20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

家のいのち、映画のいのち、誰かがいつでも、それになる【『stay』に関する雑感】

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映画のジャンルの一つに、所謂「聖なる訪問者」について描かれた作品群がある。たとえば、パゾリーニ監督の『テオレマ』では、裕福な工場経営者の邸宅に謎の美青年(テレンス・スタンプ)が滞在(stay)し始めて、不思議な力によって家庭を魅了していく様が描かれる。他にも『メリー・ポピンズ』や『家族ゲーム』、『ビジターQ』など、外部から来訪してきた何者かによって内部が変貌を遂げていく映画は数多い。これらにおいては、箱庭的な世界の縮図や、外側に対する信頼/不信感を垣間見ることが出来るわけだが、閑話休題。『stay』が面白いのは、そういった類型的な構造におもねることなく、言うなれば「逆『テオレマ』的」な作劇が成されていることだろう。本来であれば、役所から退去勧告を言い渡しに来訪する矢島が「内部」をかき乱す役割を担うはずだ。しかし、彼は5人の男女、あるいは空き家そのものによって、次第に本来の目的を剥奪されていく。もしくは、自ら「あきらめて」いく。外部から「空き家」を奪いに来た者が、「空き家」そのものの磁場に引き摺り込まれていく構成がまず見事だった。
矢島が来訪直後、並べられたスリッパを履かずに乗り越えて向かった先はトイレで、そこは四方を壁で囲まれていながら、音は外部に漏れて聞こえている。外に繋がっている密室空間。この内外の関係性は出入り自由な空き家を想起させるし、矢島のファースト・アクションがそれなのは、しっかりと彼がたどる結末で帰結している。

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前述したように、本編に登場する「空き家」は、立派なこの映画の登場人物のひとりと言っても過言ではない。その存在感たるや、外界から断絶されたかのような、まさに聖なる空間が確立されている。事ここにおいて、ロケーションの素晴らしさを言葉にするよりも、そのロケーションを存分に切り取った撮影の秀逸さを特筆する。本当にショットが素晴らしかった。日本家屋でシネスコをやってやるぞという、面倒で難儀極まりない、しかし映画好きなら一度はやってみたい挑戦に、きっちり勝利してしまっているのがすごい。アングルもよく考え抜かれているし、柱や階段の配置が美しい構図も良かった。日本家屋特有の広々とした空間は、構図次第ではのっぺりとした印象の隙間だらけの画になりがちだったりするし(シネスコなら尚更)、意外に多い柱はカメラ位置の選択肢を少なくさせたりする。そうした限定的な空間の中で、よし、次のショットはちょっと大変だけれどここに繋げてしまおうと、たとえば天井からの俯瞰ショットがあったりする、その逃げない「姿勢」が素晴らしい。
画面の手前側、フレームの3分の1を覆うように被写体を配置するショットが何箇所かあった。ぼくは観ている最中、いやあ、それではちょっと教科書的過ぎるんじゃないかなあーと思っていたのだけれど、それが施されるのは矢島が立ち退きをまだ「あきらめていない」状況においてだけで、彼の目的が希薄していくように、そういうショットは朝を迎えると選択されない。これはうまい。つまり、この家に対する外部からの心理的な切迫感みたいなものがショットに表れていて、しかしそれが最終的には無くなったことさえショットによって表している。
トイレでの矢島の見た目ショット以外は全編フィックスで、単調になりがちな時間操作をテンポ良く、丁寧に撮って繋いでいることへの好感はとても大きい。
台所に立つマキの背中のショット。徐々にぐわんぐわんとカメラが引いていくのだけれど、あの窓からの光を浴びながらも不穏な背中、めっちゃ怖かった。そのまま放置された大さじスプーンなど、先程まで動いていた「時間」が停止しているショットもちゃんと怖かった。

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こうした丁寧な作法は撮影だけに留まらず、照明や録音もハイクオリティで、明瞭かつ明確だった。特に、丁寧な整音は「音楽」としての機能を備えながら(劇中に劇伴は流れない)、目には見えない確かな演出力を発揮していたと思う。たとえば、この家は鈴山のものになってきている、というような台詞が発せられる直前に、二階から電動ドライバーのギギッ、ギギーーンという激しい音がする。その音を発生させているのは鈴山であって、観客に鈴山への不安感を予感させた直後、台詞は鈴山への言及へと至る。このイメージのさせ方、誘導の巧みさ。他にも、夜中に階段を降りるサエコの足音、ビニール袋に入ったトマトが潰れる音、不穏な空気の中でぐつぐつと音を立てる鍋、音の出ないインターホンなど、音への信頼が感じられるのが楽しかった。こうした高品質なスタッフィングからは、東京藝大の優れた機材を十二分に使ってやるぞ!という気概さえ感じる。しっかりとレールを敷いて動くべき時にカメラを動かしているのも良いし、贅沢なのに嫌味がない。なにより「映画」をやりますぞ、という気持ちがひしひしと伝わる。

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本作は「外」へのおそれよりも、2階、すなわち「上」への不信感や嫌悪感というものが通底しているのも面白かった。家父長的な存在である鈴山は、文字通り「上」で生きており、その「上」の実態は隠されながら、立入禁止=ルールを設定することによって自らの権力を保持しているかのようだった。食事の際に金銭を徴収するのも「ルール」だと彼は言っていた。矢島の退去勧告に対しても、自らの「ルール」によってそれを回避し続けていた。矢島に仕事を与えた鈴山は、彼から一番風呂の権利を奪うが、「作る者」という役割をバトンタッチしたかのようにも見えた。勧善懲悪に陥らないギリギリの地点で描いてみせた鈴山は、家ではなく「上」に住んでいたのかもしれない。たとえば家庭、学校、会社、国にとっての「上」を思い浮かべながら観ると、より豊かな作品に感じられると思う。
この辺り、ぼくは勝手ながら、脚本を担当した金子鈴幸さん「らしさ」が感じられて楽しく観た。「らしい」って勝手にすみません。でも、こういった根底に流れるメタフォリカル(あるいはポリティカル)な寓話性は、ぼくが感じる「らしさ」の一つだ。「上」への不信感。自由な不自由。そういった事柄に対する「抵抗」をそのまま声高らかに宣言するのではなく、何層も厚みを持たせた上で「適応」によって描写してみせる、その手腕の確かさ。ホンでも読んでみたい。
 
「上」に関する感想はまだある。仮に、マキにとっての鈴山は、父のまがいものだったのかもしれない。劇中、鈴山と口論になる、彼に意見する回数が最も多いのがマキだ。マキと鈴山はどうやらうまくいっていない(もちろん、鈴山とサエコもなのだけれど。そういえばサエコを演じた遠藤祐美さんは『ろくでなし』での芝居で感銘を受けまして、本作での静かな語り口も大変素晴らしかったです。ということは大事な気持ちなので今書いてしまいました)。マキからは、父性的なものに対する反発心が感じられる。もしかすると彼女は、家父長的な父をおそれてこの家にやって来たのではないだろうか……もうお父さんとは暮らせないから……と、ぼくが妄想したのは、彼女の「外」に行き場がなさそうだと感じたからだ。なぜなら終盤、彼女が「外」にいたのにひょっこり出てくるのが、まるで父が出て行くのをしっかりとこの目で見届けて、それを完了させてからフレームインしているように思えたからだ。「父がいる家」が「父がいない家」になるのを待っていたかのように。
ちなみに、この映画は意図的と思えるほどにフレームアウトがいくつか配置されている。それは、やがてこの場を去りし姿の残像のようでもある。で、逆にマキのフレームイン率が他の人物よりも多かったと感じたのだけれど……気のせいかな……。
 
状況説明はほとんど役所の職員に委託しちゃう、というのも上手かった。ぼくは、こういったあらすじでございとばかりに説明台詞で埋め尽くされるとヤダヤダと意識が遠のきそうになるのだけれど、本作は会話のやり取りで徐々に状況が判明していく、まるで霧が少しづつ晴れていくかのような興味の持続があった。そういったテクニックは当たり前かもしれないけれど、当たり前をバカにしてはならない。作品が何かを説明するのではなく、観客の心が自ら何かを「発見」してこそ、その体験は本物に、宝物になるはずだからだ。他の登場人物の台詞は説明ではなく感情吐露に近い。台詞の随所から、その人の背景がぼんやりと「発見」されていく。そういった彼らの感情を浴びた矢島が、最終的に「どう感じる」か。矢島も観客も、しっかりと「導かれている」感触があって、参ったなあと親指を立てた。

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思えば、「家」の運動性、「住まい」の生命とは、そこに住む人間の運動に呼応している。『stay』を観ていて、そんなことを感じるに至った。空き家は停止した時間の残骸なのかもしれない。ところが、ひとりでも、だれでも、そこに人が存在さえすれば、時計の針は再び動く。これはちょっとばかり、映画そのものと似ているかもしれない。なぜなら、映画を活性化させるのもまた「運動」だからだ。モーションピクチャーとホーム。家が呼吸を取り戻すと、映画も呼吸し始める。終盤、家も映画も窒息しそうになる寸前で、外からの音によって両者は息を吹き返す。そういう瞬間に映画を終えられるというのがとても美しい。

傑作『stay』からの更なる成長と挑戦を偉そうに夢想しながら、藤田直哉監督の次回作に期待しております。
 

最後に。本作がぼくにとっては、恐らくアップリンク渋谷で観る最後の映画となるだろう。
アップリンク渋谷では、主にインディーズ映画をたくさん観てきた。色々な映画の自主上映に行った。もちろん、ホドロフスキーもここで観た。
シアターN渋谷が閉館してから、マニアックだったり、アート系だったり、とにかくヘンな映画ばかりここで観てきた。

現状のアップリンクに対しては、思うことはある。

とは言え、ちゃっかり青春、お世話になった。
映画館は停止しようと、あの映画館で映画を観た時間は”stay"し続けていることを思い出しながら、本作品に対するささやかな感想とし、句点を打ちます。

【物語る作法までジャンク品である必要はないのに、作品の状態に無自覚な出品者です。評価1】『JUNK HEAD』雑感

f:id:IllmaticXanadu:20210402115453j:image今話題のクレイアニメーション『JUNK HEAD』を観た。

 

 

「頑張っている」と「面白い」は違う。

 


観ている間、ずっと「ああ、映画はひとりで作ってしまってはならないのだな」とつくづく感じた。あと、独学も本当に危うい。

 


7年間の撮影期間は優秀なプロデューサー不在の記録でしかなく、溢れんばかりの自意識だけが歯止めなく尺を伸ばしてしまっている。文字通り、たったひとりの男の名前で埋め尽くされたエンドロールの文字列のように。そのくせ、重要な転換点や描写は足りないというていたらくで、尻切れトンボな結末にも溜息が漏れた。どこへ向かって走っていたのか。終わらせられなくなっているじゃないか。

 


「作ること」に執着した作り手が、「物語」への一切の信頼を寄せることなく、ドヤ顔でえっへんと王座に座ってふんぞり返っている姿を見て、民たちは「いやあ、すごいですねえ、よく頑張りましたねえ」とニタニタするだけで、誰も厳しく、正しく、「王様は裸だ」と叫ばないでいる状況は、端的に言って不健全だ。自分が見ている"景色"を人に見せる作法がまるでなっていない。設定と造型を完成させて、物語を自ら物語らせることが出来ずに自滅している。それは、作者のナラティブが果てしなく浅はかであることを淡々と証明していた。クレイアニメーションを「作り続ける」ことの才は大変感じたけれど、映画を物語る才はあまりにも感じられなかった。

 


f:id:IllmaticXanadu:20210402115918j:imageより具体的に指摘するとして。ジャイアントバカ怪物の造型を取ってみても、『バイオハザード』シリーズのリッカーそっくりだし、『デッドリースポーン』のエイリアンにも似ているし、つまりはギーガーデザインのエイリアン、ビックチャップを連想させるわけで、真新しさは感じられない。肛門が可愛い顔してるみたいなデザインも然り。『エボリューション』のエイリアンは肛門じゃないけど、顔が可愛いのに口開けたらバケモノだったとか、そういうデザインは掃いて捨てるほどある。


オリジナルの言語によって会話される本作は、その音のこだわりが浅はかであることも指摘したい。こんな言語、全然楽しくないよ。スターウォーズの真似がしたかったのかもしれないけれど。一つの音も魅力的でない。ハッキリ言って、こんなに音楽的ではない映画も珍しいというか、終始、音が気持ち悪かった。気持ち悪いことが罪なのではなく、客に「聴かせる音」の設計、マスタリングが出来ていないことも問題だと思う。そういった音質の酷さも同様に心地悪く、音の楽しさが皆無だった。さりとて、作者はひとりで自らが創作した言語をドヤと披露している辺り、痛々しい。音に関するクリエイティビティの低さを露呈しているにも関わらず、そこに無自覚な作り手が起こしているこのインフレは、耐えるのがしんどいものだった。


f:id:IllmaticXanadu:20210402120002j:imageさて。

本作では、あらゆるモチーフは即物的にも機能しなければ、説話的にも活かされないでいる。ダンス、生殖、頭、女、天国。そのどれもが正しく描かれない。作者は描いた気でいるし、観客もコロッと騙されて「深いなあ」と自己満足に耽っている。このような両者の関係性はグルーヴしており、一種の共犯関係にも近く、罪深い。

主人公がダンス講師という背景が前半で回想の形で提示される。そこで彼は赤いドレスを着た女性と踊るが、彼女の胸が当たって舞踏は中断される。こうして、意図的に一度中断された物語はやがて"動かされる"のだろうと当然見守っていたが、後半でロボット主人公が女キャラ(名前を失念)といざ踊ろうとすると「痛い!足踏んだ!」と叱責されてシーンは終了する。その後、踊りは"再開"されない。よって、踊りのモチーフは何も物語と絡まないし、主人公の望みは成就されない。もし「それは続編でやります」とかほざいたらジャンクヘッドにすっぞ。

たとえば、主人公と女キャラがラストで踊ってみせたっていい。"天国"というモチーフが登場しているのであれば、天にも昇るような心情を"ダンス"によって表現してもよかった。『ラ・ラ・ランド』みたいな感じだろうか。

あるいは、"生殖"と密接した物語なのだから、着地点は"生殖"に成功した/失敗したなど、ミッションや目的に関する希望or絶望を描けばいいはずなのに、その人類にとっての問題は何も解決されずに幕が下りる。当然、この物語上において"主人公に想いを寄せる女性"の登場を観て、ああ、ロボット主人公と彼女が種族を超越して生殖に成功して人類の希望に繋げるのかしらと思っていたけれど、全然そんなことはなかった。もちろん、この問題解決を描くための"装置"として女性を機能させることにはいささか疑問は覚えるけれど、何の役にも立っていない本作の女キャラよりは「作劇」においては重要だと思う。"生殖"ニアイコール"セックス"を描けない理由でもあったのであれば、それこそ昇天するような幸福を"ダンス"で描けばよかっただろう。ロボット主人公と女キャラが踊りながら天に上る、徐々に二人の姿はタキシードと赤いドレスへと変貌していく。それは地下で芽生えた愛の成就であり、人類に子孫が誕生する希望でもある。みたいな。そういう厚みが物語だよ。

ロボット主人公が自己犠牲を払うも、それによって受ける傷は下半身消失くらいで、女キャラの背中におんぶされながら平気で喋れているのにも呆れた。この主人公の葛藤とその代償が、あまりにも何も無い。失うものが何もない主人公を観ていても、何も感じられない。彼が鉄パイプ(あるいはエヴァ的に言えば槍)によって突き刺すべきは腹部だったとしても、頭部は喪失すべきだった。より端的に言えば、絶命することによってヒーローとしての代償を払うべきだった。しかし、彼の勇気ある行動は確かに何かを残す。それを受け継ぐのがアレキサンドルであり、あの女キャラなんじゃないか。

つまり、ラストになって観客に判明するのは、なるほど我々が今まで観てきたものは聖書を失った世界における「神話」だったのだとサプライズすべきだった。劇中で何度もロボット主人公は「神様」と呼ばれる。しかし、そこにダブルミーニングは付与されておらず、ただなんとなく人間=神様という説明及びつまらんギャグとしか機能していない。より明確に主人公を「神様」へと導く物語を叙述してもよかったと思う。なぜなら、これは人類が新しい宗教=物語を獲得するまでの話であった"はず"だからだ。本来ならば。

だから主人公の自己犠牲はキリストに連結することも出来たはずだし、エデンの園からの脱出を描く失楽園のような着地にだって辿り着けたはずだし、女キャラは聖母マリアのような役割を果たすことだって実は出来たし、なんなら周囲に神様呼ばわりされる主人公が「俺、神様か……なんでも言うこと聞いてくれるんだね?」「もちろんです!」「よし!じゃあ一つだけ……」と言って、次のカットで空腹の女キャラ(実際、彼女は劇中で「お腹空いた」と発言している)に対して「こんなものしかなかったけれど、どうぞ」と食べ物、リンゴやらパンだとキリストと繋がり過ぎちゃうけど、とにかく食べ物を差し出して、そこで「ありがとう」って女キャラが頬を赤くすればよかったはずだろ。なんであんなアホみたいな下手くそなタイミングで赤面してたんだよあの女は。ってかさせてるんだよ作者は!

キャラクターに、キャラクターの関係性に厚みを持たせる描写はいくらでもあったはずだ。そういったブラッシュアップが圧倒的に足りないのが、冒頭でプロデューサー介入が必要だったと記した理由だ。

 


f:id:IllmaticXanadu:20210402120032j:image重ねて断言するが、「頑張ったこと」と「面白い」は違う。観客にはそんなのどうでもいい。ソーシャルメディアのおかげでちょっと話題になっているし、スチームパンククレイアニメーションもSFもまともに摂取していないパンピーたちが称賛しているのかもしれないけれど、こんなものは楽しくも何ともない。デルトロが褒めるのもよく分かる。理解は出来るけど、だから総じて面白いという論にはならない。

 


大遅漏の末、作者ひとりだけが射精している。

いや、果たしてこの映画で射精し切っているのか?この物語で、この結末で。出し切っているというのか?

少なくとも、ぼくは何一つ、映画を観ることの快感は感じられなかった。

 

すみません、ジャンク品扱いでお願い致します。次回作、大いに期待しております。待ってないけど。

2020年映画ベストテン(外国映画・日本映画)&ワースト3

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【外国映画ベストテン】

f:id:IllmaticXanadu:20201231192844j:image10位 カラー・アウト・オブ・スペース-遭遇-(2019/リチャード・スタンリー)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195633j:image9位 ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(2019/オリヴィア・ワイルド)

f:id:IllmaticXanadu:20201231193013j:image8位 透明人間(2020/リー・ワネル)f:id:IllmaticXanadu:20201231195832j:image7位 テネット(2020/クリストファー・ノーラン)

f:id:IllmaticXanadu:20201231200210j:image6位 パラサイト 半地下の家族(2019/ポン・ジュノ)

f:id:IllmaticXanadu:20201231193139j:image5位 マンク(2020/デヴィッド・フィンチャー)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195258j:image4位 アングスト 不安(1983/ジェラルド・カーグル)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195235j:image3位 もう終わりにしよう。(2020/チャーリー・カウフマン)

f:id:IllmaticXanadu:20201231193816j:image2位 ブルータル・ジャスティス(2018/S・クレイグ・ザラー)

f:id:IllmaticXanadu:20201231200918j:plain1位 キャッツ(2019/トム・フーパー)

 

次点が多いのですが、『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』、『フォードVSフェラーリ』、『ボラット2』、『幸せへのまわり道』『スキャンダル』、『アンカット・ダイヤモンド』、『ドミノ 復讐の咆哮』などで、これらは日によってランクインするくらいには大好きです。

総評としては、優れた映画作品を選んだというよりも、今年を思い出した際に想起した思い出深い作品を選びました。つまり個人的には、今後の人生でも忘れられない映画、というものばかりです。忘れられないということは、愛しているということなので。
たとえば、『テネット』なんかは、これはハリウッド映画としてどうなんだろうというディメンションで下手っぴだなあと思う箇所もあるのですが、ノーランの映画少年のような無邪気っぷりには、思わずこちらも微笑み返したくなりました。まるで大金持ちの友達の自主映画を観ているような気持ちです。加えて、突然IMAXカメラで撮影されたショットになると、画面のフレームの大きさが変わり、通常ショットと画面サイズが異なるものを無理やりにでも繋げてしまう。こういった暴力性は極めて映画特有のものであって、フレームサイズが変わるたびに爆笑してしまいました。時間逆行世界で主人公が初めて目撃するのが「逆回転のカモメ」というマヌケさも、ノーランの頭を引っ叩きたくなるような可愛さがみなぎっており、こういうアホみたいな作品が年に一本くらいは観られるのが丁度いいバランスです。
『透明人間』はあらゆる意味で完成され切っていて本当に楽しく観ました。ホラー映画というジャンルに区別しても最高でしたし、ジャンルを差別的に限定しなくとも人間ドラマとしてしっかりと面白いので、そういった普遍的な価値を持った素晴らしい作品かと思います。
逆に『カラー・アウト・オブ・スペース』はラヴクラフト原作ということで思い切りジャンル映画ですが、多方面へのリスペクトが感じられる丁寧な作品で大変満足しました。理由も分からず狂っていくニコラス・ケイジ演じる父親の不条理劇として観ても面白かったです。

そして、『ブルータル・ジャスティス』は、そういったジャンル映画の枠を突き抜けた映画的としか言いようのない多幸感で溢れており、映画ボンクラはこの作品を武器に、シネフィルぶったエスプリ野郎たちを撃ち殺していいと思います。いつだってジャンル映画こそが最も偉いです。ジャンル映画をバカにするやつは死んでいい。
1位に選んだ『キャッツ』ですが、この映画が今年のベストワンだという確信は、鑑賞した際から全く揺らいでおりません。こんなにも真っ直ぐに純粋無垢に失敗してみせて、その失敗に無自覚であるがゆえに、ハリウッドメジャー作品であるにも関わらず「失敗されたまま」作品が全世界に輸出されたという事実がまず素晴らしいです。新型コロナウイルスが感染流行する以前に、世界には『キャッツ』が伝染していて、私は自信を持って、その感染者であると表明申し上げます。トム・ファッキン・フーパーが枕を濡らした涙の総量でサーフィンが出来ます。
また、私事ですが、恋人と付き合う前に初めてのデートで観た映画が『キャッツ』でした。爆笑する私の横で、「人間が猫になろうと頑張っているのに、どうしても人間にしか見えない」と彼女が大泣きしていたのを見て、あ、この人とお付き合いしようと改めて決心しました。そういう意味で思い出補完もされているかもしれません。惚気てごめんね。
ちなみに、別枠として「本当にありがとうございました賞」は『マンダロリアン』シーズン2です。

 

【日本映画ベストテン】

f:id:IllmaticXanadu:20201231193752j:image10位 劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン(2020/石立太一)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194105j:image9位 37セカンズ(2020/HIKARI)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194125j:image8位 眉村ちあきのすべて(仮)(2020/松浦本)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194144j:image7位 スパイの妻(2020/黒沢清)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194205j:image6位 眠る虫(2020/金子由里奈)

f:id:IllmaticXanadu:20201231195401j:image5位 初恋(2020/三池崇史)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194224j:image4位 魔女見習いをさがして(2020/佐藤順一、鎌谷悠)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194241j:image3位 VIDEOPHOBIA(2019/宮崎大祐)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194306j:image2位 のぼる小寺さん(2020/古厩智之)

f:id:IllmaticXanadu:20201231194329j:image1位 MOTHERS(2020/関麻衣子)

次点は特にありません。今年はあまり日本映画を鑑賞出来ておりませんので、かなり私の趣味に偏っているかとは思います。
今年は『のぼる小寺さん』が1位だと確信していたくらいには大好きな作品なのですが、逆に言えば、『のぼる小寺さん』より上位の作品に出会えることを願い続けていました。
結果、1位に選出した『MOTHERS』は、それにふさわしい力強い作品だと思っております。この作品は、日本映画大学の学生さんの卒業制作で、本年度のぴあフィルムフェスティバルに入選したものです。敢えて、ドキュメンタリーであるということ以外の一切の情報を入れずに鑑賞されることを強く推薦します。無名な作品であるがゆえに、めちゃくちゃ笑えましたし、めちゃくちゃ落ち込みましたし、映画的な奇跡の瞬間に幾度となく触れることが出来ました。地獄のような壮絶な映画であり、楽園のようなあたたかい人間のやさしさでみなぎっている作品です。監督の眼差しが本当に素晴らしいと思い、今年はこれを越えるような感情には出会っておらず、堂々の1位とさせていただきました。U-NEXTで配信されているようです。機会がありましたら是非。
そして、別枠として「本当にありがとうございました賞」は『呪怨:呪いの家』です。

 

【きらい3本】

1 バイバイ、ヴァンプ

2 アルプススタンドのはしの方

3 はちどり

『はちどり』は台湾映画のフリをした韓国映画で、私が欲求する韓国映画とはあまりにもかけ離れた優等生ぶりが肌に合わず、爆睡しました。エドワード・ヤン岩井俊二のモノマネ、ダサいので消えてほしいです。
『アルプススタンドのはしの方』は、「はしの方』のナードな人間たちが、物語の展開によって徐々に「中心」へと引き寄せられて、ヒエラルキーの上のほう=中心へと同化しようと誘導する作劇に嫌悪感を抱きました。こういった道徳の教科書のような作品を摂取するために、我々は映画館の暗闇には行っていないでしょう。『カメラを止めるな!』同様、同調圧力的な周囲の絶賛も辛いです。
『バイバイ、ヴァンプ』は映画ではなく、水洗トイレでさえ流し切ることのできないビチクソですので、本当に観なきゃ良かったと思っています。というか、こんなゴミが作られているという事実に絶句します。ちなみに、ブログに感想を書いたらプチバズりをしたのですが、「あなたはあらゆるジェンダーに差別は無いと仰っていますが、何様ですか?」などと言われ、私は本当にあらゆるジェンダー差別を抱いていないので、おっ死ねと思いました。

 

本来ならば、ベストテンすら選出するか迷ったのですが、これは毎年恒例のアソビなので取り急ぎ決行するに至りました。と言うのも、2020年は文字通りに未曾有の一年となり、例年に比べて圧倒的に劇場で映画を鑑賞する回数が減少したからです。

例年であれば、各作品ごとに簡素な感想を書き連ねるのですが、今年は総評のみとさせていただきます。映画館、あるいは「映画」そのものが大きな打撃を食らった今年は、ぼくのような映画ファンにとって、本当にナーバスな一年間でした。

ぼくは映画館が好きです。あの暗闇で、見ず知らずの人々と影を、光を見つめている時間がたまらなく好きです。ところが、ぼくらの居場所はファッキンウイルスに奪われ、楽しみにしていた新作は次々と公開延期の判断が下されていきました。

こういった状況は、実は初めてのことではありません。あの震災のときもそうでした。2011年3月10日、ぼくは茨城県の映画館で『英国王のスピーチ』を観ていて、それから2011年4月15日に『エンジェル・ウォーズ』を観るまで、映画館には行くことが出来ませんでした。

当たり前のように映画館へ通っていたぼくにとって、こういった習慣が一時的に抑制された状況は、たまらなく辛いことでした。映画を観て、映画について何かを書くという行為から遠く離れることを余儀なくされて、ぼくは本当に寂しかったです。

しかし、それは同時に、自分がどれほど映画が好きなのかということを気付かせてくれる機会でもありました。映画館が閉まっていても、配信で優れた作品が鑑賞できる時代にもなり、一憂している暇が無いことにも気付かされました。

どんな状況であれ、何かがぼくらから映画を奪うことは、絶対に出来ないのです。

最悪な時代に、最高に素晴らしい作品たちに出会えたことに最上の感謝を。

そして来年が、誰しもにとって素敵な年になりますように。

『シン・エヴァンゲリオン』と『シン・ウルトラマン』は来年のベストの何位かな……

それでは、映画が好きな皆さんも、映画なんて嫌いな皆さんも、逆境の時代で楽しくたくましく生きる全ての皆さん、本当に良いお年を!

 

【追記】

ぼくも拝聴しているポッドキャスト『底辺文化系トークラジオ「二十九歳までの地図」にて、ベスト10&ワースト3に関するメールを拝読いただきました。メールを送った時点から、少しだけ順位も変わっています。パーソナリティの皆さまから「10本に絞れよ!」「シネフィルぶったエスプリ野郎!」「惚気てんじゃねえ!」など有難いお言葉も頂戴しております。サイトでストリーミングでも、ポッドキャストアプリでダウンロードしてでも聴くことができます。是非お聴きくださいませ。

ちなみに、ぼくのメールが読まれるのは55:30〜1:08:46です!

【ウェブサイト】↓

Apple Podcast】↓

底辺文化系トークラジオ「二九歳までの地図」:Apple Podcast内の第三一六回 2020年・映画ベスト10&ワースト3(パート3/リスナー編)https://podcasts.apple.com/jp/podcast/%25E7%25AC%25AC%25E4%25B8%2589%25E4%25B8%2580%25E5%2585%25AD%25E5%259B%259E-2020%25E5%25B9%25B4-%25E6%2598%25A0%25E7%2594%25BB%25E3%2583%2599%25E3%2582%25B9%25E3%2583%258810-%25E3%2583%25AF%25E3%2583%25BC%25E3%2582%25B9%25E3%2583%25883-%25E3%2583%2591%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25883-%25E3%2583%25AA%25E3%2582%25B9%25E3%2583%258A%25E3%2583%25BC%25E7%25B7%25A8/id1093724226?i=1000503942860&at=10l8JW&ct=hatenablogpodcasts.apple.com

ずっと味があるのに何味が分からない、吐き出したいのに吐き出すことすら出来ない、呪いの映画『魔女見習いをさがして』

f:id:IllmaticXanadu:20201229144321j:image「意味がわかると怖い話」の意味が永遠に分からない感覚。今年最も気持ちの悪い、異様で、不可解で、歪んだ、特異な、謎の映画。未解決事件のような答えの無さが、本当にずっと怖い。

 

演出ではなく、この企画を通したプロデューサーや東映の異常な魅力。作劇的な正解よりも、劇中の登場人物たちのように絶えず「移動」を続ける流動的なプロットにGOを出しているのも本当にやばい。

「え、普通はそういった問題は解決するよね?そういった伏線は必ず回収するよね?し、しないの…….でもしていないのに「納得」している……え、なんで……?」物語を観ているようで、「物語」のかたちをした、別のものを観てはいないか。その異様さは、やがて禍々しさすら感じ始める。

 

辿り着いた場所から始まり、やがてまた辿り着いた場所へと帰結する円環構造は、劇中にも登場する満月の輪郭そのもののようで美しい。けれど、そういった構成自体がこの映画の肯定的な魅力であると断言できない感じ。

何に面白いと感じたのかも、何に失敗していると感じたのかも、言語で説明できない感じ。破綻しているのに失敗しているとは思えないし、美しいのに一体何を見させられていたのか納得もできない。でも確かに納得はした。じゃあ「何に」納得をしたのか……分からない。書きながらめっちゃ怖い。

 

見終わった直後は「へんな映画だなー。でも言うほどかねー」とか感じていたけれど、ふと考え始めた瞬間から何もかもが気持ちが悪くなってきて、えづいた。「呪い」を観てしまった。呪われた。

 

エンドロール後、キットカットとのコラボレーションで大量の応募者の名前が流れるという仕様がバルト9でのみあって、これがネットでは批判的に捉えられているらしいけれど、自分は肯定的だ。というか、めっちゃ怖かった。

要は、この映画自体がノンフィクションのフィクションなんだけど、あそこだけ現実が侵食している・溢れ出ていて、ノンフィクションのフィクションの「ノンフィクション性」に蓋が出来ていないが活字(しかも固有名詞)が流れていく感じが不気味すぎてめっちゃ気持ち悪くてめっちゃ怖かった。

現実世界にも、山のように劇中の3人みたいな気持ちの悪い人間がいるという事実がずっと怖い。あのようにして、観客に対して置き土産的に「はい、おみやです」と呪って帰らせるのはとてもいい。でも、激やばいと思う。

 

対男性への「魔法」を信じられない描写の数々やSNSの捉え方は、ほとんど露悪的ですらあり、それが現代的なポリコレ解釈なのだと納得出来ればいいのだけれど、ずっと不気味だった。

それぞれの挿話の必然性が「必然性の否定」で連結されながら、行く末の分からぬ深淵を落ちていくような不安を抱きながら席に拘束されていたぼくらは、一体「これ」は何だったのかと、今も記憶に焼きついた残像を追跡する。でも、残像すら目視できない。可視化されていない面白さ。

だからこの映画は「幽霊」そのもののようだ。幽霊は怖くない。幽霊を「見た」ということが怖いのだ。その感覚に最も近い。

 

LINEには肯定的。

新幹線超肯定。

君を見上げていたぼく、あなたを見上げていた私『タイタニック』

f:id:IllmaticXanadu:20201215094213j:image2012年にタイタニック沈没100周年で3Dリマスタリングされた『タイタニック3D』を劇場で観ていないので、およそ10年ぶりくらいに観た。めちゃくちゃ面白かったな。「タイタニックとかベタすぎるだろw」とアンチミーハー野郎に苦笑されるかもしれないけれど、やっぱり良いものは良い。ボロボロ泣けてしまう。これは名作だわ。

最後、ジャックと約束してきた事を全てローズが実行していたことが飾られた写真で判明し、もうそこで涙腺が緩むのだけれど、そのまま夢の中、いやあるいは天国なのかもしれないけれど、ともかくおばあちゃんだったローズが若返り、ジャックと「約束の場所」でもう一度キスをするシーンの「ええ話や……(泣)」なエモーションがやばい。おばあちゃん、マジで、マジで良かったねえ……と移入して感動してしまった。

f:id:IllmaticXanadu:20201215111313j:image恋愛映画としてもディザスター映画としても、ジャンク要素が排斥された一級品といった具合で、その行儀の良い健全性と受け入れやすさ故にアンチミーハーが唾を飛ばしたがるのかもしれないけれど、格調高く丁寧に撮られている、というよりも、意外にバッサバッサとカッティングしていく感触があって、これはぼくにとっては新しい発見だった。昔観た印象よりも、よほどクレバーな映画だと感じた。

たとえば、かの有名な船首でジャックとローズが初めてキスするシーンは、よく観るとエッ?!と思うくらいにピンボケしている。実際、このシーンの撮影はマジックアワーを狙って行われ、スケジュールを無視してかなり突発的に撮られたという。だからフォーカスが甘いのだけれど、劇中のエモーション作りと観客の感情移入がクリアしているため、本編を観ている時には全く気にならない。もちろん、キャメロンは最初のテイクがピンボケだったのでリテイクしたけれど、最初のテイクのマジックアワーの美しさと二人の芝居の素晴らしさを優先して、本編にはピンボケの「ミステイク」を使用している。こういった判断こそ、ぼくがジェームズ・キャメロンという作家にいいね!とサムズアップ出来る点だ。

f:id:IllmaticXanadu:20201215111336p:image子供の頃に観た時は、ジェームズ・キャメロンという監督がどういう作家なのかあまり考えずに観ていた。単にドンパチアクション監督だと思っていたはず。だから『エイリアン2』や『ターミネーター2』というアクション映画と比べて、なんだよ恋愛映画かよ、船が沈没してからの方が面白いな、なんてぼんやり感じていた。ところが、大人になって久々に観たら、これはジェームズ・キャメロンそのもののような映画だった。キャメロンファンには承知の事実なのだろうけれど、『タイタニック』はこれでもかと彼の作家性がむき出しになっている。

本来は強い力の素質を秘めたヒロインが、環境や状況のせいで窮屈に生きている中、謎の男と出逢い、彼が彼女を導く。やがて二人は恋に落ちて、セックスもする。そして導いた男は死ぬ。残されたヒロインは彼の意志を継いで強く生きていく決心をする。

実はこのストーリーラインは『ターミネーター』を説明したものだけれど、そっくりそのまま『タイタニック』に置き換えることが可能だ。

あるいは、閉じ込められたジャックを助けにエレベーターで向かうローズの姿は、『エイリアン2』のニュート救出へ向かうリプリーと大きく重なるといえる。

加えて、狂ったように深海オタクなキャメロンは、劇中のトレジャーハンター、ビル・パクストンに自身を投影している。「3年間タイタニックのことばかり考えてきた。でも、僕はタイタニックの何も分かっていなかった」というビル・パクストンの台詞は、『タイタニック』という映画を完成させたキャメロンの言葉のように聞こえてならない。

ちなみに、キャメロンはローズの孫娘を演じたスージー・エイミスと2000年に結婚している。

 

こうして考えると、むしろ『アバター』こそが彼のフィルモグラフィにおいて異端の作品であって、なぜならあの映画、「強い女」要素は脇にミシェル・ロドリゲス姐さんを添えるくらいで、最初から最後まで「男」が活躍し続ける完全なる「男」の映画だったからだ。『アバター』は全然好きじゃない映画なのだけれど、それは彼が3D映像とマッチョイズムに舵を切った結果、本来の作家性が削ぎ落とされた印象が強かったからなのかもしれない。

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子供の頃は、後半の沈没シークエンスの方に興味が強くて、DVDの特典の特撮メイキングをよく観ていた。CGと船のミニチュアと実物大のセット(船の右側だけ作られて、左側は映像を反転している。だから現場で俳優たちは左右逆の動きを演出されている!)を駆使して、阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる職人たちの腕にワクワクしていた。船の全体を作るのに時間が掛かるため、船尾だけ作られて先に沈没シーンを撮ったというのは有名な話。後に「あの浮かぶドアには二人とも乗れるのではないか?」と物議を醸した件について、キャメロンはメイキングで「確かにね。もっと小さく作れば良かったわ」と述べている。タイタニック同様、なんでも大きく、サイズにこだわるのはフロイトの説だと……。

あと、劇中のローズのデッサンはキャメロン自身が描いているというのもメイキングを見て知った。描いたのは撮影前で、ケイト・ウィンスレットとほとんど初対面だったキャメロンは「ヌードじゃなくてビキニ姿でいいからね……」と頼んだので、あのビーチクはキャメロンの妄想なんだな。ってなんだその話。

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最後に、ぼくの好きなシーンを。沈没寸前の中、救命ボートに乗り込んだローズ。見上げた目線の先には、婚約者のキャルドンと、その隣にいるジャックの姿。キャルドンとジャック二人もローズを見つめている。尚も目線を送るローズ。カットが切り替わると、ジャック単体のバストショット。彼女の目にはもうジャックしか映っていない!ジャックの背後で危急信号を伝える花火が上がる。その光がローズの顔を照らす。決心した女の顔。その瞬間、彼女は救命ボートから飛び降り、再び船へと乗り込む。ジャックと会うために!「飛び込む時は一緒よ!」

このシーンの好きなところは、まずこれをローズ視点ではなく婚約者のキャルドンの視点で観ると、彼もまた、ローズと「視線」が「合っている」と思っている哀しさがある。彼からしたら、ローズの突飛な行動もまた、自分自身に向けられたアクションであると捉えることが出来るわけだけれど、彼よりもジャックの方がローズの元へと速く走る。運動によって物語られる予約された敗北。

そして、編集によってジャックとローズの「視線」が合う瞬間の美しさは、観客の誰しもが「ローズは二人ではなくジャックだけを見つめている」という予感を確信へと変容させ、この二人の物語が動いてほしいと願った瞬間にキャラクターがアクションを起こす、この流れの躍動感がすごい。視線を無理やり繋げる映画のマジックに、ぼくはとても弱いのです。

タイタニック』では、ジャック救出へと向かうローズが乗るエレベーターやロープで降下していく救命ボート、船自体の沈没や沈むジャックなど、下降する・落下する運動が何度も登場する。まるで身分を関係なく、貧乏なジャックの元へと上流階級のローズが降り立つように。

そして彼女が「見上げる」というアクションは、初めはジャックがローズをデッキで初めて見た際にしていた動作だということを失念してはならない。その後、階段を下りるローズをジャックが見上げる動作は反復されるけれど、その後すぐに、今度は時計の前で待つジャックをローズが見上げることになる。ここから、ジャックはローズを一度も見上げることなく、やがて海底へと沈むまで「見上げ」の関係は延長される。高嶺の花を見上げていた彼は、高嶺の花を見上げながら死んでいく。ラストシーンは、文字通りローズがジャックを「見上げ」て、そして「並んで」終わる。こうして、上下の関係性がやがて並列となる。当たり前だけれど、映画における俳優の演技というの重要かつマジックだなあと改めて感じた。

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こんな俺に恋をさせてくれて『ダーク・シャドウ』

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ダーク・シャドウ』のポスター・ヴィジュアルを初めて拝見した際に、ぼくの心は喜びに満ち溢れており(『バットマン・リターンズ』以来のミシェル・ファイファー出演!)、これはもしかしたら、久々に心置きなく「ティム・バートン映画」が観られるのではないかしらと、期待に胸を膨らませていた。

バートンが監督なんだからそりゃそうだろうがバーロウ、と文句を垂らされる前に注釈すると、ここで記した「ティム・バートン映画」とは、「ティム・バートンらしさが感じられるティム・バートン監督作品」を指す。

例えばそれは『ビートルジュース』における支離滅裂なブラック・ユーモアであったり、『バットマン・リターンズ』におけるマイノリティへの悲哀に満ちた愛情であったり。と言うより、アリス・イン・ワンダーランド』みたいな間違った健全性を発揮されては困るのだと思っていた。で、『ダーク・シャドウ』は久々にバートンらしい案件なのではと予感していたのだ。

ゼロ年代ティム・バートンは、『ビッグ・フィッシュ』と『チャーリーとチョコレート工場』を通して「父親との和解」を描いてきた。バートンにとって「父親との和解」は、幼少期のトラウマからの脱却として、いつかは乗り越えなくてはならない題材だったからだ。
彼のフィルモグラフィを熟知している追っかけからすれば、そのテーマと対峙し、見事に成功してみせたこの試みに、まずは賞賛の拍手を送った。とは言え、バートン・アディクトなぼくは両作品とも楽しく鑑賞出来たけれど、精神的には決して満腹感を得てはおらず、俺の見たいバートン映画はコレじゃないんだよと、どこか消化不良な感情も隠し切れなかった。

だからこそ、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』でのバートン節の復活には切実に感嘆したのを憶えている。
コチラも、ジョニデが白塗り顔面蒼白メイクで喉を掻っ切りまくる大人の悲哀に満ちた傑作で、バートン×白塗りに間違いなし!と暴論を提示しようと思ったけれど、個人的に『アリス・イン・ワンダーランド』はその定義に当てはまらないので、この暴論は今滅却しました。

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さて、結論、『ダーク・シャドウ』は紛れも無い「ティム・バートン映画」の傑作といえる。ぼくはこの映画が愛おしくて仕方ない。

ポスターで顔面白塗りのキャスト陣が、劇中においてもちゃんと顔色が悪いこと、そして顔面蒼白な人しか登場しない(顔色の良い人は大体殺される)という、それだけで大いに素晴らしい映画でもある。

カリガリ博士』とか『吸血鬼ノスフェラトゥ』とか、20世紀初頭のドイツ表現主義の匂いがプンプンしているメイクや美術も素晴らしい。

200年ぶりに蘇ったら元カノにボコボコにされる吸血鬼バーナバス・コリンズを演じたジョニー・デップの演技が、いつもの如くコテコテな自意識過剰とは言え、今回ばかりは役柄とのケミストリーが良く、特殊メイクで6センチ伸びた長い指で催眠術を施す姿が実に華麗だった(ちなみに、この長い指はバートンのオリジナルアイデアで、撮影前のジョニデは「指なんて伸ばしたら色々と不便だからぜってーイヤ!」と反対していたらしい)。

あと、棺から起き上がってあくびをした吸血鬼は恐らくバーナバスが映画史上初なので、これも可愛い発明だと思った。

ひとえに、ジョニデを暴れさせ過ぎずに抑制出来ているのも、20年来の付き合いとなるバートンとジョニデコンビの絆が成せる業だろう。

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事ここに於いて特筆すべきは、魔女アンジェリークを演じたエヴァ・グリーンの熱演に他ならない。とにかくエヴァ・グリーンがすんばらしい。エヴァ・グリーン最高傑作

言ってしまえば、ぼくは『ダーク・シャドウ』が、バートンが悪意を込めて描き上げる魔女アンジェリーク主演のドス黒逆恨みリベンジムービーだと確信している。

なぜなら、劇中の彼女はバットマン・リターンズ』のペンギンと全く同じ台詞を口にする。

「BURN BABY BURN!」

エヴァ・グリーンという女優は、こんなにも喜怒哀楽の表現が素晴らしい俳優だったのかと感動した。ニタリとした愛想笑いから、瞬時に冷徹な表情にシフト・チェンジが出来たり、バーナバスを見つめる失恋を覚悟したかのような悲哀の目つきがあまりにも切ない。

やはり印象的なのは彼女のラスト・カット。

あんな顔されちゃあ、ねえ……と男なら誰しも許すところを、本作のバートンはキッパリと言い切る。

「ぜってー許さねえ!!!」

ひえー!ウソでしょ?これ本当にティム・バートンの映画かよ!

そこで提示される残酷なまでの回答こそ、バートンが完全に「大人」になってしまっていることを示唆しており、ファンにとっては嬉しい悲鳴。

ダーク・シャドウ』は「愛されない者の愛」を絶望的に押し付ける、「大人」になったバートンからの、素晴らしく愛おしい仕返しなのだ。

そう。もうここには、自分を愛してくれない世界への復讐をしていた『バットマン・リターンズ』のペンギン=ティム・バートンはいない。
冒頭に前述した『ビッグ・フィッシュ』、『チャーリーとチョコレート工場』を経て成長した彼が、『ダーク・シャドウ』で「家族」という題材を描くのは宿命的な行為だったはずだ。
しかし、本作は何よりも、「父親」とか「家族」とかを否定していた、かつての自分自身への愛憎入り混じった仕返しなのではないだろうか。

もしかすると、愛を求め、愛を憎み、愛されることのなかったアンジェリークは、バートン自身のことだったのかもしれない。

 

ところで、本作にはもう一つの見方があると思っている。

アンジェリーク初見時、「誰かに似ている気がする……」とモヤモヤしていたのだけれど、中盤の舞踏会のシーン(T-REXが流れた直後にアリス・クーパー登場、というやるせないステージ)で、アンジェリークがコリンズ家に現れた際、全身に電撃がビビッと走った。
彼女が身を包んだ真っ赤なドレスデザイン、やたらと強調される巨大な乳房からし『マーズ・アタック!』の女火星人を演じたリサ・マリーを思い出さずにはいられなかった。

ダーク・シャドウ』のアンジェリークは全編を通して、明らかにリサ・マリーを彷彿とさせる風貌が成されている。
リサ・マリー、何を隠そう、バートンの元恋人である。
ようやく、そこで全てが繋がる。
そうか、これはリサ・マリーへのリベンジムービーだったのか!

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ともすると、バートンが自身のフィルモグラフィで初めてセックス・シーンを描いたのも、彼女との情事に関する露悪的な描写なのか、はたまたセックスは最高だったけれど結果的には最悪でしたという自虐ネタなのか、どちらにせよ、アンジェリーク=リサ・マリー」として解釈してみると、非常に面白く鑑賞出来る。

仮にも二人が付き合い続けていたとしたら、このアンジェリークの役にリサ・マリーをキャスティングしていたかもしれない。あるいは、『アリス・イン・ワンダーランド』でアン・ハサウェイが演じた白の女王も、リサが演じていたかもしれない。恋の終わりに、ifは尽きない。


二人の出逢いは91年のクラブだったらしい。どうせバートンが「俺、ゴジラが大好きでさ~でもこんな怪獣オタク、誰も好きになってくれないからさ~」なんて酔い潰れてつぶやいたら、おっぱいを揺らしたリサたんに「ウチもゴジラ超好きー!」と言われてノックダウンしてしまったのだろう(※妄想)。
ルックス、性格、話し方、趣味嗜好など、まさにTHE童貞なパーソナリティを持ったバートンが、巨乳でゴスな美人モデルにイチコロされちゃうのは分からなくもありません(情けない文章)。

その後、リサ・マリーはバートン作品のミューズとして次々と彼の作品に出演するけれど、約10年間の交際を経て破局となる。
実際、破局後にリサ・マリーはバートンに対して、今後の人生を金銭的にサポート出来るだけの多額な補償金を請求している。
恐らくこの経験が、バートンにとってはかなりの辛い経験だっと推測される。

 

そして、そんな彼女へバートンからのリベンジが、あのアンジェリークに放ったバーナバスの言葉なのではないか。

「お前は誰からも愛されないし、誰かを愛することも出来ない!!!」

バートンが自身の作品で、愛されない者を真正面から全否定してみせたの初めてだ。

それでも、バートンが完全にアンジェリーク=リサ・マリーに憎悪を抱いているのではない証拠が、「心臓」のシーンだといえる。
いくら大人へと成長したとは言えど、やはり愛されない者への優しさの視線を忘れていないのがティム・バートンだ。
結局、受け取らないという残酷さ。いや、受け取らなかったことが優しさなのか。
実にオトナな余韻を残す、ティム・バートンらしい名シーンだと感じた。

ダーク・シャドウ』はリサ・マリーへのリベンジ・ムービーでもあり、同時に、そんな彼女に対して「それでも、ただの映画オタクだった、ただの童貞だった、こんな俺に恋をさせてくれてありがとう」とお礼を言っているような映画のように感じられてならない。

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さて、『ダーク・シャドウ』を今語ることの意義は、ティム・バートンとヘレナ・ボナム=カーターが破局した時代だからこそ存在していると考えている。

2014年初めには既に破局状態にあったこのカップルは、約13年の関係に終止符を打つことになった。今現在、ヘレナとタッグを組んだ監督作品は本作が最後となっている。

2012年当時、『ダーク・シャドウ』を劇場で鑑賞したぼくは、最愛の今カノの顔で幕を引くこの傑作に心酔してしまい、完全に童貞クンから卒業したオトナなバートンからのサプライズに歓喜したのをよく憶えている。
今となっては、その今カノも「元カノ」と化してしまい、この作品がバートンにとって、より悲哀に満ちたフィルムになっていることは間違いない。

しっかし女が怖いのは、そういうことを言っても一ミリも微動だにせず、むしろリサ・マリーの方がバートンへ「るせぇ!ヘレナとなんか別れちまえ!」と、まるで呪いでもかけたかのように怨念が伝わって、そしてそれが現実と化してしまったことだろう。

まるで魔女の呪いみたいに。

そして今、この映画を観て新たに思うことは、あのラストカットの恐ろしさ。
目をカッ開いてキャメラを凝視するその表情は、まるでこんなことを訴えていたのかもしれない。
「あんた、アタシを映画の中で何回殺したら気が済むワケ? 許さん!!!」


かつて恋人だったナンシー・アレンを映画内でぶっ殺しまくっていたブライアン・デ・パルマにこの映画を捧げます。

 

追伸1
リサ・マリーの最近の出演作が、ロブ・ゾンビ魔女狩りムービー『ロード・オブ・セイラム』というのも、魔女つながりとして何か意味深です。

追伸2
アリス・クーパーはいらなかったよね(ああ、言ってしまった・笑)

BURN BABY BURN!『バットマン・リターンズ』

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虐げられし魂のあがき。あるいは、怪物としてでしか生きられない者同士の嫉妬合戦。嗚呼、こんな暗黒で残酷で哀しい映画が他にあるものか……アルティメットオールタイムベスト大傑作!な『バットマン・リターンズ』について書こうと思う。ちなみに、ぼくが毎年クリスマスに必ず見返す映画です。

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ティム・バートン監督の『バットマン』は、公開10日間で100億ドルという記録的なヒットを巻き起こした。しかし、後にバートンは『バットマン』について「親しみの感じることの出来ない自作映画の一本」と告白している。大作映画故に苛酷な条件が散りばめられた現場は、彼にとって考える暇も、撮影を楽しむ余裕も無かったそうだ。

その後、『シザーハンズ』でまたもや興行的に大成功を収めたバートンの元に、『バットマン』続編の話が舞い込んでくる。当然、難色を示すバートン。しかし、彼が目を通した第1稿には「ペンギン」と「キャットウーマン」が既に登場していた。

「続編を監督する気になったのは、ペンギンとキャットウーマンという複雑で魅力的なキャラクターを紹介したかったからだ」バートンはそう語る。


当初、前作の脚本家でもあるサム・ハムが『リターンズ』にも雇われていたが、彼の脚本はスタジオ上層部には不評だった。そのため、新たな脚本家として起用されたのがダニエル・ウォーターズだ。

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バートンがウォーターズを推薦した理由は明白だった。なぜなら、ウォーターズの脚本デビュー作である『ヘザース/ベロニカの熱い日』(88年/マイケル・レーマン)は、何を隠そう、孤独な高校生が学校を爆弾で吹き飛ばそうと企む話だったからだ。「ヘザース最高! マジ同感した!」と、ウォーターズと手を組んでウキウキのバートン。こうして、絶望と疎外で埋め尽くされた狂気のプロットは完成していった。


「僕はペンギンやキャットウーマンが悪人だとは思えないんだ」

バートンがそう語る通り、厳密に言えば彼らは悪人ではない。彼らは差別や偏見の被害者なだけなのだ。本当の悪人は、クリストファー・ウォーケン演じるマックス・シュレックだけだ。言わずもがな、名前の由来は『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22年/F・W・ムルナウ)で吸血鬼を演じた俳優"マックス・シュレック"から拝借されている。

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シュレックは『リターンズ』のキャラクター全員の触媒的な存在として機能している。表はゴッサム一の大富豪として慈善活動に励むが、裏では密かに策略し、悪事に手を染めている。まるでヒーローと悪党の境界線をボヤけさせるためにいるキャラクターだ。だからこそ、唯一の悪人の彼だけは「マスクをつけていないが、マスクをつけている」キャラクターとして登場するのだ。


と、ここまで記してきた通り、実は『バットマン・リターンズ』は、そういった「二重性」について精神分析的に描かれた映画である。

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ペンギン(ダニー・デヴィート)は自作自演の誘拐事件を解決し世間から英雄扱いされ、一躍人気者になる。その人気を手玉にとって、市長選挙に立候補するのだ。一見すると汚い手のように見えるが、これは「ただみんなに愛されたい」という彼の心からの願望を実現させているだけだ。「ただみんなに愛されたい」という彼の動機は、実はとても純粋なものである。

そんなペンギンを信じないのがバットマン(マイケル・キートン)だ。彼は何の根拠もなくペンギンに疑いをかけるのである。そして、バットマン市長選挙の妨害を試みる。まるで、ペンギンが世間から受け入れられるのが、単に我慢できないかのように。

劇中でペンギンはバットマンにこう指摘している。

「お前は嫉妬してるんだ。おれは本物のフリークだけど、お前はマスクを被らなきゃならないからだ」

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ここで『バットマン』を思い返してみよう。ジャック・ネーピア(ジャック・ニコルソン)はボスのグリソム(ジャック・パランス)から裏切られ、バットマンにより化学薬品のタンクに落とされてしまう。顔は白く漂白され、永遠に笑いが貼り付けられたのだった。

「おれは狂った。でも最高に幸せだ」

ジャックは狂気によって解放され、ジョーカーという名の「自由」を手にしたのだ。肉体的フリークになることで明るく解放されたジョーカーと、マスクを被らなければ内面のフリーク性を表に出すことの出来ないバットマン

バットマン』も『バットマン・リターンズ』も、バットマンがジョーカーやペンギンに嫉妬しているように見える。

バットマン』公開時のインタビューでバートンは次のように述べている。「これは2人のフリークの闘いなんだ」と。

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こうして考えてみると、『バットマン・リターンズ』における「二重性」というのは、実は全てのキャラクターがバットマン自身を投影したキャラクターになっているということが解ってくる。

幼い頃に両親を失い、暗闇で孤独に生きてきた「トリ人間」のペンギン、あるトラウマが原因で自己が崩壊し、マスクに顔を隠し夜に生きるキャットウーマンゴッサム一の大富豪でありながら、裏では自身の策略に没頭するマックス・シュレック

バットマンは劇中、何度も「自分自身」との闘いを迫られているのだ。

このように、バットマンの精神的な葛藤を「具現化」してみせたとも言える本作は、何処ぞのクリストファー何とかノーランが監督した一連の『バットマン』シリーズの何倍も秀逸で、優れている作品だと豪語する(まあノーランは無邪気で可愛い野郎だということは後に認識するに至った)。

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さて、ここでキャットウーマン(ミシェル・ファイファー)とバットマンの関係性について記しておく。

彼女はジョーカーやペンギンとは違い、バットマンと同類のフリークだ。バットマンキャットウーマンも、人間をやめて、闇に潜む獣のマスクをつけることで、初めてコンプレックスから解放された。

前作『バットマン』のヒロイン、ヴェッキー・ヴェイル(キム・ベイシンガー)は、ブルース・ウェインバットマンと知って彼から逃げてしまう。しかし、キャットウーマンは違った。彼らが惹かれ合うのは、同じ種類の「怪物」だからである。

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舞踏会でセリーナとブルースが踊るシーンがある。誰もが仮装しているにも関わらず、彼らだけは素顔だ。いつもマスクを被った2人にとっては、人間の顔こそが「仮面」なのである。この馬鹿げたまでに分かり易い描写は、同時に、本作における屈指の名シーンだ。

マスクとは、"隠れること"の象徴である。しかしながら、時には自己表現の入口として、その門を開く手助けをすることもあるのだ。実際、バートンは幼少期のハロウィン・パーティで仮装をするたびに、それを実感していたと言う。マスクに守られているから、大胆になる。隠れているから、自由になる。

だからこそ、バットマンキャットウーマンは、コスチュームを着ている時には互いに惹かれ合うのだが、ひとたびマスクを外せば、互いに関係できなくなってしまうのだ。

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ここでもう一つの二重性として「生と死」の境界線が暗示される。

そう、キャットウーマンは一度"死んでいる"のである。しかも彼女は、まるで男という社会にレイプされて死に絶えた、女たちの怨念の集合体として蘇っているとも言えなくはない。

つまりその事実は、生者であり加害者である男性としてのバットマンと、死者であり被害者としての女性であるキャットウーマンが、本質的に断絶されており、必然的に結ばれないことを意味しているのだ。

か、哀し過ぎる……あまりにも悲哀に満ちたラブストーリーだ。

バットマン・リターンズ』は、バットマンやペンギンだけではなく、キャットウーマンの永遠に救われない孤独を描いてみせることで、より一層の寓話性を倍増させているのである。

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バットマン・リターンズ』は前作を超える大ヒットを記録したが「バットマンが脇役」「狂った奴しか出てこない」と「普通の」評論家や観客からは酷評された。バートンは思ったかもしれない。お前らみたいな「普通」が「彼ら」を孤独にしてしまうのだ、と。

愛してくれる人、理解してくれる人を誰よりも求め、愛されている人、理解されている人を誰よりも憎んだペンギン。彼こそがこの映画のテーマなのだ。

実際、バットマンの登場時間よりも、ペンギンとキャットウーマンの登場時間の方が多い。


「わかってる。僕は彼らを愛しすぎてしまったんだ」バートンはそう認めている。

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ココからは超余談だけれど、本作を初めて観たのは中学一年生の頃で、孤独と疎外感で恵まれた人間への憎悪で埋め尽くされていた思春期の自分は、心からこの映画に救われた。ペンギンの叫ぶ"BURN BABY BURN!"はぼくの心の声でもあった。以来、何度も見返しては勇気付けられているが、生まれて初めて恋人と本作を鑑賞してしまった。"してしまった"という感覚は、愛されなかった者たちの魂のあがきをカップルで見ちゃっていいものかという不安と、思春期の頃の自分とペンギンやキャットウーマンへの罪悪感からである。カップルで『バットマン・リターンズ』を観るとかふざけんな!!幸せなヤツに『バットマン・リターンズ』の良さが分かってたまるかブチ殺すぞ!!と怨念でみなぎっていたぼくだったが、ちゃんと彼女にも響いていたようで大変気に入ってくれたらしい。良かった。こんなに嬉しいことはない。めちゃくちゃ安心した。こうして、映画は観るタイミングや誰と観るかによって趣が変容していく。し、響くものはいつだって響き、普遍的な価値を保持している。みんな死ね!!と思っていた頃から、ほんの少しだけ成長した気がした。それでも、本当の意味で『バットマン・リターンズ』に救われた時の自分自身という存在を、決して忘れずに生きていきたい次第である。

『ハリー・ポッター』シリーズ全作鑑賞備忘録

f:id:IllmaticXanadu:20201208095534j:imageハリー・ポッターと賢者の石』(2001/クリス・コロンバス)

19年ぶりに観た。確かに当時、劇場でワクワクしながら家族で観たことのノスタルジー補完はあるものの、もうずっと設定が楽しいから飽きないね。あと美術が総じて素晴らしい。

クリス・コロンバスって監督として全然好きじゃないし(だからキュアロン版ハリポタの『アズカバンの囚人』が一番好きだし)、今観るとヌルいなーって描写が多かったりもするのだけど、こういう映画、こういうジュブナイル映画の存在の大切さはひしひしと感じる。小学生の頃にハリポタ観られて心底良かったよ。こういう映画、もっと必要だよ。子供のための映画が。

ハリーが魔法でダドリーをヘビのブースに閉じ込めちゃってニヤニヤ笑ってるの、よく考えると怖いな。え、どうしよう、大丈夫?とかじゃなくて、ザマァーってニヤニヤ笑うの、怖くない?このシリーズはずっとそう。悪いことをした誰かが酷い目に遭うとめっちゃ笑う。イギリス的なユーモアがずっと流れている。

ロンがずっと愛おしいな。個人的にこういうお調子者の臆病キャラが好きすぎるし、そいつが得意な分野(本作ではチェス)で最後活躍するの熱い。ずっと面白い顔しかしていない。

ハグリッド終始口滑り過ぎ。ダンブルドア校長グリフィンドール優遇し過ぎ。マクゴナガル先生クィディッチ好き過ぎ。しかし『死の秘宝PART2』観た後だと、クィディッチの試合で必死に呪文唱えるセブルスに泣くな……。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105531j:image↑ハリーが目が合って傷が痛んでいたのは、スネイプ先生ではなく……

f:id:IllmaticXanadu:20201208095721j:imageハリー・ポッターと秘密の部屋』(2002/クリス・コロンバス)

18年ぶりに観た。バジリスク、嗚呼バジリスクバジリスク。とにかくヘビちゃんのインパクトが大きくて、鑑賞当時の「うわあ!でっかいヘビだ!」という怪獣要素の印象のおかげでほとんど忘れてた。でも見返したらほとんど憶えてもいた。自傷妖精ドビー、ギルデロイ・ロックハート先生、空飛ぶ車、吼えメール、マンドラゴラ、パーセルタング、ポリジュース薬、嘆きのマートル、アラゴグ、リドルの日記、そしてバジリスク……不死鳥のフォークスの「涙」は、実は『死の秘宝PART2』の爆泣きエピソードへと「涙」で繋がる。

シリーズの中でも最もミステリー要素が強く、前半で散りばめられた伏線が段階的に回収されていくのが気持ちいい。しかもリドルの日記は後のシリーズでも重要な要素になるしね。

前作との差別化を図って若干暗い演出が多いのだけど、ギョッとするのは血文字の前に吊るされた石化した猫くらいで、やっぱり初の死人が出る『炎のゴブレット』ほどの絶望感は無い(クリス・コロンバスの演出が甘っちょろいので次作『アズカバンの囚人』でブラッシュアップされたけど)。ましてや、ロンが前作以上にコメディリリーフとして「あわわ〜」「うそだろお〜」と表情豊かにオモシロを担当しているので、案外切迫感が薄い。加えて、シェイクスピア俳優(?)のケネス・ブラナーをゲストに呼んで、彼にとことん軽ーいペテン師を演じさせている。

しかし、これは欠点ではなく美点だと思う。ミステリー要素強め、生徒たちが石化、ジニー誘拐、スリザリン後継者が現るな暗い内容に、矢継ぎ早に投入されるコメディ要素は謎解きから観客を離さない。この辺の陰陽のバランスが、暗いけど楽しい、楽しいけど暗い、暗過ぎず明る過ぎずという本作の雰囲気を形成していると思う。でもリドルの日記破壊からのリドル爆散のくだりなんて、ガキんちょには結構トラウマもんだよね。

空飛ぶフォード・アングリアを運転するロンがずっと可愛かったし(途中車から落下しそうなるハリーの手を掴むけど、ロンの手が汗まみれで滑るのが可笑しい)、暴れ柳に車がブチ壊されるくだりは『ジュラシック・パーク』だし、そこでロンの杖が折れるのも笑ったし、その後車が「怒って」ハリーたちや荷物を「もう二度と乗るな!」と勢いよく放り出して森に走って行くのもめっちゃ可笑しかった。改めて見直している過程、どうやら俺はロン推しのようです。

今回はスリザリンメインの作品なのでマルフォイもずっとうるせえ。表情がうるせえ。芝居上手いなー。でもハーマイオニーに「穢れた血」って言うのマジ最低ですから。その後涙を浮かべる彼女を励ますハグリッド泣ける。ハグリッドはずっと優男だ。ラストのルシウスが超ザマアだった。あとドビーとゴラムなら、本当にドビーの方が可愛いなとも思った。

アラン・リックマンケネス・ブラナーの決闘シーンがあって燃える!のだけど、あっさりケネス・ブラナーが負けるのも含めて笑った。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105731j:image↑『テネット』とは大違いの爆発的胡散臭さなケネス・ブラナー

f:id:IllmaticXanadu:20201208095847j:imageハリー・ポッターとアズカバンの囚人』(2004/アルフォンソ・キュアロン)

シリーズで最も格調高い「映画」なハリポタ。であり、最も精神分析的な一本。アルフォンソ・キュアロンがこれでもかとサイレント映画オマージュを散りばめていて、ほとんど台詞ではなくスラップスティックなシーンが連発するし、アイリスイン/アイリスアウトが繰り返されながら、カリガリ博士やラングやムルナウ的な美術が徹底される。「さあこれから災難が巻き起こるぞ!」とガマガエル持ちながら合唱するの、サイレント映画の説明字幕みたいな役割だったし。もちろんキュアロンなので長回し要素もある。アラン・パーカー組撮影監督のマイケル・セレシンによるダークな陰影は、そろそろ勉強どころじゃなくなってきた感がビンビンに。

始まった瞬間から終わりまで、物語的にも映像的にも、終始「光」についての描写を突き通し続けている。だから天候映画でもある。闇の中の光についての物語は、断片的な光のきらめきが連なり、ついに「エクスペクトパトローナム」へと帰結する。何度も繰り返される父との比較。しかし最終的には、そんな父をも超える大きな光を、自らが自らのために照らす。自己肯定と光。映画と魔法。映画の光。美しい物語だと思う。

明確な敵役が存在せず、クライマックスが地味なのも頷けるけれど、ディメンターもピポグリフも狼男もタイムリープもあるし、2時間半あっという間な展開。英国俳優たちのキャストアンサンブルも楽しい。

台詞もないスリザリンのボブヘアの女の子が可愛い。と、小学生の頃に観た時の印象がずっとあったけれど、10年ぶりくらいに見直したらマジで台詞もクローズアップも無いマルフォイの腰巾着、の隣にいるような超脇のキャラクターだったので、やれやれƪ(˘⌣˘)ʃと思った。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105835j:image↑この右端のボブヘア・スリザリンの娘が好きだったけど、全然出番なかった……

f:id:IllmaticXanadu:20201208100005j:imageハリー・ポッターと炎のゴブレット』(2005/マイク・ニューウェル)

15年ぶりに観た。劇場で観た時、ついに描かれたヴォルデモートのヴィジュアルの素晴らしさに感銘を受けたのを憶えている。ペティグリューによるヴォルデモートの作り方講座が終わると復活する彼は、不気味さと恐怖を体現するかのようなハゲ姿なのだけれど、最も生理的嫌悪を抱くのは「鼻」だろう。鼻が無い、というヴィジュアルショックは、まるで骸骨そのものを想起させる。

シリーズにおいて最も単純化された物語には、何らサスペンスも無い。対抗試合の様子も全く盛り上がらないし、人間描写にしても台詞にしても、ずっとダサい。極め付けは、童貞のメガネの初恋を結構な尺で目撃せねばならず、心底どうでもいい。これだ!という決めのショットも無いしね。ダメだこりゃ、と鼻クソをほじっていると、クライマックスで復活するヴォル。そして初の生徒の犠牲者。急に大絶望で幕が閉じる。このヴォル復活が無ければ、相当どうでもいいダサい作品なのだけれど、13年ぶりに復活したヴォルが「決闘しよ。しよしよ」とテンションが高いので楽しい。

とは言え、この監督の演出のダサさというのは、例えばハリーが暴れん坊のドラゴン・ホーンテールから奪い取った金の卵が、グリフィンドール生の目前で掲げる手にジャンプカットする編集があるのだけれど、これ見よがしな省略で心底ダサい。

あるいは、クライマックスの対ヴォル戦において、亡霊となったセドリックやハリー両親がハリーの前に現れるのだけれど、その時に、冒頭で殺されるマグルのおじいちゃんもなぜか現れる。ヴォル復活という絶望の時間に、なぜか緊迫感を削ぐようなおじいちゃんの登場。当然、このおじいちゃんは何もしない。出さなきゃいいのだ。必要ないのだから。

原作ではそうなんだとかどうでもよくて、映画のサスペンスやエモーションを如何に作り出すかという術を、この監督は忘却しているとしか思えない。ハリーとロンの喧嘩の終結とかダンスパーティー諸々とか、人間や若者をナメんなよと言いたい。あと、客をナメんなよ。

と、本当に色々ダサいTVムービー並のクオリティである本作に肉付けされているのは、やはりキャラクターたちの魅力だと思う。特にマッド・アイ・ムーディーが濃い。対抗試合のためにやって来るラグビー部みたいなマッチョとか宝塚歌劇団みたいな女学生たちとかも面白い。ドラゴンも造形かっこよかったです。水中でハリーを襲うポニョみたいなタコみたいなやつらも気持ち悪くてよかった。ハグリッドと恋仲(?)になるデケエババアもよかった。ハリーもロンも『アズカバンの囚人』からめっちゃ大人っぽくなっているのだけれど、ハーマイオニーがめっちゃ綺麗になってるのもよかった。「次はすぐに私を誘うべきよ!んもう!」とロンに泣きながら怒るのとか、めっちゃ女子じゃんと思えてよかった。

本作から魔法によるバトル要素が確実に付加されたので、1〜4を前半「学校は楽しいけれどたまに死にそうになる編」として、残りの「もう勉強している場合じゃないから戦争します編」の後半も楽しみたい次第です。

ワールドカップの最中にデスイーターが奇襲してくるのだけれど、テロとして普通に怖かったな。

『テネット』ファンには『秘密の部屋』のケネス・ブラナー然り、キャスト的に懐かしくてちょっと嬉しい作品ではあるね。

f:id:IllmaticXanadu:20201208105941j:image↑『テネット』で再共演を果たすセドリックと宝塚。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100202j:imageハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(2007/デヴィッド・イェーツ)

13年ぶりに観た。終盤、シリウス・ブラックがハリーに思わず「いいぞ、ジェームズ!」と叫んでしまうのが一番最高。あそこがガン泣きポイント。たった一言の台詞に宿る凄まじいエモーショナル。その後のシリウスフワァ〜の余韻の無さもどうでもよくなるくらいに最高。そんでもってダンブルドア対ヴォルデモートにおける、このジイさん……強い!というダンブルドアの力の誇示っぷり燃える。思えば、シリーズでダンブルドアが戦闘モードになるのはこれが初めてで、それが満を持して対ヴォル戦だというのはどうしたって盛り上がってしまう。「いくぞトム!」「黙れ老いぼれが!」ある意味師弟対決。ハリーくん見てるだけしか出来ない。ヴォルはすげーガラス割ってたな。うんぎゃー叫びながら。レイフ・ファインズ、小説版では表現出来ていない絶妙な叫び芸してていいんだよな。

本作から最終作まで、監督はデヴィッド・イェーツとなった。個人的にはあまりこの監督を評価してはいなくて、というのも、画面にグリーンを基調としたカラーグレーディングをすればいいと思っていやがって、全体的に暗い。画面だけじゃなくて話も暗いのだけれど、なんかこの軽ーいシリアス感がどうも好ましくない。まあ路線変更というか、ココから戦争突入なので製作陣の判断は分からんでもないけれど、子供たちにとってどうなんだろうこの暗さは。あと、普通にTV放映版かよってくらいにカットが抜けてて、編集のせいなのか撮影時のコンテのせいなのか知らないけれど、とにかくブツ切り感が半端ない。魔法でカットが抜け落ちてるのかとすら思うよ。ボリューミーな原作を2時間半に脚色している手腕も、事務処理的でしかなく、娯楽にはなっていない。こんな演出力のないシリアスぶり野郎が、まさか最終作まで監督しようとはこの時には思ってもおらず。というかファンタビも彼が監督なわけで。あれ、じゃあ俺がおかしいのか? でも上手い監督とは全く思わない。

ファッキン魔法省やアンブリッジのババアが体現している通り、どんな時代どんな場所においても権力による監視社会というのはクソでしかない。言論統制、行動や表現の自由を剥奪する政治は、トランプ政権をやんわりと予言したかのようだけれど、本作では同時代的に、モロにブッシュ政権の「愛国法」をトレースしながら、いよいよ魔法界にもディストピアが到来する。ヴォル復活を認めようとしない魔法省は、安倍政権、現菅政権をフィクションでも見せられているかのようだ。アンブリッジが「権力ファックオフ、学校やーめた」なフレッドとジョージによって一発食らわされて、その後ケンタウロスたちに拉致られるまでカタルシスが無く、権力うぜえ死ねとずっと思いながら観ていた。

ヘレナ・ボナム=カーターが加わっただけで、めちゃくちゃ凶悪度が増すのは流石。終始全力で悪い人演技をやっぴー!とこなす彼女、ティム・バートン映画で魔女演技は予習済み感がとても良かった。やっぱりこのシリーズは俳優たちの演技に救われてると思う。

そして、ルーナ・ラブグッドである。原作のルーナは割とキモキャラなのでかなりデフォルメされてしまっているけれど、演じるイヴァナ・リンチさんがべっぴんなので無問題。不思議ちゃんキャラがとても良いので密かに推していこうと思う。が、このイヴァナ・リンチさんはハリポ以外の映画出演がない!どういうことなのか。ルーナだけを演じるために女優デビューし、ルーナに全力を尽くしてしまったのか。現在の彼女の写真を見た。ちょっとエロい。今後の彼女の活躍を願う。

f:id:IllmaticXanadu:20201208110039j:image↑撮影現場で談笑するダンブルドアとヴォル。いい写真。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100318j:imageハリー・ポッターと謎のプリンス』(2008/デヴィッド・イェーツ)

12年ぶりに観た。シリーズ屈指の鬱回。ポスターからも分かる通り、いよいよガキだけではどうにもならず校長先生が大協力する。謎のプリンスの正体が判明するクライマックス一連、本当はいい奴なドラコの葛藤、ハリーをナンパするウェイトレスの女の子、電車で石になったハリーを助けるルーナの掛けてたヘンなメガネ、ダンブルドアの不味い水ガブ飲み、ダンブルドアの炎ぐるぐる、陸地じゃなくて海面にそびえ立つ岩に移動しちゃって「あ、やば」となるダンブルドアとハリー、などが良かった。

鬱回たる所以はクライマックスの展開で、他はほとんど童貞たちの恋愛模様で本当に辛かった。いや、好きなキャラクターたちがいよいよ恋愛するまで成長している様子には、親心として微笑ましいのよ。微笑ましいけど、その恋愛模様がストーリーとは全然関係してこないし、その分どんどん尺が伸びていくのが辛い。恋愛は魔法じゃどうにもならないね♡じゃねーんだよ!恋してんじゃねえよ!まあでもファンには嬉しい展開なのかな。ロンのことがめっちゃ好きな女の子が可愛らしかった。けど、あんな人間いねーよ。嫉妬でメソメソしまくるハーマイオニーがロンにキレるのも面白かったし、結局ロンに寝言で「ハーマイオニー……」って言われてドヤな彼女も可愛かった。

最初のロンドンのミレニアム・ブリッジ襲撃シーンはすごくいい導入部だと思うけれど、だーれも死なない感じがズッコケ。もっと手加減なく悪行をしろよヴォル軍!おじいちゃんおばあちゃんたちが橋から避難するのを待つなよ!

原作では『謎のプリンス』が一番面白いのにめちゃくちゃ改編されとります。アレを切ってコレを残すんかーい!恋愛を残すんかーい!しかし次と次で終わりだ!あ〜セブルス〜セブルスを見るために見返しているんだよ〜早く「あの」あなたに会いたいよ〜ああ〜セブルス〜〜(なるほど、つまり本作のどーしよーもない恋愛要素は『死の秘宝PART2』への布石だったのか……そういえばセブルスの過去を一瞬ハリーが見るけれど、その時にはセブルスをいじめるジェームズしか映っておらず、リリーがいない、というのがかなりミソだったな……)

f:id:IllmaticXanadu:20201208110114j:image↑「いや、ここどこすか」「……」とガン無視しながら呆然とする先生と生徒。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100426j:imageハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』(2010/デヴィッド・イェーツ)

10年ぶりに観た。分霊箱の力によってロンが幻視した、全裸のハリーとハーマイオニーがべろんべろんにベロチュウする様子がエロかった。あとはひたすら長い。タイトルでもありマクガフィンである死の秘宝という「言葉」が登場するのが後半30分っていくら何でも遅すぎるだろ。普通はその説明が前半にあって、そこからそれを求めて物語を展開していくんじゃなかろうか……PART1で2時間半費やしているけれど、極論、起承転結の「承・承・承・承」という時間の流れなので、1時間半くらいにまとめていただき、PART2への興味の持続を機能させてほしかった。 長いと言っても、終始ハリーたちが森でテント張ってケンカするだけで緊迫感は無く、尺を削ってドラマを展開させることに懸命になってほしかった。愛しのロンがずっとすげー怖い顔していて怖かった。ロンが怒ってどこかへ去り、残されたハリーとハーマイオニーがラジオから流れる曲に合わせて急にダンスするのだけど、すげー気まずくて、もうハリーが男女の友情を超えて一発ハーマイオニーとキメようとしている感じにしか見えなくてやばかった。もちろん、落ち込むハーマイオニーを励まそうとするハリーの優しさのシーンなのは分かるのだけれど、演出がヘボすぎて、ハリー絶対に勃起してるだろという風にしか見えなかった。最終章の緊迫感は?! もちろん最終章らしく、冒頭で家族の記憶から自分の存在を消すハーマイオニーに泣くし、どこへ逃げても追いかけてくるデスイーターには恐怖しかなく、いよいよ戦争映画のようなプロットと化していく。カフェで敵に奇襲されて、杖を銃に見立てた銃撃戦ならぬ杖撃戦が起こり、この乾いたバイオレンス感は好みだった。でもこれも一瞬。 重要人物があっさり死にすぎだし(そういう死生観?)、ハリー7人分身作戦もハリー本人以外の6人と敵の攻防を見せてくれないので何のための設定だったんだと思うし、観客ひいてはファンへのサービス精神が垣間見れないのだけれど……ドビーのラストワードにはグッとくるけどさ。カットの繋がり的には省略されまくってて早いのに、映画の体感時間はひたすら長いんだよな。 ただ、やっぱりキャラクターが魅力的だから、彼らを眺め続けることは出来るわけです。ロンとハーマイオニーがちょいちょいイチャコラするのも可愛かった。ルシウスが吹き飛ばされて、起き上がったら続けて2回吹き飛ばされるの笑った。 ヴォルも全然出てこないし、ババアのくだりとかも退屈だし、移動が一瞬なのでダイナミズムにも欠けるし、かっこいい画も無い、そして長い、長すぎる……大丈夫なのか完結編……と、心配していた私を軽やかに裏切るかのように、死の秘宝PART2は号泣必至の男泣き映画だった……。

f:id:IllmaticXanadu:20201208111256j:image↑妙に生々しかった全裸のハリーとハーマイオニーのベロチューシーン。

f:id:IllmaticXanadu:20201208100516j:imageハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』(2011/デヴィッド・イェーツ)

セブルス抱いてくれ!!!

9年ぶりに観た。1作目からリアルタイムで、しかもハリーたちとほとんど同年齢で育ってきた者であるからには、たとえシリーズが途中で迷走気味であっても、たとえ映画の出来として完成度が研磨されていなくても、共に歩んできた道程の思い出の数々が結実する、大きな円環が閉じる果てしなく美しいラストシーンに号泣必至でびーびー泣けてしまった。1作目で列車の外へ逃げて行ってしまったカエルチョコが、ラストシーンで列車の外から再び帰ってくるというサプライズ……この瞬間の彼らのために全ての戦いはあったのだと、希望は後世へと繋げられたのだと全員が実感するフィナーレ……映画としての完成度よりもエモすぎて感動に震えるというのは『ジェダイの帰還』にも似ている。約10年間、リチャード・ハリス以外の全キャスト続投で完結したシリーズと考えると、改めて偉業だとは思う。

本作の美点は、とにかくセブルス・スネイプの生き様の儚さに尽きる。最終作で明らかとなる彼の壮絶な半生を省みるに至って、ファンならずとも、一人の男の孤独で献身的な愛の物語には思わず涙してしまった。今回、久方ぶりにシリーズを見返そうと試みた理由は、彼の愛を認知してから彼目線で観るシリーズの魅力を発見したかったからだ。その実、いちいちスネイプの行動や言動が切なくて仕方なかった。マグゴナガル先生と対決する際、彼女の呪文を跳ね返すふりをして、実は背後のデスイーターに当てているのめっちゃ泣ける。記憶を「涙」を通して見るというのも泣ける。

内容としてはもはやファンムービーの何でもないのだけれど、ホグワーツ決戦は結構なバイオレントで燃えるし、ヴォルも容赦なくガキんちょたちを殺戮していくので手に汗握る。ロンの母ちゃんとベアトリクスの対決、呆気なさすぎワロタ。マグゴナガル先生が途中からフェードアウトして最後まで出ないのもワロタ。ネビル良かったな。俺はああいったナードの負け犬野郎が一発活躍するのに弱い。

所謂「白い部屋展開」(『2001年宇宙の旅』とか『マトリックス』のやつ)が本作にもあり、そこで横たわるヴォルの魂の造形がめっちゃグロテスクで良かった。

序盤のグリンゴッツ侵入からのドラゴンちゃん大暴れなども景気が良く、戦争映画の流れで大バトル展開していくのが大変楽しいし、セブルスのモンタージュで号泣して、クライマックスのハリーとヴォル対決は見たかったものを見せてくれた感があり(敵の生死を確認しなかったり、自分の命より大事なヘビちゃんを戦闘させたりするヴォル迂闊)、そしてラスト、もう大満足。どこまでもファンムービーかもしれない。でも、こんなファンムービーがプレゼントされるファンは幸せ者だよ。

総じて、恵まれたシリーズだったと思う。何よりも主要3人をはじめとしたキャラクターたちの魅力が素晴らしかった。初めから大いなる力を待っている者が、その力の発揮を延長している物語というのはいくつもある。ハリー・ポッター貴種流離譚に分類されると思うけれど、これは英雄の物語というよりも、英雄を守った人々の愛の物語でもあって、そういう側面に自分は惹かれた。子供の頃に観ていた映画は、ノスタルジーも含めて、それだけで大切で偉大だ。ちょっと大きくなってから見直せて良かった。ハリー・ポッター、ぼく好きです。

ところで、J・K・ローリングって絶対シリーズの途中から映画化を念頭にして原作も書いていたはずだよね?本作のドラゴンちゃんとか、ぶっちゃけ物語には必要ないし。でもその方が映画が派手じゃん!って盛り上がり要素を意図的に原作に挿入している辺り、うまいねーと思った。原作も、今一度読み直してみたいと思います。

f:id:IllmaticXanadu:20201208111341j:image↑ IT ALL END!10年間お疲れ様!

大なわとびの会#1への私が頂戴した感想

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大なわとびの会#1 (期間限定公開) on Vimeo

緊急事態宣言下、盟友の澁谷桂一から「こんな時だからこそみんなで映画を撮らないか?」と誘われた。彼は「遊び」たがっていたし、彼自身が時代を理由に静止していることに恐怖していた。家でひたすら映画を観ることでしか何かを保てていなかったぼくは、開口一番「いいよ」と応えた。そこから彼の元に遊び仲間が集まり、それはやがてリレー形式のオムニバス映画として完成した。これが「大なわとびの会」である。

澁谷が発案した企画#1はチュートリアルの要素が強い。5人の参加者によるリレー形式のオムニバスは、1人目のラストショットを受けて2人目が新たなテーマを構想し、再び2人目のラストショットを受けて3人目、4人目、5人目……といった「絵しりとり」的なオムニバスになっている。リレーの順番は作品が完成したその都度、皆で鑑賞した後にクジ引きで決定した。尺数は5分以内、3日間で撮影・編集含めた完パケを遂行するというルールも設けた。尚、1人目のみテーマは「時計」で開始した。

順番は、①立脇実季→②荒川ちか→③杉浦→④澁谷桂一→⑤福島健太となった。

我々は言葉そのものの意味で「遊んだ」。腕試しですら無いのかもしれない。実験にすらなっていないかもしれない。鬱々とした緊急事態の中、こうしてカメラを持って何かを撮ることへのプリミティブな愉しさを大いに実感した。誰かの作品が仕上がるたびに、そのお披露目の瞬間に高揚した。企画者の澁谷にとってはまずは助走段階に過ぎないのかもしれないが、ぼくにとってはこんなに素敵な「遊び」は無かったのだ。少なくとも、あの時には。

しかし、この企画がたとえ内輪の遊びだったとしても、完成作品が不特定多数の人々に「誤送」されることを回避してはならないはずだ。そこで、この度10/29〜11/5までの限定公開に至った。

f:id:IllmaticXanadu:20201031120247j:image自らの作品について饒舌になることは避けるが、ぼくはまずサイレントで映画を作りたかった。作品内で内部・外部双方へのイミテーションな暴力衝動を煮込ませながら、緩やかに定められたルールから脱線しつつ、やがてはまがい物ゆえに自分自身を断罪するに至った。前走者、立脇監督と荒川監督には申し訳ないほどに好き勝手に遊んでしまった(でも、ちょっとずつオマージュはしているんですよ……)。後悔はない。加えて、hocotenとして消費される女優・久田紫萌子への眼差しを与えたく、他の誰もやらないなら自分が彼女を撮ろうと思った。きっかり24時間、二人だけで撮影・編集を完遂した。

本稿では恐縮ながら、ぼくの監督作品に頂いた素晴らしい感想をここに転載させていただく。作品以上に秀逸な感想が純粋に嬉しかったのだ。書き手はぼくのマブ・ヴァージン砧の香椎響子氏と、ぼくのロマン・排気口の菊地穂波氏の二人だ。二人の言葉を信じているからこそ、その言葉が自らに向けられているという歓びをここに残しておきたい。そして、二人のような「演劇」の書き手による「映画」の感想の豊かさに着眼しつつ、今後の創作研磨のための貴重な証言として享受する次第である。

恐縮ながら、この場を借りて二人には御礼申し上げます。

 

f:id:IllmaticXanadu:20201031120036j:image【香椎響子(ヴァージン砧)氏から頂戴した感想】

私が伊丹十三を好きなこと、スギさんはご存知かと思います。伊丹十三のことを敬愛する理由の一つが「誰よりも宮本信子を魅力的にうつすから」なのです。伊丹十三宮本信子夫妻は私にとって理想的な夫婦像で、それは決して男女・夫婦としてだけでなく、監督・役者という関係性においても素晴らしいのです。伊丹十三は誰よりも女優宮本信子を愛しており彼女という女優の素晴らしさを伝えたいと映画を撮る。つまり、監督(私だと演出)がどれほど役者と台本を真摯に愛せるのか、が私は大事だと信じてやまないのです。だから座組みの役者を愛したいし幸せにしたいと真剣に思っています。そういう意味で、今回の作品はほこてんさんの魅力を引き出しているのが素晴らしいです。とびきり綺麗です。それは、着飾られた人形としての美しさではなく生きた人間の泥臭い美しさ。退廃的な雰囲気によく似合う瞳が、とても素晴らしいです。子宮の奥がきゅうとなります。
 
直接お伝えしましたが、やはり恐怖はエロティシズムです。女性の苦痛に歪む表情はどうやったって艶美だし、それはジェンダーロール云々の話を割り込ませる隙を与えません。何も浴槽の場面だけの話をしているわけではなく、例えばベンチで彼女が腹のあたりをぎゅうと掴むアレ。何かを強く掴むということは何かを逃したいという欲求、そして怯え。あの手のエロティシズムといったら!怖いはエロいんだなあと思いました。
 
これもお伝えしたと思うのですが、色彩が大変好みでした。
性は生活であります。どうしたって大豪邸の大理石より四畳半の畳のほうがエロいのです。叶姉妹より団地妻なのです。生活感のある色彩、ユニットバス、衣装、ほこてんさんのお身体、更には序盤の女の子の下着だとか電車だとか、やっぱり生活感は性なのだと思いました。
そんなことに注目して見てしまったので、ほこてんさんの飲むペットボトルが鮮やかな赤なのは少し気になってしまいました笑
いや、じゃあどうしたらいいんだというと飲み物はどうしたらいいか答え出てないのですが。だから聞き流して下さい。
 
日本のHIPHOPの語彙で表現させてもらうとしたら「破壊と再生」だなと思いました。全編を通して破壊と再生が繰り返されている。物を破壊し映像を再生し人を破壊し女を再生し構造を破壊し逆再生し。作っては壊し作っては壊し、壊しては作り。それは、それこそ創作です。私たちは既存を破壊し新しい私たちを再生する。だから、大コロナ時代においても破壊と再生、破壊と再生を今まで通り繰り返すだけなのだと思いました。
 
なんだか上手くまとまりません、雑多で申し訳ないのですがそんな感じです。感想書かせてもらってありがとうございます。是非何かしらの創作を共に破壊と再生できたら最高ですね、その日まで私も頑張ります。

 

f:id:IllmaticXanadu:20201031120157j:image【菊地穂波(排気口)氏から頂戴した感想】

立脇監督から荒川監督へ、イメージという見えない花束のリレーは杉浦監督により粉々に破壊される。クラッシュから幕を開けてそれまで 2 本には使われなかった音楽が鳴り響き間髪入れずに美少女=ホコテン氏が殺される。冒頭、バキバキに割られるディスクはそのままホコテン氏の血塗れの裸体に重なる。刃物は上から正しく振り下ろされる。まるで立脇・荒川監督がイメージを託した「上から見つめる者=月」を「殺戮者」に変える、常軌を逸した破壊衝動。しかし映像は完璧にコントロールされ冷静に死にゆく美少女を映す という欲望に満ちている。世界はその瞬間に血塗れのバスルームだけになる。裸体の美少 女を生贄に捧げて。死体=静と殺される身体=動は交互にしかし正しく映像の文脈をなぞ りながら繰り返される。

所は代わり、ベンチでのシーン。ここでも被写体との距離は完璧 にコントロールされている。杉浦監督の特徴的な引きの画はここで最高峰に冷静に距離を 取りながら、それでいて、美少女が美少女として存在する為に非常に効果的である。両脇 に葉を映しながらその奥にいる2人のなんとロマンチックでエロスの固まりであろう。赤い血をペットボトルで飲ませるイメージは容易にフェラチオを思わせる。が、私は声を大 にして言いたい。ホコテン氏の似合いすぎるワンピースもさる事ながら、足のばたつき、そしてねだるように動くあの手。表情はどこか物足りずも満ち足りている。これはフェラチオなんかではなく「少しだけ雑なキス」なのだ。エロスに満ちていながらも繊細な手を しっかりと映す。接吻を唾液という(流血から簡単に連想しそうだが)安易な変奏を選択せずに、より抑制された足というイメージで表す。冒頭で固まった血塗れの足は、ベンチでエロスによりバタバタと動く。杉浦監督が徹底しておこなうこの抑制は、抑制こそがエ ロスの根源であり、抑制こそが破壊衝動の根源であると知っているからだろう。実に効果的に音楽と合わさり目眩を覚える。

そしてラストカット。とうとうその破壊衝動は自己に向き、美少女に殺されるという、ある種もっともエロスとタナトス両儀を兼ね備えた至 福の方法で杉浦監督の破壊衝動は成熟する。ここで引きの画は作中で最も精密に、杉浦監督自身の破壊を映す。そしてここでようやく液状の血液が煙草を濡らす。この血液は荒川 監督が扱った血をより流れ出るものとして、形を取らないものとして存在している。ここまで完璧にコントロールしていた杉浦監督のイメージは流れ出る血液という、コントロー ルすることが不可能な流動性に託して次の為の幕切れ。一見破壊の限りを尽くしているかのように見えてしっかりとバトンを手渡す杉浦監督の優しさ。フリッパーズギターの歌詞 に「血塗れのラストシーン」とあるが、もしかしたら全ての終わりに抗えるのはもしかしたら形になることを拒否する血液の流動性なのかもしれない。それがすごく短い時間だったとしても。(映画/映像における切り取る欲望、それは当然のように編集=カッティングという行為にも大きく宿る。杉浦監督の抑制とコントロールされた演出は勿論、編集の素晴らしさによる所が大きい。が、けっこうオンライン飲み会で感想を言ってしまったので、ここでは言ってなかった事を書いてみた)

ちなみに私は水とトマトジュースを間違えてガ ブ飲みして吐いてからトマトジュース大っ嫌い。そんな間違え方をする自分はもっと嫌い。 でもそろそろ自分の事は許そうと思う。憎いのはトマトジュースだけで十分だ。

回転するミラーボールに照らされて、読んだ弔辞が唄になったの(そんな研磨され尽くした幸福の完成度と、女優へのアンチ・オブセッション、そして演劇と葬儀とラストダンス)【東京にこにこちゃん『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』雑感】

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「アレを観なかったことを絶対に後悔するから!!!!!」西荻窪駅のホームで、電車を待つ私に向かって肉汁サイドストーリーのるんげが叫んだ。

厳密に言えば、エクスクラメーションを5つも付けるほどの声量ではなかったものの、私にとって彼女のその言葉は胸を締め付けるような叫びに聞こえたのだ。

私は去年から今年の初春にかけて、友人の自主制作映画のプロデューサーを務めていた。その組に、るんげは録音・整音部として参加していた。1月某日はポスト・プロダクションの真っ只中で、作業が終了すると、疲弊した私とるんげは共に帰路についた。その帰路の途中の駅で、私がふと彼女に聞いてしまったのだ。「そういえば、東京にこにこちゃんは良かったの?」それが間違いだった。るんげの表情は見る見るうちに険しさを増し、彼女の周囲にはつむじ風が巻き起こり、異様な数のカラスがホーム上空を旋回し始めた。るんげはギロッと私を睨みつけて答えた。「良かったってレベルじゃないから!!!爆泣きだったんだから!!!」

当時から俳優・被写体としてhocotenのファンを公言していた私は、実のところ「あーあ、ほこてんちゃんの舞台観られなかったナー」くらいの落胆しか覚えていなかった。この無礼千万な態度は、後に完全なる間違いであることを気付くと同時に、るんげの擁護のスタンスに着火をさせた。「スギは絶対に観るべきだった。あのhocotenは観るべきだった。わたしはああいうhocotenが観たかったんだよ。ってか役者全員。マジで全員上手いから。凄すぎたんだから。ラスト爆泣きなんだから」るんげの語尾は終始強かった。

私は第一に「そんなに良かったのか……もちろん観たかったよ……」といういじけを示しながら、第二に「いやでも作業スケジュール的に休みなかったし仕方ないじゃん、それに俺たちの映画の方が大事なんじゃねえのかよオイコラ」という免罪符による苛立ちに挟まれ、アンビバレンスに錯乱していた。

私とるんげは別の電車だった。「もう観られないってのが悲しいな、演劇は。今回は無理だったけど、次回こそは必ず観に行くから」「違うのよ。今回のを、今回のをスギには観てもらいたかったんだよ。だから、もう」るんげが乗る電車が到着し、開いたドアを彼女がくぐる。車内には寂しげな表情のるんげがいた。電車が走り出すと、ホームに取り残された私は、自身が感じる強烈な後悔の念に自滅しそうになっていた。途方に暮れる私の頭に、カラスの糞が落ちた。

萩田頌豊与という人物については一方的に認識していた。それは去年の夏。前述した某自主映画にhocotenが出演することが決まり、hocotenの撮影前日に彼女と西荻窪で晩酌していた相手がつぐとよさんだったのだ。私は、果たしてロケ地にhocotenが寝坊せずに無事イン出来るのか、まだ見ぬつぐとよさんを信じて晩酌を許容していた(結果、彼女は途中で抜け出して前乗りに成功した)。その際にスタッフから聞いた「東京にこにこちゃんって劇団を主宰しているつぐとよって巨人がいる」という言葉が、彼への初認識となった。ちなみに、その晩酌には劇団・排気口主宰の菊地穂波も同席していた。思えば、その夜から私の人生は、かすかに三者とリンクするように鼓動を始めていたのかもしれない。私は運命論者だ。hocotenとのファースト・コンタクトもその日で、菊地穂波とのファースト・コンタクトも西荻窪の居酒屋だった。

るんげの太鼓判にはかなりの信頼を寄せていたが、いかんせんスケジュール的な不手際によって観劇を叶えられなかった『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』への想いは日々を増すごとに募った。私はとにかく、あの時のるんげの表情が忘れられないでいた。もしかすると、一生この後悔を抱えて生きていくのだろうか。二度と表象されない表現への想いを、未解決の状態で馳せさせながら生きていくしかないのだろうか。演劇の残酷さを身をもって知る。

 

そしてついに、その後悔が報われる機会が訪れた。映像収録ではあるものの、『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』を観劇することに成功したのである。方法は内緒。

 

号泣した。

 

一先ず、「号泣した」という語句がもたらす逆説的な大袈裟さを、私は支持していない。加えて、元々私は結構な泣き虫だ。ちょっとでもエモーショナルを察知すると、びーびー泣く。しかしながら、いささか陳腐な表現を使用したとしても、本作は文字通り「号泣」に値する。

追尾して、演劇のマッピングが白紙の白痴野郎であるシロウトの私の範疇においてではあるが、生まれて今まで観てきた演劇作品の中において、最も「号泣」に値した作品は、本作唯一である。泣ける=傑作という、果てしなく凡庸な褒めの方程式を説くつもりもない。むしろ、傑作という枠組みの中に「泣ける」というエレメントが内包されているといった方が相応しい。

そして、より厳密に言えば、これは「泣ける」ではなくて「泣かす」だ。こうした観客への豊かな作用は、その技術力を取り上げて称賛せねばならない。

 

『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』は、巷間指摘されるエモーショナルな輝き以上に、作劇的な技術力の、その水準の高さを備えた作品である。

まずもって、萩田頌豊与・作による脚本の「あまりの誤用の無さ」については、その完成度の高さに脱帽する。ここに於いて述べる「誤用の無さ」とは、書き手及び出演者たちによって行われた、完成度の研磨作業に他ならない。

本作の高度を示す点には、物語における出来事、及び仕掛けの配置位置の的確さが挙げられる。ほとんど教科書的なまでの配置の所作に関しては、それが教科書的であるがゆえに予定調和に陥る、ということを見事に回避して、すこぶるスムーズに推進力を発生させている。

たとえば、殊更に説明口調の台詞が羅列されることは序盤から皆無で、状況説明よりも先に、その状況下の人々の戯れのみで「状況説明」を遂行してしまう。観客の脳内に「なぜ?」「どうして?」が浮かぶ続けるように配置された台詞の数々は、いとも容易く興味の持続性を生んでいる。その疑問が浮遊する時間さえもがあまりにも完璧で、疑問が確信に変わる瞬間の「ハッとする歓び」に、観客は夢中になる。提示する情報、俳優のアクションの的確さによって、物語の推進力は一向に緩まない。

あるいは、ある登場人物だけが知らない事柄を別の登場人物同士が共有している場合、その「秘密」を観客も強制的に共有することになる。その「秘密」は次第に、キャラクター同士が遭遇/解離を行うたびに「バレるかバレないか」という緊張感を孕み始める。ここまで経過すると、もはや観客は作者の術中に嵌り込み、「秘密」が暴かれる瞬間の無意識的な不安感と爽快感に身を乗り出している。そして、本作はそれが暴かれた後も、さらなる出来事をリズミカルに頻出し、尚も推進を続ける。

実のところ、この作劇/ストーリーテリングの手法は、サスペンス映画の文法に近いと指摘できる。登場人物が認知していない事柄が観客のみに提示され、その事柄が露わになるまでのヒリヒリした時間を体感するのがサスペンスの基本的な作法だ。サスペンスは観客と登場人物に、どの情報を共有するか、もしくはどの情報を隠蔽するか、が鍵となる。

本作は、AがバレるとマズいのでAを隠し、Aを隠していたことからBという事態が発生し、よって暴かれたCによってDへと進行してしまう、という衰えない展開力の凄まじさだけでも特筆に値する。それが決して、奇をてらったこれ見よがしなスピーディであるわけでもなく、凡庸な筆致になるが「観客が気持ちの良いタイミングで事態が展開する」という、作劇セオリーへの満点に近い解答を叩き出し続けているのだ。余談になるが、つぐとよさんの談によれば、彼は京極夏彦のファンであるらしい(ブックオフに一緒に行った際に直接聞いた、『魍魎の匣』が好きらしい)。そういったサスペンス的な所作が、意識的であれ無意識的であれ、血のように刻印され、影響されていると推論するのもまた楽しい。

また、揶揄ではなく称賛として使用した「教科書的」な側面は、これも作者本人による談ではあるが、彼が敬愛するピクサー・アニメーション・スタジオのライティング・テクニックに倣った可能性が非常に高い。ピクサーのシナリオは、ハリウッド映画的な三幕構成を分単位で遵守しており(試しにタイマーで計測しながら作品を鑑賞すると、ストーリーのミッドポイントは必ず三幕構成のルール内で配置されていることが判明する)、マーケティング水準の高さのみならず、脚本構成を学ぶ上ではうってつけの教材になる得る。事ここに於いて、古典的な三幕構成を体得した作者は、その枠組みにおいて足し算・引き算・掛け算を試行し、大衆的な豊さを現出しながら、あくまでもオリジナルな作劇を目指して構成しているのが分かる。

たとえば、公演自体の尺に関してもほとんど完璧な時間感覚でしかなく、長くもなく短くもなく、誠に丁度良い。そして肝心要の約5分間のラストに関しても、その時間コントロールの手腕によって、センチメンタルへと移入することが容易に完遂されている。あらゆる思惑が躍動し、邂逅を果たすたびに推進する物語、それらが操作される正確な時間と空間感覚。こうした技術力がもたらす感動は、ピクサーで涙する際の感覚とほとんど同義であるが、それは過言だろうか。特に、2016年『ファインディング・ドリー』における作劇、展開、回想の挿入、個性豊かなキャラクターたちの右往左往、そしてそのキャラクターたちの「決断」による大団円は、本作ともいたずらにリンクする。面白くないわけがない。

これは極めて微妙なニュアンスではあるが、本作は戯曲として、よりも、脚本として並外れた完成度を備えているといえる。それは、読み物として書かれた文学的な側面よりも、発話され運動することを目的地として構築されているからだ。そんなことはあらゆる舞台脚本がそうだろうが、と投石されても尚、本作の躍動感はオリジナルで、ここまでして俳優/物語を信頼し切って完成されていることに先ずは感服した。

萩田頌豊与ただ一人によってこの脚本が完成された、とは、到底思えない。この指摘は、彼の筆力に対する批判ではなく、明確に集合知によって開拓された完成度であることが、観劇を通して察知できたからである。ひとえに、本読みや稽古を重ねる中で、キャストたちによる「加筆作業」が行われたことを、ここに推論する。つまるところ、作者と、作者の元に集った俳優たちの明晰な分析力と読解力、そして感受性を無くしては、この素晴らしい脚本は誕生していなかったであろう。萩田頌豊与と俳優たちは、癒着し、尊重し合いながらグルーヴしている。こうした作者/俳優のアンサンブルによるブラッシュアップの力学を「才能」と呼称する。したがって、この座組でしか発揮し得なかった、物語としての完璧なまでの「誤用の無さ」を誇る脚本は絶賛に値する。

 

加えて、ストーリーテリングやキャラクター設定/描写それ自体に対して、同情を誘うような無能感や甘えがない点は、萩田頌豊与本人の驚くべき作家性として確立されている。端的に言って、つぐとよさんは「強い」。これは俳優への演出においても散見される強度であるため後述するが、あくまでも彼の創作物には、ジメジメとした苛立ちやメンドウ極まりない悪意が含まれていない。躁でも鬱でもない、コメディでもありトラジコメディでもある、磨き抜かれた作家の強度。は、運動や音感をコントロールしつつ、物語/フィクション/ファンタジー/虚構そのものが持つ揺るぎない強さへと直結してゆく。まず物語それ自体のみに感動を覚えたのは、一体いつ以来の体験だろう。常に意識しているようで失念していたナラティブの魔力/引力/推進力/治療力を、観劇中における己のジョイフルな情緒をもってして知覚した。萩田頌豊与の独特のカリスマは、その身長の高さのみならず、こうした精神的な強度から為るものだともいえる。

 

演出面においては、これまた高い水準をもってして「演技を引き出すこと」に首尾よく成功している。はっきり言って、こんなにも出演する俳優が「全員漏れなく上手い」という事実に驚嘆した。否、そんなことは至極当然のミッションではあるが、それが行われている場が小劇場であるがゆえに、界隈のぬるま湯加減に一石を投じる役目を果たしたと言っても過言ではない。本作の演技巧者たちは、紛れもなく物語を推進させる装置としての機能を備えており、たったひとりでも欠けるとその運動が停止することが予測できるほどの、列記とした固有性を皆が獲得している。

 

本稿においては、特に、萩田頌豊与による「女優」への演出の秀逸さについて記しておきたい。

単刀直入に述べてしまえば、私はあらゆる演劇作品の中で「萩田頌豊与の演出による女優の芝居」というものが、恐らく最も好きかもしれない。もしくは、「萩田頌豊与の演出が施された女優たちは、皆漏れなく驚くほどに美しい」とも感じる。これは果てしなく個人的な感想に他ならない。しかし、観客にとってフェティッシュとは重要な要素だ。映画ファンである私は、この世で最も恐ろしいものは「女優」だと恐れているし、この世で最も美しいものも「女優」だと誘惑され続けている、分裂症の罹患者だ。

萩田頌豊与が女優に対して遂行するアティテュードは、あまりにも透き通りすぎている。無色透明とまでは言わないが、固有的なキャラクターを身に纏って描かれる女優たちの豊潤さの中には、悪質さや不快感が全く含まれていない。この姿勢は本当に素晴らしい。

大抵の場合、(男女二元論で論旨展開するつもりはないが)男性の作者は女優に悪意や怨念をしつらえて、婉曲したサディズムを行使することがほとんどであるし、異性への憧れと憎悪をアンビバレンスに内包させたキャラクターを、操り人形のように動かす下品さを露呈する。この鈍感なまでの醜悪さは、かなりの偏見ではあるものの、小劇場界隈、ひいてはインディーズ映画界隈においても多分に観測できる。というより、そもそも「女優」というものの扱い方/撮り方が「分からないまま」で実践している童貞たちがほとんどで、その暴虐ぶりには幾度となく呆れ果ててきた。男性権威的なマチズモも、搾取も、フェミニズムもアンチフェミニズムも、性的なリビドーも、どれも「女優」への本来のアプローチとして正しいとは言い難い。

ところが、萩田頌豊与が演出する女優たちには、恐怖も、憎悪も、過剰なロマンティークも感じさせず、素材として、その美しさが自在に表象されているのである。このことに対する私の評価は非常に高い。前述した萩田頌豊与本人の強度も相まって、小劇場とは思えないほどの女優たちの圧倒的な輝きぶりには恍惚する。ここには、女優目当てのファックオフな観劇おじさんを一撃で抹殺する殺傷能力を兼ね備えつつ、我々が渇望した「女優本来の素材としての美しさ」を目撃可能とする魅力が含まれている。単にスケべな作家であろうと、品行方正を提唱する作家であろうと、このヘルシーなまでの「女優」の状態へと導くことは不可能に近い難儀だ。こうした萩田頌豊与の女優への眼差しは、私見では女流的な作法だとも享受できる。また、母性や女性それ自体への健康的な憧れの強さによって、不健全で陰鬱としたオブセッションに押し潰されない強度が、ここに於いても示されている。

 

女優としてのしじみの名演を、私も映画ファンというアイデンティティに免じて幾多と目撃してきた(最近であれば『横須賀奇譚』による静的かつ叙情的な演技が記憶に新しいだろう)。小動物のように小さな肉体をもってして、壊れる寸前までの感情吐露を披露し続けた彼女は、しっかりと我々映画ファンの心をキャッチし続けていた。私の独断ではあるが、彼女に対しては「映画女優」という認識が極めて強い。ところが、恥ずかしながら彼女の舞台演技と初めて遭遇を果たした末に、あまりの素晴らしさに際して、それまでのトリコロールケーキなどの公演を観劇しなかったことへの後悔が倍増した。とにもかくにも「主役感」が凄まじい。抑制された身体動作が、ふいに崩れる爆発の瞬間を孕んだ、小さくて強力な時限爆弾。は、時折あまりにもキュートで、また時折あまりにも恫喝が似合っている。炎を手にした彼女の迫力もまた、サスペンスフルな脚本への相乗効果として機能していた。言葉ひとつひとつに付与された表情の数々が、彼女の女優としてのポテンシャルの高さを歴然と提示してみせる。本作のラストで感涙する者は、あの「背中たち」それ自体よりも、その光景を見た彼女の名演によって涙しているのだ。

完膚なきまでな毒親っぷりを体現する石井エリカは、台詞にもあるように西洋的なイメージが憑依しながらも、トレンディなスタイリングも抜群で、縦横無尽に舞台上を動き回る姿に感動した。彼女もまた、腹の底から大声で発声をさせられるが、ああいった脂ぎった印象を与えかねない役柄が、よっぽど健康的で、むしろ楽天性すら帯びていることに関しては、彼女本来のパーソナリティによるものが大きいのかもしれない。ヒドイオトナを演じながらも、どこか憎めない余韻を残すのは、彼女もまた家系における被害者である側面が見え隠れしているからだ。間違いなく、全キャストの中で最も運動神経の良い女優であると記憶していて、ハイヒールを履きつつ見事にポージングを決める彼女の運動に、可笑しさよりも美しさを見出してしまった。葉巻が似合ってしまうというポイントも素晴らしかった。そして、ラストでは夫のネクタイを直す彼女がいて、その安堵感、フィクションの力、俳優の動作による感動は、それまでの彼女を観てきた者への優しいサプライズだ。

ドラスティックでいささかクレイジーな瀬在を演じた矢野杏子は、もう何をしていても、どこにいても、どう動いていても、どんな表情をしていても、可笑しくて仕方なかった。彼女が出番の無い場面においても、ふと彼女の姿に視線を送ると、まるで正解としか言いようのない表情を保持し続けていて、あまりにも素晴らしい。途中、美笑の父親である実をエロティークに誘惑するような場面があるが、該当場面における彼女のエレクトぶりには頬が緩んだ。なんてたって彼女自身が凄まじく楽しそうに演じきっているのが良い。たとえば、ああいった役柄/発声を扱うことにおいて、(設定年齢はあれど)あの役をhocotenに演じさせなかったという萩田頌豊与のキャスティング能力は評価に値する。凡庸な演出家であれば、まずはあの役柄/スタイリングに対してhocotenをフィックスしたがるが、つぶさに考えて、それは間違いである。そのことは、矢野杏子自身の豊かでコメディエンヌ的なアクションの連続性によって証明されている。

葬儀場スタッフである久保を演じた青柳美希に至っては、萩田頌豊与からの信頼もあってか、甚だしいまでの安定性に驚かされる。彼女のエレガントでアカデミックな佇まいが、まずは観客にフィックスされ、後に恐ろしいまでの変貌ぶりを魅せる頃には、久保が大好きでたまらなくなっている。特筆すべきは、激昂を披露する際の、一切の瞬きを禁じたその演技アプローチだ。変顔に逃げるわけでもなく、ギョロリと真ん丸に静止した眼球は、標的を定めて逃がす隙がない。どんなに叫び声を上げようとも、その眼球だけは動かずにロックオン・停止を続ける様は、怒っているのにあまりにも面白くなってしまっているという、本作に通底する喜劇性への加担を容易に完遂している。ところが、青柳美希の表現力の高さから言って、こんなことは朝飯前の手腕だろう。また、青柳美希にスーツを着用させるという判断力に(フェティッシュは抜きにしても)拍手を送りたい。

エキゾチックな顔立ちから派生するドラスティックなイメージ、そしてエロティークが癒着されがちで、飛び道具的な役柄を身に纏う機会が多いhocotenは、本作では抑制されながらも飛躍を試みる葛藤の少女・楓を演じ切る。前述したるんげの言葉通り、私が観測したかった女優・hocotenの演技力の幅とは、まさにこの楓のような演技体であった。劇団「地蔵中毒」について綴った記事においても述べた事柄ではあるが、hocotenは「叫ぶ」ことが許された美しい発声を持つ女優である。彼女の「叫び」という発声によってもたらされる豊潤な作用は、たとえば地蔵中毒においては、作品と観客を関係させる力量、デペイズマンによる異化効果として機能していると指摘した。本作では、その彼女の「叫び」作用を、悲哀と同情への誘導装置として行使している。これは、終盤で彼女としじみ演じる美笑が抱擁する際に、その効果が最も発揮されたと言って良い。あの時点で、観客の涙腺を徐々に緩ませ始めていることは、楓というキャラクターを「予感」として機能させている。泣けてしまう、でもまだ泣かせない。最終目的地までの涙の「予感」は、観客の心にフィックスされる。ラスト、楓がフレームイン(と、映画では呼ぶのですが、演劇では何でしょう。とにかく、舞台袖から喪服姿の彼女が登場)してくる際の、その歩く速度の重々しさは、彼女の演劇的な運動神経の良さを明確に証明している。楓の、万を辞してのタイミングによる登場は、観客に間違いなく「終演」を「予感」させる。悲しみたくないと懇願していた彼女の表情はあまりにも哀しく、観客はその姿に瞬時に締め付けられる。「予感」の登場によって、次第に集う参列者たち。私は、彼女の登場のタイミングと、その抑制された肉体がもたらす悲壮感によって、もう涙が滲み出していた。hocoten、実は泣き顔が素晴らしく似合う女優だということを失念してはならない。

と、私のアイデンティティから、萩田頌豊与が扱った女優たちへの特筆事項を気味悪く敷き詰めてしまったが、重ねて、男性陣も含めた全キャストたちへの賛辞のスタンスに変わりはない(ぐんぴぃさん、サスペンダー似合いすぎていましたけれど、サイコパスの殺人鬼役でホラー映画に出演しませんか?)。東京にこにこちゃんに出演する俳優は、それだけで愛してしまう。というのは、誤った偏見でありミーハーに陥る危険性がある。まあ、誤ってナンボだ。

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演劇と葬儀は似ている。どちらも、形なきものが形あるものとして存在する時間があって、形あるものが形なきものへと還る時間がある。観られなかった演劇は、映画と違ってもう二度と観ることが出来ないし、それは人が死ぬことと似ているのかもしれない。しかし、演劇は死者を生者として表象することができる。死にあらがうのではなく、死を受け入れてあげる。喪失された時間を、再び獲得することができる。

脊髄反射的に涙腺が緩み始める『21世紀を手に入れろ』が流れる中、文字通り「子供たちに私利私欲をなすり付けるオトナたち」が、その罪を炙るかのように、通過儀礼として炎に飛び込む。その中には子供も含まれているが、ここではそうした各論よりも、美笑を「子供」と捉えた総論で紐づけたい。『トイ・ストーリー3』焼却炉シーンへの喜劇から示す解答のごとく、エキサイティングな「熱い」展開を経て、やがて物語は他愛もない、優しい一言で終わる。終わるが、「予感」は残されている。完璧な推進力を維持しながら、このラストのために。

 

実のところ、私は本作に歓迎されるべき、相応しい観客ではなかったと告白する。『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』というタイトル、そのシノプシス、そして喪服を着た演者たちの写真からして、本作のラストシーンを予想できた。その予想は、後出しジャンケンになるが、実は当たっている。ラストで鳴る音楽も、予想通りだった。その上で「ラストがその予想通りならば、俺は泣かないね」と、意地っ張りで天邪鬼な私は、自分は本作で決して「泣かない」とタカをくくっていた。

 

にも関わらず、である。そんな私でさえ、このラスト5分間には、本当に泣かされた。あまりにも食らった。

 

観客への褒美の品として、ここまで抑制されてきた純度の高い感傷が、炸裂的に行使される。こうした褒美の品=ラストで急に感傷的/感動的になる、という構造は、自慰行為における射精液のような嫌悪感を残しかねない。事実、私はそういった自意識過剰な、個人主義な演劇をいくつも観てきて、そのたびに「人間をナメるなよ」と中指を立てながら席を立っていた。とは言え、東京にこにこちゃんは全くもって例外である。前述した萩田頌豊与の作家性の強度、悪意も不快感も自慰性もない才覚によって、本作は広義的な意味で「感動的」な傑作へと帰結している。

本作が作者自身の父親の死、その葬儀のリベンジマッチとして構想されたにも関わらず、萩田頌豊与は、決して演劇を自分という王のためだけの場所として独占しない。父親をトレースした叔父を登場させるにも関わらず、それは父親の死というオプションと物語を連結させる機能として、それ以上でもそれ以下でもなく、冷静に活用してみせる。本作が素晴らしいのは、過去への後悔に対する想いに呪縛されるのではなく、未来に対する物語として徹頭徹尾完成されていることだ。

劇中で反復される「背中」は、ラストにおいてその意味を変容させる。それまでの物語、あるいは総ての瞬間に意味が付帯され、そのまばゆい輝きの美しさは、私のような白痴をして「死ぬまで逃れられないエモーショナル」と称し、完膚なきまでの敗北宣言を示すに至る。個人的には、現状、本年度ベストの演劇だと断言したい。

 

と、ココまで綴ったところで、遠くから声がする。笑い声だ。つぐとよさんがニッシッシとほくそ笑んでこちらを見ている。一体、何を嘲笑っているのか。一体、何を企んでいるのか。私はアイツに泣かされたのか。アイツに笑わせられたのか。彼の創作物に対するラブレターじみた本稿、それを書いている私自身を見て笑っているのだろうか。まあいい。泣かれるよりは幾分もいい。私はつぐとよさんの創るものでこれからも笑いたいし、つぐとよさんは俺のマヌケを発見したら大いに笑ってくれていい。悔しさではなく、こんなに素敵な物語と出会えて、俺は本当に嬉しかった。だから笑われていいと思えたんだ。狂人の目は、漏れなく澄んでいて美しい。つぐとよさんの目がそうだ。その眼鏡の下に隠したって、いや隠してないのかもしれないけれど、全部お見通しなんだからなッッ!まあ、狂っているということは、間違いなく天才ってことなんですけれど。最後に、つぐとよさん、いや、東京にこにこちゃんに言えることはたった一言だ。ありがとう。

 

 

あなたの好きな人と踊ってらしていいわ

やさしい微笑みも

その方に おあげなさい

けれども 私がここにいることだけ

どうぞ 忘れないで

 

きっと私のため 残しておいてね

最後の踊りだけは

胸に抱かれて踊る

ラストダンス 忘れないで

 

-『ラストダンスは私に』越路吹雪

 

 

【MULTIVERSE】