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20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

名もなき映画、名もなき美しさ—世界一長い『TIME AFTER TIME』に関する評論

Cinema

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映画の深みとは、あくまで画面にあると言えます。僕らが映画を観る理由は、その画面=感触に触れたいという衝動だと言っても良いのです。つまらない映画は、物語とかメッセージという抽象的なものばかりに重きを置きがちで、大変にうるさく感じてしまいます。つまるところ、言葉にして伝えられることを映像にされても退屈なだけであって、映画では、言葉にできない感情を表現していただかなくては意味がありません。そして、その言葉にできないこととは一体何なのかを、観客に能動的に考えさせなくてはならない。それが表現と呼ばれるものの存在価値だと思うのです。

さて、『TIME AFTER TIME』という映画を観ました。大学時代の後輩、清川昌希くんによる15分間の短編映画です。

『TIME AFTER TIME』の清川監督は、映画の物質的な感触を実に知り得ています。むしろ、知りすぎている。幾多にも及ぶ諸作品へのオマージュやパスティーシュ、インスパイアは、彼が如何に映画を研究しているかが手に取るように分かります。と同時に、それが知識のひけらかしという醜い行為では無く、単なる模倣に終結しているのでも無いのは、逸脱した映画への謙虚さ、もしくは情熱故なのかもしれません。その映画的な運動神経の良さは、決して知識から成るものではありません。如何に常日頃から映画の地肌に目と耳を凝らしているか、その証拠が本作には詰め込まれています。

よしんば、本作を鑑賞した、或いはまだ鑑賞していない人間の中で「モノクロと少ないセリフのアートぶったオシャレ自主映画っしょ(笑)」と苦笑する輩がいたとするならば、そのような人間に映画を観る目は必要ありません。目潰ししてやればいい。『TIME AFTER TIME』は静かでおとなしい映画なんかでは断じてありません。ちょっとどうかしているほどに激しい作品だと感じました。

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本作には運動が溢れています。それはタイトルが示す通り、幾度となくアクションは繰り返され、運動に次ぐ運動が映画それ自体をモーションさせていることに他なりません。

映画監督のジェルメーヌ・デュラックは、絵画の素材が色であり、音楽の素材が音であるならば、映画の素材は運動であると提唱しました。運動こそが、まず映画の純粋なあり方なのだと。しかし、この根源的な事実は、物語映画の普及によって次第に忘れられてしまいます。映画で重要なのはストーリーだ、運動はストーリーを説明する手段に過ぎないという思考は、決して現在も消え去っていません。どころか、特に映画にあまり触れていない若者の作品は、そんなことには無知で、鑑賞するたびにため息が尽きません。

しかし、清川監督の本作は違う。それは単に、彼が観てきたであろう映画には、それが当てはまらなかったのでしょう。例えば、フレッド・アステアが踊ったり、バスター・キートンが走れば、その運動自体が美しいことだと知っていたから。例えば、サム・ペキンパーが死にゆく人間をスローモーションで撮影したのは、その運動自体に美が宿っていたから。例えば、ロベール・ブレッソンが無造作なフレーミングによって顔ではなく手を映し続けると、手がバレエしているように美しく見えたから。例えば、カール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』では、クローズアップで捉えられた頬を伝う一粒の涙が、どんなアクションよりも迫力があったのだから(『TIME AFTER TIME』にも一粒の涙クローズアップがある!)。

要するに、映画とは「活劇」なのです。映画が活劇であるということは、アクション場面が多いといった題材の問題ではなく、ショットの問題に他なりません。そのショットが上映時間の長さを決めるのだということを、清川監督は恐ろしいくらいに意識しています。とは言え、このような思考は映画監督として至極当然の感覚だと思われますが、そういうことを考えずに映画を撮る輩が多すぎる現状においては、一歩抜きん出ていると言って過言ではありません。

僕が本作を激しいと評するのは、そのような嗜好が絶えずショット単位で流れ続け、こちらが「わ!」とか「え!」と驚愕している内に映画が終わっているという感覚所以です。少なくとも、本作を観ているあいだの僕の心は、その運動を捉えるために激しく動きました。それは世界が常に揺れ動き、絶えず変化していることを教示してくれる映画の運動、それに共振するかのように。モーションが生み出すエモーションとはまさにこのことで、映画に揺さぶられる幸福感を久々に味わうことが出来ました。この監督の世界に共振することの喜びを知ってしまった時点で、もう後戻りが出来ず、こうして寄稿を執筆している訳です。

 

ファーストカットからラストカットまでの総てが秀逸なので、具体的に1ショットずつキャプチャーして褒めちぎりたい衝動に駆られているのですが、それは運動に満ちた本作にとって野暮だと判断しました。

んが、たとえば、

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アヴァンタイトルにおける一連のショットの流れは凄まじく、まず右回転するレコード盤と自転車のタイヤがオーヴァーラップし、次に右方向へ自転車をこぐ男性の横顔、次に画面奥へと進む自転車、すると画面手前へと走ってくる自動車が映り、終いには靴が空中に舞い上がる!という、この運動の連鎖! 画面の奥行を巧みに切り取り、ジョン・フォード的な物体の浮遊さえも捉えている時点で、ちょっとこの監督が只者ではないことが誰の目にも明らかでしょう。

f:id:IllmaticXanadu:20170220034350j:plainf:id:IllmaticXanadu:20170220034425j:plainf:id:IllmaticXanadu:20170220034516j:plainまた、多摩センターがロケーションされているのですが、多摩センがどのような土地か認知している者にとっては、その匿名性の高さに驚嘆します。だってコレ、『第三の男』ラストシーンの並木道じゃん! どうしてこういうマジックがいとも簡単に成功してしまっているのか。直線状のオブジェクトに囲まれながら追う/追われるの運動を繰り返す人物たちには、都市空間的な迷宮や虚無をさまよう冷やかさがあり、黒沢清ブレッソンへの敬愛がくみ取れます。

 

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監督のオブセッションとして、常に画面に運動を与えたいという執拗さが本作の魅力であり、それは繰り返しになりますが成功していると言って良いです。喫茶店から退店する彼女と彼の画面奥への運動と、左方向へ走る自動車と右方向へ歩く通行人が見える窓を捉えたショットなんて、観ていて爆笑しました。凄すぎて。電車内でのシーンでも必ず窓を映し、移動する景色という運動を見せています。この「窓」を映すという簡単なことが、最近のハリウッド映画なんかはびっくりするくらいに出来ていません(例えば、クリストファー・ノーラン監督の『バットマン・ビギンズ』には電車が出てきて暴走するのに、その窓が映らないので全然暴走感が無い・笑。ちなみに近年の成功例はトニー・スコットの『アンストッパブル』です)。ここまで「動き」に執着されると、同年代の他作品が「停止」しているように錯覚してしまうほどです。若いのだから、やはりこれくらいは運動していただかないと。映画が喜びません。

また、運動は小道具によっても分節化されています。煙草の煙、回転するレコード、横開きに開かれる本、その本が入っていない鞄、そして自転車など、即物的な小道具の使い方はロマン・ポランスキーに類似するフェティッシュを感じました。

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本作の主要登場人物は、追われる/見られる女性と追う/見る男性の二人のみです。この二人を演じた浅沼惠理さんと黒島蓮さんが、被写体として確固たる輪部を「持たない」ことに徹底しており(だから役名も明らかにならない)、故に動きや変化がただ画面上に「存在」しているだけという、その構造が素晴らしいです。黒島さんがどこで瞬きをしているのか、そしてそれを把握した上で何時クローズアップを撮っているのか、監督の映画的視力の良さが随所に表れています。ここでは、誰の顔も素晴らしい。監督は、「視線」と「表情」が異なるものだということを知っていて、それらを最も適切なフレーミングで切り取っています。特に見る側である黒島さんの演技は、ほぼ無感情に近い状態の中で不安/困惑に顔を歪めており、だからこそ彼の感情が顔を「裏切る」ラストのクローズアップには唸りました。

取り分け、ヒロインである浅沼さんの存在感は特筆に値します。彼女には死生を超越した幽霊的な透明感が常に漂い続け、「無」であるのに「在る」という、映画的な磁場が誕生させた美しさがあります。ここで述べている美しさとは、何も容姿の美醜を指しているのではありません(とは言え、彼女はすこぶる美少女ですが)。実のところ、映画それ自体が彼女を追跡することから逃れられず、その支配力は、言ってみれば映画に祝福されていると言っても良い。映画は彼女と戯れたいと願い、たとえ一瞬の戯れであっても、ラストの海岸でその願いは成就するのです。

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監督は彼女が「感情から導き出された表情」をすることを抑制して、あくまでも「顔」そのものの無機質、無感情、無意識性に重きを置くように撮っています。普通、「顔」は様々な要素がせめぎ合う戦場になり得るのですが、ここではそういうことはしない。サングラスは仮面であって、物理的に彼女の視線を隠しますし、それがファースト・カットならば、これはそういう映画なのだということの表明なのです。無表情、にも関わらずエモーションとして成立しているのは、彼女の無意識をしっかり「掘り起こしている」からです。喜怒哀楽ではなく、無意識としての顔。日本人離れした浅沼さんの容姿端麗さも手伝い、ラストの海岸での彼女は、まるでパゾリーニの『奇跡の丘』におけるマリアのような崇高さを放ちます。手にした白い本は、マクガフィンから聖書と化す。風という運動、その風になびく髪という運動、それらを捉えた彼女のクローズアップ。見られる側と見る側の逆転。その瞬間、本作は日本映画とかモノクロームとかドラマとか自主制作とか、あらゆる呪縛から解放され、匿名の映画的運動として存在することに成功してしまっているのです。そういった運動、瞬間の積み重ね=タイム・アフター・タイムこそが人生であって、タイムを切り取る表現こそが映画なのだという高らかな宣言! 終いには『恋人たちは濡れた』の如く、自転車は海へと向けて発進する! 全く、恐れ入った。

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……と、ここまで後輩の映画を褒めすぎてしまうと、流石に具合が悪くなってきたので(笑)、僅かながらの欠点を挙げることをお許しください。それは、本作はあまりにもクリティック(批評)による補完が多すぎるという点、そして、無差別性の欠如だと思います。前述した通り、ここでは映画がかなり心地よく息をしているのですが、その息吹は、必ずしも万人全員に聞こえるものではありません。つまり本作はモスキート音であり、初めからその「耳」もしくは「目」を持たない人間を除外している節が感じられます。勿論、そのような攻めた姿勢にはサムズアップです。だからこそ批評の役割が生じる訳ですが、その余白を埋めるアソビはシネフィルの為に成立してしまって、他大半の観客への歓迎には成りにくいのです。言い換えれば、まだ監督は観客を差別している。より無差別的な映画をテロリズムとして投下することが出来たとき、少なからず次元の異なる傑作が再度誕生するのでは無いかと期待しています。

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別に監督からカネを貰っている訳では無く、この寄稿は僕が勝手に書き始めてしまったものです。ただ単に、素晴らしい映画が正当な評価を受けなかったり、誰も言葉にしようとしないという事実は耐え難かった、それだけです。

僕は割と後輩の映画を観るのが好きで、そこには、偉そうに出来るとか好き勝手言えるという自己満足は一切ありませんで、純粋に学ぶことが多いからという理由で拝見させていただいています。勿論、今まで面白い映画はたくさんあったし、分かっている人だなあと感心してしまうことも多々ありました。でも、後輩の映画に嫉妬したのは、これが初めてです。面白いという感情よりも先に、「嗚呼、コイツにはこれが出来てしまうんだ……」という恐怖感の方が強かった。ほぼ同年代に、こんなに映画の運動神経が優れたヤツがいるのか、という絶望。でも同時に、絶望は希望です。僕には絶対に成し得ない形で、彼は「映画」に供物を捧げている。ならば自身も、自分だけの託宣を受けて、それを捧げなくてはならない。少なくとも、一人の映画好きの心にエモーションを与えた『TIME AFTER TIME』という傑作に、今は脱帽するのみです。

 

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ということで、清川くん、今度千円ください。

 

※文中で使用しているキャプチャー画像は、「映画を文章だけで云々することの不誠実さ」と「目で感じる芸術及び娯楽」である映画に対する敬意の姿勢であり、監督本人からの許諾を得た上で使用しております。

※本作は2/25に町田市民フォーラムにて上映されるそうです。以降の上映予定は存じ上げませんが、きっとどこかでまた遭遇できることを願いつつ、句読点を打ちます。

『バイオハザードⅡ アポカリプス』 ジル・バレンタインに蹴られたい

Cinema

f:id:IllmaticXanadu:20161210233910j:image血がドバドバと流れる映画を愛好しているものの、僕は如何せんホラーゲームが苦手だ。と言うより、超怖い。恐らく、ホラーゲームで最終的にクリアした作品は一本も無い。コナミ開発『サイレントヒル』もプレイしてみたけれど、コントローラーを投げ捨てて部屋の隅で体育座りをしていた記憶しかない。和製ホラー『サイレン』は人間の顔のポリゴンが怖過ぎて心臓が2センチくらい縮小したので身体的な危険を察知して放棄した。必ず、旅の途中で離脱に至る情けねえ奴なのだ。

『バイオハザード』というテレビゲームの何がイヤだったかと言えば、プレイするにあたり、ヒジョーに頭を働かせなくてはならないことだった。ホラーやアクションというジャンルでありながら、同等に謎解きの側面があるワケで、僕のような偏差値の低い馬鹿には、それはそれは苦行でしかなかった。モチロン、ただでさえコワい遊戯。プレイ中は、ひょぇぇぇええええぇえぇぇああああ、と叫んでは目に涙を浮かべ、その涙を拭ってはまた絶叫の無限ループ。寿命が縮んでゆく感覚の恐ろしさを味わった。そもそも、好きな時に好きな場所でセーブ保存することも出来ず、それ故に連続的に伸びてゆくプレイ時間……インクリボンというアイテムはある意味で発明だけれど、その所為で散々な目に遭ったことは忘れられない。

さて、そんな『バイオハザード』の実写映画化第二弾が『バイオハザードⅡ アポカリプス』である。

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独断と偏見で申し上げますと、面白いとは感じない。全く。

脊髄反射的な快楽も、ここには無い。あるのは、どこまでも凡庸で、どこまでも不細工な映像の羅列だ。(ゾンビ登場時のMTV的なコマ落とし、ありゃ目を疑うダサさやぞ)

ただ一言、豪語しておきたい。

この映画のジル・バレンタインは素晴らしい。

そう、本作の魅力は、シエンナ・ギロリーさんが演じられたジル・バレンタインに尽きるのである。(え、ミラ・ジョヴォヴィッチは?と問うた貴方。俺はひとりの女しか愛せない)

f:id:IllmaticXanadu:20161209165909j:imageジル・バレンタインの顔が本編に映るファースト・カットは新聞記事だ。豪腕女性警官として活躍していたジルが、永らく停職していたことをアナウンスしている。

f:id:IllmaticXanadu:20161209165926j:imageしかし、突如として人間が人間を喰らうアポカリプス(黙示録、終末)な事態を見聞きし、ジルは復職を決意する。彼女がハイヒールを脱ぎ捨てブーツに履き替えるのは、その決意と覚悟の表明だ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170016j:image背中姿だけでこの再現度。右脚の太ももに巻かれたベルトによるコントラストがアッパレ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170125j:image出たああああジル・バレンタインだ!

f:id:IllmaticXanadu:20161209170210j:image冷静沈着な彼女は、老若男女誰よりも確実にゾンビ諸君を抹殺し、誰よりもクールで、誰よりも異彩な存在感をかもし出す。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170321j:imageピンと背筋が伸びているので、拳銃を構えただけで画になる。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170355j:imageそんなジル、アンブレラ社の悪い連中の所為で、絶賛ゾンビ大量発生中のラクーンシティに閉じ込められてしまう。これはゲートが閉められた際に、そのアンブレラのお偉いさんに向けられた怒りの視線。オンナを怒らすとどうなるか、オトコたちはまだ知らない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170731j:image仲間が負傷したら、手早く看護もする。こういうところは女性らしい。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170824j:imageとりあえず教会に避難すると、ジルたちに銃を向ける馬鹿出現。しかし、クリ―チャーではない馬鹿に対して、もはやジルは拳銃を片手で簡素に構える。まるで馬鹿が弾を発射できない肝っ玉だと瞬時に判断したかのように。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170931j:imageもはやフォーカスが合っていないときでさえも美しい。観客の眼球が画面右半分で停滞してしまうのは、他の役者たちの力不足ではない。単に、ジルが画面を支配しているだけである。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171308j:image美女はハンディカメラを通しても、どうしようもなく画になってしまうことの証明。ここで初めて、ジルは煙草を唇にくわえる。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171354j:image見よ!この火の点け方を!ジッポを拳銃に見立てて、そのまま煙草へと点火している。こんな粋な火の点け方をする女性が、果たして映画史には存在していただろうか。まるでキャスリン・ビグローが演出したみたいだ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171451j:imageしかし、ジルに安堵の時間などない。教会内で不審な物音。暗闇が街を不気味に染める。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171511j:image闇の中でも機能する彼女の目は、闘争心でみなぎっている。こんな目で10秒ほど睨まれたら、たぶん絶命してしまう。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171532j:image地面に落ちている拳銃を拾うカットを、この監督はわざわざこういう構図で見せる。月光に照らされる、くねりとした肉体の曲線美。うーむ、いい仕事。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171549j:imageかくして、彼女は二丁拳銃をブッ放つ!みんな大好きジョン・ウー先生!(ちなみに横でグースカ寝てるのは、さっきのジルに銃向けた馬鹿)

f:id:IllmaticXanadu:20161209171612j:image長い舌をべろんべろんさせた気色悪いリッカーなるクリ―チャーに向けて、撃つ!撃つ!壁には構えた拳銃の影が描かれる。ここでも、二丁拳銃のイメージは消えない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171651j:imageクリ―チャーのリッカ―くんの目線。クリーチャーでさえ、ジルをフルショットで捉えようと必死なのはこれ如何に。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171733j:imageリッカ―強し!ジル・バレンタイン、万事休すか!

f:id:IllmaticXanadu:20161209171753j:imageと心配していたら、盗んだバイクで走り出す何者かが乱暴に入場してくる。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171810j:imageジョヴォヴィでした。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171828j:imageんで、またもやジョヴォヴィも二丁マシンガン!どんだけジョン・ウー好きなんだよ!ちなみにこのバイオハザードシリーズで、ジョヴォヴィは毎回必ず二丁スタイルをやっている。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171844j:imageジョヴォヴィが合流したせいで、街がゾンビまみれなのに墓場を歩くことになる。1分後の展開がサルでも分かる親切設計。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171901j:image突然、ゾンビに噛まれたというジルの仲間に銃を向けるジョヴォヴィ。すかさず、ジルもジョヴォヴィへ銃を構える。かっちょいい構図。それにしても、この監督は、画面に拳銃を二丁出すことにガチでエクスタシーを感じているのだろうか。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171920j:imageジョヴォヴィ顔こえーよ!

f:id:IllmaticXanadu:20161209171938j:imageポール・W・S・アンダーソンの嫁に負けじと、ジルも視線と銃口を逸らさない。そしてなんと、彼女は一歩前へと歩み出る……

f:id:IllmaticXanadu:20161209171954j:image見よ!自らの首筋に銃口を当てつつ一歩も引き下がらないという勇姿たるや!さすがのジョヴォヴィも銃を下ろす始末。惚れた。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172333j:image舞台は変わってバス車内で奇跡は起こる。これがオンナの煙草の吸い方か。煙草を挟んだ指から腕の筋肉を映し、極めつけはかすかに見えるワキをも捉えた構図に、どうしたってフェティズムを感じずにはいられない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172354j:imageやばい……この映画に映るどの男性よりもかっこいい……

f:id:IllmaticXanadu:20161209172414j:imageでも煙草が消えると、時たま美女としての表情も見せる。ギャップ萌え。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172443j:imageほで、ここまで強い女性像として描かれてきたジルだが、目の前で仲間が射殺されるのを目撃してしまう。さすがに、表情に焦りと哀しみがにじみ出る。ジルらしくないが、だからこそ女性のか弱さも垣間見る。それでも、銃は手放さない

f:id:IllmaticXanadu:20161209172502j:image予想外の事態に、ジルはここで初めて戦いから離脱する。戦闘はジョヴォヴィに任せて退散。弱った彼女はクルマに引きこもる。ヒキのショットにおいても、太ももそれだけで存在証明してみせるオンナ、それがジル・バレンタイン。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172515j:imageさすがに仲間の死で落ち込む。彼女は車内でハンドルとゴッツンコ。ギャップ萌え(本稿二回目の使用)。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172539j:imageそこに、亡くなった仲間がリヴィングデッドとして奇襲!劇中、初めて目に涙を浮かべるジル。ゾンビ映画永遠のテーマであり、シチュエーションとの対峙。身震いしつつも、かつての仲間に向けて銃を構える。あとは引き金を引くのみ。これは通過儀礼だ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172553j:imageかくして、リヴィングデッドの撃退に成功する。この通過儀礼を終えた彼女は、もう二度と涙を見せない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172607j:imageいろいろあって、アンブレラ社勤務の博士から「娘を探してくれ」との依頼。物語はガキの捜索へとシフト。ジルは中学校に潜入。落ちているバスケットボールをパンパン撃ち抜いてフザけている余裕はない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172619j:image教室に潜入した際に、アッと驚嘆するショットがあった。フィックスされたキャメラが、画面右へと移動する彼女を追わず、パンをしない。かと言って、彼女がフレームアウトすることもない。だからこのような不細工なショットに成っている。ただ、これを編集で切らずに残しているのは、少なくとも映画自体が「少しでもジルを映していたい」と懇願しており、彼女が歓迎されているからだと思い至る。

f:id:IllmaticXanadu:20161210224916j:image教室でガキを見つける。早っ。時間経過と共に髪型は乱れ、じっとりと汗で濡れているのは、さっきの通過儀礼を完了したから。つまり、彼女は生まれ変わっている。儀式を乗り越えたからこそ、彼女はガキと遭遇を果たせた。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225007j:imageガキを連れて歩く。通過儀礼を果たしたジルは、ここで母性を試される。とりあえず、ガキを守るためだけのシークエンスが始まる。いいなあ、この娘になりたい。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225027j:image校内をゾンビワンちゃんことケルベロスがうろちょろしているので、二人で調理場に身を隠す。って『ジュラシック・パーク』か!

f:id:IllmaticXanadu:20161210225046j:imageシエンナ・ギロリーのアドリブだという動作。恐怖に怯えるガキと目を合わし、わたしがいるから平気よと安心させる。しかし、実はここで凶暴なケロべロスに怯えているのはジル本人でもある。母子が一体化し、同一化することにより恐怖を克服しようと試みるのだ。かくして、ジルは母性のテストを無事に通過する。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225059j:image地面に落ちた包丁を拾おうとする……ってこの構図、ちょっと待って! プレイバックプレイバック! さっきも教会で見たぞ! 落ちたものを身体をくねらせて拾わせるフェチなのか、この監督は……いや、いい仕事だよ。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225112j:image調理場にケルベロスが乱入してきたので、ジルはあらゆるガスコンロの栓を開く。彼女はガキの手を引っ張りながらマッチに火を点ける。そして……

f:id:IllmaticXanadu:20161210225123j:imageまあ、投げるでしょうね。真正面向きながら投げたかったんだろう。きっと中学二年生の頃から一度やってみたかったに違いない。ガキが「マジかよ……」な表情を浮かべているのも可愛い。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225137j:imageでも消えちゃいました。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225148j:imageええええええええええ……絶体絶命。嗚呼、ジルの活躍もここで終わってしまうのか……

f:id:IllmaticXanadu:20161210225205j:imageと心配していたら、ちゃんとジョヴォヴィが助けに来てくれた。あざす。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225218j:imageしかし、アンブレラ社の悪い連中に捕まっちまった。めっちゃヒキの画だけれど、両手を縛られたジルを見て感涙する。両胸が強調されたボディライン……このためのエロい衣装だったのか! 

f:id:IllmaticXanadu:20161210225244j:imageジョヴォヴィの協力もあって危機一髪、拘束から逃れる。これまた美麗な太ももの存在感。しゃんなろー!と怒れるジル。憎きオトコどもへ、撃つ!撃つ!

f:id:IllmaticXanadu:20161210225257j:image自分たちを閉じ込めた、アンブレラのお偉いさんにぐいーっと迫る。オンナの怨りが、映像を支配する。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225309j:imageもはやオトコに勝ち目はない。ジルはこのあと、この馬鹿をゾンビの皆様にディナーとしてご馳走する。怨念のソースを添えて。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225401j:imageそんでもって、このドヤ顔である。かくして、ジル・バレンタインは勝利した!やっほう!

 

f:id:IllmaticXanadu:20161210225341j:image繰り返しになるが『バイオハザードⅡ アポカリプス』は面白い映画ではない。不細工なショットが不細工なカッティングで羅列された不細工な映像集だと、僕個人は感じる。

しかし、映画や物語には、そのようなホツレや未熟さを超越するキャラクターが存在している。このキャラクターこそが、「実力」を凌駕する「魅力」だ。

本作においてのソレは、シエンナ・ギロリー嬢が演じたジル・バレンタインである。

僕はこの「魅力」が堪らなく愛おしく、フルボッコにノックダウンさせられた身としては、もはや、とやかく「実力」の有無に関して御託を並べるのは不適切でしかない。

映画が文学や漫画と違うのは、そこに血肉を持った人間が「実在している」と思わせる瞬間があることだ。現実には存在していないキャラクターが「存在している」と目前で実感する時、観客は映画の醍醐味に浸る。そして、そのような「実存してみせること」こそが、俳優の仕事に他ならない。

ジル・バレンタインをありがとう。

ジル・バレンタインよ、ありがとう。

彼女主演のスピンオフ作品が撮られなくては、映画の21世紀は終われない。その際には、意地でもエキストラゾンビとして参加しますので、心置きなくミゾオチ辺りを蹴り上げてください!ジル様!!

 

 

f:id:IllmaticXanadu:20161210225456j:imageあ、ジョヴォヴィはジョヴォヴィで、スゲー楽しそうでした。

『溺れるナイフ』 濡れたわたしを乾かすあなた

Cinema

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瞬時に劇場がどよめいた。
それは、立川シネマシティで上映中だった『溺れるナイフ』で、元毛皮のマリーズ・ボーカルにして現ドレスコーズ・ボーカル志磨遼平によってセルフ・リメイクされた『コミック・ジェネレイション』がエンドロールと共に流れ出した、その瞬間以降の状況を指す。
劇場は、あらゆる少女で文字通りに溢れ返っており、それぞれが適切にざわめているのを肌で感じた。「ヤバイ、最高すぎる」とか「何コレ、意味ワカンナ(笑)」とか「スダマサキッスってか顔ペロされてー」とか。終いには、劇中の夏芽とコウがしていた連想ゲームの如く、「めぐみー!」「ゆかこー!」という可愛らしい叫びが斜め左後方から聞こえてきた。

 

一体、山戸結希作品が上映される劇場の凄まじい熱気は何なのだろうか。処女作『あの娘が海辺で踊っている』(2012年)から『おとぎ話みたい』(2013年)までをリアルタイムに追いかけ続けた身としては、毎回、あの熱狂の渦に呑み込まれそうになる。いや、既に呑み込まれていただろう。『おとぎ話みたい』を劇場だけで4回鑑賞するに至り、少女映画の新たなる傑作誕生に歓喜したことは、記憶に新しい。

よしんば、映画監督ではなく詩人になっても成功していたであろう山戸結希の映画は、張り裂けそうな少女の感情が沸点ギリギリで言語化及び身体化されていく、きわめてポエジーな作品が多い。しかし、『溺れるナイフ』においては、そのようなポエトリーが希薄で、役者のアクションや肉体を切り取りたい、時間をフィルムに閉じ込めたいという欲望が先行している。それは独占欲と呼称するのがふさわしく、監督自身が最も敬愛しているジョージ朝倉の漫画を、まさか自身の手によって映像化し得るという幸福と、誰にも譲るまいとする強固な意志が感じられる。哲学的なナレーションよりも、映像の「文法」を逸脱したカッティングで攻めてみせた『溺れるナイフ』は、まるで色彩溢れるショットの一つ一つが踊っているかのような豊かさに満ちている。それはゴダールのようでもあり、小津のようでもあり、相米のようでもある。彼女は詩人から映画監督になった寺山修司や園子温と比べられることが多かったが、『溺れるナイフ』を通して、早くも更なる次元へと羽ばたいたと言えるだろう。

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本作には、終始「水」のイメージが付きまとう。夏芽とコウがファースト・コンタクトを果たすのは、入ることが禁じられている神さんの海だ。夏芽はコウに肩を掴まれ共に海に飛び込み、そのままメインタイトルが映し出される。二人がファースト・キスを交わすのは道沿いに流れる小川で、夏芽は水流に制服を浸す。飲み口から溢れた清涼飲料水は水滴として夏芽の口元に付着し、コウがそれを味わう。夏芽がコウに映画出演のオファーがあったことを話す時、二人は巨大な水たまりの周囲をぐるぐると廻り、夏芽は水面をバシャバシャと横断してコウとの距離を縮める。火祭りの夜の事件は、ご丁寧にも湧き水の傍らで起こる。ここまで羅列されると、夏芽とコウが関係する際には「水」が欠かせないファクターであることは歴然だろう。「海も山も、俺は好きに遊んでええんじゃ」と話すコウは言うなれば「神さん」のメタファーだが、そう言えば海と山、どちらにも水は流れている。もしかすると『溺れるナイフ』は、「水」と出会い「濡れてしまった」少女の物語なのではないか。

勿論、前述した「濡れてしまった」は、何も身体的な意味合いで使用していない。心が濡れる、感情が「水」によって満たされたという、すなわち恋の衝動、ときめきのことを指している。極論、夏芽がコウに特別な感情を抱くようになったのは、彼女がコウと共に全身を「水」で浸したことが出発点なのであり、彼女はコウと共に、もう一度全身を「水」で満たしたいと願い続けている。心をもっと濡らしたい!、或いは、心を絶対に乾かしたくない!というのが、夏芽の行動原理だ。

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対して、「水」に祝福されない登場人物こそが大友である。彼が夏芽の暮らす旅館に魚を届けに訪れた時、僕の自律神経は乱れを起こした。大友がクーラーボックスを取り出したからだ。当然だが、クーラーボックスには魚と共に「氷」が入っているであろう。僕が抱いた悪い予感を後押しするように、旅館から出てきた夏芽はアイスキャンディーを半分に割って大友に渡す。一見すると親密に見える二人だが、アイスキャンディーという「氷」は溶けることがなく、そこに「水」は存在していない。透き通るような液体としての「水」のイメージに対して、凝固している固体としての「氷」は、夏芽と大友の決して溶け合わない関係性を示唆しているかのようだ。後半では、全身びしょ濡れで泣いている夏芽に対して、コウのように共に濡れることが出来なかった大友の乾いた体が並べられる。その後のバッティングセンターでのやり取りにおいて、今度は大友から夏芽にアイスキャンディーを手渡す。が、夏芽はそれを拒否するのだ。果たして、「氷」が溶けて「水」になることは決して無いのだろうと、観客の誰しもが、哀しくも予感する他になかった。

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演じる重岡大毅はジャニーズWESTのメンバーらしく、不勉強ながら本作で初めて認識した。ほで、彼の芝居がすこぶる素晴らしい。こんなにペルソナを感じさせないキャラクターも珍しいんじゃないか。「神さん」ではない僕らにとって、現在の地球上で最もマザー・テレサ級に心が優しいんじゃないかと思われる、この大友という「普通」の男には感情移入せざるを得ない。大友はコウのようなカリスマ性もなければ顔ペロもしないし海中遊泳することもないが、恋をしているという「きらめき」と「ときめき」が、彼のショットには備わっている。もしかするとその想いは、コウのソレよりも深く、尊いものかもしれない。だからこそ、大友に終始漂う切なさは歯痒く、「俺たち側」の青春の苦味が痛々しく反映されている。

その痛々しさが爆発し、尚且つ救済としても描かれるカラオケのシーンは、誰が何と言おうと本作屈指の名場面である。僕は「泣かせる映画」が大嫌いで、とは言え「泣ける映画」には滅法弱い泣き虫野郎なのだが、少しばかり自分でも信じられないほどに、泣けた。泣けてしまった。山戸作品では『おとぎ話みたい』然り、しばしばカラオケが登場することが特徴として挙げられるが、音楽による救済という意味において、この大友の歌唱に勝るカタルシスは類を見ない。思い出すのも辛い、或いは思い出さずにはいられない、あらゆる恋や失恋の記憶は、このシーンで涙するための前菜だったのか!と錯覚するほどに。ここで初めて、大友は「水」と遭遇を果たす。彼の目から滴り落ちる液体が、僕にはこの映画の中の、どの「水」よりも美しく見えた。

 

(恐らく、この文章が書き終えるまでの何処にも挿入させることが出来ず、話が横道に逸れて余談になるので括弧書きで記すことをご容赦いただきたい。本作は終始、音楽が鳴り響いている映画である。そして、私見するだに本作の果てしないレヴューの中で果てしなく言及されているのは、この音楽の使われ方の凡庸さである。確かに、本作の音楽は緩急作用を起こすには程遠い鳴り響き方で、それはつまり、長回しの画を最後まで見せるための飾りのように見えてしまうのだという。あまりにも記号化されたポップチューンが画とミスマッチしている箇所も存在している。ポスプロ段階で急遽無理くりに曲を加えたようだ。そんな評が少なくはなかった。

果たして、その通りなのだろうか。僕は断固『溺れるナイフ』を擁護したい。音楽は凡庸かもしれないが、それは欠点ではない。音楽と、この恋物語との美しい出逢いは成功している。それはまるで、映画自体が終始、喜んだり、哀しんだり、怒ったり、楽しんだりしているかのようで、夏芽とコウの恋を祝福しているかのように感じられるからだ。その衝動に、正当性なぞ必要か。音楽は趣くままに、過剰に、暴れ回ればいい。

狂気に近い独断だが、僕は恋をしている時に音楽が鳴らない・聞こえない人間は、そもそも恋をしていないと思っている。それは幾多の恋愛映画(近年ならば『(500)日のサマー』(2009年/マーク・ウェブ)が凡例)において提示され続けた一種の定義であるし、何よりも、実際に僕らが恋をする時がそうであるから、それ以上でも以下でもない。恋愛映画で音楽が鳴っている時、それは本来こう鳴るべきだ、と揶揄するのはナンセンスだ。或いは、それは戦争映画にも同じことが言えるのかもしれない。恋愛も戦争も、「正しさ」では説明できない感情で埋め尽くされている。キレイ、ウルサイ、ヘタクソ、セツナイ、グチャグチャと耳が感じるのならば、それは"そういう恋愛"だということなのだ。

これまでのフィルモグラフィを常々音楽に重きを置いて歩んできた山戸結希にとって、超純粋に「メジャーデビュー作だし、いつもより綺麗な音楽をたくさん鳴らしたい!」という衝動は至極真っ当な感情だと思うし、劇盤と相反して、川のせせらぎや木々を通り抜ける風などの自然音が心地よく、この青春のきらめきを倍増させている。メリハリはしっかり効いているじゃないか。そして何よりも、本作の特筆すべきシーンが「カラオケ」による絶唱であり、それが登場人物への救済であるという美麗な回答は、ただ歴然と素晴らしい。愛の叫びは伝染し、この映画のラストも愛の叫びで幕を下ろす。あの叫びが実に音楽的な感覚に満ちていると思うのだが、長くなってしまったので括弧を閉じる。)

 

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重岡大毅を筆頭(!?)に、本作は主要登場人物のキャスティングも見事だ。とは言え、小松菜奈と菅田将暉が同一ショットに存在しているだけで『ディストラクション・ベイビーズ』(2016年/真利子哲也)の不穏な空気を想起してしまうが、それが杞憂に過ぎないほど夏芽とコウはフォーリン・ラヴしていた。役者ってスゲェなあ(ちなみに、本作と『ディストラクション・ベイビーズ』は祭り映画としても繋がるのだから興味深い)。

冒頭、小松菜奈が車内の後部座席で見せるけだるい表情は、まるで実写版『千と千尋の神隠し』(2001年/宮崎駿)のようで、そう言えばトンネルが出てきたり、神さんのメタファーとしてのコウだったり、千尋とハクのエピソードにおける「水」のイメージだったり、ガチ『千と千尋』ライクな箇所は随所に存在する。まさか確信犯だろうか。

車中で変態オジンにヘッドロックをかます姿にはサムズアップしてしまい、そうそう、小松菜奈は静より動が活きるんじゃ!と『ディストラクション・ベイビーズ』の際にも味わった快感を思い出した(『ディストラクション・ベイビーズ』でも小松菜奈は車の中で散々な目に逢うので、小松菜奈が車の中で何か酷い目に遭う映画は傑作説を宇宙でただ一人提言しておきたい)。

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菅田将暉演じるコウは彼にとっての最高傑作であり、ベストアクトだと思う(ま、いつだって菅田きゅんはベストアクトなんだが)。神々しいコウという非現実的な人物に説得力を持たせるのは、並大抵の役者には容易ではない。しかし、菅田将暉の肉体性と身体能力、そして何より美しい顔が総ての説得力を呼び起こす。語弊を招かぬように記すつもりだが、菅田将暉の顔が持つ純粋な美しさは、小松菜奈のソレを凌駕していると言っていい。つまり、菅田将暉の美しさは(役柄とは矛盾しているが)極めて女性的な魅力であり、コウは実質上のヒロインでありファム・ファタールなのだ。

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上白石萌音演じるカナの、所謂「高校デヴュー」の雰囲気は恐ろしく、何気ない言葉の奥底に潜む刃の鋭さに冷や汗を垂らす。上白石萌音は実際の体重を、中学生時の撮影では5キロ増、高校生時では5キロ減量しているらしい。増減のスパンは僅か4日間だというからさすがの女優魂。これは監督からの指示だと言うが、確かにそれくらいの年頃の女子ってのはそんなものだ。この「繊細な変化」こそが少女の少女性たるものだと僕は感じる。だからこそ、そのような視点で演出が施せる山戸結希も、それをソツなくこなしてみせる上白石萌音も、どちらも「少女」故の才能の持ち主だと脱帽してしまう。

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ところで、『溺れるナイフ』の最たる魅力とは、上記で列挙してきた美点もさることながら、本作が持つその「不完全性」だと思っている。なして不完全な映画をベタ褒めしているのか。陳腐な表現で恐縮だが「不完全だから青春」なのである。それは「後悔」と換言しても良い。さらに言えば「不発」という感情も意味している。僕は本作を偏愛しているが、完璧な作品だとは全く思わない。むしろ「足りない」作品だと感じている。勿論、『溺れるナイフ』という漫画原作の(2時間の)映像化としては及第点以上の出来である。それでも、山戸結希を追いかけ続けた身としては疑わざるを得ない。このフィルムには、山戸結希の「後悔」が閉じ込められていないか?、と。

言わば第二の処女作でもある本作だが、プロダクション・ノートを拝見するだに、撮影現場は険悪そのものだったという。関係者曰く、監督のコダワリや我の強さが垣間見られ、指示が二転三転するなどして予定していたテイクが撮影できないこともあったとか。大いに結構だと感じる。仲良しこよしでお偉いさん達にペコペコ頭を下げるよりは、鋭い作家性を貫いてワガママに現場を生きてほしい。ってか、僕は山戸結希をそういう作家だと信じている。彼女が『溺れるナイフ』でメジャーデヴューすると見聞きした際に期待したのは、極めて失敬ながら、どうか満足せずに後悔しまくってほしい、という願望だった。これは呪詛の言葉ではない。『溺れるナイフ』には「不発」のスパイスが絶対に必要だと確信していたし、これまでに見たことのない山戸結希によるフラストレーションの吐露を感じたかったからだ。

願いは叶った。僅か17日間の撮影スケジュールでは到底撮り切れないシーンが多々あったと、監督はインタヴューで語る。事もあろうに監督の分身でもある小松菜奈も、どうしても撮りたかったシーンが撮れず「悔しい」思いをしたと答えている。もっとやりたかった。もっと出来ることがあった。『溺れるナイフ』を輝かせているのは、そうした監督や役者陣の「後悔」が、劇中の登場人物たちと激しくリンクしているという、そういう奇跡だ。小松菜奈の後悔は夏芽の後悔だ。菅田将暉の後悔はコウの後悔だ。映画が持つ後悔は監督自身の後悔だ。それらの後悔は、もう二度と戻れない時間が織りなす永久不変な「きらめき」を倍増させる。不発の夏。不発に終わったからこそ、あの一夏は美しい。夏芽とコウにとって。そして、2015年の小松菜奈と菅田将暉にとっても。山戸結希にとっても。

ラストシーン、オートバイが角を曲がり、トンネルをくぐるたびに、青春が終結に近付いていく予感が漂う。そして本編は、夏芽とコウのストップモーションで終わりを迎える。まるで、確かにそこにあったものとして、その時間を永遠に切り取るかのように。青春の弔いは、終了する。

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嫉妬だ。この映画に溺れてしまったからこそ、それを独占した山戸結希に激しく嫉妬する。俺の嫉妬も、感動も、後悔も、あの立川シネマシティのどよめきと共に永遠に閉じ込められてしまった。ちくしょう、山戸め何しやがるんだ。あんたのおかげで、最高の気分だよ。

山戸結希が最上級の大きさで叫んだのだから、今度はこちらが、それ以上に大きな声で叫び返したい。

非・映画愛宣言

ごあいさつ

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"映画愛"という言葉が嫌いだ。
 
幸せそうな顔で「映画愛」とか「映画の記憶」とかいう奴を見ると、絞め殺してやりたくなる。
 
僕にとって、映画は常に暗い思い出の対象だ。能天気に愛せるようなものじゃなかった。映画館の暗闇は鬱屈を抱えてうずくまるものだった。なんの鬱屈か? それは映画を観に来ていることへの鬱屈である。
 
僕にとって、映画は青春だった。そして青春とはひたすらつまらないものだった。他にも楽しいことがあれば年に三百本も四百本も映画を観ているわけがない。何もやることがなかったから、毎日のようにアテネ・フランセやフィルムセンターの列に並び、池袋新文芸坐や神保町シアターではしごをしていたのだ。暗闇の中、誰とも口をきかず。
 
当然、自分が無為徒食の徒であることくらいは分かっていた。それに気付かないほどのバカじゃない。映画に何かあると信じるほどナイーヴでもない。実際、映画館の人たちがどう信じていようと、映画に人生に対するポジティヴな意味なんかないのだ。それは単に2時間の暇つぶし、時間制の現実逃避でしかない。毎日のように映画を観ているというのは、つまり1年365日が現実逃避であるような人生ということである。誰がそんな生活に誇りを持てものか。
 
だが、僕は映画を観ていたし、今も観つづけている。
 
今も相変わらず他にやることもない。鬱屈も続いている。でも、それだけでもない。思えば映画の中にはいつも、自分の中に押し込めた鬱屈にも触れてくるものがあった。自分の卑小さや、自分のエゴの醜さや、愚かしさや、世間の無理解や世の中の理不尽さにうんざりしたとき、それが誰にとっても同じなのだということを教えてくれるものがあった。たぶん僕にとっても、人生は面倒で辛くて汚らしいものなのだ。
 
僕にとって、映画はそのことを教えてくれるものである。美男美女や無敵のヒーローなんかどうでもいい。ちょっぴりどこかに障害を抱えた人間が周囲の愛に助けられてハッピー・エンドを迎えるなんてものでもない。たぶん、世界はそんな風には動いていない。主人公は障害の重荷におしつぶされ、誰も救うことなどできないだろう。
 
まあ、中には美男美女のラブストーリーに救われる人もいるのだろう。だけど、僕にはそれじゃ足りない。自分の鬱屈を映画に向けざるを得ない人間にとっては、そんなものじゃあ全然足りないのだ。僕を救ってくれるのはエゴイスティックな人間が惨めに死ぬも、善人が報われず、悪が栄えず、誰も救われないような話だ。それはどうしようもない怒りと鬱屈を抱えながら生きているのは自分だけじゃない、と教えてくれるものでもある。
 
"映画愛"なんてセリフをしゃあしゃあと口に出せる奴は絶対に信用しない。僕にとって、映画は愛するものなんかじゃない。それはどす黒く、濁って中の見えない淀みだ。つつくと何が出てくるか分からないけれど、でも手を伸ばさずにはいられない暗闇だ。見たくもないのに目をそらせないもの、好きでもないのにやめられない麻薬だ。それは自分の一部、人生のかけらだ。
 
このブログは、映画館の暗闇にいるとき、どうしようもなく惨めな思いをしていた人間が運営している。映画の誘惑に敗れ続け、敗れる度に、その美麗なる快楽に浸り続けることができる。それを感じられる人にだけ、このブログを捧げる。
 
ということで、挨拶代わりの句点を打つ。
 

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