20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

オルケスタとしての肉汁サイドストーリー、或いは、破られた最後のページ【肉汁サイドストーリー『さる沢』雑感②】

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「アタシはチャラチャラした連中を見ると、はらわたが煮えくりかえるんだ。世の中はどう見たって、アタシのためにはない。あいつらだよ、あいつら。ちくしょう。殺してやる。てめぇらに逃げ道はねえぞ。アタシにもねえぞ」と、一人一人が思っている世界。厭な時代には、厭な演劇を。肉汁サイドストーリー、『さる沢』。

 

誰もがテレビの中でゲラゲラと笑っているような明るい時代じゃない。常に不安を抱いている。テロと天災が決定打となり、ゼロ年代テン年代も、抜け出せない暗黒が広がり続ける20年間だった。2020年からその先もまた、光り輝く未来など、絶対に待っていない。我々は平穏な暮らしを送れないことに気づいてしまっている。ミサイルを作って試し撃ちをする国や、ツイッターにうつつを抜かす大国のトップの言動に右往左往する時代、誰がハッピーなものか。

 

演劇は、即物的な機能として明言してしまうが、娯楽である。娯楽だから、楽しい憂さ晴らしになっている。たとえ、それがホラー演劇であったとしても、どこかスカッと、感情のわだかまりを壊してくれる。その一方で、厭な後味を残す演劇だってある。そこで、「なんで、こんな苦い後味の演劇を観たんだろう」と考える、考えることこそに、演劇ひいては、表現研究の価値が生まれたりする。

 

しかし、ほとんどの民たちは「考える」ことを放棄している。演劇や表現を見ても、考えることはなく、なんとなく感動した実感を刹那的に味わいつつ、すぐ様に忘れてしまう。それこそ、即物的な、インスタントな意味における「消費」である。他人の表現に触れても、そのさらに芯の部分にまで触れてみたいという欲望が、ほとんど発生していない。なぜか。その表現と自分自身に、関係がない、と思考しているからである。演劇や音楽や映画や書物の、言っていることもやっていることも、そもそも自分には関係が無いと思わされてしまっている。では、思わさせているのは誰か。それは時代であり、国家であり、世間である。この国には、あなたの力が必要なんです、今を生きる一人一人が主人公なんです、と、声高らかに表明したところで、「自分の存在が無くても、時代も、国家も、世間も絶対に回っていく」という自覚がある。近年の我が国における投票率の低さは、まさにこの思考がトレースされた結果とも言える。「自分が選んだところで、世間は変わらない。世間は、自分のことを選んではいない。それなら、自分はそもそも、選ぶという行為それ自体が無意味なので、選ばない」と、国民の一人一人が思考する時代は、間もなく到来してくるのではない。今、がそうだからである。

 

この、例え自分が選ぶ/選ばないを放棄したとしても、世界は自分と関係なく回り続ける、という状態は、民を思考停止に陥らせる。そういった人々は、よしんば芸術に触れたとしても、その芸術を作り上げた作家のクリエイティビティや、作品に込められたテーマやメッセージは何か、ということを、考えようとしない。しない、のではない。やり方が分からず、できない、という方が、寄り添った言い方かもしれない。論をやや強引に飛躍させるが、芸術に関心を持たなくなる、ということは、最終的に教育の崩壊につながる。「学ぼう」としないからだ。学ばなかった人は、選ぶ/選ばない、という自分の意志や主張を、物理的な意味で「持つことができなくなり」、他人に託し始める。他の誰かがきっとどうにかしてくれるだろう。他の誰かがきっと自分と近い考えを言ってくれるだろう。自分にはこの世界に影響を与えることができない。自分は特別でもなければ、選ばれてもいないのだから。

 

映画『マトリックス』は、我々が生きている世界は、実は機械生命体が作り出した「夢」であり、人類は皆、胎児のように眠っている姿が描かれていた。『マトリックス』は、ポップカルチャー史においても、哲学史においてもディープインパクトとなり、その影響は計り知れないが、もっとも、『マトリックス』が公開した年、全米での自殺者の数は倍増した。残された遺書には「このクソ最悪な悪夢から覚めるため、わたしは目を覚ますことを選ぶ」と書かれているものもあった。公開から翌年に起きた銃乱射事件では、見ず知らずの人々を大量に撃ち殺した犯人が「この世界は仮想現実で、本当の現実ではない。自分は、彼らを夢から覚ますために撃ち殺した」と、供述した。彼はその際、自らを救世主、と称し、撃ち殺していった人々のことを「選んでやった」とも述べている。不謹慎を覚悟で言ってしまえば、彼は、その時、その方法でしか、世界と関係が持てなかったのかもしれない。しかし、『マトリックス』と言う映画は、この現実はフェイクだ、だから何をしたっていい、人を殺したっていい、黒人をリンチしたっていい、ガキの列に車で突っ込んでもいい、ティーンエイジャーをドラッグ漬けにして、レイプしまくたっていい、役に立たないヨボヨボの老人はショットガンで撃ち殺したっていい、異なる宗教を信仰している異教徒は全員殺してしまった方がいい、威張っている国はうぜえから、その国のビルに旅客機で突っ込んだっていい、何をしたっていい、キミが救世主だ、キミがそれを「選べ」、と、観客に伝えるために作られた表現だったのだろうか。答えは簡単だ。「考えれば分かる」「考えれば、分かる」のだ。芸術や表現は、「他人の考えに対して、自分はどう考えるか」ということの偉大さを教えてくれる。物語やキャラクターや作者が我々に提示するのは「答え」ではない。「果たして、あなたは、どう考えますか?」という、問いかけである。『マトリックス』の監督ウォシャウスキー姉弟だって、ちゃんと観客を信じて、この問いを投げかけたはずだ。現実を打破したり、変えることが出来るのは世界ではない、自らの意志と行動なんだ、それは、劇場から出た瞬間、ボクにだって出来ることだ。さあ、サングラスを掛けて戦いに臨もう。そう「考えてほしかった」。もう一度繰り返す。「考えれば分かる」。考えることの幅を狭めると言うことは、学ぶことの関心を失い、芸術の価値を見出せなくなる。

 

肉汁サイドストーリーの『さる沢』は、「考えることを放棄された」という意味において、客観的な立場から評するに、極めて不幸な作品であるといえる。加えて、『降誕節』『セメント・モリ』という以前の公演よりも、少なくとも、SNS上での「受け入れられ方」はスムースで、割合として「称賛」の声が多い、という状況を観測することができる。こと此処において歴然としているのは、『さる沢』はユーザーたちによって、あまりにも容易く「消費」されてしまった、という事実である。この点において、ワタシは、肉汁サイドストーリー側への責任追及は、作・演出のるんげを除いて、一切行わない。なぜか。『さる沢』を、暗く、憂鬱で、アンチカタルシスな演劇として、あまりにも上辺だけをなぞったような、定型文に収めて、「思考停止」を露呈した頭の悪い感想ばかりを目にしたからである。つまり、この状況を現出させたのは、我々観客側による加担が大きいものだと考えられる。もっとも、それは我が国が平和で、ぬるま湯であることの決定的証拠だとも言えよう。

 

このインスタントでコンビニエンスな「暗さ」「鬱っぽさ」「重さ」「深刻さ」というジャンルへの選別が、観客によって成されている構図を見ると、寒気がする。もはや、咀嚼する気が無い大衆たちによって、『さる沢』という美しく、おそろしい作品が、あまりにもお子様ランチ的な絶望と化し、その受け取り易さだけが蔓延している。杉浦が述べていた「『さる沢』は極めて音楽的であり、その音楽的な多幸感に思わず涙した」という感想には、なんの新鮮味もない。杉浦側が、甘えん坊の子どもであり、勝手に『さる沢』を離乳食として、消費しているだけのことである。それに、彼の涙は、端的に言って、自慰行為における射精液と、ほとんど同じ意味しか持っていない。

 

この、作品の本質とは密接には関係していない、表面上の「マイナス因子」を、観客が過大評価するという構造は、今年公開された映画『ジョーカー』と酷似している。ワタシは『ジョーカー』を傑作だとは感じるが、それは、あの映画が暗く、憂鬱で、絶望的である、という理由から発生するものではない。そもそも、『ジョーカー』は、一般大衆が過剰に煽るほどの、絶望を兼ね備えていない。あの映画には、ホアキン・フェニックスという生物の名演が記録されており、それ以上でも、以下でもない。しっかりとマーケティング的に、つまり「商品」としての毒素はデトックスされているし、主人公のアーサーとは真逆の生活を送るような、幸福な人々に対して、激しい嫌悪感よりも共感を持って迎えられてしまっている点が、あの映画が商品として「消費」されてしまったことを歴然と物語っている。本当の、本当の絶望、と、いうのは、その作品を観たことを心底後悔することができるし、その作品に抱いた感情を、口にすることさえ気持ちが悪く、一刻も早く記憶から抹消したいと願い続ける、そういったものだ。「消費」される「負の感情」は、先に述べたこの暗黒の時代には、至って「生ヌルい」と、ワタシは感じる。

 

ワタシは『セメント・モリ』の通し稽古を映像でのみ拝見し、実際の公演には足を運べなかった。行けなかった後悔と等しく、本当に行かなくてよかったと思える安堵感すらあった。通し稽古でさえ、『セメント・モリ』の絶望の強度は凄まじく、感情が沸点に達して涙が出て来る、なんて生優しさはない。純度100パーセントの暗闇、がそこには出現していた。それは紛れもなく作・演出のるんげとオールキャストが起こした呪術のようなものであり、そして、純度100パーセントの絶望や呪いは、純度が高いゆえに、あまりにも美しかった。ワタシは、二度と、『セメント・モリ』を、見ることができない。とにかく、あの作品には、一切の「おためごかし」が無かった。ある意味では、観客、いや、世界に対して攻撃的な、暴力的な、オフェンシブな態度すらあった。ワタシは、この世界に『セメント・モリ』が「ある」ということを、本当に恐ろしいと感じたし、本当に美しいとも感じた。加えて、台本のみを拝読するに至った、宇宙空間から混血列島に落とされた禍々しい生命体のような、あの異様で歪つな『降誕節』に関しての感想は、言うまでもない。

 

『さる沢』はワタシにとって、肉汁サイドストーリーを初めてその目で観劇するという試みであった。ここで前2作『降誕節』『セメント・モリ』との比較は、あまり重要なことではない。単に、それぞれの場所でそれぞれの時期に、それぞれの闇がそこに出現していたわけであるし、確かにそれを作り出した人間がいて、確かにそれを目撃してしまった人間がいる、という事実だけが『さる沢』にとっては重要である。『さる沢』は、一般的な層に、と、敢えて定義してしまうが、彼らが何一つとして困惑し、戸惑い、おそれることもなく、あまりにも容易く受け入れられてしまったという現状を生み出してしまった。どうしても針穴に糸を通すことができなくて、ついには諦めてしまう、どうしても知恵の輪が外せないが、その知恵の輪には初めから外す方法など存在していない、といったような、おぞましい虚脱感というものが、「ある」にも関わらず、民にはそれを吸収し、消化してしまう余裕が兼ね備えられていた。そう、『さる沢』には明確に、ワタシが肉汁サイドストーリーに欲求するようなおぞましさも、おそろしさも、美しさも「ある」のだ。ワタシは「ない」という論旨展開をしているのではない。「あった」ものが、大衆に開かれた、普遍的な、薄められた霧だった、ということを特筆しておきたい。深い霧というものが、『降誕節』『セメント・モリ』には広がっており、一度その中に足を踏み入れると、まるで脱出することが出来ない不安感やストレスすらあった。『さる沢』の霧は、遠くから見ると深く濃い色をしているが、いざ中に入ってみると、視界は良好とは言えずとも徐々に慣れ始め、その霧の濃度が、それほど高くなかったことを認識する。そして、最も大きな違いは、その霧が、晴れ切ってしまう、という点である。観客は脊髄反射的な不安感を抱くものの、結果として、その霧からは、抜け出すことに成功するのである。これはなぜか。

 

まず、原作にもなった「猿沢伝説」は山形県発祥の民話であり、よしんばその内容が、あまりにも救われない残酷性をはらんだものであったとしても、この民話自体に閉塞感は無い。物語以前のプレ物語としての、教訓もカタルシスもない民話の残酷性は、その強度とは全く別のベクトルで、民話である以上、開かれた物語であるという点からは逃れられていない。伝承とはつまり、そういうことから分断することはできない。とは言え、この開放されている歪さに対して、本作は脚色を幾多も施しており、その様は秀逸且つ見事である。しかし、この脚色によってもたらされた付加価値は、民話というプレ物語を解体し、その過程で「物語」として再構築していく作業に他ならなかった。るんげによる本作の脚色は、そのほとんどが、彼女自身のパーソナリティに関わる体験を元に具現化されている、というオプションを「含まなくとも」、一つの「物語」としての完成度は研ぎ澄まされており、その完成度は極めて高い。が、「物語」として研磨され尽してしまった「物語」は、その完成度ゆえ、歪さやおぞましさを希薄させると同時に、大衆性とカタルシスを獲得してしまう。その過程に、書き手であるるんげの、極めて個人的な思惑や願いがエッセイ的に書き込まれていたとしても、全く同じ理由で、その体験は主語を失い、観客と一体化する。唐突に断言してしまうが、肉汁サイドストーリーという団体は、この一体化を望んでいる団体ではないはずである。「分断する」ことが容易く可能であり、「分裂症」的なおぞましさと悲しさを常にまとうことが難儀ではない、そんな団体であるとワタシは捉えている。図らずも、『さる沢』は、その物語としての完成度の高さ、脚色の研磨された秀逸さ、そしてそれらを体現する役者陣のフィジカルとリズム感覚の良さが相対的なケミストリーと化し、「誰しもにとって分かり易い物語」と化してしまったことを、ワタシは否定できない。これは言い換えれば、「分かり易い絶望」が、「分かり易いものしか摂取したくねえ」という一般層の観客に、何の障壁も越えずに「分かり易く」伝播していってしまったことを意味している。

 

ここにおいて、観客に伝わらなければそれは第一に表現としては失敗している。だから「分かり易い」ことを揶揄するのはお門違いだ、という反論が考えられ得るが、真空を切り、微風も起こらない。なぜか。「それ」をやるべき団体というのは、他にもいるからだ。ワタシは、肉汁サイドストーリーが「それ」を遂行することに、大きく賛同することはできない。彼らには、もっと鬱屈したペシミスティックと、震えあがるようなユーモアと、燃え上がる情念と、知的なアカデミズムと、そして、消えることのない灯台のともしびのような、あたたかいやさしがある。そう信じて疑わないからだ。「なんでこんな演劇を作ったんだよ、こんなものを見せないでくれよ、やめてくれよ」という激しい拒否反応と、その拒否反応を引き起こす唯一無二の装置としてこの団体が機能しているのであれば、「味わいたくない感動を味わいに演劇を観に行く」というアンビバレンスが発生し、観客は引き裂かれると同時に、自らこの団体に呪縛される、のである。

 

『さる沢』は、この世には「愛されなかった者」「選ばれなかった者」が「いる」、ということをかかげているが、指摘すること自体が野暮であると知りつつ、その「愛されなかった者」「選ばれなかった者」とは、肉汁サイドストーリーであり、作・演出のるんげそのものである。お前らは愛されていない、と決めつけをしたいのではない。「愛されなかった」「選ばれなかった」人々の物語を描くのであれば、そうでなくてはならないからだ。「選ばれなかった」人々への救いも、激励も、同情もいらない、「選ばれなかった」というその景色そのものの定点観測を行うことに重きを置いた『さる沢』は、非常に冷ややかで、モノクロームな色をした山形県を目の当たりにしているようで、ほとんど怪談話を聞いているのに近い冷たさがあった。肉汁サイドストーリーのひとつの側面として、アンチ欺瞞、人間なんてマジどうしようもない、みんな寂しいんだから、という視点や姿勢は、本作にも刻印されてはいる。しかし、果たして『さる沢』は、「選ばれなかった」人々にのみ焦点を絞り切らなかったこと、つまり前述した「あなた方を救おうとも怒ろうとも、激励しようとも考えてはいない」というるんげの研ぎ澄まされた刃が、あろうことか、「愛された者」「選ばれた者」たちの心にも、「突き刺さって」しまっている、のである。作り手は、アンタらにウチらの気持ちなんて分かるはずが無い、というか分かり切ってほしくも無い、そんなにつらかったんだねえ、わたし悪いことしちゃったねえ、ごめんねえ、と思ってほしいとは、微塵も考えてはいないはずだ。が、それが先に述べた完成度ゆえに、彼らにも「なんとなく」伝わってしまい、「なんとなく」感動させてしまっている。己が目標と定めた敵、が、ノーダメージなのにダメージを受けた錯覚を起こして「あなたの気持ちよく分かりました。本当にごめんね。悪かったね」と涙を流してくる姿こそ、最も吐き気のするおぞまき物体である。所謂「愛され」に分類される人間が持っている安っぽい負の感情までも、この作品はカヴァーしてしまい、だからこそ普遍的な作品と化している。しかし、ワタシは肉汁サイドストーリーのユニバーサル化を、ここに見に来たわけでは、決してない。

 

持論である以前に、敢えて暴論と言ってしまうが、『さる沢』には「選ばれなかった者たちが「いる」ことを知っている」というペシミズム且つ距離を縮めない包容力の、「その先」をどこかしらで描いてほしかった。いや、語尾を強めると、描くべきであった。

 

愛されない者たちにとって、誰かが隣に寄り添いつつ「わたしはあなたのことを心から愛していますよ」と優しい言葉を投げかけて来ることほど、嘆かわしいことはない。偽善的な、おせっかいにも近い嫌悪感を感じて、その哀れみは、やがてはらわたで煮えくり返る。鬱病の人間に「頑張れ」と、もしくは「頑張らなくていいんだよ」と応援をすると、どちらにせよ彼らは自己嫌悪に陥るという構造とほぼ同じく、肉汁サイドストーリーは、愛されなかった者たちに「言葉」を投げかけることを最善の術だとは恐らく考えていない。なぜなら、それが「嘘」になるからだ。そんな「言葉」で、我々が「愛されなかった」ことを肯定することなんて、死んでも出来ない。「嘘」の言葉を投げかけるよりも、ただ「愛されなかった」者の話を、黙って優しく頷きながら聞いてあげるような、そういった「彼らなりの正しさ」に舵を切っているのが『さる沢』の本質だとも言える。ワタシも、その点には激しく同意するし、だからこそ、この団体への信頼感は厚い。

 

ところが、この作り手と「愛されなかった者」への距離は、果たして、本作においては適切なものではなかったともいえる。距離が遠くあるがゆえに、その合間に、「愛された者」たちまでもが侵入できる隙を与えてしまったから、である。彼らは「これはわたしのために書かれた物語だ」と、心から思って感謝していることは、絶対に無い。『さる沢』は、実のところの主語である「るんげ」という書き手自身が、意図的に「物語」から「自分自身」を切り離そうと努めながら、その最上級のバランスを保つことに成功した作品である。書き手からすれば、それでも尚、本作と自分自身の重なり具合は、まるでグラデーションの如く「ある」と自負しているのかもしれないし、なんなら脚色の痕がかなり多いと、感じているのかもしれない。特に、梅津ひかるが演じる姉、への思い入れは、観客と言う客観的な立場から察するに、非常に大きなものだったとも感じる。が、繰り返しになってしまうが、本作は、その脚色による物語構築の、技巧としての完成度の高さゆえに、個人と主語が、化石のように死に絶え、生きてはいない。そこには、得体の知れなさや、近寄りがたい禍々しさが毒抜きされた「主語を失った個人史」が「脚色された民話」という骨格に肉付けをされ、直立している。「これはるんげの物語であり、これはるんげの物語ではない」という絶妙なバランスは、各論としては強固な丈夫さを保つが、それらが集合し、総論と化すと、圧倒的な赤裸々さと正直さに欠ける。端的に言って、パンツを脱いでいない。パンツを脱いでみると、その下にもパンツを履いており、さらにその下にもパンツが履かれているのだ。しかしながらワタシは、るんげは、絶対にパンツを脱いでいる、と豪語したい。彼女は創作物に対して、照れ隠しを除いて、絶対に手加減はしないはずだからだ。そのことは噛んで含めるように、我々にも理解が出来る。ただ、実のところ、それはまだ、脱ぎ切ってはいない。慎重に練り上げられたプロットは、その筆力の高さゆえにパンツを降ろしにくくしていることに繋がっているとは、書き手だからこそ中々気付けない。無自覚な天才をフォローするのは、周囲の団員の職務だとも考えるし、他の団員が、決して彼女のご機嫌取りだけの機能では無かったことも、我々は理解している。脱いだパンツを再び履き直させた団員がいたとしても、それはどこまで突き詰めようが、書き手である「るんげ」当人の問題として集約する。役者陣の素晴らしい仕事については、この件とは全く分離されたコンテンツであるので、言うまでもない。だから、ワタシは始めに述べた通り、この『さる沢』がもたらした現象に関して、観客と作・演出のるんげに対してのみ、責任追及をしている。るんげにおいては特に、彼女による完璧なまでの演出、ではなく、彼女による、ある意味「完璧な」台本についてである。

 

恐らく、肉汁サイドストーリーは、自己満足としてだけの演劇を目的とはしていないし、していたとしても、金がもらえるからという理由であれ、集客はしている。なので、演劇を自慰行為と同じものには捉えてはいないだろう。とは言え、寂しがりやの天才に許された自慰性は、芸術の魅力をより良く研磨する。ワタシは、まだ現時点、というのはあまりにも上から目線で申し訳ないのだが、現時点において、肉汁サイドストーリーにその自慰性は認められているし、何より、それを認めようとしない観客、メンバー、その他界隈とは、断絶を引き起こすくらいが、この団体の、劇団としての迫力に繋がるはずである。

 

書き手である「るんげ」は、「るんげ」の物語を、より正直に、より手加減なく、書いてしまって良かったのだ。ストーリーテリングというオブラートに包むことは、「愛されている者」たちにとっては全く必要ない。作者の思惑と物語の虚構を巧みに連結することこそが、寓話的な美しさでもあり、『さる沢』の寓話性は、あらゆる意味で高いといえる。『さる沢』は演劇として、お世辞抜きに「面白い」演劇であるし、「面白くなる」ように努力している箇所が、いくつも見受けられる。だが、本作は実際のところ「100人が見たら80人くらいは褒めてくれる」作品であって、「わたしのための物語」あるいは「あなたのための物語」では、無かったとも言い換えられる。「消費」されるために書いたのならば、この論考の言葉は、何もかも見当違いである。しかし、「消費」されることへの反抗が、ワタシは肉汁サイドストーリーには「ある」と考えている。商品、作品、団体が消費されるというよりは「るんげ」というコンテンツ自体を、安い感動/絶望として、売ってしまって良いのだろうか。「つまらなくなることを恐れずに書き上げた情念」が、『降誕節』『セメント・モリ』には、明確に存在していた。比較をするべきではないならば、こう結論する。『さる沢』は「完成度の高い面白い作品であることには成功しているが、つまらなくなることを恐れずに書き上げた情念は、感じない」と、いうことである。

 

『さる沢』は、そのプロットから想起するに、間違いなく肉汁サイドストーリー、ひいてはるんげにとって「鏡」になるような作品であったと考えている。深層心理的な意味で、最も見たくないものが鏡に写った自分の顔であるかのように、『さる沢』は見た者を、演者を、そしてるんげを苦しめ、活性化させる装置になると、見る前は予想をしていた。ところが、実際の『さる沢』という鏡は、実物大ではなく、スクエアサイズにトリミングされたセルフィーの画面であり、どんなに苦しい表情をしても、目は大きく、頬はピンク色に、自動補正されてしまっていた。その顔は確かに美しいが、それこそ、「嘘」にはならないだろうか。

 

ワタシは、るんげ本人との知己があり、彼女が全くの初心者ながら、共に一本の映画を製作した身としては、勝手ながら「仲間」であるし「大切な友人」だと、心から思っている。だから、残念ながら、ワタシは彼女の紡ぐ「言葉」が、本当は好きだ。客観的な立場をいくばくか偽ろうとも、他人からしたら我々は「身内」と呼ばれても、致し方が無い。とは言え、ワタシは演劇という芸術それ自体とは分断されながらも、るんげというフィルターを通して、今回、とても興味深く、自分にとっての「演劇」を、見つめ直すことが出来た。この論考、並びに感想を話すに辺り、一切の「嘘」は無い。それが、『さる沢』を観た観客としての、本作に対するアンサー、である。

 

結びに、ワタシのアイデンティティとして、本作とまつわる、三つの事柄について話しておきたい。

 

恐らく、『さる沢』と最も近い構造とテーマを持った作品に、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』という映画を挙げることが出来る。アリ・アスターは前作『ヘレディタリー 継承』で、世界そのものを呪って、明らかに他の映画とは異なるディメンションの磁場を発生させた才人であるが、『ミッドサマー』は、その彼の最新作に当たる。本国アメリカでは既に公開済みであるが、日本では来年2月公開の運びとなり、ワタシは配給のファントムフィルムの仕事の遅さに嫌気が差し、ソフトを輸入して、一足早く鑑賞した。『ミッドサマー』と『さる沢』の何が類似しているのかと言えば、それは『ミッドサマー』のテーマを述べさえすれば事足りてしまう。端的に言って、『ミッドサマー』という映画は「選ばれなかった者が、ついに選ばれたときに、一体何を選び、何を選ばないのか」ということを描いた作品である。そこには、選ばれなかった者、愛されなかった者、つまりは監督であるアリ・アスター自身の、全くの手加減が無い世界そのものへの暴力性と、それでも、その絶望から這い上がるための微かで美しい希望が、残酷なまでに映し出されている。アリ・アスターは鏡を割ることを選ばずに、じっくりと、自分自身の極限までを、その鏡を通して見つめ直すことに成功している。彼は愛されなかった者たちへ投げ掛ける。「今いる世界が闇ならば、光を浴びに別の世界へ一歩進まないか。たとえその別の世界が、地獄だったとしても」光り輝くスウェーデンの地獄で、果たして選ばれなかった者は、今まで見たことが無かった光を目の当たりにして、地獄の底において、救われるのである。

 

北欧スウェーデンが舞台だった『ミッドサマー』から繋げて、同じ北欧、デンマークが生んだ世界最大の童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンと『さる沢』を結ぶことも可能である。アンデルセンは、生涯誰からも愛されなかったことで有名である。一説によると、彼はアスペルガー症候群だったともいわれている。彼はたくさんの人を一生懸命に愛して来たが、誰からも愛されず、孤独に死んでいった。ティム・バートンアンデルセンの生涯それ自体に大きく影響を受けて『シザーハンズ』を製作したとも言っている。『アナと雪の女王』の原作であり、脚色ゆえに原作としての意味をまるで失くしてしまった『雪の女王』や、王子様に恋する人魚の悲哀に満ちた『人魚姫』など、どれも「一生懸命に人を愛するが、誰からも愛されずに、やがては孤独に死んでいく人々」の物語で、アンデルセンは、そんな彼らを生涯描き続けた。ワタシが『さる沢』を観て思い浮かべたのが、アンデルセンの『ひなぎく』という短編である。

主人公は雑草のひなぎくで、彼女は誰からも知られぬまま、道端で咲き続けている。ひなぎくの頭上では、ひばりが飛んでおり、いつも楽しく歌を歌っている。ひばりはひなぎくには気付かないが、ひなぎくは、そんなひばりの楽しそうに飛び回る姿を見て、いつもあこがれていた。そこに突然、ひばりが降りて来る。驚き、喜ぶひなぎくに対して、ひばりは優しく言う。「きみはなんて可愛いお花さんなんだろう。きみは"黄金の心"を持っているだろ」と。ひばりは、ひなぎくの姿を見て降りて来たのではなく、ひなぎくの心を見て、降りて来たのだ。「君の心は、素晴らしいだろう」ひばりはひなぎくにそう言ってくれる。ひなぎくは、そんなことが言われたことが無かったので、心から喜んだ。ところが、そこを通りかかった人間の子どもたちによって、ひばりは捕まってしまう。ひばりはそのまま檻に入れられてしまう。子供たちは「花とか草もあった方がいいだろう」と言って、ひなぎくもまた、地面と共にさらわれて檻に入れられてしまう。ひばりもひなぎくも、檻の中で、どんどんと弱っていく。結局ひばりは、ひなぎくに「かわいそうに」と言い残して、そのまま衰弱死してしまう。そのあと、ひなぎくも枯れてしまい、やがて死んでしまう。死んだひばりと枯れたひなぎくを、子どもたちは道に捨て、去っていく。一番最後の文章には、こう書かれている。「それから、誰、一人も、ひなぎくのことを思い出す人はいませんでした」

果たして、これは童話なのか。これを子供に聞かせて、どう思えと言うのか。何もいいことがないのだ。黄金の心を持っていても、ゴミのように捨てられて人生は終わる。しかも、誰もひなぎくのことを覚えてはいない。これこそがアンデルセンの心の底からの叫びだった。ハッピーエンドをつけて、商業的に売ろうという考えが無い、恐ろしい童話が『ひなぎく』である。よしんば、ひばりはひなぎくのことを「選んでいなければ」死ぬことは無かったし、ひなぎくもまた、ひばりに「選ばれていなければ」死ぬことは無かった。この物語における「選ぶ」「選ばれる」という行為は、果たして希望なのか、それとも絶望でしかないのか。『さる沢』における猿にも、ワタシは「黄金の心」があったと、考えている。

 

「黄金の心」という言葉は、アンデルセンと同じくデンマーク出身の映画監督、ラース・フォン・トリアーとも繋げることができる。トリアーは『イディオッツ』『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の三作品を称して「黄金の心三部作」と名づけている。この三部作に共通しているのは、三作とも女性が主人公で、その主人公が人のために尽くそうとすればするほど、事態は悪化し、酷い目に遭っていくという映画であることだ。この「黄金の心=ゴールデンハート」という言葉は、先に述べたアンデルセンの『ひなぎく』から引用されたものではないと、トリアーは語っている。曰く、彼は子供時代に、図書館である一冊の絵本に出逢った。それは『ゴールデンハート』という絵本だった。

ゴールデンハートとは、主人公の女の子の名前である。彼女は心があまりにも清らかなために、困っている人々に自分の物をすべて与えて行ってしまう。最初は、ケーキを手に持って森の中を歩いていると、お腹を空かした人と出逢って「私のケーキを食べてください」と、そのケーキをあげてしまう。彼女が杖をついて歩いていると、足の不自由な老人と出逢い「どうぞ、私の杖を使ってください」と、その杖を渡してしまう。その先で、ホームレスの男の子が寒さに震えているのを見て、「とても寒そうだから、どうぞわたしの服を着てください」と、服までもあげてしまう。何もかも失ったゴールデンハートは、果たしてどうなるのか。しかし、そこまで読み進めていったトリアー少年は途方に暮れる。その絵本の「最後のページ」だけが破られていたからだ。

かくして、トリアー少年は、総てを失ったゴールデンハートちゃんの結末を見ることが出来なかった。彼は大人になるまで、ずっとこの絵本の最後のページのことが気になっていた。一体、あの後、彼女はどうなってしまうんだろう。なぜ最後のページだけ破り取られているのだろう。やがてトリアーは大人になってから、ついに新聞の投書欄で「『ゴールデンハート』という絵本を持っている人はいないだろうか」と募集をかける。「どうしても、最後がどうなるのかが知りたいのです。お願いします」すると、偶然にも、その古本を持っている人物が名乗りを上げた。その人は、トリアーの自宅に『ゴールデンハート』の絵本を送ってくれた。『ゴールデンハート』のラスト、最後のページは一体どんなものだったのか。

全てを失ったゴールデンハートが寒空の下で震えていると、突然、空からお金が降って来る。まるで、神からの救いのように。そして彼女は、そのお金のおかげで、それから幸せに暮らしましたとさ、と。

トリアーのフィルモグラフィにおいて、いわゆる表面的な意味でのハッピーエンドは、一作品も、一瞬も撮られていない。トリアーは一言こう述べている。「最後のページが破られていた意味が分かったよ」

 

肉汁サイドストーリーの作品はどれも、ある意味で「最後のページが破られている」。その「最後のページ」を破り取っているのは、作・演出のるんげ自身でもある。先に述べた通り、るんげ本人は「最後のページ」が欺瞞に陥ることを十二分に理解しているし、「最後のページ」がもたらす安堵感の凡庸さもまた、彼女は知っているはずである。それは『降誕節』『セメント・モリ』そして『さる沢』においても当てはまることだ。事象だけがポツンと描写され、誰も祝福されず、途方に暮れている、あの救いの無さは、物語の幕切れとして他には考えられない結末であるともいえる。登場人物と共に、観客も取り残されるような、あの不安感や虚無感は、紛れもなくおそろしいし、単語そのものの意味で「強い」と感じる。はっきりと、ヒトの心の時計が止まってしまった瞬間を目の当たりにするというのは、ほとんど呪いに近い。だからワタシは『さる沢』のラストを、当然、あれ以外には考えられないと思っている。

 

問題は、肉汁サイドストーリーが、次に何を描くのか、だ。これから何を描くのか、だ。『さる沢』がもたらした一連の現象を踏まえて、あるいは、ひとりの観客として、そしてひとりの友人として、ワタシは、あることを提案したい。

 

「最後のページを破り取っていた、その手を、誰かに差し伸べる手に、してみないか」

 

「傷付いた誰か」を「救う」つもりは、確かに無いのかもしれない。それでも、るんげには、ちゃんと救わないとならない「誰か」が、絶対にいる。

なぜなら、差し伸べたその手の先にいる「誰か」は、その手に対して手を伸ばしている「るんげ」本人だからである。それ以上でも、以下でもない。

その手が掴まれた時、作品は「わたしのための作品」であり「あなたのための作品」として、変貌を遂げる。100人の「傷付いていない、愛されている、選ばれている人々」を、血肉と時間と、命を注いで救う必要など、どこにも無い。たったひとりの「あなた」を、たったひとりの「あなた」に、その手を、指し伸ばしてみるのである。

ワタシは、それこそが、『さる沢』を通過した肉汁サイドストーリーの、新たなる課題だと考える。

 

最後のページを、るんげに破かせるな。最後のページを破ろうとするのは、そう、我々観客のミッションであるべきだ。安々と被害者になろうとするな。容易く人の願いを消費するな。そんな簡単に「愛されなかった者」たちを歓迎するな。呑気に、受動的に、演劇やフィクションに触れた気でいるな。我々から近付きに行け。もっと、もっと奥に。もっと、もっと先に。深い霧の中に突っ込め。深い霧の中にるんげを連れ出せ。彼女を、もっと苦しめろ。るんげの書く演劇は、お前らにとってのエナジードリンクなんかではない。お前らの生活の為のガソリンではない。お前らがるんげのエナジーと化すのだ。お前らが、るんげの心のともしびに、油を注ぎ続けろ。燃やせ。彼女を、我々の手で、燃やし尽くせ。燃え切った時に、灰に混じってただ一つ残ったもの、それが、肉汁サイドストーリーが、本当に描くべきものだ。

 

肉汁サイドストーリーに手を差し伸ばしてはならない。

肉汁サイドストーリーに愛を与えてはならない。

肉汁サイドストーリーに恋を覚えさせてはならない。

肉汁サイドストーリーを選んではならない。

肉汁サイドストーリーを受け入れるな。

肉汁サイドストーリーに林檎を授けるな。

 

イヴに林檎をかじらせた蛇は、悪魔の化身であったことを、忘れたと言うのか。

 

我々観客が、彼らに福音をもたらし、我々観客が、彼らから福音を授かろう。

肉汁サイドストーリーと関係を持つということは、ハッキリ言うが、そんな生優しいものではない。

我々が能動的に加害者となれ。るんげは、彼女は、加害者であるよりは、被害者であることを、きっと望むだろう。

そして、すべてが結実して、彼女が書く最後のページの筆圧が、これまでよりも、何倍にも増すことを、期待し、導こう。それが出来ないのであれば、本当にそれが出来ないのであれば、演劇の観客なんて、まるで無意味な、思考停止の連中に成り下がってしまうことだろう。

 

ワタシは、俺は、観客を信じている。そして信じさせるのだ、るんげに。

演劇の力を。今改めてもう一度。フィクションの力を。今改めてもう一度。

肉汁サイドストーリーの力を、今改めて、もう一度。

投げ掛ける言葉は、たった二言でいい。るんげに投げ掛ける言葉は、たった二言でいい。

 

「それで、いいんだよ。それで、大丈夫なんだよ」

 

あなたって完璧なまでにふさわしい人みたい

傷を負って止血帯が必要な女の子にとってはね

でも、あなたは私を救ってくれるの?

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私のことを救ってよ

 

だって、私にははっきりと分かる

ハンガーストライキでの永遠のお別れがどんなものか

あなただって知ってるでしょ?

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私のことを救ってよ

 

あなたの前では言葉を失うの

ラジウムのように

スーパーマンのように

ピーターパンのように

あなたはやって来る

私を救うために

 

杉浦「ってなわけで、なんだい戻ってきたら流れているのはエイミー・マンによる名曲『Save Me』じゃないか!確かに『さる沢』の帰り道に、まずこの曲を聴いて余韻に浸ったことは言うまでもないんだよな。ということで、るんちゃか、キミが「私を救って」とつぶやいても、僕たちは聞こえたふりをして、いつもより長く煙草を吸ってみることにするよ。それが、そう、友達ってもんだろう。それでは最後に、哲学的かつメタフォリカルな問いかけをしてこの音源は終了する。なあ、るんちゃか、キミが噛み続けているそのお気に入りのガムの、味は、まだ、するかね?

 

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私を救ってよ