20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

2020年映画ベストテン(外国映画・日本映画)&ワースト3

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【外国映画ベストテン】

f:id:IllmaticXanadu:20201231192844j:image10位 カラー・アウト・オブ・スペース-遭遇-(2019/リチャード・スタンリー)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195633j:image9位 ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(2019/オリヴィア・ワイルド)

f:id:IllmaticXanadu:20201231193013j:image8位 透明人間(2020/リー・ワネル)f:id:IllmaticXanadu:20201231195832j:image7位 テネット(2020/クリストファー・ノーラン)

f:id:IllmaticXanadu:20201231200210j:image6位 パラサイト 半地下の家族(2019/ポン・ジュノ)

f:id:IllmaticXanadu:20201231193139j:image5位 マンク(2020/デヴィッド・フィンチャー)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195258j:image4位 アングスト 不安(1983/ジェラルド・カーグル)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195235j:image3位 もう終わりにしよう。(2020/チャーリー・カウフマン)

f:id:IllmaticXanadu:20201231193816j:image2位 ブルータル・ジャスティス(2018/S・クレイグ・ザラー)

f:id:IllmaticXanadu:20201231200918j:plain1位 キャッツ(2019/トム・フーパー)

 

次点が多いのですが、『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』、『フォードVSフェラーリ』、『ボラット2』、『幸せへのまわり道』『スキャンダル』、『アンカット・ダイヤモンド』、『ドミノ 復讐の咆哮』などで、これらは日によってランクインするくらいには大好きです。

総評としては、優れた映画作品を選んだというよりも、今年を思い出した際に想起した思い出深い作品を選びました。つまり個人的には、今後の人生でも忘れられない映画、というものばかりです。忘れられないということは、愛しているということなので。
たとえば、『テネット』なんかは、これはハリウッド映画としてどうなんだろうというディメンションで下手っぴだなあと思う箇所もあるのですが、ノーランの映画少年のような無邪気っぷりには、思わずこちらも微笑み返したくなりました。まるで大金持ちの友達の自主映画を観ているような気持ちです。加えて、突然IMAXカメラで撮影されたショットになると、画面のフレームの大きさが変わり、通常ショットと画面サイズが異なるものを無理やりにでも繋げてしまう。こういった暴力性は極めて映画特有のものであって、フレームサイズが変わるたびに爆笑してしまいました。時間逆行世界で主人公が初めて目撃するのが「逆回転のカモメ」というマヌケさも、ノーランの頭を引っ叩きたくなるような可愛さがみなぎっており、こういうアホみたいな作品が年に一本くらいは観られるのが丁度いいバランスです。
『透明人間』はあらゆる意味で完成され切っていて本当に楽しく観ました。ホラー映画というジャンルに区別しても最高でしたし、ジャンルを差別的に限定しなくとも人間ドラマとしてしっかりと面白いので、そういった普遍的な価値を持った素晴らしい作品かと思います。
逆に『カラー・アウト・オブ・スペース』はラヴクラフト原作ということで思い切りジャンル映画ですが、多方面へのリスペクトが感じられる丁寧な作品で大変満足しました。理由も分からず狂っていくニコラス・ケイジ演じる父親の不条理劇として観ても面白かったです。

そして、『ブルータル・ジャスティス』は、そういったジャンル映画の枠を突き抜けた映画的としか言いようのない多幸感で溢れており、映画ボンクラはこの作品を武器に、シネフィルぶったエスプリ野郎たちを撃ち殺していいと思います。いつだってジャンル映画こそが最も偉いです。ジャンル映画をバカにするやつは死んでいい。
1位に選んだ『キャッツ』ですが、この映画が今年のベストワンだという確信は、鑑賞した際から全く揺らいでおりません。こんなにも真っ直ぐに純粋無垢に失敗してみせて、その失敗に無自覚であるがゆえに、ハリウッドメジャー作品であるにも関わらず「失敗されたまま」作品が全世界に輸出されたという事実がまず素晴らしいです。新型コロナウイルスが感染流行する以前に、世界には『キャッツ』が伝染していて、私は自信を持って、その感染者であると表明申し上げます。トム・ファッキン・フーパーが枕を濡らした涙の総量でサーフィンが出来ます。
また、私事ですが、恋人と付き合う前に初めてのデートで観た映画が『キャッツ』でした。爆笑する私の横で、「人間が猫になろうと頑張っているのに、どうしても人間にしか見えない」と彼女が大泣きしていたのを見て、あ、この人とお付き合いしようと改めて決心しました。そういう意味で思い出補完もされているかもしれません。惚気てごめんね。
ちなみに、別枠として「本当にありがとうございました賞」は『マンダロリアン』シーズン2です。

 

【日本映画ベストテン】

f:id:IllmaticXanadu:20201231193752j:image10位 劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン(2020/石立太一)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194105j:image9位 37セカンズ(2020/HIKARI)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194125j:image8位 眉村ちあきのすべて(仮)(2020/松浦本)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194144j:image7位 スパイの妻(2020/黒沢清)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194205j:image6位 眠る虫(2020/金子由里奈)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195401j:image5位 初恋(2020/三池崇史)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194224j:image4位 魔女見習いをさがして(2020/佐藤順一、鎌谷悠)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194241j:image3位 VIDEOPHOBIA(2019/宮崎大祐)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194306j:image2位 のぼる小寺さん(2020/古厩智之)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194329j:image1位 MOTHERS(2020/関麻衣子)

次点は特にありません。今年はあまり日本映画を鑑賞出来ておりませんので、かなり私の趣味に偏っているかとは思います。
今年は『のぼる小寺さん』が1位だと確信していたくらいには大好きな作品なのですが、逆に言えば、『のぼる小寺さん』より上位の作品に出会えることを願い続けていました。
結果、1位に選出した『MOTHERS』は、それにふさわしい力強い作品だと思っております。この作品は、日本映画大学の学生さんの卒業制作で、本年度のぴあフィルムフェスティバルに入選したものです。敢えて、ドキュメンタリーであるということ以外の一切の情報を入れずに鑑賞されることを強く推薦します。無名な作品であるがゆえに、めちゃくちゃ笑えましたし、めちゃくちゃ落ち込みましたし、映画的な奇跡の瞬間に幾度となく触れることが出来ました。地獄のような壮絶な映画であり、楽園のようなあたたかい人間のやさしさでみなぎっている作品です。監督の眼差しが本当に素晴らしいと思い、今年はこれを越えるような感情には出会っておらず、堂々の1位とさせていただきました。U-NEXTで配信されているようです。機会がありましたら是非。
そして、別枠として「本当にありがとうございました賞」は『呪怨:呪いの家』です。

 

【きらい3本】

1 バイバイ、ヴァンプ

2 アルプススタンドのはしの方

3 はちどり

『はちどり』は台湾映画のフリをした韓国映画で、私が欲求する韓国映画とはあまりにもかけ離れた優等生ぶりが肌に合わず、爆睡しました。エドワード・ヤン岩井俊二のモノマネ、ダサいので消えてほしいです。
『アルプススタンドのはしの方』は、「はしの方』のナードな人間たちが、物語の展開によって徐々に「中心」へと引き寄せられて、ヒエラルキーの上のほう=中心へと同化しようと誘導する作劇に嫌悪感を抱きました。こういった道徳の教科書のような作品を摂取するために、我々は映画館の暗闇には行っていないでしょう。『カメラを止めるな!』同様、同調圧力的な周囲の絶賛も辛いです。
『バイバイ、ヴァンプ』は映画ではなく、水洗トイレでさえ流し切ることのできないビチクソですので、本当に観なきゃ良かったと思っています。というか、こんなゴミが作られているという事実に絶句します。ちなみに、ブログに感想を書いたらプチバズりをしたのですが、「あなたはあらゆるジェンダーに差別は無いと仰っていますが、何様ですか?」などと言われ、私は本当にあらゆるジェンダー差別を抱いていないので、おっ死ねと思いました。

 

本来ならば、ベストテンすら選出するか迷ったのですが、これは毎年恒例のアソビなので取り急ぎ決行するに至りました。と言うのも、2020年は文字通りに未曾有の一年となり、例年に比べて圧倒的に劇場で映画を鑑賞する回数が減少したからです。

例年であれば、各作品ごとに簡素な感想を書き連ねるのですが、今年は総評のみとさせていただきます。映画館、あるいは「映画」そのものが大きな打撃を食らった今年は、ぼくのような映画ファンにとって、本当にナーバスな一年間でした。

ぼくは映画館が好きです。あの暗闇で、見ず知らずの人々と影を、光を見つめている時間がたまらなく好きです。ところが、ぼくらの居場所はファッキンウイルスに奪われ、楽しみにしていた新作は次々と公開延期の判断が下されていきました。

こういった状況は、実は初めてのことではありません。あの震災のときもそうでした。2011年3月10日、ぼくは茨城県の映画館で『英国王のスピーチ』を観ていて、それから2011年4月15日に『エンジェル・ウォーズ』を観るまで、映画館には行くことが出来ませんでした。

当たり前のように映画館へ通っていたぼくにとって、こういった習慣が一時的に抑制された状況は、たまらなく辛いことでした。映画を観て、映画について何かを書くという行為から遠く離れることを余儀なくされて、ぼくは本当に寂しかったです。

しかし、それは同時に、自分がどれほど映画が好きなのかということを気付かせてくれる機会でもありました。映画館が閉まっていても、配信で優れた作品が鑑賞できる時代にもなり、一憂している暇が無いことにも気付かされました。

どんな状況であれ、何かがぼくらから映画を奪うことは、絶対に出来ないのです。

最悪な時代に、最高に素晴らしい作品たちに出会えたことに最上の感謝を。

そして来年が、誰しもにとって素敵な年になりますように。

『シン・エヴァンゲリオン』と『シン・ウルトラマン』は来年のベストの何位かな……

それでは、映画が好きな皆さんも、映画なんて嫌いな皆さんも、逆境の時代で楽しくたくましく生きる全ての皆さん、本当に良いお年を!

 

【追記】

ぼくも拝聴しているポッドキャスト『底辺文化系トークラジオ「二十九歳までの地図」にて、ベスト10&ワースト3に関するメールを拝読いただきました。メールを送った時点から、少しだけ順位も変わっています。パーソナリティの皆さまから「10本に絞れよ!」「シネフィルぶったエスプリ野郎!」「惚気てんじゃねえ!」など有難いお言葉も頂戴しております。サイトでストリーミングでも、ポッドキャストアプリでダウンロードしてでも聴くことができます。是非お聴きくださいませ。

ちなみに、ぼくのメールが読まれるのは55:30〜1:08:46です!

【ウェブサイト】↓

Apple Podcast】↓

底辺文化系トークラジオ「二九歳までの地図」:Apple Podcast内の第三一六回 2020年・映画ベスト10&ワースト3(パート3/リスナー編)https://podcasts.apple.com/jp/podcast/%25E7%25AC%25AC%25E4%25B8%2589%25E4%25B8%2580%25E5%2585%25AD%25E5%259B%259E-2020%25E5%25B9%25B4-%25E6%2598%25A0%25E7%2594%25BB%25E3%2583%2599%25E3%2582%25B9%25E3%2583%258810-%25E3%2583%25AF%25E3%2583%25BC%25E3%2582%25B9%25E3%2583%25883-%25E3%2583%2591%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25883-%25E3%2583%25AA%25E3%2582%25B9%25E3%2583%258A%25E3%2583%25BC%25E7%25B7%25A8/id1093724226?i=1000503942860&at=10l8JW&ct=hatenablogpodcasts.apple.com

ずっと味があるのに何味が分からない、吐き出したいのに吐き出すことすら出来ない、呪いの映画『魔女見習いをさがして』

f:id:IllmaticXanadu:20201229144321j:image「意味がわかると怖い話」の意味が永遠に分からない感覚。今年最も気持ちの悪い、異様で、不可解で、歪んだ、特異な、謎の映画。未解決事件のような答えの無さが、本当にずっと怖い。

 

演出ではなく、この企画を通したプロデューサーや東映の異常な魅力。作劇的な正解よりも、劇中の登場人物たちのように絶えず「移動」を続ける流動的なプロットにGOを出しているのも本当にやばい。

「え、普通はそういった問題は解決するよね?そういった伏線は必ず回収するよね?し、しないの…….でもしていないのに「納得」している……え、なんで……?」物語を観ているようで、「物語」のかたちをした、別のものを観てはいないか。その異様さは、やがて禍々しさすら感じ始める。

 

辿り着いた場所から始まり、やがてまた辿り着いた場所へと帰結する円環構造は、劇中にも登場する満月の輪郭そのもののようで美しい。けれど、そういった構成自体がこの映画の肯定的な魅力であると断言できない感じ。

何に面白いと感じたのかも、何に失敗していると感じたのかも、言語で説明できない感じ。破綻しているのに失敗しているとは思えないし、美しいのに一体何を見させられていたのか納得もできない。でも確かに納得はした。じゃあ「何に」納得をしたのか……分からない。書きながらめっちゃ怖い。

 

見終わった直後は「へんな映画だなー。でも言うほどかねー」とか感じていたけれど、ふと考え始めた瞬間から何もかもが気持ちが悪くなってきて、えづいた。「呪い」を観てしまった。呪われた。

 

エンドロール後、キットカットとのコラボレーションで大量の応募者の名前が流れるという仕様がバルト9でのみあって、これがネットでは批判的に捉えられているらしいけれど、自分は肯定的だ。というか、めっちゃ怖かった。

要は、この映画自体がノンフィクションのフィクションなんだけど、あそこだけ現実が侵食している・溢れ出ていて、ノンフィクションのフィクションの「ノンフィクション性」に蓋が出来ていないが活字(しかも固有名詞)が流れていく感じが不気味すぎてめっちゃ気持ち悪くてめっちゃ怖かった。

現実世界にも、山のように劇中の3人みたいな気持ちの悪い人間がいるという事実がずっと怖い。あのようにして、観客に対して置き土産的に「はい、おみやです」と呪って帰らせるのはとてもいい。でも、激やばいと思う。

 

対男性への「魔法」を信じられない描写の数々やSNSの捉え方は、ほとんど露悪的ですらあり、それが現代的なポリコレ解釈なのだと納得出来ればいいのだけれど、ずっと不気味だった。

それぞれの挿話の必然性が「必然性の否定」で連結されながら、行く末の分からぬ深淵を落ちていくような不安を抱きながら席に拘束されていたぼくらは、一体「これ」は何だったのかと、今も記憶に焼きついた残像を追跡する。でも、残像すら目視できない。可視化されていない面白さ。

だからこの映画は「幽霊」そのもののようだ。幽霊は怖くない。幽霊を「見た」ということが怖いのだ。その感覚に最も近い。

 

LINEには肯定的。

新幹線超肯定。

君を見上げていたぼく、あなたを見上げていた私『タイタニック』

f:id:IllmaticXanadu:20201215094213j:image2012年にタイタニック沈没100周年で3Dリマスタリングされた『タイタニック3D』を劇場で観ていないので、およそ10年ぶりくらいに観た。めちゃくちゃ面白かったな。「タイタニックとかベタすぎるだろw」とアンチミーハー野郎に苦笑されるかもしれないけれど、やっぱり良いものは良い。ボロボロ泣けてしまう。これは名作だわ。

最後、ジャックと約束してきた事を全てローズが実行していたことが飾られた写真で判明し、もうそこで涙腺が緩むのだけれど、そのまま夢の中、いやあるいは天国なのかもしれないけれど、ともかくおばあちゃんだったローズが若返り、ジャックと「約束の場所」でもう一度キスをするシーンの「ええ話や……(泣)」なエモーションがやばい。おばあちゃん、マジで、マジで良かったねえ……と移入して感動してしまった。

f:id:IllmaticXanadu:20201215111313j:image恋愛映画としてもディザスター映画としても、ジャンク要素が排斥された一級品といった具合で、その行儀の良い健全性と受け入れやすさ故にアンチミーハーが唾を飛ばしたがるのかもしれないけれど、格調高く丁寧に撮られている、というよりも、意外にバッサバッサとカッティングしていく感触があって、これはぼくにとっては新しい発見だった。昔観た印象よりも、よほどクレバーな映画だと感じた。

たとえば、かの有名な船首でジャックとローズが初めてキスするシーンは、よく観るとエッ?!と思うくらいにピンボケしている。実際、このシーンの撮影はマジックアワーを狙って行われ、スケジュールを無視してかなり突発的に撮られたという。だからフォーカスが甘いのだけれど、劇中のエモーション作りと観客の感情移入がクリアしているため、本編を観ている時には全く気にならない。もちろん、キャメロンは最初のテイクがピンボケだったのでリテイクしたけれど、最初のテイクのマジックアワーの美しさと二人の芝居の素晴らしさを優先して、本編にはピンボケの「ミステイク」を使用している。こういった判断こそ、ぼくがジェームズ・キャメロンという作家にいいね!とサムズアップ出来る点だ。

f:id:IllmaticXanadu:20201215111336p:image子供の頃に観た時は、ジェームズ・キャメロンという監督がどういう作家なのかあまり考えずに観ていた。単にドンパチアクション監督だと思っていたはず。だから『エイリアン2』や『ターミネーター2』というアクション映画と比べて、なんだよ恋愛映画かよ、船が沈没してからの方が面白いな、なんてぼんやり感じていた。ところが、大人になって久々に観たら、これはジェームズ・キャメロンそのもののような映画だった。キャメロンファンには承知の事実なのだろうけれど、『タイタニック』はこれでもかと彼の作家性がむき出しになっている。

本来は強い力の素質を秘めたヒロインが、環境や状況のせいで窮屈に生きている中、謎の男と出逢い、彼が彼女を導く。やがて二人は恋に落ちて、セックスもする。そして導いた男は死ぬ。残されたヒロインは彼の意志を継いで強く生きていく決心をする。

実はこのストーリーラインは『ターミネーター』を説明したものだけれど、そっくりそのまま『タイタニック』に置き換えることが可能だ。

あるいは、閉じ込められたジャックを助けにエレベーターで向かうローズの姿は、『エイリアン2』のニュート救出へ向かうリプリーと大きく重なるといえる。

加えて、狂ったように深海オタクなキャメロンは、劇中のトレジャーハンター、ビル・パクストンに自身を投影している。「3年間タイタニックのことばかり考えてきた。でも、僕はタイタニックの何も分かっていなかった」というビル・パクストンの台詞は、『タイタニック』という映画を完成させたキャメロンの言葉のように聞こえてならない。

ちなみに、キャメロンはローズの孫娘を演じたスージー・エイミスと2000年に結婚している。

 

こうして考えると、むしろ『アバター』こそが彼のフィルモグラフィにおいて異端の作品であって、なぜならあの映画、「強い女」要素は脇にミシェル・ロドリゲス姐さんを添えるくらいで、最初から最後まで「男」が活躍し続ける完全なる「男」の映画だったからだ。『アバター』は全然好きじゃない映画なのだけれど、それは彼が3D映像とマッチョイズムに舵を切った結果、本来の作家性が削ぎ落とされた印象が強かったからなのかもしれない。

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子供の頃は、後半の沈没シークエンスの方に興味が強くて、DVDの特典の特撮メイキングをよく観ていた。CGと船のミニチュアと実物大のセット(船の右側だけ作られて、左側は映像を反転している。だから現場で俳優たちは左右逆の動きを演出されている!)を駆使して、阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる職人たちの腕にワクワクしていた。船の全体を作るのに時間が掛かるため、船尾だけ作られて先に沈没シーンを撮ったというのは有名な話。後に「あの浮かぶドアには二人とも乗れるのではないか?」と物議を醸した件について、キャメロンはメイキングで「確かにね。もっと小さく作れば良かったわ」と述べている。タイタニック同様、なんでも大きく、サイズにこだわるのはフロイトの説だと……。

あと、劇中のローズのデッサンはキャメロン自身が描いているというのもメイキングを見て知った。描いたのは撮影前で、ケイト・ウィンスレットとほとんど初対面だったキャメロンは「ヌードじゃなくてビキニ姿でいいからね……」と頼んだので、あのビーチクはキャメロンの妄想なんだな。ってなんだその話。

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最後に、ぼくの好きなシーンを。沈没寸前の中、救命ボートに乗り込んだローズ。見上げた目線の先には、婚約者のキャルドンと、その隣にいるジャックの姿。キャルドンとジャック二人もローズを見つめている。尚も目線を送るローズ。カットが切り替わると、ジャック単体のバストショット。彼女の目にはもうジャックしか映っていない!ジャックの背後で危急信号を伝える花火が上がる。その光がローズの顔を照らす。決心した女の顔。その瞬間、彼女は救命ボートから飛び降り、再び船へと乗り込む。ジャックと会うために!「飛び込む時は一緒よ!」

このシーンの好きなところは、まずこれをローズ視点ではなく婚約者のキャルドンの視点で観ると、彼もまた、ローズと「視線」が「合っている」と思っている哀しさがある。彼からしたら、ローズの突飛な行動もまた、自分自身に向けられたアクションであると捉えることが出来るわけだけれど、彼よりもジャックの方がローズの元へと速く走る。運動によって物語られる予約された敗北。

そして、編集によってジャックとローズの「視線」が合う瞬間の美しさは、観客の誰しもが「ローズは二人ではなくジャックだけを見つめている」という予感を確信へと変容させ、この二人の物語が動いてほしいと願った瞬間にキャラクターがアクションを起こす、この流れの躍動感がすごい。視線を無理やり繋げる映画のマジックに、ぼくはとても弱いのです。

タイタニック』では、ジャック救出へと向かうローズが乗るエレベーターやロープで降下していく救命ボート、船自体の沈没や沈むジャックなど、下降する・落下する運動が何度も登場する。まるで身分を関係なく、貧乏なジャックの元へと上流階級のローズが降り立つように。

そして彼女が「見上げる」というアクションは、初めはジャックがローズをデッキで初めて見た際にしていた動作だということを失念してはならない。その後、階段を下りるローズをジャックが見上げる動作は反復されるけれど、その後すぐに、今度は時計の前で待つジャックをローズが見上げることになる。ここから、ジャックはローズを一度も見上げることなく、やがて海底へと沈むまで「見上げ」の関係は延長される。高嶺の花を見上げていた彼は、高嶺の花を見上げながら死んでいく。ラストシーンは、文字通りローズがジャックを「見上げ」て、そして「並んで」終わる。こうして、上下の関係性がやがて並列となる。当たり前だけれど、映画における俳優の演技というの重要かつマジックだなあと改めて感じた。

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こんな俺に恋をさせてくれて『ダーク・シャドウ』

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ダーク・シャドウ』のポスター・ヴィジュアルを初めて拝見した際に、ぼくの心は喜びに満ち溢れており(『バットマン・リターンズ』以来のミシェル・ファイファー出演!)、これはもしかしたら、久々に心置きなく「ティム・バートン映画」が観られるのではないかしらと、期待に胸を膨らませていた。

バートンが監督なんだからそりゃそうだろうがバーロウ、と文句を垂らされる前に注釈すると、ここで記した「ティム・バートン映画」とは、「ティム・バートンらしさが感じられるティム・バートン監督作品」を指す。

例えばそれは『ビートルジュース』における支離滅裂なブラック・ユーモアであったり、『バットマン・リターンズ』におけるマイノリティへの悲哀に満ちた愛情であったり。と言うより、アリス・イン・ワンダーランド』みたいな間違った健全性を発揮されては困るのだと思っていた。で、『ダーク・シャドウ』は久々にバートンらしい案件なのではと予感していたのだ。

ゼロ年代ティム・バートンは、『ビッグ・フィッシュ』と『チャーリーとチョコレート工場』を通して「父親との和解」を描いてきた。バートンにとって「父親との和解」は、幼少期のトラウマからの脱却として、いつかは乗り越えなくてはならない題材だったからだ。
彼のフィルモグラフィを熟知している追っかけからすれば、そのテーマと対峙し、見事に成功してみせたこの試みに、まずは賞賛の拍手を送った。とは言え、バートン・アディクトなぼくは両作品とも楽しく鑑賞出来たけれど、精神的には決して満腹感を得てはおらず、俺の見たいバートン映画はコレじゃないんだよと、どこか消化不良な感情も隠し切れなかった。

だからこそ、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』でのバートン節の復活には切実に感嘆したのを憶えている。
コチラも、ジョニデが白塗り顔面蒼白メイクで喉を掻っ切りまくる大人の悲哀に満ちた傑作で、バートン×白塗りに間違いなし!と暴論を提示しようと思ったけれど、個人的に『アリス・イン・ワンダーランド』はその定義に当てはまらないので、この暴論は今滅却しました。

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さて、結論、『ダーク・シャドウ』は紛れも無い「ティム・バートン映画」の傑作といえる。ぼくはこの映画が愛おしくて仕方ない。

ポスターで顔面白塗りのキャスト陣が、劇中においてもちゃんと顔色が悪いこと、そして顔面蒼白な人しか登場しない(顔色の良い人は大体殺される)という、それだけで大いに素晴らしい映画でもある。

カリガリ博士』とか『吸血鬼ノスフェラトゥ』とか、20世紀初頭のドイツ表現主義の匂いがプンプンしているメイクや美術も素晴らしい。

200年ぶりに蘇ったら元カノにボコボコにされる吸血鬼バーナバス・コリンズを演じたジョニー・デップの演技が、いつもの如くコテコテな自意識過剰とは言え、今回ばかりは役柄とのケミストリーが良く、特殊メイクで6センチ伸びた長い指で催眠術を施す姿が実に華麗だった(ちなみに、この長い指はバートンのオリジナルアイデアで、撮影前のジョニデは「指なんて伸ばしたら色々と不便だからぜってーイヤ!」と反対していたらしい)。

あと、棺から起き上がってあくびをした吸血鬼は恐らくバーナバスが映画史上初なので、これも可愛い発明だと思った。

ひとえに、ジョニデを暴れさせ過ぎずに抑制出来ているのも、20年来の付き合いとなるバートンとジョニデコンビの絆が成せる業だろう。

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事ここに於いて特筆すべきは、魔女アンジェリークを演じたエヴァ・グリーンの熱演に他ならない。とにかくエヴァ・グリーンがすんばらしい。エヴァ・グリーン最高傑作

言ってしまえば、ぼくは『ダーク・シャドウ』が、バートンが悪意を込めて描き上げる魔女アンジェリーク主演のドス黒逆恨みリベンジムービーだと確信している。

なぜなら、劇中の彼女はバットマン・リターンズ』のペンギンと全く同じ台詞を口にする。

「BURN BABY BURN!」

エヴァ・グリーンという女優は、こんなにも喜怒哀楽の表現が素晴らしい俳優だったのかと感動した。ニタリとした愛想笑いから、瞬時に冷徹な表情にシフト・チェンジが出来たり、バーナバスを見つめる失恋を覚悟したかのような悲哀の目つきがあまりにも切ない。

やはり印象的なのは彼女のラスト・カット。

あんな顔されちゃあ、ねえ……と男なら誰しも許すところを、本作のバートンはキッパリと言い切る。

「ぜってー許さねえ!!!」

ひえー!ウソでしょ?これ本当にティム・バートンの映画かよ!

そこで提示される残酷なまでの回答こそ、バートンが完全に「大人」になってしまっていることを示唆しており、ファンにとっては嬉しい悲鳴。

ダーク・シャドウ』は「愛されない者の愛」を絶望的に押し付ける、「大人」になったバートンからの、素晴らしく愛おしい仕返しなのだ。

そう。もうここには、自分を愛してくれない世界への復讐をしていた『バットマン・リターンズ』のペンギン=ティム・バートンはいない。
冒頭に前述した『ビッグ・フィッシュ』、『チャーリーとチョコレート工場』を経て成長した彼が、『ダーク・シャドウ』で「家族」という題材を描くのは宿命的な行為だったはずだ。
しかし、本作は何よりも、「父親」とか「家族」とかを否定していた、かつての自分自身への愛憎入り混じった仕返しなのではないだろうか。

もしかすると、愛を求め、愛を憎み、愛されることのなかったアンジェリークは、バートン自身のことだったのかもしれない。

 

ところで、本作にはもう一つの見方があると思っている。

アンジェリーク初見時、「誰かに似ている気がする……」とモヤモヤしていたのだけれど、中盤の舞踏会のシーン(T-REXが流れた直後にアリス・クーパー登場、というやるせないステージ)で、アンジェリークがコリンズ家に現れた際、全身に電撃がビビッと走った。
彼女が身を包んだ真っ赤なドレスデザイン、やたらと強調される巨大な乳房からし『マーズ・アタック!』の女火星人を演じたリサ・マリーを思い出さずにはいられなかった。

ダーク・シャドウ』のアンジェリークは全編を通して、明らかにリサ・マリーを彷彿とさせる風貌が成されている。
リサ・マリー、何を隠そう、バートンの元恋人である。
ようやく、そこで全てが繋がる。
そうか、これはリサ・マリーへのリベンジムービーだったのか!

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ともすると、バートンが自身のフィルモグラフィで初めてセックス・シーンを描いたのも、彼女との情事に関する露悪的な描写なのか、はたまたセックスは最高だったけれど結果的には最悪でしたという自虐ネタなのか、どちらにせよ、アンジェリーク=リサ・マリー」として解釈してみると、非常に面白く鑑賞出来る。

仮にも二人が付き合い続けていたとしたら、このアンジェリークの役にリサ・マリーをキャスティングしていたかもしれない。あるいは、『アリス・イン・ワンダーランド』でアン・ハサウェイが演じた白の女王も、リサが演じていたかもしれない。恋の終わりに、ifは尽きない。


二人の出逢いは91年のクラブだったらしい。どうせバートンが「俺、ゴジラが大好きでさ~でもこんな怪獣オタク、誰も好きになってくれないからさ~」なんて酔い潰れてつぶやいたら、おっぱいを揺らしたリサたんに「ウチもゴジラ超好きー!」と言われてノックダウンしてしまったのだろう(※妄想)。
ルックス、性格、話し方、趣味嗜好など、まさにTHE童貞なパーソナリティを持ったバートンが、巨乳でゴスな美人モデルにイチコロされちゃうのは分からなくもありません(情けない文章)。

その後、リサ・マリーはバートン作品のミューズとして次々と彼の作品に出演するけれど、約10年間の交際を経て破局となる。
実際、破局後にリサ・マリーはバートンに対して、今後の人生を金銭的にサポート出来るだけの多額な補償金を請求している。
恐らくこの経験が、バートンにとってはかなりの辛い経験だっと推測される。

 

そして、そんな彼女へバートンからのリベンジが、あのアンジェリークに放ったバーナバスの言葉なのではないか。

「お前は誰からも愛されないし、誰かを愛することも出来ない!!!」

バートンが自身の作品で、愛されない者を真正面から全否定してみせたの初めてだ。

それでも、バートンが完全にアンジェリーク=リサ・マリーに憎悪を抱いているのではない証拠が、「心臓」のシーンだといえる。
いくら大人へと成長したとは言えど、やはり愛されない者への優しさの視線を忘れていないのがティム・バートンだ。
結局、受け取らないという残酷さ。いや、受け取らなかったことが優しさなのか。
実にオトナな余韻を残す、ティム・バートンらしい名シーンだと感じた。

ダーク・シャドウ』はリサ・マリーへのリベンジ・ムービーでもあり、同時に、そんな彼女に対して「それでも、ただの映画オタクだった、ただの童貞だった、こんな俺に恋をさせてくれてありがとう」とお礼を言っているような映画のように感じられてならない。

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さて、『ダーク・シャドウ』を今語ることの意義は、ティム・バートンとヘレナ・ボナム=カーターが破局した時代だからこそ存在していると考えている。

2014年初めには既に破局状態にあったこのカップルは、約13年の関係に終止符を打つことになった。今現在、ヘレナとタッグを組んだ監督作品は本作が最後となっている。

2012年当時、『ダーク・シャドウ』を劇場で鑑賞したぼくは、最愛の今カノの顔で幕を引くこの傑作に心酔してしまい、完全に童貞クンから卒業したオトナなバートンからのサプライズに歓喜したのをよく憶えている。
今となっては、その今カノも「元カノ」と化してしまい、この作品がバートンにとって、より悲哀に満ちたフィルムになっていることは間違いない。

しっかし女が怖いのは、そういうことを言っても一ミリも微動だにせず、むしろリサ・マリーの方がバートンへ「るせぇ!ヘレナとなんか別れちまえ!」と、まるで呪いでもかけたかのように怨念が伝わって、そしてそれが現実と化してしまったことだろう。

まるで魔女の呪いみたいに。

そして今、この映画を観て新たに思うことは、あのラストカットの恐ろしさ。
目をカッ開いてキャメラを凝視するその表情は、まるでこんなことを訴えていたのかもしれない。
「あんた、アタシを映画の中で何回殺したら気が済むワケ? 許さん!!!」


かつて恋人だったナンシー・アレンを映画内でぶっ殺しまくっていたブライアン・デ・パルマにこの映画を捧げます。

 

追伸1
リサ・マリーの最近の出演作が、ロブ・ゾンビ魔女狩りムービー『ロード・オブ・セイラム』というのも、魔女つながりとして何か意味深です。

追伸2
アリス・クーパーはいらなかったよね(ああ、言ってしまった・笑)

BURN BABY BURN!『バットマン・リターンズ』

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虐げられし魂のあがき。あるいは、怪物としてでしか生きられない者同士の嫉妬合戦。嗚呼、こんな暗黒で残酷で哀しい映画が他にあるものか……アルティメットオールタイムベスト大傑作!な『バットマン・リターンズ』について書こうと思う。ちなみに、ぼくが毎年クリスマスに必ず見返す映画です。

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ティム・バートン監督の『バットマン』は、公開10日間で100億ドルという記録的なヒットを巻き起こした。しかし、後にバートンは『バットマン』について「親しみの感じることの出来ない自作映画の一本」と告白している。大作映画故に苛酷な条件が散りばめられた現場は、彼にとって考える暇も、撮影を楽しむ余裕も無かったそうだ。

その後、『シザーハンズ』でまたもや興行的に大成功を収めたバートンの元に、『バットマン』続編の話が舞い込んでくる。当然、難色を示すバートン。しかし、彼が目を通した第1稿には「ペンギン」と「キャットウーマン」が既に登場していた。

「続編を監督する気になったのは、ペンギンとキャットウーマンという複雑で魅力的なキャラクターを紹介したかったからだ」バートンはそう語る。


当初、前作の脚本家でもあるサム・ハムが『リターンズ』にも雇われていたが、彼の脚本はスタジオ上層部には不評だった。そのため、新たな脚本家として起用されたのがダニエル・ウォーターズだ。

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バートンがウォーターズを推薦した理由は明白だった。なぜなら、ウォーターズの脚本デビュー作である『ヘザース/ベロニカの熱い日』(88年/マイケル・レーマン)は、何を隠そう、孤独な高校生が学校を爆弾で吹き飛ばそうと企む話だったからだ。「ヘザース最高! マジ同感した!」と、ウォーターズと手を組んでウキウキのバートン。こうして、絶望と疎外で埋め尽くされた狂気のプロットは完成していった。


「僕はペンギンやキャットウーマンが悪人だとは思えないんだ」

バートンがそう語る通り、厳密に言えば彼らは悪人ではない。彼らは差別や偏見の被害者なだけなのだ。本当の悪人は、クリストファー・ウォーケン演じるマックス・シュレックだけだ。言わずもがな、名前の由来は『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22年/F・W・ムルナウ)で吸血鬼を演じた俳優"マックス・シュレック"から拝借されている。

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シュレックは『リターンズ』のキャラクター全員の触媒的な存在として機能している。表はゴッサム一の大富豪として慈善活動に励むが、裏では密かに策略し、悪事に手を染めている。まるでヒーローと悪党の境界線をボヤけさせるためにいるキャラクターだ。だからこそ、唯一の悪人の彼だけは「マスクをつけていないが、マスクをつけている」キャラクターとして登場するのだ。


と、ここまで記してきた通り、実は『バットマン・リターンズ』は、そういった「二重性」について精神分析的に描かれた映画である。

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ペンギン(ダニー・デヴィート)は自作自演の誘拐事件を解決し世間から英雄扱いされ、一躍人気者になる。その人気を手玉にとって、市長選挙に立候補するのだ。一見すると汚い手のように見えるが、これは「ただみんなに愛されたい」という彼の心からの願望を実現させているだけだ。「ただみんなに愛されたい」という彼の動機は、実はとても純粋なものである。

そんなペンギンを信じないのがバットマン(マイケル・キートン)だ。彼は何の根拠もなくペンギンに疑いをかけるのである。そして、バットマン市長選挙の妨害を試みる。まるで、ペンギンが世間から受け入れられるのが、単に我慢できないかのように。

劇中でペンギンはバットマンにこう指摘している。

「お前は嫉妬してるんだ。おれは本物のフリークだけど、お前はマスクを被らなきゃならないからだ」

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ここで『バットマン』を思い返してみよう。ジャック・ネーピア(ジャック・ニコルソン)はボスのグリソム(ジャック・パランス)から裏切られ、バットマンにより化学薬品のタンクに落とされてしまう。顔は白く漂白され、永遠に笑いが貼り付けられたのだった。

「おれは狂った。でも最高に幸せだ」

ジャックは狂気によって解放され、ジョーカーという名の「自由」を手にしたのだ。肉体的フリークになることで明るく解放されたジョーカーと、マスクを被らなければ内面のフリーク性を表に出すことの出来ないバットマン

バットマン』も『バットマン・リターンズ』も、バットマンがジョーカーやペンギンに嫉妬しているように見える。

バットマン』公開時のインタビューでバートンは次のように述べている。「これは2人のフリークの闘いなんだ」と。

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こうして考えてみると、『バットマン・リターンズ』における「二重性」というのは、実は全てのキャラクターがバットマン自身を投影したキャラクターになっているということが解ってくる。

幼い頃に両親を失い、暗闇で孤独に生きてきた「トリ人間」のペンギン、あるトラウマが原因で自己が崩壊し、マスクに顔を隠し夜に生きるキャットウーマンゴッサム一の大富豪でありながら、裏では自身の策略に没頭するマックス・シュレック

バットマンは劇中、何度も「自分自身」との闘いを迫られているのだ。

このように、バットマンの精神的な葛藤を「具現化」してみせたとも言える本作は、何処ぞのクリストファー何とかノーランが監督した一連の『バットマン』シリーズの何倍も秀逸で、優れている作品だと豪語する(まあノーランは無邪気で可愛い野郎だということは後に認識するに至った)。

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さて、ここでキャットウーマン(ミシェル・ファイファー)とバットマンの関係性について記しておく。

彼女はジョーカーやペンギンとは違い、バットマンと同類のフリークだ。バットマンキャットウーマンも、人間をやめて、闇に潜む獣のマスクをつけることで、初めてコンプレックスから解放された。

前作『バットマン』のヒロイン、ヴェッキー・ヴェイル(キム・ベイシンガー)は、ブルース・ウェインバットマンと知って彼から逃げてしまう。しかし、キャットウーマンは違った。彼らが惹かれ合うのは、同じ種類の「怪物」だからである。

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舞踏会でセリーナとブルースが踊るシーンがある。誰もが仮装しているにも関わらず、彼らだけは素顔だ。いつもマスクを被った2人にとっては、人間の顔こそが「仮面」なのである。この馬鹿げたまでに分かり易い描写は、同時に、本作における屈指の名シーンだ。

マスクとは、"隠れること"の象徴である。しかしながら、時には自己表現の入口として、その門を開く手助けをすることもあるのだ。実際、バートンは幼少期のハロウィン・パーティで仮装をするたびに、それを実感していたと言う。マスクに守られているから、大胆になる。隠れているから、自由になる。

だからこそ、バットマンキャットウーマンは、コスチュームを着ている時には互いに惹かれ合うのだが、ひとたびマスクを外せば、互いに関係できなくなってしまうのだ。

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ここでもう一つの二重性として「生と死」の境界線が暗示される。

そう、キャットウーマンは一度"死んでいる"のである。しかも彼女は、まるで男という社会にレイプされて死に絶えた、女たちの怨念の集合体として蘇っているとも言えなくはない。

つまりその事実は、生者であり加害者である男性としてのバットマンと、死者であり被害者としての女性であるキャットウーマンが、本質的に断絶されており、必然的に結ばれないことを意味しているのだ。

か、哀し過ぎる……あまりにも悲哀に満ちたラブストーリーだ。

バットマン・リターンズ』は、バットマンやペンギンだけではなく、キャットウーマンの永遠に救われない孤独を描いてみせることで、より一層の寓話性を倍増させているのである。

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バットマン・リターンズ』は前作を超える大ヒットを記録したが「バットマンが脇役」「狂った奴しか出てこない」と「普通の」評論家や観客からは酷評された。バートンは思ったかもしれない。お前らみたいな「普通」が「彼ら」を孤独にしてしまうのだ、と。

愛してくれる人、理解してくれる人を誰よりも求め、愛されている人、理解されている人を誰よりも憎んだペンギン。彼こそがこの映画のテーマなのだ。

実際、バットマンの登場時間よりも、ペンギンとキャットウーマンの登場時間の方が多い。


「わかってる。僕は彼らを愛しすぎてしまったんだ」バートンはそう認めている。

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ココからは超余談だけれど、本作を初めて観たのは中学一年生の頃で、孤独と疎外感で恵まれた人間への憎悪で埋め尽くされていた思春期の自分は、心からこの映画に救われた。ペンギンの叫ぶ"BURN BABY BURN!"はぼくの心の声でもあった。以来、何度も見返しては勇気付けられているが、生まれて初めて恋人と本作を鑑賞してしまった。"してしまった"という感覚は、愛されなかった者たちの魂のあがきをカップルで見ちゃっていいものかという不安と、思春期の頃の自分とペンギンやキャットウーマンへの罪悪感からである。カップルで『バットマン・リターンズ』を観るとかふざけんな!!幸せなヤツに『バットマン・リターンズ』の良さが分かってたまるかブチ殺すぞ!!と怨念でみなぎっていたぼくだったが、ちゃんと彼女にも響いていたようで大変気に入ってくれたらしい。良かった。こんなに嬉しいことはない。めちゃくちゃ安心した。こうして、映画は観るタイミングや誰と観るかによって趣が変容していく。し、響くものはいつだって響き、普遍的な価値を保持している。みんな死ね!!と思っていた頃から、ほんの少しだけ成長した気がした。それでも、本当の意味で『バットマン・リターンズ』に救われた時の自分自身という存在を、決して忘れずに生きていきたい次第である。

『ハリー・ポッター』シリーズ全作鑑賞備忘録

f:id:IllmaticXanadu:20201208095534j:imageハリー・ポッターと賢者の石』(2001/クリス・コロンバス)

19年ぶりに観た。確かに当時、劇場でワクワクしながら家族で観たことのノスタルジー補完はあるものの、もうずっと設定が楽しいから飽きないね。あと美術が総じて素晴らしい。

クリス・コロンバスって監督として全然好きじゃないし(だからキュアロン版ハリポタの『アズカバンの囚人』が一番好きだし)、今観るとヌルいなーって描写が多かったりもするのだけど、こういう映画、こういうジュブナイル映画の存在の大切さはひしひしと感じる。小学生の頃にハリポタ観られて心底良かったよ。こういう映画、もっと必要だよ。子供のための映画が。

ハリーが魔法でダドリーをヘビのブースに閉じ込めちゃってニヤニヤ笑ってるの、よく考えると怖いな。え、どうしよう、大丈夫?とかじゃなくて、ザマァーってニヤニヤ笑うの、怖くない?このシリーズはずっとそう。悪いことをした誰かが酷い目に遭うとめっちゃ笑う。イギリス的なユーモアがずっと流れている。

ロンがずっと愛おしいな。個人的にこういうお調子者の臆病キャラが好きすぎるし、そいつが得意な分野(本作ではチェス)で最後活躍するの熱い。ずっと面白い顔しかしていない。

ハグリッド終始口滑り過ぎ。ダンブルドア校長グリフィンドール優遇し過ぎ。マクゴナガル先生クィディッチ好き過ぎ。しかし『死の秘宝PART2』観た後だと、クィディッチの試合で必死に呪文唱えるセブルスに泣くな……。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105531j:image↑ハリーが目が合って傷が痛んでいたのは、スネイプ先生ではなく……

f:id:IllmaticXanadu:20201208095721j:imageハリー・ポッターと秘密の部屋』(2002/クリス・コロンバス)

18年ぶりに観た。バジリスク、嗚呼バジリスクバジリスク。とにかくヘビちゃんのインパクトが大きくて、鑑賞当時の「うわあ!でっかいヘビだ!」という怪獣要素の印象のおかげでほとんど忘れてた。でも見返したらほとんど憶えてもいた。自傷妖精ドビー、ギルデロイ・ロックハート先生、空飛ぶ車、吼えメール、マンドラゴラ、パーセルタング、ポリジュース薬、嘆きのマートル、アラゴグ、リドルの日記、そしてバジリスク……不死鳥のフォークスの「涙」は、実は『死の秘宝PART2』の爆泣きエピソードへと「涙」で繋がる。

シリーズの中でも最もミステリー要素が強く、前半で散りばめられた伏線が段階的に回収されていくのが気持ちいい。しかもリドルの日記は後のシリーズでも重要な要素になるしね。

前作との差別化を図って若干暗い演出が多いのだけど、ギョッとするのは血文字の前に吊るされた石化した猫くらいで、やっぱり初の死人が出る『炎のゴブレット』ほどの絶望感は無い(クリス・コロンバスの演出が甘っちょろいので次作『アズカバンの囚人』でブラッシュアップされたけど)。ましてや、ロンが前作以上にコメディリリーフとして「あわわ〜」「うそだろお〜」と表情豊かにオモシロを担当しているので、案外切迫感が薄い。加えて、シェイクスピア俳優(?)のケネス・ブラナーをゲストに呼んで、彼にとことん軽ーいペテン師を演じさせている。

しかし、これは欠点ではなく美点だと思う。ミステリー要素強め、生徒たちが石化、ジニー誘拐、スリザリン後継者が現るな暗い内容に、矢継ぎ早に投入されるコメディ要素は謎解きから観客を離さない。この辺の陰陽のバランスが、暗いけど楽しい、楽しいけど暗い、暗過ぎず明る過ぎずという本作の雰囲気を形成していると思う。でもリドルの日記破壊からのリドル爆散のくだりなんて、ガキんちょには結構トラウマもんだよね。

空飛ぶフォード・アングリアを運転するロンがずっと可愛かったし(途中車から落下しそうなるハリーの手を掴むけど、ロンの手が汗まみれで滑るのが可笑しい)、暴れ柳に車がブチ壊されるくだりは『ジュラシック・パーク』だし、そこでロンの杖が折れるのも笑ったし、その後車が「怒って」ハリーたちや荷物を「もう二度と乗るな!」と勢いよく放り出して森に走って行くのもめっちゃ可笑しかった。改めて見直している過程、どうやら俺はロン推しのようです。

今回はスリザリンメインの作品なのでマルフォイもずっとうるせえ。表情がうるせえ。芝居上手いなー。でもハーマイオニーに「穢れた血」って言うのマジ最低ですから。その後涙を浮かべる彼女を励ますハグリッド泣ける。ハグリッドはずっと優男だ。ラストのルシウスが超ザマアだった。あとドビーとゴラムなら、本当にドビーの方が可愛いなとも思った。

アラン・リックマンケネス・ブラナーの決闘シーンがあって燃える!のだけど、あっさりケネス・ブラナーが負けるのも含めて笑った。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105731j:image↑『テネット』とは大違いの爆発的胡散臭さなケネス・ブラナー

f:id:IllmaticXanadu:20201208095847j:imageハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(2004/アルフォンソ・キュアロン)

シリーズで最も格調高い「映画」なハリポタ。であり、最も精神分析的な一本。アルフォンソ・キュアロンがこれでもかとサイレント映画オマージュを散りばめていて、ほとんど台詞ではなくスラップスティックなシーンが連発するし、アイリスイン/アイリスアウトが繰り返されながら、カリガリ博士やラングやムルナウ的な美術が徹底される。「さあこれから災難が巻き起こるぞ!」とガマガエル持ちながら合唱するの、サイレント映画の説明字幕みたいな役割だったし。もちろんキュアロンなので長回し要素もある。アラン・パーカー組撮影監督のマイケル・セレシンによるダークな陰影は、そろそろ勉強どころじゃなくなってきた感がビンビンに。

始まった瞬間から終わりまで、物語的にも映像的にも、終始「光」についての描写を突き通し続けている。だから天候映画でもある。闇の中の光についての物語は、断片的な光のきらめきが連なり、ついに「エクスペクトパトローナム」へと帰結する。何度も繰り返される父との比較。しかし最終的には、そんな父をも超える大きな光を、自らが自らのために照らす。自己肯定と光。映画と魔法。映画の光。美しい物語だと思う。

明確な敵役が存在せず、クライマックスが地味なのも頷けるけれど、ディメンターもピポグリフも狼男もタイムリープもあるし、2時間半あっという間な展開。英国俳優たちのキャストアンサンブルも楽しい。

台詞もないスリザリンのボブヘアの女の子が可愛い。と、小学生の頃に観た時の印象がずっとあったけれど、10年ぶりくらいに見直したらマジで台詞もクローズアップも無いマルフォイの腰巾着、の隣にいるような超脇のキャラクターだったので、やれやれƪ(˘⌣˘)ʃと思った。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105835j:image↑この右端のボブヘア・スリザリンの娘が好きだったけど、全然出番なかった……

f:id:IllmaticXanadu:20201208100005j:imageハリー・ポッターと炎のゴブレット』(2005/マイク・ニューウェル)

15年ぶりに観た。劇場で観た時、ついに描かれたヴォルデモートのヴィジュアルの素晴らしさに感銘を受けたのを憶えている。ペティグリューによるヴォルデモートの作り方講座が終わると復活する彼は、不気味さと恐怖を体現するかのようなハゲ姿なのだけれど、最も生理的嫌悪を抱くのは「鼻」だろう。鼻が無い、というヴィジュアルショックは、まるで骸骨そのものを想起させる。

シリーズにおいて最も単純化された物語には、何らサスペンスも無い。対抗試合の様子も全く盛り上がらないし、人間描写にしても台詞にしても、ずっとダサい。極め付けは、童貞のメガネの初恋を結構な尺で目撃せねばならず、心底どうでもいい。これだ!という決めのショットも無いしね。ダメだこりゃ、と鼻クソをほじっていると、クライマックスで復活するヴォル。そして初の生徒の犠牲者。急に大絶望で幕が閉じる。このヴォル復活が無ければ、相当どうでもいいダサい作品なのだけれど、13年ぶりに復活したヴォルが「決闘しよ。しよしよ」とテンションが高いので楽しい。

とは言え、この監督の演出のダサさというのは、例えばハリーが暴れん坊のドラゴン・ホーンテールから奪い取った金の卵が、グリフィンドール生の目前で掲げる手にジャンプカットする編集があるのだけれど、これ見よがしな省略で心底ダサい。

あるいは、クライマックスの対ヴォル戦において、亡霊となったセドリックやハリー両親がハリーの前に現れるのだけれど、その時に、冒頭で殺されるマグルのおじいちゃんもなぜか現れる。ヴォル復活という絶望の時間に、なぜか緊迫感を削ぐようなおじいちゃんの登場。当然、このおじいちゃんは何もしない。出さなきゃいいのだ。必要ないのだから。

原作ではそうなんだとかどうでもよくて、映画のサスペンスやエモーションを如何に作り出すかという術を、この監督は忘却しているとしか思えない。ハリーとロンの喧嘩の終結とかダンスパーティー諸々とか、人間や若者をナメんなよと言いたい。あと、客をナメんなよ。

と、本当に色々ダサいTVムービー並のクオリティである本作に肉付けされているのは、やはりキャラクターたちの魅力だと思う。特にマッド・アイ・ムーディーが濃い。対抗試合のためにやって来るラグビー部みたいなマッチョとか宝塚歌劇団みたいな女学生たちとかも面白い。ドラゴンも造形かっこよかったです。水中でハリーを襲うポニョみたいなタコみたいなやつらも気持ち悪くてよかった。ハグリッドと恋仲(?)になるデケエババアもよかった。ハリーもロンも『アズカバンの囚人』からめっちゃ大人っぽくなっているのだけれど、ハーマイオニーがめっちゃ綺麗になってるのもよかった。「次はすぐに私を誘うべきよ!んもう!」とロンに泣きながら怒るのとか、めっちゃ女子じゃんと思えてよかった。

本作から魔法によるバトル要素が確実に付加されたので、1〜4を前半「学校は楽しいけれどたまに死にそうになる編」として、残りの「もう勉強している場合じゃないから戦争します編」の後半も楽しみたい次第です。

ワールドカップの最中にデスイーターが奇襲してくるのだけれど、テロとして普通に怖かったな。

『テネット』ファンには『秘密の部屋』のケネス・ブラナー然り、キャスト的に懐かしくてちょっと嬉しい作品ではあるね。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105941j:image↑『テネット』で再共演を果たすセドリックと宝塚。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100202j:imageハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(2007/デヴィッド・イェーツ)

13年ぶりに観た。終盤、シリウス・ブラックがハリーに思わず「いいぞ、ジェームズ!」と叫んでしまうのが一番最高。あそこがガン泣きポイント。たった一言の台詞に宿る凄まじいエモーショナル。その後のシリウスフワァ〜の余韻の無さもどうでもよくなるくらいに最高。そんでもってダンブルドア対ヴォルデモートにおける、このジイさん……強い!というダンブルドアの力の誇示っぷり燃える。思えば、シリーズでダンブルドアが戦闘モードになるのはこれが初めてで、それが満を持して対ヴォル戦だというのはどうしたって盛り上がってしまう。「いくぞトム!」「黙れ老いぼれが!」ある意味師弟対決。ハリーくん見てるだけしか出来ない。ヴォルはすげーガラス割ってたな。うんぎゃー叫びながら。レイフ・ファインズ、小説版では表現出来ていない絶妙な叫び芸してていいんだよな。

本作から最終作まで、監督はデヴィッド・イェーツとなった。個人的にはあまりこの監督を評価してはいなくて、というのも、画面にグリーンを基調としたカラーグレーディングをすればいいと思っていやがって、全体的に暗い。画面だけじゃなくて話も暗いのだけれど、なんかこの軽ーいシリアス感がどうも好ましくない。まあ路線変更というか、ココから戦争突入なので製作陣の判断は分からんでもないけれど、子供たちにとってどうなんだろうこの暗さは。あと、普通にTV放映版かよってくらいにカットが抜けてて、編集のせいなのか撮影時のコンテのせいなのか知らないけれど、とにかくブツ切り感が半端ない。魔法でカットが抜け落ちてるのかとすら思うよ。ボリューミーな原作を2時間半に脚色している手腕も、事務処理的でしかなく、娯楽にはなっていない。こんな演出力のないシリアスぶり野郎が、まさか最終作まで監督しようとはこの時には思ってもおらず。というかファンタビも彼が監督なわけで。あれ、じゃあ俺がおかしいのか? でも上手い監督とは全く思わない。

ファッキン魔法省やアンブリッジのババアが体現している通り、どんな時代どんな場所においても権力による監視社会というのはクソでしかない。言論統制、行動や表現の自由を剥奪する政治は、トランプ政権をやんわりと予言したかのようだけれど、本作では同時代的に、モロにブッシュ政権の「愛国法」をトレースしながら、いよいよ魔法界にもディストピアが到来する。ヴォル復活を認めようとしない魔法省は、安倍政権、現菅政権をフィクションでも見せられているかのようだ。アンブリッジが「権力ファックオフ、学校やーめた」なフレッドとジョージによって一発食らわされて、その後ケンタウロスたちに拉致られるまでカタルシスが無く、権力うぜえ死ねとずっと思いながら観ていた。

ヘレナ・ボナム=カーターが加わっただけで、めちゃくちゃ凶悪度が増すのは流石。終始全力で悪い人演技をやっぴー!とこなす彼女、ティム・バートン映画で魔女演技は予習済み感がとても良かった。やっぱりこのシリーズは俳優たちの演技に救われてると思う。

そして、ルーナ・ラブグッドである。原作のルーナは割とキモキャラなのでかなりデフォルメされてしまっているけれど、演じるイヴァナ・リンチさんがべっぴんなので無問題。不思議ちゃんキャラがとても良いので密かに推していこうと思う。が、このイヴァナ・リンチさんはハリポ以外の映画出演がない!どういうことなのか。ルーナだけを演じるために女優デビューし、ルーナに全力を尽くしてしまったのか。現在の彼女の写真を見た。ちょっとエロい。今後の彼女の活躍を願う。

f:id:IllmaticXanadu:20201208110039j:image↑撮影現場で談笑するダンブルドアとヴォル。いい写真。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100318j:imageハリー・ポッターと謎のプリンス』(2008/デヴィッド・イェーツ)

12年ぶりに観た。シリーズ屈指の鬱回。ポスターからも分かる通り、いよいよガキだけではどうにもならず校長先生が大協力する。謎のプリンスの正体が判明するクライマックス一連、本当はいい奴なドラコの葛藤、ハリーをナンパするウェイトレスの女の子、電車で石になったハリーを助けるルーナの掛けてたヘンなメガネ、ダンブルドアの不味い水ガブ飲み、ダンブルドアの炎ぐるぐる、陸地じゃなくて海面にそびえ立つ岩に移動しちゃって「あ、やば」となるダンブルドアとハリー、などが良かった。

鬱回たる所以はクライマックスの展開で、他はほとんど童貞たちの恋愛模様で本当に辛かった。いや、好きなキャラクターたちがいよいよ恋愛するまで成長している様子には、親心として微笑ましいのよ。微笑ましいけど、その恋愛模様がストーリーとは全然関係してこないし、その分どんどん尺が伸びていくのが辛い。恋愛は魔法じゃどうにもならないね♡じゃねーんだよ!恋してんじゃねえよ!まあでもファンには嬉しい展開なのかな。ロンのことがめっちゃ好きな女の子が可愛らしかった。けど、あんな人間いねーよ。嫉妬でメソメソしまくるハーマイオニーがロンにキレるのも面白かったし、結局ロンに寝言で「ハーマイオニー……」って言われてドヤな彼女も可愛かった。

最初のロンドンのミレニアム・ブリッジ襲撃シーンはすごくいい導入部だと思うけれど、だーれも死なない感じがズッコケ。もっと手加減なく悪行をしろよヴォル軍!おじいちゃんおばあちゃんたちが橋から避難するのを待つなよ!

原作では『謎のプリンス』が一番面白いのにめちゃくちゃ改編されとります。アレを切ってコレを残すんかーい!恋愛を残すんかーい!しかし次と次で終わりだ!あ〜セブルス〜セブルスを見るために見返しているんだよ〜早く「あの」あなたに会いたいよ〜ああ〜セブルス〜〜(なるほど、つまり本作のどーしよーもない恋愛要素は『死の秘宝PART2』への布石だったのか……そういえばセブルスの過去を一瞬ハリーが見るけれど、その時にはセブルスをいじめるジェームズしか映っておらず、リリーがいない、というのがかなりミソだったな……)

f:id:IllmaticXanadu:20201208110114j:image↑「いや、ここどこすか」「……」とガン無視しながら呆然とする先生と生徒。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100426j:imageハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』(2010/デヴィッド・イェーツ)

10年ぶりに観た。分霊箱の力によってロンが幻視した、全裸のハリーとハーマイオニーがべろんべろんにベロチュウする様子がエロかった。あとはひたすら長い。タイトルでもありマクガフィンである死の秘宝という「言葉」が登場するのが後半30分っていくら何でも遅すぎるだろ。普通はその説明が前半にあって、そこからそれを求めて物語を展開していくんじゃなかろうか……PART1で2時間半費やしているけれど、極論、起承転結の「承・承・承・承」という時間の流れなので、1時間半くらいにまとめていただき、PART2への興味の持続を機能させてほしかった。 長いと言っても、終始ハリーたちが森でテント張ってケンカするだけで緊迫感は無く、尺を削ってドラマを展開させることに懸命になってほしかった。愛しのロンがずっとすげー怖い顔していて怖かった。ロンが怒ってどこかへ去り、残されたハリーとハーマイオニーがラジオから流れる曲に合わせて急にダンスするのだけど、すげー気まずくて、もうハリーが男女の友情を超えて一発ハーマイオニーとキメようとしている感じにしか見えなくてやばかった。もちろん、落ち込むハーマイオニーを励まそうとするハリーの優しさのシーンなのは分かるのだけれど、演出がヘボすぎて、ハリー絶対に勃起してるだろという風にしか見えなかった。最終章の緊迫感は?! もちろん最終章らしく、冒頭で家族の記憶から自分の存在を消すハーマイオニーに泣くし、どこへ逃げても追いかけてくるデスイーターには恐怖しかなく、いよいよ戦争映画のようなプロットと化していく。カフェで敵に奇襲されて、杖を銃に見立てた銃撃戦ならぬ杖撃戦が起こり、この乾いたバイオレンス感は好みだった。でもこれも一瞬。 重要人物があっさり死にすぎだし(そういう死生観?)、ハリー7人分身作戦もハリー本人以外の6人と敵の攻防を見せてくれないので何のための設定だったんだと思うし、観客ひいてはファンへのサービス精神が垣間見れないのだけれど……ドビーのラストワードにはグッとくるけどさ。カットの繋がり的には省略されまくってて早いのに、映画の体感時間はひたすら長いんだよな。 ただ、やっぱりキャラクターが魅力的だから、彼らを眺め続けることは出来るわけです。ロンとハーマイオニーがちょいちょいイチャコラするのも可愛かった。ルシウスが吹き飛ばされて、起き上がったら続けて2回吹き飛ばされるの笑った。 ヴォルも全然出てこないし、ババアのくだりとかも退屈だし、移動が一瞬なのでダイナミズムにも欠けるし、かっこいい画も無い、そして長い、長すぎる……大丈夫なのか完結編……と、心配していた私を軽やかに裏切るかのように、死の秘宝PART2は号泣必至の男泣き映画だった……。

f:id:IllmaticXanadu:20201208111256j:image↑妙に生々しかった全裸のハリーとハーマイオニーのベロチューシーン。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100516j:imageハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』(2011/デヴィッド・イェーツ)

セブルス抱いてくれ!!!

9年ぶりに観た。1作目からリアルタイムで、しかもハリーたちとほとんど同年齢で育ってきた者であるからには、たとえシリーズが途中で迷走気味であっても、たとえ映画の出来として完成度が研磨されていなくても、共に歩んできた道程の思い出の数々が結実する、大きな円環が閉じる果てしなく美しいラストシーンに号泣必至でびーびー泣けてしまった。1作目で列車の外へ逃げて行ってしまったカエルチョコが、ラストシーンで列車の外から再び帰ってくるというサプライズ……この瞬間の彼らのために全ての戦いはあったのだと、希望は後世へと繋げられたのだと全員が実感するフィナーレ……映画としての完成度よりもエモすぎて感動に震えるというのは『ジェダイの帰還』にも似ている。約10年間、リチャード・ハリス以外の全キャスト続投で完結したシリーズと考えると、改めて偉業だとは思う。

本作の美点は、とにかくセブルス・スネイプの生き様の儚さに尽きる。最終作で明らかとなる彼の壮絶な半生を省みるに至って、ファンならずとも、一人の男の孤独で献身的な愛の物語には思わず涙してしまった。今回、久方ぶりにシリーズを見返そうと試みた理由は、彼の愛を認知してから彼目線で観るシリーズの魅力を発見したかったからだ。その実、いちいちスネイプの行動や言動が切なくて仕方なかった。マグゴナガル先生と対決する際、彼女の呪文を跳ね返すふりをして、実は背後のデスイーターに当てているのめっちゃ泣ける。記憶を「涙」を通して見るというのも泣ける。

内容としてはもはやファンムービーの何でもないのだけれど、ホグワーツ決戦は結構なバイオレントで燃えるし、ヴォルも容赦なくガキんちょたちを殺戮していくので手に汗握る。ロンの母ちゃんとベアトリクスの対決、呆気なさすぎワロタ。マグゴナガル先生が途中からフェードアウトして最後まで出ないのもワロタ。ネビル良かったな。俺はああいったナードの負け犬野郎が一発活躍するのに弱い。

所謂「白い部屋展開」(『2001年宇宙の旅』とか『マトリックス』のやつ)が本作にもあり、そこで横たわるヴォルの魂の造形がめっちゃグロテスクで良かった。

序盤のグリンゴッツ侵入からのドラゴンちゃん大暴れなども景気が良く、戦争映画の流れで大バトル展開していくのが大変楽しいし、セブルスのモンタージュで号泣して、クライマックスのハリーとヴォル対決は見たかったものを見せてくれた感があり(敵の生死を確認しなかったり、自分の命より大事なヘビちゃんを戦闘させたりするヴォル迂闊)、そしてラスト、もう大満足。どこまでもファンムービーかもしれない。でも、こんなファンムービーがプレゼントされるファンは幸せ者だよ。

総じて、恵まれたシリーズだったと思う。何よりも主要3人をはじめとしたキャラクターたちの魅力が素晴らしかった。初めから大いなる力を待っている者が、その力の発揮を延長している物語というのはいくつもある。ハリー・ポッター貴種流離譚に分類されると思うけれど、これは英雄の物語というよりも、英雄を守った人々の愛の物語でもあって、そういう側面に自分は惹かれた。子供の頃に観ていた映画は、ノスタルジーも含めて、それだけで大切で偉大だ。ちょっと大きくなってから見直せて良かった。ハリー・ポッター、ぼく好きです。

ところで、J・K・ローリングって絶対シリーズの途中から映画化を念頭にして原作も書いていたはずだよね?本作のドラゴンちゃんとか、ぶっちゃけ物語には必要ないし。でもその方が映画が派手じゃん!って盛り上がり要素を意図的に原作に挿入している辺り、うまいねーと思った。原作も、今一度読み直してみたいと思います。

f:id:IllmaticXanadu:20201208111341j:image↑ IT ALL END!10年間お疲れ様!

大なわとびの会#1への私が頂戴した感想

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大なわとびの会#1 (期間限定公開) on Vimeo

緊急事態宣言下、盟友の澁谷桂一から「こんな時だからこそみんなで映画を撮らないか?」と誘われた。彼は「遊び」たがっていたし、彼自身が時代を理由に静止していることに恐怖していた。家でひたすら映画を観ることでしか何かを保てていなかったぼくは、開口一番「いいよ」と応えた。そこから彼の元に遊び仲間が集まり、それはやがてリレー形式のオムニバス映画として完成した。これが「大なわとびの会」である。

澁谷が発案した企画#1はチュートリアルの要素が強い。5人の参加者によるリレー形式のオムニバスは、1人目のラストショットを受けて2人目が新たなテーマを構想し、再び2人目のラストショットを受けて3人目、4人目、5人目……といった「絵しりとり」的なオムニバスになっている。リレーの順番は作品が完成したその都度、皆で鑑賞した後にクジ引きで決定した。尺数は5分以内、3日間で撮影・編集含めた完パケを遂行するというルールも設けた。尚、1人目のみテーマは「時計」で開始した。

順番は、①立脇実季→②荒川ちか→③杉浦→④澁谷桂一→⑤福島健太となった。

我々は言葉そのものの意味で「遊んだ」。腕試しですら無いのかもしれない。実験にすらなっていないかもしれない。鬱々とした緊急事態の中、こうしてカメラを持って何かを撮ることへのプリミティブな愉しさを大いに実感した。誰かの作品が仕上がるたびに、そのお披露目の瞬間に高揚した。企画者の澁谷にとってはまずは助走段階に過ぎないのかもしれないが、ぼくにとってはこんなに素敵な「遊び」は無かったのだ。少なくとも、あの時には。

しかし、この企画がたとえ内輪の遊びだったとしても、完成作品が不特定多数の人々に「誤送」されることを回避してはならないはずだ。そこで、この度10/29〜11/5までの限定公開に至った。

f:id:IllmaticXanadu:20201031120247j:image自らの作品について饒舌になることは避けるが、ぼくはまずサイレントで映画を作りたかった。作品内で内部・外部双方へのイミテーションな暴力衝動を煮込ませながら、緩やかに定められたルールから脱線しつつ、やがてはまがい物ゆえに自分自身を断罪するに至った。前走者、立脇監督と荒川監督には申し訳ないほどに好き勝手に遊んでしまった(でも、ちょっとずつオマージュはしているんですよ……)。後悔はない。加えて、hocotenとして消費される女優・久田紫萌子への眼差しを与えたく、他の誰もやらないなら自分が彼女を撮ろうと思った。きっかり24時間、二人だけで撮影・編集を完遂した。

本稿では恐縮ながら、ぼくの監督作品に頂いた素晴らしい感想をここに転載させていただく。作品以上に秀逸な感想が純粋に嬉しかったのだ。書き手はぼくのマブ・ヴァージン砧の香椎響子氏と、ぼくのロマン・排気口の菊地穂波氏の二人だ。二人の言葉を信じているからこそ、その言葉が自らに向けられているという歓びをここに残しておきたい。そして、二人のような「演劇」の書き手による「映画」の感想の豊かさに着眼しつつ、今後の創作研磨のための貴重な証言として享受する次第である。

恐縮ながら、この場を借りて二人には御礼申し上げます。

 

f:id:IllmaticXanadu:20201031120036j:image【香椎響子(ヴァージン砧)氏から頂戴した感想】

私が伊丹十三を好きなこと、スギさんはご存知かと思います。伊丹十三のことを敬愛する理由の一つが「誰よりも宮本信子を魅力的にうつすから」なのです。伊丹十三宮本信子夫妻は私にとって理想的な夫婦像で、それは決して男女・夫婦としてだけでなく、監督・役者という関係性においても素晴らしいのです。伊丹十三は誰よりも女優宮本信子を愛しており彼女という女優の素晴らしさを伝えたいと映画を撮る。つまり、監督(私だと演出)がどれほど役者と台本を真摯に愛せるのか、が私は大事だと信じてやまないのです。だから座組みの役者を愛したいし幸せにしたいと真剣に思っています。そういう意味で、今回の作品はほこてんさんの魅力を引き出しているのが素晴らしいです。とびきり綺麗です。それは、着飾られた人形としての美しさではなく生きた人間の泥臭い美しさ。退廃的な雰囲気によく似合う瞳が、とても素晴らしいです。子宮の奥がきゅうとなります。
 
直接お伝えしましたが、やはり恐怖はエロティシズムです。女性の苦痛に歪む表情はどうやったって艶美だし、それはジェンダーロール云々の話を割り込ませる隙を与えません。何も浴槽の場面だけの話をしているわけではなく、例えばベンチで彼女が腹のあたりをぎゅうと掴むアレ。何かを強く掴むということは何かを逃したいという欲求、そして怯え。あの手のエロティシズムといったら!怖いはエロいんだなあと思いました。
 
これもお伝えしたと思うのですが、色彩が大変好みでした。
性は生活であります。どうしたって大豪邸の大理石より四畳半の畳のほうがエロいのです。叶姉妹より団地妻なのです。生活感のある色彩、ユニットバス、衣装、ほこてんさんのお身体、更には序盤の女の子の下着だとか電車だとか、やっぱり生活感は性なのだと思いました。
そんなことに注目して見てしまったので、ほこてんさんの飲むペットボトルが鮮やかな赤なのは少し気になってしまいました笑
いや、じゃあどうしたらいいんだというと飲み物はどうしたらいいか答え出てないのですが。だから聞き流して下さい。
 
日本のHIPHOPの語彙で表現させてもらうとしたら「破壊と再生」だなと思いました。全編を通して破壊と再生が繰り返されている。物を破壊し映像を再生し人を破壊し女を再生し構造を破壊し逆再生し。作っては壊し作っては壊し、壊しては作り。それは、それこそ創作です。私たちは既存を破壊し新しい私たちを再生する。だから、大コロナ時代においても破壊と再生、破壊と再生を今まで通り繰り返すだけなのだと思いました。
 
なんだか上手くまとまりません、雑多で申し訳ないのですがそんな感じです。感想書かせてもらってありがとうございます。是非何かしらの創作を共に破壊と再生できたら最高ですね、その日まで私も頑張ります。

 

f:id:IllmaticXanadu:20201031120157j:image【菊地穂波(排気口)氏から頂戴した感想】

立脇監督から荒川監督へ、イメージという見えない花束のリレーは杉浦監督により粉々に破壊される。クラッシュから幕を開けてそれまで 2 本には使われなかった音楽が鳴り響き間髪入れずに美少女=ホコテン氏が殺される。冒頭、バキバキに割られるディスクはそのままホコテン氏の血塗れの裸体に重なる。刃物は上から正しく振り下ろされる。まるで立脇・荒川監督がイメージを託した「上から見つめる者=月」を「殺戮者」に変える、常軌を逸した破壊衝動。しかし映像は完璧にコントロールされ冷静に死にゆく美少女を映す という欲望に満ちている。世界はその瞬間に血塗れのバスルームだけになる。裸体の美少 女を生贄に捧げて。死体=静と殺される身体=動は交互にしかし正しく映像の文脈をなぞ りながら繰り返される。

所は代わり、ベンチでのシーン。ここでも被写体との距離は完璧 にコントロールされている。杉浦監督の特徴的な引きの画はここで最高峰に冷静に距離を 取りながら、それでいて、美少女が美少女として存在する為に非常に効果的である。両脇 に葉を映しながらその奥にいる2人のなんとロマンチックでエロスの固まりであろう。赤い血をペットボトルで飲ませるイメージは容易にフェラチオを思わせる。が、私は声を大 にして言いたい。ホコテン氏の似合いすぎるワンピースもさる事ながら、足のばたつき、そしてねだるように動くあの手。表情はどこか物足りずも満ち足りている。これはフェラチオなんかではなく「少しだけ雑なキス」なのだ。エロスに満ちていながらも繊細な手を しっかりと映す。接吻を唾液という(流血から簡単に連想しそうだが)安易な変奏を選択せずに、より抑制された足というイメージで表す。冒頭で固まった血塗れの足は、ベンチでエロスによりバタバタと動く。杉浦監督が徹底しておこなうこの抑制は、抑制こそがエ ロスの根源であり、抑制こそが破壊衝動の根源であると知っているからだろう。実に効果的に音楽と合わさり目眩を覚える。

そしてラストカット。とうとうその破壊衝動は自己に向き、美少女に殺されるという、ある種もっともエロスとタナトス両儀を兼ね備えた至 福の方法で杉浦監督の破壊衝動は成熟する。ここで引きの画は作中で最も精密に、杉浦監督自身の破壊を映す。そしてここでようやく液状の血液が煙草を濡らす。この血液は荒川 監督が扱った血をより流れ出るものとして、形を取らないものとして存在している。ここまで完璧にコントロールしていた杉浦監督のイメージは流れ出る血液という、コントロー ルすることが不可能な流動性に託して次の為の幕切れ。一見破壊の限りを尽くしているかのように見えてしっかりとバトンを手渡す杉浦監督の優しさ。フリッパーズギターの歌詞 に「血塗れのラストシーン」とあるが、もしかしたら全ての終わりに抗えるのはもしかしたら形になることを拒否する血液の流動性なのかもしれない。それがすごく短い時間だったとしても。(映画/映像における切り取る欲望、それは当然のように編集=カッティングという行為にも大きく宿る。杉浦監督の抑制とコントロールされた演出は勿論、編集の素晴らしさによる所が大きい。が、けっこうオンライン飲み会で感想を言ってしまったので、ここでは言ってなかった事を書いてみた)

ちなみに私は水とトマトジュースを間違えてガ ブ飲みして吐いてからトマトジュース大っ嫌い。そんな間違え方をする自分はもっと嫌い。 でもそろそろ自分の事は許そうと思う。憎いのはトマトジュースだけで十分だ。

回転するミラーボールに照らされて、読んだ弔辞が唄になったの(そんな研磨され尽くした幸福の完成度と、女優へのアンチ・オブセッション、そして演劇と葬儀とラストダンス)【東京にこにこちゃん『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』雑感】

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「アレを観なかったことを絶対に後悔するから!!!!!」西荻窪駅のホームで、電車を待つ私に向かって肉汁サイドストーリーのるんげが叫んだ。

厳密に言えば、エクスクラメーションを5つも付けるほどの声量ではなかったものの、私にとって彼女のその言葉は胸を締め付けるような叫びに聞こえたのだ。

私は去年から今年の初春にかけて、友人の自主制作映画のプロデューサーを務めていた。その組に、るんげは録音・整音部として参加していた。1月某日はポスト・プロダクションの真っ只中で、作業が終了すると、疲弊した私とるんげは共に帰路についた。その帰路の途中の駅で、私がふと彼女に聞いてしまったのだ。「そういえば、東京にこにこちゃんは良かったの?」それが間違いだった。るんげの表情は見る見るうちに険しさを増し、彼女の周囲にはつむじ風が巻き起こり、異様な数のカラスがホーム上空を旋回し始めた。るんげはギロッと私を睨みつけて答えた。「良かったってレベルじゃないから!!!爆泣きだったんだから!!!」

当時から俳優・被写体としてhocotenのファンを公言していた私は、実のところ「あーあ、ほこてんちゃんの舞台観られなかったナー」くらいの落胆しか覚えていなかった。この無礼千万な態度は、後に完全なる間違いであることを気付くと同時に、るんげの擁護のスタンスに着火をさせた。「スギは絶対に観るべきだった。あのhocotenは観るべきだった。わたしはああいうhocotenが観たかったんだよ。ってか役者全員。マジで全員上手いから。凄すぎたんだから。ラスト爆泣きなんだから」るんげの語尾は終始強かった。

私は第一に「そんなに良かったのか……もちろん観たかったよ……」といういじけを示しながら、第二に「いやでも作業スケジュール的に休みなかったし仕方ないじゃん、それに俺たちの映画の方が大事なんじゃねえのかよオイコラ」という免罪符による苛立ちに挟まれ、アンビバレンスに錯乱していた。

私とるんげは別の電車だった。「もう観られないってのが悲しいな、演劇は。今回は無理だったけど、次回こそは必ず観に行くから」「違うのよ。今回のを、今回のをスギには観てもらいたかったんだよ。だから、もう」るんげが乗る電車が到着し、開いたドアを彼女がくぐる。車内には寂しげな表情のるんげがいた。電車が走り出すと、ホームに取り残された私は、自身が感じる強烈な後悔の念に自滅しそうになっていた。途方に暮れる私の頭に、カラスの糞が落ちた。

萩田頌豊与という人物については一方的に認識していた。それは去年の夏。前述した某自主映画にhocotenが出演することが決まり、hocotenの撮影前日に彼女と西荻窪で晩酌していた相手がつぐとよさんだったのだ。私は、果たしてロケ地にhocotenが寝坊せずに無事イン出来るのか、まだ見ぬつぐとよさんを信じて晩酌を許容していた(結果、彼女は途中で抜け出して前乗りに成功した)。その際にスタッフから聞いた「東京にこにこちゃんって劇団を主宰しているつぐとよって巨人がいる」という言葉が、彼への初認識となった。ちなみに、その晩酌には劇団・排気口主宰の菊地穂波も同席していた。思えば、その夜から私の人生は、かすかに三者とリンクするように鼓動を始めていたのかもしれない。私は運命論者だ。hocotenとのファースト・コンタクトもその日で、菊地穂波とのファースト・コンタクトも西荻窪の居酒屋だった。

るんげの太鼓判にはかなりの信頼を寄せていたが、いかんせんスケジュール的な不手際によって観劇を叶えられなかった『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』への想いは日々を増すごとに募った。私はとにかく、あの時のるんげの表情が忘れられないでいた。もしかすると、一生この後悔を抱えて生きていくのだろうか。二度と表象されない表現への想いを、未解決の状態で馳せさせながら生きていくしかないのだろうか。演劇の残酷さを身をもって知る。

 

そしてついに、その後悔が報われる機会が訪れた。映像収録ではあるものの、『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』を観劇することに成功したのである。方法は内緒。

 

号泣した。

 

一先ず、「号泣した」という語句がもたらす逆説的な大袈裟さを、私は支持していない。加えて、元々私は結構な泣き虫だ。ちょっとでもエモーショナルを察知すると、びーびー泣く。しかしながら、いささか陳腐な表現を使用したとしても、本作は文字通り「号泣」に値する。

追尾して、演劇のマッピングが白紙の白痴野郎であるシロウトの私の範疇においてではあるが、生まれて今まで観てきた演劇作品の中において、最も「号泣」に値した作品は、本作唯一である。泣ける=傑作という、果てしなく凡庸な褒めの方程式を説くつもりもない。むしろ、傑作という枠組みの中に「泣ける」というエレメントが内包されているといった方が相応しい。

そして、より厳密に言えば、これは「泣ける」ではなくて「泣かす」だ。こうした観客への豊かな作用は、その技術力を取り上げて称賛せねばならない。

 

『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』は、巷間指摘されるエモーショナルな輝き以上に、作劇的な技術力の、その水準の高さを備えた作品である。

まずもって、萩田頌豊与・作による脚本の「あまりの誤用の無さ」については、その完成度の高さに脱帽する。ここに於いて述べる「誤用の無さ」とは、書き手及び出演者たちによって行われた、完成度の研磨作業に他ならない。

本作の高度を示す点には、物語における出来事、及び仕掛けの配置位置の的確さが挙げられる。ほとんど教科書的なまでの配置の所作に関しては、それが教科書的であるがゆえに予定調和に陥る、ということを見事に回避して、すこぶるスムーズに推進力を発生させている。

たとえば、殊更に説明口調の台詞が羅列されることは序盤から皆無で、状況説明よりも先に、その状況下の人々の戯れのみで「状況説明」を遂行してしまう。観客の脳内に「なぜ?」「どうして?」が浮かぶ続けるように配置された台詞の数々は、いとも容易く興味の持続性を生んでいる。その疑問が浮遊する時間さえもがあまりにも完璧で、疑問が確信に変わる瞬間の「ハッとする歓び」に、観客は夢中になる。提示する情報、俳優のアクションの的確さによって、物語の推進力は一向に緩まない。

あるいは、ある登場人物だけが知らない事柄を別の登場人物同士が共有している場合、その「秘密」を観客も強制的に共有することになる。その「秘密」は次第に、キャラクター同士が遭遇/解離を行うたびに「バレるかバレないか」という緊張感を孕み始める。ここまで経過すると、もはや観客は作者の術中に嵌り込み、「秘密」が暴かれる瞬間の無意識的な不安感と爽快感に身を乗り出している。そして、本作はそれが暴かれた後も、さらなる出来事をリズミカルに頻出し、尚も推進を続ける。

実のところ、この作劇/ストーリーテリングの手法は、サスペンス映画の文法に近いと指摘できる。登場人物が認知していない事柄が観客のみに提示され、その事柄が露わになるまでのヒリヒリした時間を体感するのがサスペンスの基本的な作法だ。サスペンスは観客と登場人物に、どの情報を共有するか、もしくはどの情報を隠蔽するか、が鍵となる。

本作は、AがバレるとマズいのでAを隠し、Aを隠していたことからBという事態が発生し、よって暴かれたCによってDへと進行してしまう、という衰えない展開力の凄まじさだけでも特筆に値する。それが決して、奇をてらったこれ見よがしなスピーディであるわけでもなく、凡庸な筆致になるが「観客が気持ちの良いタイミングで事態が展開する」という、作劇セオリーへの満点に近い解答を叩き出し続けているのだ。余談になるが、つぐとよさんの談によれば、彼は京極夏彦のファンであるらしい(ブックオフに一緒に行った際に直接聞いた、『魍魎の匣』が好きらしい)。そういったサスペンス的な所作が、意識的であれ無意識的であれ、血のように刻印され、影響されていると推論するのもまた楽しい。

また、揶揄ではなく称賛として使用した「教科書的」な側面は、これも作者本人による談ではあるが、彼が敬愛するピクサー・アニメーション・スタジオのライティング・テクニックに倣った可能性が非常に高い。ピクサーのシナリオは、ハリウッド映画的な三幕構成を分単位で遵守しており(試しにタイマーで計測しながら作品を鑑賞すると、ストーリーのミッドポイントは必ず三幕構成のルール内で配置されていることが判明する)、マーケティング水準の高さのみならず、脚本構成を学ぶ上ではうってつけの教材になる得る。事ここに於いて、古典的な三幕構成を体得した作者は、その枠組みにおいて足し算・引き算・掛け算を試行し、大衆的な豊さを現出しながら、あくまでもオリジナルな作劇を目指して構成しているのが分かる。

たとえば、公演自体の尺に関してもほとんど完璧な時間感覚でしかなく、長くもなく短くもなく、誠に丁度良い。そして肝心要の約5分間のラストに関しても、その時間コントロールの手腕によって、センチメンタルへと移入することが容易に完遂されている。あらゆる思惑が躍動し、邂逅を果たすたびに推進する物語、それらが操作される正確な時間と空間感覚。こうした技術力がもたらす感動は、ピクサーで涙する際の感覚とほとんど同義であるが、それは過言だろうか。特に、2016年『ファインディング・ドリー』における作劇、展開、回想の挿入、個性豊かなキャラクターたちの右往左往、そしてそのキャラクターたちの「決断」による大団円は、本作ともいたずらにリンクする。面白くないわけがない。

これは極めて微妙なニュアンスではあるが、本作は戯曲として、よりも、脚本として並外れた完成度を備えているといえる。それは、読み物として書かれた文学的な側面よりも、発話され運動することを目的地として構築されているからだ。そんなことはあらゆる舞台脚本がそうだろうが、と投石されても尚、本作の躍動感はオリジナルで、ここまでして俳優/物語を信頼し切って完成されていることに先ずは感服した。

萩田頌豊与ただ一人によってこの脚本が完成された、とは、到底思えない。この指摘は、彼の筆力に対する批判ではなく、明確に集合知によって開拓された完成度であることが、観劇を通して察知できたからである。ひとえに、本読みや稽古を重ねる中で、キャストたちによる「加筆作業」が行われたことを、ここに推論する。つまるところ、作者と、作者の元に集った俳優たちの明晰な分析力と読解力、そして感受性を無くしては、この素晴らしい脚本は誕生していなかったであろう。萩田頌豊与と俳優たちは、癒着し、尊重し合いながらグルーヴしている。こうした作者/俳優のアンサンブルによるブラッシュアップの力学を「才能」と呼称する。したがって、この座組でしか発揮し得なかった、物語としての完璧なまでの「誤用の無さ」を誇る脚本は絶賛に値する。

 

加えて、ストーリーテリングやキャラクター設定/描写それ自体に対して、同情を誘うような無能感や甘えがない点は、萩田頌豊与本人の驚くべき作家性として確立されている。端的に言って、つぐとよさんは「強い」。これは俳優への演出においても散見される強度であるため後述するが、あくまでも彼の創作物には、ジメジメとした苛立ちやメンドウ極まりない悪意が含まれていない。躁でも鬱でもない、コメディでもありトラジコメディでもある、磨き抜かれた作家の強度。は、運動や音感をコントロールしつつ、物語/フィクション/ファンタジー/虚構そのものが持つ揺るぎない強さへと直結してゆく。まず物語それ自体のみに感動を覚えたのは、一体いつ以来の体験だろう。常に意識しているようで失念していたナラティブの魔力/引力/推進力/治療力を、観劇中における己のジョイフルな情緒をもってして知覚した。萩田頌豊与の独特のカリスマは、その身長の高さのみならず、こうした精神的な強度から為るものだともいえる。

 

演出面においては、これまた高い水準をもってして「演技を引き出すこと」に首尾よく成功している。はっきり言って、こんなにも出演する俳優が「全員漏れなく上手い」という事実に驚嘆した。否、そんなことは至極当然のミッションではあるが、それが行われている場が小劇場であるがゆえに、界隈のぬるま湯加減に一石を投じる役目を果たしたと言っても過言ではない。本作の演技巧者たちは、紛れもなく物語を推進させる装置としての機能を備えており、たったひとりでも欠けるとその運動が停止することが予測できるほどの、列記とした固有性を皆が獲得している。

 

本稿においては、特に、萩田頌豊与による「女優」への演出の秀逸さについて記しておきたい。

単刀直入に述べてしまえば、私はあらゆる演劇作品の中で「萩田頌豊与の演出による女優の芝居」というものが、恐らく最も好きかもしれない。もしくは、「萩田頌豊与の演出が施された女優たちは、皆漏れなく驚くほどに美しい」とも感じる。これは果てしなく個人的な感想に他ならない。しかし、観客にとってフェティッシュとは重要な要素だ。映画ファンである私は、この世で最も恐ろしいものは「女優」だと恐れているし、この世で最も美しいものも「女優」だと誘惑され続けている、分裂症の罹患者だ。

萩田頌豊与が女優に対して遂行するアティテュードは、あまりにも透き通りすぎている。無色透明とまでは言わないが、固有的なキャラクターを身に纏って描かれる女優たちの豊潤さの中には、悪質さや不快感が全く含まれていない。この姿勢は本当に素晴らしい。

大抵の場合、(男女二元論で論旨展開するつもりはないが)男性の作者は女優に悪意や怨念をしつらえて、婉曲したサディズムを行使することがほとんどであるし、異性への憧れと憎悪をアンビバレンスに内包させたキャラクターを、操り人形のように動かす下品さを露呈する。この鈍感なまでの醜悪さは、かなりの偏見ではあるものの、小劇場界隈、ひいてはインディーズ映画界隈においても多分に観測できる。というより、そもそも「女優」というものの扱い方/撮り方が「分からないまま」で実践している童貞たちがほとんどで、その暴虐ぶりには幾度となく呆れ果ててきた。男性権威的なマチズモも、搾取も、フェミニズムもアンチフェミニズムも、性的なリビドーも、どれも「女優」への本来のアプローチとして正しいとは言い難い。

ところが、萩田頌豊与が演出する女優たちには、恐怖も、憎悪も、過剰なロマンティークも感じさせず、素材として、その美しさが自在に表象されているのである。このことに対する私の評価は非常に高い。前述した萩田頌豊与本人の強度も相まって、小劇場とは思えないほどの女優たちの圧倒的な輝きぶりには恍惚する。ここには、女優目当てのファックオフな観劇おじさんを一撃で抹殺する殺傷能力を兼ね備えつつ、我々が渇望した「女優本来の素材としての美しさ」を目撃可能とする魅力が含まれている。単にスケべな作家であろうと、品行方正を提唱する作家であろうと、このヘルシーなまでの「女優」の状態へと導くことは不可能に近い難儀だ。こうした萩田頌豊与の女優への眼差しは、私見では女流的な作法だとも享受できる。また、母性や女性それ自体への健康的な憧れの強さによって、不健全で陰鬱としたオブセッションに押し潰されない強度が、ここに於いても示されている。

 

女優としてのしじみの名演を、私も映画ファンというアイデンティティに免じて幾多と目撃してきた(最近であれば『横須賀奇譚』による静的かつ叙情的な演技が記憶に新しいだろう)。小動物のように小さな肉体をもってして、壊れる寸前までの感情吐露を披露し続けた彼女は、しっかりと我々映画ファンの心をキャッチし続けていた。私の独断ではあるが、彼女に対しては「映画女優」という認識が極めて強い。ところが、恥ずかしながら彼女の舞台演技と初めて遭遇を果たした末に、あまりの素晴らしさに際して、それまでのトリコロールケーキなどの公演を観劇しなかったことへの後悔が倍増した。とにもかくにも「主役感」が凄まじい。抑制された身体動作が、ふいに崩れる爆発の瞬間を孕んだ、小さくて強力な時限爆弾。は、時折あまりにもキュートで、また時折あまりにも恫喝が似合っている。炎を手にした彼女の迫力もまた、サスペンスフルな脚本への相乗効果として機能していた。言葉ひとつひとつに付与された表情の数々が、彼女の女優としてのポテンシャルの高さを歴然と提示してみせる。本作のラストで感涙する者は、あの「背中たち」それ自体よりも、その光景を見た彼女の名演によって涙しているのだ。

完膚なきまでな毒親っぷりを体現する石井エリカは、台詞にもあるように西洋的なイメージが憑依しながらも、トレンディなスタイリングも抜群で、縦横無尽に舞台上を動き回る姿に感動した。彼女もまた、腹の底から大声で発声をさせられるが、ああいった脂ぎった印象を与えかねない役柄が、よっぽど健康的で、むしろ楽天性すら帯びていることに関しては、彼女本来のパーソナリティによるものが大きいのかもしれない。ヒドイオトナを演じながらも、どこか憎めない余韻を残すのは、彼女もまた家系における被害者である側面が見え隠れしているからだ。間違いなく、全キャストの中で最も運動神経の良い女優であると記憶していて、ハイヒールを履きつつ見事にポージングを決める彼女の運動に、可笑しさよりも美しさを見出してしまった。葉巻が似合ってしまうというポイントも素晴らしかった。そして、ラストでは夫のネクタイを直す彼女がいて、その安堵感、フィクションの力、俳優の動作による感動は、それまでの彼女を観てきた者への優しいサプライズだ。

ドラスティックでいささかクレイジーな瀬在を演じた矢野杏子は、もう何をしていても、どこにいても、どう動いていても、どんな表情をしていても、可笑しくて仕方なかった。彼女が出番の無い場面においても、ふと彼女の姿に視線を送ると、まるで正解としか言いようのない表情を保持し続けていて、あまりにも素晴らしい。途中、美笑の父親である実をエロティークに誘惑するような場面があるが、該当場面における彼女のエレクトぶりには頬が緩んだ。なんてたって彼女自身が凄まじく楽しそうに演じきっているのが良い。たとえば、ああいった役柄/発声を扱うことにおいて、(設定年齢はあれど)あの役をhocotenに演じさせなかったという萩田頌豊与のキャスティング能力は評価に値する。凡庸な演出家であれば、まずはあの役柄/スタイリングに対してhocotenをフィックスしたがるが、つぶさに考えて、それは間違いである。そのことは、矢野杏子自身の豊かでコメディエンヌ的なアクションの連続性によって証明されている。

葬儀場スタッフである久保を演じた青柳美希に至っては、萩田頌豊与からの信頼もあってか、甚だしいまでの安定性に驚かされる。彼女のエレガントでアカデミックな佇まいが、まずは観客にフィックスされ、後に恐ろしいまでの変貌ぶりを魅せる頃には、久保が大好きでたまらなくなっている。特筆すべきは、激昂を披露する際の、一切の瞬きを禁じたその演技アプローチだ。変顔に逃げるわけでもなく、ギョロリと真ん丸に静止した眼球は、標的を定めて逃がす隙がない。どんなに叫び声を上げようとも、その眼球だけは動かずにロックオン・停止を続ける様は、怒っているのにあまりにも面白くなってしまっているという、本作に通底する喜劇性への加担を容易に完遂している。ところが、青柳美希の表現力の高さから言って、こんなことは朝飯前の手腕だろう。また、青柳美希にスーツを着用させるという判断力に(フェティッシュは抜きにしても)拍手を送りたい。

エキゾチックな顔立ちから派生するドラスティックなイメージ、そしてエロティークが癒着されがちで、飛び道具的な役柄を身に纏う機会が多いhocotenは、本作では抑制されながらも飛躍を試みる葛藤の少女・楓を演じ切る。前述したるんげの言葉通り、私が観測したかった女優・hocotenの演技力の幅とは、まさにこの楓のような演技体であった。劇団「地蔵中毒」について綴った記事においても述べた事柄ではあるが、hocotenは「叫ぶ」ことが許された美しい発声を持つ女優である。彼女の「叫び」という発声によってもたらされる豊潤な作用は、たとえば地蔵中毒においては、作品と観客を関係させる力量、デペイズマンによる異化効果として機能していると指摘した。本作では、その彼女の「叫び」作用を、悲哀と同情への誘導装置として行使している。これは、終盤で彼女としじみ演じる美笑が抱擁する際に、その効果が最も発揮されたと言って良い。あの時点で、観客の涙腺を徐々に緩ませ始めていることは、楓というキャラクターを「予感」として機能させている。泣けてしまう、でもまだ泣かせない。最終目的地までの涙の「予感」は、観客の心にフィックスされる。ラスト、楓がフレームイン(と、映画では呼ぶのですが、演劇では何でしょう。とにかく、舞台袖から喪服姿の彼女が登場)してくる際の、その歩く速度の重々しさは、彼女の演劇的な運動神経の良さを明確に証明している。楓の、万を辞してのタイミングによる登場は、観客に間違いなく「終演」を「予感」させる。悲しみたくないと懇願していた彼女の表情はあまりにも哀しく、観客はその姿に瞬時に締め付けられる。「予感」の登場によって、次第に集う参列者たち。私は、彼女の登場のタイミングと、その抑制された肉体がもたらす悲壮感によって、もう涙が滲み出していた。hocoten、実は泣き顔が素晴らしく似合う女優だということを失念してはならない。

と、私のアイデンティティから、萩田頌豊与が扱った女優たちへの特筆事項を気味悪く敷き詰めてしまったが、重ねて、男性陣も含めた全キャストたちへの賛辞のスタンスに変わりはない(ぐんぴぃさん、サスペンダー似合いすぎていましたけれど、サイコパスの殺人鬼役でホラー映画に出演しませんか?)。東京にこにこちゃんに出演する俳優は、それだけで愛してしまう。というのは、誤った偏見でありミーハーに陥る危険性がある。まあ、誤ってナンボだ。

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演劇と葬儀は似ている。どちらも、形なきものが形あるものとして存在する時間があって、形あるものが形なきものへと還る時間がある。観られなかった演劇は、映画と違ってもう二度と観ることが出来ないし、それは人が死ぬことと似ているのかもしれない。しかし、演劇は死者を生者として表象することができる。死にあらがうのではなく、死を受け入れてあげる。喪失された時間を、再び獲得することができる。

脊髄反射的に涙腺が緩み始める『21世紀を手に入れろ』が流れる中、文字通り「子供たちに私利私欲をなすり付けるオトナたち」が、その罪を炙るかのように、通過儀礼として炎に飛び込む。その中には子供も含まれているが、ここではそうした各論よりも、美笑を「子供」と捉えた総論で紐づけたい。『トイ・ストーリー3』焼却炉シーンへの喜劇から示す解答のごとく、エキサイティングな「熱い」展開を経て、やがて物語は他愛もない、優しい一言で終わる。終わるが、「予感」は残されている。完璧な推進力を維持しながら、このラストのために。

 

実のところ、私は本作に歓迎されるべき、相応しい観客ではなかったと告白する。『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』というタイトル、そのシノプシス、そして喪服を着た演者たちの写真からして、本作のラストシーンを予想できた。その予想は、後出しジャンケンになるが、実は当たっている。ラストで鳴る音楽も、予想通りだった。その上で「ラストがその予想通りならば、俺は泣かないね」と、意地っ張りで天邪鬼な私は、自分は本作で決して「泣かない」とタカをくくっていた。

 

にも関わらず、である。そんな私でさえ、このラスト5分間には、本当に泣かされた。あまりにも食らった。

 

観客への褒美の品として、ここまで抑制されてきた純度の高い感傷が、炸裂的に行使される。こうした褒美の品=ラストで急に感傷的/感動的になる、という構造は、自慰行為における射精液のような嫌悪感を残しかねない。事実、私はそういった自意識過剰な、個人主義な演劇をいくつも観てきて、そのたびに「人間をナメるなよ」と中指を立てながら席を立っていた。とは言え、東京にこにこちゃんは全くもって例外である。前述した萩田頌豊与の作家性の強度、悪意も不快感も自慰性もない才覚によって、本作は広義的な意味で「感動的」な傑作へと帰結している。

本作が作者自身の父親の死、その葬儀のリベンジマッチとして構想されたにも関わらず、萩田頌豊与は、決して演劇を自分という王のためだけの場所として独占しない。父親をトレースした叔父を登場させるにも関わらず、それは父親の死というオプションと物語を連結させる機能として、それ以上でもそれ以下でもなく、冷静に活用してみせる。本作が素晴らしいのは、過去への後悔に対する想いに呪縛されるのではなく、未来に対する物語として徹頭徹尾完成されていることだ。

劇中で反復される「背中」は、ラストにおいてその意味を変容させる。それまでの物語、あるいは総ての瞬間に意味が付帯され、そのまばゆい輝きの美しさは、私のような白痴をして「死ぬまで逃れられないエモーショナル」と称し、完膚なきまでの敗北宣言を示すに至る。個人的には、現状、本年度ベストの演劇だと断言したい。

 

と、ココまで綴ったところで、遠くから声がする。笑い声だ。つぐとよさんがニッシッシとほくそ笑んでこちらを見ている。一体、何を嘲笑っているのか。一体、何を企んでいるのか。私はアイツに泣かされたのか。アイツに笑わせられたのか。彼の創作物に対するラブレターじみた本稿、それを書いている私自身を見て笑っているのだろうか。まあいい。泣かれるよりは幾分もいい。私はつぐとよさんの創るものでこれからも笑いたいし、つぐとよさんは俺のマヌケを発見したら大いに笑ってくれていい。悔しさではなく、こんなに素敵な物語と出会えて、俺は本当に嬉しかった。だから笑われていいと思えたんだ。狂人の目は、漏れなく澄んでいて美しい。つぐとよさんの目がそうだ。その眼鏡の下に隠したって、いや隠してないのかもしれないけれど、全部お見通しなんだからなッッ!まあ、狂っているということは、間違いなく天才ってことなんですけれど。最後に、つぐとよさん、いや、東京にこにこちゃんに言えることはたった一言だ。ありがとう。

 

 

あなたの好きな人と踊ってらしていいわ

やさしい微笑みも

その方に おあげなさい

けれども 私がここにいることだけ

どうぞ 忘れないで

 

きっと私のため 残しておいてね

最後の踊りだけは

胸に抱かれて踊る

ラストダンス 忘れないで

 

-『ラストダンスは私に』越路吹雪

 

 

【MULTIVERSE】

 

排水口の出現、排気口の循環(または、ミナミの方から香水の音色が)【排気口『いそいでおさえる嘔気じゃない』雑感】

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『香水』という曲が孕む危険性について、21世紀の日本人は果てしなく無防備だ。ここで唄われている失恋の痛みと安いノスタルジーには、鬱病の誘因となり得る要素が金太郎飴のように詰め込まれている。というより、そもそもノスタルジーやトラウマは、陰鬱の因子を追尾的に発生させかねない。『香水』の罪深さは、甘っちょろい即席のノスタルジアを、ギター演奏のみでメロウに仕上げつつ、凡庸な表現性の一端も見られない言語感覚で通底させていることに他ならない。つまり、一般層から「消費されやすい」姿をしている。

曰く「"別に"君を求めてないけど」「横に"いられると"思い出す」「その"香水のせいだよ"」である。これらの男性主観は、あたかも自分にはアカウンタビリティが無いことを主張しながら、すべてを相手の所為にすることへ何ら葛藤がない。こんなものはラブソングではない。甘ったれた男ビッチソングだ。

特に症状を悪化させる可能性が高いのが、女ビッチの姫君、もしくは異性に対してセックス・フレンドの関係性にある者、である。彼らにとって、自身がベクトルを向けている側、対峙している側からの「俺だってちゃんと傷付いているんだよ」という告白は、優れた殺傷能力を備えている。そんなことを、明文化されなくては悟ることも出来なくなってしまったのか、混血列島の猿たちは。

加えて、この曲が巷で流行しているJ-POPであるがゆえに、日常のあらゆる瞬間に、その音が鳴らされる可能性は高い。いつ、どこで、誰にとってトリガーになり得るか。この曲が孕む陰鬱とした誘発効果は、地雷のように足元に埋まっている。これはある種の人間にとってのテロリズムだ。

「ドルチェ&ガッバーナ」という歌詞、特に「ガッバーナ」部分の歌唱法の、恐ろしいほどのダサさについては討論されるべきであるが、ここでは控える。

21世紀の我が国は、呪いへの免疫が明らかに低下している。暴論ではあるが、特にJ-POPが乱発する「勇気」「友情」「愛」「恋」「青春」「キミ」「アタシ」「桜」などという凡庸極まりない言語感覚は、呪詛への防衛本能を著しく低下させる。隠蔽化された呪いは、仮の姿を身に纏い、より消費されやすい姿をして、民たちの首元へ刃物を近付けるのだ。

ここに拍車をかけるのは、言うまでもなく、SNSという退行のための遊具だ。インスタントな呪いに弱体化した暁には、「呪われているのに気付かない、知らぬ間に肉体も精神も蝕み、やがて発症した際には手遅れ」という患者が大量発生することだろう。否、瞬きをしている間に、また一人。

 

排気口の菊地穂波が手掛ける著作物には、インスタント性、ポップカルチャーへの敬愛、あるいはヴェイパーウェイヴ的なアンビエントがあるともいえる。流動的なアーバンレトリックと、飛躍するメタフォリカル、多用される固有名詞、がもたらす、美しき不正解のファンタジア。

彼の書く著作には、「手を離すために手を握る」といったようなアティテュードが通底されており、これが巷間言われる「死」の表象化という行為に直結している。

これらの所作が、仮にも菊地穂波自身による予防線だったとしても、氏の無意味なまでの間違い方は、恍惚するほど甘美である。まず美しいし、面白いのだ。言わずもがな、彼はあらかじめ「誤用」を信仰しているし、それは「間違えてしまう」という業の肯定へと帰結している。

再び仮にも、だが、排気口と『香水』の効能を「喪失のためのレクイエム」と規定した場合、菊地穂波の言語感覚と『香水』の言語感覚を見比べてみるとする。つぶさに考える必要もなく、この両者の呪いへのアジテーションは異なり、また圧倒的に差が開いている。『香水』がリフレインする「ドルチェ&ガッバーナ」という語句と歌唱法には、信仰心が絶無だ。それにまず美しくないし、面白くもない。

 

前述した通り、菊池穂波の綴ることば/文章に付加されているアンビエント性とは、同時に無視への否定を含有している。排気口は「無視をしてもいいが、我々は無視をされた者たちを決して無視しない」というドグマによって、先行的に発生されるはずだった「死」を回避させる。繰り返し参照するのは無礼千万だが、『香水』にはこうした回避能力が絶無であり、逆に自滅の直面へと詐欺的に導く。

排気口が履行する一時的な回避の時間は、漏れなく生者全員に付与された「死」という呪いに対するアゲインストに他ならない。

 

『いそいでおさえる嘔気じゃない』は再演2・新作1の三つの短編からなるオムニバス公演だ。これらに共通する真理は「笑っているとあっという間に何かが喪失され、哀しみに暮れているとあっという間に世界は再生される」という排気口のベーシック・マインドだった。

『明るい私たちのりびんぐでっど』ではゾンビ、『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』では風俗、『右往私達左往』では幽霊たち、といった具合で、分かりやすくキャラクターやエレメントが設定されている。この「よるべない住人たち」は、本公演において大きな意味を含んでいる。そのことに関する言及は、本稿最終ブロックにて後述する。

 

本作が「死」よりも、それまでの公演以上に「喪失」を想起させるのは、排気口元劇団員・田んぼ氏の卒業によるものが高い、ということも指摘しておく。排気口にとって、彼を「喪失」した以降の公演は、本作が初である。彼を知る者も知らない者も、本作に漂う異様なまでの喪失感は、容易くキャッチできるはずだと信じている。

喪失を補完するべく、並外れた生命力と意志を明瞭化したのが、残る排気口の面々であった。彼らとの知己の有無を関係なく、彼らの演技への純粋な絶賛を残しておく。

 

佐藤あきらは三作品すべてに出演しているが、筆者は、本公演における彼の俳優としてのバイタリティを高く評価したい。特に、二作目の『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』のヒデキ、この佐藤あきらは素晴らしい。まるで闇金ウシジマくんの世界から這い出たかのような俗悪なおそろしさは、実生活において絶対に関わりたくない/遭遇したくないと恐怖を想像させる。スタイリングも相まって、ちゃんとその場の空気を停止させる人物像を完成させていた。

同時に、決して間違えてしまう人々を否定しない排気口のアティテュードに沿って、そんな彼のキャラクターへのかすかな悲哀も演技に刻印されている。彼の持つ、異様なまでのアンビバレントは、おそろしい人が感じるおそろしさ、おそろしい人が感じる寂しさを色濃く印象付けることに成功しており、キャスティングの妙にうなった。これはきっと、菊地穂波自身が彼に感じるアンビバレントでもあるだろうし、観客の移入とも共鳴して、忘れられないキャラクター像を創造したと言って過言ではない。

 

坂本和という俳優がもたらす最大の補強性は、やはり「良すぎる声」と「良すぎる滑舌」だろう。この良すぎる音の使い手は、前作『怖くなるまで待っていて』では教師を演じていた。筆者は、声質と観客からの信頼度/移入度というものを関連付けて考えてしまうパラノイアであるが、少なくとも、坂本和は前作においては、観客をその声によって安心させていた。一方、本作で彼が演じる二役は、そのどちらもがクレイジーな住人だ。あのナレーター的な声の良さが、ひとたび狂気の側へと移ると、こんなにも気持ちが悪く可笑しいのかと大変興味深かった。

特に『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』におけるタカシは、(これは観劇後に知ったことであるが)まさかのアテ書きではなかったという不条理に爆笑してしまった。あれこそ、坂本和のための狂気ではあるまいか。というのは称賛である。筆者はタカシが包丁を手にしてバブバブと騒ぐ時間以上に、彼が椅子に腰掛けてヒデキと会話する、あの美しい時間が大好きだった。「飛び道具」たる彼が、文字通り道路に飛び出すオチまで含めて完璧である。

 

ウルトラナイスガイ俳優・小野カズマの圧倒的な存在感と演技力には、意を決して脱帽する。今回はアンタが優勝だ。これは満場一致の賞賛だと思われる。この小野カズマはすごい。ではない。やっぱり小野カズマはすごい俳優だ、なのである。観客の信頼と期待を己に集約させながら、その遥か彼方の次元から虚構を身に纏って飛来する。そして小野カズマの演技を目撃している時間、我々は「虚構とは哀しみによって形成されている」ことを知る。可笑しさに笑う際も、救われなさに同情する際も、漏れなく悲哀が付帯している。小野カズマという俳優それ自身が持つスラップスティック性の所以は、悲壮感から切り離せない。

筆者は本作の小野カズマによって、正確に18回ほど爆笑し、4回ほど泣きそうになった。場末のホスト・サブジの宙を舞うような柔軟性と浮遊性。後半、かつての友情と現在の疎遠、それを彼の発声や表情、佇まいだけで魅せる憂愁。自殺したサラリーマン・ヤスの神経症的な肉体の運動は、やがて「生き辛さ」というハラスメントと克明に呼応し、見ているだけで痛々しくなる。歌唱されるJ-POPの切なさではなく、それが過去に鳴っていた時間、そして未来から鳴り響いていることを示すノンリニアな時間感覚の、ささやかな流動性があまりにも切ない。スラッとした長身に、タキシードもスーツも見事に調和するスタイリングの華麗さ。もちろん、ゾンビハンター松崎の荒唐無稽な風貌も含めて。改めて、排気口の小野カズマが大好きになってしまった。

 

中村ボリは(少なくとも千秋楽においては)見事に安定しており、キャスティングの範囲で考えてみても、彼女以外にあの役が出来ただろうかと疑問が残ってしまう。客演である村上奈々美、森吐瀉物との叫びにも似た掛け合いは、実のところ、中村ボリが軸となって律動されている。この、舞台上における主役/端役のリージョンを保有しない「中心的な安定感」は、筆者が彼女の演技を鑑賞する際には、常に表れている。おせっかいの範疇ではあるが、"ろれつ"に関して、彼女自身は悔やむことが多いと以前話していた。ところが、筆者の私見においては、全く気にならなかった。そもそも、正しく聞き取りやすい発音、という"正しさ"を、筆者は演劇に求めてはいない。早口になったり、音が外れたり、ろれつが回らなかったり、そういったリアルタイムな感情の起伏と事故的なパフォーマンスに、滅法弱い。我々は文字ではなく、ことばを聴きに観劇しているのだ。ぐっちゃぐちゃな心情は、ぐっちゃぐちゃに発話してもらっていいし、つぶさに考えて、中村ボリの音楽的な発話の素晴らしさは、より評価されていい。

前作『怖くなるまで待っていて』におけるラスト、中村ボリは笑いながら泣いてみせる。この名演の余韻に完全にヤられた筆者は、間髪入れずにボリフォロワーになった。彼女は呑みの席で「笑いながら泣くという芝居は誰にでも出来る」とボリボリ言っていた。しかし、それは誤りだ。あの芝居は中村ボリにしかできない。演技の技術力や正解なんてどうでもいい。中村ボリは、中村ボリが演じているものが正解なのだ。本当にいい俳優だと思う。

 

さて、筆者は本公演のための客演を募るワークショップ兼オーディションにオブザーバーとして参加した。単にワークショップを見学した部外者に変わりはないが、そのことから少なくとも、一般的な観客よりも「客演」への期待と移入度が高かったことを告白する。筆者は彼らのことをあらかじめ認識してしまったがゆえに、一体本番では如何なるメタモルフォーゼが繰り広げられるのか、十二分に待望していた。

そういった欲求によって、ここからは客演の演技に着目しつつ、その雑感を書き残しておくこととする。

 

結論、客演参加者を「客演」と総体的に一括りにすることが甚だ失礼なのを承知で、本公演の「客演」は「排気口」への順応に過誤があったと指摘する。

 

はじめに、これは批判でも揶揄でもない。というエクスキューズ自体が、筆者のための予防線でもない。各論としては、客演で参加した俳優たちは各々が有意義に職務を全うしている。したがって、ここから述べることは総論としての過誤について、である。また、排気口それ自体への順応というタームが、本来の意味で必要であるかどうか、その点も論旨展開に沿って考えていきたい。

 

端的に言って、「排気口」と「客演」の最たる相違点は「台詞の発声/発音」である。このことは、音感の優位性を主張するものではないが、排気口において、発声/発音される「音」の抑制や起伏は必要不可欠な特性であると筆者は考える。

たとえば、はっきりと、大声で叫びすぎている発声法は、俳優個人のアドレナリンや演技解釈を抜きにして、あからさまに興味の持続を欠落させる。なぜか。観客に「それが演劇である」というアクチュアルを自覚させるような、「演劇の芝居」の範疇からはみ出ていなかったからだ。そのような発声法には「伝えたい」という俳優の自意識はあっても、キャラクターが「話している」というリアリティラインは著しく阻害される。なぜなら、極論、キャラクターは第四の壁に向かって話しているのではない。キャラクターは、また別のキャラクターに向けて声を届けようとしているのだ。観客に届ける必要は、作劇上は全くない。台詞の一文字一文字が、あるいは言葉の頭文字が「太文字化」しているこの現象は、カッコ書きの「演劇」という予定調和から一歩もはみ出ないのである。

さりとて、この「観客」というやつらへの対応は、一概には定言できない。

 

この点に関して追尾すれば、この「観客に向けられた過剰な発声」の要因として、観客の観劇リテラシー低下、あるいは能動性の失念も挙げておく。観客が自ら声を「聴きに行く」姿勢は崩壊しつつあり、実は各々がカメラ・アイを持った主観であるにも関わらず、観客は安心してサービスを提供「される」側でいる。この受動性こそが諸悪の根源だ、とは言い過ぎかもしれないが、表現を待つのではなく自ら獲得へと向かうこと、内部で完結するのではなく外部へと発信を続けること。それこそが文化の循環なのではないだろうか。演劇は貴様を癒すためのカスタマーサービスではない。

筆者は外野の人間であるがゆえに、こうして生意気な提言をしつつも、小劇場界隈における観客層のインポテンツ加減には呆れ果てている。内輪の褒め合いも仲良しごっこも、自意識過剰なだけの観劇おじさんも観劇おばさんも、即席的なエセ批評も、というかエセ批評さえ無い現状を把握して、心から失望した。特に、観劇おじさん/おばさんへの緩やかな差別心を抱いているため(個別への差別心ではなく、界隈における機能としての差別心)、頼むから年寄りは黙っててくれよ、若者のアソビをいちいち注意すんなファック。とは、あまりにも言い過ぎだが、もし意見や感想があるならば、作り手を向上させるための「おためごかし」のない批評を待ち望んでいる。テメェはそんなに威張れるほどちゃんと観劇できているのか、と、問われれば、貴様よりはマシだと思っている。悔しかったら俺を殺す勢いで何か書いてみろ。そしてその感想を、作り手たちへと間違いなく配達するのだ。

 

と、意図に反して呪詛が蔓延してしまった。新型ファッキンコロナウイルスじゃあるまいし。そしてこのような、醜く不快で下品で頭が悪く、しかもその頭の悪さを堂々と誇示しうる破廉恥さ加減と時代錯誤を露呈する自称・演劇ファンの病は、筆者が片足を突っ込む自主映画界隈においても同様に感染拡大している。彼らにコロリと人が騙されてしまうのも、日本が徹底して平和な証拠だろう。論旨を巻き戻す。

 

「客演」に対して、排気口の面々の発声法とは、最も簡潔に述べれば「唄うように」発音されている。このことは、つぶさに考えて最的確な技法だ。オペレッタやデュエットに近い感覚で、相手のメロディ、コードに順応しながらも、自らの音色を印象深く奏でていく。ひとえに相手が存在する場合、その相手のリアクションに寄り添いながら、相手の音とチューニングを合わせて芝居を展開させている。排気口所属の俳優は、これらの試みに漏れなく成功している。

「はみ出る」ということへの恐れや不安が、全く感じられなかった排気口の面々に対して、「演劇とはこういうものである」という正解が羅列されたのが「客演」の演技だったように感じられた。正解には間違いが無いが、定められた地点から飛躍する躍動感と驚嘆も無い。頭では分かる芝居と、心で分かってしまう芝居というものは、絶対的に違っている。

たとえば初見の観客が、排気口所属の俳優は一体誰なのか、と、判明できないほどの溶け込みについて、さらなる研磨が必要だったのではないだろうか。菊地穂波の書いた物語は、一体どのように読み、どのように発声するべきだったのか。読解力はそのまま、発声法へと連結する。仮に、台本の〆切が遅れてしまっていたとしても、時間は言い訳できないほどに確保されていたはずなのだ。

 

筆者の私見になるが、このことを指摘した人物は、恐らくヴァージン砧主宰の盟友・香椎響子しかいない。彼女の感想と指摘は、筆者と同様の類であり、それはやはり「発音/発声」について批判的であった。計らずも、筆者と彼女は共にワークショップを見学した者同士である。ゆえに、この違和感は我々特有の病理なのか定かではないが、誰かに教示されたような教科書通りの舞台芝居を待ち望んでいたつもりは断じてない。

すなわち、キャストアンサンブルとは、そういった個々の俳優による抑制の技量によって変容していくのだ。

 

このことに関する責任言及は、あらかじめ作・演である菊地穂波本人に向けてのみ発揮される。良い意味で放任的な信頼関係下における演出の術と、菊地穂波語を読解するための台本を読む力、そして解釈を体現する個々のアプローチ、その抑制とコントロールこそが、本公演に付加されるべきメソッドであったと筆者は推論する。

また、これは演出担当の菊地穂波のアカウンタビリティというよりも、5月公演だった予定が延期となった未曾有の状況など、不可抗力によって「過剰接待」が完成してしまった節も推測できる。

筆者が「客演」と邂逅を果たしたのは、3月後半。パンデミック直前のグッドタイミングであった。それから約5ヶ月間。「客演」にとって、本当に長い長い期間だったと思う。

 

ところが、筆者は彼らが排気口のアティテュードに寄り添いながらも、決して同化しなかったという事実に関して、言葉そのものの意味で評価している。

ここに於ける、年齢問わずの若々しさは誠にダイナミズムであるし、総論としての実存よりも各論としての存在表明へと推進する個々の俳優陣の熱量は、気迫という意味においては絶対値を凌駕している。こうした、正しさへと向かいながらも燃えたぎって猛進している状態の俳優を、シニシズムで切り棄てることに、筆者は価値を見出さない。事実、客演の俳優陣が運動している時間、彼らを常に視野におさめようと必死に追いかけたし、一瞬も彼らの芝居に飽きることがなかった。

筆者は「客演」の演技巧者としての見誤りを指摘したいのでない。彼らが「排気口」と同化しなかったことに関するオリジナルな異物感は、ゾンビ・風俗・幽霊といった、日常生活からなんとなく切り離された存在たちを想起させる。まさに、統合することへのよるべなさを感じて右往左往する人々を「無視しない/無視させない」というアティテュードは、総体的な意味で排気口の精神を強く感じさせる。もしも、彼らがいとも容易くアジャストしていたとするならば、似合っていたとするならば、各短編の魅力は半減していたと予想する。

然るに、「排気口であって排気口でない者」が多数出演している本公演は、「人間であって人間でない者」へのロマンティックな眼差しが徹底されたナラティブとの親和性によって、かなり高い水準で帰結できている(ちなみに、風俗に勤しむ人々を非人間扱いしているのではなく、少なくとも、作品内では全員が"人間"を諦めかけている点を指している)。筆者はこの効能について、菊池穂波による明瞭なセンチメンタリズムよりも、排気口・劇団員と客演との「あまりにも本公演にふさわしかった」アンサンブルによる作用が大きかったと考える。

したがって、本公演における「客演」は、彼ら以外にはあり得ない。ということを、私は春から知っていた。我ながらラッキーを掴んだぜ。

 

彼らは排気口ではなく「排水口」であった、という痛烈な皮肉と賛辞をもってして本稿の句点を打とうと思う。ここまで記してきたあらゆる言葉は、再び世界を循環させるために必要な指摘だったと信じて。

 

 

 

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「わたし、あなたのそういうカタイところは矯正したいと思っています」

「ミ、ミナミちゃん?!?!」

「お久しぶりです。浜辺美波です」

「うっわあー、お、お久しゅう……排気口のワークショップ裏口入学のためのテキスト以来の登場じゃないかー……アレがちょっと評判が良かったからって、こうしてまた君が出現することによって、そのお、メタ視点で調子に乗ってるように思われたり、し、しないかなあーなんてね。ハハ、アハハハ」

「何を言ってるんですか。排気口の新作公演も再演が含まれていたのでしょう? わたしたちがリユニオンしてはならない理由はどこにもないじゃない」

「そだね……」

「散々偉そうに書いておいて、急にわたしが声を掛けたら滝のような冷や汗。どうしたんですか? 後ろめたいことでもありましたか? ねえ」

「いや、これはその猛暑によるね、体温並みの夏の暑さによるね、新陳代謝の結果としての汗なのよさ💦」

「排気口の新作公演、さぞかし楽しかったみたいですね」

「う、うん……」

「一緒に行くって、約束、したよね」

「いやあ、そのお……」

「なんで」

「べ、別の人からも誘われてしまってね、仕方なかったんだよ」

「嘘つき。誘ったのはあなたでしょ」

「違うんだよ。ミナミちゃん」

「……恋人が出来たのね」

「ミナミ……」

「いいの。ほんとにね。わたしの幸せはあなたの幸せだもの。それに別に、わたしとあなたってそういう関係でもなかったし。だからいいんだ。愛する人と出逢えたのなら。それって素晴らしいことだよ……でもね。わたしね……」

「ミナミやめてくれ、君のジェラスが真っ黒いオーラとなって表象化されている。『金色のガッシュ』にそんなキャラがいたよな。そうだブラゴだ!宿敵ゾフィーを恫喝する時のブラゴの肉体から出ていたドス黒いオーラそのものだ!ミナミちゃんブラゴになっちゃってるよ!って、ガッシュってミナミちゃんは直撃世代ではない、のかな??」

「阿佐ヶ谷は恋の街なんだって、だからミナミと行きたいんだって。あなたはわたしに話してくれたのに。なのに」

「阿佐ヶ谷が恋の街と言ったのは菊地穂波だよ!」

「どうせあなたも、あの甘えん坊のメガネに同調しているのでしょ」

「メガネって言うなよ!甘えん坊の部分にはエクスキューズしないけども!」

「じゃあなんで恋の街なんて言い方したのよ!わたしに対して!恋人にじゃなくて!」

「それは……」

「……恋人にも言ったんだね」

「ごめん」

「女の子ってね、そういうのだけで恋の仕組みが分かっちゃうんだよ。わたしも見たかったなあ。『明るい私たちのりびんぐでっど』みたいに、一緒に打ち上げ花火を。『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』みたいに、一緒に旅行だって行きたかった。ちなみにわたしはじゃらん派。それはそうと『右往私達左往』はお盆前にぴったりな劇だったよね……」

「あれ?もしかしてミナミちゃん、観たの?」

「はい。ひとりでね」

「ごめんって……でもいつ観たの?」

「今」

「今ってキミ、ど、どういうことよ」

「わたし、5次元的情報統合思念体だから、過去も未来も現在も、あらゆる場所へ原子レベルで行き来自由なの」

「キミそんな超人的設定があったの?!?!」

「今は暗殺されたケネディの飛び散った脳味噌を見ながら、火星で火星人と麻雀をしながら、排気口短編公演を観ながら、あなたと話しているのよ」

「なに?!神?!」

「あなた、客演に対して排水口だとかくだらないこと言っていたけど、全員とても素晴らしかったじゃない。排気口への順応? あなたは前からずっとそう!口を開けば世界の中心が排気口みたいな言い方ばっかり!ばっかじゃないの?! 長谷川まるさんのポポちゃんの絶対的な存在感と臨場感!支配力!あの当たり役っぷり!みんな大好きポポちゃん!は、彼女以外考えられないよ!るい乃あゆさんの真面目な雰囲気を逆手に取った逆行する狂気!文学フェティッシュ!るい乃さん!坂本さんから離れて!危ない!亀井理沙さんは前作のププ井をグレードアップさせたような苛立ちの乱反射!怒れば怒るほど輝く!からの港で魅せるかすかな希望の乱反射!四家祐志さんの店長のチョロQ!土下座!ああいう頼りないけど憎めない先輩いた!バイト先に!東雲しのさんの「いっけー!」を忘れられないわたしたちの鼓膜!衣裳も超かわいい!そして時折見せる哀しみの表情が抜群で!泣かないでしのちゃん!森吐瀉物さんのヨチヨチ姿!顔!声!からだ!なんだあの生き物ぜんぶずっと面白い!ボリさんに怒られるの世界一似合ってる!村上奈々子さん!奈々子ちゃん天使!血まみれと頭の三角布かわいい!豊かな表情の中に見え隠れする必死の訴え振り絞る声!ああああああああ!!最高ッ!!こうして今思い出してみても全員ほんっっとに良かった!!!アンタ!!!それでもまーだ排水口とかヌかしやがるのかってんだよアァア!!!?」

「どどど怒涛の同感だよ!ミナミちゃん怒りによって活動弁士よりも饒舌になってるよ!」

「だいたい、排気口がそんなに偉いですか」

「俺が排気口にこだわり過ぎたんだ」

「こだわり過ぎたんじゃなくて、愛し過ぎたんでしょ」

「……」

「男の人って、一度に何人もの人を愛せるのね。女もそうだったらいいのに」

「で、でも良かったね、公演観れてさ。ミナミちゃんはどの短編が好きだった?」

「わたしは"あなたと一緒に"観たかったんだよお!!!」

「……悪かったよ」

愛する人と聴く音は、すべてがラブソングになるんだよ」

「演劇の音も、かい?」

「演劇の音もよ。この世界のあらゆる音は、ああ、自分は今、恋をしているんだなって気付くために鳴っているんだから

「ミナミ……本当にごめん」

「もう謝らないでよ。あなたを責めたいわけじゃない。でも、あなたは自分で自分を欺いている。本当は、ただ純粋に"面白かった"と言いたいはずなのに。他人のせいにして、信じられる何かを向上させるために、その口から呪詛を吐くことをやめられないでいる。まるで、夜にすべきことを昼にしているみたいに

「俺は……俺は呪われているんだ。演劇について"書く"という行為の、残酷さと愚かさに」

「人間は誰しも人に傷付けられて、それで自分を欺いて生きている。それは仕方がないの。お互い様だから。でも、自分を欺いていることを教えてくれるのは自分じゃない。自分に掛かっている呪いがとけると、今度はそれで人の呪いをとくことができるの。ねえ、あなた。夜にすべきことは、夜にすべきなのよ」

「……キミの恋は、夜にすべきことかい」

「夜にすべきことだわ。そしてその夜が来なくたっていいの。夜を待つことは得意だから」

「俺は恋人を愛している。でも、キミの想いはよく分かった。キミはこんな俺のことを、それでも好きでいるのかい?」

「あなたが、あなた自身を欺くことをやめられるまではね。わたしは恋人さんを憎んだりしないわ。だって、あなたの幸せだけを願っているんだから」

「じゃあ……やめたよ」

「うん……偉いよ」

「あのさ」

「ん?」

「もしいつか、もしかすると来年になるかもしれないけれど、それでも、今度また排気口が公演をやるとしたら、そのお、ミナミ、一緒に……」

「心から愛してる人と行ってきて。約束だよ。それにわたし、もう観たんだよ、次の公演」

「え。あ、そうか。未来にも同時存在しているのか。改めてすげえや」

「すごいことになるよ。楽しみのために内緒にしておくけど。本当に素敵な舞台になるの」

「そっかあ、ちゃんとやるんだね。排気口。良かった。楽しみにしておくよ」

「……ねえ」

「ん?」

「最後に夏の思い出、作ってよ?」

「なんだい、突然。花火大会も祭りも無いけれど……」

「ほら、これ着けて」

「え。イヤホン半分こ?」

「しよう。ほーら」

「ああ。ありがとう」

「えっと……これこれ!一緒に聴きたかったんだ。再生っと」

「……これは」

「わたし、この曲好き。特に、♪ドルチェ&ガッバーナの部分!」

「……」

「どんなに耳をつんざくような嫌いな音楽も、愛する人と聴けば上質なラブソングになるのよ」

「……ほんとだ。いい曲だなあ」

「ありがとう。ようやく、夏がはじまったよ」

「やっぱり俺のおかげ?」

「ばか。『香水』のせいだよ」

 

【MULTIVERSE】

誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくい母性のすべてについて教えましょう、というメンドウな誘惑とメンドウな演劇【ヴァージン砧『孕み孕ませ産み産まれ』雑感】

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筆者と主宰の香椎響子は、事もあろうに大親友(と言って過言ではないほどのフィーリングをゲットして、初対面でハイタッチ&ハグした仲なのだ。筆者は異性に対して、彼女以外を指して「オマエ」と読んだことはない。彼女とやっていない/やる予定がないことは、戦争と恋愛と殺害くらいしかない)の関係性に落ち着いている。つまり、本稿は主宰のパーソナリティを認知した人間が記して「しまっている」。この事実は、いささか健全と呼べるものではない。内輪の褒め合い/貶し合いほど、醜い行為は無いからだ。

さりとて、関係性を獲得したからこそ、読み解くことが可能な事象も存在する。本稿は、なるべく第三者による客観的な視点を保持しつつ、それでも尚、劇作家自身のパーソナリティに寄り添う形で執筆することを目指す。

 

筆者のアイデンティティからの指摘になるが、本作『孕み孕ませ産み産まれ』という作品の根幹には、『ローズマリーの赤ちゃん』や『イレイザーヘッド』や『反撥』からの影響が「存在していない」、ということをまずは挙げておく。これらの作品群は、一般的なシネフィル諸氏には明瞭な事実である通り、どれも妊娠への恐怖や不安を描いたマリッジブルー/ニューロティック・スリラーの傑作である。御多分に洩れず、筆者もまた三作品をオールタイムフェイヴァリットに愛好している。

ヴァージン砧の最新公演は、登場人物が妊婦二人、妊娠と出産、さらには母性へと想いや疑念を馳せて、互いにディスカッションの限りを尽くす二人芝居だ。この接見に際して予感されるのは、マリッジブルー/ニューロティック・スリラーの名作群たちからの影響、もしくはそれらへのオマージュが「ある」という、映画ファンなら決して罰が当たらないであろう純粋な思考だった。

にも関わらず、さも当然に作・演の香椎響子は、全くそれらを参照せず、言及もパスティーシュもしないというバイタリティによって、筆者のような映画ファンをひれ伏せさせた。本人に確認していないので推測の範疇を超えることはないが、恐らく100%、彼女はこれらの映画を観ていない。単に認知せずに観ていなかった、という理由も、認知してはいたが参考にはしなかった、という理由も、すべて真空を切る。元ネタになり得る素材を排して、元ネタと同類の新しい作品を生み出してしまう技量の高さに、ひとりの映画ファンとして驚愕した。

 

しかし、「女性の劇作家が書き上げた、妊婦二人による母性への疑念を巡る問答」というキャッチに対して、観客が抱く居心地の悪さというものは決して否定できない。端的に、大きめの主語として扱われる「女性」や「妊婦」「母性」、それらが組み合わさったことへの一般的なインプレッションは「面倒」である。面倒くさそう、という居心地の悪さを感じながら、観客はその「面倒」と対峙することを余儀なくされる。

 

と、こうした論調が引き起こす次なる現象は、筆者の思想がミソジニーやアンチフェミニズムである、という疑惑であり予想かもしれない。曰く「メンドウとは何事か!失礼だろ!」と、自称ウォッチメンが騒ぎ始める予感がしなくもない世界になってしまった。ヒステリーにも近いこの感覚は、さらなる別のメンドウを生み出し、トートロジカルに終わりがない。なので、男女二元論を推奨するつもりは皆無でありつつ、ひとりの個人としてのフェティッシュを述べてしまおう。

筆者は「女性」も「妊婦」も「母性」も、そのどれもがおそろしいし、信じられないし、ロマンティークで、美しいと感じている。

筆者が映画館で映画を観る理由の一つは、大きなスクリーンに映る女優の大きな顔面に対して、おぞましさとエロティークを摂取するためでもある。自分の身の丈よりも巨大な女優のクローズアップが内包している、強度の高いグロテスクとエロティシズムは、他と代替可能なフェティッシュではない。これは祝福でも自慰行為でもなく、単なる呪いだ。

4歳年下の妹を身ごもった母親の腹部が大きく膨れ上がっている様子と接見した際には、あまりにも恐ろしく、ついには手を触れることができなかった。肉体の変容というグロテスクを、周囲の人間が「めでたい現象」として祝福している様子も、気味が悪く、吐き気を覚えた。これは妊婦差別ではない。筆者にとって、こうした肉体への嫌悪感という感情は、トラウマでありオブセッションになっている。

前述したマリッジブルー/ニューロティック・スリラー系の映画を愛好しているのも、母性への飽くなき探究心と興味が、今尚全身にみなぎっているからだ。

筆者にとって「女性・妊婦・母性」と呼ばれるものたちがもたらす感情は、必ずしも陽性の反応ではなく、不気味で、おぞましくて、官能的で、疑い続けている対象である。

 

本作においても、それと全く同じとまでは言わないが、妊婦や母性への「一般論」はシャットアウトされながら、スムースにグロテスクへと論旨展開が遂行される。たとえば、序盤で披露される「セックスにおける体位と産まれてくる子どもの関係性」のエピソードは、内容のフレッシュな痛快さ、スピード感溢れる俳優陣の熱演、そしてあまりにもオリジナルな言語感覚をもってして、一気に惹きつけられる。こういった台詞が書けてしまうことへの、筆者の香椎響子への信頼は厚い。

ここで描かれる妊婦二人は、かろうじて自立しながらも、果てしなく戸惑い続けている。

片方の妊婦が発する「産みましょうよ」という台詞は、もう片方の妊婦が「産みたくない」と懇願したから発話されている。この状況下において、めでたさや祝福は希薄化される。本作に通底する「面倒」な印象は至極当然の感情であって、否定や非難されるべきものではない。要するに、「女性」も「妊婦」も「母性」も、ちゃんと「面倒」なのだ。まずはその感情から幻想へと逃避しなかった、作家の負の強度に対して賞賛したい。何から何まで、少しでもネガティヴな姿勢を見せると全否定されるファックオフな世界は、小劇場にはいらない。面倒なものは面倒なのだと、真っ直ぐに突き詰めてほしい。それこそがアクチュアリティであり、その解答を模索する行為自体が演劇であり観劇に他ならない。

香椎響子の著作には、そういった本音のことばが無防備に散布されている。そこには、貴様のマスターベーションのためのファンタジーも無ければ、チャリティショー的な欺瞞も絶無だ。建前に殺されかかっている人々を、本音を駆使してどうにか救いあげたいという衝動が疾走し続けている。香椎響子が本作で選定したテーマそれ自体が、彼女のそのようなことばたちを待っていたかのように躍動し、うずく。この一見メンドウでセンチメンタルにも思える作品は、実のところ「女性・妊婦・母性」へのブラインドされた真実を、克明に観客へと伝播させるために鼓動している。誰かにとっての祝福は、誰かにとっての呪いなのだと。

 

前作『ポップコーンの害について』も、語弊を招くつもりは無く、果てしなく「面倒」な作品だった。インターネットで体得したことばたちによって、インターネットで呪われた者たちの悪魔祓いを完遂するという、そのあまりにもメンドウな所業は、アンニュイやメンタルヘルスという鬱屈性に着目するべきではなく、誠に評価すべき爽快感に満ちていた。

こうした除霊a.k.a浄化にも似た構造は、香椎響子の著作には必ず見られる。彼女のパブリシティ上のエクスキューズは「今もどこかで傷ついている人を救いたい」というご立派な人命救助精神だろう。

しかしながら、こうして彼女が試みている除霊の所作は、ベクトルが彼女自身へと向いていることも指摘しなくてはならない。これはメンタリティ上の特徴であって、決して否定されるべきものではない。加えて、才人に許された自慰性の美麗さに対しては、表現に呪われた者が異議を唱えるべきではない。彼女のことばは、究極的には彼女自身にも投げ掛けられており、それを公然化するのは、「彼女自身=あなた」のためでもあるからだ。あらゆる表現がそうであるように、香椎響子の作品も、漏れなく「99人」のためではなく「たったひとりのあなた1人」のために創作されているといえる。

 

前作が一人芝居だったことに対して、本作は二人芝居の演劇へとカムフラージュを遂げている(ちなみに、次作は三人芝居らしい)。たった一名の増員、ではあるが、香椎響子の紡ぐことばにとって、これは大きな差だ。

彼女の書くことばは基本的に、呪詛/祝福の作用を持っている。その効果が最も色濃く発揮されるのは、ポエトリーリーディングライクの「一人語り」である。一人であるということがもたらす多人数性は、匿名性を獲得すると同時に、ことばそれ自体の残酷さと強度を倍増させている。「もうそこにはいない人物」への想いや怨念がダイレクトに乱射される清々しさは、前作を観た者には容易く享受されるはずだ。率直に述べれば、この作法はヒップホップマナーに酷似している。事実、ジャパニーズ・ヒップホップのファナティックを公言している香椎響子は、まるでリリックやヴァースの如き音感を台詞に宿らせることに何ら衒いがない。

一方、本作は二人芝居という構造を以ってして、ヒップホップマナーを遵守する形でMCバトルが繰り広げられる。互いが剥き出しの感情吐露を遂行する上で、明確なリズム/アクセント/イントネーション解釈を忘却することはない。これは会話劇というよりも、目には見えないマイクリレーをしているように思えて仕方ない。まるで8マイル先の「あなた」へと念を飛ばすかのように。こうした香椎響子の便法は、現時点においてヴァージン砧の魅力の一つとなっていることを強く述べておく。

 

この華麗なマイクリレーを魅せた二人の俳優・東雲しの、竹内朋子へのチアーは、両者へのおもねりや世辞を抜きに、最大量で贈らなくてはならない。

東雲しのがもたらすのはカッコ書きの「貧弱さ」だ。筆者は、彼女の芝居を排気口『怖くなるまで待っていて』にて今年1月に拝見した。その際に記した雑感で述べたのは、彼女の「声」の素晴らしさだった。戯画化された強い口調が誘発させる、ツンデレ/サディスティックな侘しさが黄色いジャンパーを着て、次々と登場人物たちに睨みをきかせる。そのリリカルな生命力の所以は、彼女の実年齢や容姿以前に、その声色=音にあると着目した。単刀直入に言って、あの声、で、あの強気な態度、なのである。こうしたケミストリーの発見を容易にこなしてしまうのが、作・演である菊地穂波の健全なスケベ心だと指摘するが、一先ず本題に戻る。

本作における東雲しのは明確に呪われている。という設定自体は、香椎響子の著作において準備体操レベルの設計に過ぎない。特筆すべきは、香椎響子が東雲しのに付与させた「呪われた身」というオプションをもって、彼女を導かれるべき「音」の発生源へと確立させた、という成功例である。排気口の公演における、苛立ちや怒りを纏った彼女の説得力は、本作ではさらに陰性の強度を含みながら増す。ここでは怨念以上の、ナイーブな哀しみが提示される。彼女の顔に浮かぶあきらめにも似たアンニュイな表情は、それ単体よりも、悲壮感を帯びた声が加わることによって、高い利便性を得ている。東雲しのが本作で完遂している「か細い声ではっきりと発音する」という技法は、あざとさのかけらも無い音の響きと同時に、キャラクター内面の表象化をクリアしている。高い音域で発せられた音によるカラ元気なグロテスクさは、可愛さ/陽気さよりも、より一層、彼女のアンニュイを研磨している。

これは筆者の邪推でしかないが、彼女自身のパーソナリティは、実のところハピネスフルな楽天性よりも鬱々としたアンニュイが多分に含まれていると察する。ルッキズムを支持する気は全く無いが、他意なく、彼女のような可憐な容姿が引き寄せる磁場には、いつだって憂鬱が含有されている(容姿の指摘、という行為によって誤解を招きたくないが、東雲しのが俳優であることを考慮して進めてしまう)。例えば「しのちゃんホントかわいいねえ〜」とか「しのちゃんは綺麗で美しいねえ〜」とか、そういった具合だ。ウンザリするだろう。筆者の私見になるが、間違いなく、美しい人は傷付いている。民たちは美を前にして、欲望の殺傷性に拍車をかけてしまう。対象となる本人自身、身に覚えのない欲望のカルマによって、人々が己を欲求し、殺し合う様を見て混迷するしかない。ちなみに、筆者は美しい人に「美しい」と伝えたことは一度たりともない。第一に、本人にとっては最も聞き飽きた台詞であり、第二に、その言葉は「呪い」でしかない。

これを「呪い」と書いてしまうことが不適切だとは思わない。なぜなら、東雲しのも香椎響子も、紛れもなくその「呪い」と対峙した上で表現を試みているからである。我々はあらゆる「呪い」に自覚的にならなくてはならない。それが21世紀のマナーであり生きる術だ。東雲しのがあの役を演じたことは、つまり必然的だったといえる。

こうした指摘が無礼千万に値するのであれば、詫びると共に「東雲しのにはナイーブな憂鬱が似合う」と提言する。

対する竹内朋子の豊かな表現能力の高さについては、陳腐な賛辞ながらも素晴らしいとしか言いようがない。どの場面を切り取ったとしても、本作の竹内朋子の「面白さ」は隔離されない。身体の動きを、きめ細やかに抑制しつつコントロールされたパントマイム的な愉しさは、観客の視線を奪う。彼女の肉体性の安定は、この呪われた時間の中で観客の安堵感を発生させている。安定しているのは彼女の演技巧者としての実力であって、演じられるキャラクター自体はとめどなく不安定であり続ける。

彼女の安定/不安定のバランスによって、例えば実年齢が年下である東雲しのに対して、決して目上の立場から意見を発言せず、対等な意見交換の場を提供することに成功している。一見すると、竹内朋子が東雲しのをさとすようなコンストラクションが予感される本作は、二人の妊婦を通してボーダーレスに母性論が展開されていく。このように、二元論あるいは天使と悪魔のような相対性からかけ離れた地点で繰り広げられる言論の様は、東雲しのの技量と共に、竹内朋子による掛け合いの秀逸さを物語っている。

腕や脚の動き、姿勢や表情筋、指先に至るまで、彼女の的確なマイムの数々には恍惚する。一先ず、演劇を観劇する際に生じる「生身の俳優を間近で目撃する」という行為の魅力は、竹内朋子の安定した不安定さによって担保されている。

加えて、彼女もまた「声=音」の魅力を体得している演者だといえる。東雲しののか細くも高めのキーに対して、押し絞るような必死さの中に紛れ込んだ自意識と優しさが、竹内朋子の発声からは確認できる。この音によるアンサンブルの上品さは、耳の良い作家である香椎響子の勝算だろう。前述の通り、一人芝居で発揮された魔力を、二人芝居の磁場でも発生させることへの飽くなき挑戦が、俳優同士のケミストリーによって結晶化されている。交響的に二つの生きた音を重ね合わせながら、ついに香椎響子は両者にライミングを披露させる。こうしたフロウ感/グルーヴ感の付与は、なんともヴァージン砧らしい。と、第二回公演で観客に言わせしめるほど、音感にこだわりを徹底している。竹内朋子、東雲しの、香椎響子と共にカラオケに行きたい。

 

さて、最終ブロックにおいて、いささか暴力的な筆致になることをご容赦いただきたい。

実のところ、筆者は憤慨している(爆笑しながら)。その理由は「noteに書かれている文章の方が面白い」という類の感想を見聞きしたから、である。

追尾して、ダチを擁護するつもりはないが、筆者はこの凡庸で平和ボケしたぬるま湯のカンソーに対して反論する。

もちろん、香椎響子に対して「二度と公演よりも面白いnoteを書くな」と注意喚起する気はゼロだ。どんどんグロテスクでポップな乱文を量産するべきだと思う。当然だ。筆者の警告の矛先は、観客へと向けられている。

仮に、だ。「香椎響子が書くnoteのように面白いヴァージン砧」に、価値はあるのだろうか。

筆者は、note /日記/ブログと演劇作品が、解離していればいるほど魅力的に感じる。なぜなら、ぞれぞれの分野において使用される「言語/ことば」は異なっており、一方によって補完可能なものであれば、それぞれのフィールドで開戦する必然性は無いと考えられるからだ。演劇のような文章は舞台で披露してもらいたいし、noteに紡がれた感情吐露をそのままシームレスに作劇に流用するのであれば、やはり、それはnoteで完結させれば済むことだ。少なくとも、香椎響子が俳優の生身の肉体を借りてまで「表現」している事柄は、文学的な陰鬱さではなく、音楽的なヒーリングを孕んでいる。であるならば、それは音と肉体とステージによって表象化されるべきなのだ。

ここに於いて、"noteの方が面白かった"という民の甘えは、サッカーより野球が好きだ、サッカーみたいな野球をやってくれと野球選手に懇願していることと等しいといえる。甘えん坊の民たち、特にネチズンによる「引き摺り下ろしたい」という願望に、作者が屈服する必要はない。

筆者は、それぞれに補完能力と互換性が確保されているとしても、本公演とnote は、明確に別離された表象として受容するべきだと考える。別種のことばを行使して展開される各々のアカデミック性とエモーションを、それぞれ異なるものとして楽しめばいいだけだ。「noteは面白いのに」とか「公演は面白いのに」といったようなオプションは、付与すればするほど無駄でしかない。何らオプション抜きに作品単体を評価しろ、とまでは(このファックオフな情報化社会においては)言わないが、少なからず、観客の能動性とは、その努力の賜物なのではないだろうか。

気に入らなかったからすぐ切り捨てる、という作業は、作業であって観劇ではない。そんなことはSNSのブロック/ミュート機能と同じだ。演劇はSNSではない。生身の人間をより密接に感じられる磁場において、我々観客が遵守すべきアティテュードは大前提だ。もう一度言う。演劇はSNSではない。そして貴様のためのファーストフードでもない。食べたいものだけ摂取したいのであれば、当店のメニューをご覧ください。

 

やはり香椎響子はSNSに呪われている。

前作『ポップコーンの害について』の雑感で筆者が指摘した通り、彼女はインターネット時代の子どもであり、SNS時代の子どもではない。インターネットは彼女の武器になるが、SNSは敵軍の殺傷兵器だ。筆者の極論ではあるが、彼女はSNSによって自滅しかねいとすら予感している。

彼女のこの呪いを解くために必要なのは、紛れもなく「作品」である。そしてその作品の一部に、我々のような観客も含まれていることを決して失念してはならない。自縛された自身の精神と、内輪のサイクルに安堵し続けるネチズンたちの、愚かな魔法を溶かしてやるのだ。チョコレートのように。ヴァージン砧には、そういった表現の魔女へと成長する兆しが垣間見られる。

とは言え、筆者は彼女が呪われ続け、悩み苦しみ続けることを心から渇望している。

プライヴェートにおける幸福度のハナシではない。とにかく、どんなに幸せになっても、永遠に逃れられない「おそれ」と共に歩み続けてほしい。香椎さん、あなたが胸の中で、あなた自身で抱えている限り、その「おそれ」からは決して逃げられない。この呪いを祓うために、あなたは作劇という別の呪いで対抗を続けるべきだ。歩き続けてほしい。ドス黒いヴァージンロードを。8マイル先まで。俺はその先では待っていない。アンタの後ろで笑って見てるよ。

 

 

【MULTIVERSE】