20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

映画について書いたことの墓場 (記事一覧)

f:id:IllmaticXanadu:20200329104924j:image【映画(えいが)とは、長いフィルムに高速度で連続撮影した静止画像(写真)を映写機で映写幕(スクリーン)に連続投影することで、形や動きを再現するもの。活動写真、キネマ、シネマとも呼ばれる】と、ウィキペディアでは定義されている、明滅する光と暗黒の記憶装置に関する、ファンダメンタルな備忘録。てきとうなことをそれっぽく書いているだけです。

随時更新されていくはずです。

 

【MULTIVERSE】

演劇について書いたこと、の墓場 - 20世紀ゲネラールプローベ

 

演劇について書いたことの墓場 (記事一覧)

f:id:IllmaticXanadu:20200329105246j:image【演劇(えんげき、英語: theatre, theater)とは、観客に対し、俳優が舞台上で身振りや台詞などで、何らかの物語や人物などを形象化し、演じて見せる、芸術のこと。俳優が観客を前にして、舞台上で、なんらかの思想や感情などを表現し伝達しようとする一連の行為】と、ウィキペディアでは定義されている、奇妙な異教徒たちの生態観察備忘録。てきとうなことをそれっぽく書いているだけです。

随時更新されていくはずです。

 

 【MULTIVERSE】

映画について書いたこと、の墓場 - 20世紀ゲネラールプローベ

 

2023年映画ベストテン&ワースト3

毎年恒例のベストテン&ワースト3の発表です。毎年、サムネのトップ画像を作っているのですが、そういえば2020年もマーゴット・ロビーさん(ハーレイ・クイン)を画像にしていました。実は、ベストテンには入れられなかったけれど好きだった映画を毎年トップ画像に選んでいます。
 
『バービー』は大傑作だったと感じていますが、そんな『バービー』よりも好きだと思える、感銘を受けた映画が10本もあったわけです。嬉しい限り。

ちなみに、マーゴット・ロビー繋がりで言えば、今年は『バビロン』もありました。アレもトップ画像にしたら絵になる雰囲気がありますね。え?『バビロン』も好きなのかって?うるせえ!嫌いじゃないよ!(怒る人の気持ちも分かるけれど、過剰に酷評されすぎていると年末になって感じるに至ったり)(2020年に世界中から嫌われていた『キャッツ』をベスト1にしているので、マジで世間の評なんて気にする必要ないと思います)

 
そんなわけで、今年も独断と偏愛に満ちております。
 
毎年恒例、観ていたらランクインしていたはず、死ぬほど観たかったけれど年内中に観られなかった映画。今年は山のようにある。どれだけ見逃していることか。備忘録として羅列しますが、トットちゃん、鬼太郎、ナポレオン、ヴォルテックス、私がやりました、ファーストカウ、レッドロケット、アフターサン、枯れ葉、サンクスギビング、キングダム エクソダス<脱出>、ファルコン・レイク、市子、ノセボ、母の聖戦、グランツーリスモ、ザ・キラー、ロスト・フライト、クライムズ・オブ・ザ・フューチャーなどなど……って、もう10本以上あるわけですが、こんなに観たい映画があるのに観ることがままならないなんて、生きるのは大変です。
 
【ベスト10】

10位『あいの里』(2023年/Netflix)

9位『TAR/ター』(2022/トッド・フィールド)

8位『首』(2023/北野武)

7位『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』(2023/ジョナサン・ゴールドスタイン ジョン・フランシス・デイリー)

6位『アラビアンナイト 三千年の願い』(2022/ジョージ・ミラー)

5位『ミンナのウタ』(2023/清水崇)

4位『フェイブルマンズ』(2022/スティーブン・スピルバーグ)

3位『ベネデッタ』(2021/ポール・ヴァーホーヴェン)

2位『Pearl パール』(2023/タイ・ウェスト)

1位『私、オルガ・ヘプナロヴァー』(2016/トマーシュ・バインレプ ペトル・カズダ)


次点の5本は順不同で⇨『ドキュメント「シン・仮面ライダー」』、『プロフェッショナル 仕事の流儀 ジブリと宮崎駿の2399日』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.3』、『福田村事件』、『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』、『リトル・マーメイド』です。6本じゃねえか。
 
庵野秀明と宮崎駿のドキュメンタリーは、それぞれ映画本編より面白かったです。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.3』は今年いちばん号泣した映画です。あと、みんな『リトル・マーメイド』を馬鹿にして観ていないかもしれませんが、全く予想以上に美しい映画でした(ハリー・ベイリーの歌声に泣きました)。


【ワースト3】

1位 シン・仮面ライダー

2位 エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

3位 アントマン&ワスプ クアントマニア
 
特に書くこともないですが、去年は『シン・ウルトラマン』をワースト1位にしたので、2年連続で庵野の仕事に「ダメだこりゃ……」と落胆してしまった(どちらも初日に行くくらいには庵野のことは好きなんですよ……)。『エブエブ』は全ギャグにノレなかったのと「家族」への帰結に欺瞞を感じてしまったけれど、キー・ホイ・クァンのカムバックにはグッときた……。『クアントマニア』(と『シークレット・インベージョン』)でついにMCUの終焉(つまらない)を目の当たりにしたので、一旦(?)MCUは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.3』で卒業しました。
 

【超楽しかった&それはどーなんだ?とも思った、でもぼくは大好きです特別賞】
『ゴジラ−1.0』(2023/山崎貴)
相変わらず山崎貴の幼稚な人物演出や一言も二言も余計な台詞が多い脚本、特攻批判しているのか賛美しているのか曖昧な思想や、敗戦PTSD完治のために利用されるゴジラなど、首を傾げてしまうような箇所は数あれど、令和に作られたゴジラの映画として凄まじく面白かったし、こういうゴジラ映画が観たかった!をほとんど叶えてくれている。思えば2回観に行ってしまい(ドルビーシネマが最高だった)、いとも容易く擁護派。ひとりの青年の『ジェイコブス・ラダー』的ホラー映画として観ていました。作劇を超越した魅力がある傑作だと感じます。VFXの完成度は、間違いなく、白組の最高傑作でしょう。

【これまで】

それでは、長文失礼致しました。来年も映画を観まくろう!!!

 

STOP GENOCIDE IN GAZA
当ブログ管理人は、ガザの即時停戦を求め、
パレスチナ民族浄化に断固反対を表明致します。

映画の「首」すらも斬首したかのような「失敗」に成功した嘲笑の傑作『首』

戦国版『アウトレイジ』を渇望する観客の期待に一切応えようとせず、芸術三部作(『TAKESHI'S』『監督ばんざい!』『アキレスと亀』)というリハビリを経た末に肩の力を抜いて『アウトレイジ』という娯楽映画を撮るも、再び『みんな〜やってるか!』で挑戦した「ビートたけし監督作品」に猛進する北野武の姿に虚しさを感じた。この"虚しさ"は『君たちはどう生きるか』を作った宮崎駿とニアイコールという意味合いで「天才映画監督がおじいちゃん=死ぬ前に作る映画」としての強固さがある。お前らが観たい壮大なロマン溢れる戦国時代(特に大河ドラマ)なんかハナから見せねえよという、アンチロマン映画。そしてそれは、紛れもなく「北野武監督」不在の「ビートたけし監督」の映画であった。

『首』は終始虚しい映画だ。ニヒリズムを徹底しながら展開するブラックコメディでありながら、あまりにも軽く首が飛びまくる残酷絵巻でありつつ、それでいて紛れもなく時代劇としてのルックも保っている。加瀬亮演じる織田信長は終始尾張弁で叫び続けて、西島秀俊演じる明智光秀は真面目に耐え続けて、たけし演じる羽柴秀吉はバカヤロウとボヤき続けて、大森南朋演じる秀長と浅野忠信演じる黒田官兵衛はさながらたけし軍団。演技指導をしないことで有名な北野武だけれど、彼の作品でここまで演技が各々バラバラ、全く統一されていないというのは初めてではなかろうか。一体このアンバランスな「素晴らしいバランス感覚」は何なのだろう。

北野映画に通底するニヒリズムが、時代劇残酷コメディとしてここまで炸裂するとは思いもよらなかったし、この達観した眼差しは、たけし演じる秀吉そのもののようでもあった。そして、ニヒリズムの極地として、この映画自体が明確に「笑われる」か「怒られる」かのどちらかを思ってくれればいいです、とでも言うかのように、絶賛とか賛辞とかを全く求めていない。格調高い、世界中に褒められるような、巨匠の映画なんか撮る気ゼロ。傑作なんか作る気ナシ。「成功」も「失敗」も諦めている、文字通りニヒリズムそのものみたいな映画。それが凄すぎる。
言ってみれば北野武による黒澤明の『乱』みたいな映画だけれど、黒澤明ができなかった達観の眼差しを、たけしはここに来て獲得しちゃった感じ。

未だかつて観たことのない明るい北野武の芝居にも驚く(本能寺の変の頃の秀吉に死にたい願望があるわけもなく、めっちゃ楽しかった時期だろうし、歴史通りなら秀吉が死ぬはずがないので、『首』の秀吉はコメディリリーフに徹している)。死ぬことばかり考え続けながら映画を撮り続けたコメディアンが、76歳にしてついに死の香りが全く消え去る。『アウトレイジ最終章』ですら、「死」そのもののような老人たちの生前葬のような映画だったのに。老人コメディ『龍三と七人の子分たち』ですら、死が怖くない=無敵の爺さんたちが死に急ぐ「死」の戯れだったのに。そこまで考え抜いて、ついに「死くだらん」の域に達したたけし。生きるのも死ぬのも、尊くなんかないし怖くもない。くだらねえ。この世の全部バカバカしい。そんな達観思想の結実が『首』。

秀吉は常に見ているだけだ。見ながら「バカヤロウ」と言ったり「あいつには死んでもらうか」と言うだけ。それは、バラエティ番組で後輩芸人たちに囲まれながら、ボケたりツッコんだりしつつVTRを見つめるビートたけしのようでもあるし、ディレクターズチェアに座って全体を客観視している映画監督・北野武のようでもある。
家康の影武者の天丼ギャグがあったが、そういう意味で、『首』の秀吉は北野武の影武者のようでもあり、ビートたけしの影武者のようでもある。分裂した自我に関する精神分析は『TAKESHI'S』で終えていて、その影響が芸術三部作以降だと最も感じられた。

北野武は『みんな〜やってるか!』と『監督ばんざい!』で「失敗」することに失敗した過去があり、それは自殺願望とは若干異なったベクトルで「ビートたけしが北野武を殺す」ことへの執着であった。その試みは『TAKESHI'S』において「北野武がビートたけしを殺す」という相反する自他殺願望によって成功するも、本来の願望「ビートたけしが北野武を殺すこと」には「失敗」し続けてきた。
『TAKESHI'S』を撮り終えた北野武は、何の迷いもなく『監督ばんざい!』で「正しく失敗してみたい」と挑戦するも「失敗」に失敗(同年、同じくコメディアンの松本人志第一回監督作品『大日本人』は、正真正銘「失敗」できていた。松本は全く「失敗」も「叱責」も望んでいなかったが)。
そんな経験を経て、「失敗」を目指すから失敗できないのだと悟ったかのように、『首』ではあらゆる欲望が諦められている。そこには、承認願望や誇大思想、面白い映画を作りたいという意思すらない。同時に、つまらない映画を作るという『みんな〜やってるか!』や『監督ばんざい!』にあった衝動もない。あるのは、権力争いのための裏切りと殺し。と言ってもまだカッコつけてるかのような、なんにもカッコよくない、バカみたいな挿話の積み重ね。首に固着し、首に翻弄され、首を追う男たち。……いや「首」て。天下のために誰かの首を刎ねたら、今度は自分の首が狙われる。その繰り返し。いや、なに、コレ……? バカじゃないの……? 戦国時代、それは英雄たちが活躍した激動の時代……でかい刃物持って斬り合うとか、切腹するのがカッケーとか、アホじゃん……? お前らがカッコいいと思ってる戦国時代なんかな、なんにもカッコよくねえぞ!!とたけし口調で言われているかのような。戦国時代をニヒリズム的に達観することの意義は、第三者から客観的に見たらバカみたいに滑稽なことの繰り返しなのに、当の本人たちは誰もそれに「気付かない」ということだ。そんな男たちがこの国の歴史を作りました、さあ今年の大河ドラマはこの武将が主役です……いやイヤだよそんなの!そんなバカな男たちの歴史なんにもカッコよくないよ!と、叫ぶ現代日本を生きるあなたは、果たして歴史上の彼らより「バカ」じゃないだろうか。「上」にのし上がるという幻想、「下」を蹴落とし差別する、どんなに賢い者も結局は逃れられずひっそりと消えていく、権力のためなら平気で嘘をつき、「首」のことばかり考えている男たちの国として、漏れなく我が国は歴史を繰り返し続けている。
結局、男は男が好き。という風刺も、現代社会のみならず、芸能界、お笑い業界にも突き刺さる。男色社会を描いた『首』にジャニーズの俳優が一人も出ていないことは、強烈な風刺のように響く。男がつくった社会は、ずっと昔からバカです。なぜなら男がバカだからです。そして、男はバカなのでそれに「気付くこと」が出来ません。
そりゃあ、21世紀にもなってまだ戦争してるわ、「男たち」は。

メンツのための単なる報復合戦で、武将のみならず農民や村人たちも簡単に戦争に突入する時代。命が粗末に扱われすぎた時代。現代の目線で見てみろ、戦国時代なんか無茶苦茶だぞ!という視点そのものが存在する現代もちゃんと無茶苦茶じゃん、と提示する無茶苦茶な映画。

そういう「あきらめ」が、清々しいまでに正しく「あきらめられていて」、しかもそれが映画の演出とか作風にまで徹底されていることが本当にすごい。ヤクザ映画を壊し続けてきた北野武が時代劇を壊す!とかでもない(『座頭市』はちゃんと壊す意志があった)。なんにもない。北野映画特有の映像とか編集の妙とかも全くない。ショットはサラッとただ流れていく。好きなシーンとか美しいショットとかない。次に起こることの暗示かのように、あらゆる死のイメージが連結しているような見方も可能だけれど、編集にその意図と意志がない。たけしの映画監督としての腕が落ちているって批判があったけれど、そうは感じなかった。映画監督としての才能が右肩上がりに上達するとか、かつての才能はどこへやらと枯れ果てていくとか、そういう二元論じゃない。「才能」すら利用していないような感覚こそがヤバい。全く北野武の映画を観ているという感覚がない。にも関わらず、他の誰も、どの映画監督もこんな映画は作ることができない。北野武以外にはあり得ない北野武とは思えない映画。そういったアンビバレントをもってして、「ビートたけしが北野武を殺すこと」は達成されたのではないだろうか。

たけしがついに「北野武をあきらめる」ということに成功していると思えて、胸が高鳴った。ぼくは北野武映画のファンなので、その試みに虚しさを感じるわけだけれど、それは皮肉ではなく、極めて満足感のある虚しさだ。既存の映画の構造なんかに興味がない。若造とか巨匠とか関係なく、ここまで「映画」というもの自体を(作為的にではなく無意識的に)突き放すことが可能なのだろうか。全く傑作とは思えない。思えないことが最高のニヒリズムって感じで、「たけし、バカだなぁ〜やっと不真面目になれたのか〜良かったね〜」と、虚しさの中で微笑んでいた。楽しい映画でも面白い映画でも、シリアスな映画でもおそろしい映画でもない。物語も演出も含めて、あらゆる意味で虚しいこの作品の魅力は、ちょっと暫く引きずることになるかもしれない。

だから変な映画を観たという満足感は確かに高いのだけれど、作品のシニカルさに反して世間では絶賛されがち、たけしの予想よりも受け入れられがちなのがちょっと寂しい(まあ宣伝も戦国版アウトレイジみたいな宣伝しちゃったし)。特に、たけしの映画なんか観たことない、もしくは『アウトレイジ』だけ観ました大好き!みたいな若者がもっとガチギレしていい映画だと思う。
「なんだコレ!コントかよ!真面目に作れよ!」とブチギレる観客が一定数いることが豊かなことだと思う。「たけしの映画なんか二度と観るかよバカヤロウ!」もうたけしが『首』で求めている「批評」は、絶賛とか酷評とかではなく、そういうことなのに……。
まあしかし、ペシミスティックならまだ分かりやすいだろうに、こんな大作でそんなことしていいの……すげえな……という感動はあるけれど。

矢継ぎ早に北野組・歴代新旧出演者が総出演しながら、出演時間に関わらず各人が「キャラ立ち」しているので、キャスティングは成功している(ここに大杉漣がいないのが寂しい)。重ねて、演技の統一は全然なってなくてダメダメとは感じるけれど、そういった次元の作法がとっくにあきらめられているのが、ビートたけしの映画という趣きがある。

曽呂利新左衛門に木村祐一は決して間違いではなかったけれど(大竹まこととのキレ芸人フレーム外対決は良かったけれど)、たけしの狙い通りにキャスティングするのならば、ここは岡村隆史こそが相応しかったのではないか、と提言。

中村獅童演じる百姓の茂助が首のためなら仲間も裏切ったり、首を偽装したり、「女房も親父もみんな死んでこれで自由じゃ」と言わせてみたり、黒澤明が描いてきた農民の尊さ・強さみたいなものへのアンチテーゼが良い。
差別される側が時に応じて今度は差別する側になり、被害者は加害者と化す。出てくる人間漏れなくヒューマニズムのかけらもない。命を軽く扱う権力の元で生活する人々もまた、命を軽く扱ってしまう滑稽な無限地獄。

「差別」といえば、個人的に興味深かったのは弥助の描写だ。北野武は自身の作品で、常に黒人をギャグとして扱ってきた。そこにあるのは黒人差別というよりも「だって外国人を茶化すのって面白いんだもん」くらいの無邪気な戯れにすぎない(ゾマホン然り)。けれども、その言い訳自体が「差別的」であり、やっぱり北野武は黒人を差別し続けてきた作家なのは間違いない。特に現代の視点において、過去の北野武作品を観てみると、この居心地の悪さは歴然としているが、そういった反省が『首』にはあった。
つまるところ、『首』は上下の主従関係の話というよりは、差別意識の話とも捉えることができて、「差別する側は差別される」という寓話でもある。ここで活きてくる弥助の描かれ方は、まるで黒人差別をし続けてきた北野武自身を「差別」する形で断罪しているようだった。

本能寺の変で信長の首の行方がわからないという歴史上最大のミステリーにさほど興味のない北野武が、歴史改変として施したアッと驚く演出にこそ、フィルモグラフィ最大の反省を見る。

あの狂気の塊のような、自らを第六天魔王と名乗る信長が、結局は跡目を息子に継がせるダサさ、そして「結局はただの人間だったのか!」と嘆く光秀のダサさ。

遠藤憲一演じる村重がこの映画のヒロインで、みんな村重のことが大好きなのだけれど、その実、村重越しに別の誰かと恋愛をしているという悲壮感が凄まじく、これぞロマンチスト北野武の悲劇のヒロインという感じは興味深かった。北野武自身のセクシャリティは定かではないけれど、たけし軍団を統率しながら男たちと遊びまくってきたたけしの同性愛感が、最も誠実に色濃く反映された映画なのも間違いない。

『その男凶暴につき』や『ソナチネ』の頃の編集の切れ味もなく、かと言って『Dolls』のような生への冷めた眼差しもない。芸術三部作のような実験もない。死へのカタルシスもロマンも皆無に、引いた視点から絶命の瞬間が描かれる呆気なさ。莫大な予算が掛けられた、緩急のないストーリーとコントのような会話劇。人間へのあきらめに満ちた、映画へのあきらめに満ちた、北野武へのあきらめに満ちた、ビートたけしの映画としての完成形。

全てを文字通りに放り投げるラストが、最高に素晴らしかった。
首になっちゃえば、全員同じ!!

人形(=人類)実存主義『バービー』

作り手が語りたいテーマの主語を"女"とか"男"とか容易く使用してしまっているせいで、これがフェミニズムだとかマスキュリズム批判だとか論争されてしまっているわけだが、そうではなくて、死の恐怖や不安、自己実現や自由意志に関する、実存主義的な映画として意義があると感じた。

それはつまり、人間が人形を演じることによって"人形"から脱却するまでの物語で、人間は神の操り人形でもないし、自分自身で定型を決めつける必要もない、哲学でいうところの決定論、必然論、デターミニズムへ反旗をひるがえす、アイデンティティーを巡る普遍的なメッセージがある。

実存的恐怖を描いた映画といえば『マトリックス』がある。人間は機械に夢を見させられていて、そこに自由意志はない、ふざけんな俺たちは自分の意志で生きたいぞ!と機械にカチコミをかける。
押井守の『攻殻機動隊』でも、それまで自分の人生だと思っていた記憶は、全て捏造された偽物の記憶だったという恐怖が描かれる。
元を辿れば、アラン・レネの『去年マリエンバートで』は、見知らぬ男から「わたしとあなたは、去年マリエンバートで愛し合いましたね」と言われて、主人公は全くその記憶が無かったにも関わらず、次第にその記憶を植え付けられていく。
夢の中で"記憶を植え付ける"というアイデアで展開するノーランの『インセプション』は、「今生きてるこの世界は夢なのよ、だから目覚めないと」と"実存"に揺れ動く主人公の妻が自殺する。
ノーランは映画監督を目指した時から、常にボルヘスの『伝奇集』を持ち歩いていたという。そこに収録されている『円環の廃墟』から『インセプション』への影響は計り知れない。円形の神殿の廃墟にたどり着いた主人公が、繰り返し見る夢の中で"世界"と"息子"を創造するが、やがて己もまた他者が夢見ている幻にすぎないと悟る。自分の人生が、誰かが見ている夢の一部に過ぎないという、実存の恐怖。
そんなノーランのオールタイムベストをご存知?『マトリックス』と『2001年宇宙の旅』。
『2001年宇宙の旅』は、オスとかメスとか関係なく平和に暮らしていた猿たちの目の前にモノリスが出現し、猿がそれに触れて以降、動物の骨を武器として使い、猿が猿を殺す。猿が放り投げた骨は、一瞬で宇宙船へとジャンプカットする。これは人類の文明が、骨からやがて宇宙船にまで進化したことを表現しているのではない。ここで映る宇宙船は「核ミサイルがのせられている」核爆弾衛星なのだ。
人類の歴史は、小さな殺人から始まり、やがて世界規模の戦争にまで発展してしまった。戦争を始めた男たちは、その男社会のまま宇宙にまで到達してしまった。それが人間なのか?人間は自由なのに、どうして戦争を止められないのか?それが自由意志?それとも人間は自由ではない?人間って、なんだ?!

と、ここで一旦連想ゲームを止めてしまうが、果たして『バービー』も、この類の作品だったのではないかと感じる。

結局フェミニズムでもマスキュリズムでもない、男女どちらも平和な世界がいちばんいいじゃん!という人間個々に対するメッセージは普遍で、そういった映画が特大メガヒットしているというのは素直に嬉しい。
そして、『アイ、トーニャ』のトーニャ・ハーディング、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のシャロン・テート、『バビロン』のネリー、『ハーレイクインの華麗なる覚醒』のハーレイ・クイン、そしてバービーと、常にツァイトガイスト的な女性を演じてきたマーゴット・ロビーのセルフプロデュース力に乾杯。
地面にうつ伏せになってメソメソするバービー、最高にユーモラスでチャーミングだった。

ところで、これは対義的な意味ではなく本作はケンの映画でもあったけれど、ライアン・ゴズリングのコメディアンとしての才能は特筆に値する。
『ナイス・ガイズ』で披露した女々しすぎるアホ悲鳴に爆笑させられたけれど、一体何度ケンの挙動で笑ったことか。
ケンたちが謎空間で歌い踊るシーンなんかは、「この映画は一体どこに行くんだ?!」とフィクションラインがグラグラして、心から楽しかった。

「mojo dojo casa house!」爆笑。
そしてフィクションラインの話で言うと、バービーランドと人間の世界を、単に虚構と現実として処理していないのが、この映画の最も巧い演出だと思う。
完全に地続きで、不条理ということではないけれど、歴然と異なる世界がシームレスに繋がっている。あれが虚構と現実の対比だったならば、それは類型的なフィクション論に帰結しそうなイヤな予感があったのだけれど、全然そんなことなさすぎて巧いと思う。

アバンタイトル、オープニングの多幸感も最高。バービーが2階から宙に浮いて車の元へと行く、あのマジック。

サルトルの『嘔吐』のパロディがあったり、プルーストギャグが出てきたり、いちいち洒落が秀逸だっただけに、本国公式アカウントのアレが如何に浅はかだったか……
原爆とバービー本編は全く関係ないので、届くべき客層に届いてほしい。

アメリカ・フェレーラ演じるグロリアの演説は力強く、誰もが抱く苦しみを代弁していた素晴らしい芝居だっけれど、あれは憲法改正前に国会でやった方がエモくないか??あそこでやって良かったの??と、作劇上の配置にはちょっと疑問を抱いた。

あとケンが人間界で「この世は男社会だ!」ってなるシーン、あそこにドナルド・トランプって映ってましたっけ?映ってなかったとしたら絶対映すべき。映ってたらごめんなさい。ってかイーロン・マスクも映るべき。

ラスト、鑑賞直後はえ?そういうオチでいいの?と腑に落ちなかったけれど、いやちょっと待てと考え直したら素晴らしいオチだった。自分の身体について知る権利。そして同時に、くだらねえ〜って笑える。

完全に見誤ったのは、オチのフリとなるある台詞の訳があまりにも良くなくて。ぼくがバカなのも理由の一つだけれど、でもあの訳は意味を変化させてしまう気もする。あれは笑っていいギャグというよりは、バービーという人形=記号の哀しみでもあるわけじゃんか。意訳ではなく、原文のまま訳してほしかったな……。女性器をNGワードにすな!!

あとcrazyを「メンヘラ」と訳すのもどうかと……「ポリコレ」ってのもあったり、ネットスラングを多用するのは意図が変わりはしないかなと感じた。まあ、戸田ナッチよりはもちろん良いですけど……

オスカー作品賞、フツーに獲るんじゃないですか??(どうでもいいけど)
いや、どうでもいいけど、マーゴット・ロビーが喜ぶなら、それでいいです。
グレタ・ガーウィングは良い仕事をしたけれど、旦那であるノア・バームバック的なギャグが多かった(褒めてます)。

本作はグレタとノアの夫婦で共同脚本。なるほど、共著なのも納得で、これは女性目線、男性目線のどちらか一方だけでは成り立たない。そんな二人の映画作家の共同作業としても、この映画が好きでした。

世界に向けられた呪詛としての『私、オルガ・ヘプナロヴァー』

大傑作。めちゃくちゃ好きだ。

この映画は「ホラー映画」もとい「心霊映画」であると自分は感じた。

その理由も含めて、以下に書けるだけ感想を書く次第。
自分がこの映画の存在を認知したのは2017年だった。
それは、親愛なるジョン・ウォーターズによる毎年恒例のベストテンにおいて、彼が『I, Olga Hepnarová』という謎のチェコ映画を2位に選出していたからだ(ちなみに1位は『ベイビー・ドライバー』だった)。

オルガ・ヘプナロヴァーという名前を見聞きして反応する者は、よっぽどの殺人鬼マニア以外には恐らくいないだろう。オルガは1973年チェコの首都であるプラハで、路面電車を待っていた人々の列へとトラックで突っ込んだ。12人が負傷、8人が死亡、オルガは死刑を宣告され、チェコで最後に絞首刑に処された女性となる。

あの大量殺戮犯オルガ・ヘプナロヴァーを映画化したのか、という驚き以前に、モノクロームのスチール写真やポスターから滲み出る暗黒映画の予感、紛れもなく"イルな"映画の雰囲気に胸が高鳴った。
それから待てど暮らせど、『I, Olga Hepnarová』が配給されることは無かった。輸入版で観たシネフィルたちの熱気を帯びた感想を、悔しさを胸に読み進めるしかなかった。

つまり、この2016年のチェコ映画を、自分は6年間も「ああ観たい」と懇願しながら待ってしまった。だから期待値は過剰に膨れ上がっていたものの、いざ本編を観て、それが"自分が観たかった映画の一本"であったことを思い知った。あるいは"自分が作りたかった映画の一本"かもしれない。

本作の抑制された描写の数々に、ひとりの少女がどんどん不幸になっていく姿を冷徹に見つめ続けた、ブレッソンの『少女ムシェット』を想起するのは容易い。『少女ムシェット』はトリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にも影響を与えているが、あの作品も絞首刑で映画が終わる。
ひとりの男が自殺するまでの48時間を観察した、ルイ・マルの『鬼火』も思い起こさせるが、オルガの手には自殺のための拳銃も無ければ、彼女は自殺にすら"拒絶"されてしまう。

映画の冒頭で、母からの「オルガ、起きなさい」という声に反抗するように、オルガは起き上がらない。やがて彼女が大量に睡眠薬を飲んで自殺を試みたことが発覚するが、母は心配も叱責も慰めも見せずに言う。「お前に自殺は無理。諦めなさい」

オルガの自殺は物理的な失敗そのものではなく、この母親からの言葉によって完全に"拒絶"されてしまう。同時に、オルガが自殺を決意した理由が描かれていない冒頭においても、この言葉だけで、少なくとも母親との確執が示唆される。

オルガと母親との確執は凄まじい。たとえば食卓で「誕生日に何が欲しいか」と母親に問われたオルガは「この家から出たい」と答えるが、ここでオルガと母親の会話は"拒絶"され、母親は食卓を囲む他の家族に対して「召し上がれ」とだけつぶやく。
家出して山奥にある何も無い小屋で暮らすことにしたオルガは、そこを訪れた母親に対して「わたしに指図しないで!」と激昂するが、母親は手の平を彼女に向けて"拒絶"し、視線すら合わせない。当然、そこに会話も無く、母親は黙って小屋から出て行く。
母と娘は、ひたすらに拒絶の関係性でのみ繋がっている。

母親からの拒絶から逃避し、なんとか社会に溶け込もう、自立しようと試みるオルガは運転手として働き始める。

この映画における"車"とは、オルガが社会と接点を持つための道具であったと同時に、彼女が社会から逸脱するための道具としても機能している。
自らのハンドルさばきによって自走する自動車そのものが、自立したいと願うオルガの欲望と呼応している。しかし、車は運転手の手によって暴走することも可能だ。
オルガは結局、愛車だったトラバントを終盤で山に破棄する。

オルガは職場でも、車を運転している時以外は情緒不安定に過ごしている。

給料の受け取りの列に並ぶ、小柄で猫背の彼女の前後には、屈強な男性たちが並んでいる。それはまるで『羊たちの沈黙』で、エレベーターで屈強な男性たちに囲まれて"孤立"するクラリスのようだ。いざ彼女の番になると、別の女性に割り込みされてしまう。その時の彼女の、心が怒りと悲しみでざわつくものの、怒ることも悲しむことも出来ない"所作"は、あまりにも素晴らしい。真に"ざわめいた"演技だ。
情緒不安定と前述したものの、こういった溢れ出しそうな感情の抑制/抑圧を経験したことのない人はいないのではないだろうか。
オルガがことさらに泣き喚いたり、怒鳴り散らしたりしないのも、この映画の"抑制"された美しさに他ならない。そして、それこそが現実的な、リアリスティックな叙述なのだ。

オルガは職場でイトカという女性と出会い、親密になっていく(イトカは前述した列に割り込みした女性で、オルガは最初イトカへ憎悪をまとって接近するが、振り返ったイトカから食事に誘われ、呆気に取られる)。
この映画では劇判が一瞬も流れないが、唯一、イトカとディスコに行った際にのみ音楽が蔓延している。オルガは音楽という文化と接点が無いような生活で、まるで初めて音楽というものに触れたかのように、劇中で初めて笑顔を見せる。
音楽のビートと彼女の鼓動が重なるように、そこでオルガはイトカへの恋心に気付く。二人は音楽の中で官能的な時間を過ごし、オルガの想いはあっさりとイトカに受け入れられる。
そう、この映画で初めて、オルガを"拒絶"しない人物が現れたのだ。

しかし、本作はひたすらに冷徹さを貫く。
この出会いも、やがてはオルガを"拒絶"するための前振りでしかなかったのだ。
レズビアンであることで社会から受ける抑圧以前に、オルガは自分が"他者"と関係できないことにもがき苦しみ始める。
イトカはオルガ以外にもパートナーがいて、彼女の恋はボロボロに引き裂かれる。
失恋に絶望したオルガが全裸になり、月光に照らされながら佇むショットは果てしなく美しいが、そこで彼女はイトカに「自殺するから見ていてほしい」と懇願してしまう。
『MEN 同じ顔の男たち』の過剰なまでに膨れ上がった被害者意識を思い出す。
イトカはドン引き、こうして再びオルガの自殺は"拒絶"される。
その後も別の女性と身体を重ねるが、どうしたって関係が成立しない。虚しさのみが、彼女と共にある。

オルガは後に、犯行声明の手紙に次のように記す。

"私たちは他者を理解することなど出来ない、夫にしろ妻にしろ、親にしろ子供にしろ"
それは、まやかしに気付いた者の真実の告発である。オルガのそういった繊細な感受性が、何度も死から生へと動いたにも関わらず、社会や世界そのものの無慈悲さによって、彼女はさらに絶望する。

社会と積極的に関係しようとしたオルガは、働いてみたり、恋人を作ってみたり、オッサンと飲み友になってみたり、病院に通院してみたり、とにかく彼女なりに色々と試みるのだが、何もかも失敗しながら、どんどんに孤独になっていく。
まるで、世界そのものから"拒絶"されているかのように。
だから彼女は、自分を"拒絶"する世界に対して呪詛を連ねる。

1970年代のプラハの閉塞感は、それが「プラハの夜」直後の時期だからということでもあるが、この映画ではそういった政治的な側面は排除されている。
排除されているのはそれのみならず、意図的に起伏も、脈略も、カタルシスも排除されている。編集は場面の断片を提示しているようで、連続性(コンティニュイティー)が無い。ひたむきに"断絶"され続けている。
その無機質さは、もちろんモノクロームの撮影も起因している。オルガを囲む白と黒の世界は、彼女の精神、心象風景そのものだ。荒涼としていて、そこには何も無い。
映画にとっても、興奮も悲哀も一切無い。
感情移入すら断絶されていて、映画そのものがオルガを"拒絶"して、冷徹に突き放している。
むしろ、オルガの方から、観客へと接近しているかのような感覚すら抱かせるのだ。
彼女を"拒絶"するかどうか、それはひとりひとりの観客へと託される。

社会から"拒絶"されて孤立を深め、自己破壊へと走るオルガ。
自殺の失敗、あらゆる試みの失敗が、彼女の疎外感に拍車をかける。
観客のほとんどが、彼女の顛末を知りながら映画を観るしかない。
時間は不可逆である、ということを、映画というメディアはいつだって我々に思い知らさせる。刻一刻と迫る運命の日、ひとつひとつの運命の歯車に、抗うことのできない残酷さを目の当たりにする。

あまりにも呆気なく、オルガは大量殺人を犯す。
前述したように、そこには何の興奮も悲哀もカタルシスも無い。全てが排除されている。
運転席のオルガの主観から、轢き殺されていく人々の"呆気ない"消失が描かれる。しかし、運転席から降りた彼女の目の前には、大勢の死体と血の海が広がっている。そこに、先ほどまでの"呆気なさ"は皆無だ。惨劇が客観的に映し撮られる。オルガの主観を"拒絶"するかのように。

オルガは劇中、終始ふらふらと漂い続けている。それは物理的な動作や事象を指しているわけではなく、彼女は常に地に足が着かず(着けられず)、宙に浮いているようだ。
まるで、幽霊のように、現世をさまよっているようにも見える。
冒頭での自殺に失敗し、母親から「お前に自殺は無理」とあきらめられた、言い捨てられた時点から、オルガは"死ぬこと"から拒絶され、生き永らえてしまう。
それは同時に、既に"死んでいる"と読み解いても良いだろう。オルガの死は延期され、始めから、その発動を待つのみとなる。
もしくは、オルガの"時計の針が止まった"というきっかけとも思える。
俗に、心霊映画というジャンルは、幽霊が出てきて人間に恨みを晴らす作品、ということではない。"時計の針が止まってしまった人"を描く作品のことである。
世界のどこにも居場所がない、"拒絶"され続ける彼女は、この世界では"死んでいる"に等しい。
その後の彼女の行動の全てが、自分が"生きていること"への証明のように描かれている。
まるで止まってしまった時計の針を、必死で動かそうとするかのように。
死にたいと言う少女は、本当は生きたいだけなのだ。
だから、物理的にも彼女の自殺は失敗し続けている。
本当は死ぬ勇気すらない、か弱いただの少女なのだ。
それにも関わらず、世界は彼女の"生き返し"を否定し、お前はこの世の者ではない、この世にお前の居場所はない、と非情さを突き付ける。
世界から拒絶され続けて、疎外されてしまった彼女の耳には、いつだって世界からの「死ね」という声が聞こえていたのだろう。
世界への呪詛が結実し、オルガは何度目かの死を決意するが、「もう既に死んでいる」彼女は、自殺が出来ない。
だから、あの有名な手紙の記述シーンに至る。

「私は孤独なのです。破壊された女です。人々に打ち砕かれた女です。自分を殺すか、他人を殺すかという選択肢があります。だから、私は自分に憎しみを向けてきた人たちに復讐する方を選びました。誰にも知られずに自殺してこの世を去るのは簡単すぎます。言葉でなく実行を。社会はあまりに無関心すぎる。私の評決は以下の通りです:私、オルガ・ヘプナロヴァーは、あなた方の残忍な行為の被害者として、皆様に死刑を宣告します」

それはまるで、幽霊の怨念のようだ。
彼女が死にこだわり続けたのも、"死にぞこなったこと"=未清算の過去への落とし前でもある。

オルガは死刑の前に、「私は、オルガ・ヘプナロヴァーである」というアイデンティティそれ自体を"拒絶"する。
「私は、オルガ・ヘプナロヴァーではない」
かくして、映画は"オルガ・ヘプナロヴァー"を死刑に処すことに"失敗"する。
ぶら下がって幽霊のように宙に浮かぶ一体の死体は、"オルガ・ヘプナロヴァー"ではないのだ。
オルガは、映画からも"死"を与えられない。
どこまでも映画は、彼女を突き放す。
では、死ねなかったオルガ・ヘプナロヴァーは、一体どこへ行ったのか……?
無差別殺人、テロ、自殺。
死ぬことも、生きることも許されない彼女は、いつの世も、どの場所をもさまよい続けている。
オルガは判決の前に「二度と私のような人間が出ないために、社会に努力してほしい」という旨の供述をする。
そして、社会はそれを"拒絶"し続けている。
"オルガ・ヘプナロヴァー"は、現代においても、この先の未来においても、常にどこにでも、"そこ"に"いる"のだ。
これはそういう「ホラー映画」なのではないだろうか。

オルガを演じた主演のミハリナ・オルシャンスカは、まさにオルガを演じるために生まれてきたかのような"空虚さ"に満ちている。
まずもって、オルガ・ヘプナロヴァーとは空っぽの器である。そして、この器は代替え可能で、誰しもが"オルガ・ヘプナロヴァー"となる可能性はいくらでもあるのだ。この映画は、ひとりの大量殺人の犯人をセンセーショナルに描写した作品なのではなく、そういったセンシティブな可能性について思考してほしい作品なのではないだろうか。あなたがトラックで人を轢き殺さない可能性は、本当に100%だろうか。100%自分はそんなことはしないと言い切れてしまう人にこそ、この映画はまず向けられているような気がする。
ミハリナは、紛れもなくオルガのパーソナリティを全身で体現してみせるが、その憎悪に淀んだ肉体と精神に、"空っぽさ"までをも感じさせる芝居の技術が、名演の証明に他ならない。

彼女は1992年ワルシャワ生まれのポーランド人で、だから実は本作のロケ地も全編ポーランドで、台詞も全て吹き替えである。そして彼女の両親も俳優らしい。

ミハリナもまた、子供時代に辛い想いをしたとインタビューで語っており、オルガへの共感が達成されたわけではないが、少なくとも思春期を過ごした少年少女のひとりとして、彼女の苦しみに寄り添える部分があったという。
極寒に身を震わすオルガが、ベッドの下へと唾を吐き捨てる所作は、誰もがやったことは無いのに、誰もがやったことがあるかのような錯覚をさせる。自分で自分自身がままならない状態の時、我々は彼女のように"何か"が乱雑となり、思わず自暴自棄に陥るのではないだろうか。
反抗の象徴として切られたボブヘアは、それが『パンドラの箱』のルイーズ・ブルックスに酷似していると指摘できる。つまりは、モノクロームの暗黒の映画、フィルムノワールを想起するに至り、この映画がフィルムノワール的作法によって撮られた作品であることは、撮影からも把握できる。『レオン』のマチルダことナタリー・ポートマンの趣きすら感じられるミハリナの顔付きは、真に暗黒に染まった闇マチルダと言っても過言ではない。
その鎧のような黒髪、怨念で満ちた眼、対抗する力を奪われた痩せ身に、社会の圧力に潰され掛かっているかのような猫背、その全てのフォルムが素晴らしい。
絶えず、大量の煙草を吸い続ける彼女は、煙のように漂ってしまう存在であること以前に、イトカからは「油臭い」と侮辱される。しかしそれは比喩的に、世界から煙たがられる"臭い"を発していることに他ならず、それは貧困と不幸の臭いなのだ(ポン・ジュノの『パラサイト』においても、この貧困の臭いについては明確に描かれていた)。
そして、彼女が煙草を揉み消すショットは1ショットだけ存在しているが、煙草は灰皿にではなく、机上へと無造作に、暴力的に押し当てられる。彼女は"外してしまう"のだ。何もかも。そういった動き、アクションのひとつひとつを読み取ってこそ、この抑制された映画の輝きに気付けるはずだ。だから映画は面白い。

終盤、カメラはオルガの顔を真正面から撮り続け、彼女の鋭い眼差しを観客へと提示する。そこから何を読み取るか、答えは無く、思考は促される。

やがて、抑制されていた感情が、ひとつの叫びによってこの映画に刻印される。

現実のオルガが絞首刑に至るまでの様子には諸説あり、堂々と自ら絞首台まで足を進めたという説もあれば、死刑を拒み無理やり絞首台まで運ばれたという説もある。
また、絞首台までオルガを連れて行った看守のひとりが「あまりにも若く、あまりにも美しい少女を死刑に処することに酷く後悔してしまった」とも述べていたらしい。

この映画には、そういった優しさも慈しみも無ければ、彼女のたくましさや強さをショットに残す気さえない。死の瞬間さえ撮られず、カメラの前に立つ人々によって、オルガと観客は"断絶"されてしまう。断絶から解放された時、彼女はもう、宙に浮いている。断末魔さえも、観客は聞くことが許されない。
ただひとつの"叫び"しか映されない。
そして、その叫び声は、聞こえてほしかった家族には、まるで届いていないのだ。

おそろしいラストショットだと思った。
そこまでして、この映画は彼女を突き放すのかと驚嘆した。
驚嘆していたら、この映画のエンドロールは無音で、それはもしかすると"黙祷"なのかもしれないと感じて、スクリーンを静かに見つめた。
彼女は許されるべき存在では無くとも、安らかに眠りたまえと黙祷することは、決して間違っていないと思う。
いや、間違っていたとしても、だ。

少なくとも、それしかオルガと観客は"関係"出来ないのだから。

2022年映画ベストテン&ワーストテン

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2022年をもってして、映画は何度目かの「死」を迎えたと断言することは過言ではありません。

ゴダールの死、青山真治の死、吉田喜重の死、石井隆の死、ジャン=マリー・ストローブの死、大森一樹の死、ピーター・ボグダノヴィッチの死、アイヴァン・ライトマンの死、そして『食人族』のルッジェロ・デオダート監督までもがこの世を去ってしまいました。

ぼくのようなエセシネフィル、ボンクラ映画ファンにとっても、この喪失感は計り知れなく、自分でも驚くほどに落ち込んだものです。2022年は映画にとって、不幸で最悪な年ではなかったか。それを確認するための、ベストテン作成に至りました。

さて、例年通りに「もしも観ていたらベスト確実だった」という見逃し作品は山のようにあり、特に『ブラックフォン』『グリーンナイト』『マッドゴッド』、この3本は個人的なフェティッシュから判断しても、かなりの確率で好きなやつだったはず……と反省しております。

 

【外国映画ベスト10】

10位『クライ・マッチョ』(2021年/クリント・イーストウッド)

9位『リコリス・ピザ』(2021年/ポール・トーマス・アンダーソン)

8位『ニューオーダー』(2020年/ミシェル・フランコ)

7位『NOPE』(2022年/ジョーダン・ピール)

6位『トップガン マーヴェリック』(2022年/ジョセフ・コシンスキー)

5位『私ときどきレッサーパンダ』(2022年/ドミー・シー)

4位『MEN 同じ顔の男たち』(2022年/アレックス・ガーランド)

3位『アネット』(2021年/レオス・カラックス)

2位『TITANE / チタン』(2021年/ジュリア・デュクルノー)

1位『エルヴィス』(2022年/バズ・ラーマン)

 

【日本映画ベスト10】

10位『フィルム・インフェルノ』(2022年/皆口大地・寺内康太郎)

9位『映画 ゆるキャン△』(2022年/京極義昭)

8位『恋は光』(2022年/小林啓一)

7位『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年/井上雄彦)

6位『こちらあみ子』(2022年/森井勇佑)

5位『マイスモールランド』(2022年/川和田恵真)

4位『ケイコ 目を澄ませて』(2022年/三宅唱)

3位『はい、泳げません』(2022年/渡辺謙作)

2位『麻希のいる世界』(2022年/塩田明彦)

1位『ザ・ミソジニー』(2022年/高橋洋)

 

【ワースト10】

①シン・ウルトラマン
②わたしは最悪
③フレンチ・ディスパッチ

以下、特に語りたくもない同率ワースト

激怒

ジュラシック・ワールド/新たなる支配者

女神の継承

キャメラを止めるな!

モービウス

哭悲 THE SADNESS

大怪獣のあとしまつ

 

つまらないです。3つの短編がそれぞれゴダールやジャック・タチ、ジャン・ルノワールやアンリ=ジョルジュ・クルーゾー、ジャック・ベッケル、ジャック・リヴェット、トリュフォー、ジュリアン・デュヴィヴィエ、アルベール・ラモリスなどといったフランス映画監督たちのオマージュで埋め尽くされ、とにかくフランス映画愛!フランス映画最高です!というウェス・アンダーソンからフランス映画へのラブレター以上でも以下でもありません。

特に2話目『宣言書の改定』は完全に撮り方から作劇まで完全にゴダールで、もうほとんど完コピ。政治の季節に出会った男女のラブストーリーって『中国女』と『男性・女性』じゃん!唐突な死は『女と男のいる舗道』だし、そして『たのしい知識』のスタジオショットまでパクる!徹底したモノマネっぷりは、確かにちょっと面白いのです。

逆に言えば、これはスノッブっぽく聞こえるかもしれないですが、こんなフランス映画好きのシネフィルがゲヘヘと喜びそうな映画がシネコンで大々的に公開されていて客も入っているのは、奇妙な状況だなと感じます。

とは言え、断片的で流動性の無い作劇は、やはり観ていて興味の持続が続かず、次々とバカみたいに几帳面なシンメトリーが、ほとんど強迫観念的に映し出され続けるのはウェス・アンダーソンの手癖ですが、これが本当に"手癖"でしかなくて、つまり必然性をも欠落してしまっている。ああーそこはクローズアップじゃないんだよなー、とか、ええーそこはカラーにしてくれよー、とか、そんな箇所が多すぎます。

極め付けはクライマックスで、肝心の追跡アクションシークエンスをまさかアニメーションで"処理"してしまうとは。最悪でした。アニメーション的とも思えるウェス・アンダーソンの人工的なまでの世界の構築を、実写でめちゃくちゃ頑張ってやっていたからこそ彼の作品は輝いていたのであって、あそこでアニメーションっぽいものをアニメーションでやることに何の"必然性"があるのか。愚の骨頂です。アニメーションそれ自体にも失礼。『タンタンの冒険』っぽいアニメーションだったけれど、そうすればいいってもんじゃない。
たとえば、『ムーンライズ・キングダム』の感動的なクライマックスは、全てがアニメーションのように戯画化されながらも、実写でしか獲得し得ないエモーションがみなぎっていたではありませんか。勘弁してくれよ。

 

②『わたしは最悪』、わたしには最悪でした。

周囲の信頼できる目利きたちから、大傑作!、今年ベストだよ!と、会うたびに推薦される日々を過ごし、トリアー甥っ子苦手なんだよなーと思いつつも、過剰な絶賛に背中を押されてそれなりに期待して鑑賞したのですが、全然ノレませんでした……。『ジャンクヘッド』の時も、世間の絶賛と自分の感想の乖離に脱力したのですが、久々にそれを味わいました……己の映画体験はわたし個人のものだし、絶賛を否定しようとする言葉は持たないけれど、こういう時は、やっぱり悲しい……

2章「浮気」において「どこからが浮気か?」というイチャコラ描写がある通り、この映画は境界を突破することに関する映画だと読み取れます。それはつまり「どこからが夫婦の人生で、どこからが自分の人生なのか」を線引きしようともがくモラトリアムです。時の静止した世界での走行は、それ自体の運動の爽快感(たとえば『リコリス・ピザ』には"走ること"という"運動"自体のエモーションがみなぎっていましたが)ではなく、あの人との境界を超えた!という喜びが描かれていました。

そういったテーマは非常に賢明で興味をそそられはするのですが、本作が果てしなく「作為的」であること、は、はっきりと欠点かと感じます。

本作の主人公は、あらゆる女性の共感ポイントの集合体のような描かれ方で、まるでひとりの生きている人間とは到底感じられませんでした。

最終的な結末に至るまで、ああ、作り手が「この結末」のために、それまでの作劇を誘導してしまっているなと、かなりの危うさと不信感も抱きました。

「作為的」なのがよろしくないのではなく、「作為が丸見え」な状態で完成されているのがもどかしいのです。上映時間中、常にキャラクターの頭上にマリオネットの操り糸が見えているような状況でした。元カレにしたって、あのタイミングでああいう病気になることに「作為」しか感じられません。

しかし、現実はそんな作為よりも「作為的」なのかもしれません。実際、わたしは一体「何者」なんだ?と揺らぐ人々にこの映画が享受されているのも理解しています。

そんな人々に寄り添い、共感し、讃えあうことが出来ない、『わたしは最悪』という映画を楽しめないわたしの敗北宣言としてのワーストです。私は、私は最悪……。

 

①いや、結局、良いところも悪いところも、樋口さんと庵野さん、どっちの責任なのコレ?!という戸惑いが大きかったです。

『シン・ゴジラ』のようにあれ、とまでは言いませんが、まるで美学の欠落したカット割の数々には絶望しました。

数打ちゃ当たると言わんばかりのマルチアングルは、とりあえず現場で撮れるだけのアングルを撮っておいて、あとは編集でなんとかしましょう、という、圧倒的な「映画への信頼感の欠如」のように感じます。プリヴィズを最大限に活用した『シン・ゴジラ』は、アニメの手法で実写映画を撮る、という実験に成功していたと思いますが、『シン・ウルトラマン』では単に、庵野さんっぽいアングルでカメラを置いて撮っておく、映画撮影というよりも、なんだか素材集めのような印象を受けました。とりあえず、庵野さんっぽく撮った素材を、庵野さんに庵野さんっぽく編集してもらう。なるほど、そうすると、どうしたって「映画」たらしめている何かは描けないんだなと。そういう手法でやるならば、わざわざ『シン・ゴジラ』や庵野秀明のマネをする必要はありません。

なんですかあのラストカット。あれ、現場で本当にラストショットのつもりで撮っていたのですか。もしそうだとするならば、やっぱり何か大切なことを見誤っている気がします。米津が流れればいいってもんじゃない。

 

真のワースト1位『オビ・ワン』

ディズニースターウォーズ関係なく、ひたすらつまらなかったです。文化的衰退。まるで、スターウォーズというお墓を綺麗に洗い磨くフリをして、ぐちゃぐちゃに荒らしていった墓泥棒。このシリーズで完全にディズニースターウォーズからのドロップアウトを決意したのですが、そのせいで大傑作と言われている『キャシアン・アンドー』を見逃しました。

 

それでは、長文失礼致しました。来年も映画を観まくろう!!!

四方八方を"調律"で埋め尽くす、あらかじめ完成された堂々巡りの音楽【あんよはじょうず。#3『地獄変をみせてやる。-人生失笑(疾走)篇-』雑感】

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ぼくは所謂、アンダーグラウンドな演劇の観客ではない。演劇のマッピングさえままならない、一般的な観客ですら無い。まずはそこからだ。

あんよはじょうず。に関しては、劇団「地蔵中毒」繋がりで、コンプソンズの星野花菜里さんからスタッフの誘いを頂戴した。ぼくは「やるよ!」と返せはしたものの、公演日程が年末年始をまたぐスケジュールだということではなく、果たして自分は「観客」として機能できるのだろうか、という微かな不安があった。
 
そりゃあテメェはスタッフで参加するのだからそんなの要らぬ心配だろうよと思われるかもしれない。ところが、ぼくは常人として当たり前に良く出来た人間では決して無いので、いただいた仕事と主観を別個に処理できない。否、したくない。役職の関係抜きに、ひとりの「観客」として「作品」を満喫できるか。「作品」が必要とするひとりの「観客」として「作品」を欲求できるか。そんなことを考えていた。

ぼくは寺山修司も丸尾末広もグラン・ギニョールも好きだ。昨年も唐組の公演『ビニールの城』を新宿・花園神社で観た。「アングラ」と銘打たれるモノへの、差別心も偏見もない。
ところが、そんな彼らのナラティブを表面上のみ真似たエピゴーネンたちのままごとは好きではない。
学生時代、山のようにそういったエピゴーネン演劇を観てきた。「ちょっと変わったことをしている」というだけで満足感に浸り、しかしながら演出も芝居も、何もかもが幼稚で終幕まで到底耐えられない。そんな劇ばかりだった。つまらない洒落を垂れるとしたら、あんよはへた、まだ歩行すらできていなかった。歩けないのに歩こうとすること自体の挑戦は認めるけれども、それが実際に"面白い"作品として結実しているかどうかは別問題だ。
型破りとは、型を熟知して初めて遂行できる。既存の作劇構造自体を解体し、脱構築を試みてきた「アングラ演劇」のアティテュードとは、そうではなかったのか。
そして、こうして「アングラっぽい演劇」を「アングラ演劇」とジャンル分けする行為や、何かといえばエセ劇評家たちがテラヤマの名前を容易く挙げる行為は、当事者ではないぼくでも、共感性羞恥がはたらき、居心地が悪い。

外部への憎悪として、ぼくをアングラから離脱させたのはアングラそれ自体だったし、内部への憎悪として、「いや〜アングラってオモロいよねぇ〜」と何の羞恥心も無く表明できない自分自身の気味が悪い。

こういった病理の場合、最も効果的な処方は「自分から離れた其れを、再び呼び戻すほどの優れた其れを、事故的に摂取すること」だろう。食わず嫌いの患者は、食ってさえしまえば高い確率で克服に達するけれども、食った上で"不味かった"という記憶が舌に焼き付いた者は、積極的にそれを食すこと自体が難しい。しかし、ごく当たり前に"美味しい"料理は存在していて、あまつさえそれを食べる機会に恵まれた暁には、治療は完了するはずだ。

ぼくの場合、学生時代にアングラのエピゴーネンを嫌というほど喉に押し込まれ、その吐瀉物で自らの身体を汚してしまった。度々、それを再び食べることを避けてしまった。あんよはじょうず。に留まらず、月蝕歌劇団だって本当は観たかった。昨年に唐組を観に行って、アレルギー反応はそれなりに減少してもいた。そして、外部から事故的に、ぼくはスタッフのオファーを受けた。

トラウマは、自分自身が予想もしていない奇跡によって、あっという間に治る。そういった"おそれ"は、自分が胸に抱えている限り、どんなに遠くまで逃げても、死ぬまで一緒だ。旅は道連れとまでは言わないが、端的に言って、この状態はとてもロマンティークなものだと感じる。自分が最もおそれているものは、永遠に自分と共にある。それならば、"おそれ"から逃げ去ろうと足を速めるのではなく、”おそれ”と歩幅を合わせることこそ試みるべきではないのか。”おそれ"を緩和するのは、もう”おそれ"でしかないのだ。

結論、あんよはじょうず。には感謝しかない。トラウマに罹患していたぼくは、そのおそれの内部に接近・侵入することによって再びそれを摂取することが出来たし、その強度が高かったことによって、純粋にそれを味わうことが出来た。楽しめたのだ。「観客」として、「作品」を。

本作はもちろん、天井桟敷や状況劇場の影響を受け継ぎながらも、丸尾末広や古屋兎丸といった漫画からのパスティーシュも存分に感じられる。そして何より、夢野久作『ドグラ・マグラ』を想起させる堂々巡りのメタ構造が、矛盾と快楽を混同させながら通底している。

事ここにおいて、これは映画ファンというアイデンティティからの指摘になるが、本作はクリント・イーストウッド監督『ミスティック・リバー』の作劇方法と似ている。
 
少年時代の過去に発生した因果が、大人となった現代の彼らに「清算」を詰め寄る。そのため、再三「これはアングラ版『スタンド・バイ・ミー』だ」という感想を拝見した。その指摘が誤りであるとは決して言わないが、つぶさに考えて、過去と現代を自在に行き来する本作の構造は、ブックエンド方式である『スタンド・バイ・ミー』とは異なるものともいえるだろう。戻れない時間への哀愁が描かれていた『スタンド・バイ・ミー』と、時空を超越したミステリー構造を持つ本作は、本質的に差異があるのだ(それよりは、同じスティーブン・キング原作の『イット』や『ドリームキャッチャー』の方が、少年時代から現代への因果律を色濃く意識させている)。
 
より厳密に紐解くならば、過去に生じた事件、つまりは「未清算の過去」を心に閉じ込めたまま、再びその闇に奇襲される本作の構造は、上記『ミスティック・リバー』との類似が見られる。したがって、ぼくにとっては「アングラ版『ミスティック・リバー』」と銘打つ方が心地が良い。
 
「物語は複雑でよく分からないけれど、パワーに圧倒されて面白かった」という評が多く挙げられるのも、本作の総合演出の高さを物語る言葉でありながら、個人的には釈然としない部分もある。世の中には確かに「分からないけれど面白いもの」は存在しているが、あまりにもその特質に頼ってしまうと、演劇の「観客」は思考停止に陥ることになる。「分かろうとする」能動性こそを、劇作品の完成度を磨き上げる燃料にするべきだろう。読み解く自由が与えられているのが観客の特権なのだから。
 
加えて、ここで使用されている「分からない」という状態は、恐らく「物語」が分からないことを意味すると察する。物語性やドラマツルギーを排除した自由で不条理な作品は数あれど、本作には歴然と書き手特有のナラティヴと時間感覚が刻印されており、その用意されたコードに乗っかってさえしまえば、いささか「物語」が分からないという思考は抱くに至らない。そして、その独自の作法や便法を咀嚼させるだけの「演出」が、本作では成されていたと考えられる。
 
この場合の「演出」は、「調律」に近い。あるいは「指揮」である。あんよはじょうず。に結集された俳優たちは、それぞれが異なる音色を持ちながらも、本作のマナーに準ずる形で、その音の「調律」を行われている。無論、その調律師かつ指揮者は高畑亜実氏だが、彼女は声が良いだけではなく、その「耳」の良さが素晴らしいとまず断言しておきたい。
 
一見すると、配役のバランスも集客率も兼ね備えた文句なし・唯一無二のキャスティングだが、あんよはじょうず。のアティテュードにあるように「好きな俳優と共演すること」が最も遵守されている事柄だろう。そして、これはぼくの推測に過ぎないけれど、彼女が想う「好きな俳優」の要素の一つには「音色」があると思われる。敢えて誤用してしまうが、文字通りに「音の色気」である。優れた声=音を持っている俳優、もしくは、求める声=音を発する余地がある俳優を、彼女が意識的にせよ無意識的にせよ、招集することに成功していることは、ぼくがあんよはじょうず。を信頼する一要因でもある。そして、そのたった一つの音を求めて、厳格なまでに調律が徹底された様は、公演を見れば明確なことだ。
 
演劇素人のぼくが個人的に演劇に求めるものは、作劇的な驚きやシェイクスピア級の悲劇でもなければ、アカデミー賞級の芝居の上手さでもない。ぼくは演劇を観るとき、いつも「音楽」を聴きたいと思う。そしてそれは、オペレッタやオペラのようなものでもなく、ましてやミュージカル的な意味合いでもなく、オーケストラのような、交響曲のような「音楽」を指している。つまり、互いに異なった楽器が揃い、指揮者のコンダクトによってひとつの楽曲を奏で上げる、その時間に感銘を受けるのだ。
 
演劇は尚更、声が重要なファクターになり得るだろう。もちろん、動作やアクションによって魅せる作劇もあるけれど、むしろそれは映画に近い。演劇が野球ならば映画はサッカーと言っていいくらいに、それぞれの芝居やルールも異なる。演劇は良い意味でも悪い意味でも「ことば」の表現であることからは逃れられない。しかしそれは同時に、「声」や「音」の表現に長けていることも意味するだろう。ぼくは映画よりも演劇の方が、「音楽」に近いと感じる。
 
本作はそういった面において、まず「音楽」としての強固さを評価したい。全出演者の「音」のバランス感覚は、そのテンポ感も含めて、あまりにも鮮やかに調律されていた。そこに不確かな音色は存在していない。キャストアンサンブルの見事さは、芝居で語る以前に「交わっても心地の良い音」が鳴っていたことの作用によるものだともいえる。
 
これは、8人の奏者による八重奏(オクテット)なのだ。そして、その中に自作自演の指揮者、高畑亜実氏がいる。「あなたにはこの音がきっと出せる」と目論む調律=演技指導は、流石は好きな俳優を集めているだけあって、それぞれの音色を熟知しているし、妥協がない。また、動きの所作の一つにしても、それが段取りになることはなく、アクションとして楽しいのも良い。たとえば、俳優の所作を訂正するとき、彼女はとっさに目の前で手本を見せて、その刹那、俳優の芝居は更に良くなっているのだ。まるでコレオグラファーのようだった。こうして、劇団員たった一人のひとりぼっちユニットは、正しい調律によってペルソナは形作られ、ひとつの集団として完成する。たった一曲を演奏し切るために、全員がその努力を惜しまなかったように見えた。
 
そして、これもぼくの独断と偏見になるけれど、本作は出演者の全俳優が、それはそれはべらぼうに芝居が上手かった作品であることを記録しておきたい。
よしんば、そんなの当たり前じゃないかと言われたとしても、そんな当たり前が稀少なことであることを、我々のような観客も俳優自身も、常に認識しておかないとならない。上記した通り、誰しもが上手いというのは思考停止だ。全然なっとらンじゃないか、と感じることなんて何度もある。しかしながら本作は、先に述べたように徹底した「調律」によって整った彼らの、芝居そのものの魅力が倍増しているように感じられた。各々のポテンシャル以上の幅の広さを見せ付けるかのように、抑制されながらも、それでいて軽やかに超越する瞬間があるという、俳優泣かせ&俳優冥利に尽きるようなアッパレ演技のオンパレード。久々に、特定の誰かではなく、出演者の全員が好きになってしまう演劇作品を観てしまった。
 
こうした演技巧者たちが発生させる特有の磁場は、それこそ作品のナラティヴそれ自体への強固な肉付けとなっている。ぼくにとっては、もはやこの肉の部分がとにかく美味かった。何度でも食べられる。めちゃ高カロリーなんだが。それでも食べられる。小屋入りして、スタッフとして、観客として7回ほど本作を観た。毎回美味かった。というより、食べれば食べるほど美味かった。あんなに高カロリーだったのに、食後の余韻は最高に爽やかで、まるで焼肉屋で会計後にもらうミントガムのような、そういう清々しささえあるのだ。
 
これは決して適切な称賛ではないし、そもそも配役数が成立しないのだけれど、書いておきたい。この座組で『ロッキー・ホラー・ショー』が出来る。絶対。そしてそれはめちゃ美味いと思う。何言ってんの?と思われるかもしれないが、ぼくにとっては、「このメンバー全員で『ロッキー・ホラー・ショー』が出来ますよ」というのは、最上級の絶賛である。
 
たとえば、ここで俳優の皆さんについて「可愛かった」「かっこ良かった」とインプレッションを羅列することが、ぼくにとっては相当恥ずかしいこと(出演者のことばかりダラダラと書き連ねるような、俳優最優先で劇評する観劇おじさんが得意ではないので)なのだけれど、やはりあまりにも全員素晴らしかったので書いてしまう。ラブレターではない、決して。これはそういった記録でもあるので。そして敬称略。と思ったけれど、失礼なきよう"さん"付けにて。
 
金子清文さんと久保井研さんの両者が同時に観られる作品ということで、まずは価値が付帯されているだろう。もちろん、この作品には容姿端麗・お美しい(美少年を演じる)女優陣がいらっしゃることも確かだが、大変恐縮ながら、ぼくにとってのキャバクラは完全にこっちだ。俺にとってのキャバクラ。そこでは両脇に金子さんと久保井さんがいるのだ。一体何本ボトル開けちゃうのかと心配になるくらいに、彼らの存在感が好きだ。そして、二人ともキュートだ。
 
金子さんは中野坂上デーモンズの憂鬱や映画・ドラマなどでも拝見していたし、久保井さんは去年の唐組でやっと拝見できた。一見、ぼくらの年代からすればオトナで先輩な彼らは、多少なりとも厳格なイメージが纏わりついていても不思議ではない。しかし、本作における両者は、年齢とは程遠いほどの愛らしさに満ちており、実は笑いどころはほとんど彼らによって起きていた。端的に、二人ともお茶目さがある。それは、実人物がそうだからという楽屋オチではなく、キヨフミとケンイチというキャラクター自体がそうだったのだ。
金子さんは女優とのアンサンブルが特に良かった。出版社の受付嬢とのやり取りなんか特に良い。これは相性の良さというよりも、色気とお茶目さが多少なりとも母性本能をくすぐるようでいて、しかし確かなダンディズムが根底にあることによる異化効果に近いものだった。キヨフミを狂気の人として描くのでなく、狂気を演じる人、を演じるという姿勢も、キャラクターへの視線として正しかった。留置場でのコータローとのやり取りも、ここでは敢えて道化に徹するが、過去の因縁を知る者には緊張感が与えられる構造になっており、多層的なレイヤーを味わえるシークエンスになっていたと思う。それもひとえに「マックを食らうジョバンニ」と発声しても似合ってしまう金子さんの芝居の力であるし、そこでデュエットする西川康太郎さんのリズム感と「調律」していることが完成度を高めている。『銀河鉄道の夜』のカムパネルラとジョバンニの関係性を彷彿とさせるのも、説明台詞に頼らずにサッと洒落で済ませる辺りがスマートで仕方がない。クライマックス、絶叫する金子さんに合わせて映像を操作した。あの時のキヨフミは、物語それ自体、あるいはさらにその上にいる存在に叫んでみせるが、毎公演ぼくと視線がほとんど合うので、まるで物語を操作する者とそれに抗うキャラクターのような図になっていた。結果、いつもキヨフミが勝っていたと思う。
 
久保井さんは様々にイジられ尽くし、ついには亀甲縛りまでされる始末だが、そのすべてが相応しいほどに似合ってしまう辺り、流石は唐組である。そんなにケンイチをいじめないでおくれよと思いつつ、それを期待してしまっているし、だからこそあのクライマックスでの彼の行動には胸が締め付けられる。あの瞬間、あの時のたったひとりのために、彼の旅路はあった。ラストの彼の背中が、それこそ『スタンド・バイ・ミー』ばりに泣かせる。あれは、若い俳優には絶対にできない種類の芝居だ。背中で語るという行為を容易く魅せる。そして「飽きられたいんだ」という言葉は、もしかすると「飽きてしまいたいんだ」と同義なのかもしれない。時計の針が止まってしまった者は、その針をどうにかして動かそうと、願いを物語り続けるしかないのだろうか。何かを物語ることは昇華ではなく、反対に永遠の呪縛なのかもしれない。亀甲縛りのまま後退りするケンイチは、こうして文字で書くとギャグのように感じられるかもしれないが、実際に観ている時には、久保井さんの芝居の説得力によって、誰も違和感を感じない。ただ、観客は「知らないよ」と後退りする彼に即座に移入するだけで、誰も紐のことなど見ていないのだ。こうしたスムースな状況転換は、作劇的な技術というよりも俳優の表情やアクションによる効果の方が大きいと感じられた。
ファミリーマートでの「ハリボテが落ち着くね。空っぽなんだもの」はハリボテと"空っぽ"の"カラ"も相まって、唐組・久保井さんへのアテ書きなのかしら、と推理したりもした。
 
西川康太郎さんは、長髪・火傷・ハイヒールにコルセットが似合ってしまうヴィジュアルの美しさもさることながら、動いている所作の中で僅かに哀しみが垣間見られる芝居が素晴らしかった。表情も、顔の半分をメイクで隠されていようとも十二分に豊かで、我々の視線を奪う。特筆すべきはやはり、ラストで彼が見せる表情の見事さなのだけれど、ここでは敢えて独唱シーンについて記しておく。突然のウルトラミュージカルシーンに突入するわけだが、道化に徹する際にも哀しみは帯びていて、だからこそ最後の台詞「そっか、おじさんはぼくだ」が響く。
ぼくは康太郎さんとほとんど私語を交わしていないが、実は映像スタッフとして、最もタイミングを合わせる回数が多かったのがコータローだった。特に打ち合わせることもせずに、コータローの動きや台詞に合わせて、独唱の歌詞を手動で映写していく。歌詞の量も多くテンポも速い中で難儀に思えたが、そんなことは杞憂だった。舞台上の康太郎さんと、回を重ねるごとにシンクロしていった。康太郎さんの動きの一つ一つや発声に集中した。それは、全くおこがましいけれど、まるで同じ舞台の上に立ってデュエットしているかのような錯覚さえあったのだ。だからぼくは、西川康太郎さんと「共演」したのだ。楽しかった。
 
テツロウ役の奥泉さんも素晴らしい俳優だ。本作があんよはじょうず。2回目の芝居というだけあって、調律の度合いが半端ない。それは発声に留まらず、まるで軟体動物かのようにクネクネと動き回る動きのそれぞれが、しっかりと毎公演同じだったのには驚いた。ほとんどエチュード的に処理してしまってもいいような動きの数々を、正確に再現し続ける彼の才能にうっとりした。言ってしまえば、それは「踊り」や「舞踊」のようだった。彼の動きが最もコレオグラフィーのそれと近くて、身体そのものをただ眺めているだけで楽しい感覚があった。肉体が台詞よりも雄弁に物語るキャラクター性があり、彼のような才能が脇に回るのは、作品全体にとってかなりの補強性がある。めちゃめちゃ必要な人材だ。ぼくも欲しい。
また、言うまでもなく美男子でいらっしゃる奥泉さんだが、実は劇中メイクが最も似合っていたんじゃないかと感じている。ああいう顔に弱い。画になる顔に弱い。眉でちゃんと表情の芝居をしていたのも可愛らしかった/凛々しかった。
 
中村ナツ子さんとは唯一知己がある。と言っても、ぼくが彼女から「ハリポタの感想ブログめちゃ良かったです!」と褒められて浮かれていたくらいなのだが、所謂アングラの磁場でのナツ子さんを観るのは初めてだった。再三、ぼくは劇団「地蔵中毒」の『つちふまず返却観音』における、違法駐輪を許さない女が大好きで、あのナツ子さんの「火事!カジカジ!」の絶叫には腹を抱えて笑ったものだ。本作でも、彼女は絶叫を完遂しているのだけれど、やはりこの方も音の魔術師だと感じる。たとえば、これは劇評家だろうが観劇おじさんだろうが絶対に指摘しない事柄だと断言できるが、ケンイチが秘密道具がある扉を発見した際に発する「なにこれ」は、ニコニコ動画で有名な『つくってワクワク』のMAD『空気を読まないゴロリ』https://www.youtube.com/watch?v=a6kH79FHxr0内における、ゴロリの発する「なにこれ」とほとんどイントネーションが同じである。だから何だという話だが、えっ、もしかして、とあらゆる発見が許されているのが観客の特権ではないか。単なる「なにこれ」を、あの抑揚による「なにこれ」と発しているだけで、ああ分かっているなあと、ぼくなんかは感心してしまうのだ。
お姫様のような衣装に身を包んだ彼女の発声もまた、あまりにもお手の物で、あの場での奥泉さん演じるホストとのやり取りはスピンオフを希望したい。そうそう、ナツ子さんは道化に徹しても面白いんだよなと、流石は『道化師のソネット』を日頃から聴いてるだけあるよなと、深く悟る。ウルフカットのような髪型にも、最も少年らしさを感じられた。
 
亀田梨紗さんの芝居の特性は、これがあんよはじょうず。初出演とは信じられないほどの調律の正確さで、演出家の求める音色を自在に現出できていたように見えた。それこそ、少年らしい抑揚やアクセントも相まって、どこかあどけないイノセントすら感じる。しかし、時折見せる「生まれたばかりの狂気」の雰囲気も漂っており、そういった意味で最も多層的なキャラクターなのかもしれない。長台詞での独白においても、音量のコントロールが抜群に上手く、「音楽」として聴き惚れる。それは受付嬢を演じている時も同様で、「銃!」と叫んだ次に発する「ありがとうございます」まで、ノンストレスで「音」を連結させてしまうのが素晴らしい。大声で「じょや?」や「ぼんのう?」と騒ぎ立てるのもストレスが無いし、加えて小声でぽつりとつぶやくのも大変に美しかった。奥泉さんと同様に、彼女もクネクネと身体が柔らかい女優でいらっしゃり、やはり動いているだけで楽しい。
余談だが、ぼくは入江悠監督Presents「僕らのモテるための映画聖典」というポッドキャストを愛聴していた。通称「僕モテ」。そのパーソナリティーの中に、亀田梨紗さんもいた。大変失礼ながら、ぼくは亀田梨紗さんのことを「かめりささん」と認識しており、小屋入りするまであの「かめりささん」が「亀田梨紗さん」だと気付かずにスタッフをしていた……。申し訳ございません。ついでに言うと、友人で「かめりささん」と知り合いがおり、その際も「かめりささん」と紹介されて、ぼくの中では「かめりささん」は「かめりささん」だったのだ……。失敬極まりない。でも本音は、リスナーとしてめちゃめちゃ嬉しかった。亀田梨紗さん、いや、かめりささんとは、次は是非とも映画談義を交わしたい。
 
千歳まちさんの独白・長台詞は圧巻だった。椅子(というより玉座)に座り、我々を敢えて見下してみせる様には、本当にこの人は神様なんじゃないか?という神秘性すら感じられた。すなわち、神様とかいうものが実際にいるならば、千歳さんのような姿でいらっしゃればいいだろう。あんなお美しい方に罵詈雑言を言わせて、終いには「ばーか」とあっかんべーのダブルパンチ。高畑さんのフェティッシュを存分に感じる。スラリと伸びた手足をダイナミックに動かす動作も多く、それはまず、キャラクター性以前に、俳優の肉体性によって「圧倒」されるのだ。そして、こんなにも「圧倒」することが似合ってしまうのも素晴らしいキャスティング。大きく開かれた瞳も、もはや瞳孔開いているんじゃないかと不安になるほど力強かった。また、闇を帯びていることが幾度となく示唆され、それはやはり彼女の表情の豊かさによるものだと思われる。否、表情が強固だ。顔面の上が「戦場」と化しており、そこでは火花が散っているのが分かる。その最中、誰しもが彼女の「表情」に敵わない。千歳さんの「強さ」とはそういった種類のものだった。
ぼくは彼女が発する「テツロウくん、ほっときなよ」の「音」がとても心地良かった。うわあーいい音、と思った。吸い込まれるような誘引性を持ったあの声に、表情の強さも比例して、ほとんど最強に感じる。とは言え、誰よりも強い人は、実は誰よりも繊細だったりもする。ただ圧倒を達成するだけではなく、コータローの最も繊細な部分も芝居に表れており、それは西川康太郎さんのコータローにも引き継がれているだろう。
 
高畑亜実さんは、言わずもがなあんよはじょうず。の主宰であり作・演であるが、彼女はまず、俳優として最上級に優れていることを書き残しておく。ウマすぎ。素晴らしかった。優れた俳優である彼女が創作した舞台が、優れた芝居で埋め尽くされているのは、実は当たり前なことかもしれない。しかし、その地点まで到達すべく行われた「調律」の手腕は、もちろん並走した俳優陣も見事ながら、やはり高畑さんのアンファンテリブルな才能と努力の結果だろう。文字通りオーケストラの指揮者のように演者たちを統制していく様は、僅かながらも、まるで自らを律しているかのようにも見えた。すなわち、音を正す者が音を乱すわけにはいかないという意志だ。その意志の貫き様は、実際に彼女の演技を観た者には明確なことだろう。演者に対しても、観客に対しても、説得力がまず違う。音と同様に、やはり所作が美しい。
たとえば、長台詞後の「僕も捨てられたってことだね」の「ね」で、僅かに、ごく僅かに首がリズムを合わせるかのように動く様は、自然でありながらも一連の運動の連なりを途切れさせない技だ。そういった無意識の小さな運動にこそ、そのキャラクターの全てが垣間見られる。その瞬間を目の前で観て”おそれること”が、芝居を観る醍醐味だと感じる。彼女は退場時の歩行ひとつにしても、姿勢や歩幅や速度、その全てが美しい。そういう当然が、当然のメソッドとして機能していることの清々しさは、あんよはじょうず。の魅力の一つでもあるし、それをまずは高畑さんが完璧にこなしているのが良い。
「タバコに混ぜた・僕の身体の小ささだときっと・天国に行けちゃうだろうモノに火を点けようと」という表現も、詩的で印象に残っている。劇作家が俳優をやっているのではない。決して。ここにおいては、演じることに没頭した純粋なひとりの俳優が、その場を設けるためのことばの集約と、きっと大嫌いな天国よりも優雅な地獄を共にするための仲間たちの招集によって、ひとりの俳優として果てしなく煌めいていただけのことだ。
 
そして、全出演者の衣装やメイクの美しさにも感銘を受けた、と書き添えておく。それこそ、そのまま『ロッキー・ホラー・ショー』が出来てしまうクオリティ。
 
照明や音響、美術にしても、このハイクオリティを常備しているのは、良い意味で常軌を逸している。つまるところ、旗揚げ3年目・本公演3回目(番外公演も含めると4回目)で、このバジェットと高品質を披露できていることの凄まじさだ。つぶさに考えて、この高品質な演劇は過小評価されている、と言ってしまっていい。もはや、もっと「上」に君臨していいし、あるいは君臨するだろう。「上」とは何かよく分かってはいないが。間違いなく、今後も界隈をさらに騒がせるだろうし、界隈を超えて、その旋律/戦慄が世に成り響くだろう。
 
バジェットや演出の出し惜しみしないこだわりも、いささか信じ難いレベルで及第点以上の120点を叩き出している。そこに加えて、高い技能を備えたキャスティングもある。これらあらゆる面における「演出」の水準の高さには、ほとんど文句の付け所がない。しいて言えば、「アングラ」という語が発する不可解性に、アレルギー反応を起こしてしまう者が「観客」に成り損ねる可能性は否めないが、それではあまりに勿体ない。年中神経症で欺瞞に満ちた猿たちよ、ぼくもその猿のひとりだったが、あっけなくアレルギーは完治したよ。
 
劇中で絵本がマクガフィンの機能を持つように、演劇それ自体が「絵本」のようなものだ。もしくは、絵巻物と言ってしまってもいいかもしれない。しっかりと一枚の「絵/画」として構築されている場面が多かったのも頷けるし、所謂「作劇」それ自体からの脱構築も、演劇をより純朴な状態に回帰させることに成功していた。それは小説でもないし、音楽でも映画でもない。ことばと動きと時間の総合芸術が放つ、自由自在で変幻自在な雄弁性と特異性は、ページをめくるたびに開かれる絵本の世界のように、実はシンプルでイノセントで、尊いものなのだ。
登場人物たちは、未清算の過去に翻弄されながらも、「物語」や「演劇」の中では「なんだってできる」「すべてがゆるされている」というアティテュードを懸命に実行していく。そこでは、決められた軌道を次々と破壊し、定められた運命を自らの手で変貌させていく「物語」へのアゲインストが描かれる。
同時に、間違いなく誰かに書かれたキャラクターたちが、誰によっても操られていないと度々表明し行動していく様は、「物語」へのアンチテーゼであり、作者の不在をも意味する。絵本のページは、どこからだって開いていい。気に入らないページは、破り捨てたっていい。そして、自分で絵本を書き換えてしまっても、それらはすべてゆるされているのだ。
そういったナラティヴの中で、決定論は否定され、普遍的な自由意志で絶命した「物語」は、我々の目の前であまりにも美しく、燃え上がった。地獄は、変えられる。

まさかの『Air / まごころを、君に』のラストをレファレンスしたような終幕は、コータローの哀愁漂う表情も相まって、揺るぎない美しい余韻を残す。「物語」が「物語」として完結し、そして絶命する時の、微かな静寂。以降の幸福の笑み。それが地獄の光景とは思わない。笑い合っていた二人は幸せそうだった。
 
本作はカーテンコールまで魅せる。ぼくはカーテンコール反対派(キャラクターが俳優に戻る瞬間があったり、半強制的に拍手を求める意図が昔から乗れない)なのだけれど、思わずスタッフ・ブースから拍手を送った。
音楽に合わせて行われるそれは、それこそ指揮され、調律され、統制された動きの連なりでしかなく、俳優陣が舞台上から消失するまで、完全にコントロールされていた。こういった、ある意味ミュージカル的な「全員の動きが一致され統一化されている」状態に、フェティッシュなのか滅法弱い。そして嬉しくなる。
ほとんどの公演で、終演後なおよそ1分間も拍手が絶えない時間があった。スタッフだから嬉しいのではない。灯された火が、めらめらと燃えている様子が「観客」の目から見えたのが嬉しかった。
 
一般的に考えてしまえば、これこそが「燃え尽きた」と言ってしまって良いほどの尽力具合である。しかしながら、それが恐らく杞憂に終わるほどに、彼らにはまだ燃料が残っている。こんなにも燃えてみせて、まだまだ燃えそうな予感しかないのだ。そういったパワフルさは、演劇本来の本質のようで、きっと彼らが次の舞台を目指してくれることへの期待しかない。我々「観客」はその炎の中に、ますますガソリンを投入し続けなくてはならない。いや、それとも共に燃えてしまおうか。そんな信頼が湧くくらいには、ぼくはこの演劇が好きだった。燃え尽きた炎の記録の結びに、「もう次の炎が見えるよ」と記しておく。闇を照らす炎の美しさは、闇の中でそれを観た者にしか味わえない。
 
劇中、懐中電灯を使った大変印象的な光のダンスがあった。素晴らしいアイデアだと思うと同時に、ああいったアクションそれ自体に、高畑亜実さんのナラティブは現出していると思う。次なる闇への期待を込めて、わたしとあなたで笑い合いながら闇へと向かいましょう。手には懐中電灯を。そして、もう片方の手であなたの手を握って。わたしたちは、闇を照らすために、闇へと導かれるのです。
 
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2021年映画ベストテン&ワースト3

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毎年恒例のベストテン&ワースト3の発表だよ!年越しちゃったけど、やるよ!
 
今年も、もし観ていたらベスト入りしていただろう諸作品を観ておりません。『アメリカン・ユートピア』も『ビーチバム』も『ライトハウス』も『パワー・オブ・ザ・ドッグ』観ていないザコの凡庸なランキングです。ご了承くださいませ。
 
今年は自分の好きな監督たちのエポックな新作が多い年でした。シャマランやエドガー・ライトも、それなりに作家として機能していましたが、ジェームズ・ワン&ガンには到底及びません。結局のところ、全員がホラーというジャンル映画の枠組みの中で、如何にして手数を披露できるか尽力し、その想いがピュアであるほど完成度が摩擦されていたと思います。
 
今年のベスト10は、はっきり言ってしまえば「シンエヴァよりも好きと思える映画があるのか」ということが基準になっていると思います。シンエヴァを観た時は、それはそれは、もう今年はこれ以上に面白い映画は無いだろうとたかをくくったわけです。観終わってからというもの、満足感と虚脱感で神経が疲弊して、何を見てもエヴァを思い出してしまうというパラノイアに陥り、自分で自分を責めました。

ところが、結局年末になってみれば、そんなシンエヴァよりも好きと思える作品が4本もあったわけです。こういった現象は、個人的ではあるにせよ、毎年なるべく多くの映画を観ようとする理由ですし、同時に、ベスト10を作ることの豊かさだと思います。
また、ベストの10本に共通するテーマは「新しいことをやっている」かもしれません。
 
【ベスト10】

f:id:IllmaticXanadu:20211226144522j:plain10位『パーム・スプリングス』(2020年/マックス・バーバコウ)

『恋はデジャ・ヴ』の現代的なアップデートであり、ロマンティックコメディの秀作。タイムリープが繰り返されることによる「虚無」へ打ち勝つための喜怒哀楽とアツい努力が描かれていて、ちゃんと新しいし清々しい。

タイムリープから脱出するために行われる、"タイムリープ機能を利用した実践的脱出方法"にはサムズアップ。低予算のインディーズ映画ですが、アイディアと俳優の力でぐいぐい引っ張る見事な出来です。

途中に挿入される「恐竜を幻視する」シーンは、フィクションやナラティヴの力強さを補強する素晴らしいシーンでした。


f:id:IllmaticXanadu:20211226144015j:plain9位『マトリックス レザレクションズ』(2021/ラナ・ウォシャウスキー)

1作目を当時劇場で初めて観た観客の感情を再現したような、あの前半のメタ構造による不安感と高揚感が素晴らしい。そして、ラナ・ウォシャウスキーという作家のアイデンティティーに寄り添う「女性の映画」になっていたことに胸を打たれました。かつて、望まない性別である自分が撮った映画を、よりその本質に接近する形で解体して、生まれ変わった今の自分がアップデートする、というのは、端的に言って映画史上でも他に類を見ず、興味深く評価することも出来るはずです。

トリニティーが旦那に愛想笑いをしてしまったというエピソードには胸を締め付けられました。一体我々は、自分を嘲笑う者たちと共に、どれだけ自分自身を笑ってしまったことでしょう。こういった印象深い挿話を、バランス良く配置できるラナ・ウォシャウスキーはやはり流石です。
ネオの、攻撃ではなく防御に徹したアクションも、アクションそれ自体によってテーマを物語っており素晴らしいと思いました。アクションがバカカッコいい映画から、引き画の美しさを追求したフィルムになっていたのは、そういった意味で予想を超えましたし、今、作られる意義を感じました。
大事な余談ですが、「トリニティーを破壊しろ!」と命令されたイカロボットちゃんたちが、全速力でトリニティーの元へ駆け付けるのですが、「あれ?! いない!?」と慌てふためいてキョロキョロするシーンが、本当に可愛くて、ほっこりしました。

f:id:IllmaticXanadu:20220101171825j:plain8位『彼女が好きなものは』(2021/草野翔吾)

『顔だけ先生』というドラマがありまして、普段テレビドラマは好んで見ないのですが、コレはノンストレスで見れてとても良かったです。そのドラマの主演の先生が本作の主人公・神尾楓珠さんなのですが、まあ顔が本当にいいんです。ウルトラ美少年というだけじゃなくて、映画に愛されてる画になる顔なんです。こういう俳優をスクリーンでもっと観たい。ヒロインの山田杏奈さんも素晴らしく、彼女のスピーチシーンにはぐっときました。
実はあまり前情報が無い方が楽しめる作品になっていて、要は「ある議題の結論を導くためのディスカッション」が行われるのですが、観終わった未だに、宙吊りにされている余韻があります。これもアイデンティティーに関するひとつの「哲学」を示した作品なので、『マトリックス レザレクションズ』や『フリー・ガイ』と、実はそう遠くない思想が描かれている傑作だと思います。なんとなく見逃されてそうなので、是非とも。
 

f:id:IllmaticXanadu:20211226144841j:plain7位『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(2021/ジョン・ワッツ)

試写会で拝見しました。このようにして、日本公開前の新作をランクインさせることは、他の誰かがやったら「マウント取るなよ」と思うのですが、極私的なアソビですから許してください。
『ノー・ウェイ・ホーム』は、今年一番の「最大瞬間風速」を叩き出した作品です。正直、ぼくにとってはそれ以上でも以下でもありません。ただ、映画を観ていてこんなに何回も脊髄反射的に泣かされたのは、今年はコレが一番でした。
もしかすると、『フォースの覚醒』や『ローグワン』に近い感覚なのかもしれませんし、キャラクターを「作り手の勝手な意志によって」再び物語に呼び戻す、ということへの違和感は強い方なのですが、コレは参りました。お見事。
加えて、ジョン・ワッツ監督は交通整理力があり、本当に上手い作家だと思います。ドクターストレンジが絡むので、騙し絵的トリップ映像がわんさか出てくるのも、個人的にはイェーイ!でした。
 

f:id:IllmaticXanadu:20220101173412j:plain6位『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(2021/吉川知宏)

今年一番驚き、笑い、開いた口が閉まらないアヴァンギャルドな傑作でした。正直、初めて観た時は今年ベストワン!と思ったのですが、一緒に観た友人がその後19回も観ていて(19回目も一緒に観ました)、なんかぼくなんかが1位と言ってしまっていいのかしら……なんて考えていたらこの順位です。
正直、シンエヴァよりも「面白い」と思います。とにかく、シンエヴァの「ゴルゴダオブジェクト」のシークエンスは短いけれど、スタァライトは尺の半分以上でゴルゴダオブジェクトを披露してみせるという、ちょっと常識的には考えられない新しさがあります。
ぼくは『マルホランド・ドライブ』や『TAKESHI'S』や『風立ちぬ』や『8 1/2』などの、心理描写や主観を客観として具現化して描いてみせる映画が大好きなのですが、スタァライトの面白さもそういった種類のものです。だから実は『Air/まごころを、君に』に大変近く、尚且つ、こちらは鬱バージョンではなく躁バージョンで、どっちが優れてるとかではなく、どっちも好きです。
そして、「劇場」で「観客」として「鑑賞」することがこれほど重要な作品は珍しく、それはつまり「我々が彼女たちの葛藤する姿を欲求している空間」として劇場とスクリーンが繋がる構造だからです。俺らがいるから、彼女たちは舞台に立たざるを得なくなるという。恐怖映画じゃん。ドキッとするメタをすんなりやります。ディズニーのアトラクションみたい。
おっかなびっくりするくらい状況説明が無いのですが、それこそが観客の能動性を仰いでいて素晴らしいです。TVシリーズを観る必要ありません。まずはこの一度きりの驚きを体験していただけると嬉しく思います。

f:id:IllmaticXanadu:20211226144448j:plain5位『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』(2021/庵野秀明)

シンエヴァは映画作品というよりも「未精算の過去の精算」として、ありがとうございました映画です。「ありがとうございました度」は、個人的にはスタァライトよりも高かったので5位です。ようやくシンジとゲンドウが殴り合って本当に良かった。上映形態を変えながら劇場で合計で5回観ましたし、アマプラに来てからも10回は観たくらいには好きです。しかし、それではエヴァという呪縛から自分は卒業出来ていないのではないか、とも自問自答してしまいます。でもアンタが作った上で終わらせなかったんじゃん、とも思う。いや、俺たちが庵野に終わらせなかったのか……とも思う。ともかく、我々にとっての時代の転換点的作品なのは間違い無いでしょう。『激突!轟天対大魔艦』が流れた時、面白すぎて泣いちゃいました(冬月先生が斜め直立しながら立ち塞がるのヤバすぎ)。アヴァンもかっこよくて素晴らしい。
また、作者のパーソナリティと作品がメタフォリカルに直結している点が『マトリックス・レザレクションズ』と酷似していると感じました。

f:id:IllmaticXanadu:20220101173621j:plain4位『フリー・ガイ』(2021/ショーン・レヴィ)

本作を『マトリックス レザレクションズ』よりも上に選んだことは、意思表明に近いです。つまり、『マトリックス』の新作が公開される前に、『フリー・ガイ』という傑作によって、『マトリックス』で問題提起されていた実存主義や自由意志の哲学がアップデートされていたことは、時代の転換点として興味深く、その優位性を評価するためにもこのような順位となりました。めっちゃ「哲学」なのに、すこぶる楽しい、というのは、やはり才能だと思います。
予告やポスターやシノプシスに漂う「出オチじゃん……またこういう映画か……」という予想を遥かに超える新しさと誠実さが詰まった映画で、素通りせずにキャッチして本当に良かった映画。やはり映画は観るまで分かりません。
また、『ゼイリブ』的な構造も含まれており、やっぱり自由意志や実存に接近していく映画は大好きだなぁと感じました。ジョディ・カマーは今年のベストアクトレスかもしれません。
 

f:id:IllmaticXanadu:20220101233604j:plain3位『最後の決闘裁判』(2021/リドリー・スコット)

『プロメテウス』以降、どうやら自分は完全にリドリー・スコットの虜で、絶大な迅雷を寄せてめちゃ早ペースで撮られていく新作を楽しみにし続けています。で、また来たホームラン。
研ぎ澄まされた映像美や美術は朝飯前で、『羅生門』形式をレファレンスとしながら、その『羅生門』にすら感じられた女性蔑視な側面を批評する形で、現代にこそ通じて"しまう"残酷極まりない悲劇に対して映画がアゲインストを鼓舞してみせる、そして果てしなくエンタテイメントでもある。映画を観ることの恐ろしさと快感が鮨詰め状態。ああ最高。
リドリー・スコット御大83歳にして、まだまだ名作創造主。「もはやデビュー作が『デュエリスト/決闘者』なんだし、この『LAST DUEL』が遺作となったらフィルモグラフィは相当かっけーんじゃないか……」などと不謹慎にも考えるも、本作を観に行くと上映前に『ハウス・オブ・グッチ』の予告が上映されるという。リドスコの新作を観に行くと、リドスコの新作の予告が流れている。さすが早撮り番長。この異常事態にも笑う。
所謂「フェミニズム映画」とジャンル分けしてしまうには、大変にレイヤーの多い多層的な作品でもあるため、個人的には普遍的なクラシックに成り得ていると感じます。
MeTooムーブメントで株を落としかけたベン・アフレックマット・デイモンによる共作脚本は彼らの懺悔のようでもあり、そこにニコール・ホロフセナーを加えたことによって、間違いなくスクリプトの格上げに成功しているのもサムズアップ!
個人的にはジョディ・カマーは『フリー・ガイ』も魅力的でしたし、オスカーにノミネートされてほしいと懇願するほどには素晴らしい芝居でした。彼女に起こる最低最悪な事件然り、彼女の周囲にいる義母や女友達すら敵と化していくあまりにもハードコアな展開に対して、彼女の屈しない強い意志が対抗を続ける。この場合の意思とは、宗教や社会が規定している正しさではなく、自分自身が正しいと思うものを信じ通すという自由意志のことです。たとえ脅されようとも、私は私の尊厳のために屈しない。それはすなわち、未来の女性たちのための"決闘"でもある。だからこそ、この映画のラストショットは、あの表情以外考えられない。
靴を脱いだショットと、靴が脱げたショット。たったそれだけの僅かな映像だけで、現実も真実も変容してしまう。作り手たちは"何をどう見せるか"、そしてわたしたちが"何を見るか"、そんな共同作業の果ての満足感を味わい尽くしてほしいです。
 

f:id:IllmaticXanadu:20211226145805j:plain2位『ザ・スーサイド・スクワッド』(2021/ジェームズ・ガン)

金の掛かったトロマ映画。超最高。こんな映画、もう二度と作られない。

優生思想に対するあまりにもきらきらと光り輝くアンチテーゼ&アゲインスト。この世に、無意味な人間なんていない、それはどんなクソッタレもだ!ちゃんと怪獣映画をやるところも、ウルトラマンをやるところも好き。ハーレイがバトる時にメリーポピンズよろしく鳥ちゃんが飛んできたり、ぶわーっと花びらが舞ったりするシーンも白眉。彼女は狂っているが故に、彼女の目からはああいった景色が見えているという美しさは、これまでのハーレイの実写化作品で、最も彼女のキャラクター性と映画的な美学を連結させることができている描写だった。そしてクライマックスでハーレイが見る景色、今までのどんな映画でも観たことがない優しい景色で、その美しさに感涙しました。

あとはポルカドットマン!アイツ最高!大好き!「俺はヒーローだ!」泣くわあんなの。『ダンボ』が好きなので。いや、あんなん最高だよ。デヴィッド・ダストマルチャンの実人生も知ってると、余計に泣けちゃうよ。最高かよ。なんかサイコーしか言ってないな、俺……。

ディズニーにクビ切られたジェームズ・ガンが大反省しながらも、笑うしかないレベルまでやりたい放題大暴れしていて、特にクライマックスはネズミー・ミッキーへの当て付けですよね。いいぞ、もっとやれ!!!

 

f:id:IllmaticXanadu:20211226150048j:plain1位『マリグナント 凶暴な悪夢』(2021/ジェームズ・ワン)

3位から上は、はっきり言って全部1位級に好きな作品です。だから、ぜんぶ1位です。『最後の決闘裁判』も『ザ・スーサイド・スクワッド』も『マリグナント』も、ああ、自分は「映画」を観ているな、こういう作品と出会うために映画館に来てるな、と、ニコニコ、ぽかぽかしました。
とは言え、やっぱり『マリグナント』よ。超絶最高大傑作。何もかもが素晴らしくてうっとりです。とにかく徹頭徹尾、展開が上手いのはもちろんのこと、ナラティブとして偉すぎるのです。
デ・パルマダリオ・アルジェントデヴィッド・リンチ黒沢清、マリオ・バーヴァ、ジョン・カーペンター、クローネンバーグ、スラッシャーにスピリチュアル系、ルチオ・フルチ感もあれば死霊のはらわたにリングに女囚映画まで!ありとあらゆるホラー映画のモザイクでありながら、そのパスティーシュに帰結せず、全く観たことのない新しい超面白ホラー映画を爆誕させたジェームズ・ワンてんてーの志しの高さに感服しました。
あるシーン、バレぬように曖昧に言うと「注射を打ったらカメラはこっち来て」的なシーンがあるのですが、その瞬間、スクリーンに映し出されたショットを観て「偉い!偉すぎる!わーそういう話なんだ!面白すぎる!」と泣きました。
特にデパルマのファンなので、あそことあそことあそことあそこも感涙しました。
狼の死刑宣告』においてスゴすぎ駐車場アクションシーンを撮ったジェームズ・ワンらしく、途中大アクションチェイスになったりするのも本当に偉かった。
カーテンが揺れてるのも偉かった。アルジェントの『サスペリア』だけじゃなく『オペラ座』もオマージュしてて偉かった。『死霊のはらわた』みたいに天井から部屋を撮ったのも偉かった。突然、女囚映画みたいになるのも偉かった。妹が姉のために頑張る映画として、アナ雪よりも俺は好きだった。
本件のトリガーとなる出来事が、男性の暴力であって、それがマリグナント(生命を授かること)とも密接に関わることが現代の映画としてもヤバイ。上手い……。
オマージュやクリシェを利用しながらも、予想外の展開で観客を誘引する本作。それがシネフィル的な知識披露ではなく、ホラー映画の面白そうな要素をシーンごとに幾多もブチ込み、しかしそれが空中分解していない、崩壊していない確かな演出力の強固さによってグイグイ面白さが増していく。夢のような映画だ……だいすきだ、さいこうだ……こういう映画と出逢うために映画館に行っているのだ……超面白いし、観た人と好きなところや怖かったところをたくさん話したいから、みんなも観てね!!おすすめです!!
ジャーロというジャンルの再現を試みる『マリグナント』と、『ラストナイト・イン・ソーホー』が同年に作られたというのは、同時代的な現象として大変興味深いことです。
中学生の頃、部活をサボってアルジェントやデ・パルマを観ていて本当に良かった。
 
【2021年映画ベスト10】

10位 パームスプリングス
9位 マトリックス レザレクションズ
8位 彼女が好きなものは
7位 スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム
6位 劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト
5位 シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇
4位 フリー・ガイ
3位 最後の決闘裁判
2位 ザ・スーサイド・スクワッド
1位 マリグナント 凶暴な悪夢
 
次点はこんな感じの5本⇨『花束みたいな恋をした』『クルエラ』『ファーザー』『モータル・コンバット』『偶然と想像』(2話目最高!エっロい!)


【ワースト3】

1位 JUNK HEAD

2位 えんとつ町のプペル(去年の映画ですが、今年の1本目として観ました)

3位 隔たる世界の2人

去年、『バイバイ、ヴァンプ』を観て以来、もうハズレと分かっているような凡作をわざわざ当たり屋的に観に行くのはやめにしようと決意しましたので、今年はワースト級に嫌悪感を抱く作品を、幸いなことにあまり観ておりません。
とか言いつつ、『えんとつ町のプペル』を年明け早々に観て、『海獣の子供』の制作会社ですから、「意外に良かったりするんじゃないのぉ?!」と割と期待もあったのですが、始まって早々に感情は打ち砕かれ、映画館という牢獄の中で、あまりの悲惨さにお金と時間の大切さを悟りました。
「あきらめるな!」とか「夢は素晴らしい!」とか「上を向いて歩こう!」とか「人を笑うな!」とか、そういった文言は道徳の教科書かブログに書いてもらえれば結構です。子供たちへの教育的な悪影響も感じられ、やはり俗悪と感じざるを得ません。
めちゃめちゃ泣いている観客もいらっしゃって、なんだか道徳的な同調圧力を感じる作風も、場内で俺以外が泣いている様子も含めて、去年の『アルプススタンドのはしの方』と同じ欺瞞を受け取りました。

3位の『隔たる世界の2人』はNetflixオリジナルの短編でアカデミー賞も短編部門で受賞した作品です。タイムリープとブラックライブズマターを掛け合わせたのは発明ですし、素晴らしい着眼点でした。しかし、発明ではあるけど発見はありません。ソーシャルメディアやニュース番組で見聞きしてきたメッセージ以上の「ことば」は無いのです。
だからこれでは映画を利用したプロパガンダになっちゃうし、最後の被害者たちの実名の羅列はあまりにも下品でした。欺瞞だと言いたいのではなく、あの演出には余韻を消し去る作用があって、観客を信頼してないのが良くありません。これぐらい言わないと分からないだろ、考えないだろ、食らわないだろ、という作り手の過剰な接待と言語感覚が、自ら感想を単一化していて本当によくないです。
映画はシュプレヒコールのためのプラカードでもスローガンでもないです。本来は、観客の心にそれぞれ"発見"させないとならないはずじゃないですか、そういう気持ちや考え方って。メッセージが先行している、メッセージのために作られた映画は、ぼくはあまり好きではありません。
 
1位の『JUNK HEAD』は大嫌いです。超つまらない。詳しくはブログに書きました。https://campanella-exodus.hatenadiary.com/entry/2021/04/02/
7年間マスターベーションを続けた作家が、その果てに射精にも至らない、あまりにも退屈で陰鬱とした時間で、こんなものの世評がよろしいということは、日本でSFが普及しないこと、そしてプイプイモルカーを喪失した人々によるストップモーションアニメ・クライシスの補完は、あっさり簡単なんだなあと真顔で感じます。
独創性に欠ける、とまでは言わないが、端的に言って音が全くダメで、音が一音も楽しくない。音よりも画面に精神が注がれるのは、自主映画が最も陥りやすい罠です。劇場でこんな音流すなよ。『スター・ウォーズ原理主義ではありませんが、SFの音ってセンスオブワンダーなんだよ、どれだけ重要か知ってるか。
粘土遊びも大概にしてください。そして、「もう粘土で遊ぶのやめろよ」と肩をポンと叩く、優秀なプロデューサーと出逢えることを切に祈ります。
 
【楽しかったけど、それはどーなんだ?とも思うけど、ベストでもワーストでもないモヤモヤ映画大賞】
 
『ラストナイト・イン・ソーホー』(2021/エドガー・ライト)
 

f:id:IllmaticXanadu:20220101173955j:plainちなみに、ワーストとは言いませんけれど、『ラストナイト・イン・ソーホー』の出来には未だにモヤモヤしています。前半は超面白い。上京映画として、大学進学時の痛みや苦しさ、それでも明るい未来を目指す高揚感に、田舎から上京した者ですから大変共感を覚えました。

結局のところ、この映画の魅力はサンディなのですが、この映画を錯綜させたのもサンディだと思います。そうであるならば、エドガー・ライトは、シスターフッド、あるいはニアイコール・シスターフッドを撮る必要なんて無かったし、やっぱりブロマンスの手癖を自ら否定出来ていない辺り、覚悟が足りません。どんでん返し以降の結末も、フィクションで何でも救えると思うなよ、なんならフィクションでお前ら救われたと思うなよ、というナラティブへの抵抗をやってのけていて、これはこれでぼくは好きなのですが、でも結局エドガー・ライトは「フィクションは素晴らしくて崇高なものだ」という信仰から離脱できていません。離脱できていないのに、信じ切っていないことを同時代的な新しいクリシェとしてやろうとしているのが、お前さん、分かっておらんなあと感じた次第です。
アニャさんもトーマシン・マッケンジーも魅力的ですが、それは彼女たちの存在自体が元々魅力的なだけであって、全く彼女たちを美しく撮ろうとしていません。セットに灯されるマリオ・バーヴァな照明は素晴らしかったですが、彼女たちに当てられる照明は全然なってない。
エドガー・ライトによる演出が全然感じられず、ただただ抑制されていない女優たちが、「意外性」のためにおっかなびっくりする「装置」として「配置」されているだけの作品……やっぱりエドガー・ライトは男の映画しか撮れないのだろうか……。
と、長々と想いを馳せれるくらいには、やっぱり面白くも観たし、ワーストとは言い難いです。
 
それでは、長文失礼致しました。皆様、今年も映画を観まくろう!!!

怪奇!イルカ人間恋愛奮闘記。というより、トンデモ映画としての『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』(1988/リュック・ベッソン)

ドン引き海物語。知ってはいるけれど実は観てない映画というのは幾多もあり、『グラン・ブルー』もその一本だった。作品の内容を、恐らくは雰囲気重視のラブストーリーだと予想していて「男は恋をした、イルカのような女に。女は恋をした、イルカのような男に」みたいな俺キャッチコピーを勝手に夢想していた。イルカちゃんは観たいけれど、人間の恋物語はどうでもいいや……なんて思っていた。ところが、いざ観てみると全くそんな生優しい映画ではなかった。ラブストーリーですらないかもしれない。端的に言ってこれはエゴの物語だし、より深層を追求すれば「すこしふしぎ」という意味でSF映画かもしれない。

主人公のジャックがまずやばくて、結論、コイツは人間じゃなくて"イルカ"なのだ。水中に潜ることしか出来ない男は、ご丁寧に「心臓が人間というよりイルカみたいな動きをする」という説明があり、だから人間の女と恋ができない。恋には落ちるのだけれど、家庭は持てない。人間じゃないから。彼が目指すのは彼女との地上での幸福ではなく、ひたすら海の底でしかない。陸上の方が息苦しく、水中の方が心地よい。そんな彼は最終的に、彼女も胎児も置き去りに、まるで黄泉の国のような深海で"イルカ"と共にGONEしてしまう……ので、これを一般的なラブストーリーとして鑑賞していること自体が相応しくなかった。逆人魚姫みたいな寓話だったし、結局は人魚姫は人間になれませんでした、帰省、みたいな悲劇でもある。しかし、悲劇と感じるのもまた我々のエゴであって、または残された恋人のエゴなのかもしれなく、主人公視点で見れば、この物語は完全にハッピーエンドになっているところもやばい。

リュック・ベッソンという作家がやばいのは、とにかくひたすらに何もかも(ストーリーも演出も台詞も)が"ダサい"ことだ。しかもそのダサさは、まるで自信過剰な中学生が考えたベストアイディアのような寒気を帯びている。そのダサさが臨界点を突破して爆裂した傑作が『フィフス・エレメント』であるし、キャラクターの魅力に救われながら作劇が奇跡的に成功したのが『レオン』だと思う。そして、ベッソンの映画はひたすらにダサいけれど、それが彼の良さであり、嫌いになれない魅力だと感じる。
たとえば、自由帳に書き散らしたアイディアを、己のアティテュードを徹底して具現化してみせる様を見て、クリストファー・ノーランとの類似を感じる。ノーランも、厨二アイディアをそれなりの高品質でパッケージする作家性があるけれど、その欲求自体は無邪気で、荒唐無稽な可愛さがある。『テネット』で見せた「俺だって007がやりたい!」という二次創作的な欲望はベッソンにも通じるし、『インターステラー』でアン・ハサウェイが「愛は時空を超えるのよ」と言い出した時は、『フィフス・エレメント』を想起した。
二人の作家の作品がダサければダサいほど、自分は好きになる。かっこつければつけるほど、かっこ悪くて愛おしくなる。

『グラン・ブルー』に通底するのは、ベッソンの映画への想いに他ならず、彼は自分のことを"人間"ではく"映画作家"だと本気で信じていると思う。本気、なのがダサくていい。女も子供も放置して、映画を撮りに行ってしまう。映画を撮ってる時が幸福で、当たり前の日常が息苦しくて仕方ない。そんな彼が自身を重ね合わせた存在が、実在の天才ダイバーであるジャック・マイヨールだ。ベッソンの両親はスキューバダイビングのインストラクターで、彼もまた幼い頃はダイバーとして生きていた。だから『グラン・ブルー』は、虚構の自伝、でもある。

ベッソンは『ニキータ』のアンヌ・パリロー、『フィフス・エレメント』でオペラを歌ったディーバ役マイウェン・ル・ベスコ、そしてミラジョボといった、出演女優との結婚と離婚を繰り返してきた。一緒に映画を作り上げた女性と恋に落ちてしまう、けれども長続きしない彼は、まるで主人公ジャックのようだ。しかし、ベッソンは反省どころか、俺はそういう人間だ、とビッグダディよろしく宣言する。彼が女性たちから投げ掛けられたい言葉は、「行ってらっしゃい、わたしの愛を見つけてきて」なのだ。この言葉は、実は「あなたの身勝手な部分を許すわ」というニュアンスが内包されている。

ラスト、行かないでと嘆く恋人ジョアンナの手を握るジャック。しかしその行為は、彼女の想いに共鳴を示すものではなく、ダイビングのためのよく分からん機械を彼女に握らせるためのものだった。子供のことを知らせても微妙リアクション。ごめんとも言わない。立ち止まりもしない。既に水面に身体を浸したジャックと船の上のジョアンナは分断されている。そしてジョアンナは「わたしの愛を見つけてきて」と言う、というより、彼女に"言わせる"のだ。このジャックのエゴとも取れる行動は、ベッソンの恋愛観・表現への飽くなき追求を強烈に露呈したものかもしれない。パートナーの隣にいるよりも、彼は"海底にいるはずのないイルカ"へと逢いに行くことを選ぶのだ。自分勝手も甚だしい。でも、それが映画監督なんだ。そして俺は、その"映画監督"なんだ。とでも言うかのように。

しかし、『グラン・ブルー』にはもう一つの重要な側面がある。

自らを慰めるかのようなフィルムの最後には「娘のジュリエットに捧げる」と出る。映画の撮影中に生まれたジュリエットは、アンヌ・パリローとの間の子供だ。ジュリエットは、生後間もなく心臓に障害があることが分かり、以来6ヶ月間、手術を繰り返して生死の境目を彷徨っていた。ベッソンは撮影での相次ぐトラブルに対処しつつ、病と格闘する娘の無事を心から祈った。ベッソンにとって、『グラン・ブルー』とはジュリエットの命そのものでもあった。映画の完成と娘の生死。どちらも無事に完成/完治したという繋がりをスピリチュアル的に連結させることはしない。ただ、『グラン・ブルー』は単なる無邪気な映画少年のエゴの物語ではなく、新たなる命への「祈り」でもあるのだ。

エゴと祈り。父親と娘。映画と命。母親という海から上がった愛娘が、再び海に沈むことのないように、疑似的に父親が先に"海へと潜った"というのは暴論が過ぎるだろうか。"海底にいるはずのないイルカ"は、盟友エンゾや父親との邂逅かもしれないけれど、愛する娘の生命そのものだったのかもしれない。

偶発的とはいえ、ここまで作家のエゴと祈りが同時に存在していながら、ダサくて美しくて、寒気がしてあたたかい気持ちになる映画も珍しい。珍作です。

パスタをモリモリ食べるロザンナ・アークエットがひたすら可愛い。メガネっ子だった前半の方が萌えポイント高し。あとイルカちゃんたち最高🐬エリック・セラの音楽がイルカの声を模したサウンドで良い。悪夢シーンは『エルム街の悪夢』をパクって撮ってるぞ!