20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

映画では「死んでいて」演劇では「生きている」こと【排気口『怖くなるまで待っていて』雑感】

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受付をしていた制作の水野谷みきさんを見て、「わ、水野谷みきさんだ」と、当たり前に驚いてしまった。僕は下北沢まで彼女の唄を聴きに行ったことがあって、それを確かに記憶していたのだけれど、失礼ながら、排気口に所属していることを失念してしまっていた(すみません、盛夏火の公演も楽しみです)。

むしろ、僕は排気口それ自体、もしくは演劇のことをほとんど知らない。年に映画館へ150回ほど足を運ぶ末端の映画好きである僕は、観劇に対する欲求が極めて少なく、演劇への憎しみも殺意も皆無なまま、映画原理主義者であることを優先し続けた。僕は映画館という闇が住処であるし、そう思っている自分自身に鬱屈しながら、今宵も真っ暗な密室で赤の他人と影を眺めている。そして、演劇に関するマッピングがほぼゼロに等しいので、まずは何を観ればいいのかすら自分では判断できないでいた。だから演劇に関しては無知に等しい。


ところが、どうやら「排気口はすごいぞ」という感想を周囲から見聞きして、周囲の熱量のおかげで、気になって仕方なくなった。ああ、確かに素敵なツイッターでいらっしゃるわ、と、美麗でアンニュイでアカデミックな文章が綴られたSNSに対して、微力ながらリスペクトの念が芽生え始めた。"こういったこと"が発話されている空間と時間を目撃したいと、誰に誘われるまでもなく、僕は排気口の中へとみるみる吸い込まれていった。空気を排出する口なのに。よって、今回が初の観劇となる。

 

実のところ、僕は水野谷みきさんによる前説の段階まで、本公演のタイトルを『「暗く」なるまで待っていて』だと、恥ずかしながら勘違いし続けていた。よしんば、僕の映画ファンというパーソナリティによって、かのオードリー・ヘップバーン主演作『暗くなるまで待って』(67年)を瞬時に連想、想起しながら、排気口新作公演のフライヤーを見てしまっていたのかもしれない。テレンス・ヤング監督作を引用するからには、さては排気口の連中は007オタクかしらとか、ねえねえハードコア版『暗くなるまで待って』こと『ドント・ブリーズ』への言及もあるのかなとか、いやだなあ水野谷さんタイトル言い間違っちゃってるよとか、前説が終わるまでの時間、ほんとうに哀しき獣だったというか、すみませんでしたと謝辞を送る次第。だからどうしたと云われたら切腹でもしましょうかという気分だけれど、基本的に、人間の勘違いや誤読は豊かで価値があるものだと考えている開き直り思考なので、意味は必ずある。あるのです。本作において「暗闇」はやはり「おそれ」と同義であり、そこはかとなく闇についてのエクスキューズが施された演劇であったことは言うまでもない。


排気口に関して、僕はこのような勘違いをもう一つだけ犯していた。作・演出の菊地穂波氏のことを、僕はしばらくの間、ずっと女性だと思っていた。何故そんな誤読をするようになったのかは、果たして記憶に残っていないけれど、恐らくは氏のツイッターのアイコンの所為だと思われる。また、ボリボリ先生画伯(笑いながら泣ける芝居が可能なボリさん、笑いながら泣くとは本公演を端的に表しているファクターであり、本当に素晴らしかったです、絵も大好きです)による排気口を彩るイラストの数々も、主に女性で、割とすんなりと「女性が作・演なんだな」とイコールで繋げていた。
氏のnoteを読んだ際にも、一人称が私であることに対して何ら違和感も無しに、そうか、穂波サンは『サスペリア』まだ観ていないんだ、お好きだと思いますけどね、ピンチョンっぽさが文章から滲み出てますけれど、分からないんだ、そっか分かんないよねえ、そうだよねえワケワカメだよねえと、薄気味悪い納得をするに至って、尚も気付かなかった。
排気口を知る友人に「穂波チャンの文章、ほんといいよねッ」と言い放った際に「あ?」と指摘されて、ようやく恋が終わった。


僕は「間違い」や「記憶違い」による美しさの創造、ということを強く愛している。こうした「暗く」なるまで事件や菊地穂波女性説には、「妄想による美しき誤読」をした結果生まれた、比類なき美しさがあると考えている。少なくとも、僕自身は。いつだって、品行方正な正しさよりも、間違っている側に惹かれてしまう。人間は間違えてしまうし、決して正しくなんかない、ということを訴える表現の美しさは、業を肯定されているような安堵感すらある。無論、そんな映画を穿いて捨てるほど観てきた。ところが、演劇、にも、否、演劇にこそ、それはあった。排気口とは、まさにそういった美しさが結集しているかのような集団に感じられた。ありとあらゆる間違われたことを、彼らは決して断罪しない。叱責するわけでもなく、傷を癒すわけでもない。確かにそれは「あった」し、それは「つづく」、でももうそれは「ない」。という事象の亡骸たちは、亡霊のように僕らの脳裏に"傷を付けずに"しっかりと焼き付く。

 

所謂「終わらない青春期(の一夜)」系のフィクションは、ポストモダン的なアプローチとして幾多も存在するものの、本公演はそうしたジャンルへこちらが偉そうに区分してしまう以前に、まず何よりもアニメーション的だと書いてしまって過言ではないはずだ。なぜか。役者のアクション(台詞の発話方法も含める)が行われる土壌としての舞台そのものにおける、フィクションラインの定め方がアニメーションを想起させるからだ。この多幸感は、『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』や『涼宮ハルヒの憂鬱』を容易く想起させる。つまるところ、本作にはアニメーションでしか成し得なかった歓びが、生身の肉体を以ってして戯画化され尽くしている。


僕の偏見で特筆してしまうと、この文化祭実行委員長ことププ井はすばらしい。佇まいや衣装も褒めちぎりたいが、抜きん出て「声」が特にすばらしい。彼女、を目撃してきたのは、これまで、確かにアニメーションというリアリティラインにおける枠内のみでしかなかった。それが、僕らが認知していた"向こう側"から「出てキタァ」という実感すらある。ちゃんと成立してしまっているのが凄い。ププ井さんを映画に落とし込もうとしても、1秒間考えてみたけれど、恐らく無理である。もちろん、メイド服を着たメルちゃんも然り(表情が豊かで、発話していない時でさえ目で追ってしまう吸引力があった)。そしてあの愛すべきゼミ長の、ほとんどスラップスティックな、ほとんどモンティ・パイソン的な、縦横無尽なまでのナンセンスっぷりには、真剣に、愛おしさ以外の感情が見つからない。僕がペシミスティックなだけなのかもしれないけれど、あのようなキャラクターを、映画は救えない(堀禎一なら救えたかもしれないが、彼は亡き人である)。小劇場の磁場によって何らかのオブラートに包まれた、何らかの愛おしさが生きている感覚、そういうものを発見するために、これからも観劇を怠りたくないと決意できた。


どのキャラクターも愛しいのだけれど(本当に全役者の、すばらしい仕事ぶりについて書いておきたいが、野暮だと称して、此処では割愛する)、僕の個人的な推しはププ井さんやゼミ長なのだけれど、観劇後に見た夢には女(いやほんとすばらしい名前、名前を必要としない関係性における、ただ一つの強固な名前)を演じた三森麻美さんが出てきて(笑)、僕は彼女と知己は無いのだけれども、なぜか一緒にラム肉の鍋を食べて、ラムアレルギーだった彼女がひたすらラム肉を吐きまくるという(ほんとすみません三森さん、夢なので・笑)、サイコで、パンチの効いた騒がしい悪夢にうなされてしまった。女は、唯一関係のない他者としてすんなりと輪に加わるけれど、この呆気なさ、関係/無関係の境界線を越える存在の意義については後述する。

 

第一には青春学園モノ、第二にはややコミカル、というジャンルの設定は、舞台美術や台詞以前に、登場人物たちの「発声方法」および「リズム(テンポとは異なる)」から浮かび上がってくる。小説や詩よりも早く成立した戯曲の段階で、ギリシャ文明が、ドラマツルギーを「悲劇」と「喜劇」に分離したことは歴史が物語っているけれど、排気口は歴然と「喜劇」でありながら、この物語を「喜劇」として提示する作者や役者陣の思惑に対して涙が流れる。とは言え、「悲劇」の時間だったとはやはり全く感じない。否、人が死んでいるじゃないか、と「悲劇」にカテゴライズするのは思考停止でしかないと思われるし、死に対する悲壮感や切迫感を軽やかに削ぎ落としつつ、ナンセンスなまでのユーモアで加速する本公演は、その相乗効果として、まるで哀しみが笑っているかのようで、だから泣けてしまう。「深刻な事態を深刻に演出して深刻に演じてしまう」というのは、暴論ながら映画界隈(特にインディーズ映画)ではまだまだパンデミック状態の病で、僕なんかは勝手にびーびー泣いたり悩んでろよ馬鹿とうんざりしてしまうのだけれど、無知を自称して、もしかして演劇ってこんなにもジョイフルでハッピーなものなのだろうか? まるでヒーリング作用のある音楽に近い。映画よりもよっぽどウェルメイドでありつつ、よっぽどユーモアを信じている。各々の肉体が。やはり役者/俳優のすばらしい仕事を観るためには、映画よりも演劇が適しているのだろうか? まだ結論は出さないでおく。

 

終盤における親子三人での会話は、よしんば自身がそういったナイーヴな会話の経験を経ていなくとも、"あの時間"に転送される感覚があった。体験なき"懐かしさ"すらあって、その追体験は、あまりにも尊い時間のように思えて、あまりにも泣いてしまった。「ちゃんと怖がれよ」と投げ掛けてくれる大人を、僕らは確かに欲求している。あるいは、僕は今、少年少女たちに「ちゃんと怖がれよ」と言えるのだろうか。言ってほしい/言わなくてはならないという微かなアンビバレンスを帯びた言葉は、「お世話になりました」という音と共に、まるで置き土産のような余韻を残す。さて、僕らはちゃんと怖がられているのだろうか。もしくは、怖がっているのは、果たして何に対してなのだろうか。


去年の夏、排気口所属の役者・小野カズマ氏と歓談している際に、僕は「2018年のベストは『アンダー・ザ・シルバーレイク』ですねえ、なにもかも理想の、夢のような、まさしくフィクションそのもの、超好き最高」とニンマリしながら話していた。対して、確か小野カズマ氏は「僕は『アメリカン・スリープオーバー』が大好きでしたね」と返していた記憶がある。挙げた二作品はどちらも同監督、デヴィッド・ロバート・ミッチェルの作品であるけれど、『怖くなるまで待っていて』には、小野カズマ氏のフェイヴァリットである『アメリカン・スリープオーバー』、そしてミッチェル監督のもう一つの作品『イット・フォローズ』(2014年)のエレメントが、確かに息吹いていると考えられる。


アメリカン・スリープオーバー』は、夏休み最後の一週間に行われるスリープオーバー(お泊まり会)において右往左往する思春期の少年少女たちを描いた群像劇だ。彼らはスリープオーバーを通して、成長するための"なにか"を模索する。それは人それぞれで、アルコール、ドラッグ、セックスなど、とにかく大人の仲間入りを目指そうとする。夜明けまでの尊い時間の中で、やがて彼らは気付く。社会の大人たちは"子供時代"を奪い取り、この尊い時間は二度とやって来ない。大人になってしまうということは「死」なんだと。だから結局誰も、スリープオーバーを通過儀礼としてクリアしない。必ず接吻を交わそうとしていたその夜、彼らは誰一人としてキスをしない。劇中の台詞に以下のようなやり取りがある。「お酒やドラッグやセックスという冒険を通して、大人の仲間入りができると思っているだろ。でも、それは神話なんだ」「なんの神話よ?」「ティーンエイジャーの神話さ。奴らはそういった冒険で君たちを釣り上げて、子供の心を捨てさせるんだ。子供の頃、意味もなく鬼ごっこや水遊びが楽しくはなかったかい? 意味なんてなかったことが、ずっと楽しくはなかったかい? 子供の気持ちを失ってしまったと気付いたときには、もう手遅れなんだ。子供時代は、二度と取り戻せないんだ」アメリカン・スリープオーバー』は、大人になることは青春の死を意味すると訴え続ける。


『イット・フォローズ』は、セックスによって「それ」がうつされ、「それ」に捕まると必ず死んでしまうという斬新なアイデアのホラー映画だった。公開当時、この映画は性病の恐怖や、ティーンエイジャーのセックスを戒めるために作られた映画だと論じられた。しかし、ミッチェル監督はそれらの意図を否定している。「これは青春、恋愛、そしてセックスについての映画だ」
「"それ"はゆっくりと近付いてくるけれど、必ず捕まってしまう、絶対に逃げられないもの」とは、性病やセックス云々というよりも、「死」それ自体をメタフォリカルに具現化しているといえる。なぜなら人間の死亡率は100%であり、絶対に避けられないものの、(あらゆる例外を除けば)死は自らの地点より遠くにあると思い込んでいるからだ。本質的にそれはまやかしであって、死自体は常に自分と隣り合わせなのにも関わらず、特に若者はその実感が抱けない。本当は、生と死は相反する概念なのではなく、生きていくことの中に死があるのだ。『イット・フォローズ』は、思春期の中に潜む死に気付いた者たちが、やがておそれを捨てて、死と共存して生きていくことを選択する。死からは絶対に逃げられない。でも、死の恐怖を忘れられる時間が存在する。愛する人とセックスしている時、そして誰かに恋をしている時、ほんの少しだけ死を遠ざけることができる。だからこの映画のヒロインは、少年の手を最後に握る。


『怖くなるまで待っていて』には、前述した二作品と共鳴する試みがあるといえる。それは、絶対的に取り戻せない時間(それが無意味であれ、無意味であればあるほど)の尊さを登場人物が噛み締める瞬間があること、そして死を目視確認したことで、やがてこの時間が終わることを予感しながらも、おそれるだけに終始せず、それでも生きていくことを決断する瞬間があること、である。


端的に言って、映画は生者を死者のように映すことに長けている。それについては、映像の質感や芝居は勿論のこと、撮影の構図や照明の度合い、動線、そして「如何なる動き(静止状態も「静止」というアクションとして捉える)をしているのか」というあらゆる事柄の研磨を含めて、スクリーンに"幽霊"を出現させることは可能だといえる。例えば個人的に、最も幽霊にしか見えない幽霊が出てくる映画だと考えているジャック・クレイトン監督の『回転』(61年)は、現在においてもすこぶるおそろしい。のちに、『回転』からの影響をダイレクトに受けつつ、ロベール・ブレッソンやジョルジュ・クルーゾーを経由する形で、日本では黒沢清が"映画における幽霊"をブラッシュアップしてみせた(とは言え、『リング』の貞子ちゃんは勿論のこと、『女優霊』の爆笑する幽霊も超怖かったし、ビデオ版『呪怨』の顎なし女子高生のヴィジュアルとしてのショックもまた歴然と"映画における幽霊"なのだが、此処では割愛する)。

 

また、映画のあらゆるシステム自体が、被写体を含めた景色の"残像"をフィルムに焼き付けるという意味で、幽霊を描きやすい芸術だともいえる。二度と訪れない過ぎ去った時間が、永遠に成仏せずに閉じ込められる。暴論を言ってしまえば、この世の全ての映画が、動く心霊写真なのかもしれない。

 

一方で、演劇は事象として「肉体が明確にそこに存在している」という時間を観客が共有する点において、それが例え死者であろうとも、「生きている」という感覚が付帯する。だから演劇は、死者=過去を提示できない限りは、本質的には死者を死者として描けないはずだ。その代わりに、幽霊ではなく「心霊」を描くことが容易くできる。こころである。死者に言葉を、肉体を、こころを与えることができる。だから演劇において、死者は「生きている」ことが権利として付与され、そのこころを観客が目撃する権利もまた許されている。


本作には幽霊が登場する。彼女に貞子と名付ける時点で、排気口が提示するリアリティラインの的確さにまず唾を飲むけれど、貞子がOGなのか幽霊なのか、という問答が、信じ難いほどに呆気なく明示されるやり取りだけで、無性に説得力を感じられる。それはユーモアではなく、生者と死者が関係する際の本質だ。"呆気なさ"こそが真実であり、この呆気なさを享受するか拒絶するかで、世界の見え方は大きく変容していく。


死者に言葉をあてがうことこそが、あらゆる芸術のマジックだと信じてやまないけれど、排気口はそれを、深刻ぶった演出に逃げるわけでもなく、呆気なく遂行する。呆気なく貞子はやって来て、呆気なくシフト作成は承諾されて、呆気なく幽霊だと判明して、呆気なく呪いは終了して、呆気なく闇は訪れ、呆気なく死は続き、終わらない。
この呆気なさは、徹頭徹尾に漂いつつ、間接的に"死"そのものを想起させるし、生と死の境界を何の障壁もなしに曖昧に中和させる。青春は、人生は、生は、呆気なく続くし、呆気なく終わる。まるで120分間の演劇のように。この呆気なさに、恐怖し、おののき続けるという判断が、果たして豊かなことだろうか。呆気なさに手を差し伸ばした者だけが、呆気なく闇に足を踏み入れる。しかし、その闇は恐怖だろうか。哀しみだろうか。死なのだろうか。手を握る相手がいる限り、隣に誰かがいる限り、我々は呆気なく、あらゆるものを肯定しながら歩くことが出来るはずなのだ。
すべての人のちっぽけなおそれが、この演劇と共に終わってしまえばいいのにと、心から思った。


演劇のマッピングが白紙状態なので、よしんば、他にもこのような試みを遂行する劇団があるならば恐縮極まりない。しかしながら、前言をほのかに否定する意味で書くが、排気口のユーモア、センチメンタリズム、アカデミック性、リアリティラインの的確さは唯一無二である。白紙の白痴野郎にこそ、ここまでスムースな受容を成功させて、そして甘い多幸感を抱かせてくれた排気口を、無知ながら高く支持したい。本当に大好きな劇団になった。あなた方がおそろしい。このおそれは、僕が胸に抱きかかえている限り、地球の裏側まで僕と共にあるのだろう。だからしばらく、まだしばらく、僕は呪われたままでいい。この手は離さない。だから、離さないでくれ。