20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

家のいのち、映画のいのち、誰かがいつでも、それになる【『stay』に関する雑感】

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映画のジャンルの一つに、所謂「聖なる訪問者」について描かれた作品群がある。たとえば、パゾリーニ監督の『テオレマ』では、裕福な工場経営者の邸宅に謎の美青年(テレンス・スタンプ)が滞在(stay)し始めて、不思議な力によって家庭を魅了していく様が描かれる。他にも『メリー・ポピンズ』や『家族ゲーム』、『ビジターQ』など、外部から来訪してきた何者かによって内部が変貌を遂げていく映画は数多い。これらにおいては、箱庭的な世界の縮図や、外側に対する信頼/不信感を垣間見ることが出来るわけだが、閑話休題。『stay』が面白いのは、そういった類型的な構造におもねることなく、言うなれば「逆『テオレマ』的」な作劇が成されていることだろう。本来であれば、役所から退去勧告を言い渡しに来訪する矢島が「内部」をかき乱す役割を担うはずだ。しかし、彼は5人の男女、あるいは空き家そのものによって、次第に本来の目的を剥奪されていく。もしくは、自ら「あきらめて」いく。外部から「空き家」を奪いに来た者が、「空き家」そのものの磁場に引き摺り込まれていく構成がまず見事だった。
矢島が来訪直後、並べられたスリッパを履かずに乗り越えて向かった先はトイレで、そこは四方を壁で囲まれていながら、音は外部に漏れて聞こえている。外に繋がっている密室空間。この内外の関係性は出入り自由な空き家を想起させるし、矢島のファースト・アクションがそれなのは、しっかりと彼がたどる結末で帰結している。

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前述したように、本編に登場する「空き家」は、立派なこの映画の登場人物のひとりと言っても過言ではない。その存在感たるや、外界から断絶されたかのような、まさに聖なる空間が確立されている。事ここにおいて、ロケーションの素晴らしさを言葉にするよりも、そのロケーションを存分に切り取った撮影の秀逸さを特筆する。本当にショットが素晴らしかった。日本家屋でシネスコをやってやるぞという、面倒で難儀極まりない、しかし映画好きなら一度はやってみたい挑戦に、きっちり勝利してしまっているのがすごい。アングルもよく考え抜かれているし、柱や階段の配置が美しい構図も良かった。日本家屋特有の広々とした空間は、構図次第ではのっぺりとした印象の隙間だらけの画になりがちだったりするし(シネスコなら尚更)、意外に多い柱はカメラ位置の選択肢を少なくさせたりする。そうした限定的な空間の中で、よし、次のショットはちょっと大変だけれどここに繋げてしまおうと、たとえば天井からの俯瞰ショットがあったりする、その逃げない「姿勢」が素晴らしい。
画面の手前側、フレームの3分の1を覆うように被写体を配置するショットが何箇所かあった。ぼくは観ている最中、いやあ、それではちょっと教科書的過ぎるんじゃないかなあーと思っていたのだけれど、それが施されるのは矢島が立ち退きをまだ「あきらめていない」状況においてだけで、彼の目的が希薄していくように、そういうショットは朝を迎えると選択されない。これはうまい。つまり、この家に対する外部からの心理的な切迫感みたいなものがショットに表れていて、しかしそれが最終的には無くなったことさえショットによって表している。
トイレでの矢島の見た目ショット以外は全編フィックスで、単調になりがちな時間操作をテンポ良く、丁寧に撮って繋いでいることへの好感はとても大きい。
台所に立つマキの背中のショット。徐々にぐわんぐわんとカメラが引いていくのだけれど、あの窓からの光を浴びながらも不穏な背中、めっちゃ怖かった。そのまま放置された大さじスプーンなど、先程まで動いていた「時間」が停止しているショットもちゃんと怖かった。

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こうした丁寧な作法は撮影だけに留まらず、照明や録音もハイクオリティで、明瞭かつ明確だった。特に、丁寧な整音は「音楽」としての機能を備えながら(劇中に劇伴は流れない)、目には見えない確かな演出力を発揮していたと思う。たとえば、この家は鈴山のものになってきている、というような台詞が発せられる直前に、二階から電動ドライバーのギギッ、ギギーーンという激しい音がする。その音を発生させているのは鈴山であって、観客に鈴山への不安感を予感させた直後、台詞は鈴山への言及へと至る。このイメージのさせ方、誘導の巧みさ。他にも、夜中に階段を降りるサエコの足音、ビニール袋に入ったトマトが潰れる音、不穏な空気の中でぐつぐつと音を立てる鍋、音の出ないインターホンなど、音への信頼が感じられるのが楽しかった。こうした高品質なスタッフィングからは、東京藝大の優れた機材を十二分に使ってやるぞ!という気概さえ感じる。しっかりとレールを敷いて動くべき時にカメラを動かしているのも良いし、贅沢なのに嫌味がない。なにより「映画」をやりますぞ、という気持ちがひしひしと伝わる。

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本作は「外」へのおそれよりも、2階、すなわち「上」への不信感や嫌悪感というものが通底しているのも面白かった。家父長的な存在である鈴山は、文字通り「上」で生きており、その「上」の実態は隠されながら、立入禁止=ルールを設定することによって自らの権力を保持しているかのようだった。食事の際に金銭を徴収するのも「ルール」だと彼は言っていた。矢島の退去勧告に対しても、自らの「ルール」によってそれを回避し続けていた。矢島に仕事を与えた鈴山は、彼から一番風呂の権利を奪うが、「作る者」という役割をバトンタッチしたかのようにも見えた。勧善懲悪に陥らないギリギリの地点で描いてみせた鈴山は、家ではなく「上」に住んでいたのかもしれない。たとえば家庭、学校、会社、国にとっての「上」を思い浮かべながら観ると、より豊かな作品に感じられると思う。
この辺り、ぼくは勝手ながら、脚本を担当した金子鈴幸さん「らしさ」が感じられて楽しく観た。「らしい」って勝手にすみません。でも、こういった根底に流れるメタフォリカル(あるいはポリティカル)な寓話性は、ぼくが感じる「らしさ」の一つだ。「上」への不信感。自由な不自由。そういった事柄に対する「抵抗」をそのまま声高らかに宣言するのではなく、何層も厚みを持たせた上で「適応」によって描写してみせる、その手腕の確かさ。ホンでも読んでみたい。
 
「上」に関する感想はまだある。仮に、マキにとっての鈴山は、父のまがいものだったのかもしれない。劇中、鈴山と口論になる、彼に意見する回数が最も多いのがマキだ。マキと鈴山はどうやらうまくいっていない(もちろん、鈴山とサエコもなのだけれど。そういえばサエコを演じた遠藤祐美さんは『ろくでなし』での芝居で感銘を受けまして、本作での静かな語り口も大変素晴らしかったです。ということは大事な気持ちなので今書いてしまいました)。マキからは、父性的なものに対する反発心が感じられる。もしかすると彼女は、家父長的な父をおそれてこの家にやって来たのではないだろうか……もうお父さんとは暮らせないから……と、ぼくが妄想したのは、彼女の「外」に行き場がなさそうだと感じたからだ。なぜなら終盤、彼女が「外」にいたのにひょっこり出てくるのが、まるで父が出て行くのをしっかりとこの目で見届けて、それを完了させてからフレームインしているように思えたからだ。「父がいる家」が「父がいない家」になるのを待っていたかのように。
ちなみに、この映画は意図的と思えるほどにフレームアウトがいくつか配置されている。それは、やがてこの場を去りし姿の残像のようでもある。で、逆にマキのフレームイン率が他の人物よりも多かったと感じたのだけれど……気のせいかな……。
 
状況説明はほとんど役所の職員に委託しちゃう、というのも上手かった。ぼくは、こういったあらすじでございとばかりに説明台詞で埋め尽くされるとヤダヤダと意識が遠のきそうになるのだけれど、本作は会話のやり取りで徐々に状況が判明していく、まるで霧が少しづつ晴れていくかのような興味の持続があった。そういったテクニックは当たり前かもしれないけれど、当たり前をバカにしてはならない。作品が何かを説明するのではなく、観客の心が自ら何かを「発見」してこそ、その体験は本物に、宝物になるはずだからだ。他の登場人物の台詞は説明ではなく感情吐露に近い。台詞の随所から、その人の背景がぼんやりと「発見」されていく。そういった彼らの感情を浴びた矢島が、最終的に「どう感じる」か。矢島も観客も、しっかりと「導かれている」感触があって、参ったなあと親指を立てた。

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思えば、「家」の運動性、「住まい」の生命とは、そこに住む人間の運動に呼応している。『stay』を観ていて、そんなことを感じるに至った。空き家は停止した時間の残骸なのかもしれない。ところが、ひとりでも、だれでも、そこに人が存在さえすれば、時計の針は再び動く。これはちょっとばかり、映画そのものと似ているかもしれない。なぜなら、映画を活性化させるのもまた「運動」だからだ。モーションピクチャーとホーム。家が呼吸を取り戻すと、映画も呼吸し始める。終盤、家も映画も窒息しそうになる寸前で、外からの音によって両者は息を吹き返す。そういう瞬間に映画を終えられるというのがとても美しい。

傑作『stay』からの更なる成長と挑戦を偉そうに夢想しながら、藤田直哉監督の次回作に期待しております。
 

最後に。本作がぼくにとっては、恐らくアップリンク渋谷で観る最後の映画となるだろう。
アップリンク渋谷では、主にインディーズ映画をたくさん観てきた。色々な映画の自主上映に行った。もちろん、ホドロフスキーもここで観た。
シアターN渋谷が閉館してから、マニアックだったり、アート系だったり、とにかくヘンな映画ばかりここで観てきた。

現状のアップリンクに対しては、思うことはある。

とは言え、ちゃっかり青春、お世話になった。
映画館は停止しようと、あの映画館で映画を観た時間は”stay"し続けていることを思い出しながら、本作品に対するささやかな感想とし、句点を打ちます。