20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

回転するミラーボールに照らされて、読んだ弔辞が唄になったの(そんな研磨され尽くした幸福の完成度と、女優へのアンチ・オブセッション、そして演劇と葬儀とラストダンス)【東京にこにこちゃん『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』雑感】

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「アレを観なかったことを絶対に後悔するから!!!!!」西荻窪駅のホームで、電車を待つ私に向かって肉汁サイドストーリーのるんげが叫んだ。

厳密に言えば、エクスクラメーションを5つも付けるほどの声量ではなかったものの、私にとって彼女のその言葉は胸を締め付けるような叫びに聞こえたのだ。

私は去年から今年の初春にかけて、友人の自主制作映画のプロデューサーを務めていた。その組に、るんげは録音・整音部として参加していた。1月某日はポスト・プロダクションの真っ只中で、作業が終了すると、疲弊した私とるんげは共に帰路についた。その帰路の途中の駅で、私がふと彼女に聞いてしまったのだ。「そういえば、東京にこにこちゃんは良かったの?」それが間違いだった。るんげの表情は見る見るうちに険しさを増し、彼女の周囲にはつむじ風が巻き起こり、異様な数のカラスがホーム上空を旋回し始めた。るんげはギロッと私を睨みつけて答えた。「良かったってレベルじゃないから!!!爆泣きだったんだから!!!」

当時から俳優・被写体としてhocotenのファンを公言していた私は、実のところ「あーあ、ほこてんちゃんの舞台観られなかったナー」くらいの落胆しか覚えていなかった。この無礼千万な態度は、後に完全なる間違いであることを気付くと同時に、るんげの擁護のスタンスに着火をさせた。「スギは絶対に観るべきだった。あのhocotenは観るべきだった。わたしはああいうhocotenが観たかったんだよ。ってか役者全員。マジで全員上手いから。凄すぎたんだから。ラスト爆泣きなんだから」るんげの語尾は終始強かった。

私は第一に「そんなに良かったのか……もちろん観たかったよ……」といういじけを示しながら、第二に「いやでも作業スケジュール的に休みなかったし仕方ないじゃん、それに俺たちの映画の方が大事なんじゃねえのかよオイコラ」という免罪符による苛立ちに挟まれ、アンビバレンスに錯乱していた。

私とるんげは別の電車だった。「もう観られないってのが悲しいな、演劇は。今回は無理だったけど、次回こそは必ず観に行くから」「違うのよ。今回のを、今回のをスギには観てもらいたかったんだよ。だから、もう」るんげが乗る電車が到着し、開いたドアを彼女がくぐる。車内には寂しげな表情のるんげがいた。電車が走り出すと、ホームに取り残された私は、自身が感じる強烈な後悔の念に自滅しそうになっていた。途方に暮れる私の頭に、カラスの糞が落ちた。

萩田頌豊与という人物については一方的に認識していた。それは去年の夏。前述した某自主映画にhocotenが出演することが決まり、hocotenの撮影前日に彼女と西荻窪で晩酌していた相手がつぐとよさんだったのだ。私は、果たしてロケ地にhocotenが寝坊せずに無事イン出来るのか、まだ見ぬつぐとよさんを信じて晩酌を許容していた(結果、彼女は途中で抜け出して前乗りに成功した)。その際にスタッフから聞いた「東京にこにこちゃんって劇団を主宰しているつぐとよって巨人がいる」という言葉が、彼への初認識となった。ちなみに、その晩酌には劇団・排気口主宰の菊地穂波も同席していた。思えば、その夜から私の人生は、かすかに三者とリンクするように鼓動を始めていたのかもしれない。私は運命論者だ。hocotenとのファースト・コンタクトもその日で、菊地穂波とのファースト・コンタクトも西荻窪の居酒屋だった。

るんげの太鼓判にはかなりの信頼を寄せていたが、いかんせんスケジュール的な不手際によって観劇を叶えられなかった『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』への想いは日々を増すごとに募った。私はとにかく、あの時のるんげの表情が忘れられないでいた。もしかすると、一生この後悔を抱えて生きていくのだろうか。二度と表象されない表現への想いを、未解決の状態で馳せさせながら生きていくしかないのだろうか。演劇の残酷さを身をもって知る。

 

そしてついに、その後悔が報われる機会が訪れた。映像収録ではあるものの、『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』を観劇することに成功したのである。方法は内緒。

 

号泣した。

 

一先ず、「号泣した」という語句がもたらす逆説的な大袈裟さを、私は支持していない。加えて、元々私は結構な泣き虫だ。ちょっとでもエモーショナルを察知すると、びーびー泣く。しかしながら、いささか陳腐な表現を使用したとしても、本作は文字通り「号泣」に値する。

追尾して、演劇のマッピングが白紙の白痴野郎であるシロウトの私の範疇においてではあるが、生まれて今まで観てきた演劇作品の中において、最も「号泣」に値した作品は、本作唯一である。泣ける=傑作という、果てしなく凡庸な褒めの方程式を説くつもりもない。むしろ、傑作という枠組みの中に「泣ける」というエレメントが内包されているといった方が相応しい。

そして、より厳密に言えば、これは「泣ける」ではなくて「泣かす」だ。こうした観客への豊かな作用は、その技術力を取り上げて称賛せねばならない。

 

『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』は、巷間指摘されるエモーショナルな輝き以上に、作劇的な技術力の、その水準の高さを備えた作品である。

まずもって、萩田頌豊与・作による脚本の「あまりの誤用の無さ」については、その完成度の高さに脱帽する。ここに於いて述べる「誤用の無さ」とは、書き手及び出演者たちによって行われた、完成度の研磨作業に他ならない。

本作の高度を示す点には、物語における出来事、及び仕掛けの配置位置の的確さが挙げられる。ほとんど教科書的なまでの配置の所作に関しては、それが教科書的であるがゆえに予定調和に陥る、ということを見事に回避して、すこぶるスムーズに推進力を発生させている。

たとえば、殊更に説明口調の台詞が羅列されることは序盤から皆無で、状況説明よりも先に、その状況下の人々の戯れのみで「状況説明」を遂行してしまう。観客の脳内に「なぜ?」「どうして?」が浮かぶ続けるように配置された台詞の数々は、いとも容易く興味の持続性を生んでいる。その疑問が浮遊する時間さえもがあまりにも完璧で、疑問が確信に変わる瞬間の「ハッとする歓び」に、観客は夢中になる。提示する情報、俳優のアクションの的確さによって、物語の推進力は一向に緩まない。

あるいは、ある登場人物だけが知らない事柄を別の登場人物同士が共有している場合、その「秘密」を観客も強制的に共有することになる。その「秘密」は次第に、キャラクター同士が遭遇/解離を行うたびに「バレるかバレないか」という緊張感を孕み始める。ここまで経過すると、もはや観客は作者の術中に嵌り込み、「秘密」が暴かれる瞬間の無意識的な不安感と爽快感に身を乗り出している。そして、本作はそれが暴かれた後も、さらなる出来事をリズミカルに頻出し、尚も推進を続ける。

実のところ、この作劇/ストーリーテリングの手法は、サスペンス映画の文法に近いと指摘できる。登場人物が認知していない事柄が観客のみに提示され、その事柄が露わになるまでのヒリヒリした時間を体感するのがサスペンスの基本的な作法だ。サスペンスは観客と登場人物に、どの情報を共有するか、もしくはどの情報を隠蔽するか、が鍵となる。

本作は、AがバレるとマズいのでAを隠し、Aを隠していたことからBという事態が発生し、よって暴かれたCによってDへと進行してしまう、という衰えない展開力の凄まじさだけでも特筆に値する。それが決して、奇をてらったこれ見よがしなスピーディであるわけでもなく、凡庸な筆致になるが「観客が気持ちの良いタイミングで事態が展開する」という、作劇セオリーへの満点に近い解答を叩き出し続けているのだ。余談になるが、つぐとよさんの談によれば、彼は京極夏彦のファンであるらしい(ブックオフに一緒に行った際に直接聞いた、『魍魎の匣』が好きらしい)。そういったサスペンス的な所作が、意識的であれ無意識的であれ、血のように刻印され、影響されていると推論するのもまた楽しい。

また、揶揄ではなく称賛として使用した「教科書的」な側面は、これも作者本人による談ではあるが、彼が敬愛するピクサー・アニメーション・スタジオのライティング・テクニックに倣った可能性が非常に高い。ピクサーのシナリオは、ハリウッド映画的な三幕構成を分単位で遵守しており(試しにタイマーで計測しながら作品を鑑賞すると、ストーリーのミッドポイントは必ず三幕構成のルール内で配置されていることが判明する)、マーケティング水準の高さのみならず、脚本構成を学ぶ上ではうってつけの教材になる得る。事ここに於いて、古典的な三幕構成を体得した作者は、その枠組みにおいて足し算・引き算・掛け算を試行し、大衆的な豊さを現出しながら、あくまでもオリジナルな作劇を目指して構成しているのが分かる。

たとえば、公演自体の尺に関してもほとんど完璧な時間感覚でしかなく、長くもなく短くもなく、誠に丁度良い。そして肝心要の約5分間のラストに関しても、その時間コントロールの手腕によって、センチメンタルへと移入することが容易に完遂されている。あらゆる思惑が躍動し、邂逅を果たすたびに推進する物語、それらが操作される正確な時間と空間感覚。こうした技術力がもたらす感動は、ピクサーで涙する際の感覚とほとんど同義であるが、それは過言だろうか。特に、2016年『ファインディング・ドリー』における作劇、展開、回想の挿入、個性豊かなキャラクターたちの右往左往、そしてそのキャラクターたちの「決断」による大団円は、本作ともいたずらにリンクする。面白くないわけがない。

これは極めて微妙なニュアンスではあるが、本作は戯曲として、よりも、脚本として並外れた完成度を備えているといえる。それは、読み物として書かれた文学的な側面よりも、発話され運動することを目的地として構築されているからだ。そんなことはあらゆる舞台脚本がそうだろうが、と投石されても尚、本作の躍動感はオリジナルで、ここまでして俳優/物語を信頼し切って完成されていることに先ずは感服した。

萩田頌豊与ただ一人によってこの脚本が完成された、とは、到底思えない。この指摘は、彼の筆力に対する批判ではなく、明確に集合知によって開拓された完成度であることが、観劇を通して察知できたからである。ひとえに、本読みや稽古を重ねる中で、キャストたちによる「加筆作業」が行われたことを、ここに推論する。つまるところ、作者と、作者の元に集った俳優たちの明晰な分析力と読解力、そして感受性を無くしては、この素晴らしい脚本は誕生していなかったであろう。萩田頌豊与と俳優たちは、癒着し、尊重し合いながらグルーヴしている。こうした作者/俳優のアンサンブルによるブラッシュアップの力学を「才能」と呼称する。したがって、この座組でしか発揮し得なかった、物語としての完璧なまでの「誤用の無さ」を誇る脚本は絶賛に値する。

 

加えて、ストーリーテリングやキャラクター設定/描写それ自体に対して、同情を誘うような無能感や甘えがない点は、萩田頌豊与本人の驚くべき作家性として確立されている。端的に言って、つぐとよさんは「強い」。これは俳優への演出においても散見される強度であるため後述するが、あくまでも彼の創作物には、ジメジメとした苛立ちやメンドウ極まりない悪意が含まれていない。躁でも鬱でもない、コメディでもありトラジコメディでもある、磨き抜かれた作家の強度。は、運動や音感をコントロールしつつ、物語/フィクション/ファンタジー/虚構そのものが持つ揺るぎない強さへと直結してゆく。まず物語それ自体のみに感動を覚えたのは、一体いつ以来の体験だろう。常に意識しているようで失念していたナラティブの魔力/引力/推進力/治療力を、観劇中における己のジョイフルな情緒をもってして知覚した。萩田頌豊与の独特のカリスマは、その身長の高さのみならず、こうした精神的な強度から為るものだともいえる。

 

演出面においては、これまた高い水準をもってして「演技を引き出すこと」に首尾よく成功している。はっきり言って、こんなにも出演する俳優が「全員漏れなく上手い」という事実に驚嘆した。否、そんなことは至極当然のミッションではあるが、それが行われている場が小劇場であるがゆえに、界隈のぬるま湯加減に一石を投じる役目を果たしたと言っても過言ではない。本作の演技巧者たちは、紛れもなく物語を推進させる装置としての機能を備えており、たったひとりでも欠けるとその運動が停止することが予測できるほどの、列記とした固有性を皆が獲得している。

 

本稿においては、特に、萩田頌豊与による「女優」への演出の秀逸さについて記しておきたい。

単刀直入に述べてしまえば、私はあらゆる演劇作品の中で「萩田頌豊与の演出による女優の芝居」というものが、恐らく最も好きかもしれない。もしくは、「萩田頌豊与の演出が施された女優たちは、皆漏れなく驚くほどに美しい」とも感じる。これは果てしなく個人的な感想に他ならない。しかし、観客にとってフェティッシュとは重要な要素だ。映画ファンである私は、この世で最も恐ろしいものは「女優」だと恐れているし、この世で最も美しいものも「女優」だと誘惑され続けている、分裂症の罹患者だ。

萩田頌豊与が女優に対して遂行するアティテュードは、あまりにも透き通りすぎている。無色透明とまでは言わないが、固有的なキャラクターを身に纏って描かれる女優たちの豊潤さの中には、悪質さや不快感が全く含まれていない。この姿勢は本当に素晴らしい。

大抵の場合、(男女二元論で論旨展開するつもりはないが)男性の作者は女優に悪意や怨念をしつらえて、婉曲したサディズムを行使することがほとんどであるし、異性への憧れと憎悪をアンビバレンスに内包させたキャラクターを、操り人形のように動かす下品さを露呈する。この鈍感なまでの醜悪さは、かなりの偏見ではあるものの、小劇場界隈、ひいてはインディーズ映画界隈においても多分に観測できる。というより、そもそも「女優」というものの扱い方/撮り方が「分からないまま」で実践している童貞たちがほとんどで、その暴虐ぶりには幾度となく呆れ果ててきた。男性権威的なマチズモも、搾取も、フェミニズムもアンチフェミニズムも、性的なリビドーも、どれも「女優」への本来のアプローチとして正しいとは言い難い。

ところが、萩田頌豊与が演出する女優たちには、恐怖も、憎悪も、過剰なロマンティークも感じさせず、素材として、その美しさが自在に表象されているのである。このことに対する私の評価は非常に高い。前述した萩田頌豊与本人の強度も相まって、小劇場とは思えないほどの女優たちの圧倒的な輝きぶりには恍惚する。ここには、女優目当てのファックオフな観劇おじさんを一撃で抹殺する殺傷能力を兼ね備えつつ、我々が渇望した「女優本来の素材としての美しさ」を目撃可能とする魅力が含まれている。単にスケべな作家であろうと、品行方正を提唱する作家であろうと、このヘルシーなまでの「女優」の状態へと導くことは不可能に近い難儀だ。こうした萩田頌豊与の女優への眼差しは、私見では女流的な作法だとも享受できる。また、母性や女性それ自体への健康的な憧れの強さによって、不健全で陰鬱としたオブセッションに押し潰されない強度が、ここに於いても示されている。

 

女優としてのしじみの名演を、私も映画ファンというアイデンティティに免じて幾多と目撃してきた(最近であれば『横須賀奇譚』による静的かつ叙情的な演技が記憶に新しいだろう)。小動物のように小さな肉体をもってして、壊れる寸前までの感情吐露を披露し続けた彼女は、しっかりと我々映画ファンの心をキャッチし続けていた。私の独断ではあるが、彼女に対しては「映画女優」という認識が極めて強い。ところが、恥ずかしながら彼女の舞台演技と初めて遭遇を果たした末に、あまりの素晴らしさに際して、それまでのトリコロールケーキなどの公演を観劇しなかったことへの後悔が倍増した。とにもかくにも「主役感」が凄まじい。抑制された身体動作が、ふいに崩れる爆発の瞬間を孕んだ、小さくて強力な時限爆弾。は、時折あまりにもキュートで、また時折あまりにも恫喝が似合っている。炎を手にした彼女の迫力もまた、サスペンスフルな脚本への相乗効果として機能していた。言葉ひとつひとつに付与された表情の数々が、彼女の女優としてのポテンシャルの高さを歴然と提示してみせる。本作のラストで感涙する者は、あの「背中たち」それ自体よりも、その光景を見た彼女の名演によって涙しているのだ。

完膚なきまでな毒親っぷりを体現する石井エリカは、台詞にもあるように西洋的なイメージが憑依しながらも、トレンディなスタイリングも抜群で、縦横無尽に舞台上を動き回る姿に感動した。彼女もまた、腹の底から大声で発声をさせられるが、ああいった脂ぎった印象を与えかねない役柄が、よっぽど健康的で、むしろ楽天性すら帯びていることに関しては、彼女本来のパーソナリティによるものが大きいのかもしれない。ヒドイオトナを演じながらも、どこか憎めない余韻を残すのは、彼女もまた家系における被害者である側面が見え隠れしているからだ。間違いなく、全キャストの中で最も運動神経の良い女優であると記憶していて、ハイヒールを履きつつ見事にポージングを決める彼女の運動に、可笑しさよりも美しさを見出してしまった。葉巻が似合ってしまうというポイントも素晴らしかった。そして、ラストでは夫のネクタイを直す彼女がいて、その安堵感、フィクションの力、俳優の動作による感動は、それまでの彼女を観てきた者への優しいサプライズだ。

ドラスティックでいささかクレイジーな瀬在を演じた矢野杏子は、もう何をしていても、どこにいても、どう動いていても、どんな表情をしていても、可笑しくて仕方なかった。彼女が出番の無い場面においても、ふと彼女の姿に視線を送ると、まるで正解としか言いようのない表情を保持し続けていて、あまりにも素晴らしい。途中、美笑の父親である実をエロティークに誘惑するような場面があるが、該当場面における彼女のエレクトぶりには頬が緩んだ。なんてたって彼女自身が凄まじく楽しそうに演じきっているのが良い。たとえば、ああいった役柄/発声を扱うことにおいて、(設定年齢はあれど)あの役をhocotenに演じさせなかったという萩田頌豊与のキャスティング能力は評価に値する。凡庸な演出家であれば、まずはあの役柄/スタイリングに対してhocotenをフィックスしたがるが、つぶさに考えて、それは間違いである。そのことは、矢野杏子自身の豊かでコメディエンヌ的なアクションの連続性によって証明されている。

葬儀場スタッフである久保を演じた青柳美希に至っては、萩田頌豊与からの信頼もあってか、甚だしいまでの安定性に驚かされる。彼女のエレガントでアカデミックな佇まいが、まずは観客にフィックスされ、後に恐ろしいまでの変貌ぶりを魅せる頃には、久保が大好きでたまらなくなっている。特筆すべきは、激昂を披露する際の、一切の瞬きを禁じたその演技アプローチだ。変顔に逃げるわけでもなく、ギョロリと真ん丸に静止した眼球は、標的を定めて逃がす隙がない。どんなに叫び声を上げようとも、その眼球だけは動かずにロックオン・停止を続ける様は、怒っているのにあまりにも面白くなってしまっているという、本作に通底する喜劇性への加担を容易に完遂している。ところが、青柳美希の表現力の高さから言って、こんなことは朝飯前の手腕だろう。また、青柳美希にスーツを着用させるという判断力に(フェティッシュは抜きにしても)拍手を送りたい。

エキゾチックな顔立ちから派生するドラスティックなイメージ、そしてエロティークが癒着されがちで、飛び道具的な役柄を身に纏う機会が多いhocotenは、本作では抑制されながらも飛躍を試みる葛藤の少女・楓を演じ切る。前述したるんげの言葉通り、私が観測したかった女優・hocotenの演技力の幅とは、まさにこの楓のような演技体であった。劇団「地蔵中毒」について綴った記事においても述べた事柄ではあるが、hocotenは「叫ぶ」ことが許された美しい発声を持つ女優である。彼女の「叫び」という発声によってもたらされる豊潤な作用は、たとえば地蔵中毒においては、作品と観客を関係させる力量、デペイズマンによる異化効果として機能していると指摘した。本作では、その彼女の「叫び」作用を、悲哀と同情への誘導装置として行使している。これは、終盤で彼女としじみ演じる美笑が抱擁する際に、その効果が最も発揮されたと言って良い。あの時点で、観客の涙腺を徐々に緩ませ始めていることは、楓というキャラクターを「予感」として機能させている。泣けてしまう、でもまだ泣かせない。最終目的地までの涙の「予感」は、観客の心にフィックスされる。ラスト、楓がフレームイン(と、映画では呼ぶのですが、演劇では何でしょう。とにかく、舞台袖から喪服姿の彼女が登場)してくる際の、その歩く速度の重々しさは、彼女の演劇的な運動神経の良さを明確に証明している。楓の、万を辞してのタイミングによる登場は、観客に間違いなく「終演」を「予感」させる。悲しみたくないと懇願していた彼女の表情はあまりにも哀しく、観客はその姿に瞬時に締め付けられる。「予感」の登場によって、次第に集う参列者たち。私は、彼女の登場のタイミングと、その抑制された肉体がもたらす悲壮感によって、もう涙が滲み出していた。hocoten、実は泣き顔が素晴らしく似合う女優だということを失念してはならない。

と、私のアイデンティティから、萩田頌豊与が扱った女優たちへの特筆事項を気味悪く敷き詰めてしまったが、重ねて、男性陣も含めた全キャストたちへの賛辞のスタンスに変わりはない(ぐんぴぃさん、サスペンダー似合いすぎていましたけれど、サイコパスの殺人鬼役でホラー映画に出演しませんか?)。東京にこにこちゃんに出演する俳優は、それだけで愛してしまう。というのは、誤った偏見でありミーハーに陥る危険性がある。まあ、誤ってナンボだ。

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演劇と葬儀は似ている。どちらも、形なきものが形あるものとして存在する時間があって、形あるものが形なきものへと還る時間がある。観られなかった演劇は、映画と違ってもう二度と観ることが出来ないし、それは人が死ぬことと似ているのかもしれない。しかし、演劇は死者を生者として表象することができる。死にあらがうのではなく、死を受け入れてあげる。喪失された時間を、再び獲得することができる。

脊髄反射的に涙腺が緩み始める『21世紀を手に入れろ』が流れる中、文字通り「子供たちに私利私欲をなすり付けるオトナたち」が、その罪を炙るかのように、通過儀礼として炎に飛び込む。その中には子供も含まれているが、ここではそうした各論よりも、美笑を「子供」と捉えた総論で紐づけたい。『トイ・ストーリー3』焼却炉シーンへの喜劇から示す解答のごとく、エキサイティングな「熱い」展開を経て、やがて物語は他愛もない、優しい一言で終わる。終わるが、「予感」は残されている。完璧な推進力を維持しながら、このラストのために。

 

実のところ、私は本作に歓迎されるべき、相応しい観客ではなかったと告白する。『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』というタイトル、そのシノプシス、そして喪服を着た演者たちの写真からして、本作のラストシーンを予想できた。その予想は、後出しジャンケンになるが、実は当たっている。ラストで鳴る音楽も、予想通りだった。その上で「ラストがその予想通りならば、俺は泣かないね」と、意地っ張りで天邪鬼な私は、自分は本作で決して「泣かない」とタカをくくっていた。

 

にも関わらず、である。そんな私でさえ、このラスト5分間には、本当に泣かされた。あまりにも食らった。

 

観客への褒美の品として、ここまで抑制されてきた純度の高い感傷が、炸裂的に行使される。こうした褒美の品=ラストで急に感傷的/感動的になる、という構造は、自慰行為における射精液のような嫌悪感を残しかねない。事実、私はそういった自意識過剰な、個人主義な演劇をいくつも観てきて、そのたびに「人間をナメるなよ」と中指を立てながら席を立っていた。とは言え、東京にこにこちゃんは全くもって例外である。前述した萩田頌豊与の作家性の強度、悪意も不快感も自慰性もない才覚によって、本作は広義的な意味で「感動的」な傑作へと帰結している。

本作が作者自身の父親の死、その葬儀のリベンジマッチとして構想されたにも関わらず、萩田頌豊与は、決して演劇を自分という王のためだけの場所として独占しない。父親をトレースした叔父を登場させるにも関わらず、それは父親の死というオプションと物語を連結させる機能として、それ以上でもそれ以下でもなく、冷静に活用してみせる。本作が素晴らしいのは、過去への後悔に対する想いに呪縛されるのではなく、未来に対する物語として徹頭徹尾完成されていることだ。

劇中で反復される「背中」は、ラストにおいてその意味を変容させる。それまでの物語、あるいは総ての瞬間に意味が付帯され、そのまばゆい輝きの美しさは、私のような白痴をして「死ぬまで逃れられないエモーショナル」と称し、完膚なきまでの敗北宣言を示すに至る。個人的には、現状、本年度ベストの演劇だと断言したい。

 

と、ココまで綴ったところで、遠くから声がする。笑い声だ。つぐとよさんがニッシッシとほくそ笑んでこちらを見ている。一体、何を嘲笑っているのか。一体、何を企んでいるのか。私はアイツに泣かされたのか。アイツに笑わせられたのか。彼の創作物に対するラブレターじみた本稿、それを書いている私自身を見て笑っているのだろうか。まあいい。泣かれるよりは幾分もいい。私はつぐとよさんの創るものでこれからも笑いたいし、つぐとよさんは俺のマヌケを発見したら大いに笑ってくれていい。悔しさではなく、こんなに素敵な物語と出会えて、俺は本当に嬉しかった。だから笑われていいと思えたんだ。狂人の目は、漏れなく澄んでいて美しい。つぐとよさんの目がそうだ。その眼鏡の下に隠したって、いや隠してないのかもしれないけれど、全部お見通しなんだからなッッ!まあ、狂っているということは、間違いなく天才ってことなんですけれど。最後に、つぐとよさん、いや、東京にこにこちゃんに言えることはたった一言だ。ありがとう。

 

 

あなたの好きな人と踊ってらしていいわ

やさしい微笑みも

その方に おあげなさい

けれども 私がここにいることだけ

どうぞ 忘れないで

 

きっと私のため 残しておいてね

最後の踊りだけは

胸に抱かれて踊る

ラストダンス 忘れないで

 

-『ラストダンスは私に』越路吹雪

 

 

【MULTIVERSE】