20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

無教訓・意味なし演劇の華麗なる意味を求めて三千里、「意味があること」への高度な反論としての『地蔵中毒の人力ネットフリックス vol.1~紅茶の美味しい粘液直飲み専門店』雑感(あるいは、ヴェルタースオリジナルおじさん補完計画)

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地蔵中毒について書くべきことは何一つない。

 
ぼくが初めて地蔵中毒という異教徒との接近を果たし、驚嘆の旨をSNSに投稿するなり「ブログに感想書いてください!」という熱烈なラブコールを、一度ではなく幾度となく頂戴した。そういった声そのものは有難い。映画ファンという異教徒である自分が、演劇という聖域への侵入を許されたような気さえする。しかし、重ねて結論は、地蔵中毒について書くべきことは何一つない。
 
なぜなら、地蔵中毒について「書く」という行為それ自体が、彼らへの失敬と敗北を意味するからだ。よしんば、地蔵中毒の公演を観劇した際に、あまりにも果てしないナンセンスとアイロニーの完璧な設計に思わず泣けてしまったぼくは、「これは間違いなく天才が作った演劇だ」と唇を噛み締めながらダラダラと流血していたわけだけれど、その類の賛辞が、彼らに「似合わない/ふさわしくない」という実感は、芸術を愛する者として十二分に理解しているつもりだ。「地蔵中毒とは天才である」という絶賛の言葉は、まるで無理やり着用させられた七五三の衣装のように、よっぽど「着させられている感」がある。そういった絵に描いたようなあからさまに健全な言葉よりも、「頭おかしい」「狂ってる」「どーかしている」とゲンナリするくらいの反応が、より良く彼らを活気付けることも心得ている。
 
加えて、地蔵中毒が創作するユーモアの根底には、人間や虚構そのものへの「おぞましさ」や「かなしみ」に寄り添う美しさが絶対的に存在している。人間や虚構を、どうしようもなく「あきらめながら」、仕方なく「信じている」。作・演の大谷さんが綴る台詞や物語には、必ずこの磁場が出現している。この磁力に引き寄せられる哀しき獣は、決してぼくだけではないはずだ。そういった磁場の発見を、これ見よがしに報告する行為自体が、作者のしなやかな「粋」に反する醜さであると認識している。ピエロに向かって「キミは心では泣いている」と指摘することに、粋もへったくれもない。指摘した側が容易く敗北する、それだけのことだ。
 
ぼくは地蔵中毒に関して、もはやファナティックな観客のひとりへと成り下がってしまった自負がある。だから、愛すべき彼らへの無礼な真似はしたくないし、決して彼らへの負けを認めたくない。
 
それでも、こうしてキーパンチしながら駄文を記そうと試みたのはなぜか。ぼく自身が、多少の失敬を承知で彼らのことを言語化しなくてはならないと欲求し得たこと、そして、彼らにならば大喜びで敗北を提示して白旗を振りながら捕虜と化すことを望む、からである。結局、書くべきことはオール・ナッシングと記しつつ、この劇団に対する感情を吐露せずにはいられない、という鬱屈したオブセッションは、地蔵中毒を愛する異教徒、並びに我々映画ファンにも理解が簡単な事柄だと思う。人間には、野暮と承知しつつも言葉にせずにはいられない瞬間がある。筆はそのためにある。
 
コロナ禍がもたらした不幸中の幸いは、地蔵中毒の過去公演がストリーミング配信されたという事実以外、特筆すべきことは見当たらない。何よりも、現実は地蔵中毒の作品よりも「遥かにどうかしていて狂っていた」ということは、間違いなく記憶するべき事象である。この配信は赤字補填を目的として、人力ネットフリックスというふざけたネーミングを銘打たれていた(実際、赤字は免れたようで幸い極まりない)。
 
そしてそれは、演劇という非・映像表現を映像化することへの健康的なアゲインストと軽やかなアジャストをもってして、不肖ぼくらのような映画ファンにこそ与えられた最高のオモチャだった。ぼくはそれまで、地蔵中毒の公演を目にしたことは一瞬もない。ぼくが演劇について何かを書くときに繰り返し注釈してしまうことだけれど、映画ファンの端くれであるぼくは、演劇に関するマッピングがほとんど白紙に近い。その上で、異教徒たる演劇への興味を持続させながら、出逢うべき作品や団体との邂逅を遂行している。地蔵中毒の存在は当然のように認知していた。延期となった公演も、もちろん足を運ぶつもりだった。何より、「キミはたぶん地蔵中毒が好きだよ」と、演劇界隈の友人たちから何度も薦められてきた。今回、そうした身分である自分が、地蔵中毒の過去公演を観劇できる機会に巡り合えたのは、造物主のお導きだと思わずにはいられなかった。結果、いくつかの過去公演を通過したぼくは、当たり前のようにこの劇団のファンになっていた。
 
 
 
 
−ラウンジ・タイム#1−
 
「という具合で書き進めているのだけれど、キミ、率直にどう思うかね?」
「いやさ、エッセイストが地蔵中毒とタクシーの運転手との会話を書き始めたら失職の前触れだってよく言うじゃありませんか。こんなに世の中が大変なんですよ? 他に書くべきことはいくらだってあります。そこで地蔵中毒についてって……ちょっと、ねえ……」
「キミみたいな偏見まみれのクソ溜めゴミクズファックオフ野郎が、彼らの絶対的な価値の獲得を妨げるのだ。いいかね。地蔵中毒こそが、真の、最も享受されるべき芸術表現だよ。彼らの天才的な術を、キミもその目で見たじゃないか。ええ?」
「まあ、観ましたけど、観た上でですね……」
「そんな審美眼の持ち主だからパーソナルコンピューターと空気清浄機を間違えて冷凍庫に入れて凍らせてしまうんだ。恥を知ってリア・ディゾンが今どこで何やってるのか教えたまえ!」
「そ、それは知らない……誰も知らない……」
「『誰も知らない』の監督って野田秀樹だっけ?」
「そんなわけないじゃないですか。『学校の怪談3』で人体模型やってた人でしょあの人。確か監督はリュック・ベッソンでしたよ」
「そうか、ベッソンか。キミは亀頭のような小指をしながらも、大変に物知りだな。そうだ、媚薬の生成方法は知っているかね?」
「え、媚薬ですか。一体何に使うんですか」
「キミとのアナルセックスだよ。最近は全然求めてくれないじゃないか。さびしいじゃないか。わびしいじゃないか」
「はあ……流石に媚薬の作り方までは僕も存じ上げてませんで……」
「キミはマクドナルドのキャラクターの泥棒みたいな格好をしたヤツみたいだな」
「紫色のナスみたいなヤツも不気味極まりなかったですね」
「得体が知れない……誰も知らない……」
「僕、 マクドナルドのキャラクターの泥棒みたいな格好をしたヤツと呼ばれるのは自宅に『パルプ・フィクション』と『トレインスポッティング』のポスターを貼っている男よりも屈辱なので、親戚の叔父の従兄弟の妹の彼氏のセフレの通っている明光義塾でバイトしているどエロいチャンネーに媚薬の作り方を聞いてきます!」
「塾講師でどエロいのなら絶対に知っているはずだ。我々のためのミッションだぞ。ゆけゆけ!いっちまえ!」
「すたこらさっさ!」
 
− (暗転)−
 
 
 
他意なく告白してしまうけれど、ぼくは地蔵中毒に対する偏見と誤解を抱いていた。なんとなく、意味もないことを意味もなくやっている、とてもアンダーグラウンドな集団だと勝手に推測していた(ちなみに、同ジャンルであると定義するつもりは皆無だけれど、ゴキブリコンビナートに対しても類似した感覚があったことは認めておきたい)。そういった表現がもたらす一種の虚脱感のようなものを、今の自分には受容できるか自信がなかった。こういった感覚は、演劇の門外漢である自分にとっては不思議なものではない、ということをご理解いただきたい。
 
ところが、そんな予感は邂逅を果たした途端に砕け散った。偏見も誤解も容易に撤回できたし、無知な自分を心から恥じた。地蔵中毒が構築するナンセンス、ユーモア、マジックリアリズム、シュルレリスム、デペイズマンは、あらゆる意味で才覚に富んでいた。経験したことのない「くだらなさ」と「でたらめさ」に襲われた。この「くだらなさ」と「でたらめさ」のセンスは、言葉そのものの意味で常軌を逸している。
 
ぼくは「くだらなさ」や「でたらめさ」のファンダメンタリストである。芸術、もとい演劇や映画は「くだらなくて」「でたらめな」ものであってほしい。「くだらなさ」や「でたらめさ」が無い芸術を蔓延させてはならないと思っている。くだらないことはくだらないんだ、でもそれはすごく高度なことなんだ、と、ぼくらはバランスを保つことよりも、アンバランスな歪さに向かっていく必要があると考えている。完璧なんて求めてはいけない。くだらなさやでたらめさをあらかじめに回避しては、芸術はつまらなくなるに決まっている。地蔵中毒には、それらへの崇高なリスペクトとほとばしる愛が、ぼくなりに明確に感じられた。
 
あらゆる国のあらゆる作家が、同時代的な風俗に知らぬ間におもねってしまっている。だから、不気味さが芸術から失われてしまっているように感じられる。優れた芸術は、影がないくらいに明るくて、その透明さがかえって気味悪かったものだ。あの透明性こそ、今の日本になくてはならない。何処の国にもおさまりがつかない、国籍不明の不気味さが、絶対に必要なのだ。そして、地蔵中毒こそが、ぼくが欲求していた「影がないくらいに明るくて気味の悪い透明」、そのものだった。
 
 
 
−ラウンジ・タイム#2−
 
「これを飲むんです。ヤル前に。そうすると、アソコであろうがアヌスであろうが、すぐにじゅんわりとしてくるんです。透明で、ダイエットマウンテンデューの味がする液体が出ます。アソコやアヌスのびらびらを通って。びらびらを通った、じゅんわりした液体が、カラダの奥底から滲み出てきます」
「男のアヌスにもびらびらはあるのかい」
「あるに決まってるじゃない。あなた自分のカラダのことを何も知らないのね」
「ところで、相手は炭酸飲料が飲めないんだ。だからダイエットマウンテンデューと同じ味というのは、少しばかり心配だな」
「烏龍茶とヤクルトを1:1の割合で混ぜたことはありますか」
「いや」
「もちろん、シェイクした後にステアするのを忘れてはいけません」
「ないよ、そんな飲み方をしたこと」
コーヒーフレッシュを1滴垂らすと、神秘なんです。びらびらを通ったじゅんわりした液体と同じ味になります」
「そうなのか。想像できないな」
「あなた、コーヒーフレッシュと精液をメタフォリカルに連結させて、今、勃起していますね」
「している。しかし、君と話し始めた時から勃起はしているんだ」
「煙草は吸いますか?」
「ああ」
「喫煙者の精液が苦くなるって、あの迷信はちゃんとウソですよ」
「これは徳を得た。ユリイカ。ならば僕の精液を飲んでくれるかい」
「わたしは精液の味が苦手です」
「食わず嫌い王で見たよ。実食の時、君は我慢できずにタカさんの隣でザーメンをドロドロと吐き出してしまっていた」
「トラウマは、発話してしまうとその根深さを増します。もしくは、あの瞬間に克服したのかもしれません。みなさんのおかげでした
「さあ、もういいだろ。僕のペニスを舐めてくれ」
「ペニスを舐める前に、一度ケンタッキーフライドチキンの骨を舐めないと、わたし動脈が破裂してしまうの」
「なんてこった。間違えてシェーキーズのフライドチキンを買ってしまったよ。なんだかクソ不味いと思っていたんだよ」
「では代わりの方法があるわ。ハイネケンの瓶の中に、日清カップヌードルの圧縮合成肉を4粒入れてシェイクして。それでうがいが出来れば、なんとかあなたのペニスを舐められるはず。さあ。早く。急いで」
「わかった………………ああ。瓶を振ったら溢れてしまった」
「ペニスを見て」
「あれ? いつのまに射精している」
「これがファムファタールのテクニックよ」
「こりゃあ、参ったなあ」
 
− (暗転)− 
 
 
 
ぼくが初めて観劇した公演は『つちふまず返却観音』だった。結論から言えば、この作品は自分にとって、演劇作品のオールタイムベストに入る。と、宣言するほどの観劇数を持ち合わせていないものの、自身が念願する「くだらなさ」や「でたらめさ」が、あまりにも素晴らしい純度と技術によって構築されていながら、同時に、あまりにも映画的な感覚に満ちている作品だった。
 
この作品からは、ぼくが敬愛するあらゆるレファレンスを感じ取ることができた。ルイス・ブニュエル、サミュエル・ベケット筒井康隆フェデリコ・フェリーニアレハンドロ・ホドロフスキーガブリエル・ガルシア=マルケスジャン=リュック・ゴダールトマス・ピンチョンカート・ヴォネガット高橋源一郎チャールズ・ブコウスキーモンティ・パイソンなど。作品から漂うそれらの香りに、反射的に嗅覚が反応していた。しかも、それらの「くだらなさ」や「でたらめさ」の設計が、的確な配置によって強固さを保っていた。
 
客演として参加していた日本のラジオ・屋代さんがアフタートークにて仰っていた通り、本作は映像作品としても強固だった。それは、「映画」に最も近いかたちで「活劇」を披露できていたし、とめどないスラップスティック性が見事なまでに俳優陣のアクションと結実していたからに他ならない。ただ饅頭を食べるだけの、その光景を延々と提示し続ける時間には、まるでタルコフスキーアンゲロプロスの神聖な長回しシーンを目撃しているかのような奇跡が起きていた。恥も外聞もなく断言してしまうが、こんな作品、馬鹿には絶対に作れない。天才が作ったとしか思えない。IQ(もしくは運)がめちゃくちゃ高い人間にしか、作ることができない。
 
この感覚は、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』二部作を鑑賞したときと酷似している。一般的に(つまりパンピーの視野において)、『キル・ビル』はタランティーノの好きなものを詰め込んだひっちゃかめっちゃかで奇抜な映画だという評が多く確認できる。肉ばかりで骨がない、といった具合に。さりとて、少しでも映画と接見を果たしてきた人間ならば、あの映画の計算高い完璧なまでの構築力と、ポスト・モダン最終結論と呼べるまでの論旨展開の見事さに、天才が作ったとしか思えないという感覚が残るはずだ。実際、タランティーノのIQは160ある。大谷さんのIQは、一体いくらあるのだろうか。かくして、ぼくは真っ直ぐに「天才」と絶賛を示すことから逃れられない。
 
 
 
 
 
−ラウンジ・タイム#3−
 
※諸事情により、この会話は公安警察とFC2動画運営によって削除されました。
代わりに、筆者の独断と偏見による「地蔵中毒を感じさせる映画作品」をセレクトしましたので、
読者の皆さまにおかれましては、ご理解の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
 


Gremlins 2: The New Batch (1990) Trailer


Mars Attacks [1996] Main Titles Blu-Ray


Federico Fellini - 8 1/2 (New Trailer) - In UK cinemas 1 May 2015 | BFI Release


Le Fantôme de la liberté luis bunuel à la table


Pink Flamingos, live homicide


どですかでん(プレビュー)


The Holy Mountain - Official Trailer | ABKCO Films


2000 Maniacs! (1964) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]


Week-End / Week-end (1967) - Trailer French


Kantoku Banzai (JAPAN 2007) - Trailer


Faster, Pussycat! Kill! Kill! (1965) Trailer


'Monty Python and the Holy Grail' 40th Anniversary Official Trailer


plan 9 from outer space (trailer)


The Dinner Game (Le Diner de Cons) - Film Trailer With Subtitles


The Kentucky Fried Movie (1997) Official Trailer


映画「発狂する唇」劇場予告


Bloodsucking Freaks (aka The Incredible Torture Show) (1976, USA) Trailer


Climax | Official Trailer HD | A24

 
− (暗転)− 
 
 
 
たとえば、演劇作品や劇団それ自体について書くときに、俳優(彼らのことは"役者"ではなく、敢えて前述の通り"俳優"と呼称する)の魅力について綴ってしまうということは、ぼくにとっては内輪的な閉塞感と界隈における戯言のような機能を備えているように感じられる。しかしながら、地蔵中毒の俳優陣は、本当に、本当に素晴らしい。ひとり残らず、漏れなく魅力的な面々が、縦横無尽にアクションを起こしていく様は、誠に「演劇」を「観劇」しているという躍動感に包まれる。こういった瞬間に遭遇した際に、彼らのパーソナリティは宙吊りとなって、(役名は実際の固有名がほとんどにも関わらず)作品内のキャラクターとしての存在感・立体感という圧が、客席へと難無く奇襲する。俳優がキャラクターを演じているという次元ではなく、その場に「虚構」を身にまとった人間が生きているという感覚が場内を支配し、その呼吸音がぼくらに笑いと、失笑と、おそろしさとかなしみを付与していく。ぐちゃぐちゃの人々を見つめながら、次第に観客の心もぐちゃぐちゃにかき乱されていく。その高揚感。多幸感。は、何ものにも代え難い地蔵中毒のオリジナルな才気に他ならない。ぼくらが地蔵中毒ジャンキーへと変貌を遂げることに成功するのは、作・演の大谷さんが売人だとするならば、素晴らしい俳優陣は副作用バチボコな薬であり、並外れに優れた毒のようだからだ。
 
キャストアンサンブルの秀逸さについて、印象深かった事柄を個人の裁量で書き残しておく。
 
徹頭徹尾、ぼくはかませけんたさん、関口オーディンまさおさん、立川がじらさんが何かを発声するたびに、可笑しくてたまらない気持ちになる。もちろん、これは揶揄ではない。三者が備えている「喜劇俳優」としてのポテンシャルの高さは、老若男女共通の「おかしさ」の境地に達していると思う。人を笑わすことへの、気品と技術と愛が感じられる芝居だ。そして、「おかしさ」と「おそろしさ」が表裏一体であるが如く、実はこの三者は恐ろしくもある。そのアクセントが素晴らしい。思えば、かませさんは(これは後述する小野カズマさんが指摘していたことだけれど)時折『ワールド・イズ・マイン』のモンちゃんを彷彿とさせる鋭い眼差しを覗かせるし、関口さんは超絶に人が良さそうな印象とは真逆のベクトルで狂気のペルソナが大声を張り上げるし、がじらさんのあの口調と声色とニヤケ顔がもたらすペテン感には静かな不気味さが垣間見られる。ぼくは、ユーモアの奥に闇を意識させるような芝居が好きだ。闇に潜みながら、光を求めて右往左往する狂人には、それだけのエネルギーとダイナミズムがある。これは暴論だけれど、おもしろい役を演じられる俳優は、おそろしい役を演じることも絶対にできるはずだ。ふつつかながら、この御三方が悪人を演じ切った暁には、御三方とそのキャスティング担当者に、精一杯の祝杯を挙げさせていただきたい。
 
声という側面においても、地蔵中毒の俳優陣は絶妙に職務を全うしている。ぼくは演劇を観劇する際、個人的に最も着目する点は「声」にある。俳優がどのような「音」を出すのか、演出家はその「音」をどのように「発声」させているのか。ライブ会場で生演奏を聴くかのように、視覚と共に聴覚を研ぎ澄まさせる。振り返れば、元々演劇なんて全く観劇したことが無かったぼくが惹かれていった劇団は、排気口、肉汁サイドストーリー、盛夏火、ヴァージン砧、ゴキブリコンビナートといった、どれも発声的調和とコントロールが完遂されていたものばかりだった。映画では「画」に惹かれるけれど、演劇では「音」を摂取したいと願っている。そしてまたもや当たりくじを引いたような趣きに浸りながら、地蔵中毒が作り出す「音」が好きだった。事ここに於いて歴然としていることは、作・演の大谷さんもまた「声」あるいは「発声」についてこだわり抜く作家だということだろう。それは、台詞におけるアクセントの置き方、イントネーションの独自性を聴くだに予想できる。彼と、俳優陣が鳴らす「音」が、ぼくにはたまらなく心地良かった。
 
もっとも、東野良平さんの「声」は、その美声、滑舌、的確なリズム感覚からして特筆すべき「音」のひとつだろう。東野さんの役柄は、たとえば何かを話したりやってみた後に、くっきりとした大声で「〜を〜で〜してみたんだ!」と発声する、みたいな言い回しがあって、ぼくはこの言葉の流れと音のリズムがツボになってしまった。つまるところ、東野さんがパニックになればなるほど、面白くて仕方なかった。彼にコサックダンスや全く無意味な踊りをさせたりする辺りが、観客の望む「キャラクターの困惑」というものをすこぶる承諾している。「はっきりと発声可能なキャラクターがしどろもどろになる」ことへのユーモアを、決して失念してはいない。また、そんな東野さんにこそ、キザだったり不良だったりする人格を当てはめるのも、累乗するかたちで面白味が倍増していく。純朴な狂気。そして、あんなに眼鏡が似合う人はいない(ところで、無意味な踊りで想起したことと言えば、かませさん扮する祭男の舞いもまた印象的で、かませさんご自身はトラウマだとアフタートークでおっしゃっていたけれど、観客のぼくらにとっては、大谷さんの軽快な悪意という感覚があり、他意なくとても楽しく拝見しました。し、残酷なことに、やはり俳優陣が困惑しつつ完遂を試みる勇姿に対して、ぼくら観客は否応なく感動を覚えてしまうのだと改めて感じられた)。
 
エキゾチックな顔立ちのhocotenは、そのボディランゲージによってエロティークを憑依されがちだけれど、彼女の「声」もまた、もっと評価されて良いはずだ。hocotenの発声の美しさは、もちろんエロティークを遂行する際の、色っぽくなまめかしい発話法にも表れており、地蔵中毒におけるあでやかなキャラクターは、彼女以外には考えられない確立した魅力が散見される。しかし、その力量が最も色濃く噴出する時間は、彼女が何かを「叫んだ」とき、である。意味不明な教育概念を咆哮したり、天丼ネタのように重ねられる「やめてよ!」の発声だけで、彼女は作品と観客を関係させていく。彼女は叫ぶことが許されている女優だ。その役柄が被害者であれ加害者であれ、空間を切り裂く腹の底からの音色が、可笑しくも美麗に耳に残ってしまう。あの音を認知している大谷さんが、彼女をボソボソと喋らせたがらないのがよく理解できる。加えて、彼女の「顔」がもたらすデペイズマンについては勝手ながらココ(https://filmarks.com/movies/86970/reviews/75857189)に記したのだけれど、たとえば『ずんだ or not ずんだ』において彼女が演じたお母さん先生や天草四郎といったキャラクターは、その「和」を意識させる衣裳も相まって、西洋の香りが漂いながらも彼女が備える「和との調和性」を克明に証明してみせていた。こうして、彼女に掛け算のように要素を付帯させることでもたらされる異化効果は、地蔵中毒の魅力のひとつであると言って過言ではない。
 
個人的に、声によるアンサンブルの極点を叩き出したのが、『つちふまず返却観音』における小野カズマさんと中村ナツ子さんの共演場面だった。小野カズマさんのスラッとした肉体から発声されるツッコミの鋭さとボケの異常さによって、ぼくら観客の視線と興味は迷わず彼へと向けられる。豊かな身のこなしを行使して、とぼけたような表情を炸裂させながら、どこかでぼくら観客を安堵させている存在でもある。対する中村ナツ子さんは、宝塚オマージュと呼称すること自体が勿体ない、透き通るような力強い声が容易にインパクトをもたらす。まずもって、真っ直ぐにピンと伸びた背筋と立ち方からして脱帽の佇まいだけれど、そこから発せられる音の強さによって、ぼくらは目が離せなくなる。そんな両者がついに対峙する。「火事火事!火事ッ!火事カジッ!」と叫び続ける狂気に対して「どうしたんですかぁ?」と言い残して暗転。この音。この発音。この台詞。このタイミング。完璧すぎる。墓場まで忘却できない音と出逢ったような感覚に、ぼくは笑いながら思わず涙してしまった。
 
 
 
 −ラウンジ・タイム#4
 
「どうしましょう!このままだと世界中の人間がヴェルタースオリジナルのCMのおじいちゃんに侵食されてしまいます!」
「旧エヴァまごころを、君に』の人類補完計画シーンの、一番やっちゃいけないオマージュを現実が始めてしまったな!」
「なんてこった……僕が媚薬を貰いに行って射精なんかしてしまったから……」
「時を同じくして、地蔵中毒について書いていたら、主宰の大谷氏が会社をクビになってしまったじゃないか。ぎゃふん!」
「大谷さんが無職になったと見聞きして、ほくそ笑みながら楽しそうに書いていたじゃないですか。なにがぎゃふんですか。ぎゃふんじゃ済まされませんよ。ぎゃふん!」
「しっかし、つくづく面白いことが転がっているものだなあ、こんなドッポン便所みたいな世の中にも。絶対にますます面白くなるに決まってるぞ。無職で無教訓意味なし演劇なんて、素晴らしきアウトサイダーアートではあるまいか」
「会ったこともない主宰の不幸を蜜の味として楽しまないでください……」
「それはそうと、地蔵中毒について書くという行為は、だし巻きたまごを作るくらいに肉体浪費を伴うな。観劇して感激、ただでさえブレインダメージを受けているというのに、後からその素晴らしさを論じようとすると、まるで正しい言葉が浮かばない。キミの忠告通り、ポスト・コロナ時代におけるAV女優のツイートにリプライする人々について論じるべきだった」
「僕は深田えいみに一度だけ「よーいドンのつもりで、尿意ドン、と言っておしっこしたことある?」とリプしたことがあります」
「彼らがもたらす虚脱的な破壊力は、よっぽど天才の手腕として足立区辺りでも評価されて然るべき功績だ」
「足立区辺りなら、もう評価されてるんじゃないですか」
「足立区をナメんなよ貴様。じゃあ、パプアニューギニア
「ふつうにパプアニューギニアでもウケそうですけどね」
「地蔵中毒は国境を越える」
「……越えるかな」
「もう少しで脱稿する。書き上げたら、キミに推敲と訂正をお願いするよ」
「承知しました。……しかし、先生」
「ん?」
「先生はどうして、地蔵中毒について書こうと思われたんですか? だって、無教訓意味なし演劇ですよ? 意味、ないんですよ? ってか無かったじゃないですか! 意味のないものに意味を見出すって、それって逆張りというかひねくれというか……だって、意味ないんですよ。意味……」
「意味がないことをすることは、意味のあることへの反論なんだよ」
「反論……」
「意味のないことは、意味がないから劣っているだとか間違っているだとか、そんなことはない。無意味、であるということの認識さ。無意味であることへの理解だよ。人間も、人間が作ったあらゆるモノも、その人間を作った神も、皆等しく意味がない。だからこそ、無意味の状態である限り、我々は意味を追い求めることを決してやめない。たとえこの世界にも自分自身にも、意味が無かったとしても、意味が無いと感じている自分が今ここにいるということ、それだけは確かだ。それ以上の意味も、それ以下の意味もない。地蔵中毒こそが、人間の原初的な全裸の姿であって、胎内であって、我々はいつだって"無意味"を認識するために、そこへと向かうんだ。地蔵中毒はこれからも生き続ける。母のように、我々の無意味さを包み込む。私のおじいさんが教えてくれた初めての劇団。それは劇団・地蔵中毒で、 私は4才でした。それは甘くてクリーミーで、こんな素晴らしい劇団を教えてもらえる私は、きっと特別な存在なのだと感じました。今では私がおじいさん。孫に教えてあげるのはもちろん、劇団・地蔵中毒。 なぜなら、彼もまた、特別な存在だからです」
 
− (爆発音)− 
 
− (沈黙)− 
 
− (暗転)− 
 
 
 
とは言え、こうした過剰なまでの賛辞の享受を、地蔵中毒もとい大谷さんが目的としていないことは、作品を観ることによってスムースに把握できる。天才を天才と呼ぶことのよるべなさ。演劇を言語化することの「醜さ」を前にして、シロウトが無教訓・意味なし演劇に関する「意味」や「価値」を説くこと自体が、無礼と敗北に値することは明瞭な事実だ。しかしながら、その「醜さ」を前提としながら、地蔵中毒に一歩でも、否、半歩でも寄り添うかたちで言葉を残す試みをすることで、初めて現出する「美しさ」もまたあるはずだ。「地蔵中毒を言葉で語ること」のどうしようもなさと真正面から対峙して、ぼくら観客は意志表明を目指せねばならない。くだらなくて、でたらめで、意味のないものを、そう言い切るだけで消費してはならない。地蔵中毒がぼくらに誘発させる多幸感は、紛れもなく、高度な技術と、俳優陣の絶えまない努力と、尽きぬ表現への愛ゆえのものだ。褒め称えずに、愛さずにいられるわけがない。
 
大谷さんが書き上げた作品には、潜在的に「罪の意識」が内包されている。それは「演劇を書くこと」に対するアンビバレントな意識と、「物語やフィクション」に対する憧れとあきらめのようなものだと思われる。
 
『つちふまず』のラスト、文字通りに「嘘を本当にすること」へと突入する美しい運動は、彼が心から「物語」へと寄り添っている誠意を感じさせる。「間違ってしまう人々」に対する、肯定でも否定でもない、ただ「存在を認めること」の優しさがみなぎっている。だから大谷さんは、本当はウェルメイドな物語が書ける作家だとぼくは感じる。それでも尚、「褒められたもんじゃない」という意識が、霧のように作品を覆っていることも確かだ。そういった書き手に対して、賞賛の金切り声を贈ること自体がナンセンス極まりない。賞賛すればするほど「いや、そんなに褒められたモンじゃないっスよ」と、距離は遠のき、届くことがない。
 
「無教訓・意味なし」と銘打たれた演劇を言語化する行為の「醜さ」は、地蔵中毒について何か書こうとするたびに露呈される。地蔵中毒は、こうしたぼくの言葉から逃げ続ける。逃げ続けていくのが素晴らしい。天衣無縫で、無責任で、デタラメの限りを尽くしながら、あらゆる観客に己の痕跡を焼き付けていく。混血列島に落とされた「地蔵中毒」という名の未確認生物は、遊撃と逃走を繰り返し、ジグザクな逃走線を描きながら、その才覚を照れ笑いで隠しつつ、こうしてぼくらを虜にしてみせる。
 
そして、トリコロールケーキとの合同公演『懺悔室、充実の4LDK』における、ラストの美しさを失念してはならない。トリコロの今田健太郎さんと大谷さんが、墓石へ肩肘を乗せたまま微動だにしない。その二人の「書き手」を乗せて、出演者一同が墓石を移動させようと押し続ける。力一杯に押す。動かない。それでも、押し続ける。少しずつ、確実に動いていく暮石。まるで「書き手」たちは、彼ら俳優陣の結束した力を信頼しているかのように、全く動かない。この光景は、あまりにもエモーショナルで、映画のクライマックスのような大団円で、もんどり打つほどに美しかった。自分が演劇を観る「意味」が、しっかりとそこにはあった。
 
演劇はものを考えさせるためにあるのではない。考えていたことがぐらぐらと崩れるようなものこそが、ぼくが演劇に求める最たる衝動だ。地蔵中毒は、そういった震源地だ。ぐらぐらと、近づく者を揺れ動かすし、揺れ続けているし、揺れ動いてすらいない。ともすれば、そんな不気味で、くだらなくて、でたらめで、可笑しくて、おそろしくて、かなしくて、ちょっと幸福な、この世界そのものに似た劇団・地蔵中毒への追走は、これからも続く。どんな乗り物に乗っても追い付けないので、ゆっくりと後を追いながら、狂喜乱舞する彼らを見ていたい。もちろん、劇場の座席で。