20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

最近観た映画の備忘録#2(「コ」と「ロ」と「ナ」を組み合わせると「君」になります、素敵やん)

f:id:IllmaticXanadu:20200421192957j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年/庵野秀明摩砂雪鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。ぼくはレイかアスカかと問われたら完全にアスカ派なのだけれど、それまでの旧エヴァの惣流アスカとは、ファンと言うことをためらわれるくらいに痛い子だった。それに比べて、式波アスカは本当に可愛い。レイに自分の立場を譲ったり、人のために何かを出来るいい子になっていて、彼女なりに自立へと向かっている姿が本当に可愛い。そんなアスカとレイの板挟み『マクロス』状態になるシンジは、クライマックスで旧エヴァを文字通りに「破壊」する熱血主人公と化し、公開当時初日の劇場で、マジで観客全員で「マ?!」と発声しながらスクリーンに釘付けになったことは、未だに鮮明な記憶として残っている。ビックリしすぎてポップコーンをブチ撒いたオッサンは元気にしているかな、なんてことを本作を観るたびに思い出すのだ。久々に観てみると、本作は旧エヴァを破壊することにベクトルが向かっていて、つまりサプライズ的な改編に確かに驚くのだけれど、ゆえにエヴァっぽさという感覚も稀薄されてしまっていると思う。エヴァがポスト・エヴァ以降のアニメーションにもたらした功罪を、エヴァそのものがなぞっている奇妙な構造によって、これはエヴァであってエヴァではない、という引き裂かれた余韻が残る。エヴァ、というか庵野がソレをやる必要ってある?という。それを吉と見るか凶と見るかで評価も分かれるだろうけれど、まあやっぱり頭の上にエクスクラメーションマークが浮かび続ける展開だったし、ちゃっかり燃えたし、病み要素がデトックスされたエヴァとして見れば、フツーに楽しい映画でした。でも、鬱屈した自分にとってのエヴァとは、病みすぎ、黒すぎ、ドロドロすぎの居心地の悪いアニメーションであったことを忘れない。鷺巣詩郎のサントラは神掛かってたな。伊吹マヤさん推しでもあるので『太陽を盗んだ男』流しながらの街の目覚め、出勤シーンはとても好き。

f:id:IllmaticXanadu:20200421193129j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年/庵野秀明摩砂雪前田真宏鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。新エヴァで唯一繰り返し観ているほど好きなのは『Q』なのだけれど、その理由はまず、『破』で前述した旧エヴァ特有の病み感、真っ黒なドロドロ感、居心地の悪さみたいな鬱屈したヤバイ感覚に、本作が最も近いからなのだと思う。よしんば、『破』でせっかく新しいことをしたのに結局鬱アニメに戻るのかよ、という批判があったとしても、「戻ってしまう」のが庵野の作家性だと信じていたぼくのようなファンにとっては、こんなに嬉しい絶望感は無かった。絶対に庵野以外にこんな絶望映画は作れない。主人公の行動や意志のすべてを全否定し、それを楽しんで消費した観客も道づれに地獄へと叩き落とす。キャラクターへ、エヴァ自体へ、作者自身へ、そしてファンへ、全方向に向けられた絶望感、自他殺願望、ペシミズム、それら強度の高さたるや。なんて純粋無垢な厭さだろう。公開当時は震災の翌年ということもあって、劇中のカタストロフには震災を想起せざるを得ない共感もあった。そして絶望的な今こそ、純度の高い絶望を。毒には毒をだ。しかし、『Q』を作って鬱になった庵野が(駿の『風立ちぬ』は置いておいて)『シン・ゴジラ』で復活するとは誰も考えられなかった。しかも、鬱の原因がエヴァなら鬱克服もまたエヴァ・コラージュな『シン・ゴジラ』という。『シン・エヴァ』の公開延期は、延期に慣れたファンであっても悲しい。完結が拝めるその日まで、俺は『Q』を観続けるぞ。

f:id:IllmaticXanadu:20200416181734j:imageLOOPER/ルーパー』(2012年/ライアン・ジョンソン)

アマプラにて。ジョセフ・ゴードン=レヴィットの頭皮が徐々に寂しくなっていって、カットが切り替わると完全にハゲ果てたブルース・ウィリスになっていくモンタージュに人生の悲哀を見る。このようなモンタージュ含めて、ワンフレームズラしのタイムトラベル描写など、映画の力を信じているのが流石ライアン・ジョンソンだと思う。現在のポール・ダノの肉体が破損していくと、未来のポール・ダノの肉体も破損していく描写がフレッシュで最高。前半と後半で「LOOP」の意味が変わるのもツイストが効いていて嫌いになれない。後半からのガキが『オーメン』のダミアン味があって、うるさいし怖いしとても良かった。ライアン・ジョンソンケレン味徹底主義な方向性なので、作劇の強引さやプロットホールは喜んで目をつぶります。『最後のジェダイ』もそうだったけど、やっぱり撮影がいいよねー。あのフレアはアナモルフィックレンズかな?「タイムトラベルやタイムパラドックスのツッコミどころなんかどうでもいいだろ!」と念押しさせられるブルース・ウィリスエミリー・ブラントがオナニーしようかと股に手を伸ばすも、いややめておこうとジョセフを呼び出してセックスをおっ始めるのが斬新すぎて爆笑しました。

f:id:IllmaticXanadu:20200422150322j:image8人の女たち』(2002年/フランソワ・オゾン)

DVDにて。オゾンの撮るブラックコメディはどれも好きなのだけれど、最もエレガントでジョイフルな多幸感があってコレは何度も観るほど好き。フランス映画を愛した者にだけ与えられるご褒美のようなオールスターキャスト。もれなく8人全員が歌って踊るけれど、やっぱり愛しのドヌーヴが踊るたびに顔がほころんでしまうなー。久々に観たら、存在感で言えばイザベル・ユペールが優勝って感じだった。キーキーと金切り声で超絶情緒不安定に騒ぎ立てるメガネババア、からのドレス姿の美魔女へ変身!がいぇーい!とアガる。メイドのエマニュエル・べアールが胸元を開けて髪をほどいた時のいぇーい!という幸福感も最高。あのダニエル・ダリュー御大まで大トリで歌うのだから、やはりすごい映画だ。テクニカラーへのリスペクトが感じられる色彩や美術も素晴らしいけれど、なんてたって衣装の映画ファン泣かせっぷり!ギャビーの豹の毛皮は『母の旅路』のラナ・ターナー、グリーンのドレスは『荒馬と女』のマリリン・モンロー、ピレットは『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナー、シュゾンは『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘップバーン(顔も似てる!)、カトリーヌは『巴里のアメリカ人』のレスリー・キャロン、オーギュスティーヌのドレス姿は赤毛のリタ・ヘイワ―ス、ルイーズは『小間使の日記』のジャンヌ・モロー……50年代ディオールからのインスピレーションを受けて製作された衣装の数々は、それだけで本作の立派な見どころの一つになっていて、何度観ても目が喜んでいる。

f:id:IllmaticXanadu:20200422150916j:image『ヘレディタリー/継承』(2018年/アリ・アスター)

Blu-rayにて。まさか空前の『ミッドサマー』ブームが日本でも起きて、新作映画が掛からない中、『ミッドサマー』のディレクターズ・カット版が映画館で流れ続ける世の中が到来するとは思いも寄らなかった。作品への好き嫌いはともかく、アメリカからヤバイ映画がやって来るらしい、という「おそろしいものへの興味」を観客が抱き続けることは絶対に大切だと思う。そういう点で『ヘレディタリー』は「おそろしいものは楽しくて面白い」という、恐怖に対する原初的な快楽を思い出させてくれるのが良かった。本作は、アメリカから恐ろしい映画が到来してくるという果てしなき期待から、観客の多くはあの映画をホラー映画として消費したけれど、今になってつぶさに考えてみると、あの演出の数々が「笑えるような事態」を「笑わせない」ことに心血を注いでいたようにも感じられる。もちろん、あの映画に漂う異様な不穏さは、数多のホラー映画とはディメンションが異なる、磁力と強固さを備えている(あざとさすら)。したがって、劇中の展開は、予想もつかないおそろしいツイストを帯びて転がっていく。ゆえに、撮影や照明、音響や芝居以前に、文字通り暗闇へと突き進む「展開」が異様だったという印象が強かった。実のところ、アリ・アスターの作家としての興味は、人間を描くことよりも作劇に移入している傾向があるとぼくは考えている。『ヘレディタリー』はこうして久々に見直すと「こんなにも周到な伏線を張り巡らせていたなんて」と改めて驚かされるのだけれど、これらは人物描写への深み、ではなく、あくまでも作劇としての強度を補正するディテールになっている。よしんば、アリ・アスター自身があの兄に移入して撮っていたにせよ、「本当にそう撮っていたならば」、あそこまで観客を母親へとミスリードさせることはない。主人公と思わされていた母親ではなく、「実は」兄がヘイル、ペイモン!な結末を迎えることになるという、その「展開」のための「作劇」を選んでいるように見られる。つまり、本作は「こういう人間たちが右往左往した結果によって悲劇として完成した」のではなく「悲劇を完成させるために登場人物たちを絶望的に追い込んだ」という「作劇」がもたらされていると考えられる。そういった作劇が間違いである、と言いたいわけではなく、アリ・アスターの作家としての暴力性とは、あくまで「展開」に表れるものだというのがぼくの感想だ。彼が『ヘレディタリー』でおこなった暴力は、登場人物や観客それ自体ではなく、その彼らが無意識のうちに望んでいる「定型化された物語展開」そのものを惨殺することによって、間接的に登場人物や観客にも傷を与えるという構造がある。当たり前のようでいて新たな発見だったことは、ぼくらは定められたコードがズタズタに刺されていたり、ボコボコに殴られていたりする哀れな姿を見ると、本能的に不穏さや不安を感じてしまうのだなということだった。ぼくは、その計画的かつ無差別的な彼の「展開」への殺意に、大変心を惹かれた次第。まあ今回はめちゃくちゃ笑って観たけれど。地獄の門は予想もつかない形で、いつだって自分の隣で開き続けている。「家族」という絶対に逃れられない最恐の呪いについての映画であって、逆説的に「家族仲良くできて、みんなが幸せになれたらいいなあ」と夢想するくらいが今の世の中では丁度いいです。

f:id:IllmaticXanadu:20200416185327j:image『曖昧な未来、黒沢清』(2003年/藤井謙二郎)

U-NEXTにて。被写体として主役に徹する黒沢清を愛でられるただ一本の映画。最近になってよく考えることは、俺は黒沢清の映画が好きなのか、それとも黒沢清本人のことが好きなのか、ということである。まあこんな問いはくだらなくて、もちろん答えは、どっちも超好きなんだけれど、自分が作家主義な映画ファンだということを抜きにしても、黒沢清という人間の魅力についてはこれからも考えていきたい。あの野球ベースのような直角的な輪郭、ゴブリンのような顔、なのに俳優顔負けのハンサム、ヘンな髭、死んでいるようでキラキラしている眼、オマエそれしか服持ってねえのかよというポロシャツ、映画館の闇のような真っ黒い服、口を開けば独特の声色と丁寧な日本語でずっと映画の話。B級映画の話。なんだこのオッサンは。なんだこの生き物は。何考えてんだコイツは。可愛いなあ。黒沢清の演出術を映像として拝見できる、のならまあそれは普通のドキュメンタリーなんだけれど、本作はオタオタする清、投げやりな清、鬼畜な清、テキトーな清、険しい清、テッペンを越えない清、『北国の帝王』をニヤニヤと語る清など、やはり黒沢清という一匹の、間違えた一人の生き物、いや間違えた人間を愛でる癒しの映像集として、いつまでも何度でも観れる面白味に溢れている。

f:id:IllmaticXanadu:20200422032208j:image『オクジャ』(2017年/ポン・ジュノ)

Netflixにて。堂々巡りで出口なしの地獄を目の当たりにしても尚、二元論的な正しさにおもねることなく、「わたしはこうしたいんだ」という少女の無垢な個人主義にすべてを託す辺り泣ける。序盤でブタちゃんの主観ショットがあって、そりゃ『グエムル』を撮ったポン・ジュノなので当然なのだけれど、モンスター映画における文法、主に視点の統制までそつなくこなしてしまうのだから脱帽の域。プロットそれ自体に目新しさは無い(もちろんエンターテインメントとして十二分に面白いので批判ではない)のだけれど、本作は演者が全員いい。ティルダ嬢の一人二役余裕のよっちゃんだし、ジェイク・ギレンホールはほとんどヒース版ジョーカーでマッドなムツゴロウさんだし、ポール・ダノはおとなしいなーと思いきや、出た、やっぱり『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』大好き人間としてはポール・ダノはこうでなくっちゃとヒヤッとする芝居があり、俳優陣を眺めているだけで十分に楽しい。スティーヴン・ユァンの翻訳ボケも笑った。みんな良い意味で肩の力を抜いてて楽しそうだった。主人公ミジャの疾走やブタちゃんのソウルでの逃走やトラックによる並走チェイスなど、移動ショットがとにかく凄まじいのだけれど、その辺は『グエムル』で洗練され尽くしていたのでお手の物という感じ。ドローンやステディカムを使って一つの移動の中にもメリハリがあり、ポン・ジュノから学ぶべきことはまだまだ多い。屠畜映画としても、終盤で手加減なく残酷描写を見せ付けてくれるので、今日ソーセージを食べたキミも観ていたたまれない気持ちになろう!

f:id:IllmaticXanadu:20200422023029j:imageブレードランナー2049』(2017年/ドゥニ・ヴィルヌーヴ

Netflixにて。コレもう3年前になるのかー、時早ーっ。いや、ヴィルヌーヴ版『DUNE』のヴィジュアルが先日初公開されて、嫌われてるリンチ版も幻のホドロフスキー版の構想も大好きな自分の感想ではあるけれど、どう考えてもダサいじゃん、何コレ『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクじゃん、いやでも『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクは面白そうだな……とモヤモヤしてしまったわけです。それで3年ぶりに再見してみようと思い立ち観たわけですが、やっぱりヴィルヌーヴという監督は、自分にとっては重要な監督ではないと思った。『プリズナーズ』も『複製された男』も『ボーダーライン』もとても興味深く観れたし、特に『アイズ・ワイド・シャット』ミーツ『ファイト・クラブ』な『複製された男』は好きなのだけれど、賢く振る舞ってるスノッブ感にあまり惹かれない、というか心に残らない感じが……。映画ってもっとでたらめでバカじゃんと信じている人間なので、たとえば『ピラニア3D』に対して「これは3D映画への冒涜だ」みたいな発言をしたキャメロンのような「賢くて正しくて健全なフリをした」映画監督にはあまり興味を抱けない……(キャメロンは『アバター』が苦手だったので……)。『メッセージ』は嫌いな映画ではないけれど、タコ型エイリアンの造形にはガッカリしたし……。とにかく、くだらないことを頭良さげに見せる「風な映画」は、自分とはあまり関係がないと思ってしまう。本作は公開当時、初日に駆け付けたけれど、長えー、遅えー、暗えーという印象が最も強かった。でもブレランの続編として考えたら、無いよりは有った方がいい映画だとは思う。ブレランがSFノワールだったのに対して、本作はヴィルヌーヴの一貫した「自分探し」というテーマにしっかりと落とし込めているし。孤独な男がメソメソする映画は好きなので、無表情でどんよりしているライアン・ゴズリングは緊急事態に観るには大変ふさわしかった。レイチェルの上目遣い泣き顔……そりゃ泣くよ。かまってちゃんなラヴちゃんの頬をつたう涙……そりゃ泣くよ。完全に初音ミクなアナ・デ・アルマス演じるジョイちゃんが最高。2049年になってもロリコンが完治できない人類。喧嘩の途中にプレスリーの『好きにならずにいられない』が流れて「この歌が好きなんだ」と喧嘩を中断するデッカード可愛い。ハリソン・フォードがクライマックスで溺れそうになるのがとても可愛い。あのデッカードが、あの強い男がとかではなく、単におじいちゃんが車中で溺れそうになる映像なのがとても楽しかった。

f:id:IllmaticXanadu:20200422034104j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!