20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

名もなき映画、名もなき美しさ—世界一長い『TIME AFTER TIME』に関する評論

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映画の深みとは、あくまで画面にあると言えます。僕らが映画を観る理由は、その画面=感触に触れたいという衝動だと言っても良いのです。つまらない映画は、物語とかメッセージという抽象的なものばかりに重きを置きがちで、大変にうるさく感じてしまいます。つまるところ、言葉にして伝えられることを映像にされても退屈なだけであって、映画では、言葉にできない感情を表現していただかなくては意味がありません。そして、その言葉にできないこととは一体何なのかを、観客に能動的に考えさせなくてはならない。それが表現と呼ばれるものの存在価値だと思うのです。

さて、『TIME AFTER TIME』という映画を観ました。大学時代の後輩、清川昌希くんによる15分間の短編映画です。

『TIME AFTER TIME』の清川監督は、映画の物質的な感触を実に知り得ています。むしろ、知りすぎている。幾多にも及ぶ諸作品へのオマージュやパスティーシュ、インスパイアは、彼が如何に映画を研究しているかが手に取るように分かります。と同時に、それが知識のひけらかしという醜い行為では無く、単なる模倣に終結しているのでも無いのは、逸脱した映画への謙虚さ、もしくは情熱故なのかもしれません。その映画的な運動神経の良さは、決して知識から成るものではありません。如何に常日頃から映画の地肌に目と耳を凝らしているか、その証拠が本作には詰め込まれています。

よしんば、本作を鑑賞した、或いはまだ鑑賞していない人間の中で「モノクロと少ないセリフのアートぶったオシャレ自主映画っしょ(笑)」と苦笑する輩がいたとするならば、そのような人間に映画を観る目は必要ありません。目潰ししてやればいい。『TIME AFTER TIME』は静かでおとなしい映画なんかでは断じてありません。ちょっとどうかしているほどに激しい作品だと感じました。

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本作には運動が溢れています。それはタイトルが示す通り、幾度となくアクションは繰り返され、運動に次ぐ運動が映画それ自体をモーションさせていることに他なりません。

映画監督のジェルメーヌ・デュラックは、絵画の素材が色であり、音楽の素材が音であるならば、映画の素材は運動であると提唱しました。運動こそが、まず映画の純粋なあり方なのだと。しかし、この根源的な事実は、物語映画の普及によって次第に忘れられてしまいます。映画で重要なのはストーリーだ、運動はストーリーを説明する手段に過ぎないという思考は、決して現在も消え去っていません。どころか、特に映画にあまり触れていない若者の作品は、そんなことには無知で、鑑賞するたびにため息が尽きません。

しかし、清川監督の本作は違う。それは単に、彼が観てきたであろう映画には、それが当てはまらなかったのでしょう。例えば、フレッド・アステアが踊ったり、バスター・キートンが走れば、その運動自体が美しいことだと知っていたから。例えば、サム・ペキンパーが死にゆく人間をスローモーションで撮影したのは、その運動自体に美が宿っていたから。例えば、ロベール・ブレッソンが無造作なフレーミングによって顔ではなく手を映し続けると、手がバレエしているように美しく見えたから。例えば、カール・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』では、クローズアップで捉えられた頬を伝う一粒の涙が、どんなアクションよりも迫力があったのだから(『TIME AFTER TIME』にも一粒の涙クローズアップがある!)。

要するに、映画とは「活劇」なのです。映画が活劇であるということは、アクション場面が多いといった題材の問題ではなく、ショットの問題に他なりません。そのショットが上映時間の長さを決めるのだということを、清川監督は恐ろしいくらいに意識しています。とは言え、このような思考は映画監督として至極当然の感覚だと思われますが、そういうことを考えずに映画を撮る輩が多すぎる現状においては、一歩抜きん出ていると言って過言ではありません。

僕が本作を激しいと評するのは、そのような嗜好が絶えずショット単位で流れ続け、こちらが「わ!」とか「え!」と驚愕している内に映画が終わっているという感覚所以です。少なくとも、本作を観ているあいだの僕の心は、その運動を捉えるために激しく動きました。それは世界が常に揺れ動き、絶えず変化していることを教示してくれる映画の運動、それに共振するかのように。モーションが生み出すエモーションとはまさにこのことで、映画に揺さぶられる幸福感を久々に味わうことが出来ました。この監督の世界に共振することの喜びを知ってしまった時点で、もう後戻りが出来ず、こうして寄稿を執筆している訳です。

 

ファーストカットからラストカットまでの総てが秀逸なので、具体的に1ショットずつキャプチャーして褒めちぎりたい衝動に駆られているのですが、それは運動に満ちた本作にとって野暮だと判断しました。

んが、たとえば、

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アヴァンタイトルにおける一連のショットの流れは凄まじく、まず右回転するレコード盤と自転車のタイヤがオーヴァーラップし、次に右方向へ自転車をこぐ男性の横顔、次に画面奥へと進む自転車、すると画面手前へと走ってくる自動車が映り、終いには靴が空中に舞い上がる!という、この運動の連鎖! 画面の奥行を巧みに切り取り、ジョン・フォード的な物体の浮遊さえも捉えている時点で、ちょっとこの監督が只者ではないことが誰の目にも明らかでしょう。

f:id:IllmaticXanadu:20170220034350j:plainf:id:IllmaticXanadu:20170220034425j:plainf:id:IllmaticXanadu:20170220034516j:plainまた、多摩センターがロケーションされているのですが、多摩センがどのような土地か認知している者にとっては、その匿名性の高さに驚嘆します。だってコレ、『第三の男』ラストシーンの並木道じゃん! どうしてこういうマジックがいとも簡単に成功してしまっているのか。直線状のオブジェクトに囲まれながら追う/追われるの運動を繰り返す人物たちには、都市空間的な迷宮や虚無をさまよう冷やかさがあり、黒沢清ブレッソンへの敬愛がくみ取れます。

 

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監督のオブセッションとして、常に画面に運動を与えたいという執拗さが本作の魅力であり、それは繰り返しになりますが成功していると言って良いです。喫茶店から退店する彼女と彼の画面奥への運動と、左方向へ走る自動車と右方向へ歩く通行人が見える窓を捉えたショットなんて、観ていて爆笑しました。凄すぎて。電車内でのシーンでも必ず窓を映し、移動する景色という運動を見せています。この「窓」を映すという簡単なことが、最近のハリウッド映画なんかはびっくりするくらいに出来ていません(例えば、クリストファー・ノーラン監督の『バットマン・ビギンズ』には電車が出てきて暴走するのに、その窓が映らないので全然暴走感が無い・笑。ちなみに近年の成功例はトニー・スコットの『アンストッパブル』です)。ここまで「動き」に執着されると、同年代の他作品が「停止」しているように錯覚してしまうほどです。若いのだから、やはりこれくらいは運動していただかないと。映画が喜びません。

また、運動は小道具によっても分節化されています。煙草の煙、回転するレコード、横開きに開かれる本、その本が入っていない鞄、そして自転車など、即物的な小道具の使い方はロマン・ポランスキーに類似するフェティッシュを感じました。

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本作の主要登場人物は、追われる/見られる女性と追う/見る男性の二人のみです。この二人を演じた浅沼惠理さんと黒島蓮さんが、被写体として確固たる輪部を「持たない」ことに徹底しており(だから役名も明らかにならない)、故に動きや変化がただ画面上に「存在」しているだけという、その構造が素晴らしいです。黒島さんがどこで瞬きをしているのか、そしてそれを把握した上で何時クローズアップを撮っているのか、監督の映画的視力の良さが随所に表れています。ここでは、誰の顔も素晴らしい。監督は、「視線」と「表情」が異なるものだということを知っていて、それらを最も適切なフレーミングで切り取っています。特に見る側である黒島さんの演技は、ほぼ無感情に近い状態の中で不安/困惑に顔を歪めており、だからこそ彼の感情が顔を「裏切る」ラストのクローズアップには唸りました。

取り分け、ヒロインである浅沼さんの存在感は特筆に値します。彼女には死生を超越した幽霊的な透明感が常に漂い続け、「無」であるのに「在る」という、映画的な磁場が誕生させた美しさがあります。ここで述べている美しさとは、何も容姿の美醜を指しているのではありません(とは言え、彼女はすこぶる美少女ですが)。実のところ、映画それ自体が彼女を追跡することから逃れられず、その支配力は、言ってみれば映画に祝福されていると言っても良い。映画は彼女と戯れたいと願い、たとえ一瞬の戯れであっても、ラストの海岸でその願いは成就するのです。

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監督は彼女が「感情から導き出された表情」をすることを抑制して、あくまでも「顔」そのものの無機質、無感情、無意識性に重きを置くように撮っています。普通、「顔」は様々な要素がせめぎ合う戦場になり得るのですが、ここではそういうことはしない。サングラスは仮面であって、物理的に彼女の視線を隠しますし、それがファースト・カットならば、これはそういう映画なのだということの表明なのです。無表情、にも関わらずエモーションとして成立しているのは、彼女の無意識をしっかり「掘り起こしている」からです。喜怒哀楽ではなく、無意識としての顔。日本人離れした浅沼さんの容姿端麗さも手伝い、ラストの海岸での彼女は、まるでパゾリーニの『奇跡の丘』におけるマリアのような崇高さを放ちます。手にした白い本は、マクガフィンから聖書と化す。風という運動、その風になびく髪という運動、それらを捉えた彼女のクローズアップ。見られる側と見る側の逆転。その瞬間、本作は日本映画とかモノクロームとかドラマとか自主制作とか、あらゆる呪縛から解放され、匿名の映画的運動として存在することに成功してしまっているのです。そういった運動、瞬間の積み重ね=タイム・アフター・タイムこそが人生であって、タイムを切り取る表現こそが映画なのだという高らかな宣言! 終いには『恋人たちは濡れた』の如く、自転車は海へと向けて発進する! 全く、恐れ入った。

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……と、ここまで後輩の映画を褒めすぎてしまうと、流石に具合が悪くなってきたので(笑)、僅かながらの欠点を挙げることをお許しください。それは、本作はあまりにもクリティック(批評)による補完が多すぎるという点、そして、無差別性の欠如だと思います。前述した通り、ここでは映画がかなり心地よく息をしているのですが、その息吹は、必ずしも万人全員に聞こえるものではありません。つまり本作はモスキート音であり、初めからその「耳」もしくは「目」を持たない人間を除外している節が感じられます。勿論、そのような攻めた姿勢にはサムズアップです。だからこそ批評の役割が生じる訳ですが、その余白を埋めるアソビはシネフィルの為に成立してしまって、他大半の観客への歓迎には成りにくいのです。言い換えれば、まだ監督は観客を差別している。より無差別的な映画をテロリズムとして投下することが出来たとき、少なからず次元の異なる傑作が再度誕生するのでは無いかと期待しています。

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別に監督からカネを貰っている訳では無く、この寄稿は僕が勝手に書き始めてしまったものです。ただ単に、素晴らしい映画が正当な評価を受けなかったり、誰も言葉にしようとしないという事実は耐え難かった、それだけです。

僕は割と後輩の映画を観るのが好きで、そこには、偉そうに出来るとか好き勝手言えるという自己満足は一切ありませんで、純粋に学ぶことが多いからという理由で拝見させていただいています。勿論、今まで面白い映画はたくさんあったし、分かっている人だなあと感心してしまうことも多々ありました。でも、後輩の映画に嫉妬したのは、これが初めてです。面白いという感情よりも先に、「嗚呼、コイツにはこれが出来てしまうんだ……」という恐怖感の方が強かった。ほぼ同年代に、こんなに映画の運動神経が優れたヤツがいるのか、という絶望。でも同時に、絶望は希望です。僕には絶対に成し得ない形で、彼は「映画」に供物を捧げている。ならば自身も、自分だけの託宣を受けて、それを捧げなくてはならない。少なくとも、一人の映画好きの心にエモーションを与えた『TIME AFTER TIME』という傑作に、今は脱帽するのみです。

 

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ということで、清川くん、今度千円ください。

 

※文中で使用しているキャプチャー画像は、「映画を文章だけで云々することの不誠実さ」と「目で感じる芸術及び娯楽」である映画に対する敬意の姿勢であり、監督本人からの許諾を得た上で使用しております。

※本作は2/25に町田市民フォーラムにて上映されるそうです。以降の上映予定は存じ上げませんが、きっとどこかでまた遭遇できることを願いつつ、句読点を打ちます。