BURN BABY BURN!『バットマン・リターンズ』
虐げられし魂のあがき。あるいは、怪物としてでしか生きられない者同士の嫉妬合戦。嗚呼、こんな暗黒で残酷で哀しい映画が他にあるものか……アルティメットオールタイムベスト大傑作!な『バットマン・リターンズ』について書こうと思う。ちなみに、ぼくが毎年クリスマスに必ず見返す映画です。
ティム・バートン監督の『バットマン』は、公開10日間で100億ドルという記録的なヒットを巻き起こした。しかし、後にバートンは『バットマン』について「親しみの感じることの出来ない自作映画の一本」と告白している。大作映画故に苛酷な条件が散りばめられた現場は、彼にとって考える暇も、撮影を楽しむ余裕も無かったそうだ。
その後、『シザーハンズ』でまたもや興行的に大成功を収めたバートンの元に、『バットマン』続編の話が舞い込んでくる。当然、難色を示すバートン。しかし、彼が目を通した第1稿には「ペンギン」と「キャットウーマン」が既に登場していた。
「続編を監督する気になったのは、ペンギンとキャットウーマンという複雑で魅力的なキャラクターを紹介したかったからだ」バートンはそう語る。
当初、前作の脚本家でもあるサム・ハムが『リターンズ』にも雇われていたが、彼の脚本はスタジオ上層部には不評だった。そのため、新たな脚本家として起用されたのがダニエル・ウォーターズだ。
バートンがウォーターズを推薦した理由は明白だった。なぜなら、ウォーターズの脚本デビュー作である『ヘザース/ベロニカの熱い日』(88年/マイケル・レーマン)は、何を隠そう、孤独な高校生が学校を爆弾で吹き飛ばそうと企む話だったからだ。「ヘザース最高! マジ同感した!」と、ウォーターズと手を組んでウキウキのバートン。こうして、絶望と疎外で埋め尽くされた狂気のプロットは完成していった。
「僕はペンギンやキャットウーマンが悪人だとは思えないんだ」
バートンがそう語る通り、厳密に言えば彼らは悪人ではない。彼らは差別や偏見の被害者なだけなのだ。本当の悪人は、クリストファー・ウォーケン演じるマックス・シュレックだけだ。言わずもがな、名前の由来は『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22年/F・W・ムルナウ)で吸血鬼を演じた俳優"マックス・シュレック"から拝借されている。
シュレックは『リターンズ』のキャラクター全員の触媒的な存在として機能している。表はゴッサム一の大富豪として慈善活動に励むが、裏では密かに策略し、悪事に手を染めている。まるでヒーローと悪党の境界線をボヤけさせるためにいるキャラクターだ。だからこそ、唯一の悪人の彼だけは「マスクをつけていないが、マスクをつけている」キャラクターとして登場するのだ。
と、ここまで記してきた通り、実は『バットマン・リターンズ』は、そういった「二重性」について精神分析的に描かれた映画である。
ペンギン(ダニー・デヴィート)は自作自演の誘拐事件を解決し世間から英雄扱いされ、一躍人気者になる。その人気を手玉にとって、市長選挙に立候補するのだ。一見すると汚い手のように見えるが、これは「ただみんなに愛されたい」という彼の心からの願望を実現させているだけだ。「ただみんなに愛されたい」という彼の動機は、実はとても純粋なものである。
そんなペンギンを信じないのがバットマン(マイケル・キートン)だ。彼は何の根拠もなくペンギンに疑いをかけるのである。そして、バットマンは市長選挙の妨害を試みる。まるで、ペンギンが世間から受け入れられるのが、単に我慢できないかのように。
劇中でペンギンはバットマンにこう指摘している。
「お前は嫉妬してるんだ。おれは本物のフリークだけど、お前はマスクを被らなきゃならないからだ」
ここで『バットマン』を思い返してみよう。ジャック・ネーピア(ジャック・ニコルソン)はボスのグリソム(ジャック・パランス)から裏切られ、バットマンにより化学薬品のタンクに落とされてしまう。顔は白く漂白され、永遠に笑いが貼り付けられたのだった。
「おれは狂った。でも最高に幸せだ」
ジャックは狂気によって解放され、ジョーカーという名の「自由」を手にしたのだ。肉体的フリークになることで明るく解放されたジョーカーと、マスクを被らなければ内面のフリーク性を表に出すことの出来ないバットマン。
『バットマン』も『バットマン・リターンズ』も、バットマンがジョーカーやペンギンに嫉妬しているように見える。
『バットマン』公開時のインタビューでバートンは次のように述べている。「これは2人のフリークの闘いなんだ」と。
こうして考えてみると、『バットマン・リターンズ』における「二重性」というのは、実は全てのキャラクターがバットマン自身を投影したキャラクターになっているということが解ってくる。
幼い頃に両親を失い、暗闇で孤独に生きてきた「トリ人間」のペンギン、あるトラウマが原因で自己が崩壊し、マスクに顔を隠し夜に生きるキャットウーマン、ゴッサム一の大富豪でありながら、裏では自身の策略に没頭するマックス・シュレック。
バットマンは劇中、何度も「自分自身」との闘いを迫られているのだ。
このように、バットマンの精神的な葛藤を「具現化」してみせたとも言える本作は、何処ぞのクリストファー何とかノーランが監督した一連の『バットマン』シリーズの何倍も秀逸で、優れている作品だと豪語する(まあノーランは無邪気で可愛い野郎だということは後に認識するに至った)。
さて、ここでキャットウーマン(ミシェル・ファイファー)とバットマンの関係性について記しておく。
彼女はジョーカーやペンギンとは違い、バットマンと同類のフリークだ。バットマンもキャットウーマンも、人間をやめて、闇に潜む獣のマスクをつけることで、初めてコンプレックスから解放された。
前作『バットマン』のヒロイン、ヴェッキー・ヴェイル(キム・ベイシンガー)は、ブルース・ウェインがバットマンと知って彼から逃げてしまう。しかし、キャットウーマンは違った。彼らが惹かれ合うのは、同じ種類の「怪物」だからである。
舞踏会でセリーナとブルースが踊るシーンがある。誰もが仮装しているにも関わらず、彼らだけは素顔だ。いつもマスクを被った2人にとっては、人間の顔こそが「仮面」なのである。この馬鹿げたまでに分かり易い描写は、同時に、本作における屈指の名シーンだ。
マスクとは、"隠れること"の象徴である。しかしながら、時には自己表現の入口として、その門を開く手助けをすることもあるのだ。実際、バートンは幼少期のハロウィン・パーティで仮装をするたびに、それを実感していたと言う。マスクに守られているから、大胆になる。隠れているから、自由になる。
だからこそ、バットマンとキャットウーマンは、コスチュームを着ている時には互いに惹かれ合うのだが、ひとたびマスクを外せば、互いに関係できなくなってしまうのだ。
ここでもう一つの二重性として「生と死」の境界線が暗示される。
そう、キャットウーマンは一度"死んでいる"のである。しかも彼女は、まるで男という社会にレイプされて死に絶えた、女たちの怨念の集合体として蘇っているとも言えなくはない。
つまりその事実は、生者であり加害者である男性としてのバットマンと、死者であり被害者としての女性であるキャットウーマンが、本質的に断絶されており、必然的に結ばれないことを意味しているのだ。
か、哀し過ぎる……あまりにも悲哀に満ちたラブストーリーだ。
『バットマン・リターンズ』は、バットマンやペンギンだけではなく、キャットウーマンの永遠に救われない孤独を描いてみせることで、より一層の寓話性を倍増させているのである。
『バットマン・リターンズ』は前作を超える大ヒットを記録したが「バットマンが脇役」「狂った奴しか出てこない」と「普通の」評論家や観客からは酷評された。バートンは思ったかもしれない。お前らみたいな「普通」が「彼ら」を孤独にしてしまうのだ、と。
愛してくれる人、理解してくれる人を誰よりも求め、愛されている人、理解されている人を誰よりも憎んだペンギン。彼こそがこの映画のテーマなのだ。
実際、バットマンの登場時間よりも、ペンギンとキャットウーマンの登場時間の方が多い。
「わかってる。僕は彼らを愛しすぎてしまったんだ」バートンはそう認めている。
ココからは超余談だけれど、本作を初めて観たのは中学一年生の頃で、孤独と疎外感で恵まれた人間への憎悪で埋め尽くされていた思春期の自分は、心からこの映画に救われた。ペンギンの叫ぶ"BURN BABY BURN!"はぼくの心の声でもあった。以来、何度も見返しては勇気付けられているが、生まれて初めて恋人と本作を鑑賞してしまった。"してしまった"という感覚は、愛されなかった者たちの魂のあがきをカップルで見ちゃっていいものかという不安と、思春期の頃の自分とペンギンやキャットウーマンへの罪悪感からである。カップルで『バットマン・リターンズ』を観るとかふざけんな!!幸せなヤツに『バットマン・リターンズ』の良さが分かってたまるかブチ殺すぞ!!と怨念でみなぎっていたぼくだったが、ちゃんと彼女にも響いていたようで大変気に入ってくれたらしい。良かった。こんなに嬉しいことはない。めちゃくちゃ安心した。こうして、映画は観るタイミングや誰と観るかによって趣が変容していく。し、響くものはいつだって響き、普遍的な価値を保持している。みんな死ね!!と思っていた頃から、ほんの少しだけ成長した気がした。それでも、本当の意味で『バットマン・リターンズ』に救われた時の自分自身という存在を、決して忘れずに生きていきたい次第である。