20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

魔女の映画よりも『アンダー・ザ・シルバーレイク』を信じた者が辿り着いた『マウス・オブ・マッドネス』の「再映画化」を「演劇」で完遂する試み、を、ポスト演劇と銘打つことに一片の恥じらいも無い【盛夏火『ウィッチ・キャスティング』雑感】

f:id:IllmaticXanadu:20200326074153j:image※この文章は『ウィッチ・キャスティング』へのオマージュを込めて、なるべくパラノイアに、オカルティックに、陰謀論的に、ロマンティックな文体で執筆しています。666字の文字数を目指して書かれましたが、結果は15259字となります。長文のため、ご容赦ください。
 
 
筆者であるぼくのアイデンティティからの指摘になるが、本作への雑感を記す乱文の序文において、「魔女映画」以外に書くべきことは何も無いだろう。魔女を題材にした演劇について書く以前に、お通しの如く魔女に関する映画のことを提示しておいて、粋もクールもあったものではない。とは言え、結論から述べてしまえば、本作は所謂「魔女映画」からは意図的に切り離されており、「魔女映画」について意気揚々と書くこと自体が、ぼくが観劇以前に導き出した想定を遥かに凌駕する本作の新しさ、その露呈に他ならず、はっきりとした敗北宣言として、この序文は機能をさせたい。
 
ぼくは魔女映画のファンだ。魔女、ではなく、魔女映画が好きだ。確かに、小学生の頃はマルカム・バードによる名著『魔女図鑑』を読んではゲラゲラと笑っていたガキだったが、魔女そのものよりも、魔女という存在を物語にどのように落とし込んでいるのか、もしくは物語でどのように動かしているのか、そこに興味を抱き続けてきた。より厳密に言えば「魔女という存在自体が物語」であると定義できてしまうが、ともかく、魔女映画が好きなのである。
 
魔女映画である条件として、最も重要な点に「魔女が登場すること」が挙げられる。至極当然のことを書いているようだが、「魔女が登場すること」からは決して逃げてはならない。たとえば、ぼくは『奥様は魔女』よりも『オズの魔法使』の方が「魔女映画」として強度の高さを感じる。ロブ・ゾンビによるセイラム魔女裁判を題材とした『ロード・オブ・セイラム』よりも、魔女三姉妹がどんちゃん騒ぎを披露する『ホーカス・ポーカス』の方が「魔女映画」として好きだ。ニコール・キッドマンサンドラ・ブロックという美人魔女姉妹が主役の『プラクティカル・マジック』よりも、ふわふわと天から舞い降りて来て魔法の限りを尽くす『メリー・ポピンズ』の方が最高の「魔女映画」だ。と、自分で書いていてあまりにも曖昧な線引きだと呆れてしまうが、要は「魔女が魔女らしく魔女っぽいことをしている方が魔女映画としては加点」なのだ。
 
そういう意味では、魔女映画の金字塔、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』よりも、賛否両論のリメイク、ルカ・グァダニーノ版『サスペリア』の方が「魔女映画」として面白く鑑賞できた。アルジェントの『サスペリア』は、むしろイタリアン・ホラー=ジャッロ映画としてスラッシャーとフーダニットが織り込まれている中で、魔女という幻想要素と邂逅を果たす、異化効果にも似た面白さがあると考えている(勿論、映像や美術や音楽など、あの映画に映っている何もかもが超最高なのだが、ここでは隅に置いておいて)。一方、ルカ版『サスペリア』は、魔女狩りホロコーストを、魔女とバーダーマインホフを連結してみせた点において、魔女という比喩によってでしか描けない社会風刺が重層的で、悪魔的で暴力的な舞踏も相まって、素晴らしい「魔女映画」だったと感じた(魔女がレストランに集まってぎゃあぎゃあと騒ぎながら夕食を食べるシーンなんて、魔女映画として超楽しいひとときだ)。
 
然るに、そんな魔女映画愛好家のぼくにとって、盛夏火が『ウィッチ・キャスティング』で遂行しようとしていることなど、あまりにも明白に分かり切っていた。さらに、作・演出で超監督である金内健樹(以下、愛を込めて"たけきさん"と呼称する)は、自他共に認められるほどのかなりの映画好きで、当然のように自作への映画からの影響、そこから逃れることはできない。そんな彼の「魔女を題材とした演劇」の内容を予想することなど、余裕のヨッチャンだった。
 
ぼくの予想は、以下の8つである。
 
魔女狩り魔女裁判を背景に、盛夏火なりの脚色が施された純・魔女モノ。めちゃくちゃホラー。
 
②魔女や魔女に関連する歴史的事件それ自体ではなく、いわれのない運命を辿ってきた女性たちの成仏できない怨念や復讐心の帰還を描く、盛夏火版『ロード・オブ・セイラム』。
 
③魔女=虐げられてきた女性の象徴として、駒尺喜美著『魔女の論理』を題材に、フェミニズム的アプローチによって構築された現代劇。
 
アンチクライストとしての魔女を再解釈し、悪魔的存在としての魔女や魔術に関する側面を強調する。キリスト教の要素も内包する。
 
⑤サタニスト・高橋ヨシキ氏からの影響を認めつつ、魔女に関する博覧強記に重きを置いて紡がれる、ベンジャミン・クリスチャンセン『HAXAN』の2020年・ニッポン・演劇ver。
 
⑥『サスペリア』を含めたアルジェント魔女三部作への多大なるオマージュ、パスティーシュを散りばめた、文字通り魔女をキャスティングしていく現代劇。よって、舞踏シーンもある。
 
⑦ルカ版『サスペリア』の如く、政治的背景と神秘的存在としての魔女を連結させながら、あくまでも魔女を比喩として機能させつつ、現代を箱庭的に批判・風刺する。
 
Radioheadの『Burn the witch』を流す。
 
この内、⑧だけ予想が的中した……いや、厳密には的中したとは言えないのかもしれない。まさか『Burn the witch』を流しながら、本当に炎を燃やすとは考えてもいなかった。この結果は、よしんばぼくが魔女を題材にして戯曲を書くならば、恐らく遂行するであろう8つの案なのだ。自らのクリエイティビティの浅はかさと、盛夏火の鋭い作家性の前で、恥じる。紛れもなく、ひとりの映画ファンとして、惨敗したと言ってしまってよろしい。
 
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毎度のことながら、演劇のマッピングが皆無に等しい末端の映画ファンであるぼくは、恐らく、簡単には劇場では触れられないだろう感動に浸っていた。すなわち、ベランダの窓が開かれる本作の中盤において、そこには火と、水と、空と、風と、光が、物理的に同時存在していたからだ。端的に言って、あの瞬間の異化効果は凄まじかった。それは演劇なのに、あまりにも演劇ではない感動だった。普遍的な意味での「演劇的空間」において、果たしてこの5つが同時に観客へ影響を及ぼすことがあるのだろうか。そして、窓にカメラのフレーム的な役割があるはずだと読み解く、深読み症状末期患者の『アンダー・ザ・シルバーレイク』なぼくにとっては、ある疑惑が、あの瞬間で完全に腑に落ちた。これって、もはや映画じゃん、と。
 
『ウィッチ・キャスティング』を観劇した友人の市川賢太郎氏がツイッター上で「たけきさんは若い頃のショーン・ペン(『初体験/リッチモンド・ハイ』)に似ている」と指摘していた。ぼくは『初体験/リッチモンド・ハイ』に関して、ほとんどフィービー・ケイツのおっぱいのことしか印象にないので情けなくなるが、確かに似ている。ただし、氏の指摘の鋭さと審美眼に頷きつつ、ぼくは『アンダー・ザ・シルバーレイク』の主演俳優、アンドリュー・ガーフィルドとのシミュラクラが起きていたことを述べておきたい(一緒の回を観劇した小野カズマ氏も全く同じことを指摘していた)。たけきさんが演じたキキ樹(は、キキララのTシャツを着ていて、あまりにもふざけている)がというよりも、きっと普段からたけきさんは、あの映画のアンドリュー・ガーフィルドが演じるところのサムなのだろう。要するに、パラノイア的でどうかしていてヤバイのだが、たけきさんならば賛辞として受け止めていただけるはずである。それほどに、彼の創作物から滲み出る『アンダー・ザ・シルバーレイク』からの影響は甚だしい。それは、あの映画がほとんどトマス・ピンチョン的なノワールをなぞっているとか、記号的なオマージュがあるとか、実はそういった表面的な部分ではない。
 
アンダー・ザ・シルバーレイク』は、ぼくも2018年の年間ベストワンに選んだし、なんならオールタイムベストに加わっているくらいには大好きな作品だ。あの映画の素晴らしさは、あらゆる都市伝説やオカルトを情報として完結させるのではなく、あくまでも「物語」として受け止めながら、この世界に「ナラティブ」があることの果てなき美しさについて、「映画」というコードの豊かさを存分に発揮して語られていた点にある。この物語の中で、物語りながら/物語られながら、「もう出られないから」生きていくしかないのだ。そして、『ウィッチ・キャスティング』には、そのナラティブを信じる魂が受け継がれている。物語を信じた映画、を信じた者が創り上げた物語を信じた演劇、それが『ウィッチ・キャスティング』であり、盛夏火だった。
 
加えて、この指摘もホラー映画を愛好するぼくのアイデンティティによるものになるが、恐らく『ウィッチ・キャスティング』は、ジョン・カーペンターの『マウス・オブ・マッドネス』を演劇で再現することに挑んだ確率が非常に高い、ということを記しておく。事ここに於いて、ある種の観客にとっては、白石晃士監督による一連のフェイクドキュメンタリー作品(『ノロイ』、『オカルト』、『カルト』、『コワすぎ』シリーズ)からの『ウィッチ・キャスティング』への影響は明白ではあろうが、それらの源流として存在している『マウス・オブ・マッドネス』やH・P・ラヴクラフトについて書かなければ、書く意味が無いし、フェアではないと考えている。
 
また、一見すると『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』との関連性を指摘したくてムラムラしている好事家がいることも認めつつ、あの映画の手法がファウンド・フッテージであることと、魔女よりも森への恐怖をダイレクトに切り取った作品であることを改めて考えれば、容易く関連付けることは思考停止のあらわれだろう。後述するが、『ウィッチ・キャスティング』がもたらす健康的な恐怖は、悪魔の教会といわれる森や自然に対してピントを合わせずに、あくまでも地上と地下、上下のロマンティシズムに特化しており、加えて水中のイメージが癒着していることを先に挙げておく。
(ちなみに、同じく白石晃士作品へのオマージュを捧げる『花に嵐』、『聖なるもの』の岩切一空監督は、同時代的影響だといえるが、ベクトルがラヴクラフトよりも異性へのラヴへと向いている点が作家性として興味深い)
 
『マウス・オブ・マッドネス』は、カーペンターによるクトゥルフ神話を下敷きにした怪奇映画だ。直接的な描写は無いものの、誰の目にも明らかなクトゥルフラヴクラフトからの影響で埋め尽くされている。『マウス・オブ・マッドネス』は魔女映画ではないが、魔女を含めたあらゆる邪悪な存在、魔術やオカルトに関する集大成的な作品となっている。その高揚感は、魔女映画を含めたあらゆる怪奇幻想映画の極点として、観たものを「狂わせる」ために存在している(公開当時のキャッチコピーは「覗くな、狂うぞ」というもので、超かっこいい)。
 
『マウス・オブ・マッドネス』と『ウィッチ・キャスティング』の類似性は、『アンダー・ザ・シルバーレイク』との関係性と等しく、プロットやストーリーラインそのものの影響関係ではない。
 
『マウス・オブ・マッドネス』において、失踪した小説家を探す主人公は、彼が執筆した小説の中に謎を解くヒントが散りばめられていることに気付き、その本を「開く」。物語を信じることに成功した主人公の周囲では、物語から溢れ出たような怪奇現象が次々と巻き起こっていく。『ウィッチ・キャスティング』においても、穂村VCRによる団地での怪奇現象の提示を発端に、彼らの不安や恐怖がドライブしていく形で、不可思議な現象が連結されていく。マダム・マルコス(これは賞賛だが、世界一アホな『サスペリア』オマージュでとてもかわいい)の登場によって、彼らの不可思議・幻想・恐怖・不安・オカルト的感情は、思念として一定量を越えて、ついに目の前で超常現象が発生する。やがて彼らは、その事象のすべてを「信じる」ことへと帰結していく。不思議を信じること自体がトリガーと化して、不思議を起こす。その臨場感は、ぼくにとっては『マウス・オブ・マッドネス』のそれと全く同じものだった。たけきさんとラヴクラフトはここで関連付けられる。すなわち、「虚構=物語=ナラティブを信じ切ることの強固さ」が、両者には絶対的にある。事ここに於いても、盛夏火のナラティブへの向き合い方は誠実でしかない。物語によって物語られていく多幸感は、もはやその一点だけでも『ウィッチ・キャスティング』にとっての価値と役割だと断言できる。
 
加えて、実は魔女とラヴクラフトが遠い存在同士であることも無い。前述した『サスペリア』のダリオ・アルジェントが、米国からの依頼で『サスペリア』製作前に脚本執筆に取り掛かり、難航の末についに頓挫した企画こそがラヴクラフトだったのだ。ラヴクラフトに没入したアルジェントが、点と点を繋げるように到達したのが『サスペリア』における魔女だったのである。その後、アルジェントはラヴクラフトからの影響を告白するかのように、ランベルト・バーヴァの『デモンズ』の製作総指揮を務めた。『デモンズ』シリーズは回を重ねるごとにラヴクラフト的/クトゥルフ的世界観が前面に押し出されていったが、特に『デモンズ3』は魔女映画としてもクトゥルフ映画としても、ぐっちゃぐちゃのめっちゃめちゃで極めて重要な作品であるといえる。ラヴクラフトから『サスペリア』(77年)へと連想が繋がったように、やがては『サスペリア』から『デモンズ3』(88年)へと帰結したアルジェントのディケイドにおいて、魔女とラヴクラフトは切っても切り離せない要素だった。この、魔女とラヴクラフトを筆頭にしたナラティブを臆面もなく信頼して、ぼくらに同じく信頼の場を提供した、否、目前にそれを出現させて「信用させた」のが盛夏火『ウィッチ・キャスティング』であったと信じてやまない。
 
無論、たけきさんのパーソナリティを考慮すれば、そこにゼロ年代テン年代アニメーションからの影響も垣間見れるはずなのだが、ぼく自身が所謂「萌えアニメ」弱者であり、ハルヒまどマギくらいしかコンプリートしていない情弱な映画ファンなため、それらの指摘は他の有識者へと委託する(なるべく、作家本人に語らせずに、観客が指摘するのが最も望ましい。仕事しろ権威主義老害劇評家、なんか言ってみろ女優目当てのファッキン観劇おじさん、頼んだぞ親愛なるアニメファン)。したがって、ゼロ年代テン年代萌えアニメの文脈からは脱線しつつ、ぼくは引き続き稿を進める。
 
アルジェントの『サスペリア』が超自然現象への興味によって撮られた作品であることは言うまでもないが、そもそもアルジェント自身はそれらの「ナラティブ」を全く信じてはいなかった。それまでのアルジェントは、あくまでもフーダニットとスラッシャーにこだわり、その偏執的な狂気と疎外感をジャッロとして撮り続けていた。代わりに、彼のパートナーであるダリア・ニコロディ(彼女が演じた『サスペリアPART2』の女性記者は、アルジェントの分身的存在でもあった)が、彼を不可思議で幻想的な世界へと誘い込む役割を果たした。
 
オカルトや精神学に精通していたニコロディは、彼にトマス・ド・クインシーの著作を薦めた。アルジェントは、クインシーの代表作『阿片常用者の告白』の続編『深き淵よりの溜息』の一章「レバーナとわれらの悲しみの貴婦人」にインスパイアされ、彼の脳内に魔女たちのイメージが浮かび上がってきた(ちなみに、全く同じ『深き淵よりの溜息』が原作で映画化されたものに、ルシール・アザリロヴィックの『エコール』が挙げられるが、二作を比べると、如何に魔女というモチーフがアルジェントのオリジナルな要素だったかが発見できるだろう)。この、オカルトというナラティブを信じないアルジェントと、オカルトというナラティブを信じたニコロディの関係性は、「信じられない」観客と「信じる」盛夏火の関係に似ている。盛夏火もまた、不思議でおそろしいことはこんなにも楽しくて面白い、ということを高らかに叫びつつ、オカルトという名のナラティブへと観客を誘い込むからだ。と言うより、もはや観客をもナラティブの一部として取り込み、一体化させることにこそ『ウィッチ・キャスティング』のマジックはあった。
 
アルジェントは『サスペリア』のロケハンとリサーチで、あらゆるゴシック建築に関する書籍を読み漁った。中でも、伝説の錬金術師フルカネリの『大聖堂の秘密』や『賢者の住居』に関心を示したアルジェントは、徹底して「場所」の魔力を映像化することに努めた。科学では説明できない超自然現象を扱うに当たって、現象と「それ」が起こる場所には何らかの因果関係がある、ということからアルジェントは逃げなかった。
 
この精神は『ウィッチ・キャスティング』にも受け継がれている。祖師ヶ谷大蔵の古びた団地には、それが劇場ではないことから様々な利点を付帯される以前に、まず場所としての異様な磁場が発生していることを特筆する。すなわち、団地を平凡な日常の象徴として捉えるのではなく、そもそも団地を異空間として設定し、その異空間に更なる異空間を出現させることを試みているのだ。団地なる異空間によって出現可能となった『ウィッチ・キャスティング』という異空間は、文字通りその「異様な」濃度を高め、たとえ幕が降りようとも、団地の景色を眺めるぼくらの意識に変化をもたらしてしまう。徹底して日常に揺らぎをかけて、揺らがせたぼくらの視野に広がる「ただの団地」は、半強制的に『ウィッチ・キャスティング』と切り離せなくなる。これは、団地で行った演劇ではなく、演劇が行われた団地なのだ。場所の磁場によって物語的強度がすこぶる増している本作は、当たり前の事実として讃め称えるが、団地以外の場所での公演は考えられない。よしんば『サスペリア』の舞台が、あの不気味なバレエ学校でなかったらと考えれば、懸命な観客ならば寒気がするだろう。
 
しかしながら、『サスペリア』の舞台がバレエ学校であったことは、マジックがもたらされる「場所」以上の意味を持っているはずだ。バレエは単なる舞踏である以前に、技巧も含めて身体を用いた一種の言語表現に近いからである。そして、その修行は魔術と酷似しているのだ。外部との接触を絶ち、過酷な練習を強いる。精神に変調が起き、些細な偶然を不合理な怪事と結びつけかねない特殊な環境が、ここに容易く誕生する。
 
この環境は、一般的な意味においてとするが、極めて演劇に近いと考えられる。役者/俳優の運動・アクションこそが「第二の言語」として成立し、決められた台詞を繰り返す稽古は、ある種、儀式的だともいえる。『サスペリア』のバレエ学校が不穏な緊張感に包まれているのと等しく、演劇を遂行している空間では「何も起きない」方がおかしいのだ。
 
盛夏火においては、敢えて実名と役名を反差別化したアプローチによって、実人物のアクション(台詞や身体的運動や感情の動きすべて)に、稽古/非稽古を含めたあらゆるパーソナルな時間の蓄積が、見事に昇華されていると言って過言ではない。特にキキ樹の言動と行動、その挙動不審ぶりは、あからさまに「芝居」や「演技」や「稽古」や「生活」といったすべての時間の集約として、ただ漠然と「キキ樹」としてあの空間・時間に宙吊りになっていることが誠に素晴らしい。キキ樹を演じている雰囲気が無いと同時に、キキ樹が演じられているという感覚があった。終盤で、彼が怯えて震えている滑稽な姿に、あまり経験したことのない感動を覚えてしまい、微笑みつつ思わず泣けてしまった。この涙の理由は分からない。この涙の意味は宙吊りになっている。演劇のシステムと舞踏のシステムが似ていることに不思議は無い。しかし、ぼくは確かに、あのキキ樹の身体動作という「言語」によって、確かに他ではない感動を味わったのだ。盛夏火が他劇団にはない「言語」を持っていることは、強く主張したい。
 
『ウィッチ・キャスティング』と『サスペリア』を星座のように結ぶアソビは取り急ぎ終了して、ここからは『サスペリア』の続編である『インフェルノ』との関連性を探ってみる。冒頭から魔女の潜む異様な世界へと観客を積極的に誘い込む『サスペリア』と違って、『インフェルノ』は終始温度の低い、散漫な印象すら与える作品だった。ハッキリ言って、公開時から失敗作と評されてきた。ただ、ぼくは徹頭徹尾に不条理で、因果律の崩壊した、悪夢のように狂ったヴィジョンの数珠繋ぎである『インフェルノ』の大ファンである。
 
アルジェントは本作について次のように述べている。「これは、私が作ったなかで最も誠実で純粋な映画だ」。そう、『インフェルノ』は徹底して誠実で純粋な「ナラティブ」なのだ。舞台の上で演じられる芝居を、架空の絵空事を、抵抗なく信じる純粋さ、単純さが観客には望まれていた。それは決して難儀ではなく、子供の心さえ失わなければ良かっただけなのだ。
 
『ウィッチ・キャスティング』は、この誠実で純粋な信じる気持ちという意味で、観客に必要とされる条件がほとんど同じものであったことを指摘しておく。重ねて前述しているように、このナラティブを信じ切る、受け入れる気持ちを有することこそ、プラスチックの星が浮かぶ世界一小さなネバーランドの上で、ねるねるねるねの魔法の粉を女の子にふりかけた、あのピーターパンを実在させ得るのだ。あの掛け布団の上に街が見えなかった者に、あの「足が当たったらごめん」という言葉にノスタルジーヒューマニズムを感じ取れなかった者に、『ウィッチ・キャスティング』は機能を果たさない。ナラティブを信じるということと、子供の心を忘れないでいることを並列して提示する『ウィッチ・キャスティング』は、まるで『サスペリア』と『インフェルノ』のように、同じテーマを前半と後半で異なる叙情によって描いてみせる。あの夜のベッドのシークエンスこそが、本作最大の白眉であるとぼくは思っているし、あれが「出来てしまう/書けてしまう」ことの強みは、団体の途方もない魅力としてこれからも輝き続けるだろう。
 
ここで、勢い余って私的感情を告白してしまえば、ぼくはあのシークエンスが書けるたけきさんが好きだ。「夜の会話」というものを信じて書かれた一連のやり取りには、微かな「過去の記憶」が想起される。過去をトラウマとして配置せず、あくまでも甘いノスタルジーとして配置して、近過去よりも子供時代そのものを思い浮かべること、目指すこと、その姿には頭が上がらない。あなたなら、必ず団地演劇版『アメリカン・スリープオーバー』を達成できるし、ジュブナイルものの傑作すら書ける予感しかしない。願わくば、どうかオトナにならないでいただきたい。付き合いますから、そのアソビには。
 
「子供のための物語」である童話『ヘンゼルとグレーテル』を下敷きに脚色された『インフェルノ』に論旨を戻すと、『ウィッチ・キャスティング』との類似点の一つに「地下=水中=死」という要素が挙げられる。『インフェルノ』では、ヒロインのローズが床に生じた亀裂から足を踏み入れて、水没した地下室に潜る。すると、彼女は水中で死者の亡骸に襲われるのである。一方、『ウィッチ・キャスティング』においては終盤、突然キキ樹が部屋で溺れるという圧巻のエマージェンシー・パフォーマンスがあり、間髪入れずにマダム・マルコスによる救助が描かれる。台本上のミッドポイントとして配置されたこの「溺れる」という要素は、水中=死というイメージが『インフェルノ』と癒着を果たす。
 
さらに、マダム・マルコスは、溺れるキキ樹をベッドの上に引き上げる形で救助する。ここで重要なのは、空間における上下が歴然と可視化されている点にある。つまり、ベッド=上が安全で、床=下が危険であるという規定が、ほぼ無意識的に観客に植え付けられるのだ。勿論、それまでの動線においても、吊り下げられた星、団地の縮図、肩ぐるまといった、空間に上下関係を発生させる視線誘導が施されていた。これによって、マミは「移動してきた」というよりも「落ちてきた」という感覚に近いものになっていた。それらの上下の関係性が、最終的に月=天上という、地上よりも高い終着点を定めることによって完結する。
 
したがって、『ウィッチ・キャスティング』の根底には、邪悪なものは空から到来するのではなく、地下でうごめきながら潜んでいるイメージがあると推測ができる。これはクトゥルフ的とも反クトゥルフ的とも捉えられる事柄であるが、邪悪なものが日常の裂け目から滲み出てくるイメージは、やはりラヴクラフトの作家性に連なるものがある。そして、この「地下」が「水中」として描写されていることが、「地下=水中=死」が表されており、『インフェルノ』と紐付けられる可能性を孕んでいるといえる。
 
インフェルノ』では「靴底の下を探れ」というメッセージがヒントとして登場するが、靴底の下とは地下に他ならない。水没した地下室で死を経験したローズの弟マーク=ヘンゼルは、床に穴を開けて、地獄へとつづく通路を発見する。地獄の底で待っていたのは魔女だったわけだが、アルジェントが抱く地下=下=死のイメージは、たとえば『サスペリア』においても見ることができる。屋根裏に逃げ込んだサラが高い窓から工具室に落下すると、そこは無数の針金地獄で、彼女が身動きをするたびに肌を切り裂く、という激痛のヴィジョンを提示していた。しかし『インフェルノ』が特に興味深いのは、地下=下というイメージに「水中」を付帯させたことにある。勿論、水中を死のイメージとして描いたのはアルジェントに限ったことではなく、たとえば同様にイタリアン・ホラー界の巨匠、ルチオ・フルチによる『サンゲリア』や『ビヨンド』にもそのような描写が見られる。一体、「水中」の何がそんなに恐ろしいのか。
 
半可視な水中は、どんなに明るくても「闇」のようなイメージが強く、また呼吸が不可能なため窒息をも想起させる。まるで、水中と宇宙空間は酷似しているのだ。この連想ゲームによって、宇宙の彼方から地下へと到来してきたクトゥルフは関連付けられ、「地下=水中=宇宙=死」のイメージまで飛躍することができる。水中への潜在的な恐怖は、潜在的な宇宙そのものへの恐怖だ。潜在的な上下一体の恐怖。それは、胎内で羊水に浮かんでいた胎児の頃の原始的記憶だ。……と、書いていてあまりにも『ドグラ・マグラ』のような展開になってきたので一時停止。『ウィッチ・キャスティング』が、『インフェルノ』的な上下の恐怖、特に下における水中=死の恐怖を再解釈しつつ、転じて最上界=宇宙的恐怖にまでクライマックスは飛躍しながら、女性の象徴である月に帰結して一件落着することに関しては、コズミック・ホラーとしてあまりにも興味深い。めちゃくちゃ滑稽な作風なんだが、そういう側面を発見するだに、ぼくは本作をコズミック・ホラーと呼ばないわけにはいかない。そう言えば、『インフェルノ』屈指の迷場面、ネズミに襲われながらホットドック屋の親父に惨殺されるシーンの、あのセントラルパークの夜空には、妖しく月が輝いていた。
 
宇宙というキーワードから想起すると、恐らく『ウィッチ・キャスティング』は『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』によって陥った喪失感を払拭するために創作された作品であったと指摘することができる。スター・ウォーズシリーズの完結編として昨年公開された『スカイウォーカーの夜明け』は、世界中で賛否両論の嵐を巻き起こした。ぼく自身も、未だにあの作品が超おもしろい映画だったのか超つまらない映画だったのか正常に判断が出来ないでいる。とにかく、今尚、情緒不安定な心理状況が『スカイウォーカーの夜明け』には纏わり付いている。そして、事実として、たけきさんは『スカイウォーカーの夜明け』を酷評していた。その冷静な批判に対して、冷静さが保てないでいる自分は足を向けて眠れないのだが、たけきさんから『スカイウォーカーの夜明け』への回答として、『ウィッチ・キャスティング』は機能していると判断できる。
 
スター・ウォーズポストモダンと呼ばれる背景において、それまでの大きな物語(マスター・ナラティブ)が喪失されたことを失念してはならない。人々が目指すべき目的や神話が喪失された社会において、そのような記号性を持たない新たな物語として、スター・ウォーズは確立していた。映画史上最大のポストモダン映画、それがスター・ウォーズだ。しかし、新三部作の完結編と銘打って製作された『スカイウォーカーの夜明け』は、あまりにもファンのご機嫌とりに終始しつつ、何一つとして新しいことはしない、ゆえにファンサービスとしても賞味期限が切れかかった/切れていた「スター・ウォーズであってスター・ウォーズでないもの」が突貫工事によって商品化されたような、果てしなくいびつな作品となっていた。好き嫌いや評価はともかく、『スカイウォーカーの夜明け』のベクトルが、旧三部作(特にEP6)にしか向かっていないこと、2019年の映画として新しい可能性を広げる気概すら感じられないことに関して、これは進歩ではなく退行なのではないだろうか(ちなみに、ぼくは全く同じ感想を『ローグ・ワン』にも抱いているし、ポストモダン映画として『最後のジェダイ』は高く評価している)。ナラティブの退行現象によって、反動のように「誰にもおもねることなく全力で物語を信じる姿勢」を提示してみせた『ウィッチ・キャスティング』が、団地演劇として、そして純粋で強固な物語の提示・誘導・信頼によって、今こそポストモダン的な試みであると提言する。自粛要請が発令されたあの日以降、最もプレモダン的で原初的な団地での演劇こそが、新しい幸福感としてぼくたちを歓喜させたのだ。キャスリーン・ケネディ、あんたも観るべきだったね。
 
かなり個人的な事柄になるが、ぼくはたけきさんのことを約4年前から認知している。たけきさんがレギュラー出演しているポッドキャストを愛聴していて、その配信開始時期が今からちょうど4年前なのだ。さらに厳密に言えば、ぼくが2011年に取得したツイッターのアカウント(現在使用しているものより以前のアカウント)において、ピーターパンの不気味なアイコンになんとなくシンパシーを感じて、なんとなくフォローをしていたのもたけきさんだった。たけきさんとの関係は実は長い。長いけれども、ぼくは一方的に彼との遭遇を避けてきた。
 
ぼくは知己の有無を問わず、面白いと感じた人と直接会うのがおっくうな人間だった(「だった」というのは、今は全くそうではなく、誰とでも積極的に会うように努めている。否、努めてすらおらず無意識的にそうなっているのは、最近触れ始めた演劇のグルーヴ、異教徒たちの豊かさによるものである)。今でこそ躁状態がフィックスされたテキトー野郎の自分なのだが、それまでは割りかし鬱くしい時期に酔っていたこともあり、根暗じゃねえくせに傷付くのが怖い、意地っ張りの弱虫だった。この恐怖は、好きな人に嫌われる予感によるものではない。好きな人が作ったものが「つまらなかった」とき、そのときの自分が耐えられないという自意識過剰によるものだった。これまでのぼくは、そういった病的な思考から、好きな人たちの「面白いもの」との接見の機会を何度も逃してきた。特に、直接その人と「出逢ってしまう」演劇に関しては、他よりもその数が多かった。
 
たけきさんが盛夏火と銘打った団体を発表すると見聞きした際に、流石に足を運ぼうとした。くだらない思考によって逃げ続ける、そんな自分が惨めに思えていたし、単に「観てみたいなあ」と思ったからだ。しかし、物理的なスケジュールの理由によって、『スパイダーランド』も、『夏アニメーション』も『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・デジタルハリウッド』も、観劇するには至らなかった。
 
後にストーリーラインを知った『スパイダーランド』から如実だったことは、たとえばあの作品にも『アンダー・ザ・シルバーレイク』や『ヘレディタリー』といった映画からの影響は見られるし(『ウィッチ・キャスティング』においても、『ヘレディタリー』的なドールハウスが登場して、本作がたけきさんにとって箱庭療法的な役割を果たしていることを示唆させる)、そういった作品だからこそ、映画ファンである自分が観ないでどうするのだと、楽しまないでどうするのだと、本当に後悔していた。周囲からも口々に「盛夏火、絶対に好きだと思う」と推薦され、されるたびに、行けなかったことを後悔していた。
 
特に『夏アニメーション』は『涼宮ハルヒの憂鬱』ドンピシャ世代&『涼宮ハルヒの消失』がオールタイムフェイヴァリットのぼくにとって、観劇できなかったことが誠に悔やまれる。2009年放映のハルヒから10年後のメモリアルとして、そして京都アニメーションへの最上級のリスペクトとして、2019年に絶対的に観るべき劇だったことは容易く想像できる。
 
しかしながら、ぼくは『ウィッチ・キャスティング』と今このタイミングで邂逅を果たせたことに関して、何一つ悔いはない。自分が意識的に観劇への興味を見出したときに、こういった「演劇でも映画でも無く、演劇であり映画であるもの」と出会えたことこそが価値だ。ぼくはあらゆる宗教も信仰していないし、ヘイトも無く、運命論者でもないが、造物主は絶対にいる。お前はここでコレに出会っておけと、絶対に導かれている。最近は特にそういったことを感じる機会が多々あり、当然のように、漏れなく盛夏火もそうだったのだ。新型ウイルスによるパンデミックが次々と劇場を奪った冬を経て、春の訪れと共に、あの団地には演劇が芽吹いていた。団地演劇というコンセプトは、今この瞬間の現在において、これまで以上に観客の救済を成功させている。だから、ぼくは今初めて、盛夏火を観れて本当に良かった。遠い未来で、オリンピックが開催される「はずだった」年、世界中がウイルスの脅威に飲み込まれていった年、ぼくが演劇を観始めた年、あの年に訪れた団地のことを、絶対に忘れないでいるはずだろう。面白かった以前に、忘れられない歓びを与えてくれたことに、愛を込めて感謝する。演劇は刹那ではなく、マジで、永遠になってしまうのだ。
 
たけきさんのことをプロファイリングする気はさらさらないが、彼は絶対に、本当は映画を撮りたい人だと思う。ぼくはずっと、たけきさんが撮る映画が観てみたいと願ってきた。でも、映画を撮らない理由を様々な角度から予測して、ここにあげつらうことはしない。彼はちゃんと、「映画」をやっていたからだ。手段や方法ではなく、『ウィッチ・キャスティング』は映画の「便法」に従って創造されていた。これが極めて演劇的であるとか、いや全然演劇になっていないとか、そんなことはぼくには関係ない。ぼくのような映画ファンの特権は、映画ファンだからこそ、「それ」を面白がれる見方を体得していることに他ならないはずだ。
 
これはぼくなりに絞り出した最上級の賛辞として書いてしまうが、『ウィッチ・キャスティング』は演劇というよりも「映画」を観たかのような余韻が凄まじかった。恥も外聞もないが、一本の見たことのない映画として、ぼくは『ウィッチ・キャスティング』が大好きだ。しかし、決して反演劇ではなく、あるいは映画の優位性を主張していたわけでもない。演劇そのものの解体、再構築に徹底して成功しており、そこから映画的な歓びにまで接続されていた。映画が大好きな人間が、こんなにも面白い「演劇≒映画」を作れるということこそが重要だった。あらゆる映画やサブカルチャーのキメラとして、『ウィッチ・キャスティング』は生きていた。キメラでありながらオリジナルで、全く嫌味のない健康的な作家性が一貫していた。劇中では、私小説的な試みが成されているにも関わらず、あまりにもドメスティックからはかけ離れていた。「男でも魔女になれる」という叫びは、まるで「演劇でも映画になれる」とあきらめなかったひとりの映画ファンの宣言のようだった。そう聞こえてしまうのは、もはやぼくの病理である。しかし、演劇がなんだ。そして、映画がなんだ。「おおやけ」と「わたくし」の境界をスムースに消し去り、物語への強い自覚性を持った作家がたどり着いた、武装解除された戯れの場、それが盛夏火だ。あの時、あの瞬間に誕生していたナラティブと、ナラティブを信じ切った美しいネバーランドの住人たちを、ぼくも最大限に信じ切ろうと思う。
 
本作は、メタ的でシームレスな演出によって、終演が訪れない。団地から去った今でさえ、この世の「不思議」という名のナラティブの中の、ひとりの登場人物であるかのような余韻が付きまとう。よって、観客から拍手がもたらされる時間が物理的に存在しなかった。結びに、近所迷惑になるほどの大きな拍手を彼らに送る。どんなに離れていても、あの軟膏を塗った魔女の皆さんになら、この拍手は聞こえていると信じて。