20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

「面白そう」の映画として微笑み続ける映画史の天使たち『チャーリーズ・エンジェル』(2000年/マックG)雑感

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チャーリーズ・エンジェル』は、それまでの女性アクション映画とは一線を画していた。
そもそも、従来の女性アクション映画は「なぜ女が闘うのか?」ということがテーマになっており、 復讐やら嫉妬やら、要するにそれらは男性視点で作られているモノがほとんどであった。
しかし、本作はそのアンチーゼとして機能する。それはまるで、女が女であることに理由が無いように。「わたしたちは闘う。なぜならオンナ=エンジェルだから」の一点張りで突っ走ってみせるのだ。

 

チャーリーズ・エンジェル』は、恐らく映画史上初の「オンナが作った女が闘う映画」の誕生であった。
え? 監督のマックGは男だろ、だって?
ばっきゃろう。本作のプロデューサーは、エンジェルの一員でもあるドリュー・バリモアその人である。
ドラッグとアルコールによってドン底まで堕ち切ったドリュー・バリモアが、『ウェディング・シンガー』(98年/フランク・コラチ)で清純派女優として大復活を遂げたのは、まさに奇跡に他ならなかった。
彼女はその後プロデューサーとして『25年目のキス』(99年/ラジャ・ゴズネル)を成功させ、そして『チャーリーズ・エンジェル』に製作費100億超をブチ込んでみせる。
周囲の誰もが口を揃えて「こんな映画がウケるはずがない」と反対していたらしいが、映画は見事に大ヒット。
大バクチに打って出て大勝利してみせた彼女のド根性に、全人類、あるいは全男性はひれ伏すべきだ。

 

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ドリューが製作に就いたことで、『チャーリーズ・エンジェル』は非常にチャーミングな魅力を放つ作品になったといえる。
そこには、前述した従来の女性アクション映画における、血も無ければ怨念もない。
あるのは美女と銃とカンフーと爆発。そしてエロである。

 

レザースーツ、マッサージ師、ベリーダンサー、レースメカニック、ヨーデル娘(!)と、エンジェルたちのコスプレ・オンパレードも大変素晴らしいのだけれど、それら全てのシーンで胸か尻を突き出してくるのだから、これはもう至福という言葉以外に賛辞が浮かばない。
極め付けは、爆風で吹き飛んだエンジェルたち3人の尻がフロントガラスをブチ割るショットまでもが存在するのである。「柔らかくて丸いものの破壊力はすごい」という大変重要な教訓を教示してくださるとは、なんと偉大な映画なのだろうか。

 

エロいのに純真で天然なキャメロン・ディアスサム・ロックウェル扮するボンクラ男子がタイプなドリュー・バリモア、金髪白人至上主義を阻止するアジア代表ルーシー・リュー。さしつまるところ、最高のメンバーだ。


「オンナが作った女が闘う映画」は、なぜか男子諸君の夢とリビドーが詰まったミラクルな作品として産声を上げたわけだけれど、否、オンナが作ったからこそ、あまりにもシンプル且つ本質的に、「映画」に求める視覚的高揚感はもたらされたのかもしれない。ジェンダー論を振りかざすつもりはない。『チャーリーズ・エンジェル』は、「女性が楽しそうにはしゃいでいる姿」それ自体に、我々もまた歓びを感じることを想起させてくれる。

 

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エンジェルたちは一見不可能かと思われる任務を、明るく、楽しみながらこなしてゆく。どこぞのなんちゃらノーランが撮ったバットマンのように、いちいち深刻ぶったり悩んだりしない。
そうした歓びの感情を抱くのは、彼女たちだけではない。
カラフルな色調と華麗なファッション、そして、キラキラと輝く海と晴天の青空を映し続ける、この「映画」自体が祝福しているのだ。

 

例えば、冒頭でボートに乗って登場するキャメロン・ディアスの姿は、まるで身体に金粉が降りかかっているかのように輝いている。さらに、実際に海で撮影したにも関わらず、わざわざスクリーン・プロセスで撮影した合成映像のように見せている。
これらは『タイタニック』(97年/ジェームズ・キャメロン)でアカデミー撮影賞を受賞したラッセル・カーペンターの手腕によるものであるが、要するに、狙ってウソっぽく撮っているのだ。

 

この映画的と呼ぶ他ないケレンミが画面で炸裂する瞬間こそ、ぼくは「映画を観ている」という事実を改めて意識することになるし、それは同時に、その幸福感に導かれながら、現実から「映画」のディメンションへの逃避を、いとも容易く完遂させてしまう。
チャーリーズ・エンジェル』は、そういった映画的快楽に満ちており、活動写真本来の娯楽性を解放する作品だと考えられる。
ゴージャスでファッショナブルでエレガンスでエロティックでユーモラスでアクションのつるべ打ち。紛うことなき「映画」である。

 

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(恐らく、この文章が書き終えるまでの何処にも挿入させることが出来ず、話が横道に逸れて余談になるので括弧書きで記すのだが、この映画で"痩せ男"を演じたクリスピン・グローヴァーは本当に素晴らしい。計算され尽くした不気味な煙草の吸い方ひとつからして、台詞が皆無でこの存在感はアッパレだ。ドリューから"抜き取った"髪の毛の匂いを嗅いで、あゝ幸せと、快感の表情を浮かべる姿は、オンナから見た「やだあ、きもぉい」な嫌悪感が滲み出ていて、その象徴として実に印象深い。クリスピン・グローヴァーと言えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85年/ロバート・ゼメキス)の若い頃の父ちゃんではなく、「チャリエン」の痩せ男が最高だ!と、ここに豪語しておく。……今、胸の中で「『ウィラード』(03年/グレン・モーガン)があるだろ」とつぶやいたそこのあなた。『ウィラード』も最高に決まってるだろ! 当たり前だ!)

 

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ところで、劇中でこんなやり取りがある。
厳重なセキュリティ・システムのため、絶対に侵入出来ないと言われている部屋。
そこにエンジェルたちが任務として侵入しなくてはならなくなる。
依頼人のケリー・リンチがぽつりとつぶやく。「不可能だわ」
そんな彼女に、キャメロン・ディアスは答える。
「面白そう」

 

これは、一見すると『ミッション:インポッシブル』(96年/ブライアン・デ・パルマ)のパロディ・ギャグとして捉えられる(冒頭で、黒人のマスクの下からドリューが登場するのも「M:I」ネタ)。
しかしながら、この「面白そう」という台詞は、『チャーリーズ・エンジェル』という映画自体の個性を表しているし、同時に、ドリューやマックGを始めとするこの映画を創り上げたスタッフたちの姿勢もよく表している言葉だと受け取れるのではないだろうか。

 

マックGという監督は、常に滅茶苦茶テンションが高い監督として有名だ。
メイキングなどで彼の演技指導を見ていると、身振り手振りを加えて実際に大声で演じてみせたり、OKを出すときは「スゲーじゃん!今の最高だぜ!」と最大限に褒めちぎってみせている。
まるで、自分の大好きなTVシリーズの映画版を監督していいよと言われた、子どものように。

 

普通の監督ならば「いやあ、それは無理だろう」「そんなことはあまりにも馬鹿馬鹿しいだろう」と逃げに走るような事も、マックGという男は「それ超面白そうじゃん!やってみようぜ!」と笑顔でチャレンジしてみせる。
その精神は、誰もが無謀な挑戦だと思っていた『チャーリーズ・エンジェル』を大成功させたドリューの精神にも等しく通じるものがある。
「やる」か「やらないか」なら、迷わず「やる」を選択した人々が作り上げた美しい映画こそが『チャーリーズ・エンジェル』なのだ。
そんな作り手の「面白そう」が沢山詰まった映画であるので、彼らの楽しさは観ている観客にも伝わざるを得ない。

 

チャーリーズ・エンジェル』は、「面白い」映画である以前に「面白そう」の映画として存在している。
だからこそ、この映画は最高に「面白い」のだ。


追伸
しかしながら、藤原紀香の吹き替え問題に関しては、2020年に突入した今尚、語り継いでいかなくてはならない。