20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくい母性のすべてについて教えましょう、というメンドウな誘惑とメンドウな演劇【ヴァージン砧『孕み孕ませ産み産まれ』雑感】

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筆者と主宰の香椎響子は、事もあろうに大親友(と言って過言ではないほどのフィーリングをゲットして、初対面でハイタッチ&ハグした仲なのだ。筆者は異性に対して、彼女以外を指して「オマエ」と読んだことはない。彼女とやっていない/やる予定がないことは、戦争と恋愛と殺害くらいしかない)の関係性に落ち着いている。つまり、本稿は主宰のパーソナリティを認知した人間が記して「しまっている」。この事実は、いささか健全と呼べるものではない。内輪の褒め合い/貶し合いほど、醜い行為は無いからだ。

さりとて、関係性を獲得したからこそ、読み解くことが可能な事象も存在する。本稿は、なるべく第三者による客観的な視点を保持しつつ、それでも尚、劇作家自身のパーソナリティに寄り添う形で執筆することを目指す。

 

筆者のアイデンティティからの指摘になるが、本作『孕み孕ませ産み産まれ』という作品の根幹には、『ローズマリーの赤ちゃん』や『イレイザーヘッド』や『反撥』からの影響が「存在していない」、ということをまずは挙げておく。これらの作品群は、一般的なシネフィル諸氏には明瞭な事実である通り、どれも妊娠への恐怖や不安を描いたマリッジブルー/ニューロティック・スリラーの傑作である。御多分に洩れず、筆者もまた三作品をオールタイムフェイヴァリットに愛好している。

ヴァージン砧の最新公演は、登場人物が妊婦二人、妊娠と出産、さらには母性へと想いや疑念を馳せて、互いにディスカッションの限りを尽くす二人芝居だ。この接見に際して予感されるのは、マリッジブルー/ニューロティック・スリラーの名作群たちからの影響、もしくはそれらへのオマージュが「ある」という、映画ファンなら決して罰が当たらないであろう純粋な思考だった。

にも関わらず、さも当然に作・演の香椎響子は、全くそれらを参照せず、言及もパスティーシュもしないというバイタリティによって、筆者のような映画ファンをひれ伏せさせた。本人に確認していないので推測の範疇を超えることはないが、恐らく100%、彼女はこれらの映画を観ていない。単に認知せずに観ていなかった、という理由も、認知してはいたが参考にはしなかった、という理由も、すべて真空を切る。元ネタになり得る素材を排して、元ネタと同類の新しい作品を生み出してしまう技量の高さに、ひとりの映画ファンとして驚愕した。

 

しかし、「女性の劇作家が書き上げた、妊婦二人による母性への疑念を巡る問答」というキャッチに対して、観客が抱く居心地の悪さというものは決して否定できない。端的に、大きめの主語として扱われる「女性」や「妊婦」「母性」、それらが組み合わさったことへの一般的なインプレッションは「面倒」である。面倒くさそう、という居心地の悪さを感じながら、観客はその「面倒」と対峙することを余儀なくされる。

 

と、こうした論調が引き起こす次なる現象は、筆者の思想がミソジニーやアンチフェミニズムである、という疑惑であり予想かもしれない。曰く「メンドウとは何事か!失礼だろ!」と、自称ウォッチメンが騒ぎ始める予感がしなくもない世界になってしまった。ヒステリーにも近いこの感覚は、さらなる別のメンドウを生み出し、トートロジカルに終わりがない。なので、男女二元論を推奨するつもりは皆無でありつつ、ひとりの個人としてのフェティッシュを述べてしまおう。

筆者は「女性」も「妊婦」も「母性」も、そのどれもがおそろしいし、信じられないし、ロマンティークで、美しいと感じている。

筆者が映画館で映画を観る理由の一つは、大きなスクリーンに映る女優の大きな顔面に対して、おぞましさとエロティークを摂取するためでもある。自分の身の丈よりも巨大な女優のクローズアップが内包している、強度の高いグロテスクとエロティシズムは、他と代替可能なフェティッシュではない。これは祝福でも自慰行為でもなく、単なる呪いだ。

4歳年下の妹を身ごもった母親の腹部が大きく膨れ上がっている様子と接見した際には、あまりにも恐ろしく、ついには手を触れることができなかった。肉体の変容というグロテスクを、周囲の人間が「めでたい現象」として祝福している様子も、気味が悪く、吐き気を覚えた。これは妊婦差別ではない。筆者にとって、こうした肉体への嫌悪感という感情は、トラウマでありオブセッションになっている。

前述したマリッジブルー/ニューロティック・スリラー系の映画を愛好しているのも、母性への飽くなき探究心と興味が、今尚全身にみなぎっているからだ。

筆者にとって「女性・妊婦・母性」と呼ばれるものたちがもたらす感情は、必ずしも陽性の反応ではなく、不気味で、おぞましくて、官能的で、疑い続けている対象である。

 

本作においても、それと全く同じとまでは言わないが、妊婦や母性への「一般論」はシャットアウトされながら、スムースにグロテスクへと論旨展開が遂行される。たとえば、序盤で披露される「セックスにおける体位と産まれてくる子どもの関係性」のエピソードは、内容のフレッシュな痛快さ、スピード感溢れる俳優陣の熱演、そしてあまりにもオリジナルな言語感覚をもってして、一気に惹きつけられる。こういった台詞が書けてしまうことへの、筆者の香椎響子への信頼は厚い。

ここで描かれる妊婦二人は、かろうじて自立しながらも、果てしなく戸惑い続けている。

片方の妊婦が発する「産みましょうよ」という台詞は、もう片方の妊婦が「産みたくない」と懇願したから発話されている。この状況下において、めでたさや祝福は希薄化される。本作に通底する「面倒」な印象は至極当然の感情であって、否定や非難されるべきものではない。要するに、「女性」も「妊婦」も「母性」も、ちゃんと「面倒」なのだ。まずはその感情から幻想へと逃避しなかった、作家の負の強度に対して賞賛したい。何から何まで、少しでもネガティヴな姿勢を見せると全否定されるファックオフな世界は、小劇場にはいらない。面倒なものは面倒なのだと、真っ直ぐに突き詰めてほしい。それこそがアクチュアリティであり、その解答を模索する行為自体が演劇であり観劇に他ならない。

香椎響子の著作には、そういった本音のことばが無防備に散布されている。そこには、貴様のマスターベーションのためのファンタジーも無ければ、チャリティショー的な欺瞞も絶無だ。建前に殺されかかっている人々を、本音を駆使してどうにか救いあげたいという衝動が疾走し続けている。香椎響子が本作で選定したテーマそれ自体が、彼女のそのようなことばたちを待っていたかのように躍動し、うずく。この一見メンドウでセンチメンタルにも思える作品は、実のところ「女性・妊婦・母性」へのブラインドされた真実を、克明に観客へと伝播させるために鼓動している。誰かにとっての祝福は、誰かにとっての呪いなのだと。

 

前作『ポップコーンの害について』も、語弊を招くつもりは無く、果てしなく「面倒」な作品だった。インターネットで体得したことばたちによって、インターネットで呪われた者たちの悪魔祓いを完遂するという、そのあまりにもメンドウな所業は、アンニュイやメンタルヘルスという鬱屈性に着目するべきではなく、誠に評価すべき爽快感に満ちていた。

こうした除霊a.k.a浄化にも似た構造は、香椎響子の著作には必ず見られる。彼女のパブリシティ上のエクスキューズは「今もどこかで傷ついている人を救いたい」というご立派な人命救助精神だろう。

しかしながら、こうして彼女が試みている除霊の所作は、ベクトルが彼女自身へと向いていることも指摘しなくてはならない。これはメンタリティ上の特徴であって、決して否定されるべきものではない。加えて、才人に許された自慰性の美麗さに対しては、表現に呪われた者が異議を唱えるべきではない。彼女のことばは、究極的には彼女自身にも投げ掛けられており、それを公然化するのは、「彼女自身=あなた」のためでもあるからだ。あらゆる表現がそうであるように、香椎響子の作品も、漏れなく「99人」のためではなく「たったひとりのあなた1人」のために創作されているといえる。

 

前作が一人芝居だったことに対して、本作は二人芝居の演劇へとカムフラージュを遂げている(ちなみに、次作は三人芝居らしい)。たった一名の増員、ではあるが、香椎響子の紡ぐことばにとって、これは大きな差だ。

彼女の書くことばは基本的に、呪詛/祝福の作用を持っている。その効果が最も色濃く発揮されるのは、ポエトリーリーディングライクの「一人語り」である。一人であるということがもたらす多人数性は、匿名性を獲得すると同時に、ことばそれ自体の残酷さと強度を倍増させている。「もうそこにはいない人物」への想いや怨念がダイレクトに乱射される清々しさは、前作を観た者には容易く享受されるはずだ。率直に述べれば、この作法はヒップホップマナーに酷似している。事実、ジャパニーズ・ヒップホップのファナティックを公言している香椎響子は、まるでリリックやヴァースの如き音感を台詞に宿らせることに何ら衒いがない。

一方、本作は二人芝居という構造を以ってして、ヒップホップマナーを遵守する形でMCバトルが繰り広げられる。互いが剥き出しの感情吐露を遂行する上で、明確なリズム/アクセント/イントネーション解釈を忘却することはない。これは会話劇というよりも、目には見えないマイクリレーをしているように思えて仕方ない。まるで8マイル先の「あなた」へと念を飛ばすかのように。こうした香椎響子の便法は、現時点においてヴァージン砧の魅力の一つとなっていることを強く述べておく。

 

この華麗なマイクリレーを魅せた二人の俳優・東雲しの、竹内朋子へのチアーは、両者へのおもねりや世辞を抜きに、最大量で贈らなくてはならない。

東雲しのがもたらすのはカッコ書きの「貧弱さ」だ。筆者は、彼女の芝居を排気口『怖くなるまで待っていて』にて今年1月に拝見した。その際に記した雑感で述べたのは、彼女の「声」の素晴らしさだった。戯画化された強い口調が誘発させる、ツンデレ/サディスティックな侘しさが黄色いジャンパーを着て、次々と登場人物たちに睨みをきかせる。そのリリカルな生命力の所以は、彼女の実年齢や容姿以前に、その声色=音にあると着目した。単刀直入に言って、あの声、で、あの強気な態度、なのである。こうしたケミストリーの発見を容易にこなしてしまうのが、作・演である菊地穂波の健全なスケベ心だと指摘するが、一先ず本題に戻る。

本作における東雲しのは明確に呪われている。という設定自体は、香椎響子の著作において準備体操レベルの設計に過ぎない。特筆すべきは、香椎響子が東雲しのに付与させた「呪われた身」というオプションをもって、彼女を導かれるべき「音」の発生源へと確立させた、という成功例である。排気口の公演における、苛立ちや怒りを纏った彼女の説得力は、本作ではさらに陰性の強度を含みながら増す。ここでは怨念以上の、ナイーブな哀しみが提示される。彼女の顔に浮かぶあきらめにも似たアンニュイな表情は、それ単体よりも、悲壮感を帯びた声が加わることによって、高い利便性を得ている。東雲しのが本作で完遂している「か細い声ではっきりと発音する」という技法は、あざとさのかけらも無い音の響きと同時に、キャラクター内面の表象化をクリアしている。高い音域で発せられた音によるカラ元気なグロテスクさは、可愛さ/陽気さよりも、より一層、彼女のアンニュイを研磨している。

これは筆者の邪推でしかないが、彼女自身のパーソナリティは、実のところハピネスフルな楽天性よりも鬱々としたアンニュイが多分に含まれていると察する。ルッキズムを支持する気は全く無いが、他意なく、彼女のような可憐な容姿が引き寄せる磁場には、いつだって憂鬱が含有されている(容姿の指摘、という行為によって誤解を招きたくないが、東雲しのが俳優であることを考慮して進めてしまう)。例えば「しのちゃんホントかわいいねえ〜」とか「しのちゃんは綺麗で美しいねえ〜」とか、そういった具合だ。ウンザリするだろう。筆者の私見になるが、間違いなく、美しい人は傷付いている。民たちは美を前にして、欲望の殺傷性に拍車をかけてしまう。対象となる本人自身、身に覚えのない欲望のカルマによって、人々が己を欲求し、殺し合う様を見て混迷するしかない。ちなみに、筆者は美しい人に「美しい」と伝えたことは一度たりともない。第一に、本人にとっては最も聞き飽きた台詞であり、第二に、その言葉は「呪い」でしかない。

これを「呪い」と書いてしまうことが不適切だとは思わない。なぜなら、東雲しのも香椎響子も、紛れもなくその「呪い」と対峙した上で表現を試みているからである。我々はあらゆる「呪い」に自覚的にならなくてはならない。それが21世紀のマナーであり生きる術だ。東雲しのがあの役を演じたことは、つまり必然的だったといえる。

こうした指摘が無礼千万に値するのであれば、詫びると共に「東雲しのにはナイーブな憂鬱が似合う」と提言する。

対する竹内朋子の豊かな表現能力の高さについては、陳腐な賛辞ながらも素晴らしいとしか言いようがない。どの場面を切り取ったとしても、本作の竹内朋子の「面白さ」は隔離されない。身体の動きを、きめ細やかに抑制しつつコントロールされたパントマイム的な愉しさは、観客の視線を奪う。彼女の肉体性の安定は、この呪われた時間の中で観客の安堵感を発生させている。安定しているのは彼女の演技巧者としての実力であって、演じられるキャラクター自体はとめどなく不安定であり続ける。

彼女の安定/不安定のバランスによって、例えば実年齢が年下である東雲しのに対して、決して目上の立場から意見を発言せず、対等な意見交換の場を提供することに成功している。一見すると、竹内朋子が東雲しのをさとすようなコンストラクションが予感される本作は、二人の妊婦を通してボーダーレスに母性論が展開されていく。このように、二元論あるいは天使と悪魔のような相対性からかけ離れた地点で繰り広げられる言論の様は、東雲しのの技量と共に、竹内朋子による掛け合いの秀逸さを物語っている。

腕や脚の動き、姿勢や表情筋、指先に至るまで、彼女の的確なマイムの数々には恍惚する。一先ず、演劇を観劇する際に生じる「生身の俳優を間近で目撃する」という行為の魅力は、竹内朋子の安定した不安定さによって担保されている。

加えて、彼女もまた「声=音」の魅力を体得している演者だといえる。東雲しののか細くも高めのキーに対して、押し絞るような必死さの中に紛れ込んだ自意識と優しさが、竹内朋子の発声からは確認できる。この音によるアンサンブルの上品さは、耳の良い作家である香椎響子の勝算だろう。前述の通り、一人芝居で発揮された魔力を、二人芝居の磁場でも発生させることへの飽くなき挑戦が、俳優同士のケミストリーによって結晶化されている。交響的に二つの生きた音を重ね合わせながら、ついに香椎響子は両者にライミングを披露させる。こうしたフロウ感/グルーヴ感の付与は、なんともヴァージン砧らしい。と、第二回公演で観客に言わせしめるほど、音感にこだわりを徹底している。竹内朋子、東雲しの、香椎響子と共にカラオケに行きたい。

 

さて、最終ブロックにおいて、いささか暴力的な筆致になることをご容赦いただきたい。

実のところ、筆者は憤慨している(爆笑しながら)。その理由は「noteに書かれている文章の方が面白い」という類の感想を見聞きしたから、である。

追尾して、ダチを擁護するつもりはないが、筆者はこの凡庸で平和ボケしたぬるま湯のカンソーに対して反論する。

もちろん、香椎響子に対して「二度と公演よりも面白いnoteを書くな」と注意喚起する気はゼロだ。どんどんグロテスクでポップな乱文を量産するべきだと思う。当然だ。筆者の警告の矛先は、観客へと向けられている。

仮に、だ。「香椎響子が書くnoteのように面白いヴァージン砧」に、価値はあるのだろうか。

筆者は、note /日記/ブログと演劇作品が、解離していればいるほど魅力的に感じる。なぜなら、ぞれぞれの分野において使用される「言語/ことば」は異なっており、一方によって補完可能なものであれば、それぞれのフィールドで開戦する必然性は無いと考えられるからだ。演劇のような文章は舞台で披露してもらいたいし、noteに紡がれた感情吐露をそのままシームレスに作劇に流用するのであれば、やはり、それはnoteで完結させれば済むことだ。少なくとも、香椎響子が俳優の生身の肉体を借りてまで「表現」している事柄は、文学的な陰鬱さではなく、音楽的なヒーリングを孕んでいる。であるならば、それは音と肉体とステージによって表象化されるべきなのだ。

ここに於いて、"noteの方が面白かった"という民の甘えは、サッカーより野球が好きだ、サッカーみたいな野球をやってくれと野球選手に懇願していることと等しいといえる。甘えん坊の民たち、特にネチズンによる「引き摺り下ろしたい」という願望に、作者が屈服する必要はない。

筆者は、それぞれに補完能力と互換性が確保されているとしても、本公演とnote は、明確に別離された表象として受容するべきだと考える。別種のことばを行使して展開される各々のアカデミック性とエモーションを、それぞれ異なるものとして楽しめばいいだけだ。「noteは面白いのに」とか「公演は面白いのに」といったようなオプションは、付与すればするほど無駄でしかない。何らオプション抜きに作品単体を評価しろ、とまでは(このファックオフな情報化社会においては)言わないが、少なからず、観客の能動性とは、その努力の賜物なのではないだろうか。

気に入らなかったからすぐ切り捨てる、という作業は、作業であって観劇ではない。そんなことはSNSのブロック/ミュート機能と同じだ。演劇はSNSではない。生身の人間をより密接に感じられる磁場において、我々観客が遵守すべきアティテュードは大前提だ。もう一度言う。演劇はSNSではない。そして貴様のためのファーストフードでもない。食べたいものだけ摂取したいのであれば、当店のメニューをご覧ください。

 

やはり香椎響子はSNSに呪われている。

前作『ポップコーンの害について』の雑感で筆者が指摘した通り、彼女はインターネット時代の子どもであり、SNS時代の子どもではない。インターネットは彼女の武器になるが、SNSは敵軍の殺傷兵器だ。筆者の極論ではあるが、彼女はSNSによって自滅しかねいとすら予感している。

彼女のこの呪いを解くために必要なのは、紛れもなく「作品」である。そしてその作品の一部に、我々のような観客も含まれていることを決して失念してはならない。自縛された自身の精神と、内輪のサイクルに安堵し続けるネチズンたちの、愚かな魔法を溶かしてやるのだ。チョコレートのように。ヴァージン砧には、そういった表現の魔女へと成長する兆しが垣間見られる。

とは言え、筆者は彼女が呪われ続け、悩み苦しみ続けることを心から渇望している。

プライヴェートにおける幸福度のハナシではない。とにかく、どんなに幸せになっても、永遠に逃れられない「おそれ」と共に歩み続けてほしい。香椎さん、あなたが胸の中で、あなた自身で抱えている限り、その「おそれ」からは決して逃げられない。この呪いを祓うために、あなたは作劇という別の呪いで対抗を続けるべきだ。歩き続けてほしい。ドス黒いヴァージンロードを。8マイル先まで。俺はその先では待っていない。アンタの後ろで笑って見てるよ。

 

 

【MULTIVERSE】