20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

インターネット時代の子どもによる、ポストSNS時代の悪魔祓い(または、立ち続けた自分は悪なのか)【ヴァージン砧『ポップコーンの害について』雑感】

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映画好きの端くれとして宣言してしまうが、ぼくは映画館でポップコーンを食べたことがない。厳密に言えば、シネコン売店で購入したポップコーンを、シートに抱えて持ち込んだことがない。さらに厳密に言えば、同伴者がポップコーンを購入してシートに持ち込んだ際に、所謂お裾分けとして許可されたので、食べたことはある。そしてこの宣言を事実にきっちりと一致させる場合、シネコン売店でポップコーンを購入したことはある。シネコンのポップコーンは美味しい。ただ、ぼくがポップコーンを購入するときは、映画鑑賞の際ではない。美味しいポップコーンが食べたいと欲求したときに、フラッと寄って、あたたかいポップコーンを味わうまでだ。

 

端的に言って、ポップコーンは映画鑑賞にふさわしいスナックではない。よしんば、最小限の咀嚼音の発生で済む食べもの、として普及したという理由によっても、それは擁護されない。音は聞こえる。あの暗闇では、言うまでもないが聴覚は研ぎ澄まされているからだ。また、ポップコーンの種皮は喉元に引っ掛かり、塩分によって反射的に喉も渇いてくる。飲み物さえセットで常備していれば良い、という指摘は、問題の本質をフェードアウトさせる危険性がある。あらゆる飲み物は、まず、ポップコーンのために機能していないし、存在していない。

 

ポップコーンとコカ・コーラというコンボには、資本主義社会としての華麗さのみがあり、あるいは幻想があり、本質として、映画とは切り離された美しさだ。加えて、ポップコーンが発する匂いは、それ単体に副流煙の如く欠陥があるものではないが、強く問題視しておく。ポップコーンの匂いとは「シネコン」の香りでしかなく、「映画」の匂いとは、あんなにヘルシーでスウィートなものではない。だから映画館に持ち込む必要はない。少なくとも、ぼくにとっては。

 

あんなものに鑑賞中も手を伸ばし得ている時間は、暴論を立案すると「鑑賞」していない。真理を解き明かしたいわけではなく、映画館における集中力というマジックは、そうやって喪失されていく。作品の真実は、そうやって見透かされ、発見されないでいく。ポップコーンによって見つからなかった幻影だけが、亡骸のように増え続けていく。ぼくは、ポップコーンこそが観客から「鑑賞」を奪った戦犯であると主張し、その責任追及を要望する。これが、ぼくの考える、ポップコーンの害、である。

 

ぼくが演劇を観劇するようになって、第一に感動せざるを得なかったことは、演劇には「ポップコーン」が存在していない、という事実に他ならない。音による妨げも、匂いによる安堵感も、資本主義的なファッションも、小劇場の空間には姿がない。あるのは紛れもなく役者の肉体と、肉体を纏った「ことば」と、それらをいざなう演出家の思惑のみだ。今、ぼくが映画とはリージョンの異なる演劇という表現芸術に移入を成功させていることに関して、この事実を軽視することはできない。

 

ところが、あろうことか、ポップコーンと演劇を接続してしまった『ポップコーンの害について』は、だから何よりも先に暴力的である。会場に漂うポップコーンの匂いは、前述したような暴力の香りとしての機能を備えている。

 

ぼくは本作の「ポップコーン的暴力」には、極めて感銘を受けた。それは文字通りに「ポップコーン」のような「暴力」であり、どの怨念の種がはじけ飛び、ことばとして膨らみを見せるのかが分からない、実にサスペンスフルな演劇だったからだ。フライパンの上で熱せられたポップ種のように、どの種がはじけ飛ぶのか想定ができないまま、その破裂音を耳にする。その「音」は、劇中で語られるように暴力としての鋭利性を帯びながらも、果てしなくポップで純文学的な人間味がある。

 

これから書くことに関しては、作者にとって賛辞/揶揄のどちらとして機能するか選択を委ねるが、委ねつつ賛辞としてぼくの感想を提示すると、本作の暴力性は、インターネット時代の「新しい」暴力性と酷似している。

 

インターネット時代の「新しい」暴力性については後述するが、インターネットが「新しい」文学であったこともまた強調しておく。たとえばツイッターは、タイムライン上で執筆される連作小説である。特にSNSは言語活動であるがゆえに、音楽的な多幸感よりも文学的な閉塞感が纏わりつく。文学を批判したいのではない。文学は、他のどの表現以上に「自己」という憂鬱から切り離すことができない。

 

本作は、まずパソコン越しの会話や「炎上」という単語が序盤で提示され、以降、パンチラインが爆裂し続ける。演じる安藤江莉佳のキュートさ(ウェットティッシュを取り出し、フタを閉めながら指でそれをスライドさせて遠ざける所作のオリジナリティたるや)も相まって、台詞の乱れ打ちは、聴き逃しを回避する。

 

「愚かなやつほど友達が多い」「青空の下、こぶし掲げてダチは最高なんて写真撮ってるやつらは、教卓の陰で、こぶし上げてそのダチいじめてるんでしょ」「こんなどうしようもない世の中なんて、生まれてくることこそが嫌がらせなんだ」「いいな、エド・ゲインもメアリー・ベルも。たくさん人を殺せば、たくさんの人の心の中に残るんだ」「悪意はどんな小さい種も見逃さない」「お前を殺すと言って人を愛することもできるし、お前を愛していると言って人を殺すことができるんだ」「ことばを発しなければ、誰からも気づいてもらえないんだよ」「もっと苦しい顔、しててよ、みんなさ」「言葉で人を殴っちゃった!」「それってさ、出逢う必要あるのかな」「あたしには何かが足りないんじゃない、何も無いんだよ」「だったら息もやめちまえよ」「これでファンタスティック・プラネットの真の誕生」「いつから秋元康になったのよ」……。

 

これらのことばには、音楽的というよりも純文学的な、純文学的というよりもインターネット言語的なオブセッションとフェティッシュが同時存在していると解釈する。内容はもちろんのこと、発話方法としても、リズムやテンポそのものよりも、ことばの「意味」を強調することに重きを置いている節がある。だから、本作のことばは終始、強固なままで存在を続ける。

 

生まれて物心ついた年齢で、インターネットがある/ないというのは、こうした「ポップコーン的暴力」を読み解いていく際には重要なファクターになり得る。ぼくは、作者の年齢を把握していない。女性であるということのみを知っている(菊地穂波チャンが男性であった今、作家にとっての性別は作品を語る上であまりベターな着眼点とはいえない。インターネットに画像があるのかもしれないが、ゴダールと検索するとアンナ・カリーナが表示される時代である。だから心底どうでもいい)。事ここに於いて博打に挑むと、作者はインターネットに適応しつつ、それと同量以上の反発を獲得しているはずだ。アジャストとアゲインスト。表現の根幹たる指針は、まずもってクリアされているといえる。すなわち、それは「インターネット時代の子ども」としての作家性が確立されており、本作で発話されることばは、口語体というよりも、むしろインターネット的言語と解釈するのが可能だろう。

 

インターネットがもたらした暴力、もしくは暴力を誘引する装置の一つに、匿名性が挙げられる。匿名性を付与された民たちは、責任から逃亡することに成功し、自由気ままなコミュニケーションに没頭すると共に、誰しもを攻撃可能なことばを獲得した。それが本来では失語に近い状況であるにも関わらず、「かけがえのない存在」である民たちは、手にした力によって暴君へと変貌していった。「裸の王様」というよりも「テロリスト」である。とは言え、ぼくはインターネットそのものに問題視される弱点があるというよりは、その力を行使するユーザー側のマナー及びリテラシーと、完全定着に至ったSNSの構造自体に問題があると考えている。

 

SNSにはあらゆる教育能力も育児能力もない。それそのものが幼児的であるにも関わらず、あまつさえ、それをオモチャとして与えられているぼくらの構図もまた、退行的だといっていい。インターネットは無法地帯であることが特権として確立されていた。何をしても、何を書いても、何を調べても、何をアップロードしても、何と繋がっても、何ら問題視されないという牧歌的な時代があった。教室に先生のいない学級会。それがインターネットであり、初期SNSでもあった。

 

近頃、教室に先生と自称する連中が乗り込み、正義を免罪符に断罪が開始された。無法地帯には曖昧な「法律」が無理やり持ち込まれた。生徒たちは次々とこの「法律」に感染して、魔女狩りが日常化した。学級会は、学級崩壊を完遂した。

 

ぼくはインターネットが好きだった。低ビット数で読む文章にはSF的なロマンとノスタルジーがあった。YouTubeニコニコ動画というフォーマットこそがテレビジョンであったし、世界中のあらゆるアンファンテリブルと遭遇した。手帳や日記帳を持たずに、文章はインターネットに書きまくった。好きな音楽のジャンルはヴェイパーウェイヴである。

 

しかしあるとき、「ドラーグ族」は「オム族」たちへスマートフォンSNSいう画期的な神器をばら撒いた。そして、インターネットを与えたフリをして、インターネットを奪い去った。ドラーグ族にとっては、オム族がこれ以上賢く成長するのも、楽しく生活しているのも、正しい判断能力を持たれるのも、邪魔でしかないからだ。オム族が馬鹿であれば馬鹿であるほど、ドラーグ族にとっては都合がよい。かくして、アクチュアリティを見逃させるために、スマートフォンSNSという名の「ポップコーン」は、こうしてぼくらのシートに置かれている。やがて、イスラム国は処刑の様子をYouTubeに動画としてアップロードした。誰かにとってのディストピアは、また誰かにとってのユートピアだ。これが現代の『ファンタスティック・プラネット』である。

 

インターネットから「ポップコーン」の匂いを嗅いだことは一度もない。そして、SNSは「ポップコーン」の匂いで満ちている。ヘルシーでスウィートな香り。しかし、破裂した固い種皮が歯肉に刺さって流血するとき、ぼくらはSNSによってもたらされた呪いに、強烈な不安感を掻き立てられるはずだ。甘い幻想としてのソーシャルメディアに。

 

『ポップコーンの害について』は、転じて「SNSの害について」と言い換えることが可能であるといえる。そして、ソーシャル・ネットワーク・サービスによってもたらされた「呪い」を、インターネットによって獲得したことばと文学によって「祓う」儀式であることが、本作の最たる美しさだと特筆する。

 

作者が行使するマシンガンのようなことばの乱れ撃ちは、単に一発ごとの弾の質が高いことに加えて、およそ逆説的に「撃たれるべき標的」としてグラデーションが推移していく。撃った人間は、必ず撃ち返されるのだ。あるいは、撃たれるために撃つ、のである。また、それがインターネット的な文学性を孕んでいるにも関わらず、あくまで様相としてSNS的なネチズムの怨念を通底していることは、徹頭徹尾に素晴らしい。本作における名もなき彼女こそが、SNSの被害者であり、SNSの加害者であり、そのどちらも救わないという「救い出し方」を、作者は無意識のうちに遂行している。

 

仮にも、この「インターネット時代の子ども」としての自他殺願望的なペシミズムは、あまりにも健全な通過儀礼である(本当に不健全な人はこの感情を戯画化できない)。そして万が一にも、こんなのメンヘルちゃんの戯言でしかない、というような批判には、一切の価値を秘めていない。なぜなら、単にそうではないから、だ。

 

たとえば「インターネット時代の子ども」としての大森靖子アーバンギャルドを、その高い音楽性を無視して、メンヘルというフィルター越しに嫌悪したり貶す人々は、絶対に恋をしたことが無いだろうし、絶対に恋をすることができないし、絶対に絶滅した方がいい。女性が内面を執拗に吐露した途端に、そういった差別が可能な愚民にとって、前述したように性別はふさわしい着眼点とはならない。綾波レイだけを一生拝み続ければいい。風俗嬢に「こんなことせず、もっとしっかり、強く生きなさない」と説教する客、のような客を、本作は必要としていない。

 

一人芝居であることから、主人公=作者の口として、作者が言いたいことを言わせている、という見方が容易く可能ではあるが、つぶさに考えて、これは間違いである。なぜなら、この作者は極めて達観的に主人公へことばを与えているからだ。前述した通り、この主人公は仮にも作者の分身であれど、ドッペルゲンガーでもシミュラクラでもない。被害者でもあり、加害者でもある、救われずに、救われる人なのだ。作者は自身から分離したその人を通して、「分離」を統合し、新しい分離前を取り戻そうと格闘している。

 

本作の余韻がたまらなく清々しいのは、物語や作劇を信用せずに、出口なしの地獄として「問いかけ」のみが存在し、終幕と共に「問いかけ」が退場し、「答え」だけが姿を見せない、その志しゆえのものだ。否、方程式のように「答え」を導き出すこと以前に、本作の時間そのものが「願い」であり「祈り」として昇華されていることを失念してはならない。ぼくはこの作者が、たとえ呪詛の言葉を羅列しても、あらゆる仮想敵を引きずり下ろしたくなる怨念によって突き動かされても、世界にも生命にも意味がない、無価値で、性悪説上等で、絶望の果てに強烈な暴力衝動に駆られたとしても、彼女が本当に、本当にやさしい作家であることは断言する。彼女が試みたことは、逆説的なヒューマニズムでも、逆張りとしてのフラストレーション解消でもない。優れた作家の暴力衝動というものは、常に「まだあきらめてはいない」という願望が付帯し続ける。真にやさしい作家だけが辿り着ける、あまりにも理性的なディメンションの暴力行為には、作者の冷静な眼差しを浮かび上がらせる。

 

 

 

さて、やや脱線をしてしまうが、ぼくのパーソナリティを踏まえて、本作を観劇した際に想起するに至った、少年期のある出来事について綴ってしまう。個人的かつ、極めてセンシティブな内容になると思われるので、そういうのに拒否反応が出る人は、今すぐここで退室するのを推奨する。

 

2008年3月23日。春休み。昼くらいに起きてリビングに行くと、食卓にはそうめんがある。ちょっと季節外れな気がした。母が言う「前にご近所さんから貰ったのすっかり忘れてて。もうすぐ賞味期限。食べ切っちゃって」ぼくは渋々、そうめんを食べる。満腹になっても、母がそうめんを足す。もういらないよと言っても、食べて食べてと足す。食卓には父もいたが、いっぱい食えーと笑って一緒には食べてくれない。全くいやになっちゃうなと、ぼくはそうめんを食べ続ける。ぼくはその日、駅ビルの本屋で漫画を買おうと決めていた。家から駅までは徒歩5分の距離だ。早く漫画を買いに行きたかったので、そうめんも頑張って食べた。食べ切った。ぼくはスニーカーを履いて家から飛び出た。お腹はそうめんで埋め尽くされていた、苦しかった。でも歩いた。やがて駅に到着した。その時だった。目の前を血まみれの女の人が横切った。ん?と不思議に思ったぼくは、女の人を目で追ってみる。女の人は背中から血が出ていた。女の人だけではなかった。駅前には、何人もの人が倒れていた。コンクリートの地面には点々と血痕があった。皆泣いていた。倒れた人たちを助けようとしている人たちもたくさんいた。「救急車!早く!」と男の人が叫んでいた。騒然としていた。ぼくは、一体何が起きているのか分からなかった。不思議と、怖くはなかった。何が起きているのか知りたいと思った。人々が駅の階段から下りて来るのを見て、ぼくは階段の上には何があるのだろうと思った。ぼくは階段を上った。階段にもぽたりぽたりと血痕があった。でも上った。駅の改札前が見えた。黄色い点字ブロックの上に何かが付着している。その時、ぼくは初めて知った。人間の血液が赤ではなく、真っ茶色だということを。血液は黄色い点字ブロックをどす黒く塗り替えていて、今までに見たことのない闇が海のように広がっていた。ぼーっと、ぼくはその海を見つめていた。なぜか、漫画が買えないな、と思った。突然、肩を掴まれる。警察官だった。「何してるだ君!ここにいたらダメだ!」ぼくは警察官に連れられるがまま、階段を下りる。血まみれの人たちがたくさんいた。助けようとしている人たちもたくさんいた。でも、ぼくはしばらく、恐らく5分くらい、「何もせずに」ただ立っていた。そしてこんなことを思っていた。「この人たちは、死んじゃうのかな」と。知っている車が駅前に停車した。父の車だ。父が車から降りて来て「帰ろう」と言う。怒るわけでもなく、優しく、でも真剣にぼくへ言った。「家に帰ろう」。「うん」と答えた。車のカーラジオから「茨城県で起きた通り魔事件は……」とニュースキャスターが慌てて言っている。「何が起きたの?」ぼくが尋ねると父は「こんなことで茨城が有名になってもな……」と、運転しながら呟いた。大人たちがパニックになる中、何となく、父だけは違うなと思った。家に到着した。「ただいまあ」ぼくが玄関を開けると、母が目に涙を浮かべて立っていた。が、ぼくの姿を見た瞬間、急に叫び声を挙げた。え?と思ってぼくは足元を見てみた。そこには、真っ茶色の血でべっとりと濡れたスニーカーを履いた、ぼくの足があった。車にも、玄関までの道にも、ぼくの血の足跡がついていた。


これが、2008年3月23日に茨城県土浦市荒川沖駅構内で起きた「土浦連続殺傷事件」とぼくの遭遇である。
後からニュースで知ったことだが、ぼくが駅に到着した時間帯に、犯人は200m先の交番へ出向き自首していたらしい。血まみれのサバイバルナイフを手にして。


もしも、が頭に浮かぶ。
もしも、母がそうめんをぼくに無理やり食べさせなかったら、ぼくは犯行時間に現場にいたのかもしれない。
もしも、ぼくの腹が苦しくなく走って駅に向かっていたら、ぼくの背後にはナイフを持った男が迫っていたのかもしれない。


生まれて初めて「死」を実感した。
第一に、自分が死んでいたかもしれないということ。
第二に、死にゆく人々を目の当たりにしたこと。
第三に、見慣れた日常の光景が非日常と化していたこと。
そして第四に、人の命を奪った人間が、自分の200m先にいたこと。


どこかで人間は、自分は死なないと思っている。次の瞬間に死ぬかもしれない、でもそれはあり得ない、自分にとっては。なんて思い込んでいる。メメントモリを忘れて。
ぼくもそうだった。祖父母も親戚も皆存命していたから、「死」というものに接したことが無かった。考えたことも無かった。でも、「死」は確かにあった。家から徒歩5分の場所で。自分から200m先の場所で。すぐそばに「死」はあった。いや、ずっと、常にあったのだ。そして、あるのだ。
ぼくが今でも不思議なのは、血まみれの人を目の前にして「助けよう」としなかったという自分の行動である。ただぼーっと、呆然と突っ立っていた。しかし今から考えると、あの約5分間は、ぼくが「死」を実感するまでに費やした時間だったのかもしれない。その時、恐怖は一切感じていなかった。一番の恐怖は、今思い返している、この瞬間だ。
一体なぜ、俺はただ立ち続けていた?


同年6月8日、秋葉原で通り魔事件が起きた。犯行に使用された凶器はサバイバルナイフだった。
ぼくにとって、この二つの事件は、漠然とした「死」を実感させた出来事となった。何だか、日本全体に「死」が蔓延し始めているとすら感じた。家を出て、家に帰って来るまでに、ぼくが「死」と遭遇しない保証は、どこにも無いのだと考えるようになった。
2008年に、ぼくは「不条理」というものを知った。
そこら中に「死」が転がっている。もう動かない方がいいと思った。「ただ立っている」方がいいいと思った。


一体なぜ、俺はただ立ち続けていた?


ぼくが映画を観たり作ったりする理由は、あの時の、あの瞬間の、あの自分自身に答えを示すためである。
そしてその答えは、あらゆる意味で「不条理」への純粋な呼び掛けでしかなく、あの言葉にできない感情を表現する場として、映画を選択している次第である。

 

2019年、川崎市登戸通り魔事件と京都アニメーション放火殺人事件という、二つの殺傷事件が発生した。ぼくの脳裏にフラッシュバックしたのは、自身が認識した、2008年の二つの殺傷事件であったことは言うまでもない。哀しい/許せないと当たり前に悲観する以前に、一刻も早く映画を作らなくてはならないと改めて感じた。暴力よりも先に、映画を作っておく。これはぼくにとってのオブセッションであり、崇高な呪いである。

 

作者である香椎響子がヴァージン砧・第一回公演として提示した本作は、あらゆる絶望、怨念、あきらめによってもたらされた悪に対して、それを弾劾し断罪することを消費としている、あらゆる正義、倫理、人間性への客観的な異議申し立てに成功している。すなわち、悪に石を投げる、あなたは「悪」ではないのかと。人間は、教科書に書かれているような何もかも正しい生き物ではない。人間は誰しも、当然のように「間違ってしまう」。無敵の人はいる。以外の人はいる。彼らは増えはすれど、減ることはない。彼らの味方をするわけではない。彼らが行なった「悪」を、事後的に騒ぎ立てることが、自警団的な使命感のもとに、あるいは人間として正義を論じることが、果たして「あなた」の職務なのだろうか。

 

ぼくは、あまねく論争はあって然るべきだと考えているし、決して犯罪者を擁護するような思考を披露するつもりは無いと断りつつ、ぼくらは、本当にぼくらと「関係がある」ものについて、もっと真剣に考えるべきなのではないだろうか。ぼくは、自分と関係を持たされた2008年と、点と点が線で結ばれた2019年と、そういった時代に「SNSではなく」、演劇でその「悪(あく/わる)」に関する思考を戯画化した『ポップコーンの害について』、について、ただ真剣に考えてみた。事件を「ポップコーン」にすることだけは、絶対に許されない。そんな容易い消費が、あなた自身にも、この世界にも、あってはならないはずだ。しかし、こうしたぼくの論旨展開よりも先に、香椎響子は「あってもいい。あるんだから。ある上で考えろ」と檄を飛ばす。そんな彼女は、決して自分の作品を「ポップコーン」にはしなかった。彼女だけが願っている。彼女だけが、絶望し、怒り、哀しみ、共感を拒絶しながらも、共感を追い求めて、ことばによって人間の「悪」と「悪」を繋ぎ合わせる。彼女だけが、願っている。

 

いや、ぼくだって願っている。社会やSNSで、悪や死や怨念や狂人が、無条件に負のコードに選別されて語られるのだけは認めたくない。そこには、絶対的な「人間としての業」が隠れているはずだ。業の肯定や否定の話ではない。業を発見し、語り継がなくてはならないはずだ。どんな業においても。考えることを停止してはならない。社会やSNSがやらないのであれば、芸術がやればいい。すべての憎しみよりも先に、作っておくのだ。芸術を。そのことによってしか、世界もぼくらも救われない。ヴァージン砧のこれからの活動に際して、この勝手極まりない願いが成就することを期待する。少なくとも、ぼくの脳裏にこびりついていた「あの光景」は、ほんの少しだけでも、あなた方の悪魔祓いの儀式によって、静けさを取り戻したのだから。あなた方の受けてきた傷と、ぼくが受けてきた傷は違うかもしれないけれど、我々は傷を負った者同士として、なにかを祓うことができるはずだ。呪われた人々は、しばらく、次回の儀式のために、列に並んでおくべきである。

ちいさな光が見えないあなたへ【コロナウイルスと現代日本芸術文化に関する、誰かのための間違ったアゲインスト】

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新型コロナウイルスは正式名称をSevere acute respiratory syndrome coronavirus 2、略称をSARS-CoV-2と称する。このウイルスの形態を描いたコンピューターによる図は、上記の添付画像の通りである。不謹慎上等で言ってしまおう。コイツ、中々にかっこいい姿じゃないか。

ウイルス粒子の表面に突起するエンベロープ(膜構造)は、花弁状のマッチ棒のようでいて、太陽の周囲に見られる自由電子の錯乱光と似ていることから、この名前を名付けられたのだ。太陽の光冠と等しい構造と似姿を兼ね備えているとは、あまりにも洒落ているじゃないか。コイツは太陽の光なのだ。しかも電子顕微鏡でないと目視できない太陽の光だ。ちいさなちいさな太陽の光が、世界中の大気中を漂っているにも関わらず、ぼくらはその光を見ることができないでいる。端的に言って、この状況は魅惑的かつ美しいものだ。


肉眼では見えないほどにちいさな太陽の光を受けて、ぼくらはよっぽど、視力を失いつつある。このちいさな光には、人々から視力を剥奪することへの、ゆるやかな容易さがある。空に浮かぶ太陽の直視を避けるのと同様に、このちいさな光は「見てはならない光」だからだ。

 

見えない光の得体の知れなさに恐怖して、見えない光の「光」とはどんな輝きなのかを憶測して、見えない光を見ると恐ろしいことになると過剰にマスメディアからは教育されて、見えない光が生み出す懸念から混乱を引き起こし、見えない光を浴びる機会の排除に徹底していく。


ちいさな光を見ないために、人々はサングラスの大量購入を必死に演じるけれど、この光はまず、サングラスだけでは防ぐことができない。加えて、この季節には真に太陽の日差しがまぶしく照りつけるため、本当にサングラスを必要としている人々にとっては、なんとも窮屈な状況であることを失念してはならないだろう。

 

サングラスが店頭から姿を消し去ると、今度はメガネが無くなるのではないかと、人々は再び滑稽を演じる。ほとんどが国内生産されているメガネは、およそ生産が尽きることは考えられないのだけれど、ちいさな光に恐怖する人々にとっては、そんな正しい情報はどうでもいいのだ。現に、メガネも店頭から消えていっている。それはメガネが無くなってしまう!と早とちりした馬鹿で駄目な人による犯罪である。だけれど、メガネが無くなるとは予想しないけれど、こうして空っぽの商品棚を見てしまうと、次こそは、今こそはこの目の前にあるメガネを買わないとならない、と、思わず思考が動かされてしまう人々もいる。これら集団的無知が巻き起こす負の連鎖は、きっと数年後の新しい教科書に書かれてしまうだろう。馬鹿な人として教科書に載りたくはないはず。だから今のうちにやめておきましょう。


しかし、ちいさな光がもたらした騒動によって、間違いなく馬鹿な人として歴史に名を残す人間もいる。その人はぼくらが生きている、このちいさな混血列島で政治的にはいちばん偉い人だけれど、頭と心はあんまりよろしくない人だ。頭と心がよろしくない人はたくさんいるけれど、頭と心がよろしくない人が政治的にいちばん偉い人なのが、ぼくにはよく分からない。まあ、多数決で選んじゃったからしょうがない。ぼくはその人には手を挙げてないけど。ともかく、その人がちいさな光に怯えるぼくらに対して、突然こんなことを言ってきた。


「ちいさな光はたくさんの人たちが集まる場所で、ちいさいながら激しく乱反射を起こしてしまい、見えてしまう可能性がとても高まる。したがって、たくさんの人たちで集まるのは我慢して」


ええ? じゃあ満員電車は? 満員電車こそ我慢しろってこと? 全然「満員電車」って言わないじゃん、かたくなに言わないじゃん。そして、まあ我慢はしようと思いたいけれど、でも我慢することに対しての手当ては? たくさんの人たちが集まる場所で行われるそれぞれは、それを準備する人たちも、それを楽しみに観に来る人たちも、どっちにもお金が発生している。特に準備する人たち、実際になにかを見せてあげる人たちは、我慢したことによってたくさんのお金を失う。その損害に対して、ちゃんと偉い人たちが助けてくれるの?

 

ぼくらが困惑していると、彼は続けざまにこんなことも言ってきた。


「ちいさな光から子どもたちを守るために、学校はすぐに春休みにしちゃってください。言うこと聞かなくてもいいけど、だって子どもたちのことを守るのが最優先だからね、よろしくね」


えええ?? 働いているご両親たちが満員電車で見てきたちいさな光の見方を子どもに伝えちゃったら意味なくない? 共働きしている家庭では誰が子どもの面倒を見るの? お母さんであり看護師さんとして働いている人は、どっちを優先すればいいの? ガキんちょが休みをもらって、じっと家に閉じこもって生活すると思ってるの? 非常勤講師の人は約1ヶ月間も無職になっちゃうの? 給食を作ってくれる人たちのお仕事は奪われちゃうの? 子どもたちのために絞られた牛乳は、たくさん余って捨てちゃうの? 


ぼくらの国の政治的に偉い人たちが思い付いたことは、とりあえず人がたくさん集まる場所や行事は危ないじゃん、今んとこやめておこう、なーに、ちょっとだけよ、ちょっとくらいは大丈夫だろうから、大変だろうけど、みんな大変だから、こんな時こそ、国ごと一致団結しましょうよ、という考えだった。


すごく間違っている。


第一に、ちいさな光は空気さえある場所ならどこにだってあってもおかしくない、つまり特定の場所を危ないと決めつけることが、将来的な光の消滅に繋がるとはぼくは考えない。

 

たとえば、毒が混じった水があるとする。この毒水が東京ドームに撒かれた。だから東京ドームが危ない場所だという理屈はわかる。さて、今回のちいさな光は、この毒水と等しいものだろうか。ちいさな光は、撒かれた場所にしか存在しないのだろうか。

 

確かに、たくさんの人が集まる場所や行事は、ちいさな光を見るリスクを高める。だけど、それは人がひとりもいない公園だって、誰もいない古びたトイレだって、帰り道にある本屋さんだって、ちいさな光があってもおかしくない状況なのに変わりはないはずだ。また、たまたま入った立ち食い蕎麦屋の、隣で一緒に月見そばをずるずるとすすった人が、もしかしたら、ちいさな光の見方をポロッとつぶやくかもしれない。

 

つまるところ、ちいさな光はどこにだってあるのかもしれない。そのことを忘れずに対策を考えていかなければ、本末転倒なことにもなり兼ねない。そして、ちいさな光がどこにだってあるという事に困惑することなく、帰宅したら目薬をしっかりと打って、目を休ませることを徹底するなどして、日頃から気をつける行動を怠らなければよいだけだ。「ある」のは仕方がない。「ない」場所を作ろうとしたり、「ある」場所を悪い場所と決めつけるのではなく、そこに「ある」光とうまく付き合っていくことを、落ち着いて考えてみよう。こんな時こそ。


第二に、我慢できるだろうと政治的に偉い人たちが考えていたことは、実はそう簡単に我慢できるものではない。それくらい忍耐できんのか!意志が弱い!と怒鳴られたら、こう返したい。ぼくらは、芸術や文化が大好きだという意志なら強く持っている。

 

偉い人たちは、この芸術や文化というものを我慢できると考えていて、言い換えれば「娯楽」でしかないと思っているのかもしれない。その通り。芸術や文化は「娯楽」以上でも以下でもない。だけれど、ぼくらの中にはどうしたってその魅力にとりつかれてしまって、それを「娯楽以上」のものとして考えている人だっている。それをみんなは「生きがい」と呼んでいる。つまらない、恥ずかしい言葉かもしれない。芸術や文化が「生きがい」だなんて。でも、それを信じている人たちは、絶対にそのことから逃げないし、馬鹿にしたり、蔑んだりはしない。なぜなら、本当に「生きがい」だからだ。「生きている価値」だからだ。こんな時だからこそ、ぼくらはその「生きがい」を、たくさんの人たちに発揮することができたはずなんだ。


その「娯楽」、ちょっとだけ我慢して、政治的な正しさなんだこれが、我慢したところで生活に支障はないでしょ。と、言われたところで、真っ向からNOを返したい。「生活に支障をきたす」からだ。ぼくらは、政治的には間違っている、ちょっと我慢すべきことが我慢できない、「娯楽」が無くなると「生活に支障をきたす」人間だからだ。そうだ。堂々と言ってやる。ぼくらは「間違うために」芸術をやってるんだ。正しさという幻想で埋め尽くされた現実も生活も政治も社会も、この世の中で間違うことが許されていないから「間違い」に向かうことを選んでいるんだ。正しさなんかを押し付けてくるな。ぼくらにとっては、あんたらこそが間違ってんだ。


パフォーマーやクリエイター、そしてファンや観客にとっての「生きがい」を、我慢してくれと国が言ってしまったことから、なんだか我慢しないとよろしくない空気、を生んでしまった。

 

その空気は低気圧と化し、雨雲を作り、その雨雲はどんどんと移動していった。映画館や、小劇場や、ライブ会場に、その雨はザアザアと降った。中には、傘を差して「生きがい」を決行する人もいた。でも、みんながみんな、急な雨雲に備えて傘を持ってはいないのだ。

 

雨でずぶ濡れになった自分たちの大好きな場所を見て、国に助けてほしいと声を上げる人もいる。雨による大水害を想定できずに、ぼくらに傘すら渡さなかったこの国の偉い人たちは、だから間違っている。我慢をするとぼくらだって、濡れて寒さで震えることを知っておくべきだった。我慢を頼むのだったら、ちゃんとした手当ても準備するべきだった。

 

ぼくらは今、ちいさな光ではなく、この大雨に困らされているのだ。それこそが最もばかばかしい。だからぼくは、これを人災だと考えている。


ちいさな光が消滅していくのか、この大雨がやむのか、その兆しは見えない。


ファッションセンスゼロで食いしん坊だけど会議が苦手でゴルフは大好きなクソったれのシンゾーとかいうジジイは「ここから1~2週間が山場なので今後10日程度で対策を取りまとめます」という意味不明で支離滅裂なことばをぼくらに再び投げかけた。今後のことを彼に期待しても、しょうがないのかもしれない。助けてくれと頼んで、助けてくれるような男じゃないのはよく分かってた。というより、この世の中は誰も助けてくれないのだ。唯一ぼくらを助け出してくれるのが、芸術なんだけどなあ。


絶望もしたくもなるだろう。ぼくだって、本当に哀しくて、腹が立って、やりきれない気分になった。


こんなときに、楽観的かつ自己啓発的なことばはなんの役にも立たない。あきらめずに、とか、希望を捨てずに、とか。希望的観測という類のことばたち。そういうことをノコノコと口にできる人は、本当にあきらめたことすらないだろうし、本当に絶望したことすらないだろう。そんなことばじゃないんだ、今こそ必要なのは。伝える場と、伝わる人。それをぼくらから奪わないでほしい。もう誰に言っているのかすら分からない。だけど言う。ぼくらから芸術を奪わないでくれ。そしてぼくらは、絶対に芸術を取り戻すぞ。


思わず鼓舞してしまった。楽観性を否定したにも関わらず。それでも鼓舞したくもなるのだ。加えて、楽観と楽天は違う。これは大事なことだ。楽天的でいこうぜ。伝える場と、伝わる人。それらを楽天的に、ぼくらなりの手段で取り戻すのだ。


伝えたい人がそこにいて、伝わりたい人もそこにいる。「いる」んだよ。絶対に。それはちいさな光と同じことだ。「ある」んだよ。「ある」ことはどうにもできない。「ある」ことを否定はできない。「ある」ことを排除はできない。少なくとも今は。でももしかすると、ちいさな光は、やがては消えてしまうかもしれない。でもね、芸術を必要とするぼくらが消えることは、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、ないんだよ。統計学じゃない。だから正確な論でもない。でもね、ないんだよ、そんなこと。それだけは分かるんだよ。それってよく考えたら素晴らしいことじゃない? ちいさな太陽の光が空気中を漂っていることの、100京倍も美しいことだよ。そんな「いる」ということを、もっと大事に考えてほしいな。大切に考えてほしいな。みんなに。みんなってのは、みんなのことだ。


大雨で何もかもぐちゃぐちゃになってしまい、泣いて悔しがっている人たちもいる。伝えたかった、伝わりたかった。その人たちの涙を、意味のないものにしてはならない。その人たちに、また涙をこぼさせてはならない。その人たちは今とっても苦しい想いをしている。助けられる人たちは、どんな形でもいい。あなたなりの方法で助けてほしい。そして、もう涙を流す人がこれ以上出ないように、ぼくら自身の素晴らしさと、美しさと、間違いに、今こそ最上級の尊敬を示そう。

 

ちいさな光よりも、あなたが見るべき「光」が、必ずあることを、今日見る夢の中ではなく、現実の中で探してください。そして、現実の中で夢を見ましょう。その夢が、あらゆる光で照らされていますように。

『排気口WS・裏口入学制度』提出テキスト

【まえがき】

https://twitter.com/haikikou02/status/1225694486052757512?s=21

https://twitter.com/haikikou02/status/1225693241380524034?s=21

上記の報を受けて、ぼくが執筆し、提出したテキストが、以下になります。

 

 

 

裏口入学制度、それ自体へのアゲインストを試みる。

とは言え、たった今一行目に記してしまった宣言に関して、ぼくは完膚なきまでに何ら作戦を熟考していない。そのような気心がまるで燃えたぎっているが如く、羅列してしまった平仮名、カタカナ、そして漢字による文字列から成る一行目に対して、ぼく自身はまんべんなく無関心である。考えてもいない。思い耽ったこともない。しかしながら、排気口が催すワークショップの告知、またはそれに付帯する裏口入学制度を知るに至り、育ちの悪いいたずらっ子なワルガキである手前、これは嫌がらせも兼ねてラヴレターを誤送しなくちゃならんのではないかと、奇襲を仕掛けてきた強迫観念に身を委ねつつ、チェ・ゲバラの形見である原価6千92万円の万年筆を手に取り、筆を走らせた次第なのである。筆を走らせてみた途端、ぼくの超自我が自動筆記に近い形で書かせた文章が、該当する一行目なのである。


誠に困っている。なぜなら、そんなことは全く考えてもいないからだ。ではどうして、考えてもいないことを自らが書いてしまったのか。もしかすると、今から書く文章は、その真理に辿り着くまでの工程なのではなかろうか。わからない。誠にわからない。こんなことを書くつもりは微塵もないのだ。くそっ。何を書こうとしたんだっけ。そうだ。ぼくは排気口が好きだ。くそっ。ぼくは排気口が好きだ。くそったれ。ぼくは排気口が好きだ。くそっ。ぼくは排気口が好きだ。くそっくそっくそっくそくそくそくそっ。ぼくは排気口が好きだ。ぼくは排気口が好きだ。ぼくは排気口が好きだ。


まず第一に、ぼくは大好きな排気口に対して、許される限りの表現を以って愛を綴ろうと決意していた。排気口と称する集団が常備している、言葉や空気、そして何より、クールさが好きなのだ。クールといっても、ハイライト・メンソールのことではない。此処で述べている"クールさ"とは、かっこいいという意味と共に、冷たいという意味もある。しかし、冷たいとは、決して冷徹なのではなく、客観視点が備わっているというのがふさわしい。所謂、引いている、という見方のことである。限りなく登場人物に移入し切った作品を、恐らく排気口は生まないだろうし、登場人物に待ち受ける喜怒哀楽を、決してデウス・エクス・マキナが阻害せず、それが達成されるまで見届けるはずであると、ぼくは考えている。排気口には、介入というよりは傍観に近いかたちで、ありのままに運命を受け入れるあたたかみが感じられるのだ。これは極論として定義してしまうと、排気口は運命論者であるといえる。意見を声高らかに押しつけることはせずに、解決を与えることもせずに、ふっと立ち寄って、ふっと立ち去る。握られた手はやがて離されるために握られているわけだが、そこで握り続けることを決して強要せずに、離れていく手に対する感情こそを肯定する。つまり運命には介入しない。そういった美学がこの集団にあるということを、彼らの作品に触れればいとも容易く察知ができる。


ぼくは日本的な情緒というのがあまり得意ではなく、演劇や映画においても、おろおろと泣き喚かれたり、ぎゃあぎゃあと叫ばれたりすると、脊髄反射的に集中力と興味と知的好奇心を喪失する。ましてや、「愛は地球を救う!」とカーテンコール直前で出演者全員が第四の壁を目がけて絶叫したりすると、拍手を放棄して席を立つ。要するに、ジメジメとしたものも、メラメラとしたものも、果てしなく受け付けられない客として生きている。それらは、言ってしまえば「彼ら」さえ気持ちが良ければいいという愚行のあらわれだと感じている。泣いたり叫んだりすれば、さぞかし登場人物/役者はスッキリするだろうが、優れた例外を除いてみれば、そのほとんどで観客は置いてきぼりを命じられる。忍耐力のないぼくには、それが耐えられない。登場人物/役者が嬉しかったり、悲しかったり、怖かったり、苛立ったり、驚いたりするのは、果たして観客も同じタイミングでそれらに遭遇し、体験し、共感したいのだ。少なくとも、ぼくはそうだ。


排気口はそんなぼくを、あまりにもイージーに傍観させた。何ら他愛もなく、感情が揺さぶられ続けた末に、登場人物や彼らの言葉を忘れたくないと追想した。そして端的におもしろかった。観客として、観客が運命を見届けることの豊かさを、この集団は信頼してくれていると直感した。ぼくは傍観を許された。だからクールだと感じた。


若い人は叫びがちである。メッセージを語りたくなってしまう。しかし、その一人称視点こそが創作の罠だ。三人称視点で、適度に笑いを散らしながら、引いた距離感を保つこと。ぼくは、そういったことができてしまう才能にこそ初めて魅力される。排気口は、ぼくにとってそれだったのだ。


そんな排気口への愛を、アイなんて二文字で済ましてしまわないように、ぼくは筆を持ったんだ。

 


(沈黙)

 


アイ、という言葉には当然「I」という意味も含まれています。不思議な言葉です。愛、I。今、黙読した方は自動的にアイ・アイと読みましたわね。童謡でありましたね、猿の唄です、アイアイ。アイは二回繰り返すと猿になります。また、ローマ字でアイはAIと記しますけれど、これはエーアイと読ませると人工知能の略称になります。まあエーアイですから、これはアイとは異なるものだとしましょう。あとは、アイという発音はアルファベットのEYEに与えられています。これは目、ですね。アイという言葉には、愛と、わたしと、目があります。あなたが使用するアイは、果たしてどの意味ですか? あるいは、あなたが使用するアイには、それらとは異なった意味がありますか? そして、愛と、わたしと、目が存在しているものとは一体何でしょうか? アイについて、今こそ考えてはみませんか? それこそが、この裏口入学制度への最も果敢なアゲインストであることを、あなたは知っているはずです。あなたは必ず、その答えに辿り着けるはずです。適応はやめなさい。アジャストよりもアゲインストを選ぶのよ。抵抗によって、排気口を救うのよ。それは、あなた自身を救うことになるのだから。

 


(42分後)

 


ドクターペッパーがこぼれていた。350ミリ缶のドクターペッパーが、ぼくの頭に当たってこぼれてしまっていた。机上に流れる茶色の炭酸性天の川から、甘く知的な香りがする。ぼくは今、目が覚めた。目が覚めたのでこの文章を再び書くことができているわけだが、目が覚めたということは、ぼくは眠っていたことになる。不意に眠りに落ちてしまったということは、ドクターペッパーがこぼれること……には絶対的には繋がらないが、現に法則性を帯びて、ぼくの飲みかけのドクターペッパーはほぼ空になってしまった。慌てる様子もなく、エリエールのティッシュペーパーでそれを拭き取る。茶色に染まるティッシュペーパーを見つめて、ぼくは自問自答する。いったい、なぜ寝てしまったんだ? ぼくになにが起きたんだ? 濡れたティッシュペーパーを半径1メートルの位置にあるゴミ箱へ放り投げる。外れる。……いったいぼくはどうしてしまったんだ?


そもそも、ぼくは排気口へのラヴレターをこうして書き記していて、取りも直さずかなり上機嫌で、幸福で、さわやかな気持ちでいたというのに。眠気なんてゼロだ。昨晩は8時間寝た。朝起きてブラックコーヒーを一杯飲んだ。今は、午後1時だ。ドクターペッパーにだってカフェインは含まれている。眠くない。むしろ目が覚めていた。なのに。なのに。


ふいに、名探偵コナンという漫画を思い出した。いや、ぼくは漫画は読んだことがなくアニメーションでしか認知していないのだけれど、さておき、コナンが使用する道具の一つに、腕時計型麻酔銃というのがあった。これは、スイッチを押すと腕時計内に収められた麻酔針が発射され、命中した相手を瞬時に眠らせることができる恐ろしいテクノロジー兵器だ。無論、コナンがフィクションなのはぼくも理解している。理解してはいるものの……あの毛利小五郎が不憫で仕方がない。今なら同情ができる。ぼくは首筋の頸動脈に触れた。いつにも増して早く脈打つそれに、麻酔銃の痕跡は判断できなかったが、こういう事態では直感こそが重要だ。コナンもきっとそうだ。ぼくは直感した。麻酔銃で撃たれたのだと。いや、打たれた、が漢字表記としては正しいのかもしれない。しかし今のぼくにとっては、撃たれたという感覚こそが実感として濃厚でしかない。


ふと、机から斜め右後方にある窓を見つめた。中途半端な日差しと共に、メントールの風がカーテンを揺らしている。窓が開いている。


しまった、とつぶやいた。


いつもならば、ぼくは窓を開けて何かを書く癖があるわけでもなく、書き始める段階では窓は閉まっていた、と思いたいのだが、今回ばかりは、しまったと後悔した。確かに窓は開けていた。


ぼくは猫が好きだ。犬よりも、という比較対象を出すこと自体が野暮であり無礼であると猫に対してアイロニーを感じる程度に、猫が好きだ。そしてこのマンションの2階の自室に、時折、野良猫がやって来る。野良猫だと分かるのは、その猫が首輪をしておらず、痩せ細っており、背中の上をぴょんぴょんとノミが飛んでいるのを見たからだ。とは言え、そのみすぼらしさだけで野良だと判断することはいささか失礼なのかもしれないが、その猫は今くらいの時間に、ぼくの部屋にやって来るのだ。理由はわからない。しかし出逢いに理由なんていらない。ぼくは半年ほど前からやって来るその客に対して、まるでテレビドラマのような志しで、平たい皿にミルクを注いで、それを窓際から差し出していた。ぼくの自室にはベランダが無い。転落防止用の錆びた柵だけがある。なので直接、ぼくが皿を持って、柵にちょこんと腰を据える猫にミルクを与えていたのだ。ちょうど、今くらいの時間に……だから今くらいの時間に開ければ良かったのだ。今くらいの時間にやって来る猫が、姿を現したら窓開ければ良かったのだ。それなのに、ぼくは無意識のうちに、窓を開けてしまっていた。猫を待っていた。待ってしまっていた。猫にはぼくが敬愛するサミュエル・ベケットの戯曲から拝借して「ゴドー」と命名していた。ゴドーを待ちながらゴドーを待ちながら、腕時計型麻酔銃で撃たれた。どうにもならん。


ぼくは椅子から立ち上がり、窓際に立った。ゴドーの姿はない。いや、ぼくが眠っている間にゴドーは来ていたのかもしれない。ともすると、ぼくがゴドーを無視する形で、ミルクを差し出さなかったように思われて、もう二度とゴドーはこの部屋にやって来てくれないのかもしれない。人生の不条理を全身で実感する。ぼくは開いた窓に手を掛けた。すると、何やら外の路上で、少年と男が立ち話をしているのが目に入った。少年は少年と呼ぶよりはガキと呼ぶのがふさわしいガキの姿でしかなく、ランドセルを背負っているので恐らくは小学生なのだろう。対面している男性は、真っ黒いロングコートを羽織った真っ黒いスーツ姿で、その眼差しはサングラスで隠されている。さしづめメン・イン・ブラックのそれのようだった。ぼくは、たった今起きた理不尽な状況を浄化するために、彼らの会話に耳を傾けた。ぼくは地獄耳で有名で、聴力をあらわす単位を把握していないが、とにもかくにも耳が良いのだ。およそ10メートルも離れていない地点の会話を盗み聞きすることくらい、朝飯前なのである。ぼくは、彼らの会話に全神経を集中させることにした。

 


ガキ「ここに大きな岩と小さな砂粒があります。どちらも水の中に落とします。さて、それぞれどうなるでしょうか?」
男「どちらも、水に沈む」
ガキ「だ!だっ!だだ!大正解!」
男「大きな憎しみも小さな哀しみも、行き着く果ては同じなのさ」
ガキ「やべえー!アンタ何?神?」
男「おれは目薬の中身とアガサ・クリスティの小便を取り替える仕事をしている」
ガキ「すげえ!どうやって?!」
男「毎晩、3時72分に液晶テレビのモニターとマリークワントのコンパクト手鏡を合わせ鏡状態にすると、その中間地点にワームホールが出現する。その穴に向かって自慰行為をするんだ」
ガキ「ジーコーイってなに? あと72分って何分なの?」
男「禁則事項なので君には明かせられない。さて、自慰行為を促進させるために、液晶テレビではトレーシー・ローズのポルノを流しておくのが重要となる。トレーシーが騎乗位で腰をグラインドさせながら"キューブリックじゃない、正しい発音はカブリックよ"と絶頂を迎えたら、おれも射精する。3リットルくらいは射精する。すると、ワームホールが一瞬でおれがいる部屋全体を包み込み、おれも部屋もワームホールの中へと移動するんだ。ワームホールの中はケイティ・ペリーが飼っているトイプードルの肉球くらい臭い。おれが発射した精子にはハッカ油が含まれているのでなるべくは消臭されるが、それでも臭い。反射的に鼻をつまむと、それが多元宇宙におけるパラダイムシフトのスイッチとなって、元いた世界はミツカン味ぽんの中身とすり替わる。おれがトウモロコシのことを"とうころもし"と言ってしまっていた忌まわしき世界は、世界線ミツカン味ぽんの中身へと分岐させ、おれは無性に大阪の王将の餃子が食べたくなる」
ガキ「ぼくはヘリコプターのことを"へりぷこたー"って言っちゃって、ロフトプラスワンYouTubeにあるミッチーの動画を見まくるライブをやっていたマザー・テレサに爆笑されちゃったよ。あの日飲んだメローイエロー小津安二郎みたいな味がして酸っぱかったよ」
男「メローイエローってまだ売ってるのか?」
ガキ「いや、もう10年前の話。今じゃ養命酒しか売ってない世の中だもの、アルコール中毒になったマザー・テレサもハチ公像にまたがって凍死してしまったし」
男「アルコールは麻薬だな。ってキミ、まさか酒は飲んでないよな?」
ガキ「は? ギンギンに飲んでるよ」
男「おいおい、未成年の飲酒と『シックス・センス』のオチを話すのはホーリツで禁止されてるんだぞ。親の顔が見てみたいぜ」
ガキ「はー? ミセーネン? ぼく大学12浪してるから35だよ?」
男「年上だったか!こりゃ失敬」
ガキ「いいよ、アンタ知らないことをたくさん知ってるし。ってか65歳くらいだと思ってたし」
男「原宿のアインシュタインって呼ばれているからな。それでだ……えっと、どこまで話したっけ?」
ガキ「ゴジラアンギラスモスラをスワッピングしたくだりから、かな」
男「ああ、そうだった。そうそう、アンギラスはクンニリングスがべらぼうに上手くてな……」


木の上に立って見ていた母親「親という字は木の上に立って見ると書いて"親"と読みます、テレビの前の親!親をやれ!そして親になれ!と、青汁のコマーシャルで元恵比寿マスカッツのメンバーの誰だか知らない女が言っていたので実践してみたけれど、ウチの子、一体誰と話しているのかしら? わたしの目線は、いわゆる客観視点として機能するのだけれど、誰かが目薬の中身をアガサ・クリスティの小便と入れ替えた所為で、目が目ヤニで埋め尽くされてよく見えないわ。でもね、目ヤニが立ち塞がろうとも、我が子だけは見えるのよ。なぜならわたしは、親!だものね。にょっへへ。あらやだ、この目ヤニひと舐めしてみたら、浮気相手の入れ歯に残った食べカスとおんなじ味だわ!ほのかに永谷園の鮭茶漬けに似てる風味ね。この目ヤニにポリグリップをたっぷりかけたら、夢だった小料理店を開けるかな。ウーバーイーツに登録して全国展開してもらわなきゃ。未来は明るいわ。今夜の夕食は奮発してバスロマンにしてあげなきゃね。わたしってマジで徹頭徹尾に親だなー。で、この木からどうやって降りようかしら」

 


ぼくは窓を閉めた。窓を閉めるには事足りるだけの理由が目前で繰り広げられていたのだ。ぼくは窓を閉めた。窓は閉められた。これにて、麻酔銃の脅威からは逃れることができただろう。深くため息をついて、呼吸を整える。


再び机に向かう。筆を持つ。ぼくはあらゆる不条理に敗北していてはならない。なぜなら、排気口へのラヴレターを、一文字でも多く書き記さねばならないのだ。目標は2万字である。2万字とは、飛び越えられるかどうか、飛び越えてみないと分からない障害物競走のハードルの高さに等しい。飛ぶ前に見てはならない。見る前に飛ぶ、のだ。ぼくは再び、走り始めた。


「もしもし」


いけない。走り始めた途端に、これはいけない。ついに幻聴まで聞こえてくる。しかも若い女性の声だ。ぼくは今、とてもよろしくない精神状態なのだろうか。


「もしもーし」


尚も幻聴はやまない。ぼくは霊感がない。だからこれは幽霊の声ではない。背後から聞こえてくるようだが、間違いなくこの声は、ぼくの頭の中で鳴っているんだ。こんな経験は初めてだ。おそろしいこともあるものだ。こういう経験をしたことが無くとも、するべき措置は知っている。無視の撤退である。


「もーう。麻酔銃の効き目は2時間くらいと聞いていたのに、1時間ももたないなんて。青山ゴーショーを訴えないといけませんね」


え?


ぼくは頭の中の幻聴に向かって、振り返った。

 

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ぼくの目の前には、まるで浜辺美波その人のような、しかし彼女のシミュラクラだとは認識できる、とにかく浜辺美波そっくりの浜辺美波が立っていた。彼女はほとんど無表情で、とは言え時折口角は上がり、また時折眉間にしわを寄せる、なんとなしに情緒不安定といった様子で、明らかに気が立っているようでもあった。彼女が幻影でないことは、彼女から漂うヘアーコロンの香りが立証していた。ヘアーコロンの種類はわからない。わからないけれど、ぼくが今まで出逢った女性の中で、こんなにもやさしい香りは初めてだった。


ぼくは驚愕を隠して、平静を装った。


彼女は一歩だけ、ゆっくりとぼくの方へと近付いた。


「はじめまして。では、ありませんよ」
いや、そのお、恐らくはじめましてだと思うのだけれど……
「自己紹介の前に、今すぐ、その文章を書くのをやめてはいただけませんか?」
え、どうして?
「あなたが排気口のワークショップに行くことを、わたしは阻止したいからです」
はい? 一体なんだいきみは突然に。
「もう……もう、うんざりなんですよ。排気口とか」
排気口への恨みでもあるのかい、きみは?
「恨みも何も……まあ、しいて言えば、わたしがオフェンシブな態度を取るのは、ハイキコーよりもまずあなたに対してです」
はあ? なんでぼくに?
「あなたは、芸術は生み出す活動なのではない、芸術は壊すことについての活動なんだと、そう仰っていましたよね」
仰ったかもしれない。ぼくは『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンの信者だからな。
「しかし、あなたが今やっていることは、何ら破壊も招かないわ。なぜなら適応だから。排気口に適応することに安堵しているから。あなたは排気口のような優れた芸術を目の当たりにして、そこで純粋無垢にあぐらをかいています。でもね、それは本当にあなたがやるべきことなんですか? あなたはその優れた排気口を、自分の表現を通して対抗したり、壊したり、爆弾テロを起こすくらいの気概でいないとならないんじゃないですか?」
おいおい、乱暴な論旨展開はよろしくないよ。
「そもそも、なにが裏口入学制度よ。映画作家であるあなたが、なぜ裏口で入学する必要があるのよ? そんなことに時間を費やしている場合なのかしら」
ワークショップに興味を持つことをそこまで罵倒しなくてもいいだろう。
「いいえ、これは由々しき事態です。少なくとも、あなたとわたしにとっては。だいたい、2万字のラヴレターとかなんとか言ってますけれど、あなたには他に書くべきことがあるのよ。それに、2万字の字数制限に対して、なにを利口ぶって正確に遵守しようとしているんですか? 2万字への抵抗をしなさいよ、男なら闘いなさいよ」
あ! もしかしてあの一行目を書かせたのは、きみの超能力か何かか!
「共鳴と呼んでいただきたいです。あなたの潜在意識下にある真の想いは、排気口へのアゲインストなのですから。そうに決まってる。だって映画と演劇は違うんですから。そう言い続けてきたじゃない」
いや、映画と演劇は、お互いに手を取り合うことで、何か新しい創作を可能にできるはずだ。
「その手が離れると分かっていても?」
……離さない。
「ふーん。口ではなんとでも言えますよ。せいぜい口八丁でいらしてください。わたしは絶対に2万字も書かせない。あなたは、2万字の字数制限に対して、如何にして2万字を書かずに2万字の字数制限をクリアしてみせるか、そういったことを考えるべきです。例えば、以前にあなたがブログに書いた排気口に関するテキストのリンクをここに貼り付けてしまいます」


映画では「死んでいて」演劇では「生きている」こと【排気口『怖くなるまで待っていて』雑感】(7616字)
http://campanella-exodus.hatenadiary.com/entry/2020/01/28/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%8D%E6%BC%94%E5%8A%87%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B 


菊地穂波氏との邂逅に関する(超訳としての)備忘録(16061字)
http://campanella-exodus.hatenadiary.com/entry/2020/01/31/%E8%8F%8A%E5%9C%B0%E7%A9%82%E6%B3%A2%E6%B0%8F%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%82%82%E9%80%85%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%EF%BC%88%E8%B6%85%E8%A8%B3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%EF%BC%89 
 
「ハイ、これにて23677字を達成です。ハイ、おめでとう2万字クリア。ハイ、おしまい」
おい! やめろ!
「これが映画から演劇へのアゲインストなんですよ。手を差し伸べたり、向こうさんの言いなりになることなんて、全くもってないのだから」
いい加減にしてくれ。きみが排気口の何を知っていると言うんだ。ぼくが排気口のことを好き好むのは、ぼくの勝手だろう。
「あなたが排気口を称賛し、その状況に安堵しているのは極めて不健全だからです」
素晴らしいものを素晴らしいと讃め称えて言葉にすることの、一体なにが不健全だと言うんだ。
「その通り、良いものを認めることに関しては、わたしもあなたと同意見です。ただ、あなたにとっての問題は、それを言葉として表現していることに帰結し切っていることです。あなたは、言葉によって支配されてしまってはならないはずなのよ」
排気口は秀逸な言葉を持っている。言葉によって与えられた多幸感を、言葉によって意思表示することの何が支配的だというのかね。
「……まずもって排気口は言葉の集団ではないということを失念してはいけないわ。いいですか、排気口は演劇をやっているのよ。演劇には言葉ではなく肉体があり、むしろ肉体の躍動感そのものが言葉と同じ役割を果たしていると言っても過言ではありません。あなたが着目している台詞や物語といったものの結晶体として台本があるのではなく、台本とはあくまでも肉体たちの指針となる地図です。地図を正確に読み取り、大海原を無事に航海した肉体たちこそが"言葉"なのよ。だから単に言葉の集団だと信じることは、今後の排気口、引いてはあらゆる演劇を見誤る可能性を帯びています。そして何より、これが最も大事なことですけれど、あなたは映画のファンダメンタリストとして、言葉を持たない者を徹底するべきです。言葉によって表現することに満足感を得た矢先には、あなたは映画に何も昇華できなくなる。言葉を覚えてしまったからね。映像ではなく言葉を武器だと勘違いしたらオワリなのよ。だってそうでしょ? 言葉にできないから映画でやるのでしょ? それがあなたの初期衝動だったはずでしょう? それに、演劇にせよ映画にせよ、大前提としてその美しさを言語化することへの"醜さ"を決して忘れてはならないわ。その醜さを熟知しながらも、言語化せずにはいられないという気持ち、それもまた大切です。けれども、あなたはね、排気口への言語化を容易く遂行し過ぎなのよ。そこには醜さを忘れたあなたの充足感が見えてくるの。わたしはそれが嫌なの。あなたが映画ではなく、言葉ではないものではなく、言葉によって排気口と関係を持つことに歓びを見出しているのがたまらなく嫌なのよ。だから裏口入学制度も気付いてほしくはなかった。あなたは絶対に、2万字以上の何かを書き始めてしまうと知っていたから。違うのよ。そうじゃないのよ。あなたが2万字の言葉を排気口のために並べる必要はないのよ。義務はないのよ。あなたには2万字以上、いやそれ以上の文字数に値する気持ちを、自らの映画に落とし込んでほしかったのよ。それが……わたしの願いなのよ」
……きみは、もしかして。
「あなたが半年前に書き始めて、排気口の公演を観たきり放置している、あなたの新作脚本の擬人化です」
こ、これはたまげた。
「きみのことを傑作にしてみせるね、そう言ったあなたは、わたしを捨てて、排気口との情事に夢中になりました」
浮気みたいな言い方はやめておくれよ。
「……これ、涙ではありませんから。花粉症なだけですから」
……悪かった。すまない。
「どうしてワークショップに参加しようとあなたは考えたんですか? わたしのことは少しも考えてはくれずに、なぜ排気口のワークショップを優先したんですか? ねえ」
……ぼくが排気口のワークショップに興味を抱いたのは、まず第一に排気口そのものが本当に好きであるということはある。
「あなたの好きって言葉、人を傷つける」
よしてくれよ!だって本心なんだ。排気口と同じように、きみのことも好きだよ。
「ぼくは排気口が好きだって、さっきあんなにも唱えていたじゃない。わたしにはあんなに言ってくれなかった」
愛は回数じゃない、愛を伝えられる人との出逢いそのもので愛は完結しているんだよ。頼むよ。
「で、なんなんですか」
うん、だからその……まず排気口が好きという気持ちはあったけれど、それよりも……何より……きみのために行こうと思ったんだ。
「え?……わたしのために?」
そう。実はきみのために、ぼくは役者を探す必要があったんだ。もちろん、キャスティングは慎重に行いたいし、オーディションも精査していきたいと考えていた。そんなタイミングで、彼らのワークショップを目にした。そこでぼくは、排気口の呼びかけに応えて集まってくる、まだ見ぬ彼らに対して興味を抱くようになったんだ。つまり、大好きな劇団のオーディションに参加する人々に対して、無条件で惹かれてしまった。まだ会ってもいないのに。だから彼らに会ってみたいと思うようになった。排気口から優れた役者を横取りするとか自分のものにするとか、オーディションの手間を省くとか、そんなことは一切考えてない。そうではなくて、ただ、この目で彼らの姿を見たくてね。どうしても。自分でも何故なのかは分からないけれど。でも、絶対に会ってみたいんだよ。なぜか、彼らに。彼らにね。
「……そうだったのね」
……うん。
「……」
……
「……それがアイよ」
え?
「その気持ちが、アイですよ」
アイって……アイってことかい?
「ええ。愛があり、わたしがあり、目がある。あなたは愛してしまった劇団のワークショップに、"わたし"自身が出向いて、その呼びかけに反応した役者たちをその目で見たいと思った。それはアイです」
……そうかあ、アイ、か。よくわからないけど、なんだかきみに言ってもらえて、よかった気がするよ。
「わたしは、すべてを赦したかったの。本当は。でも、やっぱり映画を作ってほしかったのよ。あなたに。じゃないと、ほらわたし、生まれることができないじゃない」
今、こうしてぼくの目の前にいるきみは、確かに生きてぼくと話をしているじゃないか。
「……そういうことじゃないでしょ。これ以上は言わさないでよ。言わなくても、あなた分かるはずでしょ」
……ああ。わかってる。
「排気口へのラヴレター、あんまり長すぎてもダメですよ。現代人は長文が読めないって病にSNS普及以降悩まされているんですから。それに、文字数じゃない、数じゃないんでしょ、アイは」
そうだな。ラヴレター、これからも書いていいのかい。
「まあね、あなたがアイを証明したいのであれば、その気がすむまで溢れさせるべきだわ。蓋をする必要はありませんもの。ただ、映画も忘れないでね。それだけは約束よ」
もちろん。忘れたことなんて一瞬もないんだ、本当は。
「あなたっていつも一言多いわ。それは言い訳ですよ。書きたきゃ書いてください」
すまん。映画のことを忘れずに、愛してしまったものたちとは付き合い続けるよ。しかし、きみって、ただの嫉妬っぽい子なんだね。
「ちょっと!だからその一言が余計なんですよ!失礼な。わたしが嫉妬してしまう理由を……ちゃんとわかってね」
うん。わかるよ。ありがとう。
「いい映画にしてね」
うん。いい映画にする
「約束ね」
約束する。きみのために。
「それじゃあ、またね」
うん。またね。

 


にゃあ〜ん。


窓際から鳴き声がした。


窓の外で、柵にちょこんと座ったゴドーがいた。相変わらずみすぼらしいゴドーは、小さくあくびをしていた。


浜辺美波……いや、彼女の姿はもうなかった。はじめからなかったのかもしれない。でも、もう、なかった。


ぼくは椅子から立ち上がり、皿にミルクを注いで、それから窓を開けた。ゴドーの目の前に、ミルクを差し出した。ゴドーは静かに、ミルクを器用に舐めていた。ぴちゃぴちゃとミルクが音を立てる。その飛沫が、ぼくの手首にもほんの少し飛び散った。少しも嫌じゃなかった。今のぼくにとって、ゴドーにこうしてミルクを与えて、ミルクを舐めるゴドーがいて、手首にミルクが掛かるぼくはがいることが、少しも嫌じゃなかった。風が気持ちいい。風がどうしようもなく気持ちいい。ゴドーがこのミルクを飲み終える前に、ぼくは考えることにした。これからの、書くべきことについて。ゴドーはいつもよりも、ゆっくりとミルクを舐めていた。ぼくの部屋の空気が、風によってかき回される。ヘアーコロンのやさしい香りに、ゴドーがひるんで、大きなくしゃみをした。

 

 


12494字+(7616字+16061字=23677字)
=36171字
を、排気口ワークショップ裏口入学制度へのささやかなアゲインストとして提出致します。

「面白そう」の映画として微笑み続ける映画史の天使たち『チャーリーズ・エンジェル』(2000年/マックG)雑感

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チャーリーズ・エンジェル』は、それまでの女性アクション映画とは一線を画していた。
そもそも、従来の女性アクション映画は「なぜ女が闘うのか?」ということがテーマになっており、 復讐やら嫉妬やら、要するにそれらは男性視点で作られているモノがほとんどであった。
しかし、本作はそのアンチーゼとして機能する。それはまるで、女が女であることに理由が無いように。「わたしたちは闘う。なぜならオンナ=エンジェルだから」の一点張りで突っ走ってみせるのだ。

 

チャーリーズ・エンジェル』は、恐らく映画史上初の「オンナが作った女が闘う映画」の誕生であった。
え? 監督のマックGは男だろ、だって?
ばっきゃろう。本作のプロデューサーは、エンジェルの一員でもあるドリュー・バリモアその人である。
ドラッグとアルコールによってドン底まで堕ち切ったドリュー・バリモアが、『ウェディング・シンガー』(98年/フランク・コラチ)で清純派女優として大復活を遂げたのは、まさに奇跡に他ならなかった。
彼女はその後プロデューサーとして『25年目のキス』(99年/ラジャ・ゴズネル)を成功させ、そして『チャーリーズ・エンジェル』に製作費100億超をブチ込んでみせる。
周囲の誰もが口を揃えて「こんな映画がウケるはずがない」と反対していたらしいが、映画は見事に大ヒット。
大バクチに打って出て大勝利してみせた彼女のド根性に、全人類、あるいは全男性はひれ伏すべきだ。

 

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ドリューが製作に就いたことで、『チャーリーズ・エンジェル』は非常にチャーミングな魅力を放つ作品になったといえる。
そこには、前述した従来の女性アクション映画における、血も無ければ怨念もない。
あるのは美女と銃とカンフーと爆発。そしてエロである。

 

レザースーツ、マッサージ師、ベリーダンサー、レースメカニック、ヨーデル娘(!)と、エンジェルたちのコスプレ・オンパレードも大変素晴らしいのだけれど、それら全てのシーンで胸か尻を突き出してくるのだから、これはもう至福という言葉以外に賛辞が浮かばない。
極め付けは、爆風で吹き飛んだエンジェルたち3人の尻がフロントガラスをブチ割るショットまでもが存在するのである。「柔らかくて丸いものの破壊力はすごい」という大変重要な教訓を教示してくださるとは、なんと偉大な映画なのだろうか。

 

エロいのに純真で天然なキャメロン・ディアスサム・ロックウェル扮するボンクラ男子がタイプなドリュー・バリモア、金髪白人至上主義を阻止するアジア代表ルーシー・リュー。さしつまるところ、最高のメンバーだ。


「オンナが作った女が闘う映画」は、なぜか男子諸君の夢とリビドーが詰まったミラクルな作品として産声を上げたわけだけれど、否、オンナが作ったからこそ、あまりにもシンプル且つ本質的に、「映画」に求める視覚的高揚感はもたらされたのかもしれない。ジェンダー論を振りかざすつもりはない。『チャーリーズ・エンジェル』は、「女性が楽しそうにはしゃいでいる姿」それ自体に、我々もまた歓びを感じることを想起させてくれる。

 

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エンジェルたちは一見不可能かと思われる任務を、明るく、楽しみながらこなしてゆく。どこぞのなんちゃらノーランが撮ったバットマンのように、いちいち深刻ぶったり悩んだりしない。
そうした歓びの感情を抱くのは、彼女たちだけではない。
カラフルな色調と華麗なファッション、そして、キラキラと輝く海と晴天の青空を映し続ける、この「映画」自体が祝福しているのだ。

 

例えば、冒頭でボートに乗って登場するキャメロン・ディアスの姿は、まるで身体に金粉が降りかかっているかのように輝いている。さらに、実際に海で撮影したにも関わらず、わざわざスクリーン・プロセスで撮影した合成映像のように見せている。
これらは『タイタニック』(97年/ジェームズ・キャメロン)でアカデミー撮影賞を受賞したラッセル・カーペンターの手腕によるものであるが、要するに、狙ってウソっぽく撮っているのだ。

 

この映画的と呼ぶ他ないケレンミが画面で炸裂する瞬間こそ、ぼくは「映画を観ている」という事実を改めて意識することになるし、それは同時に、その幸福感に導かれながら、現実から「映画」のディメンションへの逃避を、いとも容易く完遂させてしまう。
チャーリーズ・エンジェル』は、そういった映画的快楽に満ちており、活動写真本来の娯楽性を解放する作品だと考えられる。
ゴージャスでファッショナブルでエレガンスでエロティックでユーモラスでアクションのつるべ打ち。紛うことなき「映画」である。

 

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(恐らく、この文章が書き終えるまでの何処にも挿入させることが出来ず、話が横道に逸れて余談になるので括弧書きで記すのだが、この映画で"痩せ男"を演じたクリスピン・グローヴァーは本当に素晴らしい。計算され尽くした不気味な煙草の吸い方ひとつからして、台詞が皆無でこの存在感はアッパレだ。ドリューから"抜き取った"髪の毛の匂いを嗅いで、あゝ幸せと、快感の表情を浮かべる姿は、オンナから見た「やだあ、きもぉい」な嫌悪感が滲み出ていて、その象徴として実に印象深い。クリスピン・グローヴァーと言えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年/ロバート・ゼメキス)の若い頃の父ちゃんではなく、「チャリエン」の痩せ男が最高だ!と、ここに豪語しておく。……今、胸の中で「『ウィラード』(03年/グレン・モーガン)があるだろ」とつぶやいたそこのあなた。『ウィラード』も最高に決まってるだろ! 当たり前だ!)

 

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ところで、劇中でこんなやり取りがある。
厳重なセキュリティ・システムのため、絶対に侵入出来ないと言われている部屋。
そこにエンジェルたちが任務として侵入しなくてはならなくなる。
依頼人のケリー・リンチがぽつりとつぶやく。「不可能だわ」
そんな彼女に、キャメロン・ディアスは答える。
「面白そう」

 

これは、一見すると『ミッション:インポッシブル』(96年/ブライアン・デ・パルマ)のパロディ・ギャグとして捉えられる(冒頭で、黒人のマスクの下からドリューが登場するのも「M:I」ネタ)。
しかしながら、この「面白そう」という台詞は、『チャーリーズ・エンジェル』という映画自体の個性を表しているし、同時に、ドリューやマックGを始めとするこの映画を創り上げたスタッフたちの姿勢もよく表している言葉だと受け取れるのではないだろうか。

 

マックGという監督は、常に滅茶苦茶テンションが高い監督として有名だ。
メイキングなどで彼の演技指導を見ていると、身振り手振りを加えて実際に大声で演じてみせたり、OKを出すときは「スゲーじゃん!今の最高だぜ!」と最大限に褒めちぎってみせている。
まるで、自分の大好きなTVシリーズの映画版を監督していいよと言われた、子どものように。

 

普通の監督ならば「いやあ、それは無理だろう」「そんなことはあまりにも馬鹿馬鹿しいだろう」と逃げに走るような事も、マックGという男は「それ超面白そうじゃん!やってみようぜ!」と笑顔でチャレンジしてみせる。
その精神は、誰もが無謀な挑戦だと思っていた『チャーリーズ・エンジェル』を大成功させたドリューの精神にも等しく通じるものがある。
「やる」か「やらないか」なら、迷わず「やる」を選択した人々が作り上げた美しい映画こそが『チャーリーズ・エンジェル』なのだ。
そんな作り手の「面白そう」が沢山詰まった映画であるので、彼らの楽しさは観ている観客にも伝わざるを得ない。

 

チャーリーズ・エンジェル』は、「面白い」映画である以前に「面白そう」の映画として存在している。
だからこそ、この映画は最高に「面白い」のだ。


追伸
しかしながら、藤原紀香の吹き替え問題に関しては、2020年に突入した今尚、語り継いでいかなくてはならない。

この映画はあなたの「敵」でもなければ「味方」でもない、単なる「馬鹿」なので、あなたはこの映画よって絶対に傷を付けられない、この映画にその「影響力」は無い『バイバイ、ヴァンプ』雑感

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本作のツイッター公式アカウントが「この映画はそれぞれの愛に立ちはだかる壁を乗り越えることの強さを描いている」との弁をツリー形式で釈明した。結びには「そのテーマをエンターテインメントな作風で描いているため、一部の方に誤解や混乱を招いた事をお詫び申し上げます」と書かれていた。署名は『バイバイ、ヴァンプ』製作委員会となっている。


まず、ぼくは今劇場公開されている映画作品の「テーマ」や「メッセージ」を、あまつさえ作り手自らが、およそ600字ほどで説明できてしまっている時点で、本作が「映画」として機能していないことが露呈されていると指摘する。


これが極論であり暴論だと受け取られることを承知で力強く述べてしまうけれど、ぼくにとって映画は、言葉で説明可能なのであれば、わざわざ「映画」なんかにする必要は、一切ないと考えている。こうしてブログで書け、とすら思う。


それを歴然と示すのは、この製作委員会の弁明に他ならない。作品が内包する「テーマ」や「メッセージ」は、いとも容易く「文章」として帰結して、意味はたった一つの「答え」として制約される。真に映画なんていういい加減なものを、それでも信じてしまう人々というのは、決して、このような駄文を提示しない。もしくは、提示「できない」。


言葉による提示、が可能なのであれば、それを大量の資金と労働時間を費やして、映像という便法によって、映画として発表する必要はない。そのことを作り手自身があまりにも無自覚に表明してしまっていることは、頭の悪い愚行としか言えないだろう。あるいは、意味の解釈を奪うという機能をツイートに備えた時点で、映画はおろか、観客すら信頼していないあらわれでもある。そして相変わらず、プロデューサー陣にSNSやインターネットのリテラシーが皆無であることは、爽快なまでに微笑ましい。使えないオモチャで必死に遊ぼうとする姿が、ぼくにとっては滑稽でしかない。なあ、あんたらスマートフォンなんて見ている場合か?


つまるところ、本作の作り手が、少なくともミジンコのような映画ファンであるぼくよりも、「映画」を好きでもないし、「映画」を撮ろうともしていないし、「観客」を歓迎していない、ただの馬鹿な集団であることは、先のツイートによって、くっきりと判明した。


「謝罪」という点で捉えてみても、謝辞を述べる以前に、「愛についての公序良俗に反しない"正しい"映画を作ったつもりなのです」という、「テーマ」と「メッセージ」を免罪符にする言い訳だけが、だらだらと羅列されている羞恥心の欠落ぶりに噴飯してしまう。が、最も重要視しなくてはならないのは、なぜ、そもそも「作った映画」に対する「謝罪」を、作った側がする必要があるのか、ということだ。


決して作り手の肩を持つわけでも味方するわけでもないのだけれど、よくまあ簡単に謝れるな、と思う。自らが映画として、表現として完成させたものを「謝る」ということは、「作ったものに悪い表現が、謝るべき表現がありました、不快にさせてしまってごめんなさい」ということを「認めた」ということになる。


なぜ、認められるのだろうか。悪い表現が、謝るべき表現が、人を不快にする表現が「ある」ことに対して、なぜ「間違い」と自称してしまうのだろうか。犯罪も法律違反もしていなければ、その表現込みで彼らなりの「エンターテインメント」なのであれば、それを「謝ってしまう」ことは、表現者の一人として如何なる心情なのだろうか。ぼくはこの製作陣たちの行動が、誠に恥ずかしい。恥、だと感じる。


芸術は、間違っていることを表現することができる。よしんば、間違っていることを表現したことで、コントロバーシャルな状況を招くことの、何をそんなに恐れているのか。そんなに正しさは尊いものなのか。正しさに屈することになんの恥じらいもないのか。良くも悪くも、人に「影響」を与えなければ表現ではないはずだ。自分たちの映画がどんなに否定されようとも、自分たちだけは「その映画」を信じ切ることは出来なかったのか。信じ切るとは、表現した行為を謝ることでは絶対にない。なにが「お詫び申し上げます」だ。なにが「不快な思いを抱かせる表現が含まれているかもしれませんが」だ。言い訳したり謝るのなら、はじめから撮るんじゃねえよ。馬鹿が。


と、前置きが長くなってしまったけれど、観た。

 

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観た上で、『バイバイ、ヴァンプ』は紛う事なき阿保な失敗作である。端的に、一瞬たりとも面白さが巻き起こらない、おそろしさすら抱かないつまらなさだけが映画館の暗闇に漂っていた。より本質的な疑問を言ってしまえば、自分はなぜ「映画のフリさえしていない無意味な光の明滅」を、暗闇で目の当たりにしているのかと、己の選択を後悔した。このクソに対して、ぼくが「観客」になることを選んでしまった時点で、間違いを犯してしまったことは明白である。その行為にかすかな意味を付帯するならば、こんなつまらない時間を、あなたは経験するべきではない、と、ここに書いてしまうことぐらいしかない。


本作は、まずヴァンパイア映画としてあまりにも齟齬が多く、捉え方によっては「ゾンビ映画」のコード設定が定められてしまっているように見える。噛まれると「まるで感染症のように」同性愛者になってしまうという設定は(書いているだけで呆れてくる設定だけれど)、たとえ他の吸血鬼映画でも血や唾液による繁殖は描かれてきてはいるが、本作には徹底して「吸血鬼である必要性」が無く、絶えずプロットホールとして存在している。終盤において、この吸血鬼設定は、シナリオ上のいわゆる「過去の葛藤」を機能させるための装置であったことが判明するが、微塵も説得力の無い、凡庸すぎて何らサプライズも無い真相を前に、肩を落とす。ヴァンパイア特有のルール設定が、まず非キリスト教圏の日本では成立しにくい(現に成立していない)のと、特殊メイクや衣装スタイリングなどのヴィジュアル面において、眼の色が変化したり牙が出ていたりはするものの、それが記号でしかなく、いつまで経ってもヴァンパイアとしてのアクションを見せつけない。そもそも、吸血鬼と人間/感染者は区分されており、人間は「なんかいつもと様子がちがう」人間としてしか描かれない。その違和感を同性愛者として描写してしまうのはあまりの浅はかさであるし、加えて、該当する年頃の青少年たちであれば、別にこれくらいイチャコラもするし性欲はあるじゃんかよ、健全じゃんかよ、と感じるので、同性愛者の性欲が異様なものとして捉えられている世界観には異論を唱えたい。


噛まれた者は急激に喉が渇いて、血に興味を示して赤い飲み物を飲むようになり(笑)、ところが彼らが吸血鬼として変貌していく様子はまるで無く、何より心や精神は終始変わらずバカな青少年たちなので、吸血鬼であることの葛藤が全く描かれない。同性愛をテーマ設定するために、まずは吸血鬼という存在があまりにも粗末に扱われている様子は、ホラー映画が好きなぼくのファンダメンタルな感情を抜きにしても、作った奴らをブン殴りたい衝動に襲われた。

 

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劇中の同性愛描写、または異性愛描写の各々が、学芸会以下の粗末さと、前時代的なステレオタイプな演出でのみ構築されており、すなわち、構築されていない。「演出」や「芝居」なんて一瞬も映らない。ゲイマリッジ、レズビアン同士の接吻それ自体を、コメディリリーフとして異質に捉えたカメラワーク、リアクション、劇伴の数々には、それが無自覚であれ、または攻撃性に満ちた悪意が無かったにせよ、観客の集中力を奪い、虚無感を与える。こと此処に於いて、まず「接吻」それ自体を美しく撮れない監督も撮影監督も、いち早く退場していただきたいと強く願望するに至る。製作陣は「愛に立ちはだかる壁を乗り越えてほしい」とほざいていたけれど、アンタらが愛も恋も信じていないし美しいとすら思っていないこと、それだけはスクリーンから鮮明に伝わってきた。発話される台詞の内容は言うまでもなく、その説明口調な病理もどうしようもなく、発話される音の心地悪さには、しばらく耳を塞ごうかと思った。下品な唇のヨリや壊れたテレビ画面のような照明・カラーグレーディングにも、思わず苦笑した。先に述べたクライマックスに明かされるプロットも、サプライズとしても興味を抱かないし、差別のメタファーにしても弱気で、吸血鬼映画ナメんなよと結構な勢いで腹が立った。湯気と湿気が支配する浴場にカメラという機材を置くことの意識も、まるで無かった。花火とは縦の運動であって、実のところ横幅が長い映画と花火の相性は良好なものだとは決していえないのだけれど、馬鹿のひとつ覚えで撮られた花火のショットは、映画への侮辱のようだった。


そう、まず以って本作は、予想されたLGBTQの人々への侮辱、冒涜、差別である以前に、「映画」への侮辱、冒涜、差別である。このことは、たとえぼくのような単なる映画ファンの人間であろうとも、豪語しておかなくてはならない。そういう意味で、本作には嫌悪感も憎悪も抱いてはいない。殺意だけはある。映画ファンとしては、踏み潰してしまいたい。観なかったことにしたい。時間を取り戻したい。タイムトラベルしたい。とにかく、徹底して批判するスタンスは崩れない。

 

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しかし、ぼくはつまらなさに憤怒しつつ、この映画の上映を阻止しようと動くことはできない。したがって、かの署名運動にも署名はしていない。仮にも、この映画はクソつまらないので上映中止にしましょう、という題目の署名運動だったとしても、決して署名はしない。なぜか。該当する表現にあらゆる問題点があろうとも、観客には、それを否定・批判・拒否する権利は付加されているが、それを抹消する権利は恐らく無いからである。


「こんな映画を公開するな」と、公開以降においても本作は、上映中止を求める署名運動が今尚続いている(ぼくはそのページを閲覧していないので、何人が署名しているのか、その数は把握していない)。それは、本作の内容である「ヴァンプに噛まれると同性愛者になってしまう」という設定自体が、同性愛者への偏見であり差別を助長する、あまりにも現代の時代観に相応しくない、LGBTQの人々を故意に傷付け兼ねない、非倫理的なものだと叫ばれている。


シュプレヒコール自体に説教を垂れるつもりは微塵もない。むしろ、声明は自由で、様々あってよいとぼくは考えている。だから署名運動に関しては、主催する側も署名する側も、各々の判断で意思を主張し続けてもらって構わない。


とは言え、本件を取り巻く状況において、ぼくが疑問に感じるのは、公開中止を求める署名運動は、果たして本編それ自体を鑑賞した上での要求なのだろうか、という点である。


だから前提として、本作を鑑賞した上で「けしからん!」と石を投げる民に対して、ばくの感情は無だ。けしからんと感じて批判する、その反応それ自体に対しては、味方にも敵にもならない。人それぞれ、でしかないからだ。そして何より、それは「感想」としての効果を持っているので、その多様性は認め続けたい。ただし、後述するが、ここに「抹消」の欲求は含まれていない。石を投げることと消すことは、全く異なる行為である。


よしんば、観ていないけれど公開中止を要求する人々の中には「文句は観てから言え、の論に当てはめてしまうと、本作はまず鑑賞したことによって精神的に傷付けられる人々が発生する可能性がある、だから観ること自体を条件にする必要は無い」という意見をお持ちの方もいらっしゃるだろう。正直に言ってしまうと、ごもっとも、仰るとおりだとぼくだって感じる。何より、鑑賞してしまったぼく自身、殺意を抱くくらいにはつまらなかったので、しっかりと被害は被った。ぼくは異性愛者なので、どんな論旨展開をしようとも、真にLGBTQの人々の心境にはたどり着けない。そのことも、この文章を記す以前に、重々承知している。


その上で、だ。表現を信じ、愉しみ、愛する末端の人間として、強引にも論を展開させてしまう。ご容赦いただきたい。


すなわち、「観てない・観なくともけしからん・誰かを傷付けるはず・排除するべき」という思考の転がり方は(今コレを読みながらぼくに殺意を抱いている方は、どうか落ち着いて耳を傾けてほしいのだけれど)、あまりにも短絡的で、危ういのではないだろうか。加えて、「観た・けしからん・傷付いた・排除するべき」という怒りも、慎重に考える必要があるはずだ。

 

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第一に、下手糞で白痴で弱小な本作は、LGBTQの人々を容赦なく傷付けるほどの殺傷力は「持っていない」。無差別的なテロリズムとしての破壊力も皆無であり、交戦するには果てしなく「危険」から遠のいた存在であることは、空虚な本編を観るだに明確である。敵と定められた相手は、平和的というよりも、単なる馬鹿の連中でしかない。たとえそれらが、自発的に差別に向かっていても、もしくは無自覚に差別的な行為をはたらいていたとしても、その影響力は「無」に等しい。大切なことなので繰り返す。この映画の「影響力」は、全くもって「皆無」に等しいのだ。影響を及ぼす「可能性」すら、予告編やヴィジュアルを目撃した際に、私見にはなってしまうが、「無い」と判断した。価値の有無ではない。それほどに「力」を持っていない作品であることは此処に断言する。


論が飛躍してしまうけれど、勝手に相手を敵や危険分子と見なし、次々と爆弾を投下して、相手の領土が焼け野原になるまで満足感も達成感も得られないという心理状況は、直喩としてアメリカ的である。アメリカの大義名分は「アメリカを守る」という自衛権であるが、いつの世も、マッチョイズムの犠牲になるのは身内なのだ。誰かを幸せにするために始められた戦争も喧嘩も、未だかつて無い。『バイバイ、ヴァンプ』は、LGBTQの人々を抹殺するような「危険性」や「可能性」すら、イラク大量破壊兵器の如く「無い」のに、なぜ単に「排除」するべきだと猪突猛進が可能なのか。ぼくは馬鹿なので、全く理解ができない。そんなに容易く、可能性を判断することなんて、絶対にできない。あるいは、絶対にしたくない。


人を傷付ける表現である以前に、表現には、最低最悪なものだってあるのだ、ということは決して失念してはならない。加えて、隠蔽してもならない。万人が認める表現なんて絶対に存在しない。『サウンド・オブ・ミュージック』を観てゲロを吐く人もいれば、ナチスのレイプ拷問映画を観て射精する人もいるのだ。万人に共有できなくても、政治的に間違っていても、公序良俗に反していても、とにかく「ある」のだ。それらは、誰かが一生懸命に考えて表現したものであって、それを見たがる人もいて成り立っている。誰かが考えて作ったものを、悪趣味や倫理観を理由に抹消しようとすることこそ、真に独裁的であり排他的だ。そうした現状を眺めてみれば、オーウェンの『1984』の世界は、もはやフィクションでなくなっている。個々の作品の良し悪しに、全方位的な「正しさ」を持ち込むのは見当違いなのではないだろうか。その上で、先の製作陣たちは「この映画は悪質なものです。でもあってもいいじゃん!」くらいは言えなかったものか。まあ、アイツらに言えるわけないか。

 

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『バイバイ、ヴァンプ』は、「映画」として途方もなくクソつまらない作品であって、それ以上でも以下でもない。加えて、本作が「LGBTQを傷付ける不快な映画」として、全く機能していない点も改めて特筆する。あらゆる国籍、セクシャリティへの差別を持たない筆者として宣言するが「LGBTQの人々は、こんなクソみたいな表現くらいではかすり傷すらつかない」。そのディメンションまで、本作のテロリズムは到達していない。(独り言を書いてしまおう。製作陣、ざまあみろだ)

 

あらゆる問題は固定化されてはならない。我々は、複眼的な視点を持ち続けることこそが重要なのではないか。レーザー光線のようにモノを焼き切るような目線とは、良い問題の見方ではない。かえって答えを狭めてしまうからだ。好きと嫌いで世界を見てしまうと、世界は「正しい」と「間違い」で分けられてしまう。「敵」と「味方」に割れてしまう。

 

だから、今はとりあえず「決め付けない」ことを大切にするべきなのではないだろうか。敵にも味方にも、必ずそのうち「変化」がやって来るはずだ。他者にいつも、一つの「正しい」意見しか言わない人は、既に「間違っている」。なぜなら、その人に対して、これは正しくないという、反対意見の正しい人もいるから。答えが一つしかないというのは、その時点で、もう「間違っている」のではないか。多様性を認めるとは、果たしてそのような思考によって生まれるのではないだろうか。


作中における倫理観それ自体への拒絶反応や嫌悪感は、恐らく人それぞれ抱く「可能性」もあるはずである。特にLGBTQの人々が、本作を観て、あるいは本作が上映されている状況に対して、単にイライラすること、不安になることは何ら不思議なことではない。しかし、あなた方が「こんなクソ」に屈することも傷を受けることも無いことを、ぼくは観た者として約束したい。まず、観る必要はない。観る必要はないけれど、作品を消滅させることを選ぶのは、どうか慎重になっていただきたい。先に述べた通り、「ある」ことを否定してはならない。「ある」のは仕方がないし、「あったっていい」のだ。そのこと自体を否定したり抹消しようとする感情は、LGBTQの人々が最も闘うべき感情であるはずだ。あなた方を差別するものたちを、あなた方が差別する必要はない。敵の敵になってはならない。それはもう「敵」と同化してしまっていることに他ならない。本作はあなた方の「敵」ですらない。戦闘に突入する前に、あなた方にとっての「味方」に目を向けてみてほしい。あなた方の「味方」である表現や芸術は、そして人間は、ほんの数年前よりも確実に増え続けている。あなた方は、そんな「味方」の力も得て、少しだけでも「強く」なっているはずだ。『バイバイ、ヴァンプ』なんかにバイバイと手を振っている暇なんてない(笑) あんな映画がヒットするはずもなく、実際にヒットしてはいない。映画は興行なので、奴らは勝手に、自滅していくだけだ。そして退場するか、より良い面白い映画を作ろうとするか、それだけだ。あなた方は、奴らによって絶対に消えないし、自滅しないし、傷を受けない。こんなものに負けるはずがない。比べるまでもなく、あなた方は強くたくましく、そして豊かだ。敵を探して抹消することは、あなた方をも、あなた方の「味方」をも傷付けてしまう。そんな光景を、ぼくは、俺は、絶対見たくないね。知った口で言ってしまうことを許してほしい。けれども、けれどもさ、のんびり行こうじゃないか。のんびりと。大丈夫だから。俺は、キミたちが『バイバイ、ヴァンプ』なんかの10兆倍面白くて、楽しくて、強い存在だって知ってるよ。もうこの映画の話はやめようぜ。つまんないじゃん。だからさ、そうだな、マスクのワゴン売りに人々が殺到する様が映画『ゾンビ』みたいだったんでしょ? 新宿の? やっばいよねー。もうウイルスに感染してるみたいだよな(笑) その話さ、もうちょっと詳しく聞かせてよ。キミの話を聞くために、観に行く予定だった映画をキャンセルしたからさ。なんの映画? バイバイなんちゃらとかいう、つまんなそうな映画だったよ。映画なんかどうでもいいよ。たぶんその映画よりも、キミの話の方が、絶対に面白いからさ。

画は映画なのに芝居は演劇、それを迫害する思想はもう棄てる、面白いかどうかは別として『容疑者 室井慎次』(2005年/君塚良一)雑感

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本作における最たる「観るべき理由」は、撮影監督を林淳一郎が務めているという点にある。林の撮影監督としての秀逸な仕事は、僕の偏見で列挙するなら、『リング』『回路』『カリスマ』『ニンゲン合格』『仄暗い水の底から』『クロユリ団地』といった、中田秀夫黒沢清の組で容易く観測することができる。林の設計する構図や陰影の深いライティングは、おそろしいものとの距離を浮かび上がらせて、その距離感が急速に縮まる瞬間のおぞましさをも体感させてくれる。

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とは言え、林がこの踊るシリーズのスピンオフとして撮影監督の発注を受けたのは、本作がおそろしくておぞましい映画だからなのではなく、単に「シリアスな画に仕上げたい」という要求から成るものであることは推測できる。加えて、製作サイドも「室井慎次のスピンオフに関してはシリアス路線で挑みたい」という目的達成のため、林への発注を試みた事は容易に予想できる(後述するが、この「シリアス路線」という目論見は案の定失敗している)。したがって、徹頭徹尾に、ほとんどシナリオの欠陥とは無関係なまでに、「画」としての成立、「映画でありたい」という欲望が静かに脈打っていることは、文字通り誰の目にも明らかである。まずは、林の仕事を高らかに評価するべきだ。

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主人公の室井慎次は、ほぼ味方がゼロの状況下で、まるで黒衣の亡霊のように右往左往する。そもそも口数が少ない上に、怒りの感情が湧き上がると、こめかみを上に吊り上げ、頬をぷくうと膨らませる男である。どこまでもステレオタイプで、どこまでも空虚で、どこまでも記号だ。だから彼が定食屋で食事をするシーンには無性に人間味を感じられて中々にエモいのだけれど(室井は田中麗奈演じる新米弁護士が差し入れした弁当を劇中では食さない。絶食の室井)、室井のその「食べ方」に感情操作も演出意図もまるで無く、例えば「食べ切る」という描写をしても良いのに、それはしない。動作や行為に限りなく意味が付帯しないまま、室井は画面内で直立不動し続ける。演じる柳葉敏郎が悪いのではない。室井慎次とは、そういった「キャラクター」でしかないからだ。

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映画はカメラによって被写体のクローズアップを撮ることが可能であるが、まず以って室井慎次というキャラクターを真に信じ切っていない上に、移入し切っていない監督による責任放棄の罪は、クローズアップの意味を喪失させる。映画という便法で語るべき芝居を施していないからだ。しかし誰が観ても、頬をぷくうと膨らませれば「記号」として怒っていることは明らかで、端的に言って、スクリーンを能動的に見つめる集中力は、そのカリカチュアによって失われる。つまり、このキャラクターは果てしなく「映画」の人物ではない。本質的には「演劇」の人物である。

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本作が「演劇を映画でやる映画」ということに開き直っているのは、何もキャラクターの言動や立ち位置(文字通り、空間のどこに立っているか。あまりにも第四の壁を意識した立ち位置が目立つ)から読み取れるだけの事柄ではない。

第二幕の終盤、八嶋智人扮する(終始ゲームを手放さない、メガネ、冷酷、というステレオタイプな)灰島の弁護士事務所をひとり訪れる室井のシーンは、あまりにも美しいほどの「演劇」しか画面に映らない。窓から差し込む夕日が沈むに連れて、室内は闇に包まれていく。室井に一筆迫る灰島ら。ドン底の室井。そのタイミングで画面全体がついに漆黒に染まる。と、そこに一筋の光と共にドアが開き、田中麗奈が「むろいさぁん!」とやって来て無事に室井を救出。その後、田中麗奈にビンタされた室井は喫茶店でコーヒーをキメながら回想話を延々するのだけれど、ともかく、これら一連のシーンは、よしんばライティングの一つに着目してみても、誰がどう見ても舞台照明のソレである。ここに辿り着いてようやく(1時間15分くらい掛かった)、嗚呼、この映画はもはや映画ファンやシネフィルたちからとやかく激昂されようが、「演劇」を「やっちゃう」ことに対して何ら葛藤も無いんだな、むしろ「ツイストを加えている」と自信有り気なんだな、ほおーんと、不思議と感心してしまった。

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ここに於いて「映画と演劇は違うんだよ映画で演劇するなら映画でやる意味ねえだろ映画ってのは映ってる全てに意味があんだよカメラがあんだよ編集があんだよマジックがあんだよ映画ナメんなやブチ殺すぞ」という呪詛が湧き上がることは健全な思考だと僕も思うのだけれども、いやはや、先述した林淳一郎の撮影がねえ、いいんですよコレが。勿論いいんですよ。だって林淳一郎なんだから(まあ、いくつか映し出される回想シーンは例外なく超絶にウルトラダサいのだけれど、その辺は演出とカラーグレーディングの問題が原因かもしれない、と肩を持ちたくなってしまう……)。つまり、画は「映画」であって、それ以外のあらゆる事柄が(脚本や台詞も含めて)「演劇」である本作がもたらす妙な居心地の悪さは、ギャグすれすれの異化効果だと言っても過言ではない。珍作じゃね?

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逆に本作の最たる罪は、我々の愛すべき歓楽街として「新宿」をまったく美しく撮れていないことに尽きる。なんだあのテキトーな新宿は。君塚、アンタそんなにお嫌いですか歓楽街が。劇中で新宿の路上に雨が降るのだが、降らす雨の汚さったらない。雨が街をさらに美しく魅せることができる化粧であるのを知らずによく映画なんか撮れるな。あの新宿描写は酷すぎる。と思ったら、当然ながら実際の新宿であんな大規模な撮影ができるはずもなく、福島県いわき市でセットを建てて撮られたそうな。とは言え、努力は完成された美しさを担保するものでは決してない。罪を犯すくらいなら初めから脚本に書かないでください。ってことで、室井が天を仰いだ瞬間にザザーッと豪雨が到来して間髪入れずにクソガキにボコボコにされてばたんきゅーしているのをカメラが見下げショット、には爆笑しました。笑わせてもらえたので、殺意を抱く必要は、まあ無いわな。

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『メモリー』はあんなに情感込めて歌い上げてはならない曲なんだけど、もうそういう次元じゃないじゃん、そこも含めて愛してあげようよ『CATS』(2019年/トム・フーパー監督)雑感

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21世紀の『死霊の盆踊り』!果てしなく悪夢的ヴィジョンで観客の感受性も脳髄も破壊する最高級のカルト映画爆誕!これは逆張りでも皮肉でも奇をてらって言っているのではない。自分はこの映画を徹底して賞賛する。なんてオリジナルなグロテスクだろう。未知のコメディ映画としても満点に近い。映画を観て、こんなに爆笑し過ぎて腹が激痛に襲われたことも、襲われつつも笑わずにはいられなかった体験は初めてだ。人類史において、こんな映画は、こんなにオリジナルに"おそろしい"映画は絶対に無かった。あまりにも、あまりにも素晴らしい体験だった。


猫でも人間でもない"猫人間"たちがゴキブリのようにウジャウジャとスクリーンをひしめき踊り狂う姿は、言葉そのものの意味として真に気持ちが悪く、このグロテスクの大洪水状態はほとんどテロリズム的だと指摘できるけれど、だからこそ、観客の心も身体も傷つけることが出来る映画の魔力に対して、否応がなく"感動"せざるを得ない。全く体験したことのない部分の感情がヒステリックなまでに過剰反応を引き起こす。何もかも間違っていて、本当に本当に最高だ!!

 

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不気味の谷現象を劇映画で完遂することのテロリズムは、マイク・マイヤーズの『ハットしてキャット』なんかも同じ攻撃性なんだけれど、結局のところどちらも「人間の顔に猫耳があって人間の耳が無い」というヴィジュアルが、ナパーム弾の如く破壊機能を備えていることの証明に他ならない。しかし、『ハットしてキャット』における兵器がマイヤーズただ一人だったのに対して、本作は圧倒的な数の勝利。一人を間違いと見なす正しい世界よりも、世界全体が間違っているのでその世界においては誰もが正しい、という無差別性は、およそ望むべきユートピアだと擁護する。

 

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猫人間たちはほぼ全裸状態なのだけれど、とは言え性器や乳首は存在しておらず、胸も敢えて強調されていない。のが、もう甚だしくエロい。宇宙にまだこんなエロスが存在していたのかと股間がビックバンを起こすくらいにエロい。ケモナーとかそういう次元じゃない。ハッキリ言うが、勃った(母さん、ごめん)。特に主役のヴィクトリアに至っては、終始カメラを上目遣いで見つめ続け、その眼差しによって次第に我々の性本能は歪み始める。なぜかテイラー・スウィフトだけバストサイズが強調され、艶めかしいまでにフェロモンをブチ撒ける。イドニス・エルバ扮するマキャヴィティの、あのプリケツは誰のためのサービスなのだろうか。このエロスは、事実としてロイド・ウェバー版ミュージカルにも、四季版にも見られなかった新しい感覚だ。本作がほとんどポルノに近いと評されているのには激しく首を縦に振るし、その特質だけでも比類なき価値があるし、マジで、マジで映画がポルノで何が悪いってことだ。見世物屋ナメんな。高らかな宣言である。未開のポルノとして人類がパンドラの箱を開けてしまった絶望感、不安感、虚無感、嫌悪感、そしてそれら以上の総量として到来してくる多幸感は、本作を唯一無二の殺傷兵器として機能させており、「到達した!」という歓びに満ちている。

 

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品行方正を学ぶために映画館に行ったことは一瞬も無い。映画に救われるために、あの真っ暗な密室で見知らぬ誰かと鬱屈した時間を過ごすのでは無い。闇の中で不気味で、おぞましくて、俗悪で、残酷なものに触れて傷つくために、自分は映画を観に行っているんだ。傷なんか癒される必要はない。ショックバリュー、ただそれこそが美しい。『CATS』はショックの映画だ。ショックを突き詰めた結果、前人未踏の聖地へと我々を突き落とす。すんばらしい。もっともっと、俺たちにショックを与えてくれ。


そして、気持ちが悪いということは、端的に言って"新しい"ということを失念してはならない。


我々映画ファンは、つまらない映画の駄目な部分を見つけるのではなく、どんなにつまらない映画も楽しめてしまう見方を知っている、というのが特権なのではなかったのか?

 

今こそ、その権利を最大限に行使し、あらゆる意味で酷評の嵐で死に絶えている本作を、存分に楽しめる側になってみようじゃないか!強要はしない。しかし、あなたが支払ったその1900円の価値は、映画ではなく、観客であるあなた自身が決めるものだ。


(Q.で、どんな話だったの?

 A.あ?話なんかねえよ。オマエ誰?)

 

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<追伸>

とは言え、トム・フーパーというあのジェームズ・キャメロンに似た野郎は、やっぱり果てしなくミュージカルが撮れない監督である。特にカメラワークね、最低の域だったね(笑) ステディカムで縦横無尽に動かしておけばカメラ"ワーク"になると信じちゃってる辺り、トム〜、オマエの射精液は飲めないぜ〜(笑) まずは三脚にカメラを載せておくれ。あの『レ・ミゼラブル』の愚行を忘れたことなど、あまつさえミュージカルファンの僕は全く無いし(映画のオーディションで「好きな映画はレミゼでっす!」と言った俳優に対して「あ、じゃあミュージカルはお好きではないんですね(笑)」とイジワルしてしまったことがある、若気の至りです)、しかしカメラを自由に動かせることになった歓びが音楽的な多幸感と結び付いていると作家たちが錯覚してしまう(『ラ・ラ・ランド』とか)のも、魔力としては強固で、迫害するつもりはない。


また、今回の映画版キャッツを、馬鹿の一つ覚えで面白可笑しく酷評してみせる「パフォーマンス病」の自称評論家連中、には、本作に登場したネズミやゴキブリたち以上に価値がない。オマエらの職務とは、例えばキャッツとはそもそもT・S・エリオットの詩が原作であってミュージカルが原作ではない、とか、ストーリーラインが存在しない詩のような映画(タルコフスキーの諸作品とか)が存在することの多様性とか、まずはそういう見方について論じてくれ。解釈の幅を狭める、いいね・RT稼ぎが目的の下劣で頭の悪い「ヒョーロン」ばかりを散見して、トホホと肩を落としました。ワイン呑んで「美味いね/不味いね」しか言わねえワイン評論家よりも、「このワインは何年に製造されていて、その時の時代背景はこうで、このワインの名前の由来は……」とスノッブ効かせてでも色々と教えてくださるワイン評論家の方に、俺は乾杯するぜ。頼んだよ評論家諸君。美味い酒にしよう。

 

『CATS』は驚嘆ポイントがあまりにも多い映画だけれど、それらのビックリをここには記さないでおく。あなたが信じ切っている映画とかいう娯楽が、客席のあなたの想像力なんて遥かに凌駕して牙を剥いてくる。これこそ、テレビでもスマートフォンでもなく、映画館の闇の中で体験するべきだ。無事を祈る。無事のはずが無いんだがな。

菊地穂波氏との邂逅に関する(超訳としての)備忘録

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前回、排気口新作公演『怖くなるまで待っていて』に関する雑感を、映画ファンであり、演劇と手を繋いだことさえない僕がパッパラピーに書き散らかしたのですが、あろうことか、排気口主宰の菊地穂波氏から「直接お会いしたい」、それに付帯して「文章に感動した」との旨いただきまして、うわわー、そりゃあ新型ウイルスが流行る世の中だよと(笑)、ヤバいなーこりゃと頭をボリボリ(ボリボリ先生のイラストを無断転載しております、申し訳ございません、んが、愛ゆえにです。愛はいつの世も暴走するのです。暴走機関車なのです)掻いて、それとなく戸惑っておりました。

 

と、まずは前回の僕の長・駄・乱文をお読みいただき誠にありがとうございました(読んでねえオメエには言ってねえよTikTok見てろよバーカ!アレってまだ流行ってんの?)。今回の記事は、特別に前回のコンティニューとして機能してはいませんが、スピンオフではあるのかもしれません。ので、拝読ノ判断ハお任せ致します。しかし、あんなもの(そして当文章におけるこんなもの・笑)を読むよりも、遥かにツイフェミのツイートを読む方が楽しいはずです。

 

加えて、人様からテメェが書いた文章を褒められたことなんか一秒も無く(一度たりとも無い。だって駄文だから・笑。知己があり、親しければ親しいほど、だーれもなんにも言ってくれないのよ・笑)、褒められ慣れていないガキの僕は、褒められてヨカッタ!と安堵するはずもなく、困惑しつつ微笑みながら、菊地穂波、今回邂逅の場を設けていただいた小野カズマとの闘い(苦笑)に挑みました。

 

で、本エントリーは「約3時間の晩酌の記憶、その忘却を避けるためになるべく早く書き残しておく」というミッションが課せられている(誤字→課した、テメェで勝手に)ので、比較的、雷鳴の如きスピードでキーパンチできる口語体で記している次第です。したがって推敲もしていません。

 

また、僕は初対面の方と会うたびにソレを文章で書く、なんてレイピストではありません。アイツと会うとブログにされんじゃんー、キモーいと言いなさんな。しないから。今回だけだから(笑) ですからご容赦いただきつつ、遠慮なく会ってやってください。

 

とまあ、此処でエクスキューズしているのは建前でしかなく、だったら書くなよってハナシなんですが……端的に言って、これはひねくれに羅患した者としてのアゲインストなんですが、もうね、ヨシヨーシって褒められると、反発したくなっちゃうんですよ(笑)なっちゃう病なの。末期の。重ねて断言しておきますが、褒められ慣れてないから(笑)ケツの青いクソガキなんですよ、僕は。ホントに。

 

前回は文語体で(とは言え、あの時も自分のマスターベーションより短い時間で以下略)書いたわけですが、まああんな駄文(笑)の賛否はともかく、とりあえず今回は「なるべくつまらなく、醜く、道端の吐瀉物みたいに書いてやれーい」という気分で、たった今もLSD(注・ラムネ)キメながらキーパンチしております。褒められないようにね。いやあ、気分はまるでブコウスキー、もしくはバロウズですかなあ。テンションによってはバタイユが憑依して文章によって混血列島ごと犯してやんぞー!この島の性感帯はどこだー!トウキョウが感じるのか!いやさ古都キョウトが濡れんのか!なあ舞妓ハーーン!まいこはんヒーヒー!舞妓といえば、ツマブキサトシの嫁ってマイコだっけ舞妓だっけ?だーはっはっは!明日の天気予報デス、明日は関東地方で大量のカエルが降るでしょう、ハイ、映画『マグノリア』のネタバレでーす!ネタバレ最低だろ?るせーよ!見てねーのがワリィいんだよ!大量のカエルといえば『E.T.』にも出てきますよねーゲロゲロゲロっぴーが、あと『吸血の群れ』っちゅーカエルとかカメが人を殺すホラー映画があってねー、いやどうやってカエルとかカメが人間コロスんじゃいと人類総ツッコミしましたが、さて、なぜなら、ですから、しかし、お分かりいただけただろうか、ところで沖縄ではエナジードリンクが、しかもマツモトキヨシオリジナルのエナジー、あの気色悪いカラーリングが施された、あの忌々しいエナジーの原液が一日中降る見込みです、これもアベ政権の影響かしら、アベは言語機能を破壊するカリスマですから、やっぱオーウェンの『1984』を想起しちゃいますよねー、アベにスピンオフしちゃいましたが、徹夜上等ブラック社畜のリーマンの皆さん、あなた方が欲求する多量のカフェインは沖縄にて!霊長類は南へ!いってらっしゃいませ!国民の皆さん!今日も良い一日を!あ!朝食は納豆ですか!納豆の過剰摂取は肝機能を低下させるんですよ!健康でしかないものなんてこの世にはないですから!上戸彩さん!アンタ納豆スゲー食うキャラでしたよね!バラエティで言ってたね!納豆スゲー食うと上戸彩になれるんだってみんな洗脳されてましたよ!アンタに憧れて!納豆をスゲー食べまくったテラダココロくんは!今は腐ったものしか食べられません!ココロくん、好きな食べ物は?ココロいわく!カマンベールチーズ!だとよ!ココロにモッツアレラはまだ早いぜ!ははははははははははははははははは!……ね、悪いでしょ?悪文でしょ?ワルいんですよーオレは(笑)。

 

と、ここまでで既に長く、長文読めねえ症候群の現代人にとっての苦行なのやもしれませんが、もうこれ以上摂取したくねーという方が高い確率でいらっしゃると思われますので(笑)、ゲンコツされて廊下に立たされているつもりで若干コードを修正します(笑)


ここまでにおいて、過剰/僅かな拒否反応、つまり至って「健全」な反応を示された方は、これ以上はお読みになられないことを勧めます。きっと、此処はあなたのためのリビングルームではない。ここから先の文字列は、如何なる他意なく、「不健全」なユーザーたちにのみ捧げます。勿論、その彼らに、穂波さん、小野カズさん、あなた方は含まれている。僕自身も。そして「あなた」も。我々が確かに共鳴した、あの有意義な数時間を、我々の敵に共有するつもりは微塵も無い。コロナウイルスの体積よりも無い。つまりほとんどゼロ、である。オリンピックを待ちわびる恐ろしき猿たちに背を向けて、我々は、我々と、我々の同志たちにとっての、最善の武装を試みましょう。それでは、健全で正しい国民の皆さん、今日の日はさようなら。貴様らが発狂すると噂の、誤読と記憶違いの大海原を、俺は全裸で遊泳してみせるぜ。

 

<1>

 

1月31日午前1時50分頃。完全なる夜型の僕は毎夜の通り起きていて、ぼんやりと「コロナ怖えー」と震えていたのですが(嘘。今年は短編映画を撮りたくて、毎夜シコシコとプロットやら脚本やらを書いている、つもりなんだが、全然書けねー、煙草の吸殻だけが増えていく。まあ頑張ります)、そこに最高の男(文字通り)である小野カズマさんから連絡が入りました。小野カズさんからのメッセージは超訳しますが「主宰の穂波が感想を読んで感銘を受けており、直接感謝を伝えたい、今穂波と飲んでいます、来てくださる?」という主旨でした。僕はお二人が晩酌していた某所によく出没するので、よしんば某所にテメェがいたら合流しましょう、というノリだったわけですが、まあ、運が無いのね、バリバリ自宅だったのね(笑)しかし小野カズさんからのお誘いを、加えてあの排気口主宰の穂波さんが会いたいと仰っている、ってかオレの方が会いたいよ穂波チャン!(笑)と願望していた自分に、断る思考回路は滅、「行きます行きます!コロナウイルスにやられなければ30分で!もちろん行きます!ヤッタ!!」と返答し、チャリ乗って爆走したわけです(その某所と僕の自宅は自転車で約30分の距離)。

 

寒空の下(深夜のチャリえげつねー・笑)を走りながら「え、感想を読んで感銘、って、ナンデ?」と、皮肉抜きに、ガチで不思議な想いでした。なにせ素人の書いたカンソーなので、捉え方自体は各々読者に委託しますけれど、なぜ穂波さんがオレにカンメーするのさ?だってあの人はオレの何兆倍、いやさ何京倍も豊かでオリジナルな「ことば」を持っていらっしゃるのに。その「ことば」によって記された文章に誘引されて観劇したのに。その「ことば」を役者の肉体がジャストフィットに受け止め、体現していたからラブレター(恥)の代用としてカンソーを書いたのに。つまり穂波さんの「ことば」の前で、僕はピナ・バウシュの舞踏のように全身をくねらせながら、「降参~~」と白旗をスイングしている、のです。よしんば、テメェの乱文が主宰に褒められた、よって我が自意識に救済が訪れた、よって超気持ちいい、なんて感情も全くありません。だから結構、ソワソワしていたというか、「なんだかなあ」と頭上にクエスチョンが浮かびながら某所へ向かったのでした(昨年の誕生日までの僕は、どうしようもなくルサンチマン気質で、自己顕示欲が濃厚で、他者への怨念も強固な一種の病理的な精神状態にありましたが、誕生日から意識的にそれらを抹消、というか分裂症的な自己セラピーを通過して、今はほとんど自我を信じていません。無意識というものが最も楽しく、軽度の躁状態が続いています。つまり、超テキトーで、なんでも楽しけりゃそれでいいや、という性格になった。今もこの括弧内の文章を、なーんも考えないで打っている・笑)。

 

さて、某居酒屋にピットイン。小野カズさんと穂波さんが並んで座っていらっしゃいました。小野カズさんとは知己がありましたが、穂波さんとは正真正銘のファースト・コンタクトです。「うわー遅くなりましたー、はじめましてー」とご挨拶。した直後に「いやーマジで男なのかよー」と、オレの穂波チャン(笑・詳しくは前エントリー参照)が完全に幻想だったことに対する落胆と絶望(笑)をですね、やっぱり口にせずにはいられず、つい口走ってしまいました(対して穂波さん、「すみませーん」って・笑。いやほんとコッチがすみません・笑)。

 

「いやー遅くにありがとうございますー」と、御二方とも、極めて腰を低く接してくださり(因みに御二方は僕よりも年上です)、「ほんとにお会いさせたかったんですよースギさんと」と小野カズさん(もう一度書きますけれど、御二方は僕より年上です・笑)。


で、穂波さんなんですが、もうね、穂波さんの目の前の卓上に、空になった角ハイボールのジョッキが3杯ゴンゴンゴンって置いてあるんですよ(笑)瞳もトローンとしていて、結構出来上がってる感じだったんですよ(笑)あとジョッキの横にハイライトのメンソールね(笑)うおー、彼は紛れもなく排気口の菊地穂波だー、本人だー、ハイライトメンソ吸ってるもーん(笑)、やっばいなー、もう好きだなこの人(笑)ってサムズアップしてました。

 

それで、穂波さんがですね、いや何を仰られるのかなーと、「ことば」をお持ちの方ですから、アタシどんな美しい「ことば」責めに遭うのかしらって(笑)、怖いな怖いなあとビクついていたんですけれど。

 

彼は開口一番、こう言いました。「文章を読ませていただいたんですけど……めちゃくちゃ嬉しかったんですけど……そのお……ものすごく嫉妬しました」……嫉妬!!!僕は脊髄反射的に「ぎゃはははははははははは」と爆笑しました。以降、ずっと笑いが止まりませんでした。「とんでもないあははははは、おそれ多すぎますぬはははははははは」もうコロナ上等、口呼吸しまくり、爆笑しちゃって。だって絶対そんなこと言われないと思ってましたもん(笑)。菊地穂波がオレの文章に嫉妬???やっばいなー分かったコレ、ドッキリだ!そうじゃなきゃおかしいもん!そうじゃなきゃこの人おかしいもん(笑)。つぶさに考えて、そのジェラシーは間違っている!そりゃ間違っている人が好きって前回書いたけど(笑)そういうこっちゃないだろ!嫉妬する側は!客観的に見て!オレ!!じゃん!!!白旗振ってるのよコッチは!(笑)

 

「もう本当に文章が素晴らしくて。あんな文章は自分には書けないなあと」「ぶはははははははは何を仰りますか僕のはただの駄文でしかなくぎひひひひひひひひ穂波さんはあんなに素晴らしいことばであんなに素晴らしい演劇をお書きになっているじゃないですかあははははは、すみません、あの他意はありません、他意は全くないんですがちょっと笑いが止まらなくてぐふふふふふふ」「もちろん内容もものすごく嬉しかったんです。でも、もし劇をどんなに褒められていても、文章があそこまで良くなければ、僕は今日会おうとも思っていないはずです。あの文章で、あの内容を書かれていたことが、ああもう絶対に自分には無理だなと。僕、久しく人に嫉妬なんてしたことがないんですが、んもうめちゃくちゃに嫉妬してしまって!軽く体調悪くなるくらいにズシーンとあの文章に感動してしまって!んもう嫉妬したんですよ!」「だははははははははははははははははははは」「うんうん(小野カズさんの笑顔)」

 

というやり取りが30分ほど続きました。僕は(若干の)緊張が、穂波さんの言動によって急激に緩和され(笑)、もはや笑い袋になっていました(前述の通り、褒められて気持ち良かったからじゃないですよ。ただ楽しかったんです)。排気口の公演を観た、その瞬間から(念のためガチ、ですが)絶大なる信頼しか抱かなかった鬼才・菊地穂波その人は、その信頼の比重以上に、どうしようもなく愛おしい人でした。そりゃまあ、あんなに愛おしい役者たちを愛おしく演出できるのですから当然と言えば当然なんですが、でもですね、ここまで瞬間的な速度で信じられる余地しかない人物だとは思いませんでした。まーじで。僕への嫉妬云々に対してではないです。「嫉妬した」ということを、ちゃんと言ってくださる、ちゃんと悔しいィィ!って表情をしている(笑)、この人、もうそれだけで同志って感じでした。同志って書くの、ホント自分のような馬鹿が穂波さんに対しておこがましい限りなんですが。でもこういう出会いは、マジでいつだってこんなもんです。もう会って数秒話しただけで、感覚として察知できるじゃないですか。僕はテキトーで無責任なホラ吹き野郎ですから、他人の嘘とかお世辞とか、昔からすんごい敏感なタチであると自負しています。世辞しか言わねえ媚しか売らねえ、そういうプロテクト人間との談義(苦笑)はもうウンザリっす。だから自分は、一方的に信じちゃった人に対しては、絶対に正直にいようと努めています。で、そういった心理的なプロセスを通過/飛躍して、あ、分かりましたもう大丈夫です、オレ、一方的に信じますわ、うん、このひと「おんなじ」だ、ナイスシンパシー、ナイスグルーヴ、取り急ぎ乾杯といきましょう、チアーズ、という嗅覚が働き、文字通りに意気投合をクリアできたのが、穂波さんでした(野暮を承知だけど書きますね、小野カズさんアンタもだよ!・笑)。

 

「そのお、感想が書かれていたブログ、他の記事もぜんぶ読んでしまって」「ぬははははははははははははは!そりゃきっすいすねーあんな放置ブログ(ヒトのブログなんて、ティッシュに染み込んだ性液と同じじゃないスか〜・笑)」「いや、読まされてしまったんです。もうそこも嫉妬で……」「まーじで褒められてもなーんにも出ませんよ、僕は、ホント身から錆しか出ないんですからにゃはははははは」「スギさんの文章を色々と読んでいく中で、ああこの人、すっごいロマンティックな人だなあと思ったんですよ」「(爆笑)それはナイ、それだけはナイっすよ(笑)」「確固たるものがあると思ったんですね、思想とか、それが文章に出ているから」「だとてロマンティックとはあまりにも見当違いだと恐縮ながら訂正致します(笑) オレ、短絡的なテキトー人間です(笑)」「いやいや!ぜーったいロマンティックな人ですよ、スギさんは!だってロマンティックだもん!ぜーったい!」

 

ロマンティックは止まらない(笑) 人ってハイボール飲み過ぎるとロマンティックが止まらなくなるのね(笑)

 

とまあ、ここまで人様に褒められると(しかも僕より客観的に美しくオリジナルな言葉を持っちゃってる人から)、褒められたことないので(オレの賞罰欄は白紙ですからね・笑)、当たり前ですが全然気持ち良くならず(笑)、いやオレはアンタの方が幾分もロマンティックだと思ってるから!オレの方がマジ!ガチ!と後行攻撃を仕掛けることになるわけです、自然と。小野カズさんから見たら褒め合い合戦なわけで(笑)、そのお、酒は美味かったですか?(笑) でも本心ですからね、穂波さんがめっちゃ表現者としてすげーのは。ってか排気口がさ、ホントにすごかったから、それ以上でも以下でもないのですがね。

 

 「ほんと、僕もスギさんのような文章が書きたいです……」「そ、そ、その思考は明確に良からぬ方向に進んでますよ、闇しかないそこには、スラム街しか(笑) 僕の駄文は影響元からのパクリとエピゴーネンなんで(笑) インターネットは無法地帯だから好き勝手書いてるだけで。あと、その台詞は僕のもんですからね。穂波さんのような文章は、書こうと思ったって書けないですから」「とんでもない。文章だけでなく、内容も博識でいらっしゃって、ああそんな視点があるのかと本当に嬉しかったんですよ」「知ったかぶりなだけです(笑) 僕はまだまだ末端構成員なんで。演劇って、そのーいわゆる劇評家、ですか、なんか公演に対してあーだこーだうるさく書く人種がいないんですか?」「んーまあほとんどいませんね。いてもツイッターで、ツリー形式で書いてくださったりとか。ああやってブログで書いていただいたのはほぼ初めてのことで感動しました。あと、劇評家って言っても、誰々が可愛かったとか、全然作品を見つめてくれない人の方が多いです」「映画も一緒です(笑)」「作った本人なのに、スギさんの文章によって視野が広がったというか、あれは立派な批評ですよ」「ダメダメ!それは絶対違う(笑)ズブの素人が書いた単なるカンソー(笑)」小野カズ「そうよ、あれは感想なんじゃないですか?」「いやいや、あれはもうね、いやーもう批評になってんですよ!んぐうー!」

 

大概、こういったピコーンと来やがる出逢いというのは、もう最初の30分、否10分、極論1分話しただけで感知しますよね。「うわーこの人絶対いい人だ、善人とか悪人とかそーいうのじゃない、この人はいい人だ、俺にとって」って歓びがあるんです(今現在仲良くさせてもらっている皆さん、例外なく当てはまります。オレの第一印象は知らんが・笑。この文章は主観の都だからな・笑)。そのあと話し込む必要も無いんですよね、本来は(笑)もう超好き、いえーい、最高ー、またねー、でいいんですよ(笑)でも信頼した後に、人間っちゅうのは不思議ね、興味を持っちゃうんですね。信頼できただけでもうゴールなのにね(いやスタートかな?)。この人ともっと色々と話をしたい/聞きたいと欲求し始めました。

 

「穂波さん、映画はよくご覧になられますか?」「いや最近は全く。腰が痛くなっちゃって」「ああ、腰ね、腰は大事です(笑)」「学生時代は、それこそカズマさんともたくさん観たんですけど」「たとえばどんな感じのものを食ってきましたか?(聞き方・笑)」「あのー『太陽を盗んだ男』、カズマさんも大好きで」「うわーやっばいなー、あのおー、嘘でないことを誓ってシンクロニシティとして報告しますが、僕、ちょうど昨晩『太陽』見直してました(笑・ガチで)」「ええ!ほんとですか!(笑)」「久々に観たら、あれネコの芝居すごすぎますよね(笑)あと『太陽』の助監督やってたのがウチの大学の教授で、ゴジ(注・長谷川和彦監督の愛称)への恨み節をよく聞いていて(笑)」「ええええ、それはすごいいい!」

 

穂波さん目ぇキラッキラ(笑)横の小野カズさんもオールタイムフェイヴァリットのハナシで目ぇキラッキラ(笑)やっぱり映画はあらゆる境界を突破しますなー。映画部部室みたいだった(笑)

 

「そうだ、今回の公演で言えば、ハルヒとか(うる星やつら2)ビューティフル・ドリーマーはレファレンスとして意識されてたんですか」「いや、ハルヒは消失しか観ていなくて、テレビシリーズはまだ途中ですね。消失のすごいところって、あのキャラクターたちが何の違和感もなく溶け込んでいる、あの風景だと思うんですよね」「なるほどお、京アニは背景やロケーション完璧ですからね」「京アニで言うと『氷菓』は好きで、あれは影響受けているかもしれない。うる星やつらはもちろん大好きです。押井守大好きなんで。でも影響って考えると、意識はしていない。ほとんど無意識に近いとは思います。タクシーのシーンが好きなんですよ」「はいはい、最高ですね幻想的で。まどマギでパクられてましたけどね(笑)」「そうなんですか(笑)」「ループをバスで表現してましたよ、まどマギの方は、深夜バス(笑)」「タクシーをバスにねえ、あーそれはいいなあ(笑)」

 

何がいいんだよ!(爆笑)

 

「スギさんも、あとたけきさん(『盛夏火』主宰。夏の次に魔女をやる劇団!最高ダ!)も仰ってましたけど、今回の舞台がアニメーション的だって指摘はすごく腑に落ちたんです」「僕はププ井さんが特にそう感じられました。完全に声で成り立たせちゃってる。メルちゃんとかもそう。たとえば、あのキャラはアテガキなんですか?」「はい、アテガキです。ププ井を演じた東雲さんは彼氏が4人いませんが(笑)」「そこが現実だったらより一層ファンになってましたけど(笑)じゃあ、基本的には皆さんアテガキで?」「アテガキですね」「なあるほど、はいはい、しっくり来ました。だからあんなに適材適所なんだ。キャラにしても声にしても発話にしても。あとはゼミ長も、キャラクターとして失敗していない、そして数分前に笑わせられていた人物に泣かされるっていう、例えば映画好きの端くれの視点としては驚きでしかなくて。映画じゃ絶対無理です、あのキャラクターたちをあのように扱うのは。演劇は幸福だなあって感動しましてね」「アニメーションって、あの幻想でしかないキャラクターに肉体を持たせるという意味では、演劇と似ている部分もあると思うんですよ。そういうところで腑に落ちました。意図していたわけじゃないんですがね」「無意識こそ最も聖なるものです。そしてその無意識なレファレンスを指摘したいのが、僕の病なので(笑)」「いやいや、言われて気付かされる感覚って、こんなに有り難いことなのかと感謝しかないんですよ」

 

へりくだるよなーーー(笑)オレこんなに物腰爽やかにへりくだれないもん。俺がちゃんとへり×100くだらないとならねえのに、んもーう笑いが止まらなくて無理でした。小野カズさーん、このハイボール、取り急ぎ令和でいちばん美味いわー(笑)こんな信じられないことがあるんだもん、そりゃあオリンピックが東京に来るよな(笑)

 

あと、映画観ないでこんなに面白いモノ作れるなら、腰痛めて映画なんか観る必要ないですよ(笑) 映画フィールドでさえ、シネフィルぶったスノッブ野郎たちが、幾多の映画群を観ても尚、肥料にもならねえクソをひねり出すだけの神経症の猿と化している惨状です。いやさテメェこそシネフィルぶったスノッブ野郎だろーが、と指摘されれば、答えは、いえーす、です。どうだ、参ったか(笑)

 

<と、ここで注釈。ええーココまでキーパンチしていたらですね、もちろん御二方がもたらしてくださった多幸感に酔いしれて覚醒しつつ書いていたのですが、んまあ、朝の6時くらいに打っていて、んまあ、寝落ちしましたよねえ(笑)で、今起きまして、やべー続きを書こーうとコレ打ってます。因みに、ここからのセクションでは、一軒目の居酒屋から別の店へと移っているのですが、その辺どうでもいいですからカットしてます(笑)あと何書いたのか読み直してもいません、ぼーっとしながら書いたものこそがジャスティスなので(笑)ではでは、淡い記憶を非鮮明に吐いてゆきます。以下、タイムラグを踏まえた再開です>

 

<2>

 

「穂波さん、さっき映画の話を伺いましたが、もう少し突っ込んでお聞きしたくて。映画のジャンルだと何がお好きですか?」「邦画を観てましたね。塩田明彦が好きで。『害虫』とか」「あ、いいっすねー」「スギさん、石井聰亙だと何がお好きですか?」「『狂い咲きサンダーロード』ですね、思春期の少年たちはみんな仁さんの勇姿を観て生きてこられたから(笑)」「ああ!いいですねー!あと僕はイタリアのネオレアリズモが好きで。『自転車泥棒』とか」「デ・シーカっすね。ロッセリーニとかも?」「そうです『無防備都市』とか。なんか、あんなに貧しい現実を描いているのに、なぜか笑えてくるんですよねえ、笑っちゃうんですよ」「ぎゃははははははは!ロッセリーニ観て笑っちゃうの最高ですね!イタリアだとアレですか、フェリーニとかやっぱりお好きで?」「いや、そんなに観れてなくて、『8 1/2』とかですよね……あ、あれ誰が監督だったのか失念してしまったんですけど、あの映画は好きでした、『オーケストラ・リハーサル』ってやつ」「それフェリーニっすよ!(爆笑)」「あ、あれフェリーニなんだ(笑)いやーあれはすごい好きです」「『オーケストラ・リハーサル』とか『インテルビスタ』なんかは、割とすんなり演劇っぽいですからね。あ、ゴダールとかもお好きでしょ!」「ゴダールはですねえ……一番好きなのは『パッション』ですね」「わははははははは!いやすみません、ベストで『パッション』って言った人初めて会いました(笑)」「いや、あの映画はラストの台詞がもうしびれてしまうんですよ。あれを聞くために観るくらいです。あとは『アルファヴィル』とかも好きでしたよ」「自主映画の文法で作った商業SF映画ですよね。ライターで無線通信したり(笑)ゴダールやっぱ馬鹿だなあー(笑)」

 

穂波さん、めちゃくちゃ映画観てるなー、腰痛くなる以前(笑)小野カズさんも映画狂なので、正しい教育(笑)があったのでしょうね。

 

そうそう、小野カズさんと以前お逢いした際に、我々はラジオっ子だったというハナシになって(端的に今もなんですが・笑)。聴いていた番組がほとんど同じで嬉しかったんですよ。小野カズさん、アルピー(アルコ&ピース)のオールナイトニッポン最終回、出待ちで有楽町まで行ったっていうんだから(笑)やっべーな、オレだって相当行こうか迷ってたのに(なんで行かなかったんだろう、コロナウイルスだったかな?・笑)。

 

そうしたら穂波さんもラジオは愛聴されてたんですよね。まあ、やっぱり。そりゃあそうだよね、敢えて申し上げますが、オレたちさあー(笑)

 

穂波さん曰く「あのですね、思春期の頃、僕、宮崎あおいが好きだったんですよ」「宮崎あおいが嫌いな思春期はいないでしょうね(笑)」「学校なんかなんにも楽しくなくて。毎日なんにも満たされない。でもある晩、深夜に生放送のラジオ(注・テレビだったかも、誤訳歓迎主義)から流れてきたトークを聴いて。そうしたらその時、この瞬間に、確かに面白いことを話している人たちが絶対に同じ時間にいるんだって、めちゃくちゃ感動したんです。救われたんですよ。で、同じ空の下、宮崎あおいも確かに生きているし存在しているんだって思えたら、もう嬉しくて嬉しくて」オレ&小野カズさん「ぶははははははははははははははははは」

 

素敵な思春期の一晩ですが、それはもう、演劇も同じことがいえますよね。同じ空間、同じ時間に、確かに肉体を持ったキャラクターたちが「いる」こと、それを「観る」こと、の豊かさ。反面、映画はどうしたって「過去」の映像なので、さらに絵画や文学も「過去」の集積ですから、この「生放送」あるいは「同時共有」のグルーヴは、やはり演劇ならではの多幸感かと思います。つまり、演劇はラジオだ!ってこと。そりゃあ声や発話はよろしい方がいいよね。

 

僕「演劇って、視点が一つに定められていないじゃないですか。映画はカメラがあってショットがあって、観客の観たいものは割と制限されつつ誘導されていきますけど、演劇は観客がカメラなんですよね。観客の数だけ視点がある。だから同じ演劇を観ても、客によって観る視点は絶対に違ってきますよね。それって体験として唯一な豊かさがあるなあと感じるんですよ。端的に言えば多様性を信じてるというか。唯一なのに多様、これは素敵なことだなって。その辺が映画は作り手や観客のリテラシー含めて、まだまだ難航してるというか」「演劇の魅力として仰る通りだと思いますが、映画は映画で、その視点に共感させてしまうという素晴らしさがありますよ。悪人にさえ感情移入させてしまうこともできる、だからある意味おそろしいことでもありますが、それは特有の魅力に他なりません。僕は自分には無いものを持っている人に興味があります。だから映画もそうなんです。演劇にはできないことをやっているから。スギさんに嫉妬したというのも、持っていないものを持っているから。悔しいというよりも、その刺激を受けて自分には何が生み出せるのか、そこに興味があります。絶対的に次の作品は、スギさんの文章から影響を受けてしまっているので」「だははははダメダメ!排気口、次、大失敗作になりますよ!(笑)」

 

自分には無いものを持っている他者を、憎悪するのではなくリスペクトできることは、大変同感すると同時に、今後も見習いたい、努めていきたいマインドであります。

 

「影響受けてしまってるのは僕の方こそです。今回排気口に触れて考えたことは、自分が作劇主義、あるいは映像主義だったということで、全然キャラクターに寄り添えていなかったということです。ほとんど無視に近かったと思います。編集でどうにかなるし、それこそアンチ演劇的になっちゃうというか。映画はカメラを向けている段階で、眉間に銃口を当てているのと同じ、つまりどうしたって暴力なんですが、ちょっと乱暴に扱うのはやめようかなと思いました。キャラクターは生きているし、でも勝手に生きているわけじゃない、自分が生かす手助けをしないとならないなって」小野カズさん「松江さんの問題じゃないですけどね、暴力はよくない」「そう、暴力はアカンです(笑)キャラじゃなくて、客に暴力振るえばいいんですけどね(笑)ショックを与えることが価値なんだから」

 

すみません、僕が結構喋り過ぎてますよね(笑)オレの発言なんかどーでもいいんだが、すみません穂波ファン諸君、まだまだオレは喋るぜ(苦笑)

 

「スギさんはご自身で映画を作る際、最も何を重視しますか」「ええーそれは流れ的に、俳優を選ぶ際に、ってことですか」「そうですね」「ええー、これは僕の暴論ですけど、まずルック、画になるか、映えるかみたいな。ヴィジュアル主義といいますか……いけねえ、映像主義は改めるんだった(笑)ええと、僕はあらゆる美醜の差別はありませんけれど、生意気ながらウルトラ面食いなので(笑)、まあそこは深層心理的な欲望なわけですが」「絶対面食いだと思ってました!」「なんで?!(笑)まあそれは抜きにして……ええーハイ、最も重視するのは『声』ですね」「あああああ、うおおおおおお(穂波さん、なぜか激しく頷く・笑)」「僕は音楽サッパリなんですが、楽理は独学で習得しましたが(笑)、やっぱり最もジョイフルな芸術として音楽家へ嫉妬しています。だから音楽的な構造を映画にトレースして、音楽的な歓びみたいなものが映画で出来ないかなーなんて。それで声ですね、美しくても醜くても、必要な音を持っている人は作品と関係持たせたいです。それこそ、排気口の皆さんは全員もれなく声カンペキ」「使ってやってください……」「とんでもない(笑)コレ肉サイの人たちにも同じ賛辞送ったので怒られちゃうかも(笑)でも声が良かっただけだもん、みんな。小野カズさんも、声いいっすよねー。いないもん、こんな人ほかに(笑)」小野カズさん「おねしゃーす!」

 

と言うか、こんなに外部(他意なく演劇)の方とゆったり面会して話したことが、まあほとんど初体験だったんじゃないかしら。我々はよそ者同士であるにも関わらず、互いを尊重し合うことを選択できた。選択できたってことがまずご縁なんですが。

 

僕は潰し合いと呼称される争いには、本質的な研磨機能が皆無だと考えています。映画のフォースを怨念や憎悪に使用した者も、使用された者も、間違いなく誰も幸福感を獲得できません。それ自体が映画の敵になるからです。また、人間は他者によって潰されることは構造としてあり得ません。原初的な要因が外部であれ、人間は基本的に自ら、自滅していくように作られています。

 

特別に、お互いに褒め合って、頭を撫で合ってスキルアップしていくことも、思考停止の馬鹿を育て上げるだけの愚行に過ぎません。無自覚な王の、無意味な権力行使を目撃することは、表現として、果てしなく枯渇した状態であるといえます。適切な関係性とは、何事においても大切なことです。特に、戦争と恋愛においては。戦争と恋愛は、全く同じ構造で出来ていて、その構造を自らの「趣味」に当てはまる必要なんて、まあ書くまでもなくですが、全くありませんからね(論がスプリットしますが、松江サン、映画監督が王様だった時代は終わっちゃったんですよ・笑。民たちがそれを許さないんだもん。ネチズムの怨念によって引き摺り下ろされちゃう前に、出来ることはあったと思うんだよなー、直井サンもさー・笑)。

 

もうそういった次元ではなく、我々(コレは映画と演劇と括っちゃいますが)は手を取り合う必要があるはずです。手を取り合うというのがおこがましいならば、あなた方にひざまずきつつ、自らの供物を捧げて、託宣が舞い降りてくるのをこうして書き留めるだけです。

 

僕は前述した通り、ほんの1年前までは強迫観念的な粘着質を備えた映画のファンダメンタリストでした。映画こそが、他のどの芸術表現よりも一番偉いんだと、臆面もなく信仰していました。言うまでもなく、狂信者にやがて訪れるのは、愛憎入り混じった誇大妄想と絶対的な孤独でしかなく、これは全然クリーンな関係性とは呼べない。だから自分が信仰していた神に対して、僕は確固たる有意識の元で、中指を立てるようになりました。よりソフトな表現ならば、神に対してあっかんべーしたという感覚です。映画を権威主義として崇めることの、誠に愚かなことよ。とにかく、神はクソだと、唾を吐きたかった(リドリー・スコット監督による大悪趣味残酷絵巻『プロメテウス』は、人類の創造主たる神にファックオフと唾を吐く最高にハッピーな映画です。酷評の嵐だけれど、愛せるなー、キリストにばーかって言っちゃうんだよおじいちゃん監督が・笑)。メッシーフェチがあるわけではありません。単に僕は、「映画」の髪を掴んで喉元まで性器を突っ込み、性液で窒息させる快感を味あわせるくらいには、映画を愛しています。

 

それまでのファンダメンタルな自分は、他表現、特に演劇への距離が「あった」と認めざるを得ません。その距離感に憎悪も、嫌悪も、怨念も、殺意も無かったのですが、とにかく「映画の方が面白いに決まってんじゃん、大体オメエらのせいで劇映画にも関わらずぎゃああああって叫んだりうわあああんって泣いたりする役者が増えてんだよ、映画で演劇の芝居をやる哀れな侵略者たちだぜ、責任取れよ誰が取るんだ、ああ?フジタか?オリザか?オカダか?ニナガワか?ノダか?テラヤマか?シェイクスピアか?(無知なのが明らかな羅列・笑)」と、それめちゃくちゃ憎んでるじゃんって勢いですが(笑)、要は文字通りの責任転嫁してただけなんです。演劇サン、そちらでしっかり教育してくれないと映画が困るんですわあ、と。テメェらで完治させる努力ゼロっていう失態ですね(笑)
つまり、僕は、彼らを「異教徒」だと考えていました。演劇っちゅーものを。異教徒の作品に触れることなく、自分たちの神をオカズにして射精していた愚か者でした。

 

ゆえに、異教徒の神々と接見する機会が、たくさんあった(僕の母校は所謂Fランの映画学科ですが、演劇だけは強かったのよ)にも関わらず、彼らとついに逢うことがなく、ここまで来てしまいました。自覚した時には、嗚呼、遅かったと、落胆するに至ったのです。

 

ところが、異教徒たちは僕の眼前に突然現れて、あまつさえ手を差し伸べてきました。ナイフを首元に突き付けられると思っていたのに。彼らは僕を差別しませんでした。去年、るんげ(肉汁サイドストーリー)、ふくしまけんた(もんしろ)、hocoten(地蔵中毒)たちと出逢いました。彼らがあまりにもヤバイ人(笑・狂人ってことじゃないです、オレなんかの何倍もセンスがいいってことね、ホントホント・笑)だったことは、端的に当たりクジを引いたとしか思えない。彼らが僕にとって、最初に接見をしてくれた異教徒たちであり、彼らは我々の宗教さえ噛んで含むように習得し、そしてベストタイミングで、異教の魅力を呪いのように僕へ伝聞したのでした。呪われるのは難儀ではありませんでした。非常にスムースに、僕は排気口へと、そして穂波さんへと辿り着いたわけです。

 

穂波「今日は本当にありがとうございました。本当に楽しかったです」
オレ「こちらこそ、今後も遠慮なく誘ってください。次は美女多めで(笑)」
穂波「どうにかしまーす(笑)ではでは、おやすみなさーい」
去る穂波。
取り残された小野カズとオレ。
小野カズ「……」
オレ「小野カズさん――」
小野カズ「スギさん、何も言わなくていい」
オレ「……オレの言うべきことなんか分かってる、ってか」
小野カズ「ああ、そうさ。ほとんど、俺が思い浮かべている言葉も、アンタと同じさ」
オレ「フン……でも、ちゃんと言わせてくれよ。言葉は、声に出して命を持つんだ。それに、今この瞬間に、残しておきたい」
小野カズ「わかった。それなら、言うか」
オレ「……小野カズさん」
小野カズ「……スギさん」
二人「会ってくれて/会わせてくれて、ディープサンキュー深い感謝!!!」

 

<3>

 

穂波さん、僕は世辞も嘘も偽りも無く、あなたの書かれた文章も、あなたの言葉によって紡がれた演劇も、心の底から愛しています。まだ一回しか観劇していないので、じゃあこれは一目惚れなんでしょう。この愛は片想いで良いです、片想いの方がエロティークで燃えるので(笑)。そしてこれは、端的に「嫉妬」が含まれていることを覚えておいてください。あなたが僕に抱くよりも、100京倍以上の嫉妬を、僕はあなたに抱いています。そしてこの嫉妬とか呼ばれる感情が、豊かで、多様で、すこぶる幸福な福音であることを豪語しておきます。今後も僕は、あなたの眼前で「くそーう!」と地団駄を踏み続け、地表の固さを知るに至るはずです。僕は僕で、映画という土俵でイタズラを遂行します。どうか、お互いが目の前から去らずに、お互いを再的確に苦しめ、ふさわしい形で救い合いましょう。最後に一言。オレは絶対に、消えてやらないからな、穂波チャン。

 

ディープサンキュー、深い感謝。

 

映画では「死んでいて」演劇では「生きている」こと【排気口『怖くなるまで待っていて』雑感】

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受付をしていた制作の水野谷みきさんを見て、「わ、水野谷みきさんだ」と、当たり前に驚いてしまった。僕は下北沢まで彼女の唄を聴きに行ったことがあって、それを確かに記憶していたのだけれど、失礼ながら、排気口に所属していることを失念してしまっていた(すみません、盛夏火の公演も楽しみです)。

むしろ、僕は排気口それ自体、もしくは演劇のことをほとんど知らない。年に映画館へ150回ほど足を運ぶ末端の映画好きである僕は、観劇に対する欲求が極めて少なく、演劇への憎しみも殺意も皆無なまま、映画原理主義者であることを優先し続けた。僕は映画館という闇が住処であるし、そう思っている自分自身に鬱屈しながら、今宵も真っ暗な密室で赤の他人と影を眺めている。そして、演劇に関するマッピングがほぼゼロに等しいので、まずは何を観ればいいのかすら自分では判断できないでいた。だから演劇に関しては無知に等しい。


ところが、どうやら「排気口はすごいぞ」という感想を周囲から見聞きして、周囲の熱量のおかげで、気になって仕方なくなった。ああ、確かに素敵なツイッターでいらっしゃるわ、と、美麗でアンニュイでアカデミックな文章が綴られたSNSに対して、微力ながらリスペクトの念が芽生え始めた。"こういったこと"が発話されている空間と時間を目撃したいと、誰に誘われるまでもなく、僕は排気口の中へとみるみる吸い込まれていった。空気を排出する口なのに。よって、今回が初の観劇となる。

 

実のところ、僕は水野谷みきさんによる前説の段階まで、本公演のタイトルを『「暗く」なるまで待っていて』だと、恥ずかしながら勘違いし続けていた。よしんば、僕の映画ファンというパーソナリティによって、かのオードリー・ヘップバーン主演作『暗くなるまで待って』(67年)を瞬時に連想、想起しながら、排気口新作公演のフライヤーを見てしまっていたのかもしれない。テレンス・ヤング監督作を引用するからには、さては排気口の連中は007オタクかしらとか、ねえねえハードコア版『暗くなるまで待って』こと『ドント・ブリーズ』への言及もあるのかなとか、いやだなあ水野谷さんタイトル言い間違っちゃってるよとか、前説が終わるまでの時間、ほんとうに哀しき獣だったというか、すみませんでしたと謝辞を送る次第。だからどうしたと云われたら切腹でもしましょうかという気分だけれど、基本的に、人間の勘違いや誤読は豊かで価値があるものだと考えている開き直り思考なので、意味は必ずある。あるのです。本作において「暗闇」はやはり「おそれ」と同義であり、そこはかとなく闇についてのエクスキューズが施された演劇であったことは言うまでもない。


排気口に関して、僕はこのような勘違いをもう一つだけ犯していた。作・演出の菊地穂波氏のことを、僕はしばらくの間、ずっと女性だと思っていた。何故そんな誤読をするようになったのかは、果たして記憶に残っていないけれど、恐らくは氏のツイッターのアイコンの所為だと思われる。また、ボリボリ先生画伯(笑いながら泣ける芝居が可能なボリさん、笑いながら泣くとは本公演を端的に表しているファクターであり、本当に素晴らしかったです、絵も大好きです)による排気口を彩るイラストの数々も、主に女性で、割とすんなりと「女性が作・演なんだな」とイコールで繋げていた。
氏のnoteを読んだ際にも、一人称が私であることに対して何ら違和感も無しに、そうか、穂波サンは『サスペリア』まだ観ていないんだ、お好きだと思いますけどね、ピンチョンっぽさが文章から滲み出てますけれど、分からないんだ、そっか分かんないよねえ、そうだよねえワケワカメだよねえと、薄気味悪い納得をするに至って、尚も気付かなかった。
排気口を知る友人に「穂波チャンの文章、ほんといいよねッ」と言い放った際に「あ?」と指摘されて、ようやく恋が終わった。


僕は「間違い」や「記憶違い」による美しさの創造、ということを強く愛している。こうした「暗く」なるまで事件や菊地穂波女性説には、「妄想による美しき誤読」をした結果生まれた、比類なき美しさがあると考えている。少なくとも、僕自身は。いつだって、品行方正な正しさよりも、間違っている側に惹かれてしまう。人間は間違えてしまうし、決して正しくなんかない、ということを訴える表現の美しさは、業を肯定されているような安堵感すらある。無論、そんな映画を穿いて捨てるほど観てきた。ところが、演劇、にも、否、演劇にこそ、それはあった。排気口とは、まさにそういった美しさが結集しているかのような集団に感じられた。ありとあらゆる間違われたことを、彼らは決して断罪しない。叱責するわけでもなく、傷を癒すわけでもない。確かにそれは「あった」し、それは「つづく」、でももうそれは「ない」。という事象の亡骸たちは、亡霊のように僕らの脳裏に"傷を付けずに"しっかりと焼き付く。

 

所謂「終わらない青春期(の一夜)」系のフィクションは、ポストモダン的なアプローチとして幾多も存在するものの、本公演はそうしたジャンルへこちらが偉そうに区分してしまう以前に、まず何よりもアニメーション的だと書いてしまって過言ではないはずだ。なぜか。役者のアクション(台詞の発話方法も含める)が行われる土壌としての舞台そのものにおける、フィクションラインの定め方がアニメーションを想起させるからだ。この多幸感は、『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』や『涼宮ハルヒの憂鬱』を容易く想起させる。つまるところ、本作にはアニメーションでしか成し得なかった歓びが、生身の肉体を以ってして戯画化され尽くしている。


僕の偏見で特筆してしまうと、この文化祭実行委員長ことププ井はすばらしい。佇まいや衣装も褒めちぎりたいが、抜きん出て「声」が特にすばらしい。彼女、を目撃してきたのは、これまで、確かにアニメーションというリアリティラインにおける枠内のみでしかなかった。それが、僕らが認知していた"向こう側"から「出てキタァ」という実感すらある。ちゃんと成立してしまっているのが凄い。ププ井さんを映画に落とし込もうとしても、1秒間考えてみたけれど、恐らく無理である。もちろん、メイド服を着たメルちゃんも然り(表情が豊かで、発話していない時でさえ目で追ってしまう吸引力があった)。そしてあの愛すべきゼミ長の、ほとんどスラップスティックな、ほとんどモンティ・パイソン的な、縦横無尽なまでのナンセンスっぷりには、真剣に、愛おしさ以外の感情が見つからない。僕がペシミスティックなだけなのかもしれないけれど、あのようなキャラクターを、映画は救えない(堀禎一なら救えたかもしれないが、彼は亡き人である)。小劇場の磁場によって何らかのオブラートに包まれた、何らかの愛おしさが生きている感覚、そういうものを発見するために、これからも観劇を怠りたくないと決意できた。


どのキャラクターも愛しいのだけれど(本当に全役者の、すばらしい仕事ぶりについて書いておきたいが、野暮だと称して、此処では割愛する)、僕の個人的な推しはププ井さんやゼミ長なのだけれど、観劇後に見た夢には女(いやほんとすばらしい名前、名前を必要としない関係性における、ただ一つの強固な名前)を演じた三森麻美さんが出てきて(笑)、僕は彼女と知己は無いのだけれども、なぜか一緒にラム肉の鍋を食べて、ラムアレルギーだった彼女がひたすらラム肉を吐きまくるという(ほんとすみません三森さん、夢なので・笑)、サイコで、パンチの効いた騒がしい悪夢にうなされてしまった。女は、唯一関係のない他者としてすんなりと輪に加わるけれど、この呆気なさ、関係/無関係の境界線を越える存在の意義については後述する。

 

第一には青春学園モノ、第二にはややコミカル、というジャンルの設定は、舞台美術や台詞以前に、登場人物たちの「発声方法」および「リズム(テンポとは異なる)」から浮かび上がってくる。小説や詩よりも早く成立した戯曲の段階で、ギリシャ文明が、ドラマツルギーを「悲劇」と「喜劇」に分離したことは歴史が物語っているけれど、排気口は歴然と「喜劇」でありながら、この物語を「喜劇」として提示する作者や役者陣の思惑に対して涙が流れる。とは言え、「悲劇」の時間だったとはやはり全く感じない。否、人が死んでいるじゃないか、と「悲劇」にカテゴライズするのは思考停止でしかないと思われるし、死に対する悲壮感や切迫感を軽やかに削ぎ落としつつ、ナンセンスなまでのユーモアで加速する本公演は、その相乗効果として、まるで哀しみが笑っているかのようで、だから泣けてしまう。「深刻な事態を深刻に演出して深刻に演じてしまう」というのは、暴論ながら映画界隈(特にインディーズ映画)ではまだまだパンデミック状態の病で、僕なんかは勝手にびーびー泣いたり悩んでろよ馬鹿とうんざりしてしまうのだけれど、無知を自称して、もしかして演劇ってこんなにもジョイフルでハッピーなものなのだろうか? まるでヒーリング作用のある音楽に近い。映画よりもよっぽどウェルメイドでありつつ、よっぽどユーモアを信じている。各々の肉体が。やはり役者/俳優のすばらしい仕事を観るためには、映画よりも演劇が適しているのだろうか? まだ結論は出さないでおく。

 

終盤における親子三人での会話は、よしんば自身がそういったナイーヴな会話の経験を経ていなくとも、"あの時間"に転送される感覚があった。体験なき"懐かしさ"すらあって、その追体験は、あまりにも尊い時間のように思えて、あまりにも泣いてしまった。「ちゃんと怖がれよ」と投げ掛けてくれる大人を、僕らは確かに欲求している。あるいは、僕は今、少年少女たちに「ちゃんと怖がれよ」と言えるのだろうか。言ってほしい/言わなくてはならないという微かなアンビバレンスを帯びた言葉は、「お世話になりました」という音と共に、まるで置き土産のような余韻を残す。さて、僕らはちゃんと怖がられているのだろうか。もしくは、怖がっているのは、果たして何に対してなのだろうか。


去年の夏、排気口所属の役者・小野カズマ氏と歓談している際に、僕は「2018年のベストは『アンダー・ザ・シルバーレイク』ですねえ、なにもかも理想の、夢のような、まさしくフィクションそのもの、超好き最高」とニンマリしながら話していた。対して、確か小野カズマ氏は「僕は『アメリカン・スリープオーバー』が大好きでしたね」と返していた記憶がある。挙げた二作品はどちらも同監督、デヴィッド・ロバート・ミッチェルの作品であるけれど、『怖くなるまで待っていて』には、小野カズマ氏のフェイヴァリットである『アメリカン・スリープオーバー』、そしてミッチェル監督のもう一つの作品『イット・フォローズ』(2014年)のエレメントが、確かに息吹いていると考えられる。


アメリカン・スリープオーバー』は、夏休み最後の一週間に行われるスリープオーバー(お泊まり会)において右往左往する思春期の少年少女たちを描いた群像劇だ。彼らはスリープオーバーを通して、成長するための"なにか"を模索する。それは人それぞれで、アルコール、ドラッグ、セックスなど、とにかく大人の仲間入りを目指そうとする。夜明けまでの尊い時間の中で、やがて彼らは気付く。社会の大人たちは"子供時代"を奪い取り、この尊い時間は二度とやって来ない。大人になってしまうということは「死」なんだと。だから結局誰も、スリープオーバーを通過儀礼としてクリアしない。必ず接吻を交わそうとしていたその夜、彼らは誰一人としてキスをしない。劇中の台詞に以下のようなやり取りがある。「お酒やドラッグやセックスという冒険を通して、大人の仲間入りができると思っているだろ。でも、それは神話なんだ」「なんの神話よ?」「ティーンエイジャーの神話さ。奴らはそういった冒険で君たちを釣り上げて、子供の心を捨てさせるんだ。子供の頃、意味もなく鬼ごっこや水遊びが楽しくはなかったかい? 意味なんてなかったことが、ずっと楽しくはなかったかい? 子供の気持ちを失ってしまったと気付いたときには、もう手遅れなんだ。子供時代は、二度と取り戻せないんだ」アメリカン・スリープオーバー』は、大人になることは青春の死を意味すると訴え続ける。


『イット・フォローズ』は、セックスによって「それ」がうつされ、「それ」に捕まると必ず死んでしまうという斬新なアイデアのホラー映画だった。公開当時、この映画は性病の恐怖や、ティーンエイジャーのセックスを戒めるために作られた映画だと論じられた。しかし、ミッチェル監督はそれらの意図を否定している。「これは青春、恋愛、そしてセックスについての映画だ」
「"それ"はゆっくりと近付いてくるけれど、必ず捕まってしまう、絶対に逃げられないもの」とは、性病やセックス云々というよりも、「死」それ自体をメタフォリカルに具現化しているといえる。なぜなら人間の死亡率は100%であり、絶対に避けられないものの、(あらゆる例外を除けば)死は自らの地点より遠くにあると思い込んでいるからだ。本質的にそれはまやかしであって、死自体は常に自分と隣り合わせなのにも関わらず、特に若者はその実感が抱けない。本当は、生と死は相反する概念なのではなく、生きていくことの中に死があるのだ。『イット・フォローズ』は、思春期の中に潜む死に気付いた者たちが、やがておそれを捨てて、死と共存して生きていくことを選択する。死からは絶対に逃げられない。でも、死の恐怖を忘れられる時間が存在する。愛する人とセックスしている時、そして誰かに恋をしている時、ほんの少しだけ死を遠ざけることができる。だからこの映画のヒロインは、少年の手を最後に握る。


『怖くなるまで待っていて』には、前述した二作品と共鳴する試みがあるといえる。それは、絶対的に取り戻せない時間(それが無意味であれ、無意味であればあるほど)の尊さを登場人物が噛み締める瞬間があること、そして死を目視確認したことで、やがてこの時間が終わることを予感しながらも、おそれるだけに終始せず、それでも生きていくことを決断する瞬間があること、である。


端的に言って、映画は生者を死者のように映すことに長けている。それについては、映像の質感や芝居は勿論のこと、撮影の構図や照明の度合い、動線、そして「如何なる動き(静止状態も「静止」というアクションとして捉える)をしているのか」というあらゆる事柄の研磨を含めて、スクリーンに"幽霊"を出現させることは可能だといえる。例えば個人的に、最も幽霊にしか見えない幽霊が出てくる映画だと考えているジャック・クレイトン監督の『回転』(61年)は、現在においてもすこぶるおそろしい。のちに、『回転』からの影響をダイレクトに受けつつ、ロベール・ブレッソンやジョルジュ・クルーゾーを経由する形で、日本では黒沢清が"映画における幽霊"をブラッシュアップしてみせた(とは言え、『リング』の貞子ちゃんは勿論のこと、『女優霊』の爆笑する幽霊も超怖かったし、ビデオ版『呪怨』の顎なし女子高生のヴィジュアルとしてのショックもまた歴然と"映画における幽霊"なのだが、此処では割愛する)。

 

また、映画のあらゆるシステム自体が、被写体を含めた景色の"残像"をフィルムに焼き付けるという意味で、幽霊を描きやすい芸術だともいえる。二度と訪れない過ぎ去った時間が、永遠に成仏せずに閉じ込められる。暴論を言ってしまえば、この世の全ての映画が、動く心霊写真なのかもしれない。

 

一方で、演劇は事象として「肉体が明確にそこに存在している」という時間を観客が共有する点において、それが例え死者であろうとも、「生きている」という感覚が付帯する。だから演劇は、死者=過去を提示できない限りは、本質的には死者を死者として描けないはずだ。その代わりに、幽霊ではなく「心霊」を描くことが容易くできる。こころである。死者に言葉を、肉体を、こころを与えることができる。だから演劇において、死者は「生きている」ことが権利として付与され、そのこころを観客が目撃する権利もまた許されている。


本作には幽霊が登場する。彼女に貞子と名付ける時点で、排気口が提示するリアリティラインの的確さにまず唾を飲むけれど、貞子がOGなのか幽霊なのか、という問答が、信じ難いほどに呆気なく明示されるやり取りだけで、無性に説得力を感じられる。それはユーモアではなく、生者と死者が関係する際の本質だ。"呆気なさ"こそが真実であり、この呆気なさを享受するか拒絶するかで、世界の見え方は大きく変容していく。


死者に言葉をあてがうことこそが、あらゆる芸術のマジックだと信じてやまないけれど、排気口はそれを、深刻ぶった演出に逃げるわけでもなく、呆気なく遂行する。呆気なく貞子はやって来て、呆気なくシフト作成は承諾されて、呆気なく幽霊だと判明して、呆気なく呪いは終了して、呆気なく闇は訪れ、呆気なく死は続き、終わらない。
この呆気なさは、徹頭徹尾に漂いつつ、間接的に"死"そのものを想起させるし、生と死の境界を何の障壁もなしに曖昧に中和させる。青春は、人生は、生は、呆気なく続くし、呆気なく終わる。まるで120分間の演劇のように。この呆気なさに、恐怖し、おののき続けるという判断が、果たして豊かなことだろうか。呆気なさに手を差し伸ばした者だけが、呆気なく闇に足を踏み入れる。しかし、その闇は恐怖だろうか。哀しみだろうか。死なのだろうか。手を握る相手がいる限り、隣に誰かがいる限り、我々は呆気なく、あらゆるものを肯定しながら歩くことが出来るはずなのだ。
すべての人のちっぽけなおそれが、この演劇と共に終わってしまえばいいのにと、心から思った。


演劇のマッピングが白紙状態なので、よしんば、他にもこのような試みを遂行する劇団があるならば恐縮極まりない。しかしながら、前言をほのかに否定する意味で書くが、排気口のユーモア、センチメンタリズム、アカデミック性、リアリティラインの的確さは唯一無二である。白紙の白痴野郎にこそ、ここまでスムースな受容を成功させて、そして甘い多幸感を抱かせてくれた排気口を、無知ながら高く支持したい。本当に大好きな劇団になった。あなた方がおそろしい。このおそれは、僕が胸に抱きかかえている限り、地球の裏側まで僕と共にあるのだろう。だからしばらく、まだしばらく、僕は呪われたままでいい。この手は離さない。だから、離さないでくれ。

オルケスタとしての肉汁サイドストーリー、或いは、破られた最後のページ【肉汁サイドストーリー『さる沢』雑感②】

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「アタシはチャラチャラした連中を見ると、はらわたが煮えくりかえるんだ。世の中はどう見たって、アタシのためにはない。あいつらだよ、あいつら。ちくしょう。殺してやる。てめぇらに逃げ道はねえぞ。アタシにもねえぞ」と、一人一人が思っている世界。厭な時代には、厭な演劇を。肉汁サイドストーリー、『さる沢』。

 

誰もがテレビの中でゲラゲラと笑っているような明るい時代じゃない。常に不安を抱いている。テロと天災が決定打となり、ゼロ年代テン年代も、抜け出せない暗黒が広がり続ける20年間だった。2020年からその先もまた、光り輝く未来など、絶対に待っていない。我々は平穏な暮らしを送れないことに気づいてしまっている。ミサイルを作って試し撃ちをする国や、ツイッターにうつつを抜かす大国のトップの言動に右往左往する時代、誰がハッピーなものか。

 

演劇は、即物的な機能として明言してしまうが、娯楽である。娯楽だから、楽しい憂さ晴らしになっている。たとえ、それがホラー演劇であったとしても、どこかスカッと、感情のわだかまりを壊してくれる。その一方で、厭な後味を残す演劇だってある。そこで、「なんで、こんな苦い後味の演劇を観たんだろう」と考える、考えることこそに、演劇ひいては、表現研究の価値が生まれたりする。

 

しかし、ほとんどの民たちは「考える」ことを放棄している。演劇や表現を見ても、考えることはなく、なんとなく感動した実感を刹那的に味わいつつ、すぐ様に忘れてしまう。それこそ、即物的な、インスタントな意味における「消費」である。他人の表現に触れても、そのさらに芯の部分にまで触れてみたいという欲望が、ほとんど発生していない。なぜか。その表現と自分自身に、関係がない、と思考しているからである。演劇や音楽や映画や書物の、言っていることもやっていることも、そもそも自分には関係が無いと思わされてしまっている。では、思わさせているのは誰か。それは時代であり、国家であり、世間である。この国には、あなたの力が必要なんです、今を生きる一人一人が主人公なんです、と、声高らかに表明したところで、「自分の存在が無くても、時代も、国家も、世間も絶対に回っていく」という自覚がある。近年の我が国における投票率の低さは、まさにこの思考がトレースされた結果とも言える。「自分が選んだところで、世間は変わらない。世間は、自分のことを選んではいない。それなら、自分はそもそも、選ぶという行為それ自体が無意味なので、選ばない」と、国民の一人一人が思考する時代は、間もなく到来してくるのではない。今、がそうだからである。

 

この、例え自分が選ぶ/選ばないを放棄したとしても、世界は自分と関係なく回り続ける、という状態は、民を思考停止に陥らせる。そういった人々は、よしんば芸術に触れたとしても、その芸術を作り上げた作家のクリエイティビティや、作品に込められたテーマやメッセージは何か、ということを、考えようとしない。しない、のではない。やり方が分からず、できない、という方が、寄り添った言い方かもしれない。論をやや強引に飛躍させるが、芸術に関心を持たなくなる、ということは、最終的に教育の崩壊につながる。「学ぼう」としないからだ。学ばなかった人は、選ぶ/選ばない、という自分の意志や主張を、物理的な意味で「持つことができなくなり」、他人に託し始める。他の誰かがきっとどうにかしてくれるだろう。他の誰かがきっと自分と近い考えを言ってくれるだろう。自分にはこの世界に影響を与えることができない。自分は特別でもなければ、選ばれてもいないのだから。

 

映画『マトリックス』は、我々が生きている世界は、実は機械生命体が作り出した「夢」であり、人類は皆、胎児のように眠っている姿が描かれていた。『マトリックス』は、ポップカルチャー史においても、哲学史においてもディープインパクトとなり、その影響は計り知れないが、もっとも、『マトリックス』が公開した年、全米での自殺者の数は倍増した。残された遺書には「このクソ最悪な悪夢から覚めるため、わたしは目を覚ますことを選ぶ」と書かれているものもあった。公開から翌年に起きた銃乱射事件では、見ず知らずの人々を大量に撃ち殺した犯人が「この世界は仮想現実で、本当の現実ではない。自分は、彼らを夢から覚ますために撃ち殺した」と、供述した。彼はその際、自らを救世主、と称し、撃ち殺していった人々のことを「選んでやった」とも述べている。不謹慎を覚悟で言ってしまえば、彼は、その時、その方法でしか、世界と関係が持てなかったのかもしれない。しかし、『マトリックス』と言う映画は、この現実はフェイクだ、だから何をしたっていい、人を殺したっていい、黒人をリンチしたっていい、ガキの列に車で突っ込んでもいい、ティーンエイジャーをドラッグ漬けにして、レイプしまくたっていい、役に立たないヨボヨボの老人はショットガンで撃ち殺したっていい、異なる宗教を信仰している異教徒は全員殺してしまった方がいい、威張っている国はうぜえから、その国のビルに旅客機で突っ込んだっていい、何をしたっていい、キミが救世主だ、キミがそれを「選べ」、と、観客に伝えるために作られた表現だったのだろうか。答えは簡単だ。「考えれば分かる」「考えれば、分かる」のだ。芸術や表現は、「他人の考えに対して、自分はどう考えるか」ということの偉大さを教えてくれる。物語やキャラクターや作者が我々に提示するのは「答え」ではない。「果たして、あなたは、どう考えますか?」という、問いかけである。『マトリックス』の監督ウォシャウスキー姉弟だって、ちゃんと観客を信じて、この問いを投げかけたはずだ。現実を打破したり、変えることが出来るのは世界ではない、自らの意志と行動なんだ、それは、劇場から出た瞬間、ボクにだって出来ることだ。さあ、サングラスを掛けて戦いに臨もう。そう「考えてほしかった」。もう一度繰り返す。「考えれば分かる」。考えることの幅を狭めると言うことは、学ぶことの関心を失い、芸術の価値を見出せなくなる。

 

肉汁サイドストーリーの『さる沢』は、「考えることを放棄された」という意味において、客観的な立場から評するに、極めて不幸な作品であるといえる。加えて、『降誕節』『セメント・モリ』という以前の公演よりも、少なくとも、SNS上での「受け入れられ方」はスムースで、割合として「称賛」の声が多い、という状況を観測することができる。こと此処において歴然としているのは、『さる沢』はユーザーたちによって、あまりにも容易く「消費」されてしまった、という事実である。この点において、ワタシは、肉汁サイドストーリー側への責任追及は、作・演出のるんげを除いて、一切行わない。なぜか。『さる沢』を、暗く、憂鬱で、アンチカタルシスな演劇として、あまりにも上辺だけをなぞったような、定型文に収めて、「思考停止」を露呈した頭の悪い感想ばかりを目にしたからである。つまり、この状況を現出させたのは、我々観客側による加担が大きいものだと考えられる。もっとも、それは我が国が平和で、ぬるま湯であることの決定的証拠だとも言えよう。

 

このインスタントでコンビニエンスな「暗さ」「鬱っぽさ」「重さ」「深刻さ」というジャンルへの選別が、観客によって成されている構図を見ると、寒気がする。もはや、咀嚼する気が無い大衆たちによって、『さる沢』という美しく、おそろしい作品が、あまりにもお子様ランチ的な絶望と化し、その受け取り易さだけが蔓延している。杉浦が述べていた「『さる沢』は極めて音楽的であり、その音楽的な多幸感に思わず涙した」という感想には、なんの新鮮味もない。杉浦側が、甘えん坊の子どもであり、勝手に『さる沢』を離乳食として、消費しているだけのことである。それに、彼の涙は、端的に言って、自慰行為における射精液と、ほとんど同じ意味しか持っていない。

 

この、作品の本質とは密接には関係していない、表面上の「マイナス因子」を、観客が過大評価するという構造は、今年公開された映画『ジョーカー』と酷似している。ワタシは『ジョーカー』を傑作だとは感じるが、それは、あの映画が暗く、憂鬱で、絶望的である、という理由から発生するものではない。そもそも、『ジョーカー』は、一般大衆が過剰に煽るほどの、絶望を兼ね備えていない。あの映画には、ホアキン・フェニックスという生物の名演が記録されており、それ以上でも、以下でもない。しっかりとマーケティング的に、つまり「商品」としての毒素はデトックスされているし、主人公のアーサーとは真逆の生活を送るような、幸福な人々に対して、激しい嫌悪感よりも共感を持って迎えられてしまっている点が、あの映画が商品として「消費」されてしまったことを歴然と物語っている。本当の、本当の絶望、と、いうのは、その作品を観たことを心底後悔することができるし、その作品に抱いた感情を、口にすることさえ気持ちが悪く、一刻も早く記憶から抹消したいと願い続ける、そういったものだ。「消費」される「負の感情」は、先に述べたこの暗黒の時代には、至って「生ヌルい」と、ワタシは感じる。

 

ワタシは『セメント・モリ』の通し稽古を映像でのみ拝見し、実際の公演には足を運べなかった。行けなかった後悔と等しく、本当に行かなくてよかったと思える安堵感すらあった。通し稽古でさえ、『セメント・モリ』の絶望の強度は凄まじく、感情が沸点に達して涙が出て来る、なんて生優しさはない。純度100パーセントの暗闇、がそこには出現していた。それは紛れもなく作・演出のるんげとオールキャストが起こした呪術のようなものであり、そして、純度100パーセントの絶望や呪いは、純度が高いゆえに、あまりにも美しかった。ワタシは、二度と、『セメント・モリ』を、見ることができない。とにかく、あの作品には、一切の「おためごかし」が無かった。ある意味では、観客、いや、世界に対して攻撃的な、暴力的な、オフェンシブな態度すらあった。ワタシは、この世界に『セメント・モリ』が「ある」ということを、本当に恐ろしいと感じたし、本当に美しいとも感じた。加えて、台本のみを拝読するに至った、宇宙空間から混血列島に落とされた禍々しい生命体のような、あの異様で歪つな『降誕節』に関しての感想は、言うまでもない。

 

『さる沢』はワタシにとって、肉汁サイドストーリーを初めてその目で観劇するという試みであった。ここで前2作『降誕節』『セメント・モリ』との比較は、あまり重要なことではない。単に、それぞれの場所でそれぞれの時期に、それぞれの闇がそこに出現していたわけであるし、確かにそれを作り出した人間がいて、確かにそれを目撃してしまった人間がいる、という事実だけが『さる沢』にとっては重要である。『さる沢』は、一般的な層に、と、敢えて定義してしまうが、彼らが何一つとして困惑し、戸惑い、おそれることもなく、あまりにも容易く受け入れられてしまったという現状を生み出してしまった。どうしても針穴に糸を通すことができなくて、ついには諦めてしまう、どうしても知恵の輪が外せないが、その知恵の輪には初めから外す方法など存在していない、といったような、おぞましい虚脱感というものが、「ある」にも関わらず、民にはそれを吸収し、消化してしまう余裕が兼ね備えられていた。そう、『さる沢』には明確に、ワタシが肉汁サイドストーリーに欲求するようなおぞましさも、おそろしさも、美しさも「ある」のだ。ワタシは「ない」という論旨展開をしているのではない。「あった」ものが、大衆に開かれた、普遍的な、薄められた霧だった、ということを特筆しておきたい。深い霧というものが、『降誕節』『セメント・モリ』には広がっており、一度その中に足を踏み入れると、まるで脱出することが出来ない不安感やストレスすらあった。『さる沢』の霧は、遠くから見ると深く濃い色をしているが、いざ中に入ってみると、視界は良好とは言えずとも徐々に慣れ始め、その霧の濃度が、それほど高くなかったことを認識する。そして、最も大きな違いは、その霧が、晴れ切ってしまう、という点である。観客は脊髄反射的な不安感を抱くものの、結果として、その霧からは、抜け出すことに成功するのである。これはなぜか。

 

まず、原作にもなった「猿沢伝説」は山形県発祥の民話であり、よしんばその内容が、あまりにも救われない残酷性をはらんだものであったとしても、この民話自体に閉塞感は無い。物語以前のプレ物語としての、教訓もカタルシスもない民話の残酷性は、その強度とは全く別のベクトルで、民話である以上、開かれた物語であるという点からは逃れられていない。伝承とはつまり、そういうことから分断することはできない。とは言え、この開放されている歪さに対して、本作は脚色を幾多も施しており、その様は秀逸且つ見事である。しかし、この脚色によってもたらされた付加価値は、民話というプレ物語を解体し、その過程で「物語」として再構築していく作業に他ならなかった。るんげによる本作の脚色は、そのほとんどが、彼女自身のパーソナリティに関わる体験を元に具現化されている、というオプションを「含まなくとも」、一つの「物語」としての完成度は研ぎ澄まされており、その完成度は極めて高い。が、「物語」として研磨され尽してしまった「物語」は、その完成度ゆえ、歪さやおぞましさを希薄させると同時に、大衆性とカタルシスを獲得してしまう。その過程に、書き手であるるんげの、極めて個人的な思惑や願いがエッセイ的に書き込まれていたとしても、全く同じ理由で、その体験は主語を失い、観客と一体化する。唐突に断言してしまうが、肉汁サイドストーリーという団体は、この一体化を望んでいる団体ではないはずである。「分断する」ことが容易く可能であり、「分裂症」的なおぞましさと悲しさを常にまとうことが難儀ではない、そんな団体であるとワタシは捉えている。図らずも、『さる沢』は、その物語としての完成度の高さ、脚色の研磨された秀逸さ、そしてそれらを体現する役者陣のフィジカルとリズム感覚の良さが相対的なケミストリーと化し、「誰しもにとって分かり易い物語」と化してしまったことを、ワタシは否定できない。これは言い換えれば、「分かり易い絶望」が、「分かり易いものしか摂取したくねえ」という一般層の観客に、何の障壁も越えずに「分かり易く」伝播していってしまったことを意味している。

 

ここにおいて、観客に伝わらなければそれは第一に表現としては失敗している。だから「分かり易い」ことを揶揄するのはお門違いだ、という反論が考えられ得るが、真空を切り、微風も起こらない。なぜか。「それ」をやるべき団体というのは、他にもいるからだ。ワタシは、肉汁サイドストーリーが「それ」を遂行することに、大きく賛同することはできない。彼らには、もっと鬱屈したペシミスティックと、震えあがるようなユーモアと、燃え上がる情念と、知的なアカデミズムと、そして、消えることのない灯台のともしびのような、あたたかいやさしがある。そう信じて疑わないからだ。「なんでこんな演劇を作ったんだよ、こんなものを見せないでくれよ、やめてくれよ」という激しい拒否反応と、その拒否反応を引き起こす唯一無二の装置としてこの団体が機能しているのであれば、「味わいたくない感動を味わいに演劇を観に行く」というアンビバレンスが発生し、観客は引き裂かれると同時に、自らこの団体に呪縛される、のである。

 

『さる沢』は、この世には「愛されなかった者」「選ばれなかった者」が「いる」、ということをかかげているが、指摘すること自体が野暮であると知りつつ、その「愛されなかった者」「選ばれなかった者」とは、肉汁サイドストーリーであり、作・演出のるんげそのものである。お前らは愛されていない、と決めつけをしたいのではない。「愛されなかった」「選ばれなかった」人々の物語を描くのであれば、そうでなくてはならないからだ。「選ばれなかった」人々への救いも、激励も、同情もいらない、「選ばれなかった」というその景色そのものの定点観測を行うことに重きを置いた『さる沢』は、非常に冷ややかで、モノクロームな色をした山形県を目の当たりにしているようで、ほとんど怪談話を聞いているのに近い冷たさがあった。肉汁サイドストーリーのひとつの側面として、アンチ欺瞞、人間なんてマジどうしようもない、みんな寂しいんだから、という視点や姿勢は、本作にも刻印されてはいる。しかし、果たして『さる沢』は、「選ばれなかった」人々にのみ焦点を絞り切らなかったこと、つまり前述した「あなた方を救おうとも怒ろうとも、激励しようとも考えてはいない」というるんげの研ぎ澄まされた刃が、あろうことか、「愛された者」「選ばれた者」たちの心にも、「突き刺さって」しまっている、のである。作り手は、アンタらにウチらの気持ちなんて分かるはずが無い、というか分かり切ってほしくも無い、そんなにつらかったんだねえ、わたし悪いことしちゃったねえ、ごめんねえ、と思ってほしいとは、微塵も考えてはいないはずだ。が、それが先に述べた完成度ゆえに、彼らにも「なんとなく」伝わってしまい、「なんとなく」感動させてしまっている。己が目標と定めた敵、が、ノーダメージなのにダメージを受けた錯覚を起こして「あなたの気持ちよく分かりました。本当にごめんね。悪かったね」と涙を流してくる姿こそ、最も吐き気のするおぞまき物体である。所謂「愛され」に分類される人間が持っている安っぽい負の感情までも、この作品はカヴァーしてしまい、だからこそ普遍的な作品と化している。しかし、ワタシは肉汁サイドストーリーのユニバーサル化を、ここに見に来たわけでは、決してない。

 

持論である以前に、敢えて暴論と言ってしまうが、『さる沢』には「選ばれなかった者たちが「いる」ことを知っている」というペシミズム且つ距離を縮めない包容力の、「その先」をどこかしらで描いてほしかった。いや、語尾を強めると、描くべきであった。

 

愛されない者たちにとって、誰かが隣に寄り添いつつ「わたしはあなたのことを心から愛していますよ」と優しい言葉を投げかけて来ることほど、嘆かわしいことはない。偽善的な、おせっかいにも近い嫌悪感を感じて、その哀れみは、やがてはらわたで煮えくり返る。鬱病の人間に「頑張れ」と、もしくは「頑張らなくていいんだよ」と応援をすると、どちらにせよ彼らは自己嫌悪に陥るという構造とほぼ同じく、肉汁サイドストーリーは、愛されなかった者たちに「言葉」を投げかけることを最善の術だとは恐らく考えていない。なぜなら、それが「嘘」になるからだ。そんな「言葉」で、我々が「愛されなかった」ことを肯定することなんて、死んでも出来ない。「嘘」の言葉を投げかけるよりも、ただ「愛されなかった」者の話を、黙って優しく頷きながら聞いてあげるような、そういった「彼らなりの正しさ」に舵を切っているのが『さる沢』の本質だとも言える。ワタシも、その点には激しく同意するし、だからこそ、この団体への信頼感は厚い。

 

ところが、この作り手と「愛されなかった者」への距離は、果たして、本作においては適切なものではなかったともいえる。距離が遠くあるがゆえに、その合間に、「愛された者」たちまでもが侵入できる隙を与えてしまったから、である。彼らは「これはわたしのために書かれた物語だ」と、心から思って感謝していることは、絶対に無い。『さる沢』は、実のところの主語である「るんげ」という書き手自身が、意図的に「物語」から「自分自身」を切り離そうと努めながら、その最上級のバランスを保つことに成功した作品である。書き手からすれば、それでも尚、本作と自分自身の重なり具合は、まるでグラデーションの如く「ある」と自負しているのかもしれないし、なんなら脚色の痕がかなり多いと、感じているのかもしれない。特に、梅津ひかるが演じる姉、への思い入れは、観客と言う客観的な立場から察するに、非常に大きなものだったとも感じる。が、繰り返しになってしまうが、本作は、その脚色による物語構築の、技巧としての完成度の高さゆえに、個人と主語が、化石のように死に絶え、生きてはいない。そこには、得体の知れなさや、近寄りがたい禍々しさが毒抜きされた「主語を失った個人史」が「脚色された民話」という骨格に肉付けをされ、直立している。「これはるんげの物語であり、これはるんげの物語ではない」という絶妙なバランスは、各論としては強固な丈夫さを保つが、それらが集合し、総論と化すと、圧倒的な赤裸々さと正直さに欠ける。端的に言って、パンツを脱いでいない。パンツを脱いでみると、その下にもパンツを履いており、さらにその下にもパンツが履かれているのだ。しかしながらワタシは、るんげは、絶対にパンツを脱いでいる、と豪語したい。彼女は創作物に対して、照れ隠しを除いて、絶対に手加減はしないはずだからだ。そのことは噛んで含めるように、我々にも理解が出来る。ただ、実のところ、それはまだ、脱ぎ切ってはいない。慎重に練り上げられたプロットは、その筆力の高さゆえにパンツを降ろしにくくしていることに繋がっているとは、書き手だからこそ中々気付けない。無自覚な天才をフォローするのは、周囲の団員の職務だとも考えるし、他の団員が、決して彼女のご機嫌取りだけの機能では無かったことも、我々は理解している。脱いだパンツを再び履き直させた団員がいたとしても、それはどこまで突き詰めようが、書き手である「るんげ」当人の問題として集約する。役者陣の素晴らしい仕事については、この件とは全く分離されたコンテンツであるので、言うまでもない。だから、ワタシは始めに述べた通り、この『さる沢』がもたらした現象に関して、観客と作・演出のるんげに対してのみ、責任追及をしている。るんげにおいては特に、彼女による完璧なまでの演出、ではなく、彼女による、ある意味「完璧な」台本についてである。

 

恐らく、肉汁サイドストーリーは、自己満足としてだけの演劇を目的とはしていないし、していたとしても、金がもらえるからという理由であれ、集客はしている。なので、演劇を自慰行為と同じものには捉えてはいないだろう。とは言え、寂しがりやの天才に許された自慰性は、芸術の魅力をより良く研磨する。ワタシは、まだ現時点、というのはあまりにも上から目線で申し訳ないのだが、現時点において、肉汁サイドストーリーにその自慰性は認められているし、何より、それを認めようとしない観客、メンバー、その他界隈とは、断絶を引き起こすくらいが、この団体の、劇団としての迫力に繋がるはずである。

 

書き手である「るんげ」は、「るんげ」の物語を、より正直に、より手加減なく、書いてしまって良かったのだ。ストーリーテリングというオブラートに包むことは、「愛されている者」たちにとっては全く必要ない。作者の思惑と物語の虚構を巧みに連結することこそが、寓話的な美しさでもあり、『さる沢』の寓話性は、あらゆる意味で高いといえる。『さる沢』は演劇として、お世辞抜きに「面白い」演劇であるし、「面白くなる」ように努力している箇所が、いくつも見受けられる。だが、本作は実際のところ「100人が見たら80人くらいは褒めてくれる」作品であって、「わたしのための物語」あるいは「あなたのための物語」では、無かったとも言い換えられる。「消費」されるために書いたのならば、この論考の言葉は、何もかも見当違いである。しかし、「消費」されることへの反抗が、ワタシは肉汁サイドストーリーには「ある」と考えている。商品、作品、団体が消費されるというよりは「るんげ」というコンテンツ自体を、安い感動/絶望として、売ってしまって良いのだろうか。「つまらなくなることを恐れずに書き上げた情念」が、『降誕節』『セメント・モリ』には、明確に存在していた。比較をするべきではないならば、こう結論する。『さる沢』は「完成度の高い面白い作品であることには成功しているが、つまらなくなることを恐れずに書き上げた情念は、感じない」と、いうことである。

 

『さる沢』は、そのプロットから想起するに、間違いなく肉汁サイドストーリー、ひいてはるんげにとって「鏡」になるような作品であったと考えている。深層心理的な意味で、最も見たくないものが鏡に写った自分の顔であるかのように、『さる沢』は見た者を、演者を、そしてるんげを苦しめ、活性化させる装置になると、見る前は予想をしていた。ところが、実際の『さる沢』という鏡は、実物大ではなく、スクエアサイズにトリミングされたセルフィーの画面であり、どんなに苦しい表情をしても、目は大きく、頬はピンク色に、自動補正されてしまっていた。その顔は確かに美しいが、それこそ、「嘘」にはならないだろうか。

 

ワタシは、るんげ本人との知己があり、彼女が全くの初心者ながら、共に一本の映画を製作した身としては、勝手ながら「仲間」であるし「大切な友人」だと、心から思っている。だから、残念ながら、ワタシは彼女の紡ぐ「言葉」が、本当は好きだ。客観的な立場をいくばくか偽ろうとも、他人からしたら我々は「身内」と呼ばれても、致し方が無い。とは言え、ワタシは演劇という芸術それ自体とは分断されながらも、るんげというフィルターを通して、今回、とても興味深く、自分にとっての「演劇」を、見つめ直すことが出来た。この論考、並びに感想を話すに辺り、一切の「嘘」は無い。それが、『さる沢』を観た観客としての、本作に対するアンサー、である。

 

結びに、ワタシのアイデンティティとして、本作とまつわる、三つの事柄について話しておきたい。

 

恐らく、『さる沢』と最も近い構造とテーマを持った作品に、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』という映画を挙げることが出来る。アリ・アスターは前作『ヘレディタリー 継承』で、世界そのものを呪って、明らかに他の映画とは異なるディメンションの磁場を発生させた才人であるが、『ミッドサマー』は、その彼の最新作に当たる。本国アメリカでは既に公開済みであるが、日本では来年2月公開の運びとなり、ワタシは配給のファントムフィルムの仕事の遅さに嫌気が差し、ソフトを輸入して、一足早く鑑賞した。『ミッドサマー』と『さる沢』の何が類似しているのかと言えば、それは『ミッドサマー』のテーマを述べさえすれば事足りてしまう。端的に言って、『ミッドサマー』という映画は「選ばれなかった者が、ついに選ばれたときに、一体何を選び、何を選ばないのか」ということを描いた作品である。そこには、選ばれなかった者、愛されなかった者、つまりは監督であるアリ・アスター自身の、全くの手加減が無い世界そのものへの暴力性と、それでも、その絶望から這い上がるための微かで美しい希望が、残酷なまでに映し出されている。アリ・アスターは鏡を割ることを選ばずに、じっくりと、自分自身の極限までを、その鏡を通して見つめ直すことに成功している。彼は愛されなかった者たちへ投げ掛ける。「今いる世界が闇ならば、光を浴びに別の世界へ一歩進まないか。たとえその別の世界が、地獄だったとしても」光り輝くスウェーデンの地獄で、果たして選ばれなかった者は、今まで見たことが無かった光を目の当たりにして、地獄の底において、救われるのである。

 

北欧スウェーデンが舞台だった『ミッドサマー』から繋げて、同じ北欧、デンマークが生んだ世界最大の童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンと『さる沢』を結ぶことも可能である。アンデルセンは、生涯誰からも愛されなかったことで有名である。一説によると、彼はアスペルガー症候群だったともいわれている。彼はたくさんの人を一生懸命に愛して来たが、誰からも愛されず、孤独に死んでいった。ティム・バートンアンデルセンの生涯それ自体に大きく影響を受けて『シザーハンズ』を製作したとも言っている。『アナと雪の女王』の原作であり、脚色ゆえに原作としての意味をまるで失くしてしまった『雪の女王』や、王子様に恋する人魚の悲哀に満ちた『人魚姫』など、どれも「一生懸命に人を愛するが、誰からも愛されずに、やがては孤独に死んでいく人々」の物語で、アンデルセンは、そんな彼らを生涯描き続けた。ワタシが『さる沢』を観て思い浮かべたのが、アンデルセンの『ひなぎく』という短編である。

主人公は雑草のひなぎくで、彼女は誰からも知られぬまま、道端で咲き続けている。ひなぎくの頭上では、ひばりが飛んでおり、いつも楽しく歌を歌っている。ひばりはひなぎくには気付かないが、ひなぎくは、そんなひばりの楽しそうに飛び回る姿を見て、いつもあこがれていた。そこに突然、ひばりが降りて来る。驚き、喜ぶひなぎくに対して、ひばりは優しく言う。「きみはなんて可愛いお花さんなんだろう。きみは"黄金の心"を持っているだろ」と。ひばりは、ひなぎくの姿を見て降りて来たのではなく、ひなぎくの心を見て、降りて来たのだ。「君の心は、素晴らしいだろう」ひばりはひなぎくにそう言ってくれる。ひなぎくは、そんなことが言われたことが無かったので、心から喜んだ。ところが、そこを通りかかった人間の子どもたちによって、ひばりは捕まってしまう。ひばりはそのまま檻に入れられてしまう。子供たちは「花とか草もあった方がいいだろう」と言って、ひなぎくもまた、地面と共にさらわれて檻に入れられてしまう。ひばりもひなぎくも、檻の中で、どんどんと弱っていく。結局ひばりは、ひなぎくに「かわいそうに」と言い残して、そのまま衰弱死してしまう。そのあと、ひなぎくも枯れてしまい、やがて死んでしまう。死んだひばりと枯れたひなぎくを、子どもたちは道に捨て、去っていく。一番最後の文章には、こう書かれている。「それから、誰、一人も、ひなぎくのことを思い出す人はいませんでした」

果たして、これは童話なのか。これを子供に聞かせて、どう思えと言うのか。何もいいことがないのだ。黄金の心を持っていても、ゴミのように捨てられて人生は終わる。しかも、誰もひなぎくのことを覚えてはいない。これこそがアンデルセンの心の底からの叫びだった。ハッピーエンドをつけて、商業的に売ろうという考えが無い、恐ろしい童話が『ひなぎく』である。よしんば、ひばりはひなぎくのことを「選んでいなければ」死ぬことは無かったし、ひなぎくもまた、ひばりに「選ばれていなければ」死ぬことは無かった。この物語における「選ぶ」「選ばれる」という行為は、果たして希望なのか、それとも絶望でしかないのか。『さる沢』における猿にも、ワタシは「黄金の心」があったと、考えている。

 

「黄金の心」という言葉は、アンデルセンと同じくデンマーク出身の映画監督、ラース・フォン・トリアーとも繋げることができる。トリアーは『イディオッツ』『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の三作品を称して「黄金の心三部作」と名づけている。この三部作に共通しているのは、三作とも女性が主人公で、その主人公が人のために尽くそうとすればするほど、事態は悪化し、酷い目に遭っていくという映画であることだ。この「黄金の心=ゴールデンハート」という言葉は、先に述べたアンデルセンの『ひなぎく』から引用されたものではないと、トリアーは語っている。曰く、彼は子供時代に、図書館である一冊の絵本に出逢った。それは『ゴールデンハート』という絵本だった。

ゴールデンハートとは、主人公の女の子の名前である。彼女は心があまりにも清らかなために、困っている人々に自分の物をすべて与えて行ってしまう。最初は、ケーキを手に持って森の中を歩いていると、お腹を空かした人と出逢って「私のケーキを食べてください」と、そのケーキをあげてしまう。彼女が杖をついて歩いていると、足の不自由な老人と出逢い「どうぞ、私の杖を使ってください」と、その杖を渡してしまう。その先で、ホームレスの男の子が寒さに震えているのを見て、「とても寒そうだから、どうぞわたしの服を着てください」と、服までもあげてしまう。何もかも失ったゴールデンハートは、果たしてどうなるのか。しかし、そこまで読み進めていったトリアー少年は途方に暮れる。その絵本の「最後のページ」だけが破られていたからだ。

かくして、トリアー少年は、総てを失ったゴールデンハートちゃんの結末を見ることが出来なかった。彼は大人になるまで、ずっとこの絵本の最後のページのことが気になっていた。一体、あの後、彼女はどうなってしまうんだろう。なぜ最後のページだけ破り取られているのだろう。やがてトリアーは大人になってから、ついに新聞の投書欄で「『ゴールデンハート』という絵本を持っている人はいないだろうか」と募集をかける。「どうしても、最後がどうなるのかが知りたいのです。お願いします」すると、偶然にも、その古本を持っている人物が名乗りを上げた。その人は、トリアーの自宅に『ゴールデンハート』の絵本を送ってくれた。『ゴールデンハート』のラスト、最後のページは一体どんなものだったのか。

全てを失ったゴールデンハートが寒空の下で震えていると、突然、空からお金が降って来る。まるで、神からの救いのように。そして彼女は、そのお金のおかげで、それから幸せに暮らしましたとさ、と。

トリアーのフィルモグラフィにおいて、いわゆる表面的な意味でのハッピーエンドは、一作品も、一瞬も撮られていない。トリアーは一言こう述べている。「最後のページが破られていた意味が分かったよ」

 

肉汁サイドストーリーの作品はどれも、ある意味で「最後のページが破られている」。その「最後のページ」を破り取っているのは、作・演出のるんげ自身でもある。先に述べた通り、るんげ本人は「最後のページ」が欺瞞に陥ることを十二分に理解しているし、「最後のページ」がもたらす安堵感の凡庸さもまた、彼女は知っているはずである。それは『降誕節』『セメント・モリ』そして『さる沢』においても当てはまることだ。事象だけがポツンと描写され、誰も祝福されず、途方に暮れている、あの救いの無さは、物語の幕切れとして他には考えられない結末であるともいえる。登場人物と共に、観客も取り残されるような、あの不安感や虚無感は、紛れもなくおそろしいし、単語そのものの意味で「強い」と感じる。はっきりと、ヒトの心の時計が止まってしまった瞬間を目の当たりにするというのは、ほとんど呪いに近い。だからワタシは『さる沢』のラストを、当然、あれ以外には考えられないと思っている。

 

問題は、肉汁サイドストーリーが、次に何を描くのか、だ。これから何を描くのか、だ。『さる沢』がもたらした一連の現象を踏まえて、あるいは、ひとりの観客として、そしてひとりの友人として、ワタシは、あることを提案したい。

 

「最後のページを破り取っていた、その手を、誰かに差し伸べる手に、してみないか」

 

「傷付いた誰か」を「救う」つもりは、確かに無いのかもしれない。それでも、るんげには、ちゃんと救わないとならない「誰か」が、絶対にいる。

なぜなら、差し伸べたその手の先にいる「誰か」は、その手に対して手を伸ばしている「るんげ」本人だからである。それ以上でも、以下でもない。

その手が掴まれた時、作品は「わたしのための作品」であり「あなたのための作品」として、変貌を遂げる。100人の「傷付いていない、愛されている、選ばれている人々」を、血肉と時間と、命を注いで救う必要など、どこにも無い。たったひとりの「あなた」を、たったひとりの「あなた」に、その手を、指し伸ばしてみるのである。

ワタシは、それこそが、『さる沢』を通過した肉汁サイドストーリーの、新たなる課題だと考える。

 

最後のページを、るんげに破かせるな。最後のページを破ろうとするのは、そう、我々観客のミッションであるべきだ。安々と被害者になろうとするな。容易く人の願いを消費するな。そんな簡単に「愛されなかった者」たちを歓迎するな。呑気に、受動的に、演劇やフィクションに触れた気でいるな。我々から近付きに行け。もっと、もっと奥に。もっと、もっと先に。深い霧の中に突っ込め。深い霧の中にるんげを連れ出せ。彼女を、もっと苦しめろ。るんげの書く演劇は、お前らにとってのエナジードリンクなんかではない。お前らの生活の為のガソリンではない。お前らがるんげのエナジーと化すのだ。お前らが、るんげの心のともしびに、油を注ぎ続けろ。燃やせ。彼女を、我々の手で、燃やし尽くせ。燃え切った時に、灰に混じってただ一つ残ったもの、それが、肉汁サイドストーリーが、本当に描くべきものだ。

 

肉汁サイドストーリーに手を差し伸ばしてはならない。

肉汁サイドストーリーに愛を与えてはならない。

肉汁サイドストーリーに恋を覚えさせてはならない。

肉汁サイドストーリーを選んではならない。

肉汁サイドストーリーを受け入れるな。

肉汁サイドストーリーに林檎を授けるな。

 

イヴに林檎をかじらせた蛇は、悪魔の化身であったことを、忘れたと言うのか。

 

我々観客が、彼らに福音をもたらし、我々観客が、彼らから福音を授かろう。

肉汁サイドストーリーと関係を持つということは、ハッキリ言うが、そんな生優しいものではない。

我々が能動的に加害者となれ。るんげは、彼女は、加害者であるよりは、被害者であることを、きっと望むだろう。

そして、すべてが結実して、彼女が書く最後のページの筆圧が、これまでよりも、何倍にも増すことを、期待し、導こう。それが出来ないのであれば、本当にそれが出来ないのであれば、演劇の観客なんて、まるで無意味な、思考停止の連中に成り下がってしまうことだろう。

 

ワタシは、俺は、観客を信じている。そして信じさせるのだ、るんげに。

演劇の力を。今改めてもう一度。フィクションの力を。今改めてもう一度。

肉汁サイドストーリーの力を、今改めて、もう一度。

投げ掛ける言葉は、たった二言でいい。るんげに投げ掛ける言葉は、たった二言でいい。

 

「それで、いいんだよ。それで、大丈夫なんだよ」

 

あなたって完璧なまでにふさわしい人みたい

傷を負って止血帯が必要な女の子にとってはね

でも、あなたは私を救ってくれるの?

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私のことを救ってよ

 

だって、私にははっきりと分かる

ハンガーストライキでの永遠のお別れがどんなものか

あなただって知ってるでしょ?

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私のことを救ってよ

 

あなたの前では言葉を失うの

ラジウムのように

スーパーマンのように

ピーターパンのように

あなたはやって来る

私を救うために

 

杉浦「ってなわけで、なんだい戻ってきたら流れているのはエイミー・マンによる名曲『Save Me』じゃないか!確かに『さる沢』の帰り道に、まずこの曲を聴いて余韻に浸ったことは言うまでもないんだよな。ということで、るんちゃか、キミが「私を救って」とつぶやいても、僕たちは聞こえたふりをして、いつもより長く煙草を吸ってみることにするよ。それが、そう、友達ってもんだろう。それでは最後に、哲学的かつメタフォリカルな問いかけをしてこの音源は終了する。なあ、るんちゃか、キミが噛み続けているそのお気に入りのガムの、味は、まだ、するかね?

 

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私を救ってよ