20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

映画では「死んでいて」演劇では「生きている」こと【排気口『怖くなるまで待っていて』雑感】

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受付をしていた制作の水野谷みきさんを見て、「わ、水野谷みきさんだ」と、当たり前に驚いてしまった。僕は下北沢まで彼女の唄を聴きに行ったことがあって、それを確かに記憶していたのだけれど、失礼ながら、排気口に所属していることを失念してしまっていた(すみません、盛夏火の公演も楽しみです)。

むしろ、僕は排気口それ自体、もしくは演劇のことをほとんど知らない。年に映画館へ150回ほど足を運ぶ末端の映画好きである僕は、観劇に対する欲求が極めて少なく、演劇への憎しみも殺意も皆無なまま、映画原理主義者であることを優先し続けた。僕は映画館という闇が住処であるし、そう思っている自分自身に鬱屈しながら、今宵も真っ暗な密室で赤の他人と影を眺めている。そして、演劇に関するマッピングがほぼゼロに等しいので、まずは何を観ればいいのかすら自分では判断できないでいた。だから演劇に関しては無知に等しい。


ところが、どうやら「排気口はすごいぞ」という感想を周囲から見聞きして、周囲の熱量のおかげで、気になって仕方なくなった。ああ、確かに素敵なツイッターでいらっしゃるわ、と、美麗でアンニュイでアカデミックな文章が綴られたSNSに対して、微力ながらリスペクトの念が芽生え始めた。"こういったこと"が発話されている空間と時間を目撃したいと、誰に誘われるまでもなく、僕は排気口の中へとみるみる吸い込まれていった。空気を排出する口なのに。よって、今回が初の観劇となる。

 

実のところ、僕は水野谷みきさんによる前説の段階まで、本公演のタイトルを『「暗く」なるまで待っていて』だと、恥ずかしながら勘違いし続けていた。よしんば、僕の映画ファンというパーソナリティによって、かのオードリー・ヘップバーン主演作『暗くなるまで待って』(67年)を瞬時に連想、想起しながら、排気口新作公演のフライヤーを見てしまっていたのかもしれない。テレンス・ヤング監督作を引用するからには、さては排気口の連中は007オタクかしらとか、ねえねえハードコア版『暗くなるまで待って』こと『ドント・ブリーズ』への言及もあるのかなとか、いやだなあ水野谷さんタイトル言い間違っちゃってるよとか、前説が終わるまでの時間、ほんとうに哀しき獣だったというか、すみませんでしたと謝辞を送る次第。だからどうしたと云われたら切腹でもしましょうかという気分だけれど、基本的に、人間の勘違いや誤読は豊かで価値があるものだと考えている開き直り思考なので、意味は必ずある。あるのです。本作において「暗闇」はやはり「おそれ」と同義であり、そこはかとなく闇についてのエクスキューズが施された演劇であったことは言うまでもない。


排気口に関して、僕はこのような勘違いをもう一つだけ犯していた。作・演出の菊地穂波氏のことを、僕はしばらくの間、ずっと女性だと思っていた。何故そんな誤読をするようになったのかは、果たして記憶に残っていないけれど、恐らくは氏のツイッターのアイコンの所為だと思われる。また、ボリボリ先生画伯(笑いながら泣ける芝居が可能なボリさん、笑いながら泣くとは本公演を端的に表しているファクターであり、本当に素晴らしかったです、絵も大好きです)による排気口を彩るイラストの数々も、主に女性で、割とすんなりと「女性が作・演なんだな」とイコールで繋げていた。
氏のnoteを読んだ際にも、一人称が私であることに対して何ら違和感も無しに、そうか、穂波サンは『サスペリア』まだ観ていないんだ、お好きだと思いますけどね、ピンチョンっぽさが文章から滲み出てますけれど、分からないんだ、そっか分かんないよねえ、そうだよねえワケワカメだよねえと、薄気味悪い納得をするに至って、尚も気付かなかった。
排気口を知る友人に「穂波チャンの文章、ほんといいよねッ」と言い放った際に「あ?」と指摘されて、ようやく恋が終わった。


僕は「間違い」や「記憶違い」による美しさの創造、ということを強く愛している。こうした「暗く」なるまで事件や菊地穂波女性説には、「妄想による美しき誤読」をした結果生まれた、比類なき美しさがあると考えている。少なくとも、僕自身は。いつだって、品行方正な正しさよりも、間違っている側に惹かれてしまう。人間は間違えてしまうし、決して正しくなんかない、ということを訴える表現の美しさは、業を肯定されているような安堵感すらある。無論、そんな映画を穿いて捨てるほど観てきた。ところが、演劇、にも、否、演劇にこそ、それはあった。排気口とは、まさにそういった美しさが結集しているかのような集団に感じられた。ありとあらゆる間違われたことを、彼らは決して断罪しない。叱責するわけでもなく、傷を癒すわけでもない。確かにそれは「あった」し、それは「つづく」、でももうそれは「ない」。という事象の亡骸たちは、亡霊のように僕らの脳裏に"傷を付けずに"しっかりと焼き付く。

 

所謂「終わらない青春期(の一夜)」系のフィクションは、ポストモダン的なアプローチとして幾多も存在するものの、本公演はそうしたジャンルへこちらが偉そうに区分してしまう以前に、まず何よりもアニメーション的だと書いてしまって過言ではないはずだ。なぜか。役者のアクション(台詞の発話方法も含める)が行われる土壌としての舞台そのものにおける、フィクションラインの定め方がアニメーションを想起させるからだ。この多幸感は、『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』や『涼宮ハルヒの憂鬱』を容易く想起させる。つまるところ、本作にはアニメーションでしか成し得なかった歓びが、生身の肉体を以ってして戯画化され尽くしている。


僕の偏見で特筆してしまうと、この文化祭実行委員長ことププ井はすばらしい。佇まいや衣装も褒めちぎりたいが、抜きん出て「声」が特にすばらしい。彼女、を目撃してきたのは、これまで、確かにアニメーションというリアリティラインにおける枠内のみでしかなかった。それが、僕らが認知していた"向こう側"から「出てキタァ」という実感すらある。ちゃんと成立してしまっているのが凄い。ププ井さんを映画に落とし込もうとしても、1秒間考えてみたけれど、恐らく無理である。もちろん、メイド服を着たメルちゃんも然り(表情が豊かで、発話していない時でさえ目で追ってしまう吸引力があった)。そしてあの愛すべきゼミ長の、ほとんどスラップスティックな、ほとんどモンティ・パイソン的な、縦横無尽なまでのナンセンスっぷりには、真剣に、愛おしさ以外の感情が見つからない。僕がペシミスティックなだけなのかもしれないけれど、あのようなキャラクターを、映画は救えない(堀禎一なら救えたかもしれないが、彼は亡き人である)。小劇場の磁場によって何らかのオブラートに包まれた、何らかの愛おしさが生きている感覚、そういうものを発見するために、これからも観劇を怠りたくないと決意できた。


どのキャラクターも愛しいのだけれど(本当に全役者の、すばらしい仕事ぶりについて書いておきたいが、野暮だと称して、此処では割愛する)、僕の個人的な推しはププ井さんやゼミ長なのだけれど、観劇後に見た夢には女(いやほんとすばらしい名前、名前を必要としない関係性における、ただ一つの強固な名前)を演じた三森麻美さんが出てきて(笑)、僕は彼女と知己は無いのだけれども、なぜか一緒にラム肉の鍋を食べて、ラムアレルギーだった彼女がひたすらラム肉を吐きまくるという(ほんとすみません三森さん、夢なので・笑)、サイコで、パンチの効いた騒がしい悪夢にうなされてしまった。女は、唯一関係のない他者としてすんなりと輪に加わるけれど、この呆気なさ、関係/無関係の境界線を越える存在の意義については後述する。

 

第一には青春学園モノ、第二にはややコミカル、というジャンルの設定は、舞台美術や台詞以前に、登場人物たちの「発声方法」および「リズム(テンポとは異なる)」から浮かび上がってくる。小説や詩よりも早く成立した戯曲の段階で、ギリシャ文明が、ドラマツルギーを「悲劇」と「喜劇」に分離したことは歴史が物語っているけれど、排気口は歴然と「喜劇」でありながら、この物語を「喜劇」として提示する作者や役者陣の思惑に対して涙が流れる。とは言え、「悲劇」の時間だったとはやはり全く感じない。否、人が死んでいるじゃないか、と「悲劇」にカテゴライズするのは思考停止でしかないと思われるし、死に対する悲壮感や切迫感を軽やかに削ぎ落としつつ、ナンセンスなまでのユーモアで加速する本公演は、その相乗効果として、まるで哀しみが笑っているかのようで、だから泣けてしまう。「深刻な事態を深刻に演出して深刻に演じてしまう」というのは、暴論ながら映画界隈(特にインディーズ映画)ではまだまだパンデミック状態の病で、僕なんかは勝手にびーびー泣いたり悩んでろよ馬鹿とうんざりしてしまうのだけれど、無知を自称して、もしかして演劇ってこんなにもジョイフルでハッピーなものなのだろうか? まるでヒーリング作用のある音楽に近い。映画よりもよっぽどウェルメイドでありつつ、よっぽどユーモアを信じている。各々の肉体が。やはり役者/俳優のすばらしい仕事を観るためには、映画よりも演劇が適しているのだろうか? まだ結論は出さないでおく。

 

終盤における親子三人での会話は、よしんば自身がそういったナイーヴな会話の経験を経ていなくとも、"あの時間"に転送される感覚があった。体験なき"懐かしさ"すらあって、その追体験は、あまりにも尊い時間のように思えて、あまりにも泣いてしまった。「ちゃんと怖がれよ」と投げ掛けてくれる大人を、僕らは確かに欲求している。あるいは、僕は今、少年少女たちに「ちゃんと怖がれよ」と言えるのだろうか。言ってほしい/言わなくてはならないという微かなアンビバレンスを帯びた言葉は、「お世話になりました」という音と共に、まるで置き土産のような余韻を残す。さて、僕らはちゃんと怖がられているのだろうか。もしくは、怖がっているのは、果たして何に対してなのだろうか。


去年の夏、排気口所属の役者・小野カズマ氏と歓談している際に、僕は「2018年のベストは『アンダー・ザ・シルバーレイク』ですねえ、なにもかも理想の、夢のような、まさしくフィクションそのもの、超好き最高」とニンマリしながら話していた。対して、確か小野カズマ氏は「僕は『アメリカン・スリープオーバー』が大好きでしたね」と返していた記憶がある。挙げた二作品はどちらも同監督、デヴィッド・ロバート・ミッチェルの作品であるけれど、『怖くなるまで待っていて』には、小野カズマ氏のフェイヴァリットである『アメリカン・スリープオーバー』、そしてミッチェル監督のもう一つの作品『イット・フォローズ』(2014年)のエレメントが、確かに息吹いていると考えられる。


アメリカン・スリープオーバー』は、夏休み最後の一週間に行われるスリープオーバー(お泊まり会)において右往左往する思春期の少年少女たちを描いた群像劇だ。彼らはスリープオーバーを通して、成長するための"なにか"を模索する。それは人それぞれで、アルコール、ドラッグ、セックスなど、とにかく大人の仲間入りを目指そうとする。夜明けまでの尊い時間の中で、やがて彼らは気付く。社会の大人たちは"子供時代"を奪い取り、この尊い時間は二度とやって来ない。大人になってしまうということは「死」なんだと。だから結局誰も、スリープオーバーを通過儀礼としてクリアしない。必ず接吻を交わそうとしていたその夜、彼らは誰一人としてキスをしない。劇中の台詞に以下のようなやり取りがある。「お酒やドラッグやセックスという冒険を通して、大人の仲間入りができると思っているだろ。でも、それは神話なんだ」「なんの神話よ?」「ティーンエイジャーの神話さ。奴らはそういった冒険で君たちを釣り上げて、子供の心を捨てさせるんだ。子供の頃、意味もなく鬼ごっこや水遊びが楽しくはなかったかい? 意味なんてなかったことが、ずっと楽しくはなかったかい? 子供の気持ちを失ってしまったと気付いたときには、もう手遅れなんだ。子供時代は、二度と取り戻せないんだ」アメリカン・スリープオーバー』は、大人になることは青春の死を意味すると訴え続ける。


『イット・フォローズ』は、セックスによって「それ」がうつされ、「それ」に捕まると必ず死んでしまうという斬新なアイデアのホラー映画だった。公開当時、この映画は性病の恐怖や、ティーンエイジャーのセックスを戒めるために作られた映画だと論じられた。しかし、ミッチェル監督はそれらの意図を否定している。「これは青春、恋愛、そしてセックスについての映画だ」
「"それ"はゆっくりと近付いてくるけれど、必ず捕まってしまう、絶対に逃げられないもの」とは、性病やセックス云々というよりも、「死」それ自体をメタフォリカルに具現化しているといえる。なぜなら人間の死亡率は100%であり、絶対に避けられないものの、(あらゆる例外を除けば)死は自らの地点より遠くにあると思い込んでいるからだ。本質的にそれはまやかしであって、死自体は常に自分と隣り合わせなのにも関わらず、特に若者はその実感が抱けない。本当は、生と死は相反する概念なのではなく、生きていくことの中に死があるのだ。『イット・フォローズ』は、思春期の中に潜む死に気付いた者たちが、やがておそれを捨てて、死と共存して生きていくことを選択する。死からは絶対に逃げられない。でも、死の恐怖を忘れられる時間が存在する。愛する人とセックスしている時、そして誰かに恋をしている時、ほんの少しだけ死を遠ざけることができる。だからこの映画のヒロインは、少年の手を最後に握る。


『怖くなるまで待っていて』には、前述した二作品と共鳴する試みがあるといえる。それは、絶対的に取り戻せない時間(それが無意味であれ、無意味であればあるほど)の尊さを登場人物が噛み締める瞬間があること、そして死を目視確認したことで、やがてこの時間が終わることを予感しながらも、おそれるだけに終始せず、それでも生きていくことを決断する瞬間があること、である。


端的に言って、映画は生者を死者のように映すことに長けている。それについては、映像の質感や芝居は勿論のこと、撮影の構図や照明の度合い、動線、そして「如何なる動き(静止状態も「静止」というアクションとして捉える)をしているのか」というあらゆる事柄の研磨を含めて、スクリーンに"幽霊"を出現させることは可能だといえる。例えば個人的に、最も幽霊にしか見えない幽霊が出てくる映画だと考えているジャック・クレイトン監督の『回転』(61年)は、現在においてもすこぶるおそろしい。のちに、『回転』からの影響をダイレクトに受けつつ、ロベール・ブレッソンやジョルジュ・クルーゾーを経由する形で、日本では黒沢清が"映画における幽霊"をブラッシュアップしてみせた(とは言え、『リング』の貞子ちゃんは勿論のこと、『女優霊』の爆笑する幽霊も超怖かったし、ビデオ版『呪怨』の顎なし女子高生のヴィジュアルとしてのショックもまた歴然と"映画における幽霊"なのだが、此処では割愛する)。

 

また、映画のあらゆるシステム自体が、被写体を含めた景色の"残像"をフィルムに焼き付けるという意味で、幽霊を描きやすい芸術だともいえる。二度と訪れない過ぎ去った時間が、永遠に成仏せずに閉じ込められる。暴論を言ってしまえば、この世の全ての映画が、動く心霊写真なのかもしれない。

 

一方で、演劇は事象として「肉体が明確にそこに存在している」という時間を観客が共有する点において、それが例え死者であろうとも、「生きている」という感覚が付帯する。だから演劇は、死者=過去を提示できない限りは、本質的には死者を死者として描けないはずだ。その代わりに、幽霊ではなく「心霊」を描くことが容易くできる。こころである。死者に言葉を、肉体を、こころを与えることができる。だから演劇において、死者は「生きている」ことが権利として付与され、そのこころを観客が目撃する権利もまた許されている。


本作には幽霊が登場する。彼女に貞子と名付ける時点で、排気口が提示するリアリティラインの的確さにまず唾を飲むけれど、貞子がOGなのか幽霊なのか、という問答が、信じ難いほどに呆気なく明示されるやり取りだけで、無性に説得力を感じられる。それはユーモアではなく、生者と死者が関係する際の本質だ。"呆気なさ"こそが真実であり、この呆気なさを享受するか拒絶するかで、世界の見え方は大きく変容していく。


死者に言葉をあてがうことこそが、あらゆる芸術のマジックだと信じてやまないけれど、排気口はそれを、深刻ぶった演出に逃げるわけでもなく、呆気なく遂行する。呆気なく貞子はやって来て、呆気なくシフト作成は承諾されて、呆気なく幽霊だと判明して、呆気なく呪いは終了して、呆気なく闇は訪れ、呆気なく死は続き、終わらない。
この呆気なさは、徹頭徹尾に漂いつつ、間接的に"死"そのものを想起させるし、生と死の境界を何の障壁もなしに曖昧に中和させる。青春は、人生は、生は、呆気なく続くし、呆気なく終わる。まるで120分間の演劇のように。この呆気なさに、恐怖し、おののき続けるという判断が、果たして豊かなことだろうか。呆気なさに手を差し伸ばした者だけが、呆気なく闇に足を踏み入れる。しかし、その闇は恐怖だろうか。哀しみだろうか。死なのだろうか。手を握る相手がいる限り、隣に誰かがいる限り、我々は呆気なく、あらゆるものを肯定しながら歩くことが出来るはずなのだ。
すべての人のちっぽけなおそれが、この演劇と共に終わってしまえばいいのにと、心から思った。


演劇のマッピングが白紙状態なので、よしんば、他にもこのような試みを遂行する劇団があるならば恐縮極まりない。しかしながら、前言をほのかに否定する意味で書くが、排気口のユーモア、センチメンタリズム、アカデミック性、リアリティラインの的確さは唯一無二である。白紙の白痴野郎にこそ、ここまでスムースな受容を成功させて、そして甘い多幸感を抱かせてくれた排気口を、無知ながら高く支持したい。本当に大好きな劇団になった。あなた方がおそろしい。このおそれは、僕が胸に抱きかかえている限り、地球の裏側まで僕と共にあるのだろう。だからしばらく、まだしばらく、僕は呪われたままでいい。この手は離さない。だから、離さないでくれ。

オルケスタとしての肉汁サイドストーリー、或いは、破られた最後のページ【肉汁サイドストーリー『さる沢』雑感②】

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「アタシはチャラチャラした連中を見ると、はらわたが煮えくりかえるんだ。世の中はどう見たって、アタシのためにはない。あいつらだよ、あいつら。ちくしょう。殺してやる。てめぇらに逃げ道はねえぞ。アタシにもねえぞ」と、一人一人が思っている世界。厭な時代には、厭な演劇を。肉汁サイドストーリー、『さる沢』。

 

誰もがテレビの中でゲラゲラと笑っているような明るい時代じゃない。常に不安を抱いている。テロと天災が決定打となり、ゼロ年代テン年代も、抜け出せない暗黒が広がり続ける20年間だった。2020年からその先もまた、光り輝く未来など、絶対に待っていない。我々は平穏な暮らしを送れないことに気づいてしまっている。ミサイルを作って試し撃ちをする国や、ツイッターにうつつを抜かす大国のトップの言動に右往左往する時代、誰がハッピーなものか。

 

演劇は、即物的な機能として明言してしまうが、娯楽である。娯楽だから、楽しい憂さ晴らしになっている。たとえ、それがホラー演劇であったとしても、どこかスカッと、感情のわだかまりを壊してくれる。その一方で、厭な後味を残す演劇だってある。そこで、「なんで、こんな苦い後味の演劇を観たんだろう」と考える、考えることこそに、演劇ひいては、表現研究の価値が生まれたりする。

 

しかし、ほとんどの民たちは「考える」ことを放棄している。演劇や表現を見ても、考えることはなく、なんとなく感動した実感を刹那的に味わいつつ、すぐ様に忘れてしまう。それこそ、即物的な、インスタントな意味における「消費」である。他人の表現に触れても、そのさらに芯の部分にまで触れてみたいという欲望が、ほとんど発生していない。なぜか。その表現と自分自身に、関係がない、と思考しているからである。演劇や音楽や映画や書物の、言っていることもやっていることも、そもそも自分には関係が無いと思わされてしまっている。では、思わさせているのは誰か。それは時代であり、国家であり、世間である。この国には、あなたの力が必要なんです、今を生きる一人一人が主人公なんです、と、声高らかに表明したところで、「自分の存在が無くても、時代も、国家も、世間も絶対に回っていく」という自覚がある。近年の我が国における投票率の低さは、まさにこの思考がトレースされた結果とも言える。「自分が選んだところで、世間は変わらない。世間は、自分のことを選んではいない。それなら、自分はそもそも、選ぶという行為それ自体が無意味なので、選ばない」と、国民の一人一人が思考する時代は、間もなく到来してくるのではない。今、がそうだからである。

 

この、例え自分が選ぶ/選ばないを放棄したとしても、世界は自分と関係なく回り続ける、という状態は、民を思考停止に陥らせる。そういった人々は、よしんば芸術に触れたとしても、その芸術を作り上げた作家のクリエイティビティや、作品に込められたテーマやメッセージは何か、ということを、考えようとしない。しない、のではない。やり方が分からず、できない、という方が、寄り添った言い方かもしれない。論をやや強引に飛躍させるが、芸術に関心を持たなくなる、ということは、最終的に教育の崩壊につながる。「学ぼう」としないからだ。学ばなかった人は、選ぶ/選ばない、という自分の意志や主張を、物理的な意味で「持つことができなくなり」、他人に託し始める。他の誰かがきっとどうにかしてくれるだろう。他の誰かがきっと自分と近い考えを言ってくれるだろう。自分にはこの世界に影響を与えることができない。自分は特別でもなければ、選ばれてもいないのだから。

 

映画『マトリックス』は、我々が生きている世界は、実は機械生命体が作り出した「夢」であり、人類は皆、胎児のように眠っている姿が描かれていた。『マトリックス』は、ポップカルチャー史においても、哲学史においてもディープインパクトとなり、その影響は計り知れないが、もっとも、『マトリックス』が公開した年、全米での自殺者の数は倍増した。残された遺書には「このクソ最悪な悪夢から覚めるため、わたしは目を覚ますことを選ぶ」と書かれているものもあった。公開から翌年に起きた銃乱射事件では、見ず知らずの人々を大量に撃ち殺した犯人が「この世界は仮想現実で、本当の現実ではない。自分は、彼らを夢から覚ますために撃ち殺した」と、供述した。彼はその際、自らを救世主、と称し、撃ち殺していった人々のことを「選んでやった」とも述べている。不謹慎を覚悟で言ってしまえば、彼は、その時、その方法でしか、世界と関係が持てなかったのかもしれない。しかし、『マトリックス』と言う映画は、この現実はフェイクだ、だから何をしたっていい、人を殺したっていい、黒人をリンチしたっていい、ガキの列に車で突っ込んでもいい、ティーンエイジャーをドラッグ漬けにして、レイプしまくたっていい、役に立たないヨボヨボの老人はショットガンで撃ち殺したっていい、異なる宗教を信仰している異教徒は全員殺してしまった方がいい、威張っている国はうぜえから、その国のビルに旅客機で突っ込んだっていい、何をしたっていい、キミが救世主だ、キミがそれを「選べ」、と、観客に伝えるために作られた表現だったのだろうか。答えは簡単だ。「考えれば分かる」「考えれば、分かる」のだ。芸術や表現は、「他人の考えに対して、自分はどう考えるか」ということの偉大さを教えてくれる。物語やキャラクターや作者が我々に提示するのは「答え」ではない。「果たして、あなたは、どう考えますか?」という、問いかけである。『マトリックス』の監督ウォシャウスキー姉弟だって、ちゃんと観客を信じて、この問いを投げかけたはずだ。現実を打破したり、変えることが出来るのは世界ではない、自らの意志と行動なんだ、それは、劇場から出た瞬間、ボクにだって出来ることだ。さあ、サングラスを掛けて戦いに臨もう。そう「考えてほしかった」。もう一度繰り返す。「考えれば分かる」。考えることの幅を狭めると言うことは、学ぶことの関心を失い、芸術の価値を見出せなくなる。

 

肉汁サイドストーリーの『さる沢』は、「考えることを放棄された」という意味において、客観的な立場から評するに、極めて不幸な作品であるといえる。加えて、『降誕節』『セメント・モリ』という以前の公演よりも、少なくとも、SNS上での「受け入れられ方」はスムースで、割合として「称賛」の声が多い、という状況を観測することができる。こと此処において歴然としているのは、『さる沢』はユーザーたちによって、あまりにも容易く「消費」されてしまった、という事実である。この点において、ワタシは、肉汁サイドストーリー側への責任追及は、作・演出のるんげを除いて、一切行わない。なぜか。『さる沢』を、暗く、憂鬱で、アンチカタルシスな演劇として、あまりにも上辺だけをなぞったような、定型文に収めて、「思考停止」を露呈した頭の悪い感想ばかりを目にしたからである。つまり、この状況を現出させたのは、我々観客側による加担が大きいものだと考えられる。もっとも、それは我が国が平和で、ぬるま湯であることの決定的証拠だとも言えよう。

 

このインスタントでコンビニエンスな「暗さ」「鬱っぽさ」「重さ」「深刻さ」というジャンルへの選別が、観客によって成されている構図を見ると、寒気がする。もはや、咀嚼する気が無い大衆たちによって、『さる沢』という美しく、おそろしい作品が、あまりにもお子様ランチ的な絶望と化し、その受け取り易さだけが蔓延している。杉浦が述べていた「『さる沢』は極めて音楽的であり、その音楽的な多幸感に思わず涙した」という感想には、なんの新鮮味もない。杉浦側が、甘えん坊の子どもであり、勝手に『さる沢』を離乳食として、消費しているだけのことである。それに、彼の涙は、端的に言って、自慰行為における射精液と、ほとんど同じ意味しか持っていない。

 

この、作品の本質とは密接には関係していない、表面上の「マイナス因子」を、観客が過大評価するという構造は、今年公開された映画『ジョーカー』と酷似している。ワタシは『ジョーカー』を傑作だとは感じるが、それは、あの映画が暗く、憂鬱で、絶望的である、という理由から発生するものではない。そもそも、『ジョーカー』は、一般大衆が過剰に煽るほどの、絶望を兼ね備えていない。あの映画には、ホアキン・フェニックスという生物の名演が記録されており、それ以上でも、以下でもない。しっかりとマーケティング的に、つまり「商品」としての毒素はデトックスされているし、主人公のアーサーとは真逆の生活を送るような、幸福な人々に対して、激しい嫌悪感よりも共感を持って迎えられてしまっている点が、あの映画が商品として「消費」されてしまったことを歴然と物語っている。本当の、本当の絶望、と、いうのは、その作品を観たことを心底後悔することができるし、その作品に抱いた感情を、口にすることさえ気持ちが悪く、一刻も早く記憶から抹消したいと願い続ける、そういったものだ。「消費」される「負の感情」は、先に述べたこの暗黒の時代には、至って「生ヌルい」と、ワタシは感じる。

 

ワタシは『セメント・モリ』の通し稽古を映像でのみ拝見し、実際の公演には足を運べなかった。行けなかった後悔と等しく、本当に行かなくてよかったと思える安堵感すらあった。通し稽古でさえ、『セメント・モリ』の絶望の強度は凄まじく、感情が沸点に達して涙が出て来る、なんて生優しさはない。純度100パーセントの暗闇、がそこには出現していた。それは紛れもなく作・演出のるんげとオールキャストが起こした呪術のようなものであり、そして、純度100パーセントの絶望や呪いは、純度が高いゆえに、あまりにも美しかった。ワタシは、二度と、『セメント・モリ』を、見ることができない。とにかく、あの作品には、一切の「おためごかし」が無かった。ある意味では、観客、いや、世界に対して攻撃的な、暴力的な、オフェンシブな態度すらあった。ワタシは、この世界に『セメント・モリ』が「ある」ということを、本当に恐ろしいと感じたし、本当に美しいとも感じた。加えて、台本のみを拝読するに至った、宇宙空間から混血列島に落とされた禍々しい生命体のような、あの異様で歪つな『降誕節』に関しての感想は、言うまでもない。

 

『さる沢』はワタシにとって、肉汁サイドストーリーを初めてその目で観劇するという試みであった。ここで前2作『降誕節』『セメント・モリ』との比較は、あまり重要なことではない。単に、それぞれの場所でそれぞれの時期に、それぞれの闇がそこに出現していたわけであるし、確かにそれを作り出した人間がいて、確かにそれを目撃してしまった人間がいる、という事実だけが『さる沢』にとっては重要である。『さる沢』は、一般的な層に、と、敢えて定義してしまうが、彼らが何一つとして困惑し、戸惑い、おそれることもなく、あまりにも容易く受け入れられてしまったという現状を生み出してしまった。どうしても針穴に糸を通すことができなくて、ついには諦めてしまう、どうしても知恵の輪が外せないが、その知恵の輪には初めから外す方法など存在していない、といったような、おぞましい虚脱感というものが、「ある」にも関わらず、民にはそれを吸収し、消化してしまう余裕が兼ね備えられていた。そう、『さる沢』には明確に、ワタシが肉汁サイドストーリーに欲求するようなおぞましさも、おそろしさも、美しさも「ある」のだ。ワタシは「ない」という論旨展開をしているのではない。「あった」ものが、大衆に開かれた、普遍的な、薄められた霧だった、ということを特筆しておきたい。深い霧というものが、『降誕節』『セメント・モリ』には広がっており、一度その中に足を踏み入れると、まるで脱出することが出来ない不安感やストレスすらあった。『さる沢』の霧は、遠くから見ると深く濃い色をしているが、いざ中に入ってみると、視界は良好とは言えずとも徐々に慣れ始め、その霧の濃度が、それほど高くなかったことを認識する。そして、最も大きな違いは、その霧が、晴れ切ってしまう、という点である。観客は脊髄反射的な不安感を抱くものの、結果として、その霧からは、抜け出すことに成功するのである。これはなぜか。

 

まず、原作にもなった「猿沢伝説」は山形県発祥の民話であり、よしんばその内容が、あまりにも救われない残酷性をはらんだものであったとしても、この民話自体に閉塞感は無い。物語以前のプレ物語としての、教訓もカタルシスもない民話の残酷性は、その強度とは全く別のベクトルで、民話である以上、開かれた物語であるという点からは逃れられていない。伝承とはつまり、そういうことから分断することはできない。とは言え、この開放されている歪さに対して、本作は脚色を幾多も施しており、その様は秀逸且つ見事である。しかし、この脚色によってもたらされた付加価値は、民話というプレ物語を解体し、その過程で「物語」として再構築していく作業に他ならなかった。るんげによる本作の脚色は、そのほとんどが、彼女自身のパーソナリティに関わる体験を元に具現化されている、というオプションを「含まなくとも」、一つの「物語」としての完成度は研ぎ澄まされており、その完成度は極めて高い。が、「物語」として研磨され尽してしまった「物語」は、その完成度ゆえ、歪さやおぞましさを希薄させると同時に、大衆性とカタルシスを獲得してしまう。その過程に、書き手であるるんげの、極めて個人的な思惑や願いがエッセイ的に書き込まれていたとしても、全く同じ理由で、その体験は主語を失い、観客と一体化する。唐突に断言してしまうが、肉汁サイドストーリーという団体は、この一体化を望んでいる団体ではないはずである。「分断する」ことが容易く可能であり、「分裂症」的なおぞましさと悲しさを常にまとうことが難儀ではない、そんな団体であるとワタシは捉えている。図らずも、『さる沢』は、その物語としての完成度の高さ、脚色の研磨された秀逸さ、そしてそれらを体現する役者陣のフィジカルとリズム感覚の良さが相対的なケミストリーと化し、「誰しもにとって分かり易い物語」と化してしまったことを、ワタシは否定できない。これは言い換えれば、「分かり易い絶望」が、「分かり易いものしか摂取したくねえ」という一般層の観客に、何の障壁も越えずに「分かり易く」伝播していってしまったことを意味している。

 

ここにおいて、観客に伝わらなければそれは第一に表現としては失敗している。だから「分かり易い」ことを揶揄するのはお門違いだ、という反論が考えられ得るが、真空を切り、微風も起こらない。なぜか。「それ」をやるべき団体というのは、他にもいるからだ。ワタシは、肉汁サイドストーリーが「それ」を遂行することに、大きく賛同することはできない。彼らには、もっと鬱屈したペシミスティックと、震えあがるようなユーモアと、燃え上がる情念と、知的なアカデミズムと、そして、消えることのない灯台のともしびのような、あたたかいやさしがある。そう信じて疑わないからだ。「なんでこんな演劇を作ったんだよ、こんなものを見せないでくれよ、やめてくれよ」という激しい拒否反応と、その拒否反応を引き起こす唯一無二の装置としてこの団体が機能しているのであれば、「味わいたくない感動を味わいに演劇を観に行く」というアンビバレンスが発生し、観客は引き裂かれると同時に、自らこの団体に呪縛される、のである。

 

『さる沢』は、この世には「愛されなかった者」「選ばれなかった者」が「いる」、ということをかかげているが、指摘すること自体が野暮であると知りつつ、その「愛されなかった者」「選ばれなかった者」とは、肉汁サイドストーリーであり、作・演出のるんげそのものである。お前らは愛されていない、と決めつけをしたいのではない。「愛されなかった」「選ばれなかった」人々の物語を描くのであれば、そうでなくてはならないからだ。「選ばれなかった」人々への救いも、激励も、同情もいらない、「選ばれなかった」というその景色そのものの定点観測を行うことに重きを置いた『さる沢』は、非常に冷ややかで、モノクロームな色をした山形県を目の当たりにしているようで、ほとんど怪談話を聞いているのに近い冷たさがあった。肉汁サイドストーリーのひとつの側面として、アンチ欺瞞、人間なんてマジどうしようもない、みんな寂しいんだから、という視点や姿勢は、本作にも刻印されてはいる。しかし、果たして『さる沢』は、「選ばれなかった」人々にのみ焦点を絞り切らなかったこと、つまり前述した「あなた方を救おうとも怒ろうとも、激励しようとも考えてはいない」というるんげの研ぎ澄まされた刃が、あろうことか、「愛された者」「選ばれた者」たちの心にも、「突き刺さって」しまっている、のである。作り手は、アンタらにウチらの気持ちなんて分かるはずが無い、というか分かり切ってほしくも無い、そんなにつらかったんだねえ、わたし悪いことしちゃったねえ、ごめんねえ、と思ってほしいとは、微塵も考えてはいないはずだ。が、それが先に述べた完成度ゆえに、彼らにも「なんとなく」伝わってしまい、「なんとなく」感動させてしまっている。己が目標と定めた敵、が、ノーダメージなのにダメージを受けた錯覚を起こして「あなたの気持ちよく分かりました。本当にごめんね。悪かったね」と涙を流してくる姿こそ、最も吐き気のするおぞまき物体である。所謂「愛され」に分類される人間が持っている安っぽい負の感情までも、この作品はカヴァーしてしまい、だからこそ普遍的な作品と化している。しかし、ワタシは肉汁サイドストーリーのユニバーサル化を、ここに見に来たわけでは、決してない。

 

持論である以前に、敢えて暴論と言ってしまうが、『さる沢』には「選ばれなかった者たちが「いる」ことを知っている」というペシミズム且つ距離を縮めない包容力の、「その先」をどこかしらで描いてほしかった。いや、語尾を強めると、描くべきであった。

 

愛されない者たちにとって、誰かが隣に寄り添いつつ「わたしはあなたのことを心から愛していますよ」と優しい言葉を投げかけて来ることほど、嘆かわしいことはない。偽善的な、おせっかいにも近い嫌悪感を感じて、その哀れみは、やがてはらわたで煮えくり返る。鬱病の人間に「頑張れ」と、もしくは「頑張らなくていいんだよ」と応援をすると、どちらにせよ彼らは自己嫌悪に陥るという構造とほぼ同じく、肉汁サイドストーリーは、愛されなかった者たちに「言葉」を投げかけることを最善の術だとは恐らく考えていない。なぜなら、それが「嘘」になるからだ。そんな「言葉」で、我々が「愛されなかった」ことを肯定することなんて、死んでも出来ない。「嘘」の言葉を投げかけるよりも、ただ「愛されなかった」者の話を、黙って優しく頷きながら聞いてあげるような、そういった「彼らなりの正しさ」に舵を切っているのが『さる沢』の本質だとも言える。ワタシも、その点には激しく同意するし、だからこそ、この団体への信頼感は厚い。

 

ところが、この作り手と「愛されなかった者」への距離は、果たして、本作においては適切なものではなかったともいえる。距離が遠くあるがゆえに、その合間に、「愛された者」たちまでもが侵入できる隙を与えてしまったから、である。彼らは「これはわたしのために書かれた物語だ」と、心から思って感謝していることは、絶対に無い。『さる沢』は、実のところの主語である「るんげ」という書き手自身が、意図的に「物語」から「自分自身」を切り離そうと努めながら、その最上級のバランスを保つことに成功した作品である。書き手からすれば、それでも尚、本作と自分自身の重なり具合は、まるでグラデーションの如く「ある」と自負しているのかもしれないし、なんなら脚色の痕がかなり多いと、感じているのかもしれない。特に、梅津ひかるが演じる姉、への思い入れは、観客と言う客観的な立場から察するに、非常に大きなものだったとも感じる。が、繰り返しになってしまうが、本作は、その脚色による物語構築の、技巧としての完成度の高さゆえに、個人と主語が、化石のように死に絶え、生きてはいない。そこには、得体の知れなさや、近寄りがたい禍々しさが毒抜きされた「主語を失った個人史」が「脚色された民話」という骨格に肉付けをされ、直立している。「これはるんげの物語であり、これはるんげの物語ではない」という絶妙なバランスは、各論としては強固な丈夫さを保つが、それらが集合し、総論と化すと、圧倒的な赤裸々さと正直さに欠ける。端的に言って、パンツを脱いでいない。パンツを脱いでみると、その下にもパンツを履いており、さらにその下にもパンツが履かれているのだ。しかしながらワタシは、るんげは、絶対にパンツを脱いでいる、と豪語したい。彼女は創作物に対して、照れ隠しを除いて、絶対に手加減はしないはずだからだ。そのことは噛んで含めるように、我々にも理解が出来る。ただ、実のところ、それはまだ、脱ぎ切ってはいない。慎重に練り上げられたプロットは、その筆力の高さゆえにパンツを降ろしにくくしていることに繋がっているとは、書き手だからこそ中々気付けない。無自覚な天才をフォローするのは、周囲の団員の職務だとも考えるし、他の団員が、決して彼女のご機嫌取りだけの機能では無かったことも、我々は理解している。脱いだパンツを再び履き直させた団員がいたとしても、それはどこまで突き詰めようが、書き手である「るんげ」当人の問題として集約する。役者陣の素晴らしい仕事については、この件とは全く分離されたコンテンツであるので、言うまでもない。だから、ワタシは始めに述べた通り、この『さる沢』がもたらした現象に関して、観客と作・演出のるんげに対してのみ、責任追及をしている。るんげにおいては特に、彼女による完璧なまでの演出、ではなく、彼女による、ある意味「完璧な」台本についてである。

 

恐らく、肉汁サイドストーリーは、自己満足としてだけの演劇を目的とはしていないし、していたとしても、金がもらえるからという理由であれ、集客はしている。なので、演劇を自慰行為と同じものには捉えてはいないだろう。とは言え、寂しがりやの天才に許された自慰性は、芸術の魅力をより良く研磨する。ワタシは、まだ現時点、というのはあまりにも上から目線で申し訳ないのだが、現時点において、肉汁サイドストーリーにその自慰性は認められているし、何より、それを認めようとしない観客、メンバー、その他界隈とは、断絶を引き起こすくらいが、この団体の、劇団としての迫力に繋がるはずである。

 

書き手である「るんげ」は、「るんげ」の物語を、より正直に、より手加減なく、書いてしまって良かったのだ。ストーリーテリングというオブラートに包むことは、「愛されている者」たちにとっては全く必要ない。作者の思惑と物語の虚構を巧みに連結することこそが、寓話的な美しさでもあり、『さる沢』の寓話性は、あらゆる意味で高いといえる。『さる沢』は演劇として、お世辞抜きに「面白い」演劇であるし、「面白くなる」ように努力している箇所が、いくつも見受けられる。だが、本作は実際のところ「100人が見たら80人くらいは褒めてくれる」作品であって、「わたしのための物語」あるいは「あなたのための物語」では、無かったとも言い換えられる。「消費」されるために書いたのならば、この論考の言葉は、何もかも見当違いである。しかし、「消費」されることへの反抗が、ワタシは肉汁サイドストーリーには「ある」と考えている。商品、作品、団体が消費されるというよりは「るんげ」というコンテンツ自体を、安い感動/絶望として、売ってしまって良いのだろうか。「つまらなくなることを恐れずに書き上げた情念」が、『降誕節』『セメント・モリ』には、明確に存在していた。比較をするべきではないならば、こう結論する。『さる沢』は「完成度の高い面白い作品であることには成功しているが、つまらなくなることを恐れずに書き上げた情念は、感じない」と、いうことである。

 

『さる沢』は、そのプロットから想起するに、間違いなく肉汁サイドストーリー、ひいてはるんげにとって「鏡」になるような作品であったと考えている。深層心理的な意味で、最も見たくないものが鏡に写った自分の顔であるかのように、『さる沢』は見た者を、演者を、そしてるんげを苦しめ、活性化させる装置になると、見る前は予想をしていた。ところが、実際の『さる沢』という鏡は、実物大ではなく、スクエアサイズにトリミングされたセルフィーの画面であり、どんなに苦しい表情をしても、目は大きく、頬はピンク色に、自動補正されてしまっていた。その顔は確かに美しいが、それこそ、「嘘」にはならないだろうか。

 

ワタシは、るんげ本人との知己があり、彼女が全くの初心者ながら、共に一本の映画を製作した身としては、勝手ながら「仲間」であるし「大切な友人」だと、心から思っている。だから、残念ながら、ワタシは彼女の紡ぐ「言葉」が、本当は好きだ。客観的な立場をいくばくか偽ろうとも、他人からしたら我々は「身内」と呼ばれても、致し方が無い。とは言え、ワタシは演劇という芸術それ自体とは分断されながらも、るんげというフィルターを通して、今回、とても興味深く、自分にとっての「演劇」を、見つめ直すことが出来た。この論考、並びに感想を話すに辺り、一切の「嘘」は無い。それが、『さる沢』を観た観客としての、本作に対するアンサー、である。

 

結びに、ワタシのアイデンティティとして、本作とまつわる、三つの事柄について話しておきたい。

 

恐らく、『さる沢』と最も近い構造とテーマを持った作品に、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』という映画を挙げることが出来る。アリ・アスターは前作『ヘレディタリー 継承』で、世界そのものを呪って、明らかに他の映画とは異なるディメンションの磁場を発生させた才人であるが、『ミッドサマー』は、その彼の最新作に当たる。本国アメリカでは既に公開済みであるが、日本では来年2月公開の運びとなり、ワタシは配給のファントムフィルムの仕事の遅さに嫌気が差し、ソフトを輸入して、一足早く鑑賞した。『ミッドサマー』と『さる沢』の何が類似しているのかと言えば、それは『ミッドサマー』のテーマを述べさえすれば事足りてしまう。端的に言って、『ミッドサマー』という映画は「選ばれなかった者が、ついに選ばれたときに、一体何を選び、何を選ばないのか」ということを描いた作品である。そこには、選ばれなかった者、愛されなかった者、つまりは監督であるアリ・アスター自身の、全くの手加減が無い世界そのものへの暴力性と、それでも、その絶望から這い上がるための微かで美しい希望が、残酷なまでに映し出されている。アリ・アスターは鏡を割ることを選ばずに、じっくりと、自分自身の極限までを、その鏡を通して見つめ直すことに成功している。彼は愛されなかった者たちへ投げ掛ける。「今いる世界が闇ならば、光を浴びに別の世界へ一歩進まないか。たとえその別の世界が、地獄だったとしても」光り輝くスウェーデンの地獄で、果たして選ばれなかった者は、今まで見たことが無かった光を目の当たりにして、地獄の底において、救われるのである。

 

北欧スウェーデンが舞台だった『ミッドサマー』から繋げて、同じ北欧、デンマークが生んだ世界最大の童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンと『さる沢』を結ぶことも可能である。アンデルセンは、生涯誰からも愛されなかったことで有名である。一説によると、彼はアスペルガー症候群だったともいわれている。彼はたくさんの人を一生懸命に愛して来たが、誰からも愛されず、孤独に死んでいった。ティム・バートンアンデルセンの生涯それ自体に大きく影響を受けて『シザーハンズ』を製作したとも言っている。『アナと雪の女王』の原作であり、脚色ゆえに原作としての意味をまるで失くしてしまった『雪の女王』や、王子様に恋する人魚の悲哀に満ちた『人魚姫』など、どれも「一生懸命に人を愛するが、誰からも愛されずに、やがては孤独に死んでいく人々」の物語で、アンデルセンは、そんな彼らを生涯描き続けた。ワタシが『さる沢』を観て思い浮かべたのが、アンデルセンの『ひなぎく』という短編である。

主人公は雑草のひなぎくで、彼女は誰からも知られぬまま、道端で咲き続けている。ひなぎくの頭上では、ひばりが飛んでおり、いつも楽しく歌を歌っている。ひばりはひなぎくには気付かないが、ひなぎくは、そんなひばりの楽しそうに飛び回る姿を見て、いつもあこがれていた。そこに突然、ひばりが降りて来る。驚き、喜ぶひなぎくに対して、ひばりは優しく言う。「きみはなんて可愛いお花さんなんだろう。きみは"黄金の心"を持っているだろ」と。ひばりは、ひなぎくの姿を見て降りて来たのではなく、ひなぎくの心を見て、降りて来たのだ。「君の心は、素晴らしいだろう」ひばりはひなぎくにそう言ってくれる。ひなぎくは、そんなことが言われたことが無かったので、心から喜んだ。ところが、そこを通りかかった人間の子どもたちによって、ひばりは捕まってしまう。ひばりはそのまま檻に入れられてしまう。子供たちは「花とか草もあった方がいいだろう」と言って、ひなぎくもまた、地面と共にさらわれて檻に入れられてしまう。ひばりもひなぎくも、檻の中で、どんどんと弱っていく。結局ひばりは、ひなぎくに「かわいそうに」と言い残して、そのまま衰弱死してしまう。そのあと、ひなぎくも枯れてしまい、やがて死んでしまう。死んだひばりと枯れたひなぎくを、子どもたちは道に捨て、去っていく。一番最後の文章には、こう書かれている。「それから、誰、一人も、ひなぎくのことを思い出す人はいませんでした」

果たして、これは童話なのか。これを子供に聞かせて、どう思えと言うのか。何もいいことがないのだ。黄金の心を持っていても、ゴミのように捨てられて人生は終わる。しかも、誰もひなぎくのことを覚えてはいない。これこそがアンデルセンの心の底からの叫びだった。ハッピーエンドをつけて、商業的に売ろうという考えが無い、恐ろしい童話が『ひなぎく』である。よしんば、ひばりはひなぎくのことを「選んでいなければ」死ぬことは無かったし、ひなぎくもまた、ひばりに「選ばれていなければ」死ぬことは無かった。この物語における「選ぶ」「選ばれる」という行為は、果たして希望なのか、それとも絶望でしかないのか。『さる沢』における猿にも、ワタシは「黄金の心」があったと、考えている。

 

「黄金の心」という言葉は、アンデルセンと同じくデンマーク出身の映画監督、ラース・フォン・トリアーとも繋げることができる。トリアーは『イディオッツ』『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の三作品を称して「黄金の心三部作」と名づけている。この三部作に共通しているのは、三作とも女性が主人公で、その主人公が人のために尽くそうとすればするほど、事態は悪化し、酷い目に遭っていくという映画であることだ。この「黄金の心=ゴールデンハート」という言葉は、先に述べたアンデルセンの『ひなぎく』から引用されたものではないと、トリアーは語っている。曰く、彼は子供時代に、図書館である一冊の絵本に出逢った。それは『ゴールデンハート』という絵本だった。

ゴールデンハートとは、主人公の女の子の名前である。彼女は心があまりにも清らかなために、困っている人々に自分の物をすべて与えて行ってしまう。最初は、ケーキを手に持って森の中を歩いていると、お腹を空かした人と出逢って「私のケーキを食べてください」と、そのケーキをあげてしまう。彼女が杖をついて歩いていると、足の不自由な老人と出逢い「どうぞ、私の杖を使ってください」と、その杖を渡してしまう。その先で、ホームレスの男の子が寒さに震えているのを見て、「とても寒そうだから、どうぞわたしの服を着てください」と、服までもあげてしまう。何もかも失ったゴールデンハートは、果たしてどうなるのか。しかし、そこまで読み進めていったトリアー少年は途方に暮れる。その絵本の「最後のページ」だけが破られていたからだ。

かくして、トリアー少年は、総てを失ったゴールデンハートちゃんの結末を見ることが出来なかった。彼は大人になるまで、ずっとこの絵本の最後のページのことが気になっていた。一体、あの後、彼女はどうなってしまうんだろう。なぜ最後のページだけ破り取られているのだろう。やがてトリアーは大人になってから、ついに新聞の投書欄で「『ゴールデンハート』という絵本を持っている人はいないだろうか」と募集をかける。「どうしても、最後がどうなるのかが知りたいのです。お願いします」すると、偶然にも、その古本を持っている人物が名乗りを上げた。その人は、トリアーの自宅に『ゴールデンハート』の絵本を送ってくれた。『ゴールデンハート』のラスト、最後のページは一体どんなものだったのか。

全てを失ったゴールデンハートが寒空の下で震えていると、突然、空からお金が降って来る。まるで、神からの救いのように。そして彼女は、そのお金のおかげで、それから幸せに暮らしましたとさ、と。

トリアーのフィルモグラフィにおいて、いわゆる表面的な意味でのハッピーエンドは、一作品も、一瞬も撮られていない。トリアーは一言こう述べている。「最後のページが破られていた意味が分かったよ」

 

肉汁サイドストーリーの作品はどれも、ある意味で「最後のページが破られている」。その「最後のページ」を破り取っているのは、作・演出のるんげ自身でもある。先に述べた通り、るんげ本人は「最後のページ」が欺瞞に陥ることを十二分に理解しているし、「最後のページ」がもたらす安堵感の凡庸さもまた、彼女は知っているはずである。それは『降誕節』『セメント・モリ』そして『さる沢』においても当てはまることだ。事象だけがポツンと描写され、誰も祝福されず、途方に暮れている、あの救いの無さは、物語の幕切れとして他には考えられない結末であるともいえる。登場人物と共に、観客も取り残されるような、あの不安感や虚無感は、紛れもなくおそろしいし、単語そのものの意味で「強い」と感じる。はっきりと、ヒトの心の時計が止まってしまった瞬間を目の当たりにするというのは、ほとんど呪いに近い。だからワタシは『さる沢』のラストを、当然、あれ以外には考えられないと思っている。

 

問題は、肉汁サイドストーリーが、次に何を描くのか、だ。これから何を描くのか、だ。『さる沢』がもたらした一連の現象を踏まえて、あるいは、ひとりの観客として、そしてひとりの友人として、ワタシは、あることを提案したい。

 

「最後のページを破り取っていた、その手を、誰かに差し伸べる手に、してみないか」

 

「傷付いた誰か」を「救う」つもりは、確かに無いのかもしれない。それでも、るんげには、ちゃんと救わないとならない「誰か」が、絶対にいる。

なぜなら、差し伸べたその手の先にいる「誰か」は、その手に対して手を伸ばしている「るんげ」本人だからである。それ以上でも、以下でもない。

その手が掴まれた時、作品は「わたしのための作品」であり「あなたのための作品」として、変貌を遂げる。100人の「傷付いていない、愛されている、選ばれている人々」を、血肉と時間と、命を注いで救う必要など、どこにも無い。たったひとりの「あなた」を、たったひとりの「あなた」に、その手を、指し伸ばしてみるのである。

ワタシは、それこそが、『さる沢』を通過した肉汁サイドストーリーの、新たなる課題だと考える。

 

最後のページを、るんげに破かせるな。最後のページを破ろうとするのは、そう、我々観客のミッションであるべきだ。安々と被害者になろうとするな。容易く人の願いを消費するな。そんな簡単に「愛されなかった者」たちを歓迎するな。呑気に、受動的に、演劇やフィクションに触れた気でいるな。我々から近付きに行け。もっと、もっと奥に。もっと、もっと先に。深い霧の中に突っ込め。深い霧の中にるんげを連れ出せ。彼女を、もっと苦しめろ。るんげの書く演劇は、お前らにとってのエナジードリンクなんかではない。お前らの生活の為のガソリンではない。お前らがるんげのエナジーと化すのだ。お前らが、るんげの心のともしびに、油を注ぎ続けろ。燃やせ。彼女を、我々の手で、燃やし尽くせ。燃え切った時に、灰に混じってただ一つ残ったもの、それが、肉汁サイドストーリーが、本当に描くべきものだ。

 

肉汁サイドストーリーに手を差し伸ばしてはならない。

肉汁サイドストーリーに愛を与えてはならない。

肉汁サイドストーリーに恋を覚えさせてはならない。

肉汁サイドストーリーを選んではならない。

肉汁サイドストーリーを受け入れるな。

肉汁サイドストーリーに林檎を授けるな。

 

イヴに林檎をかじらせた蛇は、悪魔の化身であったことを、忘れたと言うのか。

 

我々観客が、彼らに福音をもたらし、我々観客が、彼らから福音を授かろう。

肉汁サイドストーリーと関係を持つということは、ハッキリ言うが、そんな生優しいものではない。

我々が能動的に加害者となれ。るんげは、彼女は、加害者であるよりは、被害者であることを、きっと望むだろう。

そして、すべてが結実して、彼女が書く最後のページの筆圧が、これまでよりも、何倍にも増すことを、期待し、導こう。それが出来ないのであれば、本当にそれが出来ないのであれば、演劇の観客なんて、まるで無意味な、思考停止の連中に成り下がってしまうことだろう。

 

ワタシは、俺は、観客を信じている。そして信じさせるのだ、るんげに。

演劇の力を。今改めてもう一度。フィクションの力を。今改めてもう一度。

肉汁サイドストーリーの力を、今改めて、もう一度。

投げ掛ける言葉は、たった二言でいい。るんげに投げ掛ける言葉は、たった二言でいい。

 

「それで、いいんだよ。それで、大丈夫なんだよ」

 

あなたって完璧なまでにふさわしい人みたい

傷を負って止血帯が必要な女の子にとってはね

でも、あなたは私を救ってくれるの?

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私のことを救ってよ

 

だって、私にははっきりと分かる

ハンガーストライキでの永遠のお別れがどんなものか

あなただって知ってるでしょ?

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私のことを救ってよ

 

あなたの前では言葉を失うの

ラジウムのように

スーパーマンのように

ピーターパンのように

あなたはやって来る

私を救うために

 

杉浦「ってなわけで、なんだい戻ってきたら流れているのはエイミー・マンによる名曲『Save Me』じゃないか!確かに『さる沢』の帰り道に、まずこの曲を聴いて余韻に浸ったことは言うまでもないんだよな。ということで、るんちゃか、キミが「私を救って」とつぶやいても、僕たちは聞こえたふりをして、いつもより長く煙草を吸ってみることにするよ。それが、そう、友達ってもんだろう。それでは最後に、哲学的かつメタフォリカルな問いかけをしてこの音源は終了する。なあ、るんちゃか、キミが噛み続けているそのお気に入りのガムの、味は、まだ、するかね?

 

ねえ、私を救ってよ

自分が決して

誰も愛することができないと思い込んでいる

この気狂いたちの群れから

私を救ってよ

オルケスタとしての肉汁サイドストーリー、或いは、破られた最後のページ【肉汁サイドストーリー『さる沢』雑感①】

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※当エントリーは、筆者の友人である杉浦氏と彼の友人である蒼井紅茶氏が、肉汁サイドストーリーによる演劇『さる沢』の観劇に際して、観劇後の余韻と興奮によって自主制作ラジオとして収録された音源が、あまりにも滑舌が悪く、また長尺と化して自滅状況に陥ったことを考慮し、なるべく正確に文字起こしを試みた文章である。以上を踏まえて、読み手の皆様には何卒ご了承いただきたい。

 

 

どうも、お寒うございます。ワタシは、しがない映画ファン、杉浦と申します。初めましての方、初めまして。特に自己紹介は致しません。ご容赦いただきつつ、お見知りおきを。

12月15日、ワタシは肉汁サイドストーリーによる舞台演劇『さる沢』の千秋楽を観劇しました。率直な感想を述べるとすると、大変素晴らしかったです。思い出すには辛すぎる、忘れ去るには美しすぎる、といったアンビバレントな余韻も含めて、傑作だったと思います。こうして、居てもたってもいられず、帰宅して直ぐそのままダイレクトに、マイクロフォンの前に腰を据えて、浮かんだ言葉を発声している次第です。と言うよりは、腹に一発キツイのを食らった、しかし喰らいつつ、テメェが感じている痛みや、苦しみや、もどかしさや、憂鬱や、暗さといった脊髄反射的な感情は、劇中に登場した誰よりも軽く、甘く、薄められた感情であって、ちゃんと一発喰らってしまっている自分のことが浅はかでさえあるとも、同時に思っています。

ワタシは演劇に関しては完全な門外漢です。今年も、映画は劇場だけで130本見ていますが、演劇は『さる沢』も含めて、たったの2本、のみです。演劇が嫌いだとか、演劇に憎しみや殺意があるわけではありません。単に、ワタシは映画が好きで、それは、野球よりもサッカーが好きみたいな感覚とほぼ等しく、東京ドームには行かないけれど味の素スタジアムには足を運ぶ、というようなことだと言えるかもしれません。ですから、演劇の作法や美しさについて語るべき言葉を持ち合わせていません。とは言え、良い作品であれ、つまらない作品であれ、自らが感じた雑感というものをアウトプットしておく、つまり外部に吐き出しておく、という行為は、これはワタシの手癖でありフェティッシュと化していて、人が携わった作品は必ず言語化を試みる、ということをフィックスしています。よしんばそれが、醜い行為であったとしても、語らずにはいられない表現がある、そういった衝動は常に存在しています。知ったかぶりをして劇評、なんて愚行を行うつもりは全くありません。描かれている事象や運動をつぶさに検証していく表層批評をするつもりもありません。これはあれで、あれはこれで、といったような作品の裏側から考察し、メタフォリカルに紐解いていく、分析批評をするつもりも、最も、全くありません。何より、るんげの書いたホンを分析するというのは、分析すると決断した時点で、こちらの知的な敗北はある種決定されているからです。ワタシは、原作である山形県の民話「猿沢伝説」について、一瞬も調べずに、今日まで過ごしてきました。異類婚姻譚、であるということ、猿が娘を嫁に貰う、ということ以外、何も知らずに、るんげの描く『さる沢』に挑みたかった。そして、その選択は、間違ってはいませんでした。

ワタシはいつも、作品の感想は、文語調の文字として書いています。しかし、ここでは、お聴きの通り、ワタシは現在進行形で、皆さんのお耳汚しを遂行しています。なぜか。結論じみたことを言うならば、「声」によって与えられた尊さは、「声」によって讃えるべきだと、寒空の下で託宣を受け、確信に至ったからです。今からワタシが好き勝手に述べるのは、総てがワタシの暴論であり、戯言であり、しかし至って真剣な、素人の「感想」としての機能しか持っていません。それを御承知の上で、引き続きお耳を拝借、させてください。

とは言えですね、演じた側も、観た側も、お疲れでしょうにね、申し訳ないっすね。あと、さっきの、分析はしないよってことに加えると、脚本、いや台本か、つまり物語ですね、物語の構造についても特に言及するつもりはありません。そういったオハナシとしてワタシはこう感じました、悲しかった、もやもやした、という論は、恐らくSNS上にもたくさん書き込まれているはずなので、ここではちょっと除外します。重ねて、キャラクターについても話すつもりはなく、ええー俳優部、違うか役者、演じた役者の皆さんへの興味の方が個人的には大きいので、そちらに絞ります。

ってな具合で前口上がですね、ダラッダラと長くなってしまいましたけれど。ええー『さる沢』ね。これ観た方ならば、皆さん言及されていることなのかもしれませんけれど。端的に言って、完全に「声」が素晴らしかったですね。「声」完璧。「声」というか、「発声」ですね。もっと言ってしまえば、「音」ですね。完全に「音」として、一音残らず、「音」の素晴らしい作品だと思いました。これは大絶賛に値する、全く過言ではない素晴らしさだと思っています。この「声」「音」の作り方、は、すごいですね。いやーそんな、声とか音とかもっともっとこだわった演劇だってあんるだい、って言われちゃあ、アタシはさっきも言った通りズブの素人ですからね、はあはあはあ、そうでござんすかと白目むくしかないんですが。

何がそんなにすごいかって、これめちゃくちゃ極論として言っちゃいますけど、もうね、ほとんど「音楽」に近いの。うん。演劇をほとんど見てきていない、つまり徹底して分母が少ない、劇団のマッピングが出来ていないテメェのボヤキですから、まるで童貞がセックスを語るような居心地の悪さがあるやもしれませんけれど。いやー、こんなに「音楽」をやらずに、「音楽」に近い演劇は観たことがなかったです。「音楽」に最も近い集団なのではないかしら、肉サイというのは。

これらは「音楽」が我々にもたらすグルーヴ、言ってみれば、その音楽が我々に与える印象がプラス因子であれマイナス因子であれ、「音楽」というのは絶対的に多幸感をもたらしてくれます。よしんばそれがへヴィメタであれデスボイスの騒々しい曲であれ、悪魔崇拝の歌であれ、「音楽」は自ずとすべて、ヒーリング作用を内包してしまっています。それが音楽の恵みであり最も美しいマジックなのだけれども、『さる沢』にはそれがありました。マジックが。魔法がかかってた。何気ない一言、を、どのように発声させるか、そこにこだわり切っているのが見ていてよく分かります。語尾の上げ下げで喜怒哀楽、あるいは無の感情を表現する手際は、もちろん他の芝居でもやっているのを観た事ありますが、今日目撃した5人の役者、この5人には誰も敵わない。

まずもって全員の声が、一人残らずもう天からの授かりものですね。素晴らしかった。全員。本当に各々異なる音域を持っていて、それらのケミストリーが発生していて、つまりキャストアンサンブルの相性の良さ、持論に近付けて言うならばデュエットの「聞きやすさ」は、ほぼ文句を垂れる隙がありませんでした。静かなるミュージカルだったと言いたいのではないです。あくまでも『さる沢』という約90分間の上演時間が、90分間の曲のような、一曲のような、イントロを経てAメロがあってBメロがあって、サビがあって、そんでアウトロみたいな、印象がかなりありました。

まあ極論の極論ならばオペラやオペレッタにも近いかもしれません。オペラの場合はサビはアリアっちゅー風に呼びますけれど、ちゃんとアリアが、ありましたもんね、音によるね。例えばお姉ちゃんが妹を恫喝するシーンね、シーンって癖で言っちゃいましたけど、あそこのアリア感ね、るんげ語で言うところのアルトラ・アリア感ったらないですよね。もちろん、声とか音ばっかり褒めやがってってそういうわけじゃなくて、演者の皆さんの肉体の、身のこなし方、佇まい、も、言うまでも無くってレヴェルでどうかしていましたよね。これ敢えてこういう言い方しますけど、表情の「人」としてのわびしさとかエロさがね、終始展開されまくっていました。顔がずっと、闘っているんですよね、戦場に顔があるんじゃなくて、あれはもう顔が戦場と化している状態で、それこそお姉ちゃんのアルトラ・アリアの場面、あの梅津さんの左眼の下の、左頬の神経がガチで痙攣してるんじゃねえかってくらいにピリピリって、顔が歪むんですけど、もう凄まじい形相で、ほんと素晴らしかったんですけど、ワタシはその際の、彼女がどのような「声」によって、「音」によって、内面を吐露していくかという、その「演奏」の部分に、大変興味がありました。

音のアクセントだけではなく、リズムも甚だ素晴らしくって、これは言い換えてしまえばテンポの良さとも呼べるのですけれど、個人的には上演時間90分、全くもってクッソ短く感じました。ズシーンと来るとですね、ズシーンと来るハナシってのは、体感的に長く感じやすいものですけれど、それはつぶさに考えれば錯覚でしかなくてですね、『さる沢』は間違いなく的確なリズムで、つまり的確な間とテンポがもたらす世界観の創造というのが、紛れもなく成功されていました。心地よかったんですよ、すべての台詞が。ほんとうにひとつ残らず。台詞だけじゃない。例えば階段を上る音は、「裸足」によって踏まれた地面の音で、あの心地良さね。裸足であるという設定は言わば状況説明だったりもしますけれど、裸足を裸足単体の意味では終わらせない、「裸足」という「音」を作っている、そういうところの手腕が流石はるんげという気持ちでいっぱいでした。本当に耳が良いことを立証していると思います。絵が描かれた紙をめくる音や、林檎をかじる音も、同じ理由で、『さる沢』の音楽性を更にグレードアップさせていました。

先ほど、5人のキャストそれぞれが、異なる声質でありつつこれ以上ないバランスがあることを称賛しましたが、実はこれはかなり、難しいミッションに成功していると言えます。これは音楽的な視点、特に音楽理論、楽理の視点から話してしまいますが……ええー音楽には3つの「調」というものがあって、これが長調短調、そしてブルース調と呼ばれる3つなんですが。ええーここではブルース調はあんまり重要ではないのでぽーんとコンビニのゴミ箱に捨てちまって、長調短調について。この二つはメジャーとマイナーなんて言い方もします。長調は明るい、楽しい、幸福をイメージさせる音階ですね。一方短調、マイナーの方は暗い、悲しい、でもこう熱い、燃えるって感じの音階です。

で、ここで『さる沢』を曲だと捉えて考えてみるとすると、物語の上を走っている、つまり物語を展開していく演者の皆さん、の「声」、これをメロディとします。そして、メロディの下にあるのは、コードです。このコードは物語、つまりこの設定された世界それ自体だとします。

一般的な楽理では、メロディはコードに引っ張られてしまう、という定説があるんですね。例えばどんなに明るい長調のメロディでも、コードが短調で暗いと、その曲自体は短調の印象が強くなっちゃうんですよ。要するに器の方に持ってかれちゃうの。印象が。ぴかぴかに光ってるお米なんだけど、どんより暗い色したボロボロのお茶碗に盛られてるとマズそうに見えるみたいな、まあ超簡単に言うとそういうイメージなんですね。これを楽理では「液状化」と呼んでいます。アイスコーヒーにミルクを入れてかき混ぜると、コーヒーとミルクは完全に溶け合いますよね。黒と白が混ざってブラウン色になる。セパレートが消失する。一体化する。これが液状化です。音楽におけるメロディとコードは、どうしても液状化してしまうという、この宿命から逃れられなかったんですね。

ところが、『さる沢』では、明るいとか暗いといった印象論ではなく、あくまでも、メロディ、つまり演者の「声」は物語に引っ張られることなく、その音単体として独立している。具体的に言うと、皆さん声が「高め」であり続けている。物語がどよーん、もうお駄目だこりゃーと展開しても、敢えてそこで「高い音」を出し続ける。これは梅津さんが特に、非常に丁寧にやっておられました。猿役のバンナイさんにおいては、死という暗くて重たいイメージ、まあ文字通り彼は臼をかついで重たいわけですが、そういった物語や状況に引っ張られることなく、「笑って見せたり」するわけです。まるで道化師のような。ピエロのような。最近だと『ジョーカー』のような、絶望に直面したからこそ笑うんだ、キミには笑顔しか見せたくないんだみたいな。とにかくあのバンナイさんの笑顔の、恐ろしいまでのもの悲しさ。それは、コード、つまり物語は終始暗くどんよりしているからこそ、逆に際立つわけです。また、階段を下りて来るたかぐちさんの顔が隠れながら、でも彼の「声」だけはするっていう素晴らしい演出がありましたけれど、この演出は、彼の「声」を信じていなければ決して出来ない。たかぐちさんのあの声は、ちょっとびっくりしましたけどね、液状化しなさ過ぎて。市川さんは終始低い音を出し続けるのだけど、対峙するのが高さを持った冴島さんだったり梅津さんだったりと、ちゃんとその場には短調長調による、各々独立した磁場が発生しているんです。とまあ、長調のメロディを持つ役者たちと、短調であり続けるるんげの書いた物語は、お互いが溶け合うことで演者を暗く沈めるのではなく、ある種お互いが独立した状態であり続けることによる異化効果がもたらされているわけです。要は液状化していない。普通はしちゃうのに。アイスコーヒーとミルクの層がちゃんと分離してある、セパレートがあり続けるという構造が、『さる沢』には確立されていました。繰り返しになりますが、普通は物語に芝居が、声が引っ張られます。しかし『さる沢』は、むしろ物語に抵抗、アゲインストするかの如く、音域を低くしたりしない。当たり前のことを言っているようで、コレが出来なくて叙情的にしようと演者が引っ張られる作品は、掃いて捨てるほどあります。

もう一つ付け加えると、この長調のメロディと短調のコードが液状化していない、という現象は、例えば前説の時点から明快なものとして表れているんですよね。るんげが能天気に前説を始めるわけですけれど、そのるんげの話し方は、高い音、ドレミのソくらいの、高くて明るい雰囲気で終始話しています。一方、るんげの前説と同時に、横たわっているお姉ちゃん、梅津さんの口から、ひゅーひゅーと息が漏れ始める。この息の音の、なんともおぞましいこと。このひゅーひゅーという音は、低く、唸るような、低音であり続けるわけです。このそれぞれ真逆の二つの音が、同時に鳴り続けるということによって、観客は、明るくもあり暗くもあるその時間への、一種の居心地の悪さを感じます。気持ち悪いってことは、たいていは新しいってことです。これは優れた異化効果としての機能も持っているし、明るい・暗いというアンビバレンスに観客が引き裂かれるような感覚があるわけです。もうこの初っ端から、うわー、すげー、音楽じゃん、と面喰らっていました。この短調長調の同時存在は、終演後の、後説って言うんでしょうか、そこでも再びるんげが出てきて、再びお姉ちゃんの後ろ姿と、呼応しているし、呼応しないという不思議な余韻を残してくれています。ラストランまで、『さる沢』は徹底して音楽的であり続けるわけです。

同時に、この前説・後説における、るんげとお姉ちゃんの関係性は、言い換えれば双方が双方のペルソナと化しているようでもあり、つまりは、直接的な主人公ということではないにせよ、るんげに最も近いキャラクター、最も思い入れがあるであろうキャラクターとして、お姉ちゃんが無意識に観客の印象に刷り込みされる構成にもなっています。確かに、お姉ちゃんの声の発声は、というか声色自体が、るんげに似ていましたからね。特に叫ぶところ、アルトラ・アリアの場面、るんげが叫んでいるかのようでしたよね。俺はるんげの叫んでいる姿は見たことないけど(笑)まあでも恐らくは、無意識に、そういうことなのだと思います。

ええー、ワタシ見てて、泣いたんですよ。泣いちゃったの。で、泣いたなんて言っても、るんげが喜ばないのは知ってるんですよ。は?安々と泣いてくれるなよ?って思うはずなんですよね、あの人は(笑)だから泣くつもりなんか一ミリも無かったんですけれど、どこで泣いてしまったかというと、「やめてよ」と取り乱すお嫁さんに対してですね、猿がポツリとつぶやく「やめない」、という台詞ですね。その「やめない」って台詞の、音がですね、もう完璧で。たった一言、四文字ですよ。「やめない」。でもめちゃくちゃ美しかった。素晴らしい音楽の一節を聴いたときと同じような多幸感が、その一瞬でブワッと押し寄せてきて、もう決壊しましたねえ。つまりですね、音に泣いてしまったんですよ。そのあまりの美しさに。物語とか芝居とか、もちろんそういった括りすべてを踏まえてなんですけれど、たった一音でグッと心を掴んでしまう、そんな瞬間があるだけで、『さる沢』はワタシにとって特別な作品でしかないですね。そして、るんげは作・演出ではなく、指揮者と言っても過言ではない。コンダクターですよ。コンダクターるんげ。各々の演奏者たちの音色を統制し、90分間の叙事詩を奏で上げてしまう。要するに、肉汁サイドストーリーはオーケストラである。肉汁サイドストーリーは、オーケストラである、ということです。

 

と、ここで!突然ですがバトンタッチ。ええーワタシも一人で長々と話し過ぎてしまいましたから、シンプルに話疲れてしまいましたから、喉カラッカラですから。ワタシはこのセクションで途中退場しまして、ここからはワタシのアルターエゴ、蒼井紅茶くんにマイクを譲ります。彼とのファーストコンタクトは1年と半年前、新宿歌舞伎町にあるパリジェンヌという喫茶店だった。新しい映画の打ち合わせだった。そこでワタシはウインナーコーヒーを、彼はカモミールティーを注文し、運ばれてきたカモミールティーを見て、彼は言った。「この紅茶、青いです」その瞬間、ワタシはアンリ・ミショーが阿片のやり過ぎで一時的に色覚錯乱が起きると、紅茶が青く見えるというエピソードを思い出し、大きく高笑いした。彼が阿片の常用者なのか否か、そんなことはどうだっていい。それ以降、ワタシは彼を本名では呼んでいない。彼は蒼井紅茶だ。彼はワタシの10兆倍冷酷で、10兆倍シリアスで、10兆倍本を読み、10兆倍音楽を聴き、10兆倍映画や演劇を観て、10兆倍セックスが上手く、10兆倍ユーモアがあり、10兆倍心が無い。そんな彼も、確かに、あの千秋楽の会場にいた、「いた」のだ。蒼井くん、僕はちょっと紅茶が飲みたくなってきたのと、そろそろヤニを20発ほどキメたいので、キミにこのマイクを回す。マイクは奪い合うためにあるのではない。それは芸人がやることだ。我々は芸人ではない。マイクは、回すためにある。蒼井くん、僕から回ってきたそのマイクで、「自分には無理だと思っている人々」に向けてMCしてくれ。頼んだぞ。それでは、MCの逆、C・Mです。

 

②へ続く。

2019年映画ワーストテン

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1位 『屍人荘の殺人』(2019/木村ひさし)

堂々のワーストワン。単に映画としての酷さを極めていたからこの順位なのではない。映画としての酷さを極めつつ、最低映画でしか味わえない絶対的な高揚感と多幸感を兼ね備えて、僕らを犯しながら、僕らを射精へと導いた、完全にオリジナルな危うさを孕んだ愛すべき失敗作だから、この順位なのである。僕の感情が「大嫌い、大嫌い、大嫌い……大好きッ!Ah……」と、所謂サマーナイトタウン状態に陥った作品は、本作を除いて2019年は存在していない。監督である木村ひさしと、脚本家である蒔田光治の両者が、テレビドラマ時代からの手癖をこれでもかとスクリーンの上に撒き散らかしており、事態は深刻極まりない。徹頭徹尾に駄作の模範解答を完遂してみせる本作における唯一であり最上の救いは、ヒロイン、浜辺美波の存在である。この浜辺美波は素晴らしい。スットコドッコイ名探偵としてのキャラ立ちの異様な完成度。もはや日本のコメディエンヌの最高峰たる芝居を毎度のこと披露してくれる彼女、明らかに、あの愛すべき『センセイ君主』から更なるアップデートを成し遂げている。果てしなく映画に愛されて祝福されている女優が、アクロバティックに、ダイナミックに名演する姿は、その景色だけで幸福感に満ち溢れている。本当に浜辺美波だけは素晴らしい。しかし、この最高の彼女が拝見できるのは『屍人荘の殺人』なのである……。端的に言って、なんたることだろうか……。今宵も我々は、あの浜辺美波さんを目撃するためだけに、地獄のような事故現場へと足を運ばせるのだった。

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2位 『Dinner ダイナー』(2019/蜷川実花)

演劇として撮られた映画、ではなく、映画として撮られた演劇。『Diner』は全く「映画」ではない。本編にあるのは演劇的な演出と、演劇的な「舞台芝居」のみ、である。横尾忠則の装飾も「美術」ではなくて「舞台装置」として機能させてしまっている。平山夢明の原作のファンとしてはR指定でない時点で肩を落としてしまうし(だからこそ『無垢の祈り』は本当に素晴らしかった)、「演出家」ではなく「カメラマン」としてのみの才能と責任しか常備していない蜷川実花の「映画」を劇場で観てしまうことには、自縛的な窒息感すらある。本作は徹頭徹尾「演劇」として魅力的であり、「映画」としては破滅している。いや、自滅というニュアンスの方が近い。しかしながら、「映画」と「演劇」は決定的に異なる表現である、という凡例として、こんなに興味深い作品は他に無かった。ゆえにワーストの称号は紛れもなくふさわしい。加えて、原作のオオバカナコとはあまりにもかけ離れたイメージを備えてしまっているにも関わらず、メイド服を身に纏い、絶対領域を惜しみなく露出しながら、震える子鹿のように果てしなく真っ直ぐな眼差しで蜷川実花の演劇的暴力と対峙する、玉城ティナにとって現状におけるベストアクトであり最高傑作であるとも豪語する。

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3位 『貞子』(2019/中田秀夫)

恐怖の象徴ではなく、コンテンツとして明確に消費物と化した貞子を、成仏させまいと暴力的にスクリーンへと引きずり戻して、何度目かの、いつもの、あの長い髪を前かがみにだらんとおろしたポージングを決めてもらうという破廉恥な欲求に対して、我々観客も「よっ、待ってました!」と劇場で叫びたくなってしまい、もはや歌舞伎に近い。とは言え、早く引退させてあげてほしい。世代交代の時期はとうに過ぎているというのに。歌舞伎役者としての貞子と対峙するのは池田エライザ嬢であるが、嬢も歌舞伎メイクを施したことにより凄まじい眼力を獲得されていると思っていたけれど、単に目がめちゃくちゃデカいだけだった。目だけではない。何よりも、おっぱいである。そう、とにもかくにも、おっぱいなのである。こんなにも、ヒロインのおっぱいがスクリーンを支配した映画は、つぶさに考えて、今年は本作以外には存在しない。池田エライザさんの爆乳が、いつセーターの生地自体を引きちぎるんじゃないかと、ホラー映画を観ていてあまり感じない不安と期待を抱いた。おっぱいによってぱつんぱつんに張って苦しそうな、でも多幸感に満ちてニヤニヤしている彼女の衣装自体に嫉妬した。恐怖におののき、カメラを凝視する彼女の、どうしてもバストに、不可抗力として視線が誘導されてしまう。走る彼女の、そのランニングのポージングの、どこを観ているのか、言うまでもない。『貞子』は開始早々より、恐怖ではなく、おっぱいという名の恐怖を目の当たりにする時間旅行としてシステム化される。だからハッキリ言って、貞子についてのあーだこーだは一切記憶に残っていない。いつの世も男の子の脳裏に焼きつくのは、ちっとも怖くなくなってしまった幽霊よりも、おっぱいなのである(ポリティカル・コレクトネスとして、この乱文はコンプライアンスに欠けていると自責の念がありますが、一言。オマエの乳のことじゃねえから黙ってろ!!エライザ様の乳のみを、俺は崇拝する!!ファックオフだ!!)。

 

で、ワーストに関しては上記の堂々たる、映えある、愛すべき3本以外は乱雑な言葉を添える価値も無い愚作であり、無差別テロ級の非道さを備えた怒りと憎しみと殺意しか抱かなかった惨状なので、以下、順位のみを表明しておきます。あくまでも、これらはひとりの映画ファンのアソビであり、年間振り返り行事であり、極私的な感想によるものであって、決して作品を好む方を否定したり攻撃したりするものではございません。映画料金が1900円ではなくて300円とかだったら、全然こんなに怒らないんですがね。ファックオフ。

 

  1. 屍人荘の殺人
  2. Dinner ダイナー
  3. 貞子
  4. ウトヤ島、7月22日
  5. ダンボ
  6. 二ノ国
  7. 愛なき森で叫べ
  8. 21世紀の女の子
  9. ドラゴンクエスト ユア・ストーリー
  10. メン・イン・ブラック:インターナショナル

【特別枠】新聞記者

 

特別枠に関しては、日本映画ベストテンでも記した通り「映画のフリをした物体」でしかなく、記憶から抹消したい&もう既に記憶から抹消済みの、心を込めて全身全霊で嫌悪できるゴミだと断言できるので、真のワースト、ってかトイレで流す価値もない真のクソとして、この枠を捧げます。このクソによる、醜く不快で下品で頭が悪く、しかもその頭の悪さを堂々と誇示しうる破廉恥さ加減と時代錯誤ぶりにコロリと人が騙されてしまうのも、日本が徹底して平和な証拠だろう。「政治的な」装いがある本クソに関しては、だからこそ、その構造と現象自体が、我が国におけるどん詰まりな状況を明確に表していると言える。

と、クソのことを思い出して書いているだけでえづいてきた。いけないいけない、ダークサイドに堕ちるのはよろしくないことですね。面白くても、つまらなくても、たかが映画なのでどうでもいい。映画が豊かであってくれれば、もうそれでいい。来年も豊かな映画たちとたくさん出会えますように。それでは皆さんごきげんよう

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R.I.P. Anna Karina (1940~2019)

 

2019年外国映画ベストテン

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10位 『名探偵ピカチュウ』(2019/ロブ・レターマン)

21世紀の『ロジャー・ラビット』。完璧にデフォルメされた可愛いキャラクターたちをフィルムノワールの世界に放り込むという試みだけで大成功している。デジタルカメラではなく、35mmフィルムカメラで撮られた摩天楼の美しさ、濡れた地面、ブレードランナー的未来都市の風景にうっとりした。ポケモンに対するノスタルジーに甘んじることなく、こうした映画的な、ましてやノワール的な試みは高く評価されるべきだと考える。オッサンピカチュウがただただ超可愛い。尊い。「おれがお前の父親だったら、世界一誇りに思い、抱きしめてやるぞ」泣かす。フレーム内が可愛いもので埋め尽くされているだけではなく、もしこの現実世界にポケモンがいたとしたら、というセンス・オブ・ワンダーを丁寧に描写しているのも、この作り手たちを信頼できる理由だ。コダック可愛かったなあ。

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9位 『ジョーカー』(2019/トッド・フィリップス)

教科書から抜粋したかのような模範解答的な狂気をもって、本作を評価する気は起きない。『ジョーカー』には、ホアキン・フェニックスという生き物の怪演が記録されている。もしくは、怪物の名演。本作が世界中で拒否されることなく、むしろ共感をもって過剰に受け入れられたという現象は、それがマーケティング的なシリアス路線による成果なのではなく、単に「現在」の映画だったからだと考えられる。考えられるが、同時に、寒気がする。とっととこんなクソ世の中、ジョーカーの手によって転覆していただきたい。トッド・フィリップスによる『タクシー・ドライバー』や『セルピコ』や『キング・オブ・コメディ』などの名作群へのオマージュには全く愛を感じられないし、むしろ下手っぴだったので、それこそ初期構想の通りスコセッシが撮っていたらなあ、と無い物ねだりするくらいには大事な一本。全方位的に虚構性が高く、どこまでが現実でどこまでが妄想なのかしらと、虚構についてあれやこれや人と話し合うのが楽しい映画でもあった。ブルジョワたちが『モダン・タイムス』を観て爆笑しているシーンが観ていて一番キツかったです。

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8位 『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018/ボブ・ペルシケッティ、ピーター・ラムジー、ロドニー・ロスマン)

「絵が動いてらす〜」という原初的な歓びが、一周回って最新鋭の娯楽として成立しているエポック・メイキング。漫画をアニメーションにトレースするというよりは「漫画それ自体を動かす」という、言葉だと何言っているのか理解しがたい、ゆえに真に映画的な大実験の大成功。どのコマで一時停止しても完璧に「絵」になってて超絶。加えて、多元宇宙論の再解釈としての役割も担っており、いくつもの宇宙の中に君が存在しているのではない、君の中にいくつもの宇宙のような可能性があるんだ、という力強いメッセージには胸を打たれる。ヒーローになることを諦めるな、確かにヒーローにはなれないのかもしれない、でも諦めた瞬間に可能性はゼロとなる、決して諦めなければ、君がヒーローである宇宙が存在する可能性は1%だろうと、あるんだ、ゼロじゃないんだ!泣ける。いつも心にペニー・パーカーちゃんを。

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7位 『ハウス・ジャック・ビルト』(2018/ラース・フォン・トリアー)

トリアーによる自己セラピーであると同時に究極の開き直り自己問答ブラックコメディ。ほとんどトリアー版『風立ちぬ』、あるいはトリアー版『鏡』。地獄に堕ちる覚悟さえあれば、それがどんなに間違っていることでも、美しさについて無我夢中で追求できる。俺は神に裁かれる罪を背負ってる。上等だよ。どうせ人間なんか一人残らず罪人なんだから。正しさのみを主張する輩に「ここから出て行け」と言われる前に、背負える罪は背負っておこうぜ。ヒトラー万歳!……と、そんなことを考えてビックマウスしちゃう自分がイヤーンなトリアーの悲鳴も聞こえてきて、悪いけど、もがき苦しんで葛藤している映画監督というのは本当に超かわいいなあ、と思いました。映画監督なんか殺人鬼と同じ。カメラという凶器を手に、今宵も加害者であり続けるのだ。間接的にブルーノ・ガンツを撮り殺した映画として、本作が末長くシネフィルたちから忌み嫌われますように願っております。

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6位 『サスペリア』(2018/ルカ・グァダニーノ)

ダリア・アルジェントによる愛すべきオリジナルから遥かに飛躍して、全く異なるディメンションで再構築された本作は、果てしなく政治的な恐怖映画としてもれなく価値がある。ポリティカルであることの雄弁さ以前に、政治とホラーは切っても切り離せない関係にあることをヴィジュアライズしてみせた手腕だけで高度だ。ほとんど、行われていることはジャック・リヴェットの作品に近い。あざとさすら感じるフィックスによる撮影や編集もぼくには大好物で、クライマックスで結局アルジェント的な真っ赤な画面になるのも笑ったし、トム・ヨークによる劇盤も心地良く、ずっと観続けていたいと思うほどに楽しかった。ババアがババア同士で集まってバカテンションで晩酌しながらババアを謳歌していたりするのでババア映画としても非常に愛おしい。ラストは不意打ちで泣かされた。ジェシカ・ハーパーを久々にスクリーンで拝めただけでも有り難かったです。

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5位 『ミッドサマー』(2019/アリ・アスター)

作品構造としては『ハウス・ジャック・ビルト』と似ていて、本作もアリ・アスターにとってのトラウマ自己治療映画として機能している。ここで癒されるのは彼自身の失恋の経験なのだけれど、本作は更に普遍的に「選ばれなかった人々」に対する賛歌として彼らを鼓舞する。選ばれなかった者が選ばれたとき、何を、誰を「選ぶ」のか、という本作の最終的な着地点は、それが地獄のような光景であれ、紛れもなく美しく、アリ・アスターも含めた「選ばれなかった人々」へのこの上ない救済となっている。したがって本作には、前作『ヘレディタリー』にみなぎっていた世界を呪い殺すかのような暗黒ではなく、その暗黒からの脱却を目指すべく前向きな生命力すら漂っている。その証拠に、ほとんどブラックコメディに等しい展開が巻き起こるのも、既にアリ・アスターが『ハウス〜』のトリアー同様に開き直りに成功しており、ユーモアをもってしてこの世の絶望を笑い飛ばそうとしているそのクリエイティビティには、今後の更なる期待を膨らませる。また、映画と切り離せない関係性にある「光」へのアプローチとして、光への嫌悪感を丁寧に吐露している辺りも信頼に値する。今いる場所が地獄ならば、別の場所で光を浴びてみないか。たとえその場所が新たな地獄であったとしても、光は浴びれるのだ。しかし、映画の光が救いだなんて、戯言もほどほどにしてほしい。映画館は闇であって、我々が観ているのは光ではなく「影」なのだから。

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4位 『魂のゆくえ』(2017/ポール・シュレイダー)

超越主義の映画。ポール・シュレイダーが提言する「聖なる映画」の模範解答でありつつ、彼の集大成として確立している。ブレッソンタルコフスキーやドライヤーや小津をなぞりながら、特にブレッソンの『田舎司祭の日記』を引用しながら、堂々たる「聖なる映画」をついに撮り得た功績。とは言え、やはりどうしても、もはや生理として『タクシードライバー』と化していくので、ほんと、シュレイダーはこのルサンチマンから生涯抜け出せない作家なんだな、いやでもここまで突き通していたらむしろ作家性として確固たるものです、ご立派。そもそも「映画とは神に近づく新たな宗教」として捉えていたシュレイダーが、カメラワークによる抑制と解放によって、観客に宗教的な奇跡をヴァーチャルに窃視させる、超越させるという理論を徹底的に実践してみせたのが本作である。よくこのご時世に、当時72歳のおじいちゃんが本腰入れて作ったもんだ、感服します。タルコフスキーで寝てしまうすべての人を肯定してくれる。「タルコフスキーで寝るなんて愚行も甚だしい」と抜かすエセ・シネフィル・スノッブ野郎は爆弾巻かれて爆発しちまえ。

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3位 『バーニング 劇場版』(2018/イ・チャンドン)

21世紀の韓国製アントニオーニ映画。ほとんどメタファーで埋め尽くされた全編は、それゆえに映画的な好奇心に満ちているし、カメラは万年筆であることの証明として、韓国に留まらない世界共通の社会問題がぎっしりと理詰めされており、加えてアントニオーニを模したイ・チャンドンによる語り口と映像美には恍惚するし、とにかく満腹、ご馳走さまでした。「あるということを意識するのではなく、ないということを忘れる」フィツジェラルドのグレート・ギャツビーから村上春樹に繋がりアントニオーニを経て終着するイ・チャンドン先生による本作は、劇中のベンが言う通り「メタファー」であり「ミステリー」ではない。ヘミのように、僕らのグレート・ハンガー(大いなる飢え)が満たされることはなく、やがては初めから無かったかのように、皆、消えていく。真に取り返しのつかない時代の、真に恐ろしい寓話による、真のフィクション賛歌。ジョンスが「書き始めた」ように、まずは「書く」ことから始めよう。消えないために。

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2位 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019/クエンティン・タランティーノ)

映画は夢の構造と酷似しているし、夢を表現するのに最も適した芸術は映画であるということは再三言われていることだけれど、夢は覚めてしまえば、再び同じ夢を見ることはほぼ不可能だといえる。しかしながら、映画は、再びそれを観るという行為によって、端的に言って永遠に覚めることのない夢を容易く獲得することが出来てしまう。タランティーノが紡いだこのおとぎ話は、失われた、あるいは喪われた時代を半ば強制的に「永遠」として帰結させる。この甘いロマンティシズムに石を投げる者は、ハッキリ言おう、映画好きなんかじゃない。人は何かを喪ってしまうからこそ、その穴を補完するために何かを創るのだ。ディカプリオもブラピも、彼らが真に素晴らしい映画俳優であることを再認識させてくれた。作品構造それ自体はフェリーニの『甘い生活』同様に、明確なストーリーラインや三幕構成すら持っていないにも関わらず、約3時間が驚くほど退屈しないのは、やっぱりタラちゃんアンタの映画。シャロン・テートがいびきをしながら眠っている姿を見て、確かに、当たり前に、そんな彼女がいたことを忘れまいという想いに涙した。シャロン、夢から覚めなくていいよ、ゆっくりとおやすみ、もう、大丈夫だよ。

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1位 『CLIMAX クライマックス』(2018/ギャスパー・ノエ)

「いいないいな、にんげんっていいな」と呑気に憧れている動物さんたちに残酷にも一言。「にんげんなんか、なんにもよくないぞ」人間なんて所詮はちんことまんこのことしか考えていない馬鹿な生き物だ。「心」なんてものは本当は無い。あるのはぐにょぐにょな脳みそだけで、脳みそをLSD入りのサングリアによって解放してあげたとき、脳みそは更にぐっちょんぐっちょんのぐわんぐわんな状態と化し、もうそこに「心」なんて欺瞞は消えてなくなる。真の人間の姿が露わになったとき、「にんげんっていいな」という言葉は最大限の皮肉として意味を獲得する。しかし、そんな馬鹿な生き物が時たま「心」を得ることが出来る瞬間がある。それは「表現」をしたり「表現」に触れている時間だ。本作において、ちんことまんこのことしか考えていない馬鹿な人たちが、ダンスを踊っている10分間だけは一心同体となるとき、僕は「表現」が持つ圧倒的な強さと美しさにもんどりうった。つまり、人類は馬鹿で協調性なんて皆無だからこそ「表現すること」は大切だよね、という普遍的なメッセージがある。地獄絵図を徹頭徹尾に爆裂させているのも超偉い。『カルネ』から一貫する胎内のイメージが、アルコールと『サスペリア』オマージュによって悪夢的空間と化すのも超アッパーで楽しい。ともかく踊り続けよう。音楽を絶やすな。それこそが、それだけが、僕も含めた馬鹿たちが発明した、最も簡単な「しあわせ」なんだから。

 

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特別枠 『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』

初感はFilmarkshttps://00m.in/pq8XGに記したのでそちらを参照いただくとして、こんなにも映画を観ていてアンビバレンスに精神を引き裂かれる想いはしたことがなかったので、明確に寿命が縮んでしまった実感も含めて忘れないでおきたい作品。この文章を書いている時点で5回観ているのだけれど、5回観る理由が「とてつもなく好きだから」なのか「あまりにも嫌いだから」なのか、皮肉ではなく自分でも判明出来ないままでいます。それこそ、本作がスター・ウォーズたる所以なのかもしれないけれど。スター・ウォーズの新作が毎年公開されるという、あまりにも精神的にも肉体的にも不健全な状態が2015年の『フォースの覚醒』から4年間も続いてしまい、そりゃ最終的にはボロボロになるわなと反省しまして、何はともあれ来年からは適切な距離でスター・ウォーズには触れてゆきたいものです。たかが映画だしね……いやスター・ウォーズはたかが映画じゃねえんだよ!(情緒は限りなく不安定です、でも4年間楽しかったです)

 

【2019年外国映画ベストテン】

  1. CLIMAX クライマックス
  2. ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
  3. バーニング 劇場版
  4. 魂のゆくえ
  5. ミッドサマー
  6. サスペリア
  7. ハウス・ジャック・ビルト
  8. スパイダーマン:スパイダーバース
  9. ジョーカー
  10. 名探偵ピカチュウ

【特別枠】スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け

2019年日本映画ベストテン

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10位 『チワワちゃん』(2018/二宮健)

映画としての不格好さは明確で、決して誰もが認めるような完璧な傑作ではないのだけれど、すなわち、その構造としての欠陥や映画それ自体が嘆く不発感が、イコール「青春」と呼応している、ある意味メタ的な作品(この構造は『溺れるナイフ』とも酷似しているといえる)。ゆえに、僕にはこんな華やかな、チャラついた、三晩で600万を溶かすような青春は無かったけれど、「テメェの青春もこの映画のように不完全なものだったよなー」と、己の青春が映画によって全否定され続けているようで、どうにかして肯定に思考を働かせようと能動的になる、その過程も踏まえて忘れがたい一本。ハーモニー・コリンの『スプリング・ブレイカーズ』にも似た空虚な美しさすらある。岡崎京子による原作実写化としては、間違いなくベストに岡崎京子観を再現できているので、『ヘルター・スケルター』もニノケン監督に撮ってもらいたかったものです。

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9位 『さよならくちびる』(2019/塩田明彦)

映画学校で配られる教科書みたいな映画。というと味気ないけれど、なんでこんなにも「映画」をどこまでも突き詰めて遂行してしまうのかという歓びは、監督が塩田明彦という事実以上でも以下でもない。『さよならくちびる』は、凡庸な監督が決して辿り着けない、スイも甘いも経験した、そして蓮實重彦黒沢清パイセンからの教養を完全履修した映画作家塩田明彦だからこそ到達し得た境地である。「他の芸術表現とは異なり、映画には映画でしか成せない表現があるのです」で埋め尽くされた全編。ほとんど実写版・塩田明彦著『映画術』。インタビューの途中で突然唄い出すファンの女の子のシーンが生理的に気持ち悪すぎたので、あの辺がブラッシュアップされていれば順位はもっともっと上です。

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8位 『殺さない彼と死なない彼女』(2019/小林啓一)

「未来」についての映画。言葉通りの意味で、過去も現在も未来なのである、ということを映像と台詞で構築していく非SF作品でありながら、僕らの隣に生涯寄り添う「時間」との適切な付き合い方さえ考えさせられる。コミュニーケーションに関する作品でもあり、よしんば未来において幸福が確約されていなくとも、たとえ関わったことによって自分が傷付こうとも、人と人が関わることには絶対的な尊さがあるということを力強く明言してみせる。隣人の暴言を愛そう。隣人の好意を愛そう。隣人の哀しみに寄り添おう。自然光のみで撮られたという信じ難い光の美しさや、桜井日奈子が「女優」と化す瞬間がおさめられたドキュメントとしての価値も有する。桜井日奈子の走り姿を思い出すだけで涙腺が刺激されてしまう……。未来で思い出すために、なんてことない今日をしっかりと過去にしよう。

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7位 『空の瞳とカタツムリ』(2018/斎藤久志)

今年最も美しい脚本によって撮られた映画。荒井美早氏によるシナリオは、ほとんど小説のように書かれているけれど、それが説明に徹することから免れているのは、あまりにも音楽的な律動によって台詞が補完されているからに他ならない。セクシャリティに関するLGBT映画とカテゴライズするのには勿体ない、「穴」を持ったすべての人々に歓迎されるべき普遍的な作品だと思っている。愛のない他人だからセックスが出来る。愛が芽生えた瞬間、その相手とセックスすることが出来なくなる。「穴」を埋めるためのセックスが、愛によって満たされることのない果てしなき渇きと、愛によって満たされる微かな希望を備えた行為ならば、今宵も埋めよ、己の「穴」を。

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6位 『TOURISM』(2018/宮崎大祐)

和製ヌーヴェルヴァーグ。現代人にとって失われた、本来の意味での「観光」をペシミスティック且つオプティミスティクに捉えた視点の鋭さ。現代人の観光には、スマートフォンGoogleもガイドブックも内蔵カメラも同行していることがもはや必然となっている。目的はインスタ映えする景色を探すことに終始し、現地の人々との会話も翻訳アプリが解決してくれるし、有名観光スポットを目の当たりにしても、あらゆる情報から受けた既視感だけがポツンと残る。これが本来の「観光」なのだろうか。と、映画は中盤より、主人公二人をはぐれさせて、肉体の一部と化したスマートフォンを奪う。観光が予定調和から脱却したとき、「なんか、イオンモールみたいだねー」「マーライオン、意外としょぼいねー」という無感動の旅は、ディズニーランドのような、摩訶不思議な虚構の旅へと変貌する。カメラを奪われた遠藤新菜演じるニーナを、確かに「カメラ」が撮っていることの揺るぎなさと、ニーナが初めて見た景色のそのすべてが「観光」としての意味と役割を獲得するエモーショナルな美しさ。世界に注目される才能というのは、こうでなくてはならない。

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5位 『惡の華』(2019/井口昇)

仲村さんがいなかった思春期を過ごした者として、本作をランクインさせないという愚行には走れまい。仲村さんの「どこへ行って、私は消えてくれないから」という言葉は原作にもあるのだけれど、実写における深みの倍増度の高さ。「消えてくれない」という死ぬまでの苦しみは、同時に死ぬまでの救いだ。地獄の展開に悶々としつつ、井口昇監督による、すべての鬱屈した思春期を過ごした若者たちへのあたたかい視点が、全編にベールのように纏わり付いている優しさに泣く。玉城ティナを仲村さんにキャスティングした時点で、本作の成功は保証されていたと言っても過言ではない。ティナ仲村、5兆点した。

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4位 『i -新聞記者ドキュメント-』(2019/森達也)

先に書いてしまうけれど、僕は『新聞記者』という「映画のフリをした物体」を本年度のワーストに掲げている。ほとんど、あのゴミのことを思い出そうと励むだけでえづくし、記憶から抹消して精神の安定を保っているので、まあ掘り返すような真似はしないけれど、全くそれとは関係なく、この森達也監督による記録は素晴らしい。森達也ブランドとしての一定水準以上の豊かさは担保されているものの、メディア論としての強固さ以前に、対立する敵役が存在するエンターテインメントとしての機能性は、フィルモグラフィ上でもトップの出来かもしれない。その敵が「国家」というのが、まあいつの時代もそうですわね、しかしながら現在においては特にブッ飛ばさなきゃならない敵ですわね、という、日本国民共通の認識が本作の「面白さ」を手助けしている。そう、端的に、この状況を「面白がっていい」というのは救いだ。僕は政治にはまっさら興味がない。とは言え、そんな自分でさえ現政権にはムカムカと腹立たしい点は幾多もある。怒りや悲観には落とし所がない。どうせ楽天的な政治なんて一生現れない。ならば、この状況を「面白がろう」。情けない発言だけれど、まずはそこからだ。これも「闘い方」の一つだ。フィクション以上のリアルを生き抜くための。本作の主人公でありヒーロー・望月衣塑子の闘志を前に、闘いを「撮る」という闘い方を選んだ森達也には、毎度のこと頭が上がらない。

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3位 『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019/山戸結希)

つまみがぶっ壊れて制御不能な蛇口からドバドバと勢いよく水が流れ続けている。水道管は破裂寸前。尚も暴れるように流れる水。しかし、蛇口からチョロチョロと静かに滴る流水よりも、この蛇口から大袈裟に放出される水の躍動感を見て、あなたは果たしてそのつまみを回すだろうか。山戸結希は賛辞としてついに「ぶっ壊れた」し、東映のプロデューサー陣はそのつまみを決して回さなかった。ゆえに、本作は紛れもなく作家の映画だ。ほとんど暴力的な加害性に満ちた本作だけれど、文字通りバラバラに身体を切り刻まれる俳優たちが、その身体が映った一瞬毎に言葉を刻印していく抵抗がバチボコにエモい。俳優が監督や映画に対して、アジャスト(適応)ではなくアゲインスト(抵抗)し続けることによる刹那的な摩擦。それによって火花のように散る細分化された一瞬、その輝きの強固さ。俳優を詩にしてしまう山戸結希の罪が、無差別に行使されたことによって誰しもに突き刺さる殺傷力をついに兼ね備えた。すなわち、恋に落ちる瞬間、人は人を殺傷している、ということを思い出させてくれる。119分間、止めどないカット割と理詰めされた台詞の応酬に添えられた、確かな動線と象徴的なロケーションも相まって非凡な暴力性に満ちており、映画作家の暴力性とはこうでなくてはならないね、と激しく頷きました。

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2位 『枝葉のこと』(2017/二ノ宮隆太郎)

現在を過去で説明しないことにより、解釈を断定させず、観客を能動的に働きかける手際の良さだけで、他の凡庸な社会批判"風"作品とは明らかに隔離された位置で本作は脈打っている。監督の実体験がベースとなっているにも関わらず、それが私小説的な自己陶酔に陥らない、否、陥らせてはならないという客観視点が真に「けじめ」であり、映画作家としての演出力の高さに脱帽してしまう。観たこと自体を誇りに思う、なんて映画がまだこの世に存在しているとは予期してもおらず、間違いなく本作はどの映画とも異なる「誇り」を兼ね備えているし、これが劇場デビュー作とは極めて信じ難い、二ノ宮隆太郎監督の才気に対して、早めにファンになっておくことを推薦する。主演も務めている二ノ宮監督の、圧倒的な佇まいのフォトジェニックさは、山下敦弘監督が指摘していた通り、ほとんど北野武だ。同監督作の『お嬢ちゃん』も余裕でランクインの傑作だったけれど、より誇り高い堂々たるデビュー作として、本作を選出しました。

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1位 『ひかりの歌』(2017/杉田協士)

切断されたことによって永遠と化す、全瞬間が美しい、ただ一本の映画。与えられない「終わり」が、徒歩、ランニング、自転車、車、汽車、船という運動と共に運ばれてくるとき、最終的にそれぞれが「始まる」し「終わる」という、つまりは永遠として無限に輝き続ける権利を獲得する、この言葉では表現できない映画的な歓び。フレームの外へ向けられた視線。夜の疾走。始発待ちの駅のホーム。キャッチボール。自動販売機の光。振り子時計の音。絵。雪を落とすワイパー。傘。一生観ていたいと心底願った日本映画は、今年はこの一本のみです。

 

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特別枠 『おばけ』(2019/中尾広道)

この10年間で観てきた自主映画の中で最高傑作。10年間何観てきたんだよと言われても、だって本当に最高の傑作なんだから仕方ないじゃん。世辞抜きに、ぴあフィルムフェスティバルってこの映画を発見するためにあったんじゃないの、とすら考えてしまう。身を削って撮ること。命を懸けて映画を作ること。その価値は本当にあるのか、という問いに対して、力強く「ある!」と断言してみせる。むせび泣いた。人生の節目ごとに観返したい。一本でも映画を撮ったことがある人も、一本も映画を撮ったことがない人も、間違いなく勇気付けられる大傑作。中尾監督が自主で映画を作るなら、もう誰かが自主で映画を作る意味はない。同時に、まだまだ誰かが自主で映画を作る意味はある。やってやろうじゃねえの!

 

【2019年日本映画ベストテン】

  1. ひかりの歌
  2. 枝葉のこと
  3. ホットギミック ガールミーツボーイ
  4. i -新聞記者ドキュメント-
  5. 惡の華
  6. TOURISM
  7. 空の瞳とカタツムリ
  8. 殺さない彼と死なない彼女
  9. さよならくちびる
  10. チワワちゃん

【特別枠】おばけ

名もなき映画、名もなき美しさ—世界一長い『TIME AFTER TIME』に関する評論

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映画の深みとは、あくまで画面にあると言えます。僕らが映画を観る理由は、その画面=感触に触れたいという衝動だと言っても良いのです。つまらない映画は、物語とかメッセージという抽象的なものばかりに重きを置きがちで、大変にうるさく感じてしまいます。つまるところ、言葉にして伝えられることを映像にされても退屈なだけであって、映画では、言葉にできない感情を表現していただかなくては意味がありません。そして、その言葉にできないこととは一体何なのかを、観客に能動的に考えさせなくてはならない。それが表現と呼ばれるものの存在価値だと思うのです。

さて、『TIME AFTER TIME』という映画を観ました。大学時代の後輩、清川昌希くんによる15分間の短編映画です。

『TIME AFTER TIME』の清川監督は、映画の物質的な感触を実に知り得ています。むしろ、知りすぎている。幾多にも及ぶ諸作品へのオマージュやパスティーシュ、インスパイアは、彼が如何に映画を研究しているかが手に取るように分かります。と同時に、それが知識のひけらかしという醜い行為では無く、単なる模倣に終結しているのでも無いのは、逸脱した映画への謙虚さ、もしくは情熱故なのかもしれません。その映画的な運動神経の良さは、決して知識から成るものではありません。如何に常日頃から映画の地肌に目と耳を凝らしているか、その証拠が本作には詰め込まれています。

よしんば、本作を鑑賞した、或いはまだ鑑賞していない人間の中で「モノクロと少ないセリフのアートぶったオシャレ自主映画っしょ(笑)」と苦笑する輩がいたとするならば、そのような人間に映画を観る目は必要ありません。目潰ししてやればいい。『TIME AFTER TIME』は静かでおとなしい映画なんかでは断じてありません。ちょっとどうかしているほどに激しい作品だと感じました。

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本作には運動が溢れています。それはタイトルが示す通り、幾度となくアクションは繰り返され、運動に次ぐ運動が映画それ自体をモーションさせていることに他なりません。

映画監督のジェルメーヌ・デュラックは、絵画の素材が色であり、音楽の素材が音であるならば、映画の素材は運動であると提唱しました。運動こそが、まず映画の純粋なあり方なのだと。しかし、この根源的な事実は、物語映画の普及によって次第に忘れられてしまいます。映画で重要なのはストーリーだ、運動はストーリーを説明する手段に過ぎないという思考は、決して現在も消え去っていません。どころか、特に映画にあまり触れていない若者の作品は、そんなことには無知で、鑑賞するたびにため息が尽きません。

しかし、清川監督の本作は違う。それは単に、彼が観てきたであろう映画には、それが当てはまらなかったのでしょう。例えば、フレッド・アステアが踊ったり、バスター・キートンが走れば、その運動自体が美しいことだと知っていたから。例えば、サム・ペキンパーが死にゆく人間をスローモーションで撮影したのは、その運動自体に美が宿っていたから。例えば、ロベール・ブレッソンが無造作なフレーミングによって顔ではなく手を映し続けると、手がバレエしているように美しく見えたから。例えば、カール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』では、クローズアップで捉えられた頬を伝う一粒の涙が、どんなアクションよりも迫力があったのだから(『TIME AFTER TIME』にも一粒の涙クローズアップがある!)。

要するに、映画とは「活劇」なのです。映画が活劇であるということは、アクション場面が多いといった題材の問題ではなく、ショットの問題に他なりません。そのショットが上映時間の長さを決めるのだということを、清川監督は恐ろしいくらいに意識しています。とは言え、このような思考は映画監督として至極当然の感覚だと思われますが、そういうことを考えずに映画を撮る輩が多すぎる現状においては、一歩抜きん出ていると言って過言ではありません。

僕が本作を激しいと評するのは、そのような嗜好が絶えずショット単位で流れ続け、こちらが「わ!」とか「え!」と驚愕している内に映画が終わっているという感覚所以です。少なくとも、本作を観ているあいだの僕の心は、その運動を捉えるために激しく動きました。それは世界が常に揺れ動き、絶えず変化していることを教示してくれる映画の運動、それに共振するかのように。モーションが生み出すエモーションとはまさにこのことで、映画に揺さぶられる幸福感を久々に味わうことが出来ました。この監督の世界に共振することの喜びを知ってしまった時点で、もう後戻りが出来ず、こうして寄稿を執筆している訳です。

 

ファーストカットからラストカットまでの総てが秀逸なので、具体的に1ショットずつキャプチャーして褒めちぎりたい衝動に駆られているのですが、それは運動に満ちた本作にとって野暮だと判断しました。

んが、たとえば、

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アヴァンタイトルにおける一連のショットの流れは凄まじく、まず右回転するレコード盤と自転車のタイヤがオーヴァーラップし、次に右方向へ自転車をこぐ男性の横顔、次に画面奥へと進む自転車、すると画面手前へと走ってくる自動車が映り、終いには靴が空中に舞い上がる!という、この運動の連鎖! 画面の奥行を巧みに切り取り、ジョン・フォード的な物体の浮遊さえも捉えている時点で、ちょっとこの監督が只者ではないことが誰の目にも明らかでしょう。

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監督のオブセッションとして、常に画面に運動を与えたいという執拗さが本作の魅力であり、それは繰り返しになりますが成功していると言って良いです。喫茶店から退店する彼女と彼の画面奥への運動と、左方向へ走る自動車と右方向へ歩く通行人が見える窓を捉えたショットなんて、観ていて爆笑しました。凄すぎて。電車内でのシーンでも必ず窓を映し、移動する景色という運動を見せています。この「窓」を映すという簡単なことが、最近のハリウッド映画なんかはびっくりするくらいに出来ていません(例えば、クリストファー・ノーラン監督の『バットマン・ビギンズ』には電車が出てきて暴走するのに、その窓が映らないので全然暴走感が無い・笑。ちなみに近年の成功例はトニー・スコットの『アンストッパブル』です)。ここまで「動き」に執着されると、同年代の他作品が「停止」しているように錯覚してしまうほどです。若いのだから、やはりこれくらいは運動していただかないと。映画が喜びません。

また、運動は小道具によっても分節化されています。煙草の煙、回転するレコード、横開きに開かれる本、その本が入っていない鞄、そして自転車など、即物的な小道具の使い方はロマン・ポランスキーに類似するフェティッシュを感じました。

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本作の主要登場人物は、追われる/見られる女性と追う/見る男性の二人のみです。この二人を演じた浅沼惠理さんと黒島蓮さんが、被写体として確固たる輪部を「持たない」ことに徹底しており(だから役名も明らかにならない)、故に動きや変化がただ画面上に「存在」しているだけという、その構造が素晴らしいです。黒島さんがどこで瞬きをしているのか、そしてそれを把握した上で何時クローズアップを撮っているのか、監督の映画的視力の良さが随所に表れています。ここでは、誰の顔も素晴らしい。監督は、「視線」と「表情」が異なるものだということを知っていて、それらを最も適切なフレーミングで切り取っています。特に見る側である黒島さんの演技は、ほぼ無感情に近い状態の中で不安/困惑に顔を歪めており、だからこそ彼の感情が顔を「裏切る」ラストのクローズアップには唸りました。

取り分け、ヒロインである浅沼さんの存在感は特筆に値します。彼女には死生を超越した幽霊的な透明感が常に漂い続け、「無」であるのに「在る」という、映画的な磁場が誕生させた美しさがあります。ここで述べている美しさとは、何も容姿の美醜を指しているのではありません(とは言え、彼女はすこぶる美少女ですが)。実のところ、映画それ自体が彼女を追跡することから逃れられず、その支配力は、言ってみれば映画に祝福されていると言っても良い。映画は彼女と戯れたいと願い、たとえ一瞬の戯れであっても、ラストの海岸でその願いは成就するのです。

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監督は彼女が「感情から導き出された表情」をすることを抑制して、あくまでも「顔」そのものの無機質、無感情、無意識性に重きを置くように撮っています。普通、「顔」は様々な要素がせめぎ合う戦場になり得るのですが、ここではそういうことはしない。サングラスは仮面であって、物理的に彼女の視線を隠しますし、それがファースト・カットならば、これはそういう映画なのだということの表明なのです。無表情、にも関わらずエモーションとして成立しているのは、彼女の無意識をしっかり「掘り起こしている」からです。喜怒哀楽ではなく、無意識としての顔。日本人離れした浅沼さんの容姿端麗さも手伝い、ラストの海岸での彼女は、まるでパゾリーニの『奇跡の丘』におけるマリアのような崇高さを放ちます。手にした白い本は、マクガフィンから聖書と化す。風という運動、その風になびく髪という運動、それらを捉えた彼女のクローズアップ。見られる側と見る側の逆転。その瞬間、本作は日本映画とかモノクロームとかドラマとか自主制作とか、あらゆる呪縛から解放され、匿名の映画的運動として存在することに成功してしまっているのです。そういった運動、瞬間の積み重ね=タイム・アフター・タイムこそが人生であって、タイムを切り取る表現こそが映画なのだという高らかな宣言! 終いには『恋人たちは濡れた』の如く、自転車は海へと向けて発進する! 全く、恐れ入った。

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……と、ここまで後輩の映画を褒めすぎてしまうと、流石に具合が悪くなってきたので(笑)、僅かながらの欠点を挙げることをお許しください。それは、本作はあまりにもクリティック(批評)による補完が多すぎるという点、そして、無差別性の欠如だと思います。前述した通り、ここでは映画がかなり心地よく息をしているのですが、その息吹は、必ずしも万人全員に聞こえるものではありません。つまり本作はモスキート音であり、初めからその「耳」もしくは「目」を持たない人間を除外している節が感じられます。勿論、そのような攻めた姿勢にはサムズアップです。だからこそ批評の役割が生じる訳ですが、その余白を埋めるアソビはシネフィルの為に成立してしまって、他大半の観客への歓迎には成りにくいのです。言い換えれば、まだ監督は観客を差別している。より無差別的な映画をテロリズムとして投下することが出来たとき、少なからず次元の異なる傑作が再度誕生するのでは無いかと期待しています。

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別に監督からカネを貰っている訳では無く、この寄稿は僕が勝手に書き始めてしまったものです。ただ単に、素晴らしい映画が正当な評価を受けなかったり、誰も言葉にしようとしないという事実は耐え難かった、それだけです。

僕は割と後輩の映画を観るのが好きで、そこには、偉そうに出来るとか好き勝手言えるという自己満足は一切ありませんで、純粋に学ぶことが多いからという理由で拝見させていただいています。勿論、今まで面白い映画はたくさんあったし、分かっている人だなあと感心してしまうことも多々ありました。でも、後輩の映画に嫉妬したのは、これが初めてです。面白いという感情よりも先に、「嗚呼、コイツにはこれが出来てしまうんだ……」という恐怖感の方が強かった。ほぼ同年代に、こんなに映画の運動神経が優れたヤツがいるのか、という絶望。でも同時に、絶望は希望です。僕には絶対に成し得ない形で、彼は「映画」に供物を捧げている。ならば自身も、自分だけの託宣を受けて、それを捧げなくてはならない。少なくとも、一人の映画好きの心にエモーションを与えた『TIME AFTER TIME』という傑作に、今は脱帽するのみです。

 

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ということで、清川くん、今度千円ください。

 

※文中で使用しているキャプチャー画像は、「映画を文章だけで云々することの不誠実さ」と「目で感じる芸術及び娯楽」である映画に対する敬意の姿勢であり、監督本人からの許諾を得た上で使用しております。

※本作は2/25に町田市民フォーラムにて上映されるそうです。以降の上映予定は存じ上げませんが、きっとどこかでまた遭遇できることを願いつつ、句読点を打ちます。

『バイオハザードⅡ アポカリプス』 ジル・バレンタインに蹴られたい

f:id:IllmaticXanadu:20161210233910j:image血がドバドバと流れる映画を愛好しているものの、僕は如何せんホラーゲームが苦手だ。と言うより、超怖い。恐らく、ホラーゲームで最終的にクリアした作品は一本も無い。コナミ開発『サイレントヒル』もプレイしてみたけれど、コントローラーを投げ捨てて部屋の隅で体育座りをしていた記憶しかない。和製ホラー『サイレン』は人間の顔のポリゴンが怖過ぎて心臓が2センチくらい縮小したので身体的な危険を察知して放棄した。必ず、旅の途中で離脱に至る情けねえ奴なのだ。

『バイオハザード』というテレビゲームの何がイヤだったかと言えば、プレイするにあたり、ヒジョーに頭を働かせなくてはならないことだった。ホラーやアクションというジャンルでありながら、同等に謎解きの側面があるワケで、僕のような偏差値の低い馬鹿には、それはそれは苦行でしかなかった。モチロン、ただでさえコワい遊戯。プレイ中は、ひょぇぇぇええええぇえぇぇああああ、と叫んでは目に涙を浮かべ、その涙を拭ってはまた絶叫の無限ループ。寿命が縮んでゆく感覚の恐ろしさを味わった。そもそも、好きな時に好きな場所でセーブ保存することも出来ず、それ故に連続的に伸びてゆくプレイ時間……インクリボンというアイテムはある意味で発明だけれど、その所為で散々な目に遭ったことは忘れられない。

さて、そんな『バイオハザード』の実写映画化第二弾が『バイオハザードⅡ アポカリプス』である。

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独断と偏見で申し上げますと、面白いとは感じない。全く。

脊髄反射的な快楽も、ここには無い。あるのは、どこまでも凡庸で、どこまでも不細工な映像の羅列だ。(ゾンビ登場時のMTV的なコマ落とし、ありゃ目を疑うダサさやぞ)

ただ一言、豪語しておきたい。

この映画のジル・バレンタインは素晴らしい。

そう、本作の魅力は、シエンナ・ギロリーさんが演じられたジル・バレンタインに尽きるのである。(え、ミラ・ジョヴォヴィッチは?と問うた貴方。俺はひとりの女しか愛せない)

f:id:IllmaticXanadu:20161209165909j:imageジル・バレンタインの顔が本編に映るファースト・カットは新聞記事だ。豪腕女性警官として活躍していたジルが、永らく停職していたことをアナウンスしている。

f:id:IllmaticXanadu:20161209165926j:imageしかし、突如として人間が人間を喰らうアポカリプス(黙示録、終末)な事態を見聞きし、ジルは復職を決意する。彼女がハイヒールを脱ぎ捨てブーツに履き替えるのは、その決意と覚悟の表明だ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170016j:image背中姿だけでこの再現度。右脚の太ももに巻かれたベルトによるコントラストがアッパレ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170125j:image出たああああジル・バレンタインだ!

f:id:IllmaticXanadu:20161209170210j:image冷静沈着な彼女は、老若男女誰よりも確実にゾンビ諸君を抹殺し、誰よりもクールで、誰よりも異彩な存在感をかもし出す。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170321j:imageピンと背筋が伸びているので、拳銃を構えただけで画になる。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170355j:imageそんなジル、アンブレラ社の悪い連中の所為で、絶賛ゾンビ大量発生中のラクーンシティに閉じ込められてしまう。これはゲートが閉められた際に、そのアンブレラのお偉いさんに向けられた怒りの視線。オンナを怒らすとどうなるか、オトコたちはまだ知らない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170731j:image仲間が負傷したら、手早く看護もする。こういうところは女性らしい。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170824j:imageとりあえず教会に避難すると、ジルたちに銃を向ける馬鹿出現。しかし、クリ―チャーではない馬鹿に対して、もはやジルは拳銃を片手で簡素に構える。まるで馬鹿が弾を発射できない肝っ玉だと瞬時に判断したかのように。

f:id:IllmaticXanadu:20161209170931j:imageもはやフォーカスが合っていないときでさえも美しい。観客の眼球が画面右半分で停滞してしまうのは、他の役者たちの力不足ではない。単に、ジルが画面を支配しているだけである。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171308j:image美女はハンディカメラを通しても、どうしようもなく画になってしまうことの証明。ここで初めて、ジルは煙草を唇にくわえる。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171354j:image見よ!この火の点け方を!ジッポを拳銃に見立てて、そのまま煙草へと点火している。こんな粋な火の点け方をする女性が、果たして映画史には存在していただろうか。まるでキャスリン・ビグローが演出したみたいだ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171451j:imageしかし、ジルに安堵の時間などない。教会内で不審な物音。暗闇が街を不気味に染める。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171511j:image闇の中でも機能する彼女の目は、闘争心でみなぎっている。こんな目で10秒ほど睨まれたら、たぶん絶命してしまう。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171532j:image地面に落ちている拳銃を拾うカットを、この監督はわざわざこういう構図で見せる。月光に照らされる、くねりとした肉体の曲線美。うーむ、いい仕事。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171549j:imageかくして、彼女は二丁拳銃をブッ放つ!みんな大好きジョン・ウー先生!(ちなみに横でグースカ寝てるのは、さっきのジルに銃向けた馬鹿)

f:id:IllmaticXanadu:20161209171612j:image長い舌をべろんべろんさせた気色悪いリッカーなるクリ―チャーに向けて、撃つ!撃つ!壁には構えた拳銃の影が描かれる。ここでも、二丁拳銃のイメージは消えない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171651j:imageクリ―チャーのリッカ―くんの目線。クリーチャーでさえ、ジルをフルショットで捉えようと必死なのはこれ如何に。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171733j:imageリッカ―強し!ジル・バレンタイン、万事休すか!

f:id:IllmaticXanadu:20161209171753j:imageと心配していたら、盗んだバイクで走り出す何者かが乱暴に入場してくる。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171810j:imageジョヴォヴィでした。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171828j:imageんで、またもやジョヴォヴィも二丁マシンガン!どんだけジョン・ウー好きなんだよ!ちなみにこのバイオハザードシリーズで、ジョヴォヴィは毎回必ず二丁スタイルをやっている。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171844j:imageジョヴォヴィが合流したせいで、街がゾンビまみれなのに墓場を歩くことになる。1分後の展開がサルでも分かる親切設計。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171901j:image突然、ゾンビに噛まれたというジルの仲間に銃を向けるジョヴォヴィ。すかさず、ジルもジョヴォヴィへ銃を構える。かっちょいい構図。それにしても、この監督は、画面に拳銃を二丁出すことにガチでエクスタシーを感じているのだろうか。

f:id:IllmaticXanadu:20161209171920j:imageジョヴォヴィ顔こえーよ!

f:id:IllmaticXanadu:20161209171938j:imageポール・W・S・アンダーソンの嫁に負けじと、ジルも視線と銃口を逸らさない。そしてなんと、彼女は一歩前へと歩み出る……

f:id:IllmaticXanadu:20161209171954j:image見よ!自らの首筋に銃口を当てつつ一歩も引き下がらないという勇姿たるや!さすがのジョヴォヴィも銃を下ろす始末。惚れた。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172333j:image舞台は変わってバス車内で奇跡は起こる。これがオンナの煙草の吸い方か。煙草を挟んだ指から腕の筋肉を映し、極めつけはかすかに見えるワキをも捉えた構図に、どうしたってフェティズムを感じずにはいられない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172354j:imageやばい……この映画に映るどの男性よりもかっこいい……

f:id:IllmaticXanadu:20161209172414j:imageでも煙草が消えると、時たま美女としての表情も見せる。ギャップ萌え。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172443j:imageほで、ここまで強い女性像として描かれてきたジルだが、目の前で仲間が射殺されるのを目撃してしまう。さすがに、表情に焦りと哀しみがにじみ出る。ジルらしくないが、だからこそ女性のか弱さも垣間見る。それでも、銃は手放さない

f:id:IllmaticXanadu:20161209172502j:image予想外の事態に、ジルはここで初めて戦いから離脱する。戦闘はジョヴォヴィに任せて退散。弱った彼女はクルマに引きこもる。ヒキのショットにおいても、太ももそれだけで存在証明してみせるオンナ、それがジル・バレンタイン。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172515j:imageさすがに仲間の死で落ち込む。彼女は車内でハンドルとゴッツンコ。ギャップ萌え(本稿二回目の使用)。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172539j:imageそこに、亡くなった仲間がリヴィングデッドとして奇襲!劇中、初めて目に涙を浮かべるジル。ゾンビ映画永遠のテーマであり、シチュエーションとの対峙。身震いしつつも、かつての仲間に向けて銃を構える。あとは引き金を引くのみ。これは通過儀礼だ。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172553j:imageかくして、リヴィングデッドの撃退に成功する。この通過儀礼を終えた彼女は、もう二度と涙を見せない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172607j:imageいろいろあって、アンブレラ社勤務の博士から「娘を探してくれ」との依頼。物語はガキの捜索へとシフト。ジルは中学校に潜入。落ちているバスケットボールをパンパン撃ち抜いてフザけている余裕はない。

f:id:IllmaticXanadu:20161209172619j:image教室に潜入した際に、アッと驚嘆するショットがあった。フィックスされたキャメラが、画面右へと移動する彼女を追わず、パンをしない。かと言って、彼女がフレームアウトすることもない。だからこのような不細工なショットに成っている。ただ、これを編集で切らずに残しているのは、少なくとも映画自体が「少しでもジルを映していたい」と懇願しており、彼女が歓迎されているからだと思い至る。

f:id:IllmaticXanadu:20161210224916j:image教室でガキを見つける。早っ。時間経過と共に髪型は乱れ、じっとりと汗で濡れているのは、さっきの通過儀礼を完了したから。つまり、彼女は生まれ変わっている。儀式を乗り越えたからこそ、彼女はガキと遭遇を果たせた。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225007j:imageガキを連れて歩く。通過儀礼を果たしたジルは、ここで母性を試される。とりあえず、ガキを守るためだけのシークエンスが始まる。いいなあ、この娘になりたい。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225027j:image校内をゾンビワンちゃんことケルベロスがうろちょろしているので、二人で調理場に身を隠す。って『ジュラシック・パーク』か!

f:id:IllmaticXanadu:20161210225046j:imageシエンナ・ギロリーのアドリブだという動作。恐怖に怯えるガキと目を合わし、わたしがいるから平気よと安心させる。しかし、実はここで凶暴なケロべロスに怯えているのはジル本人でもある。母子が一体化し、同一化することにより恐怖を克服しようと試みるのだ。かくして、ジルは母性のテストを無事に通過する。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225059j:image地面に落ちた包丁を拾おうとする……ってこの構図、ちょっと待って! プレイバックプレイバック! さっきも教会で見たぞ! 落ちたものを身体をくねらせて拾わせるフェチなのか、この監督は……いや、いい仕事だよ。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225112j:image調理場にケルベロスが乱入してきたので、ジルはあらゆるガスコンロの栓を開く。彼女はガキの手を引っ張りながらマッチに火を点ける。そして……

f:id:IllmaticXanadu:20161210225123j:imageまあ、投げるでしょうね。真正面向きながら投げたかったんだろう。きっと中学二年生の頃から一度やってみたかったに違いない。ガキが「マジかよ……」な表情を浮かべているのも可愛い。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225137j:imageでも消えちゃいました。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225148j:imageええええええええええ……絶体絶命。嗚呼、ジルの活躍もここで終わってしまうのか……

f:id:IllmaticXanadu:20161210225205j:imageと心配していたら、ちゃんとジョヴォヴィが助けに来てくれた。あざす。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225218j:imageしかし、アンブレラ社の悪い連中に捕まっちまった。めっちゃヒキの画だけれど、両手を縛られたジルを見て感涙する。両胸が強調されたボディライン……このためのエロい衣装だったのか! 

f:id:IllmaticXanadu:20161210225244j:imageジョヴォヴィの協力もあって危機一髪、拘束から逃れる。これまた美麗な太ももの存在感。しゃんなろー!と怒れるジル。憎きオトコどもへ、撃つ!撃つ!

f:id:IllmaticXanadu:20161210225257j:image自分たちを閉じ込めた、アンブレラのお偉いさんにぐいーっと迫る。オンナの怨りが、映像を支配する。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225309j:imageもはやオトコに勝ち目はない。ジルはこのあと、この馬鹿をゾンビの皆様にディナーとしてご馳走する。怨念のソースを添えて。

f:id:IllmaticXanadu:20161210225401j:imageそんでもって、このドヤ顔である。かくして、ジル・バレンタインは勝利した!やっほう!

 

f:id:IllmaticXanadu:20161210225341j:image繰り返しになるが『バイオハザードⅡ アポカリプス』は面白い映画ではない。不細工なショットが不細工なカッティングで羅列された不細工な映像集だと、僕個人は感じる。

しかし、映画や物語には、そのようなホツレや未熟さを超越するキャラクターが存在している。このキャラクターこそが、「実力」を凌駕する「魅力」だ。

本作においてのソレは、シエンナ・ギロリー嬢が演じたジル・バレンタインである。

僕はこの「魅力」が堪らなく愛おしく、フルボッコにノックダウンさせられた身としては、もはや、とやかく「実力」の有無に関して御託を並べるのは不適切でしかない。

映画が文学や漫画と違うのは、そこに血肉を持った人間が「実在している」と思わせる瞬間があることだ。現実には存在していないキャラクターが「存在している」と目前で実感する時、観客は映画の醍醐味に浸る。そして、そのような「実存してみせること」こそが、俳優の仕事に他ならない。

ジル・バレンタインをありがとう。

ジル・バレンタインよ、ありがとう。

彼女主演のスピンオフ作品が撮られなくては、映画の21世紀は終われない。その際には、意地でもエキストラゾンビとして参加しますので、心置きなくミゾオチ辺りを蹴り上げてください!ジル様!!

 

 

f:id:IllmaticXanadu:20161210225456j:imageあ、ジョヴォヴィはジョヴォヴィで、スゲー楽しそうでした。

『溺れるナイフ』 濡れたわたしを乾かすあなた

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瞬時に劇場がどよめいた。
それは、立川シネマシティで上映中だった『溺れるナイフ』で、元毛皮のマリーズ・ボーカルにして現ドレスコーズ・ボーカル志磨遼平によってセルフ・リメイクされた『コミック・ジェネレイション』がエンドロールと共に流れ出した、その瞬間以降の状況を指す。
劇場は、あらゆる少女で文字通りに溢れ返っており、それぞれが適切にざわめているのを肌で感じた。「ヤバイ、最高すぎる」とか「何コレ、意味ワカンナ(笑)」とか「スダマサキッスやっば、顔ペロされてー」とか。終いには、劇中の夏芽とコウがしていた連想ゲームの如く、「めぐみー!」「ゆかこー!」という可愛らしい叫びが斜め左後方から聞こえてきた。

 

一体、山戸結希作品が上映される劇場の凄まじい熱気は何なのだろうか。処女作『あの娘が海辺で踊っている』(2012年)から『おとぎ話みたい』(2013年)までをリアルタイムに追いかけ続けた身としては、毎回、あの熱狂の渦に呑み込まれそうになる。いや、既に呑み込まれていただろう。『おとぎ話みたい』を劇場だけで3回鑑賞するに至り、少女映画の新たなる傑作誕生に歓喜したことは、記憶に新しい。

よしんば、映画監督ではなく詩人になっても成功していたであろう山戸結希の映画は、張り裂けそうな少女の感情が沸点ギリギリで言語化及び身体化されていく、きわめてポエジーな作品が多い。しかし、『溺れるナイフ』においては、そのようなポエジーが希薄で、役者のアクションや肉体を切り取りたい、時間をフィルムに閉じ込めたいという欲望が先行している。それは独占欲と呼称するのがふさわしく、監督自身が最も敬愛しているジョージ朝倉の漫画を、まさか自身の手によって映像化し得るという幸福と、誰にも譲るまいとする強固な意志が感じられる。哲学的なナレーションよりも、映像の「文法」を逸脱したカッティングで攻めてみせた『溺れるナイフ』は、まるで色彩溢れるショットの一つ一つが踊っているかのような豊かさに満ちている。それはゴダールのようでもあり、小津のようでもあり、相米のようでもある。彼女は詩人から映画監督になった寺山修司園子温と比べられることが多かったが、『溺れるナイフ』を通して、早くも更なる次元へと羽ばたいたと言えるだろう。

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本作には、終始「水」のイメージが付きまとう。夏芽とコウがファースト・コンタクトを果たすのは、入ることが禁じられている神さんの海だ。夏芽はコウに肩を掴まれ共に海に飛び込み、そのままメインタイトルが映し出される。二人がファースト・キスを交わすのは道沿いに流れる小川で、夏芽は水流に制服を浸す。飲み口から溢れた清涼飲料水は水滴として夏芽の口元に付着し、コウがそれを味わう。夏芽がコウに映画出演のオファーがあったことを話す時、二人は巨大な水たまりの周囲をぐるぐると廻り、夏芽は水面をバシャバシャと横断してコウとの距離を縮める。火祭りの夜の事件は、ご丁寧にも湧き水の傍らで起こる。ここまで羅列されると、夏芽とコウが関係する際には「水」が欠かせないファクターであることは歴然だろう。「海も山も、俺は好きに遊んでええんじゃ」と話すコウは言うなれば「神さん」のメタファーだが、そう言えば海と山、どちらにも水は流れている。もしかすると『溺れるナイフ』は、「水」と出会い「濡れてしまった」少女の物語なのではないか。

勿論、前述した「濡れてしまった」は、何も身体的な意味合いで使用していない。心が濡れる、感情が「水」によって満たされたという、すなわち恋の衝動、ときめきのことを指している。極論、夏芽がコウに特別な感情を抱くようになったのは、彼女がコウと共に全身を「水」で浸したことが出発点なのであり、彼女はコウと共に、もう一度全身を「水」で満たしたいと願い続けている。心をもっと濡らしたい!、或いは、心を絶対に乾かしたくない!というのが、夏芽の行動原理だ。

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対して、「水」に祝福されない登場人物こそが大友である。彼が夏芽の暮らす旅館に魚を届けに訪れた時、ぼくの自律神経は乱れを起こした。大友がクーラーボックスを取り出したからだ。当然だが、クーラーボックスには魚と共に「氷」が入っているであろう。ぼくが抱いた悪い予感を後押しするように、旅館から出てきた夏芽はアイスキャンディーを半分に割って大友に渡す。一見すると親密に見える二人だが、アイスキャンディーという「氷」は溶けることがなく、そこに「水」は存在していない。透き通るような液体としての「水」のイメージに対して、凝固している固体としての「氷」は、夏芽と大友の決して溶け合わない関係性を示唆しているかのようだ。後半では、全身びしょ濡れで泣いている夏芽に対して、コウのように共に濡れることが出来なかった大友の乾いた体が並べられる。その後のバッティングセンターでのやり取りにおいて、今度は大友から夏芽にアイスキャンディーを手渡す。が、夏芽はそれを拒否するのだ。果たして、「氷」が溶けて「水」になることは決して無いのだろうと、観客の誰しもが、哀しくも予感する他になかった。

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演じる重岡大毅ジャニーズWESTのメンバーらしく、不勉強ながら本作で初めて認識した。そして、彼の芝居がすこぶる素晴らしい。こんなにペルソナを感じさせないキャラクターも珍しいのではないだろうか。「神さん」ではないぼくらにとっては、この大友という「普通」の男に感情移入せざるを得ない。大友はコウのようなカリスマ性もなければ顔ペロもしないし海中遊泳することもないが、恋をしているという「きらめき」と「ときめき」が、彼のショットには備わっている。もしかするとその想いは、コウのソレよりも深く、尊いものかもしれない。だからこそ、大友に終始漂う切なさは歯痒く、「俺たち側」の青春の苦味が痛々しく反映されている。

その痛々しさが爆発し、尚且つ救済としても描かれるカラオケのシーンは、誰が何と言おうと本作屈指の名場面である。ぼくは「泣かせる映画」が大嫌いで、とは言え「泣ける映画」には滅法弱い泣き虫野郎なのだが、少しばかり自分でも信じられないほどに、泣けてしまった。山戸作品では『おとぎ話みたい』然り、しばしばカラオケが登場することが特徴として挙げられる。それが『ラブ&ポップ』へのファナティックなオマージュである以前に、音楽による救済という意味の重要度において、この大友の歌唱に勝るカタルシスは、彼女のフィルモグラフィ上で類を見ない。思い出すのも辛い、或いは思い出さずにはいられない、あらゆる恋や失恋の記憶は、このシーンで涙するための前菜だったのか!と錯覚するほどだった。ここで初めて、大友は「水」と遭遇を果たす。彼の目から滴り落ちる液体が、僕にはこの映画の中の、どの「水」よりも美しく見えた。

 

(恐らく、この文章が書き終えるまでの何処にも挿入させることが出来ず、話が横道に逸れて余談になるので括弧書きで記すことをご容赦いただきたい。本作は終始、音楽が鳴り響いている映画である。そして、私見するだに本作の果てしないレヴューの中で果てしなく言及されているのは、この音楽の使われ方の凡庸さである。確かに、本作の音楽は緩急作用を起こすには程遠い鳴り響き方で、それはつまり、長回しの画を最後まで見せるための飾りのように見えてしまうのだという。あまりにも記号化されたポップチューンが画とミスマッチしている箇所も存在している。ポスプロ段階で急遽無理くりに曲を加えたようだ。そんな評が少なくはなかった。

果たして、その通りなのだろうか。ぼくは断固『溺れるナイフ』を擁護したい。音楽は凡庸かもしれないが、それは欠点ではない。音楽と、この恋物語との美しい出逢いは成功している。それはまるで、映画自体が終始、喜んだり、哀しんだり、怒ったり、楽しんだりしているかのようで、夏芽とコウの恋を祝福しているかのように感じられるからだ。その衝動に、正当性なぞ必要か。音楽は趣くままに、過剰に、暴れ回ればいい。

狂気に近い独断だが、ぼくは恋をしている時に音楽が鳴らない・聞こえない人間は、そもそも恋をしていないと思っている。それは幾多の恋愛映画(近年ならば『(500)日のサマー』(2009年/マーク・ウェブ)が凡例だろう)において提示され続けた一種の定義であるし、何よりも、実際にぼくらが恋をする時がそうであるから、それ以上でも以下でもない。恋愛映画で音楽が鳴っている時、それは本来こう鳴るべきだ、と揶揄するのはナンセンスだ。或いは、それは戦争映画にも同じことが言えるのかもしれない。恋愛も戦争も、「正しさ」では説明できない感情で埋め尽くされている。キレイ、ウルサイ、ヘタクソ、セツナイ、グチャグチャと耳が感じるのならば、それは"そういう恋愛"だということなのだ。

これまでのフィルモグラフィを常々音楽に重きを置いて歩んできた山戸結希にとって、超純粋に「メジャーデビュー作だし、いつもより綺麗な音楽をたくさん鳴らしたい!」という衝動は至極真っ当な感情だと思うし、劇伴と相反して、川のせせらぎや木々を通り抜ける風などの自然音が心地よく、この青春のきらめきを倍増させている。メリハリはしっかり効いているじゃないか。そして何よりも、本作の特筆すべきシーンが「カラオケ」による絶唱であり、それが登場人物への救済であるという美麗な回答は、ただ歴然と素晴らしい。愛の叫びは伝染し、この映画のラストも愛の叫びで幕を下ろす。あの叫びが実に音楽的な感覚に満ちていると思うのだが、長くなってしまったので括弧を閉じる。)

 

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重岡大毅を筆頭(?)に、本作は主要登場人物のキャスティングも見事だ。とは言え、小松菜奈菅田将暉が同一ショットに存在しているだけで『ディストラクション・ベイビーズ』(2016年/真利子哲也)の不穏な空気を想起してしまうが、それが杞憂に過ぎないほど夏芽とコウはフォーリン・ラヴしていた。役者ってスゲェなあ(ちなみに、本作と『ディストラクション・ベイビーズ』は祭り映画としても繋がるのだから興味深い)。

冒頭、小松菜奈が車内の後部座席で見せるけだるい表情は、まるで実写版『千と千尋の神隠し』(2001年/宮崎駿)のようで、そう言えばトンネルが出てきたり、神さんのメタファーとしてのコウだったり、千尋とハクのエピソードにおける「水」のイメージだったり、ガチ『千と千尋』ライクな箇所は随所に存在する。まさか確信犯だろうか。

車中で変態オジンにヘッドロックかます姿にはサムズアップしてしまい、そうそう、小松菜奈は静より動が活きるんじゃ!と『ディストラクション・ベイビーズ』の際にも味わった快感を思い出した(『ディストラクション・ベイビーズ』でも小松菜奈は車の中で散々な目に逢うので、小松菜奈が車の中で何か酷い目に遭う映画は傑作説を宇宙でただ一人提言しておきたい)。

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菅田将暉演じるコウは彼にとっての最高傑作であり、ベストアクトだと思う(ま、いつだって菅田きゅんはベストアクトなんだが)。神々しいコウという非現実的な人物に説得力を持たせるのは、並大抵の役者には容易ではない。しかし、菅田将暉の肉体性と身体能力、そして何より美しい顔が総ての説得力を呼び起こす。語弊を招かぬように記すつもりだが、菅田将暉の顔が持つ純粋な美しさは、小松菜奈のソレを凌駕していると言っていい。つまり、菅田将暉の美しさは(役柄とは矛盾しているが)極めて女性的な魅力であり、コウは実質上のヒロインでありファム・ファタールなのだ。

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上白石萌音演じるカナの、所謂「高校デビュー」の雰囲気は恐ろしく、何気ない言葉の奥底に潜む刃の鋭さに冷や汗を垂らす。上白石萌音は実際の体重を、中学生時の撮影では5キロ増、高校生時では5キロ減量しているらしい。増減のスパンは僅か4日間だというからさすがの女優魂。これは監督からの指示だと言うが、確かにそれくらいの年頃の女子ってのはそんなものだ。この「繊細な変化」こそが少女の少女性たるものだと僕は感じる。だからこそ、そのような視点で演出が施せる山戸結希も、それをソツなくこなしてみせる上白石萌音も、どちらも「少女」故の才能の持ち主だと脱帽してしまう。

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ところで、『溺れるナイフ』の最たる魅力とは、上記で列挙してきた美点もさることながら、本作が持つその「不完全性」だと思っている。なぜ、不完全な映画をベタ褒めしているのか。陳腐な表現で恐縮だが「不完全だから青春」なのである。それは「後悔」と換言しても良い。加えて言えば「不発」という感情も意味している。ぼくは本作を偏愛しているが、完璧な作品だとは全く思わない。むしろ「足りない」作品だと感じている。勿論、『溺れるナイフ』という漫画原作の(2時間の)映像化としては及第点以上の出来である。それでも、山戸結希を追いかけ続けた身としては疑わざるを得ない。このフィルムには、山戸結希の「後悔」が閉じ込められていないか?、と。

言わば第二の処女作でもある本作だが、プロダクション・ノートを拝見するだに、撮影現場は険悪そのものだったという。関係者曰く、監督のコダワリや我の強さが垣間見られ、指示が二転三転するなどして予定していたテイクが撮影できないこともあったとか。大いに結構だと感じる。仲良しこよしでお偉いさん達にペコペコ頭を下げるよりは、鋭い作家性を貫いてワガママに現場を生きてほしい。というより、ぼくは山戸結希をそういう作家だと信じている。彼女が『溺れるナイフ』でメジャーデビューすると見聞きした際に期待したのは、極めて失敬ながら、どうか満足せずに後悔しまくってほしい、という願望だった。これは呪詛の言葉ではない。『溺れるナイフ』には「不発」のスパイスが絶対に必要だと確信していたし、これまでに見たことのない山戸結希によるフラストレーションの吐露を感じたかったからだ。

願いは叶った。僅か17日間の撮影スケジュールでは到底撮り切れないシーンが多々あったと、監督はインタヴューで語る。事もあろうに監督の分身でもある小松菜奈も、どうしても撮りたかったシーンが撮れず「悔しい」思いをしたと答えている。もっとやりたかった。もっと出来ることがあった。『溺れるナイフ』を輝かせているのは、そうした監督や役者陣の「後悔」が、劇中の登場人物たちと激しくリンクしているという、そういう奇跡だ。小松菜奈の後悔は夏芽の後悔だ。菅田将暉の後悔はコウの後悔だ。映画が持つ後悔は監督自身の後悔だ。それらの後悔は、もう二度と戻れない時間が織りなす永久不変な「きらめき」を倍増させる。不発の夏。不発に終わったからこそ、あの一夏は美しい。夏芽とコウにとって。そして、2015年の小松菜奈菅田将暉にとっても。山戸結希にとっても。

ラストシーン、オートバイが角を曲がり、トンネルをくぐるたびに、青春が終結に近付いていく予感が漂う。そして本編は、夏芽とコウのストップモーションで終わりを迎える。まるで、確かにそこにあったものとして、その時間を永遠に切り取るかのように。青春の弔いは、終了する。

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割と嫉妬している。この映画に溺れてしまったからこそ、この完璧な不発感を独占した山戸結希に激しく嫉妬している。俺の嫉妬も、感動も、後悔も、あの立川シネマシティのどよめきと共に永遠に閉じ込められてしまった。ちくしょう。山戸め。何しやがるんだ。あんたのおかげで、最高の気分だよ。

山戸結希が最上級の大きさで叫んだのだから、今度はこちらが、それ以上に大きな声で叫び返したい。

非・映画愛宣言

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"映画愛"という言葉が嫌いだ。
 
幸せそうな顔で「映画愛」とか「映画の記憶」とかいう奴を見ると、絞め殺してやりたくなる。
 
僕にとって、映画は常に暗い思い出の対象だ。能天気に愛せるようなものじゃなかった。映画館の暗闇は鬱屈を抱えてうずくまるものだった。なんの鬱屈か? それは映画を観に来ていることへの鬱屈である。
 
僕にとって、映画は青春だった。そして青春とはひたすらつまらないものだった。他にも楽しいことがあれば年に三百本も四百本も映画を観ているわけがない。何もやることがなかったから、毎日のようにアテネ・フランセやフィルムセンターの列に並び、池袋新文芸坐や神保町シアターではしごをしていたのだ。暗闇の中、誰とも口をきかず。
 
当然、自分が無為徒食の徒であることくらいは分かっていた。それに気付かないほどのバカじゃない。映画に何かあると信じるほどナイーヴでもない。実際、映画館の人たちがどう信じていようと、映画に人生に対するポジティヴな意味なんかないのだ。それは単に2時間の暇つぶし、時間制の現実逃避でしかない。毎日のように映画を観ているというのは、つまり1年365日が現実逃避であるような人生ということである。誰がそんな生活に誇りを持てものか。
 
だが、僕は映画を観ていたし、今も観つづけている。
 
今も相変わらず他にやることもない。鬱屈も続いている。でも、それだけでもない。思えば映画の中にはいつも、自分の中に押し込めた鬱屈にも触れてくるものがあった。自分の卑小さや、自分のエゴの醜さや、愚かしさや、世間の無理解や世の中の理不尽さにうんざりしたとき、それが誰にとっても同じなのだということを教えてくれるものがあった。たぶん僕にとっても、人生は面倒で辛くて汚らしいものなのだ。
 
僕にとって、映画はそのことを教えてくれるものである。美男美女や無敵のヒーローなんかどうでもいい。ちょっぴりどこかに障害を抱えた人間が周囲の愛に助けられてハッピー・エンドを迎えるなんてものでもない。たぶん、世界はそんな風には動いていない。主人公は障害の重荷におしつぶされ、誰も救うことなどできないだろう。
 
まあ、中には美男美女のラブストーリーに救われる人もいるのだろう。だけど、僕にはそれじゃ足りない。自分の鬱屈を映画に向けざるを得ない人間にとっては、そんなものじゃあ全然足りないのだ。僕を救ってくれるのはエゴイスティックな人間が惨めに死ぬも、善人が報われず、悪が栄えず、誰も救われないような話だ。それはどうしようもない怒りと鬱屈を抱えながら生きているのは自分だけじゃない、と教えてくれるものでもある。
 
"映画愛"なんてセリフをしゃあしゃあと口に出せる奴は絶対に信用しない。僕にとって、映画は愛するものなんかじゃない。それはどす黒く、濁って中の見えない淀みだ。つつくと何が出てくるか分からないけれど、でも手を伸ばさずにはいられない暗闇だ。見たくもないのに目をそらせないもの、好きでもないのにやめられない麻薬だ。それは自分の一部、人生のかけらだ。
 
このブログは、映画館の暗闇にいるとき、どうしようもなく惨めな思いをしていた人間が運営している。映画の誘惑に敗れ続け、敗れる度に、その美麗なる快楽に浸り続けることができる。それを感じられる人にだけ、このブログを捧げる。
 
ということで、挨拶代わりの句点を打つ。
 

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