20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

最近観た映画の備忘録#5(緊急事態の解除は自粛期間の終焉ではない、ので、まだまだ自宅で映画を観まくるぞ!とか甘えた幻想を言ってられないくらいには映画館で新作が観たいです。大嫌いなNO MORE映画泥棒のCMを観て、妙な安心感とノスタルジーを感じてしまうのだろうか……だとしたら、それは嫌だな……)

f:id:IllmaticXanadu:20200528051055j:plainSUNNY 強い気持ち・強い愛』(2018/大根仁)

アマプラにて。個人的には『サニー 永遠の仲間たち』がオールタイムフェイヴァリットに大好きな人間なので、この日本版リメイクには拭い切れない違和感がどうしてもあった。とは言え、興味深く観た点も確かにあったし、結構引き裂かれて曖昧な印象にはなってしまっている……。何よりも、劇中で鳴らされる90年代J-POPは、驚嘆するレヴェルで果てしなく映像と合致していない。90年代リアルタイムを知る/知らないの前提は関係なく、あまりにも不細工な選曲、映像素材とのミスマッチ、フェードアウトは聞くに耐えない。たとえば、あの名曲『Reality』が流れる『ラ・ブーム』パロディ名シーンの再構築で、CHARAの『やさしい気持ち』が流れたときは顔から火が出るほど恥ずかしかった(言うまでもなくCHARAは好きです、そのテキトーな使われ方に赤面した)。その後、過去と現在が交錯する映画的マジックとしか言い様のない『サニー』屈指の失恋シーンにおいても、『Reality』ではなく『やさしい気持ち』が、でもなく、アムロちゃんの『SWEET 19 BLUES』が流れる。ごちゃごちゃしている。よしんば、ぼくがオリジナル版主義者だということを隅に置いたとしても、その篠原涼子広瀬すずを捉えたショットのサイズや編集が、なぜそんなアンチ・エモーショナルでテキトーな繋ぎ方ができるのだろうかと疑問に感じるほどに、平坦で凡庸。そして「恥ずかしい」。というか、そもそもオザケンが、やっぱり「恥ずかしい」のだ……。また、中盤で広瀬すずがいじめっ子にお好み焼きを投げつけるシーンがあり、ここはスローモーションとおどけたポージングでスラップスティックに済ませようとするのだけれど、なぜかこのような「歌が流れ出してほしい瞬間」には、本作は小室哲哉による腑抜けた劇伴しか流さない。大根監督は音楽的な編集とサブカルへの博識が感じられる人だった。過去パート導入と同時にコギャルたちによるダンス(ミュージカル)シーンが始まり、その辺は『モテキ』ライクな画に成っていくのだけれど、さりとて、本当に『モテキ』を撮った監督なのだろうか。と、疑うほどの音楽的な配置ミスの数々。この本編映像との不一致な違和感は、音楽的なマッチングやコントロールに長けていた大根監督の仕事とはにわかにも信じ難い「ダサさ」だ。そういった音楽/音楽的な多幸感を排した大根作品には、ちょっと自分は惹かれない。大根さん、本当は『サニー』も90年代J-POPもギャルも好きじゃないのでは……今回は職人監督に徹したと信じますが……。ノスタルジーに目配せしているようでいて、その実ディテールは即物的でしかなく、タイムカプセルのように時間は閉じ込められておらず、なんら実在感はない(マクドナルドの昔のデザインのカップとか確かに懐かしいのだけれど、それには"それ"以外の意味は何も無い)。カルチャーへ言及する台詞も、妙なリアリティラインで喋らせていて、これは口語ではなく文語に近いなと感じた。たとえば「福山雅治オールナイトニッポン」とか「伊藤家の食卓」とか「小沢健二」というワードが台詞として発声されるけれど、劇中の登場人物の「リアルな」口調ならば「福山の〜」「伊藤家」「オザケン」と発せられるのが本来のリアリティラインだと思う。正式名称という呪い。と、なんだか文句が多くなってしまったけれど、まあ、ギャルがいっぱい出ているんだしええじゃないかと、心を無理やり和らげるムーヴを起こしたりもした(実際、ぼくは90年代生まれなので、コギャル文化へのノスタルジーは無く、どちらかといえばプレモダンとしてのフェティッシュな憧れの方が強い。あとギャルは自由でいい。きゃぴきゃぴしているのもとてもいい)。とりわけ、女優陣は皆とても良かった。映画が開始しても中々加速しないなあと腕組みしていると、ミューズ・山本舞香さんが登場した瞬間から、画面が色合いを増して一気に魅力的になる。この山本舞香さんは、文字通りに好演している。山本舞香さんが兼ね備えている「ヤンキー感」は異様な美しさだ。ヤンキーが好きなのではなくて、ヤンキーが似合ってしまう女優は勝手に加点対象となってしまう(まあ、劇中ではあくまでもコギャルなんだけれど)。実際に身体アクションが特技である彼女は、やはり肉体の動きが大変美しく、どんな時も揺れ動くことなく安定しているので、静止している時でさえ凛としている。山本舞香さんに蹴られたい。終始アンニュイな表情と流し目で我々を殺しにかかる池田エライザさんにも感謝を表する。広瀬すずに関しては、演技巧者というより、ちゃんと監督の演技指導を聞いて芝居に落とし込んだ方がいいのではないかしらと思うくらいには暴走していて、これはあまり好印象には感じられなかった。あるいは、監督が彼女に的確な"演技指導"をしていないのかもしれない。渡辺直美のコメディエンヌとしての器用さは言うまでもないけれど、小池栄子が本当に素晴らしい。映画に祝福されている女優。もっと彼女をスクリーンで観たいと切に願い続けている。そして無いものねだりだけれども、降板してしまった真木よう子山本舞香さんを、マジで顔がキツネ顔でヤンキー感があるからという理由で繋げようとした大根監督を、やっぱり信頼してしまう。山本舞香さんの顔が20年経つと真木よう子の顔になる映画の魔術を、是非ともこの目で見たかった。オバサン4人で制服コスプレして宮崎吐夢をボコボコにリンチするシーンは、オリジナル同様楽しかったけれど、鉄パイプで人の顔殴っちゃっていいんですかね?!めっちゃ血出てましたけど……。

f:id:IllmaticXanadu:20200528082832p:plainイレイザーヘッド』(1977年/デヴィッド・リンチ)

DVDにて。何度観ても最高のオールタイムフェイヴァリット。元祖ミッドナイトムービーであり元祖カルト映画であり元祖自主映画。俺はまだまだアートをやりたいのにカミさんが妊娠してしまったー!父親になりたくなーい!赤ちゃん怖ーい!んぎゃー!という制作当時のリンチが見た悪夢が原作であり、男性版マタニティ・ブルーみたいな、逆『反撥』、逆『ローズマリーの赤ちゃん』。そんな超個人映画を完全にセルフコントロールして作り上げた本作は、処女作にしてリンチの代名詞的な役割を未だに備えている(その後、娘リンチのジェニファーちゃんはパパと同じく映画監督になりました。娘からしたらどんな気持ちだこの映画)。改めて観たら美術すごすぎるな。ほとんど全部リンチが自分で作ったらしいけれど、もうモノとかセット自体がキャラクターの一部というか、言語の一種みたいな。というか、ちゃんと自分で作って偉い。スパイクこと赤ちゃんは造型の不気味さに着目しがちだけれど、あのピーピーという金切り声に神経を逆撫でするおぞましさがあった。終盤でヒャッハッハと笑うのも嫌だったな。そういう点で考えると、終始工場や胎内音のようなノイズが鳴り続けている本作は、リンチ自身によるサウンドデザインの見事さもまた素晴らしい。電気や照明のスパークは、その後の『ツイン・ピークス』などリンチ映画のキービジュアルになるので、処女作から一貫してやること変わらないなこのオッサン!と思った。ラジエーターレディがへその緒みたいな、胎児みたいなよくわからんミミズをぷぎゅ!と足で踏み潰した後に「てへへ」と笑うのが可愛い。メアリーX家での夕食で、チキンが股から血噴き出しながら絶叫しているとオカンも一緒に絶叫するの可愛い。メアリーXが寝ながら眼球をぐりんぐりんこするの生理的嫌悪感ありまくりで良い。メアリーXが実家帰る!とヒステリー起こしてベッド下からキャリーバッグ抜き取ろうとするけど中々抜けないの良い。スパイクの眼球がギョロっと動く超クローズアップ超こわい。エレベーターのドア全然閉まってくれないの最高。エロいおねえさんとセックスしている時に、エロいおねえさんがキスしながらスパイクを見てドン引きするの良い。ドン引きした後、そのままベッドの中に文字通りに二人が沈んでいって、エロいおねえさんの髪の毛がちょっと浮いて残っているのも良い。ヘンリーの首が抜け落ちてスパイクの頭がおぎゃあと出てくるの笑う。でかいスパイクの顔が三頭くらいフラッシュしながら部屋で動いてるの、あれ欲しい。そして何度観ても、消しカスを手ではらい落とした後に、宙を舞う消しカスをバックにヘンリーがガビーンって顔してるの、もう何度観ても、何度観ても面白い。

f:id:IllmaticXanadu:20200520055453p:image『カフェ・ソサエティ』(2016年/ウディ・アレン)

アマプラにて。簡潔に言えば、ウディ・アレン版『ラ・ラ・ランド』。より厳密に言えば、『ラ・ラ・ランド』のラスト10分間についての映画とも言える。30代の若手監督と80代の高齢監督が、ほぼ同様の題材を同じ時代に作っているのは大変興味深い。そしてそれは、ウディ・アレン前作のヒロインがエマ・ストーンであったことを考えると、つくづく映画というのは繋げて観るのが面白いなあと感じる次第。兎にも角にも、名匠ヴィットリオ・ストラーロの撮影!これに尽きる。やはりストラーロは今尚健在していたという喜び。しかもデジタルにして鮮やかな画面設計、キャメラの動きは凄まじく、満席の場内でジサマとバサマたちに挟まれながら「ぎゃあ!」とか「うわぁ!」と叫びそうになったのを憶えている。もっと早くウディ・アレンと組むべきだったのではと感じた。ロサンゼルスなのにニューヨークに見えるし、何ならイタリア映画のようにも見えてしまうから、勘弁してくれよおじいちゃんたち。ジェシー・アイゼンバーグは超良い。元々早口なのがウディ・アレンそっくりだし、『ミッドナイト・イン・パリ』のオーウェン・ウィルソンと言い、ウディ・アレンの物真似をさせている俳優をウディ・アレンが撮る、という構造がある彼の作品は大変楽しい。モストオブ目つき悪いティーン女優のクリステン・スチュワート様は、浮世離れした美しさが映画本編からも浮いている節は否めないものの、またそこが非常に良い。何よりも美しく、ウディおじいちゃん相変わらず若い娘がお好きなのがよく分かる。ブレイク・ライブリーは勿体なかったな。シャネルが衣装を監修しているので人物が身に着けている服が素敵なのだけれど、少し時代考証としてそれはどうなのかしら?な箇所もあった。もっとも、クリステン様は短パン衣装なのだけれど、40年代のハリウッドでは、それはスポーツ用の衣装だったりするのだ。あとは否応なく、いよいよウディ・アレンが自身の過去を整理し始めた気配を感じた。その辺が、野心に燃えるデイミアン・チャゼルくんとは別の結論。言い換えればネチネチしていない。チャゼっちゃんが「忘れられないんだよおお(;_;)」なのに対して「ま、忘れとこか(^.^)」って感じ。本作に関するチャゼっちゃんの感想をお聞きしたいものです。

f:id:IllmaticXanadu:20200528055753j:plainオースティン・パワーズ:デラックス』(1999年/ジェイ・ローチ)

U-NEXTにて。人間は平等にクソで、平等になんの意味もない。そして、そんな人間の100年も無い人生なんてクソまみれだ。苦しみや絶望が止まない雨のように降り続け、欺瞞と嘘で溢れ返った最低の世界で、ぼくらは今日も「クソッタレが」とつぶやきながら、腹にクソを溜め込んで生き続ける。クソッタレが。しかし、どんなに辛いときにも、芸術や表現はすぐ隣でぼくらに微笑みかけてくれる。待ってくれている。歓迎してくれている。そして、このクソみたいなすべてを、一瞬だけでも忘れさせてくれる凄まじいパワーを宿している。パワー。オースティン・パワーズ。ぼくは辛いとき、絶望の淵に追いやられたとき、なにもかもブチ壊してやりたいと拳を握るとき、もういっそ死んでしまいたいと嘆き悲しんでいるときに、いつも必ず本作のオープニング・クレジットを観るようにしている。これは映画を利用したライフハックだ。『オースティン・パワーズ:デラックス』のオープニング・クレジットは、あまりにもバカで、あまりにもアホで、あまりにも美しい。前作であんなに意気投合して結婚までしたヴァネッサが、本作の冒頭で実はオッパイマシンガンロボットのフェムボットだったと発覚し自爆する。最愛の妻を目の前で喪ったオースティンは、しかし涙ひとつ見せずに「ちゅーことは、独身に戻れたってことじゃ〜ん!いえ〜い!」と裸一貫で文字通りに狂喜乱舞する。映画をクリエイトしたスタッフやキャストの名前は、次々とオースティンの股間を隠すためだけに表示される。最終的にはシンクロナイズドスイミングを披露しながら、アホみたいにギンギラブルーのタキシードを着たオースティンが登場してフィナーレを迎えるのだ。そう、これも人間の正体であり、人間の生き様だ。人間は、どんな絶望に直面しようとも、それを乗り越えられるだけのバカな頭もちゃんと持っている。悲しみ以上のユーモア。大の大人が、ここまで真剣にバカをやってくれている。クソみたいな人生をペシミスティックに嘆き悲しむよりも、全裸で一瞬一瞬を笑い飛ばすような人間に、ぼくはなりたい。自滅なんかしてたまるか。そして、バカでアホでどーしようもない映画には、それだけでちゃんと価値があるということは強く述べておきたい。

f:id:IllmaticXanadu:20200520101636j:image『その男ヴァン・ダム』(2008年/マブルク・エル・メクリ)

アマプラにて。確か公開当時、シネコンが一軒しかない田舎(実家)に住んでいたぼくは、ヴァン・ダムのメタ映画!俺の住む街ではやらない!でも観るっきゃない!と、この映画を観るためだけにユナイテッド・シネマ豊洲まで片道2時間掛けて上京したのだった。豊洲のロビーには007の『慰めの報酬』のバカでかいポスターが吊るされていて、やっぱり東京はスゲーやと胸躍らせながら客席へと向かった。豊洲の映画館はガラガラで、というか自分と脂汗かいたオッサンの二人しかいなかったと記憶しているけれど、終了後にそのオッサンと「ヴァン・ダム最高!」と固く握手したくなるくらいには感動した(脂汗かいていたので握手しなかった)。そういったノスタルジーと共に、本作はぼくの人生に刻み込まれている。あまりにも個人的な感情だけれど、この世の映画なんて、結局は自分にとってどれだけ意味があるか、そんなもんだ。映画を観るという行為は孤独なのだから。だから、孤独な意味を一つでも見つけていきたい。久々に本作を見返してみた際、脳内にひろがる景色は、映画の即物的な映像ではなくて、当時の映画館の暗闇の懐かしさだ。映画館へ行くということは、鑑賞ではなく体験だ。小さな旅のような楽しさがある。鑑賞した映像は徐々に忘れてしまっても、体験したことは生涯心に残る。それが、ぼくが映画館で映画を観る理由だ。帰り道に食べた東京チカラめしの味、マジで未だに憶えているのです。アー、早く映画館へ行きたいなー。ところで作品の内容は、端的に言えば『狼たちの午後』をヴァン・ダム本人役でリメイク、プラス自虐ネタ満載、みたいなものでそれなりに楽しい。ラストもハートフルというか、人間を信じている着地でほっこりする。白眉であるヴァン・ダムのマジ独白シーン(映画のセットから文字通りクレーンが上昇していき、映画の外側でヴァン・ダムがメソメソしながら長回しワンカットで延々とボヤく)で涙を流せない男は、『キックボクサー』100回観て出直して来い!

f:id:IllmaticXanadu:20200528073816p:plainゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-』(2010年/三池崇史)

U-NEXTにて。なんとなくYouTubeレディー・ガガのMVを観ていたら、なんとなく本作の仲里依紗を観たくなって、なんとなく観た。ゼブラクイーンを演じる仲里依紗がとにかく素晴らしい。終始目つきが悪いし、ギャーハッハッハ!とちゃんと空を見上げて高笑いしたり、昭和のアタマの悪い悪役感がとても可愛い。ほとんどレディー・ガガルックな歌唱シーンは、彼女のエキゾチックな顔つきと真っ黒なゴス衣裳も相まってぼくは好きです(そういえば仲里依紗アルターエゴとして、当時のミュージックステーションにもゼブラクイーンのまま出演していたなあ)。あとはあまりにもどうでも良い内容で、というかほとんど何も憶えていない。三池とクドカンって絶対相性悪いと思うのだけれど、俺だけ……? レスリー・キー仲里依紗を撮影しているオフショットをそのまま本編にもメタ流用している辺り、三池の健全な暴力性を感じた。ミニスカ・ゼブラポリスの皆さんもとてもいい仕事をしていた。スザンヌがバカな歌手役でほんの少しだけ出ていて、仲里依紗にモップでブチ殺されてすぐ退場するあまりにもバカな役柄でちょっと面白かった。

f:id:IllmaticXanadu:20200520044750j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!