20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

『良き場所の悪い時間』

f:id:IllmaticXanadu:20200815180742j:image今年も当たり前に21世紀20回目の夏が訪れた。20回目の夏においても、私たちはしっかりと何かを失い、間違いなく何かを与えられている。あらゆる時代の夏と同じように。

私も多聞に漏れず、夏の魔物との接見に勤しんでいる。たった今、この瞬間も。


今、私の脳内はメルティングポット状態にある。端的に言って、頭が全くもって上手く働かない。記憶にはぼんやりと霧がかかっており、現実かと思ったら夢の出来事だったことが最近多い。

ここで歴然と明示しておかなくてはならないことは、本文がメンタルヘルスによるかまってちゃん発言ではないということだ。これは予防線ではない。私は生まれてから今まで、自傷願望も自滅願望も抱いたことがない。


てにをはや誤字があろうともお構いなく、雷鳴の如きスピードでキーパンチ出来ていた私も、いささか筆が重くなった。なぜか。21世紀の20回目の夏が、果てしなく最悪だからだ。


今年の夏には、花火も無ければ祭りも無い。ということは浴衣美人もなく、うなじのエロティシズムも無い。とまでは決して言わないが、ともかく例年よりも何もかもが減少傾向にある夏なのは間違いない。

増加傾向にあるのは新型コロナウイルスの感染者数と、閉店を余儀なくされた様々な店舗と、イソジンイソジンと統合失調的に騒ぐ猿たちだ。

もしかすると、海も、プールも、山も、旅も、無い夏になるのではないか。映画や演劇や音楽が、こんなにも楽しみにくい/楽しませにくい夏もないのではないか。
果たして、今年は「夏」なのか?
貴様らが渇望していたオリンピックが無かったことだけが、唯一の救いとなってしまった。


そして、私事も私事、私の夏には睡眠時間が無い。


私は先月から朝の早い仕事を始めた。早起きが滅法苦手な夜行性の生物である私は、本来であれば就寝時間であるはずの時間に起床している。スマートフォンのアラーム音がけたましく鳴り響く朝の部屋というものが、私にとっては最もおぞましく、美麗さのかけらも感じられない。アラーム音をバッキバキのラブソングにする必要がある。必要性を感じつつ、まだしていない。


公私共にパートナーであり、恋人であり、(大嫌いな日本語だが)同居人である彼女と私の生活リズムは異なり始めた。というより、私も彼女も根っからの夜行性であることから、お互いが共に時間を過ごすことへのストレスが無く、鮮やかな手つきで落ち着きをキャッチ出来ていた。しかし、私が夕方前には帰宅すると、今度は彼女が外へと出掛けてゆく。彼女が帰宅する頃には、私は就寝を試みようとしている。彼女が眠くない時間に私はものすごく眠く、彼女が夢を見ている時間に私は起きる。

こういった日常の些細な差異は、私から睡眠時間を略奪していった。無論、私だけではない。ワンルームマンションで同居している我々は、互いが互いを思いやり尊重しつつ、ズレた時間の空白を埋めようとして睡眠時間を犠牲にしていた。


いつの頃からか、オールナイトで朝まで時間を過ごすことが体力的に辛くなった。学生時代、あんなにも美しく無駄を極めていたのに。確実に私は歳を重ねている。あらゆる人類と同じように、21世紀という世紀内で絶命するようにプログラミングがされている。老いがおそろしい、とは言わないが、想起するべき新たな「あの頃は若かったね〜」が個人史に加わったことに関しては、切なさがあって感慨深い。


睡眠不足という、エッセイストが選んだテーマであれば職を失うような凡庸な事柄を、こうして公に向けて書き記している時点で、私は私にあきれている。


このエントリーは、睡眠不足と疲労の蓄積という言い訳をエクスキューズするための文章ではない。
確かに毎日眠いし疲れているが、私はワーカーホリックでいられる期間がかなり長い。映画の制作期間などがそうだ。
だが、今はまだワーカーホリックに没頭するほど仕事に移入していないし、あるいは、芸術以外ではそれが不可能なからだになってしまったのかもしれない。だから、ただ単に疲弊している。


私には肉体が疲弊すればするほど、精神的な双極性を増加させる危うさがある。双極性とはすなわち、躁鬱気質のことだ。躁のときはものすごく幸せな気分で演説してしまうし、鬱のときは内部・外部双方への暴力衝動と怨念がみなぎる。去年の今頃から、私は自分が軽躁気質なのだと自覚した。


疲れれば疲れるほど、無性に楽しくて仕方なくなってくる。その様子を転じてマゾヒズムと呼称するのは愚の骨頂であるが、実のところ私は「常に疲れていたい」のかもしれない。もしくは、「常に何かをしていたい」のだ。幼い頃の私は、先生をわざと困らせるために保育園から飛び出すくらいには多動症だった。


とは言え、どんなに動き続けていても、それと比例するくらいには眠っていた。休養が削がれている状況の今、自身が位置するリージョンは愉しさとかけ離れている。
私はどんなに疲弊していようが、感情を吐露するべく文字をキーパンチすることに何ら苦しみも無かった。むしろ、そうした文筆活動こそがジョイフルそのものだった。それが今は、今は難儀だ。PCの前に座ったとしても、真っ先に浜辺美波の動く姿を動画サイトで目視してしまう。猫が戯れる動画も見る。私は今、こうして言い訳を書き連ねながら、何も書けない。


いや、書こうとしていない。という表現の方がふさわしい。疲れながらも、睡眠時間を削りながらも、書くという行為を目指してきた。しかし、何も書きたくないのだ。こんな最悪の夏に。


こんな、最悪の夏に。


もちろん、素晴らしい出逢いや尊い存在との邂逅に満ち溢れた上半期であったことも強調しておきたい。重ねて、どんな年月であっても、我々は何かを与えられ、そして何かをちゃんと失う。天上で微笑む造物主は気まぐれだ。


f:id:IllmaticXanadu:20200815181013j:image今年の5月は楽しかった。友人からの誘いで、緊急事態下にオムニバスで映画を撮ってほしいと頼まれ、5分ほどの短編映画を撮った。初めて恋人を被写体にして撮ったため「公私混同している」と批判されたが、公私混同するために撮った。「映画に失礼」という罵声も浴び、映画に無礼を示したかったので私は上機嫌だった。苛立つ民に向かって、我々はあっかんべーを披露する共犯関係にあった。


恐縮ながら、私が決して敵わないと本気で嫉妬している才人・菊地穂波氏と香椎響子氏の劇作家両者から、短編映画に対するあまりにも素晴らしい感想文を頂戴した。二人の文章は、アカデミックかつ極めてロマンティークだった。自らの自慰性を誇張するつもりではないが、もはやその言葉を体内に吸収できただけでも、作品を撮って良かったと感じた。


だから返事として、二人の創作物に対しても、私は感想を述べるべきなのだ。


この最悪の夏に、私は現状4本の演劇を観劇した。ヴァージン砧、盛夏火、宇宙論☆講座、そして排気口である。ちなみに、映画館へは2回しか行っていない。という事実を「映画への愛が希薄化した」とアクチュアルに捉えてもらっては困惑する。私は単に、年始にプライベート宣言した通り「2020年は今まで触れてこなかった小劇場へと足を運び、なるべく演劇をたくさん観る」という欲求を満たしているのみだ。そして5歳の頃から、映画愛なんてつまらない欺瞞は抱いていない。


私は、どんなに面白かろうが、猛烈につまらなかろうが、「表現」に接見した折には、必ず言語化を遂行しようと努めている。特に今年はそうだった。観た演劇への雑感を、メルトダウンぎりぎりの文字数で綴った。映画に対して何かを書いた際よりも、より多くの方に文章を読んでもらえた。そんな実感は微塵もないが、ほのかに界隈で私の存在が話題に挙がることが多かったらしく、「あいつ何者?」と興味を持っていただいた方もいらっしゃり、恐縮でしかない。加えて、その上で直接お会いしてくださった方々もたくさんいた。自分は恵まれている。現状、演劇に関する文章は劇団「地蔵中毒」が最新かつ最後であるが、これまでの期間で、劇団員の数名と邂逅を果たすことができた。それ自体は執筆の目的ではない。でも、端的に言って、自身の淀んだ射精液であろうとも、感想を書いて良かったと思えた。


しかし、何も、何も書きたくないのだ。こんな最悪の夏に。


こんな具合に、自身の筆力の衰えを責任転嫁させられるので、季節は偉大だ。
だが、今年の夏は、「夏」という季節として機能しているのだろうか。
眠たい目をこする私のみが、「夏」を実感できていないのだろうか。そんなこと、ないと思うの。


ところが、早起きには三文以上の徳もある。夏の早朝は涼しい。蒸し暑さが奇襲する前の、軽やかな静けさが流れている。
私は起床すると、煙草を一本吸って(悪い癖です)、必ず駅までの道中にあるコンビニでホットコーヒーを購入する。カフェインによる支援を期待しているのではない。真夏の涼しさと静けさの中で飲むあたたかいコーヒーには、物理的な目覚め以上の覚醒効果がある。冬にアイスが食べたくなるのと同じことだ。私は真夏に飲むホットコーヒーが好きである。この行為は、私にとっていささか贅沢なものとして機能している。この時、確かに私が生きている時間は、紛れもなく「夏」なのだと実感ができる。
どんなに苦しい夏にも、必ずそういった福音の時間は存在している。


今朝、職場へ向かう電車の中で音楽を聴いた。
夏らしい一曲が聴きたいと思い、目当ての曲をサブスクリプションで検索したが無かったので、仕方なく動画サイトで拝聴した。
何の気なしに、ただ聴きたいと思い、聴いた。


その曲が鳴り響いている間、私は訳も分からなく泣いてしまった。涙が止まらなくなった。


今年の夏に、花火が、祭りが、海水浴が、音楽フェスが無いから泣いたのだろうか? 新型ウイルスの感染蔓延と、国力の衰えを実感して泣いたのだろうか? あまりの睡眠不足で脳がスパークして泣いたのだろうか? 映画が公開延期の一途を辿り、大好きな映画を観れていないから? 免疫力の低下? 食べたアイスで頭がキーンと痛くなった? 友人や恋人とのちょっとした喧嘩? エヴァがいつやるか分からないから? 書きたいものが書けないから? 総理大臣がバカだから? 百合子が女帝だから? 大変な喪失があったから? 東京にオリンピックがやって来なかったから???


否、すべてがそうであり、すべてがそうではない。
私が発作的に泣いてしまったのは、紛れもなく、素晴らしい音楽の力だ。


おかげで電車の乗り継ぎに失敗して、数分だけ遅刻してしまった。
でも、その曲が鳴っている時間も、涙が流れ落ちている時間も、遅刻してしまった時間も、今この文章を書いている時間も、そして、かつて「夏」を過ごしていた時間も、これから「夏」を過ごすだろう時間も、私の口角は上がっていた。


なんて幸福な気分なんだろう。


今年の夏、初めて泣いた。それは、この最悪の夏から、自分自身が救われていく感覚があった。


生きることは、そんなに世間で言われるほど辛いことなのだろうか。
私が、あなたが今抱えている問題は、両手で揺らすことすら難しい、特殊な合金の巨大な塊のような物なのだろうか。
答えは間違いない……NOだ。

 

常にフレッシュでいること。それが福音の第一番だ。
フレッシュでいる限り、人間は自滅しない。


眠気が瞬く間に消滅した。肉体と精神にみなぎるのは、僅かながら絶対的な、うっとりとした多幸感だ。


俺は、取り戻した。


音楽であれ、演劇であれ、映画であれ、文学であれ、芸術が不必要な時代、は、存在しない。
これはツァイトガイスト(時代精神)だ。
人間の生きるための活力とは、そういった分野にこそ宿っている。
だから、緊急事態に芸術を蔑ろにするヤツは土でも喰って死ねばいい。今が最も必要な時だ。芸術論を叫びたいのではない。だって当たり前に、俺は、俺らは救われていいんじゃないか? ひとりひとりが。こんな「夏」なのだから。


本当はこの世が最悪なのではない。最悪だと思い悩んでいる、この俺が最悪なんだ。もう一度言う。人間は、常にフレッシュでいれば、絶対に自滅しない。この世は俺たちが考えている以上にグッドプレイスだ。芸術や表現がある限り。目を凝らさなくてはならない。冴えた視力のために、俺は睡眠時間を確保する。フレッシュでいるために。
再び、あなたの表現で涙するために。


俺たちは今、悪い時間を過ごしているだけだ。
すべての鬱屈は、これで説明が完了する。


芸術や表現が存在する良き場所の、最悪の夏の時間。


それでも、俺は確かにここにいる。良き場所に。
それだけは絶対だ。ここで生きている。ここで生きていくしかない。

 

良き場所の悪い時間の中で、それでも良き時間を与えてくれた4つの劇団、並びに公演に関しては、謝辞と共に、いずれ恋文という名の感想を綴るので待ち続けてほしい。ありがとう。夏を教えてくれた神々たちよ。

 


SPARKLE 山下達郎

 
※この文章は、TBSラジオ菊地成孔の粋な夜電波』第170回「神々が作った季節」へオマージュを捧げて構成されています。