20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

オルケスタとしての肉汁サイドストーリー、或いは、破られた最後のページ【肉汁サイドストーリー『さる沢』雑感①】

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※当エントリーは、筆者の友人である杉浦氏と彼の友人である蒼井紅茶氏が、肉汁サイドストーリーによる演劇『さる沢』の観劇に際して、観劇後の余韻と興奮によって自主制作ラジオとして収録された音源が、あまりにも滑舌が悪く、また長尺と化して自滅状況に陥ったことを考慮し、なるべく正確に文字起こしを試みた文章である。以上を踏まえて、読み手の皆様には何卒ご了承いただきたい。

 

 

どうも、お寒うございます。ワタシは、しがない映画ファン、杉浦と申します。初めましての方、初めまして。特に自己紹介は致しません。ご容赦いただきつつ、お見知りおきを。

12月15日、ワタシは肉汁サイドストーリーによる舞台演劇『さる沢』の千秋楽を観劇しました。率直な感想を述べるとすると、大変素晴らしかったです。思い出すには辛すぎる、忘れ去るには美しすぎる、といったアンビバレントな余韻も含めて、傑作だったと思います。こうして、居てもたってもいられず、帰宅して直ぐそのままダイレクトに、マイクロフォンの前に腰を据えて、浮かんだ言葉を発声している次第です。と言うよりは、腹に一発キツイのを食らった、しかし喰らいつつ、テメェが感じている痛みや、苦しみや、もどかしさや、憂鬱や、暗さといった脊髄反射的な感情は、劇中に登場した誰よりも軽く、甘く、薄められた感情であって、ちゃんと一発喰らってしまっている自分のことが浅はかでさえあるとも、同時に思っています。

ワタシは演劇に関しては完全な門外漢です。今年も、映画は劇場だけで130本見ていますが、演劇は『さる沢』も含めて、たったの2本、のみです。演劇が嫌いだとか、演劇に憎しみや殺意があるわけではありません。単に、ワタシは映画が好きで、それは、野球よりもサッカーが好きみたいな感覚とほぼ等しく、東京ドームには行かないけれど味の素スタジアムには足を運ぶ、というようなことだと言えるかもしれません。ですから、演劇の作法や美しさについて語るべき言葉を持ち合わせていません。とは言え、良い作品であれ、つまらない作品であれ、自らが感じた雑感というものをアウトプットしておく、つまり外部に吐き出しておく、という行為は、これはワタシの手癖でありフェティッシュと化していて、人が携わった作品は必ず言語化を試みる、ということをフィックスしています。よしんばそれが、醜い行為であったとしても、語らずにはいられない表現がある、そういった衝動は常に存在しています。知ったかぶりをして劇評、なんて愚行を行うつもりは全くありません。描かれている事象や運動をつぶさに検証していく表層批評をするつもりもありません。これはあれで、あれはこれで、といったような作品の裏側から考察し、メタフォリカルに紐解いていく、分析批評をするつもりも、最も、全くありません。何より、るんげの書いたホンを分析するというのは、分析すると決断した時点で、こちらの知的な敗北はある種決定されているからです。ワタシは、原作である山形県の民話「猿沢伝説」について、一瞬も調べずに、今日まで過ごしてきました。異類婚姻譚、であるということ、猿が娘を嫁に貰う、ということ以外、何も知らずに、るんげの描く『さる沢』に挑みたかった。そして、その選択は、間違ってはいませんでした。

ワタシはいつも、作品の感想は、文語調の文字として書いています。しかし、ここでは、お聴きの通り、ワタシは現在進行形で、皆さんのお耳汚しを遂行しています。なぜか。結論じみたことを言うならば、「声」によって与えられた尊さは、「声」によって讃えるべきだと、寒空の下で託宣を受け、確信に至ったからです。今からワタシが好き勝手に述べるのは、総てがワタシの暴論であり、戯言であり、しかし至って真剣な、素人の「感想」としての機能しか持っていません。それを御承知の上で、引き続きお耳を拝借、させてください。

とは言えですね、演じた側も、観た側も、お疲れでしょうにね、申し訳ないっすね。あと、さっきの、分析はしないよってことに加えると、脚本、いや台本か、つまり物語ですね、物語の構造についても特に言及するつもりはありません。そういったオハナシとしてワタシはこう感じました、悲しかった、もやもやした、という論は、恐らくSNS上にもたくさん書き込まれているはずなので、ここではちょっと除外します。重ねて、キャラクターについても話すつもりはなく、ええー俳優部、違うか役者、演じた役者の皆さんへの興味の方が個人的には大きいので、そちらに絞ります。

ってな具合で前口上がですね、ダラッダラと長くなってしまいましたけれど。ええー『さる沢』ね。これ観た方ならば、皆さん言及されていることなのかもしれませんけれど。端的に言って、完全に「声」が素晴らしかったですね。「声」完璧。「声」というか、「発声」ですね。もっと言ってしまえば、「音」ですね。完全に「音」として、一音残らず、「音」の素晴らしい作品だと思いました。これは大絶賛に値する、全く過言ではない素晴らしさだと思っています。この「声」「音」の作り方、は、すごいですね。いやーそんな、声とか音とかもっともっとこだわった演劇だってあんるだい、って言われちゃあ、アタシはさっきも言った通りズブの素人ですからね、はあはあはあ、そうでござんすかと白目むくしかないんですが。

何がそんなにすごいかって、これめちゃくちゃ極論として言っちゃいますけど、もうね、ほとんど「音楽」に近いの。うん。演劇をほとんど見てきていない、つまり徹底して分母が少ない、劇団のマッピングが出来ていないテメェのボヤキですから、まるで童貞がセックスを語るような居心地の悪さがあるやもしれませんけれど。いやー、こんなに「音楽」をやらずに、「音楽」に近い演劇は観たことがなかったです。「音楽」に最も近い集団なのではないかしら、肉サイというのは。

これらは「音楽」が我々にもたらすグルーヴ、言ってみれば、その音楽が我々に与える印象がプラス因子であれマイナス因子であれ、「音楽」というのは絶対的に多幸感をもたらしてくれます。よしんばそれがへヴィメタであれデスボイスの騒々しい曲であれ、悪魔崇拝の歌であれ、「音楽」は自ずとすべて、ヒーリング作用を内包してしまっています。それが音楽の恵みであり最も美しいマジックなのだけれども、『さる沢』にはそれがありました。マジックが。魔法がかかってた。何気ない一言、を、どのように発声させるか、そこにこだわり切っているのが見ていてよく分かります。語尾の上げ下げで喜怒哀楽、あるいは無の感情を表現する手際は、もちろん他の芝居でもやっているのを観た事ありますが、今日目撃した5人の役者、この5人には誰も敵わない。

まずもって全員の声が、一人残らずもう天からの授かりものですね。素晴らしかった。全員。本当に各々異なる音域を持っていて、それらのケミストリーが発生していて、つまりキャストアンサンブルの相性の良さ、持論に近付けて言うならばデュエットの「聞きやすさ」は、ほぼ文句を垂れる隙がありませんでした。静かなるミュージカルだったと言いたいのではないです。あくまでも『さる沢』という約90分間の上演時間が、90分間の曲のような、一曲のような、イントロを経てAメロがあってBメロがあって、サビがあって、そんでアウトロみたいな、印象がかなりありました。

まあ極論の極論ならばオペラやオペレッタにも近いかもしれません。オペラの場合はサビはアリアっちゅー風に呼びますけれど、ちゃんとアリアが、ありましたもんね、音によるね。例えばお姉ちゃんが妹を恫喝するシーンね、シーンって癖で言っちゃいましたけど、あそこのアリア感ね、るんげ語で言うところのアルトラ・アリア感ったらないですよね。もちろん、声とか音ばっかり褒めやがってってそういうわけじゃなくて、演者の皆さんの肉体の、身のこなし方、佇まい、も、言うまでも無くってレヴェルでどうかしていましたよね。これ敢えてこういう言い方しますけど、表情の「人」としてのわびしさとかエロさがね、終始展開されまくっていました。顔がずっと、闘っているんですよね、戦場に顔があるんじゃなくて、あれはもう顔が戦場と化している状態で、それこそお姉ちゃんのアルトラ・アリアの場面、あの梅津さんの左眼の下の、左頬の神経がガチで痙攣してるんじゃねえかってくらいにピリピリって、顔が歪むんですけど、もう凄まじい形相で、ほんと素晴らしかったんですけど、ワタシはその際の、彼女がどのような「声」によって、「音」によって、内面を吐露していくかという、その「演奏」の部分に、大変興味がありました。

音のアクセントだけではなく、リズムも甚だ素晴らしくって、これは言い換えてしまえばテンポの良さとも呼べるのですけれど、個人的には上演時間90分、全くもってクッソ短く感じました。ズシーンと来るとですね、ズシーンと来るハナシってのは、体感的に長く感じやすいものですけれど、それはつぶさに考えれば錯覚でしかなくてですね、『さる沢』は間違いなく的確なリズムで、つまり的確な間とテンポがもたらす世界観の創造というのが、紛れもなく成功されていました。心地よかったんですよ、すべての台詞が。ほんとうにひとつ残らず。台詞だけじゃない。例えば階段を上る音は、「裸足」によって踏まれた地面の音で、あの心地良さね。裸足であるという設定は言わば状況説明だったりもしますけれど、裸足を裸足単体の意味では終わらせない、「裸足」という「音」を作っている、そういうところの手腕が流石はるんげという気持ちでいっぱいでした。本当に耳が良いことを立証していると思います。絵が描かれた紙をめくる音や、林檎をかじる音も、同じ理由で、『さる沢』の音楽性を更にグレードアップさせていました。

先ほど、5人のキャストそれぞれが、異なる声質でありつつこれ以上ないバランスがあることを称賛しましたが、実はこれはかなり、難しいミッションに成功していると言えます。これは音楽的な視点、特に音楽理論、楽理の視点から話してしまいますが……ええー音楽には3つの「調」というものがあって、これが長調短調、そしてブルース調と呼ばれる3つなんですが。ええーここではブルース調はあんまり重要ではないのでぽーんとコンビニのゴミ箱に捨てちまって、長調短調について。この二つはメジャーとマイナーなんて言い方もします。長調は明るい、楽しい、幸福をイメージさせる音階ですね。一方短調、マイナーの方は暗い、悲しい、でもこう熱い、燃えるって感じの音階です。

で、ここで『さる沢』を曲だと捉えて考えてみるとすると、物語の上を走っている、つまり物語を展開していく演者の皆さん、の「声」、これをメロディとします。そして、メロディの下にあるのは、コードです。このコードは物語、つまりこの設定された世界それ自体だとします。

一般的な楽理では、メロディはコードに引っ張られてしまう、という定説があるんですね。例えばどんなに明るい長調のメロディでも、コードが短調で暗いと、その曲自体は短調の印象が強くなっちゃうんですよ。要するに器の方に持ってかれちゃうの。印象が。ぴかぴかに光ってるお米なんだけど、どんより暗い色したボロボロのお茶碗に盛られてるとマズそうに見えるみたいな、まあ超簡単に言うとそういうイメージなんですね。これを楽理では「液状化」と呼んでいます。アイスコーヒーにミルクを入れてかき混ぜると、コーヒーとミルクは完全に溶け合いますよね。黒と白が混ざってブラウン色になる。セパレートが消失する。一体化する。これが液状化です。音楽におけるメロディとコードは、どうしても液状化してしまうという、この宿命から逃れられなかったんですね。

ところが、『さる沢』では、明るいとか暗いといった印象論ではなく、あくまでも、メロディ、つまり演者の「声」は物語に引っ張られることなく、その音単体として独立している。具体的に言うと、皆さん声が「高め」であり続けている。物語がどよーん、もうお駄目だこりゃーと展開しても、敢えてそこで「高い音」を出し続ける。これは梅津さんが特に、非常に丁寧にやっておられました。猿役のバンナイさんにおいては、死という暗くて重たいイメージ、まあ文字通り彼は臼をかついで重たいわけですが、そういった物語や状況に引っ張られることなく、「笑って見せたり」するわけです。まるで道化師のような。ピエロのような。最近だと『ジョーカー』のような、絶望に直面したからこそ笑うんだ、キミには笑顔しか見せたくないんだみたいな。とにかくあのバンナイさんの笑顔の、恐ろしいまでのもの悲しさ。それは、コード、つまり物語は終始暗くどんよりしているからこそ、逆に際立つわけです。また、階段を下りて来るたかぐちさんの顔が隠れながら、でも彼の「声」だけはするっていう素晴らしい演出がありましたけれど、この演出は、彼の「声」を信じていなければ決して出来ない。たかぐちさんのあの声は、ちょっとびっくりしましたけどね、液状化しなさ過ぎて。市川さんは終始低い音を出し続けるのだけど、対峙するのが高さを持った冴島さんだったり梅津さんだったりと、ちゃんとその場には短調長調による、各々独立した磁場が発生しているんです。とまあ、長調のメロディを持つ役者たちと、短調であり続けるるんげの書いた物語は、お互いが溶け合うことで演者を暗く沈めるのではなく、ある種お互いが独立した状態であり続けることによる異化効果がもたらされているわけです。要は液状化していない。普通はしちゃうのに。アイスコーヒーとミルクの層がちゃんと分離してある、セパレートがあり続けるという構造が、『さる沢』には確立されていました。繰り返しになりますが、普通は物語に芝居が、声が引っ張られます。しかし『さる沢』は、むしろ物語に抵抗、アゲインストするかの如く、音域を低くしたりしない。当たり前のことを言っているようで、コレが出来なくて叙情的にしようと演者が引っ張られる作品は、掃いて捨てるほどあります。

もう一つ付け加えると、この長調のメロディと短調のコードが液状化していない、という現象は、例えば前説の時点から明快なものとして表れているんですよね。るんげが能天気に前説を始めるわけですけれど、そのるんげの話し方は、高い音、ドレミのソくらいの、高くて明るい雰囲気で終始話しています。一方、るんげの前説と同時に、横たわっているお姉ちゃん、梅津さんの口から、ひゅーひゅーと息が漏れ始める。この息の音の、なんともおぞましいこと。このひゅーひゅーという音は、低く、唸るような、低音であり続けるわけです。このそれぞれ真逆の二つの音が、同時に鳴り続けるということによって、観客は、明るくもあり暗くもあるその時間への、一種の居心地の悪さを感じます。気持ち悪いってことは、たいていは新しいってことです。これは優れた異化効果としての機能も持っているし、明るい・暗いというアンビバレンスに観客が引き裂かれるような感覚があるわけです。もうこの初っ端から、うわー、すげー、音楽じゃん、と面喰らっていました。この短調長調の同時存在は、終演後の、後説って言うんでしょうか、そこでも再びるんげが出てきて、再びお姉ちゃんの後ろ姿と、呼応しているし、呼応しないという不思議な余韻を残してくれています。ラストランまで、『さる沢』は徹底して音楽的であり続けるわけです。

同時に、この前説・後説における、るんげとお姉ちゃんの関係性は、言い換えれば双方が双方のペルソナと化しているようでもあり、つまりは、直接的な主人公ということではないにせよ、るんげに最も近いキャラクター、最も思い入れがあるであろうキャラクターとして、お姉ちゃんが無意識に観客の印象に刷り込みされる構成にもなっています。確かに、お姉ちゃんの声の発声は、というか声色自体が、るんげに似ていましたからね。特に叫ぶところ、アルトラ・アリアの場面、るんげが叫んでいるかのようでしたよね。俺はるんげの叫んでいる姿は見たことないけど(笑)まあでも恐らくは、無意識に、そういうことなのだと思います。

ええー、ワタシ見てて、泣いたんですよ。泣いちゃったの。で、泣いたなんて言っても、るんげが喜ばないのは知ってるんですよ。は?安々と泣いてくれるなよ?って思うはずなんですよね、あの人は(笑)だから泣くつもりなんか一ミリも無かったんですけれど、どこで泣いてしまったかというと、「やめてよ」と取り乱すお嫁さんに対してですね、猿がポツリとつぶやく「やめない」、という台詞ですね。その「やめない」って台詞の、音がですね、もう完璧で。たった一言、四文字ですよ。「やめない」。でもめちゃくちゃ美しかった。素晴らしい音楽の一節を聴いたときと同じような多幸感が、その一瞬でブワッと押し寄せてきて、もう決壊しましたねえ。つまりですね、音に泣いてしまったんですよ。そのあまりの美しさに。物語とか芝居とか、もちろんそういった括りすべてを踏まえてなんですけれど、たった一音でグッと心を掴んでしまう、そんな瞬間があるだけで、『さる沢』はワタシにとって特別な作品でしかないですね。そして、るんげは作・演出ではなく、指揮者と言っても過言ではない。コンダクターですよ。コンダクターるんげ。各々の演奏者たちの音色を統制し、90分間の叙事詩を奏で上げてしまう。要するに、肉汁サイドストーリーはオーケストラである。肉汁サイドストーリーは、オーケストラである、ということです。

 

と、ここで!突然ですがバトンタッチ。ええーワタシも一人で長々と話し過ぎてしまいましたから、シンプルに話疲れてしまいましたから、喉カラッカラですから。ワタシはこのセクションで途中退場しまして、ここからはワタシのアルターエゴ、蒼井紅茶くんにマイクを譲ります。彼とのファーストコンタクトは1年と半年前、新宿歌舞伎町にあるパリジェンヌという喫茶店だった。新しい映画の打ち合わせだった。そこでワタシはウインナーコーヒーを、彼はカモミールティーを注文し、運ばれてきたカモミールティーを見て、彼は言った。「この紅茶、青いです」その瞬間、ワタシはアンリ・ミショーが阿片のやり過ぎで一時的に色覚錯乱が起きると、紅茶が青く見えるというエピソードを思い出し、大きく高笑いした。彼が阿片の常用者なのか否か、そんなことはどうだっていい。それ以降、ワタシは彼を本名では呼んでいない。彼は蒼井紅茶だ。彼はワタシの10兆倍冷酷で、10兆倍シリアスで、10兆倍本を読み、10兆倍音楽を聴き、10兆倍映画や演劇を観て、10兆倍セックスが上手く、10兆倍ユーモアがあり、10兆倍心が無い。そんな彼も、確かに、あの千秋楽の会場にいた、「いた」のだ。蒼井くん、僕はちょっと紅茶が飲みたくなってきたのと、そろそろヤニを20発ほどキメたいので、キミにこのマイクを回す。マイクは奪い合うためにあるのではない。それは芸人がやることだ。我々は芸人ではない。マイクは、回すためにある。蒼井くん、僕から回ってきたそのマイクで、「自分には無理だと思っている人々」に向けてMCしてくれ。頼んだぞ。それでは、MCの逆、C・Mです。

 

②へ続く。