20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

ずっと味があるのに何味が分からない、吐き出したいのに吐き出すことすら出来ない、呪いの映画『魔女見習いをさがして』

f:id:IllmaticXanadu:20201229144321j:image「意味がわかると怖い話」の意味が永遠に分からない感覚。今年最も気持ちの悪い、異様で、不可解で、歪んだ、特異な、謎の映画。未解決事件のような答えの無さが、本当にずっと怖い。

 

演出ではなく、この企画を通したプロデューサーや東映の異常な魅力。作劇的な正解よりも、劇中の登場人物たちのように絶えず「移動」を続ける流動的なプロットにGOを出しているのも本当にやばい。

「え、普通はそういった問題は解決するよね?そういった伏線は必ず回収するよね?し、しないの…….でもしていないのに「納得」している……え、なんで……?」物語を観ているようで、「物語」のかたちをした、別のものを観てはいないか。その異様さは、やがて禍々しさすら感じ始める。

 

辿り着いた場所から始まり、やがてまた辿り着いた場所へと帰結する円環構造は、劇中にも登場する満月の輪郭そのもののようで美しい。けれど、そういった構成自体がこの映画の肯定的な魅力であると断言できない感じ。

何に面白いと感じたのかも、何に失敗していると感じたのかも、言語で説明できない感じ。破綻しているのに失敗しているとは思えないし、美しいのに一体何を見させられていたのか納得もできない。でも確かに納得はした。じゃあ「何に」納得をしたのか……分からない。書きながらめっちゃ怖い。

 

見終わった直後は「へんな映画だなー。でも言うほどかねー」とか感じていたけれど、ふと考え始めた瞬間から何もかもが気持ちが悪くなってきて、えづいた。「呪い」を観てしまった。呪われた。

 

エンドロール後、キットカットとのコラボレーションで大量の応募者の名前が流れるという仕様がバルト9でのみあって、これがネットでは批判的に捉えられているらしいけれど、自分は肯定的だ。というか、めっちゃ怖かった。

要は、この映画自体がノンフィクションのフィクションなんだけど、あそこだけ現実が侵食している・溢れ出ていて、ノンフィクションのフィクションの「ノンフィクション性」に蓋が出来ていないが活字(しかも固有名詞)が流れていく感じが不気味すぎてめっちゃ気持ち悪くてめっちゃ怖かった。

現実世界にも、山のように劇中の3人みたいな気持ちの悪い人間がいるという事実がずっと怖い。あのようにして、観客に対して置き土産的に「はい、おみやです」と呪って帰らせるのはとてもいい。でも、激やばいと思う。

 

対男性への「魔法」を信じられない描写の数々やSNSの捉え方は、ほとんど露悪的ですらあり、それが現代的なポリコレ解釈なのだと納得出来ればいいのだけれど、ずっと不気味だった。

それぞれの挿話の必然性が「必然性の否定」で連結されながら、行く末の分からぬ深淵を落ちていくような不安を抱きながら席に拘束されていたぼくらは、一体「これ」は何だったのかと、今も記憶に焼きついた残像を追跡する。でも、残像すら目視できない。可視化されていない面白さ。

だからこの映画は「幽霊」そのもののようだ。幽霊は怖くない。幽霊を「見た」ということが怖いのだ。その感覚に最も近い。

 

LINEには肯定的。

新幹線超肯定。