20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

インターネット時代の子どもによる、ポストSNS時代の悪魔祓い(または、立ち続けた自分は悪なのか)【ヴァージン砧『ポップコーンの害について』雑感】

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映画好きの端くれとして宣言してしまうが、ぼくは映画館でポップコーンを食べたことがない。厳密に言えば、シネコン売店で購入したポップコーンを、シートに抱えて持ち込んだことがない。さらに厳密に言えば、同伴者がポップコーンを購入してシートに持ち込んだ際に、所謂お裾分けとして許可されたので、食べたことはある。そしてこの宣言を事実にきっちりと一致させる場合、シネコン売店でポップコーンを購入したことはある。シネコンのポップコーンは美味しい。ただ、ぼくがポップコーンを購入するときは、映画鑑賞の際ではない。美味しいポップコーンが食べたいと欲求したときに、フラッと寄って、あたたかいポップコーンを味わうまでだ。

 

端的に言って、ポップコーンは映画鑑賞にふさわしいスナックではない。よしんば、最小限の咀嚼音の発生で済む食べもの、として普及したという理由によっても、それは擁護されない。音は聞こえる。あの暗闇では、言うまでもないが聴覚は研ぎ澄まされているからだ。また、ポップコーンの種皮は喉元に引っ掛かり、塩分によって反射的に喉も渇いてくる。飲み物さえセットで常備していれば良い、という指摘は、問題の本質をフェードアウトさせる危険性がある。あらゆる飲み物は、まず、ポップコーンのために機能していないし、存在していない。

 

ポップコーンとコカ・コーラというコンボには、資本主義社会としての華麗さのみがあり、あるいは幻想があり、本質として、映画とは切り離された美しさだ。加えて、ポップコーンが発する匂いは、それ単体に副流煙の如く欠陥があるものではないが、強く問題視しておく。ポップコーンの匂いとは「シネコン」の香りでしかなく、「映画」の匂いとは、あんなにヘルシーでスウィートなものではない。だから映画館に持ち込む必要はない。少なくとも、ぼくにとっては。

 

あんなものに鑑賞中も手を伸ばし得ている時間は、暴論を立案すると「鑑賞」していない。真理を解き明かしたいわけではなく、映画館における集中力というマジックは、そうやって喪失されていく。作品の真実は、そうやって見透かされ、発見されないでいく。ポップコーンによって見つからなかった幻影だけが、亡骸のように増え続けていく。ぼくは、ポップコーンこそが観客から「鑑賞」を奪った戦犯であると主張し、その責任追及を要望する。これが、ぼくの考える、ポップコーンの害、である。

 

ぼくが演劇を観劇するようになって、第一に感動せざるを得なかったことは、演劇には「ポップコーン」が存在していない、という事実に他ならない。音による妨げも、匂いによる安堵感も、資本主義的なファッションも、小劇場の空間には姿がない。あるのは紛れもなく役者の肉体と、肉体を纏った「ことば」と、それらをいざなう演出家の思惑のみだ。今、ぼくが映画とはリージョンの異なる演劇という表現芸術に移入を成功させていることに関して、この事実を軽視することはできない。

 

ところが、あろうことか、ポップコーンと演劇を接続してしまった『ポップコーンの害について』は、だから何よりも先に暴力的である。会場に漂うポップコーンの匂いは、前述したような暴力の香りとしての機能を備えている。

 

ぼくは本作の「ポップコーン的暴力」には、極めて感銘を受けた。それは文字通りに「ポップコーン」のような「暴力」であり、どの怨念の種がはじけ飛び、ことばとして膨らみを見せるのかが分からない、実にサスペンスフルな演劇だったからだ。フライパンの上で熱せられたポップ種のように、どの種がはじけ飛ぶのか想定ができないまま、その破裂音を耳にする。その「音」は、劇中で語られるように暴力としての鋭利性を帯びながらも、果てしなくポップで純文学的な人間味がある。

 

これから書くことに関しては、作者にとって賛辞/揶揄のどちらとして機能するか選択を委ねるが、委ねつつ賛辞としてぼくの感想を提示すると、本作の暴力性は、インターネット時代の「新しい」暴力性と酷似している。

 

インターネット時代の「新しい」暴力性については後述するが、インターネットが「新しい」文学であったこともまた強調しておく。たとえばツイッターは、タイムライン上で執筆される連作小説である。特にSNSは言語活動であるがゆえに、音楽的な多幸感よりも文学的な閉塞感が纏わりつく。文学を批判したいのではない。文学は、他のどの表現以上に「自己」という憂鬱から切り離すことができない。

 

本作は、まずパソコン越しの会話や「炎上」という単語が序盤で提示され、以降、パンチラインが爆裂し続ける。演じる安藤江莉佳のキュートさ(ウェットティッシュを取り出し、フタを閉めながら指でそれをスライドさせて遠ざける所作のオリジナリティたるや)も相まって、台詞の乱れ打ちは、聴き逃しを回避する。

 

「愚かなやつほど友達が多い」「青空の下、こぶし掲げてダチは最高なんて写真撮ってるやつらは、教卓の陰で、こぶし上げてそのダチいじめてるんでしょ」「こんなどうしようもない世の中なんて、生まれてくることこそが嫌がらせなんだ」「いいな、エド・ゲインもメアリー・ベルも。たくさん人を殺せば、たくさんの人の心の中に残るんだ」「悪意はどんな小さい種も見逃さない」「お前を殺すと言って人を愛することもできるし、お前を愛していると言って人を殺すことができるんだ」「ことばを発しなければ、誰からも気づいてもらえないんだよ」「もっと苦しい顔、しててよ、みんなさ」「言葉で人を殴っちゃった!」「それってさ、出逢う必要あるのかな」「あたしには何かが足りないんじゃない、何も無いんだよ」「だったら息もやめちまえよ」「これでファンタスティック・プラネットの真の誕生」「いつから秋元康になったのよ」……。

 

これらのことばには、音楽的というよりも純文学的な、純文学的というよりもインターネット言語的なオブセッションとフェティッシュが同時存在していると解釈する。内容はもちろんのこと、発話方法としても、リズムやテンポそのものよりも、ことばの「意味」を強調することに重きを置いている節がある。だから、本作のことばは終始、強固なままで存在を続ける。

 

生まれて物心ついた年齢で、インターネットがある/ないというのは、こうした「ポップコーン的暴力」を読み解いていく際には重要なファクターになり得る。ぼくは、作者の年齢を把握していない。女性であるということのみを知っている(菊地穂波チャンが男性であった今、作家にとっての性別は作品を語る上であまりベターな着眼点とはいえない。インターネットに画像があるのかもしれないが、ゴダールと検索するとアンナ・カリーナが表示される時代である。だから心底どうでもいい)。事ここに於いて博打に挑むと、作者はインターネットに適応しつつ、それと同量以上の反発を獲得しているはずだ。アジャストとアゲインスト。表現の根幹たる指針は、まずもってクリアされているといえる。すなわち、それは「インターネット時代の子ども」としての作家性が確立されており、本作で発話されることばは、口語体というよりも、むしろインターネット的言語と解釈するのが可能だろう。

 

インターネットがもたらした暴力、もしくは暴力を誘引する装置の一つに、匿名性が挙げられる。匿名性を付与された民たちは、責任から逃亡することに成功し、自由気ままなコミュニケーションに没頭すると共に、誰しもを攻撃可能なことばを獲得した。それが本来では失語に近い状況であるにも関わらず、「かけがえのない存在」である民たちは、手にした力によって暴君へと変貌していった。「裸の王様」というよりも「テロリスト」である。とは言え、ぼくはインターネットそのものに問題視される弱点があるというよりは、その力を行使するユーザー側のマナー及びリテラシーと、完全定着に至ったSNSの構造自体に問題があると考えている。

 

SNSにはあらゆる教育能力も育児能力もない。それそのものが幼児的であるにも関わらず、あまつさえ、それをオモチャとして与えられているぼくらの構図もまた、退行的だといっていい。インターネットは無法地帯であることが特権として確立されていた。何をしても、何を書いても、何を調べても、何をアップロードしても、何と繋がっても、何ら問題視されないという牧歌的な時代があった。教室に先生のいない学級会。それがインターネットであり、初期SNSでもあった。

 

近頃、教室に先生と自称する連中が乗り込み、正義を免罪符に断罪が開始された。無法地帯には曖昧な「法律」が無理やり持ち込まれた。生徒たちは次々とこの「法律」に感染して、魔女狩りが日常化した。学級会は、学級崩壊を完遂した。

 

ぼくはインターネットが好きだった。低ビット数で読む文章にはSF的なロマンとノスタルジーがあった。YouTubeニコニコ動画というフォーマットこそがテレビジョンであったし、世界中のあらゆるアンファンテリブルと遭遇した。手帳や日記帳を持たずに、文章はインターネットに書きまくった。好きな音楽のジャンルはヴェイパーウェイヴである。

 

しかしあるとき、「ドラーグ族」は「オム族」たちへスマートフォンSNSいう画期的な神器をばら撒いた。そして、インターネットを与えたフリをして、インターネットを奪い去った。ドラーグ族にとっては、オム族がこれ以上賢く成長するのも、楽しく生活しているのも、正しい判断能力を持たれるのも、邪魔でしかないからだ。オム族が馬鹿であれば馬鹿であるほど、ドラーグ族にとっては都合がよい。かくして、アクチュアリティを見逃させるために、スマートフォンSNSという名の「ポップコーン」は、こうしてぼくらのシートに置かれている。やがて、イスラム国は処刑の様子をYouTubeに動画としてアップロードした。誰かにとってのディストピアは、また誰かにとってのユートピアだ。これが現代の『ファンタスティック・プラネット』である。

 

インターネットから「ポップコーン」の匂いを嗅いだことは一度もない。そして、SNSは「ポップコーン」の匂いで満ちている。ヘルシーでスウィートな香り。しかし、破裂した固い種皮が歯肉に刺さって流血するとき、ぼくらはSNSによってもたらされた呪いに、強烈な不安感を掻き立てられるはずだ。甘い幻想としてのソーシャルメディアに。

 

『ポップコーンの害について』は、転じて「SNSの害について」と言い換えることが可能であるといえる。そして、ソーシャル・ネットワーク・サービスによってもたらされた「呪い」を、インターネットによって獲得したことばと文学によって「祓う」儀式であることが、本作の最たる美しさだと特筆する。

 

作者が行使するマシンガンのようなことばの乱れ撃ちは、単に一発ごとの弾の質が高いことに加えて、およそ逆説的に「撃たれるべき標的」としてグラデーションが推移していく。撃った人間は、必ず撃ち返されるのだ。あるいは、撃たれるために撃つ、のである。また、それがインターネット的な文学性を孕んでいるにも関わらず、あくまで様相としてSNS的なネチズムの怨念を通底していることは、徹頭徹尾に素晴らしい。本作における名もなき彼女こそが、SNSの被害者であり、SNSの加害者であり、そのどちらも救わないという「救い出し方」を、作者は無意識のうちに遂行している。

 

仮にも、この「インターネット時代の子ども」としての自他殺願望的なペシミズムは、あまりにも健全な通過儀礼である(本当に不健全な人はこの感情を戯画化できない)。そして万が一にも、こんなのメンヘルちゃんの戯言でしかない、というような批判には、一切の価値を秘めていない。なぜなら、単にそうではないから、だ。

 

たとえば「インターネット時代の子ども」としての大森靖子アーバンギャルドを、その高い音楽性を無視して、メンヘルというフィルター越しに嫌悪したり貶す人々は、絶対に恋をしたことが無いだろうし、絶対に恋をすることができないし、絶対に絶滅した方がいい。女性が内面を執拗に吐露した途端に、そういった差別が可能な愚民にとって、前述したように性別はふさわしい着眼点とはならない。綾波レイだけを一生拝み続ければいい。風俗嬢に「こんなことせず、もっとしっかり、強く生きなさない」と説教する客、のような客を、本作は必要としていない。

 

一人芝居であることから、主人公=作者の口として、作者が言いたいことを言わせている、という見方が容易く可能ではあるが、つぶさに考えて、これは間違いである。なぜなら、この作者は極めて達観的に主人公へことばを与えているからだ。前述した通り、この主人公は仮にも作者の分身であれど、ドッペルゲンガーでもシミュラクラでもない。被害者でもあり、加害者でもある、救われずに、救われる人なのだ。作者は自身から分離したその人を通して、「分離」を統合し、新しい分離前を取り戻そうと格闘している。

 

本作の余韻がたまらなく清々しいのは、物語や作劇を信用せずに、出口なしの地獄として「問いかけ」のみが存在し、終幕と共に「問いかけ」が退場し、「答え」だけが姿を見せない、その志しゆえのものだ。否、方程式のように「答え」を導き出すこと以前に、本作の時間そのものが「願い」であり「祈り」として昇華されていることを失念してはならない。ぼくはこの作者が、たとえ呪詛の言葉を羅列しても、あらゆる仮想敵を引きずり下ろしたくなる怨念によって突き動かされても、世界にも生命にも意味がない、無価値で、性悪説上等で、絶望の果てに強烈な暴力衝動に駆られたとしても、彼女が本当に、本当にやさしい作家であることは断言する。彼女が試みたことは、逆説的なヒューマニズムでも、逆張りとしてのフラストレーション解消でもない。優れた作家の暴力衝動というものは、常に「まだあきらめてはいない」という願望が付帯し続ける。真にやさしい作家だけが辿り着ける、あまりにも理性的なディメンションの暴力行為には、作者の冷静な眼差しを浮かび上がらせる。

 

 

 

さて、やや脱線をしてしまうが、ぼくのパーソナリティを踏まえて、本作を観劇した際に想起するに至った、少年期のある出来事について綴ってしまう。個人的かつ、極めてセンシティブな内容になると思われるので、そういうのに拒否反応が出る人は、今すぐここで退室するのを推奨する。

 

2008年3月23日。春休み。昼くらいに起きてリビングに行くと、食卓にはそうめんがある。ちょっと季節外れな気がした。母が言う「前にご近所さんから貰ったのすっかり忘れてて。もうすぐ賞味期限。食べ切っちゃって」ぼくは渋々、そうめんを食べる。満腹になっても、母がそうめんを足す。もういらないよと言っても、食べて食べてと足す。食卓には父もいたが、いっぱい食えーと笑って一緒には食べてくれない。全くいやになっちゃうなと、ぼくはそうめんを食べ続ける。ぼくはその日、駅ビルの本屋で漫画を買おうと決めていた。家から駅までは徒歩5分の距離だ。早く漫画を買いに行きたかったので、そうめんも頑張って食べた。食べ切った。ぼくはスニーカーを履いて家から飛び出た。お腹はそうめんで埋め尽くされていた、苦しかった。でも歩いた。やがて駅に到着した。その時だった。目の前を血まみれの女の人が横切った。ん?と不思議に思ったぼくは、女の人を目で追ってみる。女の人は背中から血が出ていた。女の人だけではなかった。駅前には、何人もの人が倒れていた。コンクリートの地面には点々と血痕があった。皆泣いていた。倒れた人たちを助けようとしている人たちもたくさんいた。「救急車!早く!」と男の人が叫んでいた。騒然としていた。ぼくは、一体何が起きているのか分からなかった。不思議と、怖くはなかった。何が起きているのか知りたいと思った。人々が駅の階段から下りて来るのを見て、ぼくは階段の上には何があるのだろうと思った。ぼくは階段を上った。階段にもぽたりぽたりと血痕があった。でも上った。駅の改札前が見えた。黄色い点字ブロックの上に何かが付着している。その時、ぼくは初めて知った。人間の血液が赤ではなく、真っ茶色だということを。血液は黄色い点字ブロックをどす黒く塗り替えていて、今までに見たことのない闇が海のように広がっていた。ぼーっと、ぼくはその海を見つめていた。なぜか、漫画が買えないな、と思った。突然、肩を掴まれる。警察官だった。「何してるだ君!ここにいたらダメだ!」ぼくは警察官に連れられるがまま、階段を下りる。血まみれの人たちがたくさんいた。助けようとしている人たちもたくさんいた。でも、ぼくはしばらく、恐らく5分くらい、「何もせずに」ただ立っていた。そしてこんなことを思っていた。「この人たちは、死んじゃうのかな」と。知っている車が駅前に停車した。父の車だ。父が車から降りて来て「帰ろう」と言う。怒るわけでもなく、優しく、でも真剣にぼくへ言った。「家に帰ろう」。「うん」と答えた。車のカーラジオから「茨城県で起きた通り魔事件は……」とニュースキャスターが慌てて言っている。「何が起きたの?」ぼくが尋ねると父は「こんなことで茨城が有名になってもな……」と、運転しながら呟いた。大人たちがパニックになる中、何となく、父だけは違うなと思った。家に到着した。「ただいまあ」ぼくが玄関を開けると、母が目に涙を浮かべて立っていた。が、ぼくの姿を見た瞬間、急に叫び声を挙げた。え?と思ってぼくは足元を見てみた。そこには、真っ茶色の血でべっとりと濡れたスニーカーを履いた、ぼくの足があった。車にも、玄関までの道にも、ぼくの血の足跡がついていた。


これが、2008年3月23日に茨城県土浦市荒川沖駅構内で起きた「土浦連続殺傷事件」とぼくの遭遇である。
後からニュースで知ったことだが、ぼくが駅に到着した時間帯に、犯人は200m先の交番へ出向き自首していたらしい。血まみれのサバイバルナイフを手にして。


もしも、が頭に浮かぶ。
もしも、母がそうめんをぼくに無理やり食べさせなかったら、ぼくは犯行時間に現場にいたのかもしれない。
もしも、ぼくの腹が苦しくなく走って駅に向かっていたら、ぼくの背後にはナイフを持った男が迫っていたのかもしれない。


生まれて初めて「死」を実感した。
第一に、自分が死んでいたかもしれないということ。
第二に、死にゆく人々を目の当たりにしたこと。
第三に、見慣れた日常の光景が非日常と化していたこと。
そして第四に、人の命を奪った人間が、自分の200m先にいたこと。


どこかで人間は、自分は死なないと思っている。次の瞬間に死ぬかもしれない、でもそれはあり得ない、自分にとっては。なんて思い込んでいる。メメントモリを忘れて。
ぼくもそうだった。祖父母も親戚も皆存命していたから、「死」というものに接したことが無かった。考えたことも無かった。でも、「死」は確かにあった。家から徒歩5分の場所で。自分から200m先の場所で。すぐそばに「死」はあった。いや、ずっと、常にあったのだ。そして、あるのだ。
ぼくが今でも不思議なのは、血まみれの人を目の前にして「助けよう」としなかったという自分の行動である。ただぼーっと、呆然と突っ立っていた。しかし今から考えると、あの約5分間は、ぼくが「死」を実感するまでに費やした時間だったのかもしれない。その時、恐怖は一切感じていなかった。一番の恐怖は、今思い返している、この瞬間だ。
一体なぜ、俺はただ立ち続けていた?


同年6月8日、秋葉原で通り魔事件が起きた。犯行に使用された凶器はサバイバルナイフだった。
ぼくにとって、この二つの事件は、漠然とした「死」を実感させた出来事となった。何だか、日本全体に「死」が蔓延し始めているとすら感じた。家を出て、家に帰って来るまでに、ぼくが「死」と遭遇しない保証は、どこにも無いのだと考えるようになった。
2008年に、ぼくは「不条理」というものを知った。
そこら中に「死」が転がっている。もう動かない方がいいと思った。「ただ立っている」方がいいいと思った。


一体なぜ、俺はただ立ち続けていた?


ぼくが映画を観たり作ったりする理由は、あの時の、あの瞬間の、あの自分自身に答えを示すためである。
そしてその答えは、あらゆる意味で「不条理」への純粋な呼び掛けでしかなく、あの言葉にできない感情を表現する場として、映画を選択している次第である。

 

2019年、川崎市登戸通り魔事件と京都アニメーション放火殺人事件という、二つの殺傷事件が発生した。ぼくの脳裏にフラッシュバックしたのは、自身が認識した、2008年の二つの殺傷事件であったことは言うまでもない。哀しい/許せないと当たり前に悲観する以前に、一刻も早く映画を作らなくてはならないと改めて感じた。暴力よりも先に、映画を作っておく。これはぼくにとってのオブセッションであり、崇高な呪いである。

 

作者である香椎響子がヴァージン砧・第一回公演として提示した本作は、あらゆる絶望、怨念、あきらめによってもたらされた悪に対して、それを弾劾し断罪することを消費としている、あらゆる正義、倫理、人間性への客観的な異議申し立てに成功している。すなわち、悪に石を投げる、あなたは「悪」ではないのかと。人間は、教科書に書かれているような何もかも正しい生き物ではない。人間は誰しも、当然のように「間違ってしまう」。無敵の人はいる。以外の人はいる。彼らは増えはすれど、減ることはない。彼らの味方をするわけではない。彼らが行なった「悪」を、事後的に騒ぎ立てることが、自警団的な使命感のもとに、あるいは人間として正義を論じることが、果たして「あなた」の職務なのだろうか。

 

ぼくは、あまねく論争はあって然るべきだと考えているし、決して犯罪者を擁護するような思考を披露するつもりは無いと断りつつ、ぼくらは、本当にぼくらと「関係がある」ものについて、もっと真剣に考えるべきなのではないだろうか。ぼくは、自分と関係を持たされた2008年と、点と点が線で結ばれた2019年と、そういった時代に「SNSではなく」、演劇でその「悪(あく/わる)」に関する思考を戯画化した『ポップコーンの害について』、について、ただ真剣に考えてみた。事件を「ポップコーン」にすることだけは、絶対に許されない。そんな容易い消費が、あなた自身にも、この世界にも、あってはならないはずだ。しかし、こうしたぼくの論旨展開よりも先に、香椎響子は「あってもいい。あるんだから。ある上で考えろ」と檄を飛ばす。そんな彼女は、決して自分の作品を「ポップコーン」にはしなかった。彼女だけが願っている。彼女だけが、絶望し、怒り、哀しみ、共感を拒絶しながらも、共感を追い求めて、ことばによって人間の「悪」と「悪」を繋ぎ合わせる。彼女だけが、願っている。

 

いや、ぼくだって願っている。社会やSNSで、悪や死や怨念や狂人が、無条件に負のコードに選別されて語られるのだけは認めたくない。そこには、絶対的な「人間としての業」が隠れているはずだ。業の肯定や否定の話ではない。業を発見し、語り継がなくてはならないはずだ。どんな業においても。考えることを停止してはならない。社会やSNSがやらないのであれば、芸術がやればいい。すべての憎しみよりも先に、作っておくのだ。芸術を。そのことによってしか、世界もぼくらも救われない。ヴァージン砧のこれからの活動に際して、この勝手極まりない願いが成就することを期待する。少なくとも、ぼくの脳裏にこびりついていた「あの光景」は、ほんの少しだけでも、あなた方の悪魔祓いの儀式によって、静けさを取り戻したのだから。あなた方の受けてきた傷と、ぼくが受けてきた傷は違うかもしれないけれど、我々は傷を負った者同士として、なにかを祓うことができるはずだ。呪われた人々は、しばらく、次回の儀式のために、列に並んでおくべきである。