20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

『メモリー』はあんなに情感込めて歌い上げてはならない曲なんだけど、もうそういう次元じゃないじゃん、そこも含めて愛してあげようよ『CATS』(2019年/トム・フーパー監督)雑感

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21世紀の『死霊の盆踊り』!果てしなく悪夢的ヴィジョンで観客の感受性も脳髄も破壊する最高級のカルト映画爆誕!これは逆張りでも皮肉でも奇をてらって言っているのではない。自分はこの映画を徹底して賞賛する。なんてオリジナルなグロテスクだろう。未知のコメディ映画としても満点に近い。映画を観て、こんなに爆笑し過ぎて腹が激痛に襲われたことも、襲われつつも笑わずにはいられなかった体験は初めてだ。人類史において、こんな映画は、こんなにオリジナルに"おそろしい"映画は絶対に無かった。あまりにも、あまりにも素晴らしい体験だった。


猫でも人間でもない"猫人間"たちがゴキブリのようにウジャウジャとスクリーンをひしめき踊り狂う姿は、言葉そのものの意味として真に気持ちが悪く、このグロテスクの大洪水状態はほとんどテロリズム的だと指摘できるけれど、だからこそ、観客の心も身体も傷つけることが出来る映画の魔力に対して、否応がなく"感動"せざるを得ない。全く体験したことのない部分の感情がヒステリックなまでに過剰反応を引き起こす。何もかも間違っていて、本当に本当に最高だ!!

 

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不気味の谷現象を劇映画で完遂することのテロリズムは、マイク・マイヤーズの『ハットしてキャット』なんかも同じ攻撃性なんだけれど、結局のところどちらも「人間の顔に猫耳があって人間の耳が無い」というヴィジュアルが、ナパーム弾の如く破壊機能を備えていることの証明に他ならない。しかし、『ハットしてキャット』における兵器がマイヤーズただ一人だったのに対して、本作は圧倒的な数の勝利。一人を間違いと見なす正しい世界よりも、世界全体が間違っているのでその世界においては誰もが正しい、という無差別性は、およそ望むべきユートピアだと擁護する。

 

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猫人間たちはほぼ全裸状態なのだけれど、とは言え性器や乳首は存在しておらず、胸も敢えて強調されていない。のが、もう甚だしくエロい。宇宙にまだこんなエロスが存在していたのかと股間がビックバンを起こすくらいにエロい。ケモナーとかそういう次元じゃない。ハッキリ言うが、勃った(母さん、ごめん)。特に主役のヴィクトリアに至っては、終始カメラを上目遣いで見つめ続け、その眼差しによって次第に我々の性本能は歪み始める。なぜかテイラー・スウィフトだけバストサイズが強調され、艶めかしいまでにフェロモンをブチ撒ける。イドニス・エルバ扮するマキャヴィティの、あのプリケツは誰のためのサービスなのだろうか。このエロスは、事実としてロイド・ウェバー版ミュージカルにも、四季版にも見られなかった新しい感覚だ。本作がほとんどポルノに近いと評されているのには激しく首を縦に振るし、その特質だけでも比類なき価値があるし、マジで、マジで映画がポルノで何が悪いってことだ。見世物屋ナメんな。高らかな宣言である。未開のポルノとして人類がパンドラの箱を開けてしまった絶望感、不安感、虚無感、嫌悪感、そしてそれら以上の総量として到来してくる多幸感は、本作を唯一無二の殺傷兵器として機能させており、「到達した!」という歓びに満ちている。

 

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品行方正を学ぶために映画館に行ったことは一瞬も無い。映画に救われるために、あの真っ暗な密室で見知らぬ誰かと鬱屈した時間を過ごすのでは無い。闇の中で不気味で、おぞましくて、俗悪で、残酷なものに触れて傷つくために、自分は映画を観に行っているんだ。傷なんか癒される必要はない。ショックバリュー、ただそれこそが美しい。『CATS』はショックの映画だ。ショックを突き詰めた結果、前人未踏の聖地へと我々を突き落とす。すんばらしい。もっともっと、俺たちにショックを与えてくれ。


そして、気持ちが悪いということは、端的に言って"新しい"ということを失念してはならない。


我々映画ファンは、つまらない映画の駄目な部分を見つけるのではなく、どんなにつまらない映画も楽しめてしまう見方を知っている、というのが特権なのではなかったのか?

 

今こそ、その権利を最大限に行使し、あらゆる意味で酷評の嵐で死に絶えている本作を、存分に楽しめる側になってみようじゃないか!強要はしない。しかし、あなたが支払ったその1900円の価値は、映画ではなく、観客であるあなた自身が決めるものだ。


(Q.で、どんな話だったの?

 A.あ?話なんかねえよ。オマエ誰?)

 

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<追伸>

とは言え、トム・フーパーというあのジェームズ・キャメロンに似た野郎は、やっぱり果てしなくミュージカルが撮れない監督である。特にカメラワークね、最低の域だったね(笑) ステディカムで縦横無尽に動かしておけばカメラ"ワーク"になると信じちゃってる辺り、トム〜、オマエの射精液は飲めないぜ〜(笑) まずは三脚にカメラを載せておくれ。あの『レ・ミゼラブル』の愚行を忘れたことなど、あまつさえミュージカルファンの僕は全く無いし(映画のオーディションで「好きな映画はレミゼでっす!」と言った俳優に対して「あ、じゃあミュージカルはお好きではないんですね(笑)」とイジワルしてしまったことがある、若気の至りです)、しかしカメラを自由に動かせることになった歓びが音楽的な多幸感と結び付いていると作家たちが錯覚してしまう(『ラ・ラ・ランド』とか)のも、魔力としては強固で、迫害するつもりはない。


また、今回の映画版キャッツを、馬鹿の一つ覚えで面白可笑しく酷評してみせる「パフォーマンス病」の自称評論家連中、には、本作に登場したネズミやゴキブリたち以上に価値がない。オマエらの職務とは、例えばキャッツとはそもそもT・S・エリオットの詩が原作であってミュージカルが原作ではない、とか、ストーリーラインが存在しない詩のような映画(タルコフスキーの諸作品とか)が存在することの多様性とか、まずはそういう見方について論じてくれ。解釈の幅を狭める、いいね・RT稼ぎが目的の下劣で頭の悪い「ヒョーロン」ばかりを散見して、トホホと肩を落としました。ワイン呑んで「美味いね/不味いね」しか言わねえワイン評論家よりも、「このワインは何年に製造されていて、その時の時代背景はこうで、このワインの名前の由来は……」とスノッブ効かせてでも色々と教えてくださるワイン評論家の方に、俺は乾杯するぜ。頼んだよ評論家諸君。美味い酒にしよう。

 

『CATS』は驚嘆ポイントがあまりにも多い映画だけれど、それらのビックリをここには記さないでおく。あなたが信じ切っている映画とかいう娯楽が、客席のあなたの想像力なんて遥かに凌駕して牙を剥いてくる。これこそ、テレビでもスマートフォンでもなく、映画館の闇の中で体験するべきだ。無事を祈る。無事のはずが無いんだがな。