20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

ちいさな光が見えないあなたへ【コロナウイルスと現代日本芸術文化に関する、誰かのための間違ったアゲインスト】

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新型コロナウイルスは正式名称をSevere acute respiratory syndrome coronavirus 2、略称をSARS-CoV-2と称する。このウイルスの形態を描いたコンピューターによる図は、上記の添付画像の通りである。不謹慎上等で言ってしまおう。コイツ、中々にかっこいい姿じゃないか。

ウイルス粒子の表面に突起するエンベロープ(膜構造)は、花弁状のマッチ棒のようでいて、太陽の周囲に見られる自由電子の錯乱光と似ていることから、この名前を名付けられたのだ。太陽の光冠と等しい構造と似姿を兼ね備えているとは、あまりにも洒落ているじゃないか。コイツは太陽の光なのだ。しかも電子顕微鏡でないと目視できない太陽の光だ。ちいさなちいさな太陽の光が、世界中の大気中を漂っているにも関わらず、ぼくらはその光を見ることができないでいる。端的に言って、この状況は魅惑的かつ美しいものだ。


肉眼では見えないほどにちいさな太陽の光を受けて、ぼくらはよっぽど、視力を失いつつある。このちいさな光には、人々から視力を剥奪することへの、ゆるやかな容易さがある。空に浮かぶ太陽の直視を避けるのと同様に、このちいさな光は「見てはならない光」だからだ。

 

見えない光の得体の知れなさに恐怖して、見えない光の「光」とはどんな輝きなのかを憶測して、見えない光を見ると恐ろしいことになると過剰にマスメディアからは教育されて、見えない光が生み出す懸念から混乱を引き起こし、見えない光を浴びる機会の排除に徹底していく。


ちいさな光を見ないために、人々はサングラスの大量購入を必死に演じるけれど、この光はまず、サングラスだけでは防ぐことができない。加えて、この季節には真に太陽の日差しがまぶしく照りつけるため、本当にサングラスを必要としている人々にとっては、なんとも窮屈な状況であることを失念してはならないだろう。

 

サングラスが店頭から姿を消し去ると、今度はメガネが無くなるのではないかと、人々は再び滑稽を演じる。ほとんどが国内生産されているメガネは、およそ生産が尽きることは考えられないのだけれど、ちいさな光に恐怖する人々にとっては、そんな正しい情報はどうでもいいのだ。現に、メガネも店頭から消えていっている。それはメガネが無くなってしまう!と早とちりした馬鹿で駄目な人による犯罪である。だけれど、メガネが無くなるとは予想しないけれど、こうして空っぽの商品棚を見てしまうと、次こそは、今こそはこの目の前にあるメガネを買わないとならない、と、思わず思考が動かされてしまう人々もいる。これら集団的無知が巻き起こす負の連鎖は、きっと数年後の新しい教科書に書かれてしまうだろう。馬鹿な人として教科書に載りたくはないはず。だから今のうちにやめておきましょう。


しかし、ちいさな光がもたらした騒動によって、間違いなく馬鹿な人として歴史に名を残す人間もいる。その人はぼくらが生きている、このちいさな混血列島で政治的にはいちばん偉い人だけれど、頭と心はあんまりよろしくない人だ。頭と心がよろしくない人はたくさんいるけれど、頭と心がよろしくない人が政治的にいちばん偉い人なのが、ぼくにはよく分からない。まあ、多数決で選んじゃったからしょうがない。ぼくはその人には手を挙げてないけど。ともかく、その人がちいさな光に怯えるぼくらに対して、突然こんなことを言ってきた。


「ちいさな光はたくさんの人たちが集まる場所で、ちいさいながら激しく乱反射を起こしてしまい、見えてしまう可能性がとても高まる。したがって、たくさんの人たちで集まるのは我慢して」


ええ? じゃあ満員電車は? 満員電車こそ我慢しろってこと? 全然「満員電車」って言わないじゃん、かたくなに言わないじゃん。そして、まあ我慢はしようと思いたいけれど、でも我慢することに対しての手当ては? たくさんの人たちが集まる場所で行われるそれぞれは、それを準備する人たちも、それを楽しみに観に来る人たちも、どっちにもお金が発生している。特に準備する人たち、実際になにかを見せてあげる人たちは、我慢したことによってたくさんのお金を失う。その損害に対して、ちゃんと偉い人たちが助けてくれるの?

 

ぼくらが困惑していると、彼は続けざまにこんなことも言ってきた。


「ちいさな光から子どもたちを守るために、学校はすぐに春休みにしちゃってください。言うこと聞かなくてもいいけど、だって子どもたちのことを守るのが最優先だからね、よろしくね」


えええ?? 働いているご両親たちが満員電車で見てきたちいさな光の見方を子どもに伝えちゃったら意味なくない? 共働きしている家庭では誰が子どもの面倒を見るの? お母さんであり看護師さんとして働いている人は、どっちを優先すればいいの? ガキんちょが休みをもらって、じっと家に閉じこもって生活すると思ってるの? 非常勤講師の人は約1ヶ月間も無職になっちゃうの? 給食を作ってくれる人たちのお仕事は奪われちゃうの? 子どもたちのために絞られた牛乳は、たくさん余って捨てちゃうの? 


ぼくらの国の政治的に偉い人たちが思い付いたことは、とりあえず人がたくさん集まる場所や行事は危ないじゃん、今んとこやめておこう、なーに、ちょっとだけよ、ちょっとくらいは大丈夫だろうから、大変だろうけど、みんな大変だから、こんな時こそ、国ごと一致団結しましょうよ、という考えだった。


すごく間違っている。


第一に、ちいさな光は空気さえある場所ならどこにだってあってもおかしくない、つまり特定の場所を危ないと決めつけることが、将来的な光の消滅に繋がるとはぼくは考えない。

 

たとえば、毒が混じった水があるとする。この毒水が東京ドームに撒かれた。だから東京ドームが危ない場所だという理屈はわかる。さて、今回のちいさな光は、この毒水と等しいものだろうか。ちいさな光は、撒かれた場所にしか存在しないのだろうか。

 

確かに、たくさんの人が集まる場所や行事は、ちいさな光を見るリスクを高める。だけど、それは人がひとりもいない公園だって、誰もいない古びたトイレだって、帰り道にある本屋さんだって、ちいさな光があってもおかしくない状況なのに変わりはないはずだ。また、たまたま入った立ち食い蕎麦屋の、隣で一緒に月見そばをずるずるとすすった人が、もしかしたら、ちいさな光の見方をポロッとつぶやくかもしれない。

 

つまるところ、ちいさな光はどこにだってあるのかもしれない。そのことを忘れずに対策を考えていかなければ、本末転倒なことにもなり兼ねない。そして、ちいさな光がどこにだってあるという事に困惑することなく、帰宅したら目薬をしっかりと打って、目を休ませることを徹底するなどして、日頃から気をつける行動を怠らなければよいだけだ。「ある」のは仕方がない。「ない」場所を作ろうとしたり、「ある」場所を悪い場所と決めつけるのではなく、そこに「ある」光とうまく付き合っていくことを、落ち着いて考えてみよう。こんな時こそ。


第二に、我慢できるだろうと政治的に偉い人たちが考えていたことは、実はそう簡単に我慢できるものではない。それくらい忍耐できんのか!意志が弱い!と怒鳴られたら、こう返したい。ぼくらは、芸術や文化が大好きだという意志なら強く持っている。

 

偉い人たちは、この芸術や文化というものを我慢できると考えていて、言い換えれば「娯楽」でしかないと思っているのかもしれない。その通り。芸術や文化は「娯楽」以上でも以下でもない。だけれど、ぼくらの中にはどうしたってその魅力にとりつかれてしまって、それを「娯楽以上」のものとして考えている人だっている。それをみんなは「生きがい」と呼んでいる。つまらない、恥ずかしい言葉かもしれない。芸術や文化が「生きがい」だなんて。でも、それを信じている人たちは、絶対にそのことから逃げないし、馬鹿にしたり、蔑んだりはしない。なぜなら、本当に「生きがい」だからだ。「生きている価値」だからだ。こんな時だからこそ、ぼくらはその「生きがい」を、たくさんの人たちに発揮することができたはずなんだ。


その「娯楽」、ちょっとだけ我慢して、政治的な正しさなんだこれが、我慢したところで生活に支障はないでしょ。と、言われたところで、真っ向からNOを返したい。「生活に支障をきたす」からだ。ぼくらは、政治的には間違っている、ちょっと我慢すべきことが我慢できない、「娯楽」が無くなると「生活に支障をきたす」人間だからだ。そうだ。堂々と言ってやる。ぼくらは「間違うために」芸術をやってるんだ。正しさという幻想で埋め尽くされた現実も生活も政治も社会も、この世の中で間違うことが許されていないから「間違い」に向かうことを選んでいるんだ。正しさなんかを押し付けてくるな。ぼくらにとっては、あんたらこそが間違ってんだ。


パフォーマーやクリエイター、そしてファンや観客にとっての「生きがい」を、我慢してくれと国が言ってしまったことから、なんだか我慢しないとよろしくない空気、を生んでしまった。

 

その空気は低気圧と化し、雨雲を作り、その雨雲はどんどんと移動していった。映画館や、小劇場や、ライブ会場に、その雨はザアザアと降った。中には、傘を差して「生きがい」を決行する人もいた。でも、みんながみんな、急な雨雲に備えて傘を持ってはいないのだ。

 

雨でずぶ濡れになった自分たちの大好きな場所を見て、国に助けてほしいと声を上げる人もいる。雨による大水害を想定できずに、ぼくらに傘すら渡さなかったこの国の偉い人たちは、だから間違っている。我慢をするとぼくらだって、濡れて寒さで震えることを知っておくべきだった。我慢を頼むのだったら、ちゃんとした手当ても準備するべきだった。

 

ぼくらは今、ちいさな光ではなく、この大雨に困らされているのだ。それこそが最もばかばかしい。だからぼくは、これを人災だと考えている。


ちいさな光が消滅していくのか、この大雨がやむのか、その兆しは見えない。


ファッションセンスゼロで食いしん坊だけど会議が苦手でゴルフは大好きなクソったれのシンゾーとかいうジジイは「ここから1~2週間が山場なので今後10日程度で対策を取りまとめます」という意味不明で支離滅裂なことばをぼくらに再び投げかけた。今後のことを彼に期待しても、しょうがないのかもしれない。助けてくれと頼んで、助けてくれるような男じゃないのはよく分かってた。というより、この世の中は誰も助けてくれないのだ。唯一ぼくらを助け出してくれるのが、芸術なんだけどなあ。


絶望もしたくもなるだろう。ぼくだって、本当に哀しくて、腹が立って、やりきれない気分になった。


こんなときに、楽観的かつ自己啓発的なことばはなんの役にも立たない。あきらめずに、とか、希望を捨てずに、とか。希望的観測という類のことばたち。そういうことをノコノコと口にできる人は、本当にあきらめたことすらないだろうし、本当に絶望したことすらないだろう。そんなことばじゃないんだ、今こそ必要なのは。伝える場と、伝わる人。それをぼくらから奪わないでほしい。もう誰に言っているのかすら分からない。だけど言う。ぼくらから芸術を奪わないでくれ。そしてぼくらは、絶対に芸術を取り戻すぞ。


思わず鼓舞してしまった。楽観性を否定したにも関わらず。それでも鼓舞したくもなるのだ。加えて、楽観と楽天は違う。これは大事なことだ。楽天的でいこうぜ。伝える場と、伝わる人。それらを楽天的に、ぼくらなりの手段で取り戻すのだ。


伝えたい人がそこにいて、伝わりたい人もそこにいる。「いる」んだよ。絶対に。それはちいさな光と同じことだ。「ある」んだよ。「ある」ことはどうにもできない。「ある」ことを否定はできない。「ある」ことを排除はできない。少なくとも今は。でももしかすると、ちいさな光は、やがては消えてしまうかもしれない。でもね、芸術を必要とするぼくらが消えることは、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に、ないんだよ。統計学じゃない。だから正確な論でもない。でもね、ないんだよ、そんなこと。それだけは分かるんだよ。それってよく考えたら素晴らしいことじゃない? ちいさな太陽の光が空気中を漂っていることの、100京倍も美しいことだよ。そんな「いる」ということを、もっと大事に考えてほしいな。大切に考えてほしいな。みんなに。みんなってのは、みんなのことだ。


大雨で何もかもぐちゃぐちゃになってしまい、泣いて悔しがっている人たちもいる。伝えたかった、伝わりたかった。その人たちの涙を、意味のないものにしてはならない。その人たちに、また涙をこぼさせてはならない。その人たちは今とっても苦しい想いをしている。助けられる人たちは、どんな形でもいい。あなたなりの方法で助けてほしい。そして、もう涙を流す人がこれ以上出ないように、ぼくら自身の素晴らしさと、美しさと、間違いに、今こそ最上級の尊敬を示そう。

 

ちいさな光よりも、あなたが見るべき「光」が、必ずあることを、今日見る夢の中ではなく、現実の中で探してください。そして、現実の中で夢を見ましょう。その夢が、あらゆる光で照らされていますように。