20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

画は映画なのに芝居は演劇、それを迫害する思想はもう棄てる、面白いかどうかは別として『容疑者 室井慎次』(2005年/君塚良一)雑感

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本作における最たる「観るべき理由」は、撮影監督を林淳一郎が務めているという点にある。林の撮影監督としての秀逸な仕事は、僕の偏見で列挙するなら、『リング』『回路』『カリスマ』『ニンゲン合格』『仄暗い水の底から』『クロユリ団地』といった、中田秀夫黒沢清の組で容易く観測することができる。林の設計する構図や陰影の深いライティングは、おそろしいものとの距離を浮かび上がらせて、その距離感が急速に縮まる瞬間のおぞましさをも体感させてくれる。

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とは言え、林がこの踊るシリーズのスピンオフとして撮影監督の発注を受けたのは、本作がおそろしくておぞましい映画だからなのではなく、単に「シリアスな画に仕上げたい」という要求から成るものであることは推測できる。加えて、製作サイドも「室井慎次のスピンオフに関してはシリアス路線で挑みたい」という目的達成のため、林への発注を試みた事は容易に予想できる(後述するが、この「シリアス路線」という目論見は案の定失敗している)。したがって、徹頭徹尾に、ほとんどシナリオの欠陥とは無関係なまでに、「画」としての成立、「映画でありたい」という欲望が静かに脈打っていることは、文字通り誰の目にも明らかである。まずは、林の仕事を高らかに評価するべきだ。

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主人公の室井慎次は、ほぼ味方がゼロの状況下で、まるで黒衣の亡霊のように右往左往する。そもそも口数が少ない上に、怒りの感情が湧き上がると、こめかみを上に吊り上げ、頬をぷくうと膨らませる男である。どこまでもステレオタイプで、どこまでも空虚で、どこまでも記号だ。だから彼が定食屋で食事をするシーンには無性に人間味を感じられて中々にエモいのだけれど(室井は田中麗奈演じる新米弁護士が差し入れした弁当を劇中では食さない。絶食の室井)、室井のその「食べ方」に感情操作も演出意図もまるで無く、例えば「食べ切る」という描写をしても良いのに、それはしない。動作や行為に限りなく意味が付帯しないまま、室井は画面内で直立不動し続ける。演じる柳葉敏郎が悪いのではない。室井慎次とは、そういった「キャラクター」でしかないからだ。

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映画はカメラによって被写体のクローズアップを撮ることが可能であるが、まず以って室井慎次というキャラクターを真に信じ切っていない上に、移入し切っていない監督による責任放棄の罪は、クローズアップの意味を喪失させる。映画という便法で語るべき芝居を施していないからだ。しかし誰が観ても、頬をぷくうと膨らませれば「記号」として怒っていることは明らかで、端的に言って、スクリーンを能動的に見つめる集中力は、そのカリカチュアによって失われる。つまり、このキャラクターは果てしなく「映画」の人物ではない。本質的には「演劇」の人物である。

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本作が「演劇を映画でやる映画」ということに開き直っているのは、何もキャラクターの言動や立ち位置(文字通り、空間のどこに立っているか。あまりにも第四の壁を意識した立ち位置が目立つ)から読み取れるだけの事柄ではない。

第二幕の終盤、八嶋智人扮する(終始ゲームを手放さない、メガネ、冷酷、というステレオタイプな)灰島の弁護士事務所をひとり訪れる室井のシーンは、あまりにも美しいほどの「演劇」しか画面に映らない。窓から差し込む夕日が沈むに連れて、室内は闇に包まれていく。室井に一筆迫る灰島ら。ドン底の室井。そのタイミングで画面全体がついに漆黒に染まる。と、そこに一筋の光と共にドアが開き、田中麗奈が「むろいさぁん!」とやって来て無事に室井を救出。その後、田中麗奈にビンタされた室井は喫茶店でコーヒーをキメながら回想話を延々するのだけれど、ともかく、これら一連のシーンは、よしんばライティングの一つに着目してみても、誰がどう見ても舞台照明のソレである。ここに辿り着いてようやく(1時間15分くらい掛かった)、嗚呼、この映画はもはや映画ファンやシネフィルたちからとやかく激昂されようが、「演劇」を「やっちゃう」ことに対して何ら葛藤も無いんだな、むしろ「ツイストを加えている」と自信有り気なんだな、ほおーんと、不思議と感心してしまった。

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ここに於いて「映画と演劇は違うんだよ映画で演劇するなら映画でやる意味ねえだろ映画ってのは映ってる全てに意味があんだよカメラがあんだよ編集があんだよマジックがあんだよ映画ナメんなやブチ殺すぞ」という呪詛が湧き上がることは健全な思考だと僕も思うのだけれども、いやはや、先述した林淳一郎の撮影がねえ、いいんですよコレが。勿論いいんですよ。だって林淳一郎なんだから(まあ、いくつか映し出される回想シーンは例外なく超絶にウルトラダサいのだけれど、その辺は演出とカラーグレーディングの問題が原因かもしれない、と肩を持ちたくなってしまう……)。つまり、画は「映画」であって、それ以外のあらゆる事柄が(脚本や台詞も含めて)「演劇」である本作がもたらす妙な居心地の悪さは、ギャグすれすれの異化効果だと言っても過言ではない。珍作じゃね?

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逆に本作の最たる罪は、我々の愛すべき歓楽街として「新宿」をまったく美しく撮れていないことに尽きる。なんだあのテキトーな新宿は。君塚、アンタそんなにお嫌いですか歓楽街が。劇中で新宿の路上に雨が降るのだが、降らす雨の汚さったらない。雨が街をさらに美しく魅せることができる化粧であるのを知らずによく映画なんか撮れるな。あの新宿描写は酷すぎる。と思ったら、当然ながら実際の新宿であんな大規模な撮影ができるはずもなく、福島県いわき市でセットを建てて撮られたそうな。とは言え、努力は完成された美しさを担保するものでは決してない。罪を犯すくらいなら初めから脚本に書かないでください。ってことで、室井が天を仰いだ瞬間にザザーッと豪雨が到来して間髪入れずにクソガキにボコボコにされてばたんきゅーしているのをカメラが見下げショット、には爆笑しました。笑わせてもらえたので、殺意を抱く必要は、まあ無いわな。

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