゃんと懺悔しておきたい。ごめんなさい。君がちゃんと大きな鞄を持って怪訝そうな表情をしていたのは憶えています。重そうな鞄だった。俺は瞼が重かった。嗚呼、クラウディア。本当に申し訳ない。君はいつもと変わらず、ちゃんと、しっかり、べらぼうに美しかったよ。それだけは間違いなく、間違いようのない真実だ。愛する資格がないなんて言わないでおくれ、クラウディア。誰だって過ちは犯してしまうものだ。罪のない人間はいない。そこから何を反省して、どう生きていくかが大切じゃないか。だからクラウディア、俺は変わらずに、君へのアモーレを送るよ。送らせてくれ。正座して、また君に会いに行くよ、クラウディア……Ti amo,Claudia……Non posso vivere senza di te……Amore……

f:id:IllmaticXanadu:20200429101358j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#3(第二次大戦の時もそうなんだが「こんな有事の際に芸術や文化なんてどうでもいい」と人間の愉しみを規制したがるアホがいたわけだ。たとえば老人ホームでおばあちゃんたちにメイクをしてあげただけで全員の健康状態が上がったという研究結果もある。絶対、人間はそういったアートやクリエイティビティによってしっかりと生かされている。ドイツで絵描きを蔑ろにしてヒトラーが誕生したことを忘れたとは言わせない。だからアートやエンターテインメントを蔑ろにするファックオフ野郎は早く死んじまえ。水でも飲んでろボケ。

f:id:IllmaticXanadu:20200429033049j:image玉城ティナは夢想する』(2017年/山戸結希)

YouTubeにて。バイオレンス映画。皮肉ではなく、これは暴力についての映画だ。「今そこにある美に対してカメラを向ける」ということの暴力性を山戸結希は認識しつつ、欲望のままに被写体を「傷付ける」。そして、傷付ければ傷付けるほどに、被写体・玉城ティナの刹那的な美しさが増すことも承知している。激しいカット割はまさしく被写体そのものを「解体/切断」していて、カメラは「ナイフ」のようである。「ポップで可愛らしい記号よりもティナちゃんには背徳と退廃が似合うの!」という作家の願望を、全身で享受する玉城ティナの揺るぎない強固な美を証明できている傑作だと感じる。加えて、すべての女の子たちの集合的無意識になりたいと欲求しているのは、むしろ玉城ティナではなく山戸結希の方であって、そのナルシズムもまた暴力的だと感じる。もう1つ重要なのは、本編の中で玉城ティナが「玉城ティナになりたい」と「あこがれ」を抱くことだ。シラフで言ってしまうが、ぼくだって玉城ティナになりたい。玉城ティナを愛でたいとか応援したいとか恋したいとかではない、玉城ティナに「なりたい」のだ。野球少年がイチローみたいになりたい、という「あこがれ」とは異なる。なぜなら、それは本人の才能と努力次第で達成可能だからだ。しかし、ぼくが「玉城ティナ」になることは、絶対にない。絶対的に成就できない願い。それこそが「あこがれ」のエレガントだ。よしんば一本の作品が、男性観客に「女になりたい」と思わせられたら、それこそフェミニズムとして成功しているといえる。もしくは「女に生まれたかった」ということでも良い。あこがれさせられたら。異性目線の恋愛や性愛でなく、ただ純粋に「なりたい」という目線。が、本作においては最も大切だと感じる。逆に女性観客にとっては「女に生まれてよかった」ということなので、女であることを誇れるという、それこそが当たり前のフェミニズムである。だから本作はぼくにとって、極めて正しいフェミニズム作品だと思っている。しかし、これ言っていいのか知らんけど、玉城ティナってメガネ似合わなくないか? とアンチコメントしてしまうくらい、装飾としてのメガネ選びは慎重に演出してもらいたい。この命題については、メガネっ娘ヲタ界隈でもっと激論されてよいはず。

f:id:IllmaticXanadu:20200426162759j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007年/庵野秀明摩砂雪鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。超久々に観たら面白かった。『序』に関しては、めちゃくちゃグラフィックの美しさが向上したのは確かだけれど、テレビシリーズ・ヤシマ作戦までの総集編という印象が個人的にはどうしても強かった。よしんば、旧エヴァを認知していない人にとって、『序』は一本の映画として歪な作品になっているはずだよなー、くらいには思っていた(ストーリーテリングとして)。劇場鑑賞時も「おさらいあざっす、で、破の予告早く見せて!」というダメなヲタ状態だったので。とは言え、丁寧で洗練されたダイジェスト感が一周回って新鮮で、つまり展開が早くて、このスピードはまさしく庵野らしいともいえる。テレビシリーズを除いた劇場版の中では『序』が、特撮オマージュ満載ロボットアニメとして最も安心して観ることができた。それほどに『シト新生』や『Air/まごころを、君に』や『破』や『Q』は特殊な作品だったから。庵野が楽しそうに特撮ロボットアニメをやっているという、「庵野が楽しそう」という感覚をしばらく失念してしまっていたけれど、ファンとしてその寄り添い方は大事だと感じた(まあ、エヴァ庵野が壊れれば壊れるほど面白くなる節もあるけれど……)。『シン・ゴジラ』と『序』は、庵野の精神的にはある意味、躁のディメンションに位置付けられる類似した作品だと思われる。やっぱりヤシマ作戦は燃えるよねー。アスカ推しの自分としては綾波の話ばかりでナンダカナーと思ったりもしますが、ニッコリ綾波超可愛かったです。

f:id:IllmaticXanadu:20200426163312j:image新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年/庵野秀明鶴巻和哉)

Netflixにて。オールタイムベストとしか考えられないアルティメット大傑作。ドロッドロの病みの闇。庵野秀明の個人映画として完成された鬱屈的感情吐露。が、エンターテインメントとして機能していることの凄さ。観客の能動性までをも拒否し、彼らの心も、記憶も、強烈にえぐってみせる暴力性。作家の闇が、作家の憂鬱が、作家の暴力衝動が、映画を傑作たらしめる模範解答みたいな映画。つまり、観客におもねった映画を作る必要なんて1ミリも無い。観客なんか、心の闇で黒く塗りつぶせ。と、教えてくれた映画。こんな映画が作りたいものです。中学校の給食の時間に、校内放送で『甘き死よ、来たれ』を流していた超ヲタの女の子がいたけど、元気かしら。

f:id:IllmaticXanadu:20200427164633j:image茶の味』(2004年/石井克人)

DVDにて。本作公開年の2004年は『下妻物語』の公開年でもあり、ぼくが土屋アンナに一目惚れして胸キュンするには十分なほどの彼女が揃っていたわけです。で、久々に本作の鈴石アオイに会いに行った。強風を浴びながらもしかめっ面を崩さないハイスピード撮影の彼女、最高だ。異性の好みということではなく、ぼくは映画の中で元ヤンっぽい女の子が出てくると大体は好きになるので、漏れなく本作のアンナ嬢も最高に好きなのだけれど、まあ映画としても可愛くて奇妙で大好きです、『茶の味』。実景含めた栃木の自然が大変フォトジェニック。しかし、なぜ元ヤンっぽい女の子にフェティッシュを感じるのだろうかと考えてみると、ぼくの地元(茨城)にはヤンキー/元ヤンがウンザリするほどいて、偏見するまでもなく結構みんないいやつだったりしたし、カッコ良かったし、カッコエロかったし、そんなアホみたいなノスタルジーを想起してしまっているのかもしれない。元ヤンちゃんは我がふるさと。ってソレまんま『下妻物語』だな。

f:id:IllmaticXanadu:20200429055500j:image『疑惑』(1982年/野村芳太郎)

アマプラにて。松本清張原作!桃井かおりVS岩下志麻!全くタイプの異なる女優同士の演技合戦にめちゃくちゃ燃える!野村芳太郎フィルモグラフィにおいても、きっちりエンタメしてくれていて楽しかった。車が海中に転落、乗っていた大金持ちの旦那は溺死、その妻である桃井かおり演じるクマコだけが生き残る。このクマコが最低最悪の毒婦で悪女。夫に3億円の保険金をかけていたことが判明し、容疑者として逮捕される。連日マスコミが騒ぎ立てるクマコの弁護を受け持つこと自体が弁護士にとってはデメリットでしかなく、誰も弁護士がつかない。そんな中、民事事件専門の弁護士・佐原律子こと岩下志麻が彼女の弁護に任命される。しかしクマコと律子の間には、信頼関係はゼロ。ほぼ100%夫を殺している悪女の弁護を、律子も負けじとこなしていく。果たして事件はどう決着するのか……というオモシロあらすじ。徹底して脚本通りに演じる岩下志麻に対して、脚本無視でほとんどアドリブで好き勝手に喋って暴れる桃井かおり岩下志麻は背筋をピンと伸ばして一歩も引かない!桃井かおりは余裕の表情!「あたし、あんたの顔嫌いだわ〜」という桃井かおりのアドリブ、その時の岩下志麻の素でムカついている顔!やっぱり相反するモノ同士をぶつけると映画は面白くなるよなー、という正解を教えてもらった。若い頃の柄本明チャランポランだけど憎めない鹿賀丈史も良いキャラだった。数分しか登場しない丹波哲郎が弁護バックれるのにも笑った。これからも繰り返し観たいし、女優の皆さんにもおすすめします。

f:id:IllmaticXanadu:20200429043922j:imageコンテイジョン』(2011年/スティーブン・ソダーバーグ)

U-NEXTにて。ソダーバーグ苦手なんだけどコレは淡々としたドキュメンタリータッチ(≒シミュレーション風)がパンデミック描写の恐怖とifの強度を補強していて好み。『インフォーマント!』も『サイド・エフェクト』も面白かったし、ソダーバーグというより脚本のスコット・Z・バーンズとの相性が良いのかもしれない。ってかソダーバーグの映画、「相変わらず真面目だねえー」とニタニタしながら観てしまう。観ていると、グウィネス・パルトロウが初っ端で頭蓋骨オープンするので笑ってしまった。ミヒャエル・ハネケかよな赤い素っ気ないフォントのDay2から始まり最後は……な展開にも、自業自得というか風が吹けば桶屋が儲かる的な種明かしで笑ってしまった。もしソダーバーグがゾンビ映画を撮ったらこれくらい地味なんだろうなあと思いつつ、狙ってスベるよりは誠実にカメラを据えて、オールスターキャストで共感性も保持しつつ、ほどよくシリアス、ほどよくエンタメに仕上げている辺り、職人としては及第点以上だと思う。誰が観てもそれなりに楽しめる普遍的な完パケ感も含めて、映画芸術というよりも、世界仰天ニュースの傑作回を見たような余韻……。マリオン・コティヤールのように、誰かのために走り出すことができるか。ケイト・ウィンスレットのように、自分がどんなに苦しくても、隣の人に毛布を渡すことができるか、が問われる世の中になってしまった。劇場鑑賞時は震災以降で、日本は劇中のマッドマックス化する市民たちのようにパニックにならず皆助け合うことが出来ていて、まだまだ人間を信じられるかもしれないとヒューマニズムに目覚めかけたりもしたもんだけれど、現実でパンデミックが発生し、アンタッチャブルな状況下で買いだめに猛進する人々がいたり総理大臣がバカだったり、悠々とフィクションを超えてくるディストピアっぷりに絶望しながら観た本作は、ちょっとホラー感あった。劇中のジュード・ロウみたいな最低デマ野郎は現実にもたくさんいるけれど、果たして彼を信じない保証はどこにもない。自らの審美眼を鍛えるためにも、これからも映画を観なくてはな。劇場で観たとき、とりあえず、帰宅してめちゃくちゃ手を洗ったのを思い出しました。

f:id:IllmaticXanadu:20200424031921j:imageそれいけ!アンパンマン キラキラ星の涙』(1989年/永丘照典)

U-NEXTにて。幼少期ぶりに観た……ノ、ノスタルジー……懐かしすぎてドーパミン分泌量ヤバかった……。ナンダ・ナンダー姫の「わたしの名前はナンダ」という幼稚園児も安心して笑えるギャグセンス、ドキンちゃんの女王様ソング、そのドキンちゃんのプリケツ、「冬になったらまた会える」と言い残して溶けるユキダルマンの勇姿、謎の殺傷機能を備えたアンパンマン号、作画が怖すぎるドロンコ魔王、ボコボコにされるパン工場三人衆、そして随所の『オズの魔法使』オマージュ……。ナンダー姫の「もうやめて!」を受けてもボコボコにされながら猪突猛進してくるアンパンマン、めっちゃ漢じゃん……。幼い頃、母親と一緒に観て「涙にも価値があるの、だから泣いてもいいんだよ」と教育されました。いい話です。

f:id:IllmaticXanadu:20200427152848j:image大いなる幻影』(1999年/黒沢清)

DVDにて。完全にポスト・コロナ時代の悪夢的世界観じゃん。謎の花粉を防ぐためにマスクしていたり、人々がソーシャルディスタンスを保っていたり、そしてとにかく、世界から人間が「消えていく」感覚というのが金太郎飴みたいに詰まっている。ので、今観たらより面白かった。ミレニアム直前で終末感ヤバい公開当時も、ほとんど同じような感覚だったのかしら。そして、「消えてしまう」ということと「死んでしまう」ということは異なっている。本作がもたらす感動は「映画では誰も死ぬことはない」という救いでもある。死ぬことを目指して消え続けることによって逆説的にみんな生きてしまっている、そんな映画。また、すべての自主映画少年たちに観てもらいたい。ちゃんと撮ってさえいればどんだけバカやってもいいんだと、とても勇気をもらえる。

f:id:IllmaticXanadu:20200426192119j:image呪怨(ビデオ版)』(2000年/清水崇)

DVDにて。ぼんやりと得体の知れないものがこちらを見ているという表現ではなく、幽霊が半径3センチ以内にいる!という表現をやってのけたエポックメイキング。つまり本作は、幽霊/心霊映画というよりはモンスター映画に近い。モンスター映画の文法で撮られた幽霊映画。呪われた家に関係すると不特定に全員死ぬ、というハードコアな設定も改めてすごい。即物的な恐怖を突き詰めるとコメディになるということも発見できている。時系列が破綻しているのも、悪夢的円環構造を生み出していて不気味極まりない。顎なし少女は未だにトラウマだった……。

f:id:IllmaticXanadu:20200429050238j:imageオーメン2/ダミアン』(1978年/ドン・テイラー)

U-NEXTにて。何回観ても最高の死に様博覧会。出てくる死に様が何もかも素晴らしいし、前作よりもドンドコ人が死にまくるのも評価に値する。前作の首チョンパに当たるエレベーターでの人体ワイヤー切断は、ちゃんと切断面を見せてくれる上に、ちゃんとスローモーション、そして切られた瞬間の「うげえ」という表情、本当に偉い……。断面からはみ出る「具」のあたたかみが感じられるのも良くて、湯気が出ているようなホカホカ感は、作り物だからこそ感銘を受ける。他にも、カラスにズビズバつつかれて血まみれになるおばさんや、氷の張った湖の中に落ちた人がもがいても氷が叩き割れないとか、トラウマ残酷表現が多すぎる。イケメンに成長したダミアン自身が、悪魔の子であるというハードコアな事実を知って葛藤する思春期映画でもある。オープニングの始まった瞬間からジェリー・ゴールドスミスの音楽がテンションアゲアゲで狂っていてそれも最高に好き。

f:id:IllmaticXanadu:20200429051340j:imageポルターガイスト』(1982年/トビー・フーパー)

U-NEXTにて。子どもの頃に観たときはビックリ描写の連続で案の定ブラウン管テレビの砂嵐が怖くて仕方なくなったけれど、久々に観たら超楽しかった。砂嵐が怖いって感覚、デジタル世代には通用しないのだろうか。雷とピエロのシーンとかめちゃくちゃ怖かった記憶があるな。全編にわたって、ホラー描写出し惜しみしない!というサービス精神が本当に偉い。スピルバーグが演出したと言われている鏡見ながらの顔面グチャグチャドロドロシーンも、いやココだけどう考えてもやり過ぎだろ、ほとんど『レイダース』のラストじゃん、という過剰な残酷描写で最高。思えば、本作はトビー・フーパー御大の作品というより、やっぱりスピルバーグPのエンターテインメント性の方が強い。フーパー本人は不服だったんだろうが……。しかし、どんなバケモノよりも最高なのが、そう、霊媒師のおばちゃんだ!この人の不気味で崇高なキュートさは特筆しておかなくてはならない。あの声最高だもん。逆にガキの頃はこのおばちゃんこそがトラウマだったけれど、今観たらこんなにテンション上がるナイスキャラはいない。嗚呼でも、本作がドミニク・ダンの遺作であることに変わりはない……。本作出演後に恋人に刺殺され、享年22歳。ゆえに呪われた映画扱いされてしまったわけだけれど、悲しい……。ぼくは『アフターアワーズ』という映画が大好きで、ドミニクは、その主演のグリフィン・ダンの妹である。彼女がトンデモなく酷い目に遭う本作は、実際の事件とは別に考えて、映画なのだから楽しめばいいのだけど。でも悲しいのは悲しいので……。

f:id:IllmaticXanadu:20200427152534j:image『イメージの本』(2018年/ジャン=リュック・ゴダール)

U-NEXTにて。『アワーミュージック』以降だと一番好きだし、ほとんど『映画史』+『時間の闇のなかで』+『アワーミュージック』という構造なので好みでない理由がなく、89歳のイタズラじじいが、結局ラブ&ピースを打ち出した辺り、エモすぎて泣けた。新型コロナウイルスが感染拡大してから新作映画が次々と公開延期になり、撮影すらストップされている状況が続いている。つまり、新しいものが作れない状況の中に「映画」はいるといえる。ゴダールの『愛の世紀』にあった「すべてそこに在るのに、人は何故作るのだろう」という言葉は、本作を鑑賞した際に思い出したものであったし、今こそまさに問われるべきものだ。ゴダールは本作で「すべてはアーカイブされているし、アーカイブされているのだから"映画"は大丈夫なんだよ」という「消えない/死なない」ことへの優しさを訴えてくれた。同時に、自身で撮り下ろした「新しい」映像も加えて「それでも"新しい"ものを作って残したいという気持ちは超大事」と勇気付けてくれた。ポスト・コロナ時代は、ゴダールの予言通りにアーカイブの時代へと突入しつつある。こうして、ぼく自身でさえ、閉館している映画館に足を運べず、自宅で今日も今日とてアーカイブされた映画たちと遭遇するしかない。果たして、映画にとってこれは絶望なのか、それとも希望なのか。先日突然インスタライブに登場したゴダールは「ウイルスはコミュニケーションだ」と述べた。「ある種の鳥のように他人を必要とし、仲間の所に行き、家の中に入ろうとする。私たちがネットでメッセージを送る時のように。ウイルスは今私たちがしているようなコミュニケーションだ。それによって死ぬことはないが、うまく生き抜くことは恐らくできない」それでも、ゴダールはあくまで楽天的な様子だった。「テレビは忘却を、映画は記憶を創る」つまり、残された映画たちがこれからも消えることが無ければ、これから映画を残していこうとすれば、それもまた消えることはないのだ。ポスト・コロナ=アーカイブ時代のぼくらの聖典は、聖書でもコーランでもなく、『イメージの本』だ。

f:id:IllmaticXanadu:20200424030506j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#2(「コ」と「ロ」と「ナ」を組み合わせると「君」になります、素敵やん)

f:id:IllmaticXanadu:20200421192957j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年/庵野秀明摩砂雪鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。ぼくはレイかアスカかと問われたら完全にアスカ派なのだけれど、それまでの旧エヴァの惣流アスカとは、ファンと言うことをためらわれるくらいに痛い子だった。それに比べて、式波アスカは本当に可愛い。レイに自分の立場を譲ったり、人のために何かを出来るいい子になっていて、彼女なりに自立へと向かっている姿が本当に可愛い。そんなアスカとレイの板挟み『マクロス』状態になるシンジは、クライマックスで旧エヴァを文字通りに「破壊」する熱血主人公と化し、公開当時初日の劇場で、マジで観客全員で「マ?!」と発声しながらスクリーンに釘付けになったことは、未だに鮮明な記憶として残っている。ビックリしすぎてポップコーンをブチ撒いたオッサンは元気にしているかな、なんてことを本作を観るたびに思い出すのだ。久々に観てみると、本作は旧エヴァを破壊することにベクトルが向かっていて、つまりサプライズ的な改編に確かに驚くのだけれど、ゆえにエヴァっぽさという感覚も稀薄されてしまっていると思う。エヴァがポスト・エヴァ以降のアニメーションにもたらした功罪を、エヴァそのものがなぞっている奇妙な構造によって、これはエヴァであってエヴァではない、という引き裂かれた余韻が残る。エヴァ、というか庵野がソレをやる必要ってある?という。それを吉と見るか凶と見るかで評価も分かれるだろうけれど、まあやっぱり頭の上にエクスクラメーションマークが浮かび続ける展開だったし、ちゃっかり燃えたし、病み要素がデトックスされたエヴァとして見れば、フツーに楽しい映画でした。でも、鬱屈した自分にとってのエヴァとは、病みすぎ、黒すぎ、ドロドロすぎの居心地の悪いアニメーションであったことを忘れない。鷺巣詩郎のサントラは神掛かってたな。伊吹マヤさん推しでもあるので『太陽を盗んだ男』流しながらの街の目覚め、出勤シーンはとても好き。

f:id:IllmaticXanadu:20200421193129j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年/庵野秀明摩砂雪前田真宏鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。新エヴァで唯一繰り返し観ているほど好きなのは『Q』なのだけれど、その理由はまず、『破』で前述した旧エヴァ特有の病み感、真っ黒なドロドロ感、居心地の悪さみたいな鬱屈したヤバイ感覚に、本作が最も近いからなのだと思う。よしんば、『破』でせっかく新しいことをしたのに結局鬱アニメに戻るのかよ、という批判があったとしても、「戻ってしまう」のが庵野の作家性だと信じていたぼくのようなファンにとっては、こんなに嬉しい絶望感は無かった。絶対に庵野以外にこんな絶望映画は作れない。主人公の行動や意志のすべてを全否定し、それを楽しんで消費した観客も道づれに地獄へと叩き落とす。キャラクターへ、エヴァ自体へ、作者自身へ、そしてファンへ、全方向に向けられた絶望感、自他殺願望、ペシミズム、それら強度の高さたるや。なんて純粋無垢な厭さだろう。公開当時は震災の翌年ということもあって、劇中のカタストロフには震災を想起せざるを得ない共感もあった。そして絶望的な今こそ、純度の高い絶望を。毒には毒をだ。しかし、『Q』を作って鬱になった庵野が(駿の『風立ちぬ』は置いておいて)『シン・ゴジラ』で復活するとは誰も考えられなかった。しかも、鬱の原因がエヴァなら鬱克服もまたエヴァ・コラージュな『シン・ゴジラ』という。『シン・エヴァ』の公開延期は、延期に慣れたファンであっても悲しい。完結が拝めるその日まで、俺は『Q』を観続けるぞ。

f:id:IllmaticXanadu:20200416181734j:imageLOOPER/ルーパー』(2012年/ライアン・ジョンソン)

アマプラにて。ジョセフ・ゴードン=レヴィットの頭皮が徐々に寂しくなっていって、カットが切り替わると完全にハゲ果てたブルース・ウィリスになっていくモンタージュに人生の悲哀を見る。このようなモンタージュ含めて、ワンフレームズラしのタイムトラベル描写など、映画の力を信じているのが流石ライアン・ジョンソンだと思う。現在のポール・ダノの肉体が破損していくと、未来のポール・ダノの肉体も破損していく描写がフレッシュで最高。前半と後半で「LOOP」の意味が変わるのもツイストが効いていて嫌いになれない。後半からのガキが『オーメン』のダミアン味があって、うるさいし怖いしとても良かった。ライアン・ジョンソンケレン味徹底主義な方向性なので、作劇の強引さやプロットホールは喜んで目をつぶります。『最後のジェダイ』もそうだったけど、やっぱり撮影がいいよねー。あのフレアはアナモルフィックレンズかな?「タイムトラベルやタイムパラドックスのツッコミどころなんかどうでもいいだろ!」と念押しさせられるブルース・ウィリスエミリー・ブラントがオナニーしようかと股に手を伸ばすも、いややめておこうとジョセフを呼び出してセックスをおっ始めるのが斬新すぎて爆笑しました。

f:id:IllmaticXanadu:20200422150322j:image8人の女たち』(2002年/フランソワ・オゾン)

DVDにて。オゾンの撮るブラックコメディはどれも好きなのだけれど、最もエレガントでジョイフルな多幸感があってコレは何度も観るほど好き。フランス映画を愛した者にだけ与えられるご褒美のようなオールスターキャスト。もれなく8人全員が歌って踊るけれど、やっぱり愛しのドヌーヴが踊るたびに顔がほころんでしまうなー。久々に観たら、存在感で言えばイザベル・ユペールが優勝って感じだった。キーキーと金切り声で超絶情緒不安定に騒ぎ立てるメガネババア、からのドレス姿の美魔女へ変身!がいぇーい!とアガる。メイドのエマニュエル・べアールが胸元を開けて髪をほどいた時のいぇーい!という幸福感も最高。あのダニエル・ダリュー御大まで大トリで歌うのだから、やはりすごい映画だ。テクニカラーへのリスペクトが感じられる色彩や美術も素晴らしいけれど、なんてたって衣装の映画ファン泣かせっぷり!ギャビーの豹の毛皮は『母の旅路』のラナ・ターナー、グリーンのドレスは『荒馬と女』のマリリン・モンロー、ピレットは『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナー、シュゾンは『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘップバーン(顔も似てる!)、カトリーヌは『巴里のアメリカ人』のレスリー・キャロン、オーギュスティーヌのドレス姿は赤毛のリタ・ヘイワ―ス、ルイーズは『小間使の日記』のジャンヌ・モロー……50年代ディオールからのインスピレーションを受けて製作された衣装の数々は、それだけで本作の立派な見どころの一つになっていて、何度観ても目が喜んでいる。

f:id:IllmaticXanadu:20200422150916j:image『ヘレディタリー/継承』(2018年/アリ・アスター)

Blu-rayにて。まさか空前の『ミッドサマー』ブームが日本でも起きて、新作映画が掛からない中、『ミッドサマー』のディレクターズ・カット版が映画館で流れ続ける世の中が到来するとは思いも寄らなかった。作品への好き嫌いはともかく、アメリカからヤバイ映画がやって来るらしい、という「おそろしいものへの興味」を観客が抱き続けることは絶対に大切だと思う。そういう点で『ヘレディタリー』は「おそろしいものは楽しくて面白い」という、恐怖に対する原初的な快楽を思い出させてくれるのが良かった。本作は、アメリカから恐ろしい映画が到来してくるという果てしなき期待から、観客の多くはあの映画をホラー映画として消費したけれど、今になってつぶさに考えてみると、あの演出の数々が「笑えるような事態」を「笑わせない」ことに心血を注いでいたようにも感じられる。もちろん、あの映画に漂う異様な不穏さは、数多のホラー映画とはディメンションが異なる、磁力と強固さを備えている(あざとさすら)。したがって、劇中の展開は、予想もつかないおそろしいツイストを帯びて転がっていく。ゆえに、撮影や照明、音響や芝居以前に、文字通り暗闇へと突き進む「展開」が異様だったという印象が強かった。実のところ、アリ・アスターの作家としての興味は、人間を描くことよりも作劇に移入している傾向があるとぼくは考えている。『ヘレディタリー』はこうして久々に見直すと「こんなにも周到な伏線を張り巡らせていたなんて」と改めて驚かされるのだけれど、これらは人物描写への深み、ではなく、あくまでも作劇としての強度を補正するディテールになっている。よしんば、アリ・アスター自身があの兄に移入して撮っていたにせよ、「本当にそう撮っていたならば」、あそこまで観客を母親へとミスリードさせることはない。主人公と思わされていた母親ではなく、「実は」兄がヘイル、ペイモン!な結末を迎えることになるという、その「展開」のための「作劇」を選んでいるように見られる。つまり、本作は「こういう人間たちが右往左往した結果によって悲劇として完成した」のではなく「悲劇を完成させるために登場人物たちを絶望的に追い込んだ」という「作劇」がもたらされていると考えられる。そういった作劇が間違いである、と言いたいわけではなく、アリ・アスターの作家としての暴力性とは、あくまで「展開」に表れるものだというのがぼくの感想だ。彼が『ヘレディタリー』でおこなった暴力は、登場人物や観客それ自体ではなく、その彼らが無意識のうちに望んでいる「定型化された物語展開」そのものを惨殺することによって、間接的に登場人物や観客にも傷を与えるという構造がある。当たり前のようでいて新たな発見だったことは、ぼくらは定められたコードがズタズタに刺されていたり、ボコボコに殴られていたりする哀れな姿を見ると、本能的に不穏さや不安を感じてしまうのだなということだった。ぼくは、その計画的かつ無差別的な彼の「展開」への殺意に、大変心を惹かれた次第。まあ今回はめちゃくちゃ笑って観たけれど。地獄の門は予想もつかない形で、いつだって自分の隣で開き続けている。「家族」という絶対に逃れられない最恐の呪いについての映画であって、逆説的に「家族仲良くできて、みんなが幸せになれたらいいなあ」と夢想するくらいが今の世の中では丁度いいです。

f:id:IllmaticXanadu:20200416185327j:image『曖昧な未来、黒沢清』(2003年/藤井謙二郎)

U-NEXTにて。被写体として主役に徹する黒沢清を愛でられるただ一本の映画。最近になってよく考えることは、俺は黒沢清の映画が好きなのか、それとも黒沢清本人のことが好きなのか、ということである。まあこんな問いはくだらなくて、もちろん答えは、どっちも超好きなんだけれど、自分が作家主義な映画ファンだということを抜きにしても、黒沢清という人間の魅力についてはこれからも考えていきたい。あの野球ベースのような直角的な輪郭、ゴブリンのような顔、なのに俳優顔負けのハンサム、ヘンな髭、死んでいるようでキラキラしている眼、オマエそれしか服持ってねえのかよというポロシャツ、映画館の闇のような真っ黒い服、口を開けば独特の声色と丁寧な日本語でずっと映画の話。B級映画の話。なんだこのオッサンは。なんだこの生き物は。何考えてんだコイツは。可愛いなあ。黒沢清の演出術を映像として拝見できる、のならまあそれは普通のドキュメンタリーなんだけれど、本作はオタオタする清、投げやりな清、鬼畜な清、テキトーな清、険しい清、テッペンを越えない清、『北国の帝王』をニヤニヤと語る清など、やはり黒沢清という一匹の、間違えた一人の生き物、いや間違えた人間を愛でる癒しの映像集として、いつまでも何度でも観れる面白味に溢れている。

f:id:IllmaticXanadu:20200422032208j:image『オクジャ』(2017年/ポン・ジュノ)

Netflixにて。堂々巡りで出口なしの地獄を目の当たりにしても尚、二元論的な正しさにおもねることなく、「わたしはこうしたいんだ」という少女の無垢な個人主義にすべてを託す辺り泣ける。序盤でブタちゃんの主観ショットがあって、そりゃ『グエムル』を撮ったポン・ジュノなので当然なのだけれど、モンスター映画における文法、主に視点の統制までそつなくこなしてしまうのだから脱帽の域。プロットそれ自体に目新しさは無い(もちろんエンターテインメントとして十二分に面白いので批判ではない)のだけれど、本作は演者が全員いい。ティルダ嬢の一人二役余裕のよっちゃんだし、ジェイク・ギレンホールはほとんどヒース版ジョーカーでマッドなムツゴロウさんだし、ポール・ダノはおとなしいなーと思いきや、出た、やっぱり『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』大好き人間としてはポール・ダノはこうでなくっちゃとヒヤッとする芝居があり、俳優陣を眺めているだけで十分に楽しい。スティーヴン・ユァンの翻訳ボケも笑った。みんな良い意味で肩の力を抜いてて楽しそうだった。主人公ミジャの疾走やブタちゃんのソウルでの逃走やトラックによる並走チェイスなど、移動ショットがとにかく凄まじいのだけれど、その辺は『グエムル』で洗練され尽くしていたのでお手の物という感じ。ドローンやステディカムを使って一つの移動の中にもメリハリがあり、ポン・ジュノから学ぶべきことはまだまだ多い。屠畜映画としても、終盤で手加減なく残酷描写を見せ付けてくれるので、今日ソーセージを食べたキミも観ていたたまれない気持ちになろう!

f:id:IllmaticXanadu:20200422023029j:imageブレードランナー2049』(2017年/ドゥニ・ヴィルヌーヴ

Netflixにて。コレもう3年前になるのかー、時早ーっ。いや、ヴィルヌーヴ版『DUNE』のヴィジュアルが先日初公開されて、嫌われてるリンチ版も幻のホドロフスキー版の構想も大好きな自分の感想ではあるけれど、どう考えてもダサいじゃん、何コレ『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクじゃん、いやでも『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクは面白そうだな……とモヤモヤしてしまったわけです。それで3年ぶりに再見してみようと思い立ち観たわけですが、やっぱりヴィルヌーヴという監督は、自分にとっては重要な監督ではないと思った。『プリズナーズ』も『複製された男』も『ボーダーライン』もとても興味深く観れたし、特に『アイズ・ワイド・シャット』ミーツ『ファイト・クラブ』な『複製された男』は好きなのだけれど、賢く振る舞ってるスノッブ感にあまり惹かれない、というか心に残らない感じが……。映画ってもっとでたらめでバカじゃんと信じている人間なので、たとえば『ピラニア3D』に対して「これは3D映画への冒涜だ」みたいな発言をしたキャメロンのような「賢くて正しくて健全なフリをした」映画監督にはあまり興味を抱けない……(キャメロンは『アバター』が苦手だったので……)。『メッセージ』は嫌いな映画ではないけれど、タコ型エイリアンの造形にはガッカリしたし……。とにかく、くだらないことを頭良さげに見せる「風な映画」は、自分とはあまり関係がないと思ってしまう。本作は公開当時、初日に駆け付けたけれど、長えー、遅えー、暗えーという印象が最も強かった。でもブレランの続編として考えたら、無いよりは有った方がいい映画だとは思う。ブレランがSFノワールだったのに対して、本作はヴィルヌーヴの一貫した「自分探し」というテーマにしっかりと落とし込めているし。孤独な男がメソメソする映画は好きなので、無表情でどんよりしているライアン・ゴズリングは緊急事態に観るには大変ふさわしかった。レイチェルの上目遣い泣き顔……そりゃ泣くよ。かまってちゃんなラヴちゃんの頬をつたう涙……そりゃ泣くよ。完全に初音ミクなアナ・デ・アルマス演じるジョイちゃんが最高。2049年になってもロリコンが完治できない人類。喧嘩の途中にプレスリーの『好きにならずにいられない』が流れて「この歌が好きなんだ」と喧嘩を中断するデッカード可愛い。ハリソン・フォードがクライマックスで溺れそうになるのがとても可愛い。あのデッカードが、あの強い男がとかではなく、単におじいちゃんが車中で溺れそうになる映像なのがとても楽しかった。

f:id:IllmaticXanadu:20200422034104j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#1(緊急事態宣言には映画が合う、とか言っておかないとストレスフルで気が滅入るので、今こそ自宅映画鑑賞を崇めつつ、その記録を残しておこうと考えた、そんな趣旨による雑記)

f:id:IllmaticXanadu:20200415221548j:imageスター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019年/ J・ J・エイブラムス)

U-NEXT先行配信にて。劇場鑑賞以来なので約4ヶ月ぶりに観た。当時は、ものすごくおもしろいものを観たという躁の感情と、ものすごくつまらないものを観たという鬱の感情にアンビバレンスに引き裂かれていて、思考に逃げ道が無かったけれど、落ち着いて観たら普通に楽しかった。ここに於ける「落ち着いて観たら」とは、端的に言えば「これはスター・ウォーズサーガの完結編だ!」と、あまり期待しないで観るスタンスのことだ。それでも、スター・ウォーズなのだから雑多な感情が湧き上がることもまた事実だけれども「まあどうせまだまだ続くし……これもまた一つの通過点に過ぎないのだから……」という達観思想を持つことこそが、寿命を縮めない最善の策だろう。ぼくはディズニーが製作したシークエルは、もうカイロ・レンが素晴らしかったからお釣りは返ってきた、と楽天的に捉えている。カイロ・レンというか、マーケットにおけるアダム・ドライバーの発見、という意味では重要なシリーズだったと思う。カイロ・レンについては賛否両論の『最期のジェダイ』の時点で、やっぱりコイツが主役じゃん!厨二病!エモい!いぇーい!と高揚していたので、本作もカイロ・レンさえ良ければ及第点なのでは、くらいの気持ちで観てしまっていたけれど、やっぱりカイロ・レンは変わらず最高だった。アダム・ドライバーの演技力も相まって、クライマックス、アレを受け取った時のポーズや、レイちゃんとアレした後の「俺たち、やっちゃったねえ〜」な照れ笑いなど、悶絶級に可愛いかった。あとはパルパティーンが楽しそうにバカ悪役に徹していて、いつの世も映画の中で悪い人が悪いことを楽しそうにしているのは可愛いなあ、と癒された。ランドが元気そうだったのも救いだった。ただ、例えばレイア姫がアレした後に咆哮するチューバッカのショットを、すぐにヒキで捉えて、すぐに佇むカイロ・レンに移行しちゃう辺りが、キャラクターの悲壮感に寄り添ってあげられていないと思えてあまり好きになれない。あのようなシーンでヨリを徹底できないのが、J Jとルーカスの差だろう。もしくはスピルバーグとの差。ご丁寧にチューバッカの咆哮にリバーブを掛けてフェードアウトさせるのも、逆に観客の移入を阻害させる。めちゃくちゃ泣けるはずだったシーンなのに……(まあその後のカイロ・レンとあの人の会話できっちり泣くのだけれど)。しかしチューイにメダルを……のくだりでは涙腺決壊したわけで、やはりスター・ウォーズは観るたびに感情の起伏が激しく波打ってしまう。健康に悪いです。

f:id:IllmaticXanadu:20200420232345j:imageアルファヴィル』(1965年/ジャン=リュック・ゴダール)

Blu-rayにて。「ゴダールの中で一番好き」という作品がゴダールのフィルモグラフィにはいくつもある、という矛盾を孕みながら、本作に関する想いを堂々と宣言する。ゴダールの中で一番好き。現在のパリそのままでSF未来都市をやっちゃうという異化。すべての自主映画少年たちに贈りたい。ジッポライターを通信機と言い張って撮ってしまえば、それはもうジッポライターではない!『午後の網目』オマージュがあるので、そのための敢えてのモノクロか?と推測してしまうくらいにモノクロームが美しい。撮影も照明もショットもモノクロゴダール作品の中でも特にすごい。かっこいい。「愛してると言え!」「…………愛してる」が切なすぎる。当時のゴダールとアンナの過渡期な関係を想起して観ると、カメラ目線で愛の告白をするアンナ、それを撮るゴダールの姿、切なすぎる。ってかこのシーンはまんま『ブレードランナー』にパクられたわけだ。ブレランも「未来はやって来ずに近未来だけが続く」というポストモダンであり、雨の日に歌舞伎町を傘差して歩けばそこはもうブレランの世界という、現代都市は未来なんだというセンス・オブ・ワンダーにめっぽう弱いのかもしれない。本作におけるノワール感マシマシのアンナの美しさは、陳腐な言葉で書き残せない。この同年に『気狂いピエロ』というすごさ。恋が完全に終わりを告げた年の二本。その二本こそ、愛する人を最も美しく撮れてしまっているという哀愁たるや。愛にしがみつきながら、愛を葬る。ぼくの中では本作と『気狂いピエロ』のアンナが、どのアンナよりも最もチャーミングで、哀しくて、エロティックで、健康的で、恐ろしくて、美しいと思います。

f:id:IllmaticXanadu:20200421214310j:image『CUBE』(1997年/ヴィンチェンゾ・ナタリ)

U-NEXTにて。中学生ぶりくらいに観た。ヴィンチェンゾ・ナタリは誰が何と言おうと、あの愛すべき『スプライス』が最高傑作だけれど、コレはコレで、アイデア一発の低予算ワンシチュエーション・スリラーを突き通す気概に満ちていて好き。というかこの手のハナシはやったもん勝ちで、先にやっちゃったやつが偉い。単純に役者の「顔」の選び方も最適で、こいつはこういうやつだろう、という観客の固定観念を徐々にひっくり返していく展開も楽しい。もはや人間それ自体が立方体のように様々な面から成っている、みたいな微妙な入れ子構造とでも言ってしまおうか。どのタイミングで謎を明らかにするかよりも、どの窮地でハプニングやアクシデントを投入するか、その手腕こそ最も評価したい。精神障害が疑われるカザン投入のタイミングなんか、観客全員が「あちゃー」と冷や汗を垂らすけれど、その「あちゃー」という感情こそが人間の負の側面を浮き彫りにさせる。「光を見上げる」というショットがちゃんとあるのも嬉しい。久々に観たら数学女子のレブンちゃん可愛かったですね。ちゃんと「メガネメガネ……」と手で探すくだりがあるのも信頼できる。ペシミストのワースは『ジョーカー』みたいだった。脱獄のプロのおじいちゃんが「お前ら油断すなよ」と言った刹那に酸ぶっかけられるの笑った。クソ野郎のクエンティンは、今回観ていたらアルコ&ピースの平子さんを、似ているというか想起したのだけれど、全国のアルピーファン同感いただけないでしょうか。

f:id:IllmaticXanadu:20200415221903j:imageブラック・スワン』(2010年/ダーレン・アロノフスキー)

U-NEXTにて。何回観てもナタポーがオナニーしていると横で母ちゃんが寝ていてギャッ!となるシーンが素晴らしい。間違いなく『レイジング・ケイン』における、昏睡状態の奥さんの前で不倫相手とキスしていたら奥さんの目がドドーンと見開いててカメラがガンガンガン!とズームしてギャッ!となるシーンのパクリなんだろうけど。本作はそんな感じで『反撥』だったり『回転』だったり『パーフェクトブルー』だったりと、数多のニューロティック・スリラーのモザイク画として完成されているのも映画ファンには楽しい。ミラ・クニスがザ・ビッチというフェロモン満々。一度でいいから騙されてみたいものです。ナタポーとレズるシーンもちゃんとエロくて最高。「家帰ってオナってこい!これは宿題だ!」とセクハラするヴァンサン・カッセルも終始楽しそうで良かった。あとクラブのシーンが『サスペリア』ミーツ・ギャスパー・ノエみたいに狂ってて、フレームごとでナタポーの顔がバケモノになっていたりするので、あまり健全な見方ではないけれど一時停止しながら確認したら楽しかった。

f:id:IllmaticXanadu:20200416180538j:imageどですかでん』(1970年/黒澤明)

U-NEXTにて。久しぶりに観たらオープニング・クレジットから六ちゃんのシークエンス終了までで「やさしすぎて」泣けた。悲哀のラプソディ。とは言え、貧困の中で紡がれる人の情も、一周回って、地獄の温度を肌身で感じているような恐ろしさすらある。ほとんどオムニバスというよりブニュエルの『自由の幻想』に近い作風だけれど、どの登場人物のエピソードも、それだけで一本の映画として物語られるくらいの厚みと魅力があるのが楽しい。同時に、当時の黒澤明の自滅/自殺願望を経て獲得した「芸術」と「人間」へのささやかな希望も真空パックされていて、やっぱり『夢』に一番近い。そりゃ売れないわ。『トラ・トラ・トラ!』の挫折を経て、日本映画の復興を目指して木下恵介市川崑小林正樹らと結成された四騎の会は、結局本作と小林の『化石』のみ。もっと観たかったし、木下・市川の監督作も拝みたかった。瞳孔開いた布びりびりおじさんを演じる芥川比呂志のシークエンスだけ、貧困と孤独によって狂い終わった人間を刻々と見つめていて、演出は野村芳太郎ですか?ってくらいホラーでめちゃくちゃ怖かった。フツーにトラウマ。

f:id:IllmaticXanadu:20200415222355j:image『HOUSE ハウス』(1977年/大林宣彦)

U-NEXTにて。追悼大林監督。悪魔的ヴィジョンすぎて続けて2回観た。キュートでファンシーであることと人体破壊を徹底することによって、映画のマジックから未だに解かれていない永遠のアヴァン・ポップ。ぼくは女友達が仲良くやっぴー!と楽しそうにはしゃいでいる映画は、それだけで100点差し上げるというくらい女友達映画が大好きなので、本作もずっとずっと楽しくて仕方がない。南田洋子のおばちゃまも踊ったり猫ちゃんポーズしたりあくびしたり楽しそうで可愛い。「こうやって若い皆さんがたくさん訪ねてくださったんですもの……よかったわ」の言い方で吹き出す(劇伴が一瞬消えるのも笑う)。猫がピアノにジャンプして上がったり下りたりするのを逆再生してニャンニャンとループするシーンがツボすぎて爆笑してしまいます。見るからにアホっぽい再婚相手を演じる鰐淵晴子の首のスカーフが必ず全シーンなびいているのも「映画最高!」というでたらめさで大好きだ。大林監督の訃報を受けて観ると、ラストの台詞がエモい……。「たとえ肉体が滅んでも、人はいつまでも誰かの心に残り、その人と共に生き続けている。愛の物語はいつまでも語り継がれていかなければならない。愛する人の生命を永遠に生き永らえさせるために。永遠の命を。失われることのない人の思い。たった一つの約束。それが愛」生涯クンフーちゃん推し。

f:id:IllmaticXanadu:20200415222352j:imageフォクシー・レディ』(1980年/エイドリアン・ライン)

DVDにて。我らがジョディ・フォスター圧勝かと思いきや、ランナウェイズのシェリー・カーリーの優勝。二人がベッドで友達のメガネちゃんの処女喪失を聞いて「大人になっちゃったネ……」とまどろむショットがヤバすぎた。展開が意外にも読めない。特に後半は少女が逢いたくない出来事が連発して、悪夢的で衝撃的な結末を迎えるので「エッ……!」と驚嘆しつつポカーンと取り残される余韻が怖くてヤバい。あの人が絶対にそんなことにはならないだろうとか、そんなバカみたいなことにはならないだろう、という因果律を破壊してくるショックがちゃんとあって、ゆえに実人生に近い。まあ、あのショックバリューな悪夢映画金字塔『ジェイコブス・ラダー』を撮ったエイドリアン・ラインの初監督作なので、頷けなくもない。当然、バッキバキに照明が決まっていて陰影が美しく、めちゃくちゃ『フラッシュダンス』への助走感があってそれもヤバい。『HOUSE』でも書いた通り、ぼくは女友達が仲良くやっぴー!していればもうそれだけで満足するくらいの変態なので、『フォクシー・レディ』も余裕で大好きだ。チャンネーたちが朝日を受けながらグースカ添い寝している姿や、その彼女たちの太ももやくびれを強調するカメラワークがどうしたって素晴らしく、もんどりうつ美しさで、この健康的エロな感覚は、流石はエイドリアン・ラインです、と口角が上がります。めちゃくちゃ『フラッシュ・ダンス』を見直したくなった。

f:id:IllmaticXanadu:20200416150217j:image『アンダルシアの犬』(1928年/ルイス・ブニュエル)

DVDにて。オールタイムベスト級に好きだし短いのでもう何度観たか分からないけれど、いつ観ても笑ってしまう。服の上から胸揉んでたら服が消えて「うひょー生チチだー」とよだれ垂らしながら揉み続けていたら徐々にケツになっていく、とか書いていてバカすぎる。女の脇毛が男の口に移動してドヤ顔したりするのもバカすぎる。ラスト砂浜にぶっ刺さってるのもバカすぎる。バカ映画クラシック。

f:id:IllmaticXanadu:20200416145359j:imageヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005年/デヴィッド・クローネンバーグ)

U-NEXTにて。クローネンバーグの映画なので当然セックスシーンがキモいし重要事項なわけだけれど、最初のコスプレセックスにおけるクンニリングスもキモいのだけれど、旦那の暴力性を目の当たりにして以降奥さんがそれを嫌悪しながらも興奮してきちゃうという、ほとんど暴力行為に近い2回目の階段でのセックスシーンが圧巻の感動。冒頭の長回しの不穏さだけでも頭が上がらない。家のセットが完璧に映画的な設計ですごすぎる。クローネンバーグのフィルモグラフィでは最も分かりやすく肩の力を抜いてエンタメしていた。イラク戦争からの帰還兵、というメタファーを通して観れば、こんな人間を大量生産してしまった事の恐ろしさと馬鹿馬鹿しさについて考えさせられる、つまり逆説的にピースフルを目指した暴力映画。最後の10分くらいしか出てないのに助演男優賞獲ったウィリアム・ハートも可愛かった。エド・ハリスはいつも通りに怖すぎ。

f:id:IllmaticXanadu:20200416164118j:image『愛と誠』(2012年/三池崇史)

U-NEXTにて。「純愛はバカ」という真実から徹頭徹尾逃げない姿勢が本当に素晴らしい。純愛もバカだし、幸せすぎて急に歌い出す人もバカという、ミュージカル映画へのアンチテーゼとメタが機能しているのも天才的な客観視点。バカを台詞ではなく人物やカメラの距離感で表現しているのも、映画屋・三池の技術力の高さを雄弁に語っている。最近の三池映画はどれもほとんど例外がないのだけれど、撮照の技術が高すぎるし、ショットは正解しか出さないのに、現象や脚本がバカすぎて乖離しているオリジナルな異化がすこぶる愛おしい。このような「おとなの悪ふざけ」「技術の無駄遣い」はもっと評価されていい。三池の中でもかなりフェイヴァリットの大好きな作品で、しかし『愛と誠』リアルタイム世代のぼくの両親は「最低の実写リメイク」と酷評していた。果たして、梶原一騎の世界観を現在の視点からメタ化して語り直す、その脚色こそ賛美しようじゃないですか。前半30分はほぼ5分おきくらいにバカミュージカルを展開していくが、中盤以降で母性へとベクトルが向かうと、これもまた良い。ぼくは母ちゃんがボロボロになってメソメソしていたりする映画に大変弱いので、クライマックスの踏切のシーンでは恥もなくびーびー泣いてしまった。そして最も特筆すべきトピックは、武井咲のコメディエンヌとしての才能開花である。彼女が歌唱する『あの素晴らしい愛をもう一度』の、あまりの馬鹿馬鹿しさと可愛らしさ。メイド服コスプレで嫌々ストリップさせられたり、縄で縛られて硫酸かけられそうになったり、三池が嫌がらせしたくなるのも分かる。斎藤工がサビを歌う直前で突然バシッとポーズを決めるたびに、ビクッ!と怯えてドン引きする武井咲なんて、本当にフェティッシュで素晴らしいです。

f:id:IllmaticXanadu:20200421213553j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

緊急時代の恋【2】トキシック、ミュージック、シガレット、セックス、そしてケーキのご褒美

f:id:IllmaticXanadu:20200414121415j:image「モデルのくせにケーキが食べたいなんて、オマエってちょっと変わってるね」

その一言が、サーファー野郎の彼と別れることになったきっかけだった。アタシはそれを聞いた瞬間から眼球の奥がズキズキ痛み出して、次第にじんわりと涙を浮かべていた。

「え、怒ってる?」最低の言葉。「怒ってないよ」「怒ってんじゃん。明らかに不機嫌じゃん。え、オレなんかした?」「だから怒ってないよ! アタシはさ、悲しんでるんだよ」「……え、なんで?」

この男、アタシがラデュレのマカロンを好きだからってマカロンの香りがする謎のパフュームを渡してきた、そんな誕生日プレゼントのセンスも最悪だったけれど、こういう時に、やっぱりサーファーにロクなやつはいないんだなって、改めて最悪に思えた。貰ったパフュームは匂いがキツすぎて、メルカリで売っちゃおうかと思っていたけど、プレゼントを転売するのはこんなアタシでさえも後ろめたさがあるし、それに、どうせあんな香水はメルカリでも売れるわけがない。

「アタシはさ、今日ケーキが食べたかったんだよ。リョウとさ。付き合って1周年の今日に。なのになんで、なんでお好み焼き屋に連れてきたわけ」「は? お好み焼き好きだろ、オマエ」「好きだよ。でも正しくはもんじゃが好きだから! それに、黙ってたけどさ、こんなこと言いたくないけどさ、なんで1周年記念の店がお好み焼き屋なわけ? いやいいけどさ、いいんだけど、リョウがアタシのこと考えてくれてたならいいんだけどさ」「気に食わなかったなら初めから言えよ」「気に食わないとかじゃないよ。でも、アタシ言ったよね付き合った時に。記念日は美味しいケーキを一緒に食べたいって。だからお好み焼き屋って聞いた時、正直悲しかったけど、でもじゃあケーキがある店だったりするのかなって信じてたんだよ。なのに無いじゃん。冷凍のガトーショコラしか! ねえ、覚えててくれてた?」「じゃデザート頼めよ、ほら。ガトーショコラでいいじゃん、ケーキだろ」「いやそういうことじゃないじゃんマジで。ねえ? 質問に答えてよ。覚えてくれてた?」「オレ、そういうの苦手なんだわ」「いや……もう、なんなの」「記念日とか、別に良くね? こだわんなくても。だってオレたち、ずっと楽しかったじゃん、どこだって。ケーキだっていつでも食べられるだろ、帰りに買ってやるよ」「ごめん、アタシもう無理だわ」「なにが」「全部が」「ふーん」「……」「勝手に食えよ。オレはケーキ好きじゃないし」「だから、アタシは、リョウと一緒に食べたかったって言ってんじゃん」「オマエ、モデルなんだしやめとけよ。太るよ」

気がついたら、鉄板の上でチーズミックス焼きが焦げていた。腐ったチーズのにおいがした。いや、チーズは既に腐っているのだけど……最低の夜だ。

彼に別れを告げた。ウソ。厳密に言えば万札だけ卓上に置いて帰ろうとした。「いらねえよ、カネ」「いや、出させてください」「敬語やめろよ。ってか、食えよ」「いりません。お食べになってください」そう言って店から走るように出た。別れの言葉が「さようなら」ではなく「お食べになってください」となったアタシは、鼻水をじゅるじゅるさせながら新宿市役所前の交差点まで走った。

信号を待っている間、客引きのアルバイトからの勧誘を無視して、スマホをインカメにして自分の顔を覗いた。涙でマスカラが流れ落ちている。ドラマとかでよくあるベタな悲しみの表現だ。だけど、結局アタシの人生もベタなんだ。ベタじゃない恋なんてない。失恋もそう。この街に転がっている悲しみの一つに、アタシも加わっただけ。

でも、アタシの泣きじゃくってぐしゃぐしゃの顔は、自分でも驚くくらいに綺麗だった。ああ、アタシこんな顔するんだ。前のカレと別れた時にはちっとも悲しくなかったのに。少なくともサーファー野郎よりは素敵な人だったけど……なんでアイツに対して泣いてるんだろう。いや、アイツだからこそ悔しいのかもしれない。それとも、やっぱりアタシは、アイツのこと愛してたのかもしれない。プレゼントのセンスが無いところも、お好み焼き屋に連れてくところも……そんなことを考え始めた途端に、アタシは声を出して泣いていた。勧誘してきたアルバイトの男性が、戸惑いながら遠ざかった。

信号が青に変わっても、アタシはしばらく泣いていた。SNSに「交差点で泣いてるヤバイ女がいたワロス」と投稿されても仕方ないくらい、アタシは滑稽そのものとしてその場に立ち尽くしていたかもしれない。だけど、アタシは泣いている、泣けている自分自身のことがたまらなく可愛く思えて、ちっとも恥ずかしくはなかった。

泣いてやる。そしてケーキなんて、もう二度と食べない。

信号が再び、赤に変わった。

信号機の色が変わるように、アタシの髪型も変わった。セミロングからショートボブへ。失恋して長い髪をバッサリ切るなんて、またベタな行動に走ってしまったけれど、ベタは偉大だ、超スッキリした。ドライヤーで濡れた髪を乾かす時間が減って、まずはそれだけでも静かな感動だったし、より自分の顔が露わになったことで、表情を意識するようにもなった。笑顔を増やした。とにかく楽しく生きなきゃと思った。だから笑っていた。それまでのアタシ以上に。なんでも楽しんでやろうと意気込んでいた。

時間をスワイプさせるけれど、アタシは彼と別れた号泣の夜、その足でクラブに向かった。レオくんというイカした友達がやっている小さなクラブで、アタシは彼の店が大好きだった。

彼の選曲は、たとえばジョナス・ブルーのFast Carの知らないリミックスで盛り上げた後に、マイケル・カルファンとかC2CとかインコグニートとかUltra Nateとかシーシー・ペニストンとかを経由しながら、閉店間際はBlack Boxで最高にアゲてくれるし、お別れの曲はカーティス・メイフィールドナイル・ロジャースのどれかと決めていた。

アタシはここに通い始めてまだ2年くらいなんだけど、レオくんは最初から親切にしてくれたし、彼は一見客にも優しかった。

泣きながら店に飛び込んで来たアタシに、レオくんは「美人の顔が台無しだよ」ってティッシュペーパーをくれて、面倒くさいアタシは「泣いても綺麗だよって言ってよ」と甘えてしまった。彼は「泣いても綺麗だよ。でも涙を乾かすために踊ろうよ」と、ホーリー・ハンバーストーンのFalling Asleep At The Wheelを流してくれた。アタシはレオくんにも音楽にもめちゃくちゃ救われて、すぐに涙は引っ込んだ。そして朝まで踊り続けた。たくさん笑った。

その夜、レオくんが学生時代にコージーコーナーのバイトに落ちて、不二家の面接に受かって働いていたことを初めて知って爆笑してしまった。「ケーキ屋さんに憧れてたの?」「ううん、単に家から徒歩圏内にあった店がコージー不二家だったの」「なにそれー! そんな街ある?」「そんな街に住んでたのよ。オリジン弁当もあったけど、そこは募集してなかったんだ。クラブでバイトするのがさ、単位のこと考えると難しくてさ」「真面目なんだね」「いや、ケーキ食べられると思って、売れ残りとか。案の定めっちゃ食べられたね。おかげでこの腹よ」レオくんはぽっちゃりしている。

再び時間をスワイプさせて、ショートボブの恋人ナシの女となったアタシは、このクラブで男からナンパされることが多くなった。別に彼氏ナシであることを強調したりしなかったけれど、ヤることしか考えていないパンピー学生とか、やたら高級時計をチラ見させるスーツの似合っていないアラフォーとかが、妙に連絡先を欲しがったり、食事に誘い始めてきた。物事はタイミングだ。神様は本当にいて、アタシたちのことをよく観察している。そして神様は、マジでセンスがない。失恋したタイミングで、こんなにもバカを投入できるのかってくらい、アタシは彼らとの会話が何一つ楽しくなかった。「ダフトパンクだとどのアルバムが好き?」と聞いてきたタワレコでアルバイトしているという柄本佑似の青年は、その後も「8.6秒バズーカってクラフトワークスだよね」とか「『パルプ・フィクション』を100回以上観てる」とか、あまりにもつまらない話ばかりするので、どうやら悪酔いしていたアタシは、彼のコートにゲロをお見舞いしたらしい。アタシの潜在意識下の嫌悪感が、きっとそうさせたんだ。記憶はないんだけど。

でも、どんなにサイテーでつまらない男と話していても、アタシは笑っていた。ちっとも楽しくないのに、最高に可愛くて最高に甘い笑顔を振り撒いていた。男がどういう反応をすればプレジャーを感じて血管を鼓動させるか、赤子の腕を折るが如く簡単に知っていた。男の中にはアタシのことをビッチだと呼ぶやつもいたけど、そうやって怨念が強い男ほど、アタシへ迫るのをやめなかった。それにアタシはビッチじゃない。それは自分自身のことだからちゃんと言っておきたい。自分からワザと騙すようなことはしていないし、セックスだって好きになった人としかしなかった。女友達から裏でヤリマンって言われてたこともあったけど、アタシは、アタシの性器やときめきを粗末に扱ったことはないと自負できる。親友のミウやハルちゃんは「言わせておきなよ」と信じてくれた。アタシの陰口を言ってたその子は、帰省して地元の元ヤンと結婚して赤ん坊も生まれたらしい。めでたいことだ。おめでとう。そして、アタシはこうして群がる男たちに愛想笑いを返し続けている。愛想笑いを見抜けない愚かな盲目の男たちに。アタシはどうしても、笑顔をやめられなかった。嫌われるのが怖かったわけじゃない。アタシはきっと、誰かにとっての楽しさの一部になっていれば、それでいいんだと思っていたのかもしれない。でも、アタシ自身の楽しさには、誰もなってくれなかった。

謎の肺炎が中国で感染を拡大していた頃、レオくんは「もし日本でも流行ったら店を閉めなきゃいけなくなるかもなー」と微笑しながらつぶやいていた。アタシは「怖くないよ。音楽さえあれば。どんな時も開けてよ、約束して」と右手の小指をレオくんに差し出して、彼と指切りをした。指切りをしたタイミングで、店に入って来た男性がいた。タートルネックテーラードジャケットを羽織った細身の青年だった。レオくんは彼を見て「やっと来た。二人を会わせたかったんだよ」と言って、アタシに彼を紹介してくれた。彼はこの店の常連客でレオくんとも親しかったらしいけれど、アタシと彼が店で会ったのは、その時が初めてだった。レオくん曰く、音楽の趣味が合うかもしれないよと上機嫌だった。アタシは、またつまらない男のストックが増えるのかな、なんて酷いことを考えながら、彼としばらく談笑していた。

談笑という単語には「笑」がある。いつも通りの、アタシの偽りの笑顔。でも、その時の彼との会話は、そうじゃなかった。談笑だったんだ、文字通りに。アタシはすこぶる落ち着いていた。彼はフランク・オーシャンが書く歌詞のメロウさを優しく、且つ情熱的に語ってくれて、アタシもほとんど同感してしまっていた。他の男と違って、アタシのカラダ目当てじゃない、この人の音楽が好きという気持ちを感じられることが、すごく心地よかった。音楽が好き、な彼が素敵に思えた。こんな気持ちはいつぶりだろう。一目惚れしたわけじゃないし、アバンチュールを期待したわけでもない。好きなものを楽しく語る彼に対して、アタシも自然と、好きな音楽について語り返していた。自分の話だけがしたいマウント野郎たちとは違って、彼はしっかりとアタシの話を聞いてくれた。嬉しかった。から、アタシはつい飲み過ぎてしまった。でも記憶はある。

アタシは音楽とセックスは似てるけど、音楽の方がジョイフルで好きという、初対面の男性に話すべきじゃない内容を得意げに話してしまっていた。でも、話すべきじゃないなんて誰が決めたことだろうか。それに、アタシは彼なら、そういう思考を分かってくれると根拠のない楽観を抱いていた。楽器を演奏することと愛撫はほとんど同じじゃん、みたいなことを言った際に、彼は爆笑して、そのままアタシを踊りに誘ってくれた。こんなにも踊りに誘われて嬉しかったことはない。レオくんがもたらすビートに合わせて、アタシたちは一緒に音楽へと身を任せることができた。音を楽しんだ。「最高にシアワセー!」と声に出して言ってしまっていたと思う。恥ずかしい。でも、本当にそうだった。始発の時間まで一緒に踊って、彼は別れ際「またこの店で会おう」と手を振ってくれた。LINEのQRコードを強引に見せてこなかった。まあ、当たり前なんだけど。彼に「またねー」と手を振り返すアタシは、あまりにも無邪気に、大きく手を振ってしまっていた。

彼はハイライトを吸う喫煙者だった。アタシは非喫煙者だったけれど、ついこの前、リョウの吸っていた赤マルでヴァージンを卒業した。アイツの吐息の香りやキスしたときの味を思い出してしまうけれど、つまり、これは敢えて強行していることだ。幼稚な呪いには、エレガントな呪いで対抗する他ない。前の前の元カレは、男のくせにバージニア・スリムを吸っているナヨナヨした男で、セックスした後に一口貰ったタバコの味が女々しすぎて、口から吐いた煙の量だけ、彼へのリスペクトも出ていってしまったのかもしれない。そんな風に感じる自分が、自分でも病的だと思いつつ、アタシはそうやってあきらめを積み重ねて生きてきてしまった。で、そういう話がしたかったんじゃない。アタシたちは喫煙者同士になった。このバッドタイミングに。中毒者でも依存症でもないから、この行為は今すぐにでもやめられる。でもやめない。これは呪いであり、アゲインストだから。幸いなことに、彼もアタシも、タバコを吸う姿が似合っていた。

ハリーズ・バーは喫煙が可能だった。その日、アタシたちはお互いに作ったSpotifyのプレイリストを聴き合ったりしながら、クラフトビールで乾杯していた。彼のプレイリストにSAKEROCKが入っていて、そこから星野源についての話になった。彼は星野源のラジオを愛聴していると言っていたし、音楽も好きだと言っていたけれど、アタシは星野源よりもaikoが女神だよと、全く幼稚でつまらない論を唱えてしまっていた。彼は失恋して傷つき、泣いてしまいたくなったときに、星野源とガッキーのテレビドラマのエンディング曲のダンスをコピーして踊りながら、鬱を脱出したと話してくれた。可愛い人だなと思った。

その話を聞きながら、アタシは自分が嫉妬していることに気が付いた。誰にかというと、生意気なことに、ガッキーにだ。もしくは、星野源に対してかもしれない。くだらないと思いながらも、この気持ちと上手に付き合っていきたいと思った。アタシが求めていて、大事にしていながらも、心に秘めている想いが、自分でもようやく理解できた。

ふとアタシは、赤マルに火を点けながら、今年の夏について考えていた。今年の夏は、まだ始まっていない。しばらく、まだしばらく春は続く。この最悪な春が。だけど、アタシにとってはこんな最悪な春でさえ、とても楽しいし、きっと夏も楽しくなるに決まっていると感じられていた。春が終わると同時に、恋が始まるかもしれない。春が終わると同時に、恋が終わるかもしれない。春が終わると同時に、恋が始まりも終わりもしないのかもしれない。それが全てだ。間違いなく。今年の春の記憶は自分の中でどうなってしまうのだろう。そんなことを考えそうになったアタシは、彼といるときだけは、とりあえず考えるのをやめた。

その5分後、彼から「海」に誘われた。それは同時に、アタシを愛していることへの告白でもあった。本気なのだろうかと、アタシは彼の顔を覗き込んだ。彼は照れもせずに、アタシの顔をじっと見つめていた。

精神的な結び付きがあるから、肉体的な結び付きが生まれるのかもしれない。けれど、そこに肉体的な結び付きがあるから、逆に精神的な結び付きも深まるのだ、ということも事実だった。そして、精神的な結び付きがまったくなくても、肉体的な結び付きだけが存在することだって、アタシたちのまわりには、しばしば起きる話だった。

アタシは彼に、肉体的な結び付きや、精神的な結び付きを求めて出掛けてきたわけじゃなかった。ただ、彼といるとムシャクシャした気持ちが消え失せて、落ち着いて楽天的な自分になれた。アタシは彼のことを最高に気が合う友達だと思っていたし、きっと彼だってそうだと思っていた。いや、本当はそうじゃないかな。じゃなきゃ、アタシはガッキーに嫉妬しないだろう。色々と考えているうちに、アタシの口からは「水着買っていいかな、今から」という言葉が発せられていた。

グラスに半分ほど残っていたクラフトビールを空けると、アタシは立ち上がって「行こう」と言った。

伊勢丹へと向かう道中、アタシたちはバカ話をしながら歩いた。彼は、アタシの肩を抱くわけでもなかった。手をつなぐわけでもなかった。アタシも特にそうしたことを求めはしなかった。肩を抱かれてホテルに入るなんて、いやだった。

水着を購入して、タクシーでホテルまで向かった。ホテルの前で降りるのはちょっと恥ずかしいなと思っていたけれど、口には出さないでいた。ホテルの近辺で彼がタクシーを停めてくれた。降りた道の突き当たりにあるホテルへ、二人で入った。

自動ドアを入ったところに各部屋の写真がパネルになって出ていて、その下に、回転ベッドとか、総鏡張りとか、オンデマンドサービス付きなんていう口上と値段が書いてあった。小さなランプが消えていると、その部屋は使用中だった。ランプのつき具合から判断すると、部屋はかなりの数が空いていた。休憩8800円、宿泊11000円と書かれた部屋のボタンを彼は押した。部屋の写真はリゾートホテルのような内装で、オーシャンビュー機能付きで海を再現、みたいなことが写真の下には書かれていた。自動販売機みたいに、部屋のカギがコトンと、ボタンの下にある口から出てきた。フロントに誰かいるのかどうかも、アタシたちからはまったく分からなかった。

彼は、うしろから覆いかぶさるようにして、髪の上から左の耳たぶに熱い息を吹きかけてくる。そうして、左手でアタシの髪をかき上げたり、後ろへ流したりする。左耳に息がかかるのと、右耳に彼の手が軽く触れるのが一緒になると、背中にゾクッとした感じが走る。

ゆっくりと体を動かしながら、アタシの耳を愛撫し続ける。向かい合わせになると、おでこの髪の生え際に軽くキスをする。続いて耳たぶにキスをしながら、軽く噛んでくる。右手は、さっきからずうっと、髪の毛を愛撫し続けている。彼は、アタシの唇にはなかなか来ない。耳たぶを噛まれると、またゾクッときてしまう。

アタシのアゴを少し上向きにすると、首筋へと唇を移してくる。彼は首筋に愛撫を加えながら、右手をニットの中へと入れてくる。替わって、左手の指を広げて、アタシの髪の毛の中に入れては毛をすいている。

彼の指が、直に背中に触れてくる。中指と薬指二本を使って、グッと食い込むような感じで、背筋の継目を一つ一つ押してくる。そのたびに、腰のあたりにズキッとした感覚が走る。耐えきれずに、小さく声が洩れてしまう。腰のあたりから、順々に上の方の背骨へと、彼の押す場所が上がってくる。

彼は、ブラジャーに手をかける。しばらく触っていたが、フロント・ホックなことに気がついたらしく、両手を前にまわすと難なくホックをはずしてしまう。そうして、ニットを端の方からクルクルと丸めて、アタシの両手を上げさせると、ブラジャーと一緒に、アッという間に脱がしてしまう。アタシの上半身に何もなくなると、首筋から胸の谷間へと、舌を使いながら愛撫の往復を始める。両手でパンタロンのホックをはずして、ファスナーも引き下げる。パンタロンは、自然と下へずり落ちてしまう。

彼は中腰の姿勢になると、舌の先をころがすようにして、アタシの左の乳房の上に時計回りに大きな円を描き始める。左手の中指を使って、右の乳房にも同じように大きく縁を描き始める。二つの円は、次第に小さな半径をとり始める。次第に乳首へと近づいてくる。

右手は右手で、五本の指を少しつめ立てて、わきの下からずうっと、わき腹へと下ろしてくる。乳首の先にまで熱い血が流れ込んでいくのが、自分でもよくわかる。急速に呼吸が速くなり、そして息も荒くなってくる。こらえようと思っても、声が洩れてしまう。わき腹に指が下りてくると、くすぐったさも加わって、とても奇妙な気持ちになる。

だんだんと小さな円を描いてきた彼の舌の先が、ついにアタシの乳首へと来てしまう。敏感に反応して、乳首が固くなって立ってくるのが、よくわかる。彼は、その固くなった乳首を軽く歯で噛んでくる。思わず声が出てしまう。それまでダランと垂らしていた両手を、彼の頭の上に置く。無意識のうちに、指の間に彼の髪をはさんで、キュッと力を入れてしまう。

初めて彼は、唇にキスをする。

早くもアタシは潤んでいた。

ベッドに横たわってから、アタシは自分でショーツを脱いだ。彼は下の部分にも熱い息を吹きかけてきた。そして、中三本の指を巧みに使いながら、やさしく愛撫を加えてきた。アタシは完全に開き切って、彼の息以上に熱いものが止めどもなく流れ出していた。

彼の指は、最も敏感な、アタシの小さな丘を捜しあてると、そこを集中的に攻めてきた。キュッとつまんだかと思うと、上へとゆっくりやさしく、かき上げるような攻め方をした。カタカタと登りつめたジェット・コースターが、一気に降りていく時のような気分が、たまらなく何度も襲ってきた。

かなりアタシを登りつめさせてから、彼は、ゆっくりとアタシの中へ入ってきた。それは、若い男の子が新しい女の子を抱くのにしては、珍しいくらいに落ち着いたセックスだった。

自分がたかぶってくると、女の子のたかぶり具合におかまいなく先を急ぐ男の子が、今までの経験では多かった。それで、若い子とメイク・ラブするたびに、アタシはいつも軽い失望を覚えていた。

彼は、今までの男の子たちとは随分と違っていた。彼は、アタシの体の波を知っているかのように、上手に取り扱った。初めての男の子との間に、こんなにもたかぶりを覚えたのは、多分初めてのことだろうと思った。

彼がニットを脱ぎ始めた。アタシもニットに手を添えて見守った。彼がニットを脱ぎ終わると、アタシは突然笑ってしまった。それまでのアバンチュールなムードが台無しになったわけじゃない。顔を赤らめた彼が着ていたTシャツは、ディズニーランドのお土産のソレで、ドナルド・ダックがプリントされていた。「しまった。これを着ていたことを忘れていた」「ねえ、こんなの着てたの? こんなのを着ていて、アタシとセックスしようとしていたの?」「悪いかい?」「ううん。全然。可愛くて笑っちゃった」「ドナルド・ダックは偉大だよ。ミッキー・マウスの何倍もお洒落なアヒルだからね」アタシは、お洒落なアヒルのTシャツをやさしく脱がしてあげた。

敢えて、アタシは彼とのセックスについて、なるべく詳細に話しておこうと感じた。それはつまり、今の時代の濃厚接触について。アタシたちは、この状況にも関わらず、ほとんど毎日会っているし、たくさんのことを話すし、キスもセックスもするし、食事もするし、一緒に抱き合って寝ている。無責任な恋を全うしているのかもしれない。彼が言っていた通り、正しい恋なんてない。ないから、思い切り間違えられるのだけど。でも、アタシと彼にとっては、決して間違いなんかじゃない。そう思えていることって、端的に言って、素敵なことじゃない?

 

「ステキだけど、なんでオレが二人の惚気話をこんなに聞かされなきゃならないんだ」
レオくんが、バーカウンター越しで疲れ果てたように笑っている。
「だって、レオくんがキューピッドじゃん、アタシたちの。だから感謝してるんだよ」
「困ったなあ。久々に店を開けられたと思ったら、アンタらの幸せエピソードを延々と聞かされて……」
「そんなに迷惑しなくてもいいじゃない」
「いや、良かったと思ってるよ、マジでね。それにこんなイチャコラなノロケよりも、いくらか迷惑だったのは……」
コロナだったね、と、隣で愛する彼が言った。

アタシと彼は久しぶりに踊った。

外出禁止を促す自粛要請は次第に減少して、こうしてレオくんの店も通常営業することが出来ている。結局、国から全国民一律で現金給付や休業補償が設けられたけれど、それがまんべんなく行き届いているはずもなく、あまりにも対応が遅すぎたことは認められる。だって今は8月。アタシたちの口座に現金が振り込まれたのは6月25日、ほぼ7月だった。世間は未だに自粛ムードから抜けられていないし、マスクだって足りない。閉店してしまった近所の居酒屋の店主が、今どこにいるのかも知らない。そして、緊急事態宣言は廃止されたものの、新型コロナウイルスの猛威は、完全に消失してはいない。ワクチンの開発成功によって状況は緩やかに回復しつつあるけれど、アビガンの副作用などを過剰に煽るデマも増えてきた。ワクチンの数自体が全然足りていなくて、1年間待たなくてはならない人もいる。コロナウイルスは消えない。また春と共にやって来るのかもしれない。思えば、インフルエンザが初めて流行し始めたとき、まさか毎年このウイルスと付き合い続けることになるとは、誰も思わなかっただろう。アタシたちは、ウイルスが死滅した時代ではなく、ウイルスと共存していく時代を生きている。

そんなことと同じように、アタシは、彼と共に生きていくことを決めた。

この恋は、まるでインフルエンザのように。そして、コロナウイルスのように。と、下手なレトリックだなと自分でも自覚しながら、アタシたちは音楽と一体となっていた。

クラブからの帰り道、外はもう明るくなっていた。彼はアタシの手を強く握りしめながら「ケーキでも買って帰ろうか」とつぶやいた。アタシは「え? どうして?」と聞き返した。「特に理由はないよ。ただ、キミとケーキでも食べてみたいなと思っただけ」と彼はアタシに微笑んでくれた。「アタシ、話したっけ、ケーキのこと」「ケーキのこと?」「いや……ううん、なんでもないの。なんでもないから、嬉しいの」

アタシたちは、どんな時間でも開店しているケーキ屋でありコーヒーショップでもある、現代社会の英知・コンビニエンスストアでケーキとホットコーヒーと、赤マルを買った。

信号を待ちながら泣いていた、涙でマスカラが流れ落ちているセミロングの女の子に伝えてあげたい。

ケーキのご褒美は、呆気なくやって来るってことを。

 

※このお話は、人生のように一部がフィクションです。

緊急時代の恋【1】この最低に美しい春を脱いで、やがて夏を着るまで

f:id:IllmaticXanadu:20200414121734j:image志村けんが亡くなったことはね、そりゃあもちろん悲しいけど、アタシ、高木ブーが89歳ってことを知って、なんかそっちの方にすっごいビックリしちゃったんだよね」と、生まれながらに大きな瞳をさらにまん丸とさせた表情で、彼女はスマホをいじっている。

彼女がセブンイレブンで買ってきたホットコーヒーを一口もらう。少し冷めていたが、猫舌のぼくには十分に美味しかった。

ぼくと同じで喫煙者の彼女は、スターバックスのことを「喫茶店のくせにタバコが吸えねえとか絶対に行かねえ。なーにがグランデよ」と罵倒していて、ぼくらは一度もスターバックスでデートしたことがなかった。スターバックスが当面の間、臨時休業することを発表するちょうど5日前、ぼくらは初めてそこでデートをした。ぼくが禁煙をしたのだ。新型ウイルス感染症拡大を受けての決断ではない。ハイライトのパッケージデザインがあまりにも粗末になってしまい、急に欲求が薄れたとでも言うべきか、そんなぼんやりとした理由で禁煙を始めた。彼女は「なにもタバコだけいじめなくてもいいじゃない。だったらインターネットにも『健康への害や悪影響をもたらします』って常に載せるべきだよ。ミクシィには心療内科のバナーがちゃんとぶらさがってたけど」と、ぼくが禁煙すると伝えたときの会話で嘆いていた。赤いマールボロの煙を、吐息と共にもくもくさせながら。

ぼくのわがままで、一緒にスターバックスへ行ってみないかと誘ってみた。彼女は、まずぼくの禁煙に対しては寛容でいてくれたが、「いいよ」という返答を、数秒間だけ渋っていた。きっと彼女がそういった反応をするだろうと予感していたので、思った通りに可愛らしくて安堵してしまった。

彼女はスターバックスでホワイトモカのグランデを飲みながら、一度も美味しいとは口にしなかった。ぼくよりも先に飲み干しながら、「『ファイト・クラブ』でもスタバを爆破しようとしてたじゃん。つまり、ほんとそういうことなのよ」と上唇にミルクを付けながら話していた。

スターバックスのコーヒーがしばらく飲めない。そして、セブンイレブンのコーヒーは、いつどんな時でも絶品だ。

「70歳って、確かにまだまだ若いと思うんだけどさ、でも本当は、いつ亡くなってもおかしくない年齢じゃない? 普通に考えて。アタシって不謹慎かな? 要は志村けんの精力、っていうか生命力がすごかったってことじゃないかな。だってあの人、ずっと女性にモテてたでしょ? すごくダンディで可愛かったわけじゃん。偉大なコメディアンってより、アタシの世代からすると、かっこよくて可愛い独身貴族の代表って感じだったんだよ。高田純次みたいなね。あれ? 高田純次って独身か……な?」

「いや、高田純次は既婚者だよ」

「ありゃ、そうだったか。でもまあ、アタシが言いたいことわかってくれるでしょ?」

「うん。そして高田純次は73歳だね」

「え、ウソ。若っ。やっぱり躁ってアンチエイジング効果があるのかな。ってかアナタ高田純次に詳しくない?」

椎名林檎と対談している映像を見てから好きはなってたよ」

「その理由はナイけど。とにかくさァ、志村けんの死を殊更に悲劇的に報道するじゃん。それで小池百合子が『死をもって我々にコロナの恐ろしさを教えてくれた』とかコメントしちゃってるわけ。いや、めちゃくちゃ論外というかさ。マジでそういう使い方するなよっていう。コロナのオマケでも教訓でもないんだよ志村けんは。消費しちゃダメなんだよ、絶対。面白くてダンディで可愛い70歳の独身貴族が死んじゃったことをさ、もっと、なんていうの、ちゃんと弔うべきなんじゃないかなって。で、高木ブーが89歳って知って、アタシ最低なのかもしれないけど、ビックリしてめちゃくちゃ笑っちゃったの。結局さ、ドリフってみんな元気で若いなーって。アタシ、ドリフってYouTubeでヒゲダンスくらいしか見たことないけど。はは。ねえ、アタシ、笑ってるの変かな」

「ううん。変じゃないよ。都知事は変なおじさんの悪夢にうなされるだろうから」

「ははっ! 百合子、後ろ後ろって!」

付き合う前の彼女は、あまり笑顔を見せない女性だった。根が暗かったという意味ではない。彼女はよく笑っていた。口角が上がると、頬にえくぼができて、真っ白いぴかぴかの歯と桃色の舌が見えるくらいに、大きく口を開いて笑っていた。楽しい話が好きで、愚痴や弱音を吐いたことは一度もなかった。赤いマールボロは、元カレ4番が吸っていたらしい。元々喫煙者ではなかった彼女だったけれど、別れたあとに会った男友達がそれを吸っていて、あらゆる意味で煙が目にしみて、その場で貰いタバコをしたという。それ以来、彼女は喫煙者だ。ぼくは幸いにも、彼女にとって5番目の恋人になった。赤いマールボロではなく、ハイライトを吸っていたのに。あるいは、吸っていたから。「アタシはね、呪われてるんだよ。アイツに。どうせ忘れられないから、解放を拒む生き方を選んじゃったの」彼女は楽しそうに、笑いながらぼくに話していた。

ぼくには、彼女が悲しみを隠しているように見えていた。まるで道化師のように、あまりにも大袈裟に笑顔を演じてみせるからだ。大きな澄んだ瞳の奥からは、深い疲労感が感じられた。彼女はよく笑っていたけれど、「笑顔」を見せない女性だった。ぼくは彼女がギャハハと腹を抱えて笑うたびに、少しずつ悲しくなっていた。たまに、頬杖をついて遠くを見つめている彼女を目撃した。ぼくと目が合うと瞬時に口角を上げて「なあに? 好き?」と冗談交じりでつぶやく。「大嫌いだね」と返した。

ぼくは彼女が好きだった。ぼくらは共通の友人の紹介で、今年の2月に知り合った。つまり、ぼくらはまだ知り合ったばかりで、付き合い始めたばかりだ。友人の職業はナイトクラブのDJで、ぼくも彼女も、友人の店でよく踊っていた。ぼくはひょうきんな性格ではないけれど、音楽が好きで、音楽に合わせて身体を動かすことが好きだった。彼女は幼い頃からピアノを習っていたし、ぼくの何倍も音楽への造詣が深かった。「二人とも趣味が似ているから気が合うかもしれないよ。仲良くなりなよ」と、友人がぼくに彼女を紹介してくれて、彼の店で初めて彼女と話す機会があった。

かなり酔っていた彼女は「音楽が鳴っていても踊れない人は、セックスも絶対にできない人だと思うのね」と言った。「それ、どういう意味?」「音楽に一番近い行為は、セックスだと思うの。だってほら、音楽ってね、聴いていたり演奏している間って、ほんとに死から遠くに行けるんだよ。だからセックスと同じじゃん。それに、楽器を演奏することとさ……ごめんアタシこういうの抵抗ないから言っちゃうけどさ、ほら、お互いの性器を舐め合ったりするのってさ……」ぼくは爆笑してしまった。爆笑しながら「きみはすごいよ。きみに同感するよ。踊ろう」と言った。エロティークな会話によって興奮したわけじゃない。彼女の音楽への信仰心を、ぼくは瞬く間にキャッチできた。ぼくたちは同じだ。同じ星の住人だった。ぼくたちは一緒に踊った。

その夜から、ぼくと彼女は頻繁にクラブで会い続けた。彼女の職業はモデルで、そのことは、くっきりとした目鼻立ちとスラッと伸びた腕や脚を見れば、まったく不思議なことではなかった。「モデルってさ、音楽が鳴っていても、無表情でウォーキングしなきゃならないじゃない。どんなに最高なダンスミュージックが流れていても、踊れないことへのフラストレーションがすっごい生まれちゃうのね。それで、アタシはモデルを始めてからクラブで踊るようになったんだ」「音楽に合わせてランウェイを歩くと、行進みたくなっちゃうよね」「そうなの、だからわざとズラして歩いたりするように言われるわけ。アレは信じられないくらい体力も精神力も使うのよ。その点、トーキョーガールズコレクションなんかは、ほら、もう踊っちゃっていいわけ。モデルも客もみんな、曲に合わせてね。批判するつもりじゃないけど、羨ましくは思うんだよね」「でも、ぼくはガールズ系は苦手だな。ショウというよりはパーティに近くて、ファッションショウの神聖さが無くなりかけてるように感じる。ぼくはウォーキングと音楽のズレにこそ、唯一無二のエレガンスとクールを感じるから」「ねえ、アナタってこういう話もできてしまうの?」「こういう話?」「モデルのアタシの話。音楽だけじゃなくて」「知ったかぶりのレベルだよ。ぼくはキミの話なら、なんだって聞きたいんだ」「無理してない?」「していないし、そんなことは尋ねないでよ」「そうね、ごめん、だってアタシ、嬉しいから。嬉しいだけなの。今度ランウェイを歩くとき、きっとあなたのことを考えるわ」

彼女が歩く予定だったAWファッションショウは中止となった。ぼくは彼女が着る予定だったメゾンのカタログを見せてもらって、可愛くて華麗なプレタポルテの数々を、脳内で彼女に着衣させた。足を運んでこの目で目撃したかった。ショウの夜は、きっとクラブに直行して、歩いた分だけ溜め込まれた欲求を、音楽とアルコールによって発散しただろうに。

彼女は微笑んでいたけれど、明らかに落ち込んでいるのが分かった。彼女はカタログを眺めながら「結局ね、アタシたちの世代って、ブランドに弱いだけなんだよね」と静かにつぶやいた。「向こうのブランド名がついていると、アンダー・ライセンスの日本製でも、なんとなくいいものに見えてきちゃうじゃない。でも、そこに付いているタグを取っちゃったら、絶対売れないよね」ブランドにこだわるなんてことは、バニティーなのかなと考えてしまう。「でも、それで気分が良くなるならいいじゃないか」と、ぼくは彼女に言った。「ブランドが一つのアイデンティティーを示すことは、どこの世界でも共通のことだよ」ふいに、ぼくの母親がバブル全盛期に、どんなに蒸し暑くてもクリスチャン・ディオールのスカーフを首に巻いていたバニティー・フェアな女性であったことを、アルバムの写真を見せてもらって知ったのを思い出した。今は、女の子たちがお洒落に着飾って、この春を謳歌することさえ出来ないでいる。

「今年の夏は海に行けるのかってことが重要なのよ」と、防衛庁の向かい側にあるハリーズ・バーの店内で、彼女は言った。細長いテーブルに二人で横並びに座って、互いにクラフトビールを飲んでいた。その4月の夜は、暖冬だった。ぼくはコートを脱いでもまだ暖房が暑かったので、ニットも脱いでしまおうとしたのだけれど、下に着ているTシャツがディズニーランドのお土産だったことを思い出し、脱ぐのをあきらめた。そもそも、彼女との8回目のデートでそんな格好をしてしまった自分の不甲斐なさに呆れ果ててしまう。でも、ぼくらはそんな友人同士だった。

ぼくがニットを脱ごうと考えた刹那に、彼女は突然、今年の夏についてつぶやいた。ぼくは「海?」と聞き返して、彼女は「そう、海」と答えた。ぼくは直感で、彼女が海そのものについて、本当は考えていないことが分かった。彼女は海に行きたいのではない。水着を着たいのだ。果たして水着を着ることが可能なのかどうかという欲求不満と予期不安が、今まさにぼくらを包み込む蒸し暑さによって無意識のうちにもたらされて、彼女はまず第一に「服を脱ぎ捨てたい」と感じたに違いない。加えて、最近は満足のいく形でモデル業に勤しむことができていない彼女は、「服を着ること」自体に対する陰鬱な感情が徐々に蓄積されつつあったように感じられた。それらの意識が集合体となって、「今年の夏の海」という幻想に結実したと推測することができる。

ここまでの論旨展開において、ぼくは自分が気色の悪いパラノイアと化していることを自覚し、心の中で微笑してしまった。こういった思考も自覚も、今までに一度もなかった。反射的に雷鳴のようなスピードで「彼女は服を脱ぎ捨てたいに違いない」と導き出した自分自身が、不思議なことに誇らしかった。だから、笑ってしまったのだ。

ぼくの方こそが、無意識に考えていたのだ。彼女の裸を。

「アタシは山よりも海が好きだったんだ、小っちゃい頃から。プールでもいいんだけど、でもやっぱり海だよねえ。砂によるエキゾチック効果を過大評価してる。だからちゃんと行きたいなあ、海」
「行こうよ、海。今から」
「え? 今からは無理でしょ? ってか、今は」
「都会にもあるんだよ、海が」
「それってどういう意味?」
「リゾートホテルみたいな内装の部屋があるんだよ、新宿のラブホテルに」
「いやだあ、それレトリックのつもりなの? 最高にダサいじゃん」
「そうだね、自覚してる」
「それに、それは海じゃないわ」
「いや、海だよ。キミと一緒に、海だと想像すれば」
「……わかってるんだけど、聞くね。これからどうしたいの」
「じゃあ、抱きたい」
「……」
「だって、結局はそこに行き着くわけでしょ、最終的に」
「そう言われてしまうと、確かに男の子と女の子の間には、それしかないのかも」
「ずっと前からキミのことが好きだった。愛しているんだ」
「それも最高にダサいじゃん。嬉しいんだけど」
「ぼくはキミの嫌がるようなことはしたくない。だから確認させてほしい」
「確認だなんて、別に。する必要ないわ。それに、嫌がってるわけじゃない」
「珍しく照れていて可愛いね」
「違うよ。嬉しいだけ。そう言ってくれて」
「こんな世の中で、キミに付き合いたいって言ったら、ぼくは非難されてしまうのかもしれない」
「誰によ? ペストが流行っていようが戦争をしていようが、恋はあるじゃない」
「恋が伝染病や戦争のように狂っているからね」
「それに、こんなときだからこそ、アナタのことを考えるもん」
「恋、でいいんだよね?」
「だから、確認なんかしないでよ。アタシは、今の今まで、アナタのことは最高の友達だと思っていた。まだ会ったばかりで、お互いに知らないことも多いし、不安もあるんだけど、これからも一緒にいたいとはずうっと思ってた。思ってたし、今、もっと思えてるわけ」
「ぼくは幸福なタイミングだと思ってるよ。キミと2月に出逢って、3月で互いを理解して、4月に告白をしている。新型ウイルスが感染を拡大させているこの最悪な状況と比例して、ぼくのキミへの想いは強まっていった。世界がこんなにも鬱屈して暗いから、ぼくの肉体も精神もヘルシーにするキミの存在をより欲求するし、キミにとっても、ぼくはそうありたい」
パンデミックが起きていなかったら、アタシのことは好きになっていないの?」
「そういう意味じゃないさ。より一層、キミの大事さと大切さを感じられている。大事で大切なら、こうして外で逢うべきではないのかもしれないし、濃厚接触という意味でキスもセックスもしてはならないのかもしれない。だけど、ぼくは正しく恋ができないよ。というより、正しく恋ができる人間なんて誰もいやしないじゃないか。ぼくの判断は間違っている。でも、間違えた二人の中で正しいと思える瞬間が少しでもあるのなら、ぼくは堂々と間違ってみせたいんだ」
「不要不急、ではなかったよね、お互いが」
「その表現の方がスマートかもしれない。本当に罰当たりな男だけれど、手を握るなと言われると、ぼくは手を握りたくなってしまったんだ」
「コドモみたいね」
「キミは、そうだなあ……大人だったかもしれない。今までも」
「……あのね、アタシ人間関係の中で、いちばんエロティックでヘルシーな関係性って、お互いがセックスしたいってわかってんだけど、絶対にしないって関係だと思うの。一生しないの。今って、何かがやりたいけどできないってことが、すごく怨念的に響いちゃうと思うだけど、そういうのとは全然違う。『アタシたちは誤解や勘違いではなく、はっきりとお互いにやりたいと思っている。言葉にはしていないけど。だけど、やらない。なぜなら友達だから』って時間をね、過ごすわけ。極端に言っちゃうと、そういう時間を楽しむわけ。アタシは、それが大人になることだとも思ってるの」
「人間には抑止力があるよね。もし抑止力が無ければ、オイディプス・コンプレックスによる父親の死体の山が世界中で溢れてしまう。これがやりたい、あれが欲しい、誰々に会いたい、あの子とセックスしたい、そう考えているうちには、本当の愛にはたどり着くことができない。抑止力を学ぶってのは、キミの言う通り大人になることと同義だよ。抑止力をエレガントに楽しむことができるかどうかが、子供と大人の違いなんだ。だからキミのその考えは、恋愛でも性愛でもない、抑止による美しさを説いていて、ぼくも同意したい」
「同意するではなく、同意したいって言ったのには、意味がある?」
「ある」
「……友情か恋愛か性愛か、わからなくなっちゃうことってある? この関係、どうしようって動揺したことってある?」
「あるよ、ぼくだって。ただ、キミに対しての気持ちはわかっているつもりだよ」
「アタシたち、初対面のとき一緒に踊ったね」
「踊ったよ」
「一緒に踊ることができたよね。そのあとも、友達なんだけど、ちょっと気持ちが一線越えちゃったと思い合ってる二人が、なんか一緒に踊れちゃったよね。体が触れ合ったとかじゃなくてさ。結局、同じ曲で踊れちゃった。もうそれで、それだけで充分にセクシーだったし、幸せだったよね」
「幸せだった」
「それは、もうそれだけでちゃんと、素晴らしいことだったよね」
「あたりまえだよ」
「うん。それだけ伝えたかったの。アタシは、それだけでも本当に嬉しかったんだよってことを」
「ありがとう」
「ううん、ありがとう。夏が楽しみになってきた」
「こんなに待ち遠しい夏はないよ」
「ねえ」
「なに?」
「水着買っていいかな、今から」
「あははっ。つまらないことを聞くけど、どうして?」
「だって今から海に行くんでしょ? だったら水着が必要じゃない。あたりまえでしょ」

ぼくらはそのまま、新宿の伊勢丹で本当に水着を購入して、タクシーでホテルへと向かった。タクシー運転手がチューニングしていたカーラジオから、ニュースではなくジョン・コルトレーンが流れていた。マスク姿の運転手は「シートね、アルコール消毒してますからね、一応ね」とにっこりと笑うので、なぜかぼくらもにっこりと微笑んでしまった。もし、ぼくが彼女と初めてセックスするのなら、神様からの託宣を受けたかのように、部屋にはジョン・コルトレーンのBalladsを流していたに違いない。

緊急事態宣言が発令されたのは、この夜から二日後のことだった。

伊勢丹もラブホテルも、臨時休業してしまった。でも、ぼくらはあの夜、あの伊勢丹で購入した水着を着て、あのラブホテルで海を体験したのだ。水着を着てジャグジー風呂ではしゃぐ彼女は、それまでで最も愛らしい表情をしていた。彼女は笑っていた。それだけで、本当にセクシーで、ぼくらはヘルシーだった。

それからしばらくして、久しぶりに二人で新宿に出掛けた。外出自粛要請の最中、あらゆる店が閉まっていたし、まばらに歩く夜の住人たちの数は、あまりにも少なく、尊かった。

ぼくらは、この春を愛でていた。人生のつまらなさを、この春のせいにしてはならないと考えていた。春が終われば、夏が始まる。ぼくが夏に抱く憧れは、彼女となら、そのすべてが可能に思えた。この夏が始まると同時に、恋が始まるかもしれない。この夏が始まると同時に、恋が終わるかもしれない。この夏が始まると同時に、恋が始まりもせず、終わりもしないかもしれない。それがすべてだ。間違いなく。もしぼくが記憶喪失になっても、この最低に美しい春と、やがて訪れる夏についての記憶だけは、絶対に忘れたくないと、思った。

 

【2】につづく。

※このお話は、人生のように一部がフィクションです。