20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

排水口の出現、排気口の循環(または、ミナミの方から香水の音色が)【排気口『いそいでおさえる嘔気じゃない』雑感】

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『香水』という曲が孕む危険性について、21世紀の日本人は果てしなく無防備だ。ここで唄われている失恋の痛みと安いノスタルジーには、鬱病の誘因となり得る要素が金太郎飴のように詰め込まれている。というより、そもそもノスタルジーやトラウマは、陰鬱の因子を追尾的に発生させかねない。『香水』の罪深さは、甘っちょろい即席のノスタルジアを、ギター演奏のみでメロウに仕上げつつ、凡庸な表現性の一端も見られない言語感覚で通底させていることに他ならない。つまり、一般層から「消費されやすい」姿をしている。

曰く「"別に"君を求めてないけど」「横に"いられると"思い出す」「その"香水のせいだよ"」である。これらの男性主観は、あたかも自分にはアカウンタビリティが無いことを主張しながら、すべてを相手の所為にすることへ何ら葛藤がない。こんなものはラブソングではない。甘ったれた男ビッチソングだ。

特に症状を悪化させる可能性が高いのが、女ビッチの姫君、もしくは異性に対してセックス・フレンドの関係性にある者、である。彼らにとって、自身がベクトルを向けている側、対峙している側からの「俺だってちゃんと傷付いているんだよ」という告白は、優れた殺傷能力を備えている。そんなことを、明文化されなくては悟ることも出来なくなってしまったのか、混血列島の猿たちは。

加えて、この曲が巷で流行しているJ-POPであるがゆえに、日常のあらゆる瞬間に、その音が鳴らされる可能性は高い。いつ、どこで、誰にとってトリガーになり得るか。この曲が孕む陰鬱とした誘発効果は、地雷のように足元に埋まっている。これはある種の人間にとってのテロリズムだ。

「ドルチェ&ガッバーナ」という歌詞、特に「ガッバーナ」部分の歌唱法の、恐ろしいほどのダサさについては討論されるべきであるが、ここでは控える。

21世紀の我が国は、呪いへの免疫が明らかに低下している。暴論ではあるが、特にJ-POPが乱発する「勇気」「友情」「愛」「恋」「青春」「キミ」「アタシ」「桜」などという凡庸極まりない言語感覚は、呪詛への防衛本能を著しく低下させる。隠蔽化された呪いは、仮の姿を身に纏い、より消費されやすい姿をして、民たちの首元へ刃物を近付けるのだ。

ここに拍車をかけるのは、言うまでもなく、SNSという退行のための遊具だ。インスタントな呪いに弱体化した暁には、「呪われているのに気付かない、知らぬ間に肉体も精神も蝕み、やがて発症した際には手遅れ」という患者が大量発生することだろう。否、瞬きをしている間に、また一人。

 

排気口の菊地穂波が手掛ける著作物には、インスタント性、ポップカルチャーへの敬愛、あるいはヴェイパーウェイヴ的なアンビエントがあるともいえる。流動的なアーバンレトリックと、飛躍するメタフォリカル、多用される固有名詞、がもたらす、美しき不正解のファンタジア。

彼の書く著作には、「手を離すために手を握る」といったようなアティテュードが通底されており、これが巷間言われる「死」の表象化という行為に直結している。

これらの所作が、仮にも菊地穂波自身による予防線だったとしても、氏の無意味なまでの間違い方は、恍惚するほど甘美である。まず美しいし、面白いのだ。言わずもがな、彼はあらかじめ「誤用」を信仰しているし、それは「間違えてしまう」という業の肯定へと帰結している。

再び仮にも、だが、排気口と『香水』の効能を「喪失のためのレクイエム」と規定した場合、菊地穂波の言語感覚と『香水』の言語感覚を見比べてみるとする。つぶさに考える必要もなく、この両者の呪いへのアジテーションは異なり、また圧倒的に差が開いている。『香水』がリフレインする「ドルチェ&ガッバーナ」という語句と歌唱法には、信仰心が絶無だ。それにまず美しくないし、面白くもない。

 

前述した通り、菊池穂波の綴ることば/文章に付加されているアンビエント性とは、同時に無視への否定を含有している。排気口は「無視をしてもいいが、我々は無視をされた者たちを決して無視しない」というドグマによって、先行的に発生されるはずだった「死」を回避させる。繰り返し参照するのは無礼千万だが、『香水』にはこうした回避能力が絶無であり、逆に自滅の直面へと詐欺的に導く。

排気口が履行する一時的な回避の時間は、漏れなく生者全員に付与された「死」という呪いに対するアゲインストに他ならない。

 

『いそいでおさえる嘔気じゃない』は再演2・新作1の三つの短編からなるオムニバス公演だ。これらに共通する真理は「笑っているとあっという間に何かが喪失され、哀しみに暮れているとあっという間に世界は再生される」という排気口のベーシック・マインドだった。

『明るい私たちのりびんぐでっど』ではゾンビ、『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』では風俗、『右往私達左往』では幽霊たち、といった具合で、分かりやすくキャラクターやエレメントが設定されている。この「よるべない住人たち」は、本公演において大きな意味を含んでいる。そのことに関する言及は、本稿最終ブロックにて後述する。

 

本作が「死」よりも、それまでの公演以上に「喪失」を想起させるのは、排気口元劇団員・田んぼ氏の卒業によるものが高い、ということも指摘しておく。排気口にとって、彼を「喪失」した以降の公演は、本作が初である。彼を知る者も知らない者も、本作に漂う異様なまでの喪失感は、容易くキャッチできるはずだと信じている。

喪失を補完するべく、並外れた生命力と意志を明瞭化したのが、残る排気口の面々であった。彼らとの知己の有無を関係なく、彼らの演技への純粋な絶賛を残しておく。

 

佐藤あきらは三作品すべてに出演しているが、筆者は、本公演における彼の俳優としてのバイタリティを高く評価したい。特に、二作目の『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』のヒデキ、この佐藤あきらは素晴らしい。まるで闇金ウシジマくんの世界から這い出たかのような俗悪なおそろしさは、実生活において絶対に関わりたくない/遭遇したくないと恐怖を想像させる。スタイリングも相まって、ちゃんとその場の空気を停止させる人物像を完成させていた。

同時に、決して間違えてしまう人々を否定しない排気口のアティテュードに沿って、そんな彼のキャラクターへのかすかな悲哀も演技に刻印されている。彼の持つ、異様なまでのアンビバレントは、おそろしい人が感じるおそろしさ、おそろしい人が感じる寂しさを色濃く印象付けることに成功しており、キャスティングの妙にうなった。これはきっと、菊地穂波自身が彼に感じるアンビバレントでもあるだろうし、観客の移入とも共鳴して、忘れられないキャラクター像を創造したと言って過言ではない。

 

坂本和という俳優がもたらす最大の補強性は、やはり「良すぎる声」と「良すぎる滑舌」だろう。この良すぎる音の使い手は、前作『怖くなるまで待っていて』では教師を演じていた。筆者は、声質と観客からの信頼度/移入度というものを関連付けて考えてしまうパラノイアであるが、少なくとも、坂本和は前作においては、観客をその声によって安心させていた。一方、本作で彼が演じる二役は、そのどちらもがクレイジーな住人だ。あのナレーター的な声の良さが、ひとたび狂気の側へと移ると、こんなにも気持ちが悪く可笑しいのかと大変興味深かった。

特に『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』におけるタカシは、(これは観劇後に知ったことであるが)まさかのアテ書きではなかったという不条理に爆笑してしまった。あれこそ、坂本和のための狂気ではあるまいか。というのは称賛である。筆者はタカシが包丁を手にしてバブバブと騒ぐ時間以上に、彼が椅子に腰掛けてヒデキと会話する、あの美しい時間が大好きだった。「飛び道具」たる彼が、文字通り道路に飛び出すオチまで含めて完璧である。

 

ウルトラナイスガイ俳優・小野カズマの圧倒的な存在感と演技力には、意を決して脱帽する。今回はアンタが優勝だ。これは満場一致の賞賛だと思われる。この小野カズマはすごい。ではない。やっぱり小野カズマはすごい俳優だ、なのである。観客の信頼と期待を己に集約させながら、その遥か彼方の次元から虚構を身に纏って飛来する。そして小野カズマの演技を目撃している時間、我々は「虚構とは哀しみによって形成されている」ことを知る。可笑しさに笑う際も、救われなさに同情する際も、漏れなく悲哀が付帯している。小野カズマという俳優それ自身が持つスラップスティック性の所以は、悲壮感から切り離せない。

筆者は本作の小野カズマによって、正確に18回ほど爆笑し、4回ほど泣きそうになった。場末のホスト・サブジの宙を舞うような柔軟性と浮遊性。後半、かつての友情と現在の疎遠、それを彼の発声や表情、佇まいだけで魅せる憂愁。自殺したサラリーマン・ヤスの神経症的な肉体の運動は、やがて「生き辛さ」というハラスメントと克明に呼応し、見ているだけで痛々しくなる。歌唱されるJ-POPの切なさではなく、それが過去に鳴っていた時間、そして未来から鳴り響いていることを示すノンリニアな時間感覚の、ささやかな流動性があまりにも切ない。スラッとした長身に、タキシードもスーツも見事に調和するスタイリングの華麗さ。もちろん、ゾンビハンター松崎の荒唐無稽な風貌も含めて。改めて、排気口の小野カズマが大好きになってしまった。

 

中村ボリは(少なくとも千秋楽においては)見事に安定しており、キャスティングの範囲で考えてみても、彼女以外にあの役が出来ただろうかと疑問が残ってしまう。客演である村上奈々美、森吐瀉物との叫びにも似た掛け合いは、実のところ、中村ボリが軸となって律動されている。この、舞台上における主役/端役のリージョンを保有しない「中心的な安定感」は、筆者が彼女の演技を鑑賞する際には、常に表れている。おせっかいの範疇ではあるが、"ろれつ"に関して、彼女自身は悔やむことが多いと以前話していた。ところが、筆者の私見においては、全く気にならなかった。そもそも、正しく聞き取りやすい発音、という"正しさ"を、筆者は演劇に求めてはいない。早口になったり、音が外れたり、ろれつが回らなかったり、そういったリアルタイムな感情の起伏と事故的なパフォーマンスに、滅法弱い。我々は文字ではなく、ことばを聴きに観劇しているのだ。ぐっちゃぐちゃな心情は、ぐっちゃぐちゃに発話してもらっていいし、つぶさに考えて、中村ボリの音楽的な発話の素晴らしさは、より評価されていい。

前作『怖くなるまで待っていて』におけるラスト、中村ボリは笑いながら泣いてみせる。この名演の余韻に完全にヤられた筆者は、間髪入れずにボリフォロワーになった。彼女は呑みの席で「笑いながら泣くという芝居は誰にでも出来る」とボリボリ言っていた。しかし、それは誤りだ。あの芝居は中村ボリにしかできない。演技の技術力や正解なんてどうでもいい。中村ボリは、中村ボリが演じているものが正解なのだ。本当にいい俳優だと思う。

 

さて、筆者は本公演のための客演を募るワークショップ兼オーディションにオブザーバーとして参加した。単にワークショップを見学した部外者に変わりはないが、そのことから少なくとも、一般的な観客よりも「客演」への期待と移入度が高かったことを告白する。筆者は彼らのことをあらかじめ認識してしまったがゆえに、一体本番では如何なるメタモルフォーゼが繰り広げられるのか、十二分に待望していた。

そういった欲求によって、ここからは客演の演技に着目しつつ、その雑感を書き残しておくこととする。

 

結論、客演参加者を「客演」と総体的に一括りにすることが甚だ失礼なのを承知で、本公演の「客演」は「排気口」への順応に過誤があったと指摘する。

 

はじめに、これは批判でも揶揄でもない。というエクスキューズ自体が、筆者のための予防線でもない。各論としては、客演で参加した俳優たちは各々が有意義に職務を全うしている。したがって、ここから述べることは総論としての過誤について、である。また、排気口それ自体への順応というタームが、本来の意味で必要であるかどうか、その点も論旨展開に沿って考えていきたい。

 

端的に言って、「排気口」と「客演」の最たる相違点は「台詞の発声/発音」である。このことは、音感の優位性を主張するものではないが、排気口において、発声/発音される「音」の抑制や起伏は必要不可欠な特性であると筆者は考える。

たとえば、はっきりと、大声で叫びすぎている発声法は、俳優個人のアドレナリンや演技解釈を抜きにして、あからさまに興味の持続を欠落させる。なぜか。観客に「それが演劇である」というアクチュアルを自覚させるような、「演劇の芝居」の範疇からはみ出ていなかったからだ。そのような発声法には「伝えたい」という俳優の自意識はあっても、キャラクターが「話している」というリアリティラインは著しく阻害される。なぜなら、極論、キャラクターは第四の壁に向かって話しているのではない。キャラクターは、また別のキャラクターに向けて声を届けようとしているのだ。観客に届ける必要は、作劇上は全くない。台詞の一文字一文字が、あるいは言葉の頭文字が「太文字化」しているこの現象は、カッコ書きの「演劇」という予定調和から一歩もはみ出ないのである。

さりとて、この「観客」というやつらへの対応は、一概には定言できない。

 

この点に関して追尾すれば、この「観客に向けられた過剰な発声」の要因として、観客の観劇リテラシー低下、あるいは能動性の失念も挙げておく。観客が自ら声を「聴きに行く」姿勢は崩壊しつつあり、実は各々がカメラ・アイを持った主観であるにも関わらず、観客は安心してサービスを提供「される」側でいる。この受動性こそが諸悪の根源だ、とは言い過ぎかもしれないが、表現を待つのではなく自ら獲得へと向かうこと、内部で完結するのではなく外部へと発信を続けること。それこそが文化の循環なのではないだろうか。演劇は貴様を癒すためのカスタマーサービスではない。

筆者は外野の人間であるがゆえに、こうして生意気な提言をしつつも、小劇場界隈における観客層のインポテンツ加減には呆れ果てている。内輪の褒め合いも仲良しごっこも、自意識過剰なだけの観劇おじさんも観劇おばさんも、即席的なエセ批評も、というかエセ批評さえ無い現状を把握して、心から失望した。特に、観劇おじさん/おばさんへの緩やかな差別心を抱いているため(個別への差別心ではなく、界隈における機能としての差別心)、頼むから年寄りは黙っててくれよ、若者のアソビをいちいち注意すんなファック。とは、あまりにも言い過ぎだが、もし意見や感想があるならば、作り手を向上させるための「おためごかし」のない批評を待ち望んでいる。テメェはそんなに威張れるほどちゃんと観劇できているのか、と、問われれば、貴様よりはマシだと思っている。悔しかったら俺を殺す勢いで何か書いてみろ。そしてその感想を、作り手たちへと間違いなく配達するのだ。

 

と、意図に反して呪詛が蔓延してしまった。新型ファッキンコロナウイルスじゃあるまいし。そしてこのような、醜く不快で下品で頭が悪く、しかもその頭の悪さを堂々と誇示しうる破廉恥さ加減と時代錯誤を露呈する自称・演劇ファンの病は、筆者が片足を突っ込む自主映画界隈においても同様に感染拡大している。彼らにコロリと人が騙されてしまうのも、日本が徹底して平和な証拠だろう。論旨を巻き戻す。

 

「客演」に対して、排気口の面々の発声法とは、最も簡潔に述べれば「唄うように」発音されている。このことは、つぶさに考えて最的確な技法だ。オペレッタやデュエットに近い感覚で、相手のメロディ、コードに順応しながらも、自らの音色を印象深く奏でていく。ひとえに相手が存在する場合、その相手のリアクションに寄り添いながら、相手の音とチューニングを合わせて芝居を展開させている。排気口所属の俳優は、これらの試みに漏れなく成功している。

「はみ出る」ということへの恐れや不安が、全く感じられなかった排気口の面々に対して、「演劇とはこういうものである」という正解が羅列されたのが「客演」の演技だったように感じられた。正解には間違いが無いが、定められた地点から飛躍する躍動感と驚嘆も無い。頭では分かる芝居と、心で分かってしまう芝居というものは、絶対的に違っている。

たとえば初見の観客が、排気口所属の俳優は一体誰なのか、と、判明できないほどの溶け込みについて、さらなる研磨が必要だったのではないだろうか。菊地穂波の書いた物語は、一体どのように読み、どのように発声するべきだったのか。読解力はそのまま、発声法へと連結する。仮に、台本の〆切が遅れてしまっていたとしても、時間は言い訳できないほどに確保されていたはずなのだ。

 

筆者の私見になるが、このことを指摘した人物は、恐らくヴァージン砧主宰の盟友・香椎響子しかいない。彼女の感想と指摘は、筆者と同様の類であり、それはやはり「発音/発声」について批判的であった。計らずも、筆者と彼女は共にワークショップを見学した者同士である。ゆえに、この違和感は我々特有の病理なのか定かではないが、誰かに教示されたような教科書通りの舞台芝居を待ち望んでいたつもりは断じてない。

すなわち、キャストアンサンブルとは、そういった個々の俳優による抑制の技量によって変容していくのだ。

 

このことに関する責任言及は、あらかじめ作・演である菊地穂波本人に向けてのみ発揮される。良い意味で放任的な信頼関係下における演出の術と、菊地穂波語を読解するための台本を読む力、そして解釈を体現する個々のアプローチ、その抑制とコントロールこそが、本公演に付加されるべきメソッドであったと筆者は推論する。

また、これは演出担当の菊地穂波のアカウンタビリティというよりも、5月公演だった予定が延期となった未曾有の状況など、不可抗力によって「過剰接待」が完成してしまった節も推測できる。

筆者が「客演」と邂逅を果たしたのは、3月後半。パンデミック直前のグッドタイミングであった。それから約5ヶ月間。「客演」にとって、本当に長い長い期間だったと思う。

 

ところが、筆者は彼らが排気口のアティテュードに寄り添いながらも、決して同化しなかったという事実に関して、言葉そのものの意味で評価している。

ここに於ける、年齢問わずの若々しさは誠にダイナミズムであるし、総論としての実存よりも各論としての存在表明へと推進する個々の俳優陣の熱量は、気迫という意味においては絶対値を凌駕している。こうした、正しさへと向かいながらも燃えたぎって猛進している状態の俳優を、シニシズムで切り棄てることに、筆者は価値を見出さない。事実、客演の俳優陣が運動している時間、彼らを常に視野におさめようと必死に追いかけたし、一瞬も彼らの芝居に飽きることがなかった。

筆者は「客演」の演技巧者としての見誤りを指摘したいのでない。彼らが「排気口」と同化しなかったことに関するオリジナルな異物感は、ゾンビ・風俗・幽霊といった、日常生活からなんとなく切り離された存在たちを想起させる。まさに、統合することへのよるべなさを感じて右往左往する人々を「無視しない/無視させない」というアティテュードは、総体的な意味で排気口の精神を強く感じさせる。もしも、彼らがいとも容易くアジャストしていたとするならば、似合っていたとするならば、各短編の魅力は半減していたと予想する。

然るに、「排気口であって排気口でない者」が多数出演している本公演は、「人間であって人間でない者」へのロマンティックな眼差しが徹底されたナラティブとの親和性によって、かなり高い水準で帰結できている(ちなみに、風俗に勤しむ人々を非人間扱いしているのではなく、少なくとも、作品内では全員が"人間"を諦めかけている点を指している)。筆者はこの効能について、菊池穂波による明瞭なセンチメンタリズムよりも、排気口・劇団員と客演との「あまりにも本公演にふさわしかった」アンサンブルによる作用が大きかったと考える。

したがって、本公演における「客演」は、彼ら以外にはあり得ない。ということを、私は春から知っていた。我ながらラッキーを掴んだぜ。

 

彼らは排気口ではなく「排水口」であった、という痛烈な皮肉と賛辞をもってして本稿の句点を打とうと思う。ここまで記してきたあらゆる言葉は、再び世界を循環させるために必要な指摘だったと信じて。

 

 

 

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「わたし、あなたのそういうカタイところは矯正したいと思っています」

「ミ、ミナミちゃん?!?!」

「お久しぶりです。浜辺美波です」

「うっわあー、お、お久しゅう……排気口のワークショップ裏口入学のためのテキスト以来の登場じゃないかー……アレがちょっと評判が良かったからって、こうしてまた君が出現することによって、そのお、メタ視点で調子に乗ってるように思われたり、し、しないかなあーなんてね。ハハ、アハハハ」

「何を言ってるんですか。排気口の新作公演も再演が含まれていたのでしょう? わたしたちがリユニオンしてはならない理由はどこにもないじゃない」

「そだね……」

「散々偉そうに書いておいて、急にわたしが声を掛けたら滝のような冷や汗。どうしたんですか? 後ろめたいことでもありましたか? ねえ」

「いや、これはその猛暑によるね、体温並みの夏の暑さによるね、新陳代謝の結果としての汗なのよさ💦」

「排気口の新作公演、さぞかし楽しかったみたいですね」

「う、うん……」

「一緒に行くって、約束、したよね」

「いやあ、そのお……」

「なんで」

「べ、別の人からも誘われてしまってね、仕方なかったんだよ」

「嘘つき。誘ったのはあなたでしょ」

「違うんだよ。ミナミちゃん」

「……恋人が出来たのね」

「ミナミ……」

「いいの。ほんとにね。わたしの幸せはあなたの幸せだもの。それに別に、わたしとあなたってそういう関係でもなかったし。だからいいんだ。愛する人と出逢えたのなら。それって素晴らしいことだよ……でもね。わたしね……」

「ミナミやめてくれ、君のジェラスが真っ黒いオーラとなって表象化されている。『金色のガッシュ』にそんなキャラがいたよな。そうだブラゴだ!宿敵ゾフィーを恫喝する時のブラゴの肉体から出ていたドス黒いオーラそのものだ!ミナミちゃんブラゴになっちゃってるよ!って、ガッシュってミナミちゃんは直撃世代ではない、のかな??」

「阿佐ヶ谷は恋の街なんだって、だからミナミと行きたいんだって。あなたはわたしに話してくれたのに。なのに」

「阿佐ヶ谷が恋の街と言ったのは菊地穂波だよ!」

「どうせあなたも、あの甘えん坊のメガネに同調しているのでしょ」

「メガネって言うなよ!甘えん坊の部分にはエクスキューズしないけども!」

「じゃあなんで恋の街なんて言い方したのよ!わたしに対して!恋人にじゃなくて!」

「それは……」

「……恋人にも言ったんだね」

「ごめん」

「女の子ってね、そういうのだけで恋の仕組みが分かっちゃうんだよ。わたしも見たかったなあ。『明るい私たちのりびんぐでっど』みたいに、一緒に打ち上げ花火を。『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』みたいに、一緒に旅行だって行きたかった。ちなみにわたしはじゃらん派。それはそうと『右往私達左往』はお盆前にぴったりな劇だったよね……」

「あれ?もしかしてミナミちゃん、観たの?」

「はい。ひとりでね」

「ごめんって……でもいつ観たの?」

「今」

「今ってキミ、ど、どういうことよ」

「わたし、5次元的情報統合思念体だから、過去も未来も現在も、あらゆる場所へ原子レベルで行き来自由なの」

「キミそんな超人的設定があったの?!?!」

「今は暗殺されたケネディの飛び散った脳味噌を見ながら、火星で火星人と麻雀をしながら、排気口短編公演を観ながら、あなたと話しているのよ」

「なに?!神?!」

「あなた、客演に対して排水口だとかくだらないこと言っていたけど、全員とても素晴らしかったじゃない。排気口への順応? あなたは前からずっとそう!口を開けば世界の中心が排気口みたいな言い方ばっかり!ばっかじゃないの?! 長谷川まるさんのポポちゃんの絶対的な存在感と臨場感!支配力!あの当たり役っぷり!みんな大好きポポちゃん!は、彼女以外考えられないよ!るい乃あゆさんの真面目な雰囲気を逆手に取った逆行する狂気!文学フェティッシュ!るい乃さん!坂本さんから離れて!危ない!亀井理沙さんは前作のププ井をグレードアップさせたような苛立ちの乱反射!怒れば怒るほど輝く!からの港で魅せるかすかな希望の乱反射!四家祐志さんの店長のチョロQ!土下座!ああいう頼りないけど憎めない先輩いた!バイト先に!東雲しのさんの「いっけー!」を忘れられないわたしたちの鼓膜!衣裳も超かわいい!そして時折見せる哀しみの表情が抜群で!泣かないでしのちゃん!森吐瀉物さんのヨチヨチ姿!顔!声!からだ!なんだあの生き物ぜんぶずっと面白い!ボリさんに怒られるの世界一似合ってる!村上奈々子さん!奈々子ちゃん天使!血まみれと頭の三角布かわいい!豊かな表情の中に見え隠れする必死の訴え振り絞る声!ああああああああ!!最高ッ!!こうして今思い出してみても全員ほんっっとに良かった!!!アンタ!!!それでもまーだ排水口とかヌかしやがるのかってんだよアァア!!!?」

「どどど怒涛の同感だよ!ミナミちゃん怒りによって活動弁士よりも饒舌になってるよ!」

「だいたい、排気口がそんなに偉いですか」

「俺が排気口にこだわり過ぎたんだ」

「こだわり過ぎたんじゃなくて、愛し過ぎたんでしょ」

「……」

「男の人って、一度に何人もの人を愛せるのね。女もそうだったらいいのに」

「で、でも良かったね、公演観れてさ。ミナミちゃんはどの短編が好きだった?」

「わたしは"あなたと一緒に"観たかったんだよお!!!」

「……悪かったよ」

愛する人と聴く音は、すべてがラブソングになるんだよ」

「演劇の音も、かい?」

「演劇の音もよ。この世界のあらゆる音は、ああ、自分は今、恋をしているんだなって気付くために鳴っているんだから

「ミナミ……本当にごめん」

「もう謝らないでよ。あなたを責めたいわけじゃない。でも、あなたは自分で自分を欺いている。本当は、ただ純粋に"面白かった"と言いたいはずなのに。他人のせいにして、信じられる何かを向上させるために、その口から呪詛を吐くことをやめられないでいる。まるで、夜にすべきことを昼にしているみたいに

「俺は……俺は呪われているんだ。演劇について"書く"という行為の、残酷さと愚かさに」

「人間は誰しも人に傷付けられて、それで自分を欺いて生きている。それは仕方がないの。お互い様だから。でも、自分を欺いていることを教えてくれるのは自分じゃない。自分に掛かっている呪いがとけると、今度はそれで人の呪いをとくことができるの。ねえ、あなた。夜にすべきことは、夜にすべきなのよ」

「……キミの恋は、夜にすべきことかい」

「夜にすべきことだわ。そしてその夜が来なくたっていいの。夜を待つことは得意だから」

「俺は恋人を愛している。でも、キミの想いはよく分かった。キミはこんな俺のことを、それでも好きでいるのかい?」

「あなたが、あなた自身を欺くことをやめられるまではね。わたしは恋人さんを憎んだりしないわ。だって、あなたの幸せだけを願っているんだから」

「じゃあ……やめたよ」

「うん……偉いよ」

「あのさ」

「ん?」

「もしいつか、もしかすると来年になるかもしれないけれど、それでも、今度また排気口が公演をやるとしたら、そのお、ミナミ、一緒に……」

「心から愛してる人と行ってきて。約束だよ。それにわたし、もう観たんだよ、次の公演」

「え。あ、そうか。未来にも同時存在しているのか。改めてすげえや」

「すごいことになるよ。楽しみのために内緒にしておくけど。本当に素敵な舞台になるの」

「そっかあ、ちゃんとやるんだね。排気口。良かった。楽しみにしておくよ」

「……ねえ」

「ん?」

「最後に夏の思い出、作ってよ?」

「なんだい、突然。花火大会も祭りも無いけれど……」

「ほら、これ着けて」

「え。イヤホン半分こ?」

「しよう。ほーら」

「ああ。ありがとう」

「えっと……これこれ!一緒に聴きたかったんだ。再生っと」

「……これは」

「わたし、この曲好き。特に、♪ドルチェ&ガッバーナの部分!」

「……」

「どんなに耳をつんざくような嫌いな音楽も、愛する人と聴けば上質なラブソングになるのよ」

「……ほんとだ。いい曲だなあ」

「ありがとう。ようやく、夏がはじまったよ」

「やっぱり俺のおかげ?」

「ばか。『香水』のせいだよ」

 

【MULTIVERSE】