20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

『溺れるナイフ』 濡れたわたしを乾かすあなた

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瞬時に劇場がどよめいた。
それは、立川シネマシティで上映中だった『溺れるナイフ』で、元毛皮のマリーズ・ボーカルにして現ドレスコーズ・ボーカル志磨遼平によってセルフ・リメイクされた『コミック・ジェネレイション』がエンドロールと共に流れ出した、その瞬間以降の状況を指す。
劇場は、あらゆる少女で文字通りに溢れ返っており、それぞれが適切にざわめているのを肌で感じた。「ヤバイ、最高すぎる」とか「何コレ、意味ワカンナ(笑)」とか「スダマサキッスやっば、顔ペロされてー」とか。終いには、劇中の夏芽とコウがしていた連想ゲームの如く、「めぐみー!」「ゆかこー!」という可愛らしい叫びが斜め左後方から聞こえてきた。

 

一体、山戸結希作品が上映される劇場の凄まじい熱気は何なのだろうか。処女作『あの娘が海辺で踊っている』(2012年)から『おとぎ話みたい』(2013年)までをリアルタイムに追いかけ続けた身としては、毎回、あの熱狂の渦に呑み込まれそうになる。いや、既に呑み込まれていただろう。『おとぎ話みたい』を劇場だけで3回鑑賞するに至り、少女映画の新たなる傑作誕生に歓喜したことは、記憶に新しい。

よしんば、映画監督ではなく詩人になっても成功していたであろう山戸結希の映画は、張り裂けそうな少女の感情が沸点ギリギリで言語化及び身体化されていく、きわめてポエジーな作品が多い。しかし、『溺れるナイフ』においては、そのようなポエジーが希薄で、役者のアクションや肉体を切り取りたい、時間をフィルムに閉じ込めたいという欲望が先行している。それは独占欲と呼称するのがふさわしく、監督自身が最も敬愛しているジョージ朝倉の漫画を、まさか自身の手によって映像化し得るという幸福と、誰にも譲るまいとする強固な意志が感じられる。哲学的なナレーションよりも、映像の「文法」を逸脱したカッティングで攻めてみせた『溺れるナイフ』は、まるで色彩溢れるショットの一つ一つが踊っているかのような豊かさに満ちている。それはゴダールのようでもあり、小津のようでもあり、相米のようでもある。彼女は詩人から映画監督になった寺山修司園子温と比べられることが多かったが、『溺れるナイフ』を通して、早くも更なる次元へと羽ばたいたと言えるだろう。

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本作には、終始「水」のイメージが付きまとう。夏芽とコウがファースト・コンタクトを果たすのは、入ることが禁じられている神さんの海だ。夏芽はコウに肩を掴まれ共に海に飛び込み、そのままメインタイトルが映し出される。二人がファースト・キスを交わすのは道沿いに流れる小川で、夏芽は水流に制服を浸す。飲み口から溢れた清涼飲料水は水滴として夏芽の口元に付着し、コウがそれを味わう。夏芽がコウに映画出演のオファーがあったことを話す時、二人は巨大な水たまりの周囲をぐるぐると廻り、夏芽は水面をバシャバシャと横断してコウとの距離を縮める。火祭りの夜の事件は、ご丁寧にも湧き水の傍らで起こる。ここまで羅列されると、夏芽とコウが関係する際には「水」が欠かせないファクターであることは歴然だろう。「海も山も、俺は好きに遊んでええんじゃ」と話すコウは言うなれば「神さん」のメタファーだが、そう言えば海と山、どちらにも水は流れている。もしかすると『溺れるナイフ』は、「水」と出会い「濡れてしまった」少女の物語なのではないか。

勿論、前述した「濡れてしまった」は、何も身体的な意味合いで使用していない。心が濡れる、感情が「水」によって満たされたという、すなわち恋の衝動、ときめきのことを指している。極論、夏芽がコウに特別な感情を抱くようになったのは、彼女がコウと共に全身を「水」で浸したことが出発点なのであり、彼女はコウと共に、もう一度全身を「水」で満たしたいと願い続けている。心をもっと濡らしたい!、或いは、心を絶対に乾かしたくない!というのが、夏芽の行動原理だ。

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対して、「水」に祝福されない登場人物こそが大友である。彼が夏芽の暮らす旅館に魚を届けに訪れた時、ぼくの自律神経は乱れを起こした。大友がクーラーボックスを取り出したからだ。当然だが、クーラーボックスには魚と共に「氷」が入っているであろう。ぼくが抱いた悪い予感を後押しするように、旅館から出てきた夏芽はアイスキャンディーを半分に割って大友に渡す。一見すると親密に見える二人だが、アイスキャンディーという「氷」は溶けることがなく、そこに「水」は存在していない。透き通るような液体としての「水」のイメージに対して、凝固している固体としての「氷」は、夏芽と大友の決して溶け合わない関係性を示唆しているかのようだ。後半では、全身びしょ濡れで泣いている夏芽に対して、コウのように共に濡れることが出来なかった大友の乾いた体が並べられる。その後のバッティングセンターでのやり取りにおいて、今度は大友から夏芽にアイスキャンディーを手渡す。が、夏芽はそれを拒否するのだ。果たして、「氷」が溶けて「水」になることは決して無いのだろうと、観客の誰しもが、哀しくも予感する他になかった。

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演じる重岡大毅ジャニーズWESTのメンバーらしく、不勉強ながら本作で初めて認識した。そして、彼の芝居がすこぶる素晴らしい。こんなにペルソナを感じさせないキャラクターも珍しいのではないだろうか。「神さん」ではないぼくらにとっては、この大友という「普通」の男に感情移入せざるを得ない。大友はコウのようなカリスマ性もなければ顔ペロもしないし海中遊泳することもないが、恋をしているという「きらめき」と「ときめき」が、彼のショットには備わっている。もしかするとその想いは、コウのソレよりも深く、尊いものかもしれない。だからこそ、大友に終始漂う切なさは歯痒く、「俺たち側」の青春の苦味が痛々しく反映されている。

その痛々しさが爆発し、尚且つ救済としても描かれるカラオケのシーンは、誰が何と言おうと本作屈指の名場面である。ぼくは「泣かせる映画」が大嫌いで、とは言え「泣ける映画」には滅法弱い泣き虫野郎なのだが、少しばかり自分でも信じられないほどに、泣けてしまった。山戸作品では『おとぎ話みたい』然り、しばしばカラオケが登場することが特徴として挙げられる。それが『ラブ&ポップ』へのファナティックなオマージュである以前に、音楽による救済という意味の重要度において、この大友の歌唱に勝るカタルシスは、彼女のフィルモグラフィ上で類を見ない。思い出すのも辛い、或いは思い出さずにはいられない、あらゆる恋や失恋の記憶は、このシーンで涙するための前菜だったのか!と錯覚するほどだった。ここで初めて、大友は「水」と遭遇を果たす。彼の目から滴り落ちる液体が、僕にはこの映画の中の、どの「水」よりも美しく見えた。

 

(恐らく、この文章が書き終えるまでの何処にも挿入させることが出来ず、話が横道に逸れて余談になるので括弧書きで記すことをご容赦いただきたい。本作は終始、音楽が鳴り響いている映画である。そして、私見するだに本作の果てしないレヴューの中で果てしなく言及されているのは、この音楽の使われ方の凡庸さである。確かに、本作の音楽は緩急作用を起こすには程遠い鳴り響き方で、それはつまり、長回しの画を最後まで見せるための飾りのように見えてしまうのだという。あまりにも記号化されたポップチューンが画とミスマッチしている箇所も存在している。ポスプロ段階で急遽無理くりに曲を加えたようだ。そんな評が少なくはなかった。

果たして、その通りなのだろうか。ぼくは断固『溺れるナイフ』を擁護したい。音楽は凡庸かもしれないが、それは欠点ではない。音楽と、この恋物語との美しい出逢いは成功している。それはまるで、映画自体が終始、喜んだり、哀しんだり、怒ったり、楽しんだりしているかのようで、夏芽とコウの恋を祝福しているかのように感じられるからだ。その衝動に、正当性なぞ必要か。音楽は趣くままに、過剰に、暴れ回ればいい。

狂気に近い独断だが、ぼくは恋をしている時に音楽が鳴らない・聞こえない人間は、そもそも恋をしていないと思っている。それは幾多の恋愛映画(近年ならば『(500)日のサマー』(2009年/マーク・ウェブ)が凡例だろう)において提示され続けた一種の定義であるし、何よりも、実際にぼくらが恋をする時がそうであるから、それ以上でも以下でもない。恋愛映画で音楽が鳴っている時、それは本来こう鳴るべきだ、と揶揄するのはナンセンスだ。或いは、それは戦争映画にも同じことが言えるのかもしれない。恋愛も戦争も、「正しさ」では説明できない感情で埋め尽くされている。キレイ、ウルサイ、ヘタクソ、セツナイ、グチャグチャと耳が感じるのならば、それは"そういう恋愛"だということなのだ。

これまでのフィルモグラフィを常々音楽に重きを置いて歩んできた山戸結希にとって、超純粋に「メジャーデビュー作だし、いつもより綺麗な音楽をたくさん鳴らしたい!」という衝動は至極真っ当な感情だと思うし、劇伴と相反して、川のせせらぎや木々を通り抜ける風などの自然音が心地よく、この青春のきらめきを倍増させている。メリハリはしっかり効いているじゃないか。そして何よりも、本作の特筆すべきシーンが「カラオケ」による絶唱であり、それが登場人物への救済であるという美麗な回答は、ただ歴然と素晴らしい。愛の叫びは伝染し、この映画のラストも愛の叫びで幕を下ろす。あの叫びが実に音楽的な感覚に満ちていると思うのだが、長くなってしまったので括弧を閉じる。)

 

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重岡大毅を筆頭(?)に、本作は主要登場人物のキャスティングも見事だ。とは言え、小松菜奈菅田将暉が同一ショットに存在しているだけで『ディストラクション・ベイビーズ』(2016年/真利子哲也)の不穏な空気を想起してしまうが、それが杞憂に過ぎないほど夏芽とコウはフォーリン・ラヴしていた。役者ってスゲェなあ(ちなみに、本作と『ディストラクション・ベイビーズ』は祭り映画としても繋がるのだから興味深い)。

冒頭、小松菜奈が車内の後部座席で見せるけだるい表情は、まるで実写版『千と千尋の神隠し』(2001年/宮崎駿)のようで、そう言えばトンネルが出てきたり、神さんのメタファーとしてのコウだったり、千尋とハクのエピソードにおける「水」のイメージだったり、ガチ『千と千尋』ライクな箇所は随所に存在する。まさか確信犯だろうか。

車中で変態オジンにヘッドロックかます姿にはサムズアップしてしまい、そうそう、小松菜奈は静より動が活きるんじゃ!と『ディストラクション・ベイビーズ』の際にも味わった快感を思い出した(『ディストラクション・ベイビーズ』でも小松菜奈は車の中で散々な目に逢うので、小松菜奈が車の中で何か酷い目に遭う映画は傑作説を宇宙でただ一人提言しておきたい)。

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菅田将暉演じるコウは彼にとっての最高傑作であり、ベストアクトだと思う(ま、いつだって菅田きゅんはベストアクトなんだが)。神々しいコウという非現実的な人物に説得力を持たせるのは、並大抵の役者には容易ではない。しかし、菅田将暉の肉体性と身体能力、そして何より美しい顔が総ての説得力を呼び起こす。語弊を招かぬように記すつもりだが、菅田将暉の顔が持つ純粋な美しさは、小松菜奈のソレを凌駕していると言っていい。つまり、菅田将暉の美しさは(役柄とは矛盾しているが)極めて女性的な魅力であり、コウは実質上のヒロインでありファム・ファタールなのだ。

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上白石萌音演じるカナの、所謂「高校デビュー」の雰囲気は恐ろしく、何気ない言葉の奥底に潜む刃の鋭さに冷や汗を垂らす。上白石萌音は実際の体重を、中学生時の撮影では5キロ増、高校生時では5キロ減量しているらしい。増減のスパンは僅か4日間だというからさすがの女優魂。これは監督からの指示だと言うが、確かにそれくらいの年頃の女子ってのはそんなものだ。この「繊細な変化」こそが少女の少女性たるものだと僕は感じる。だからこそ、そのような視点で演出が施せる山戸結希も、それをソツなくこなしてみせる上白石萌音も、どちらも「少女」故の才能の持ち主だと脱帽してしまう。

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ところで、『溺れるナイフ』の最たる魅力とは、上記で列挙してきた美点もさることながら、本作が持つその「不完全性」だと思っている。なぜ、不完全な映画をベタ褒めしているのか。陳腐な表現で恐縮だが「不完全だから青春」なのである。それは「後悔」と換言しても良い。加えて言えば「不発」という感情も意味している。ぼくは本作を偏愛しているが、完璧な作品だとは全く思わない。むしろ「足りない」作品だと感じている。勿論、『溺れるナイフ』という漫画原作の(2時間の)映像化としては及第点以上の出来である。それでも、山戸結希を追いかけ続けた身としては疑わざるを得ない。このフィルムには、山戸結希の「後悔」が閉じ込められていないか?、と。

言わば第二の処女作でもある本作だが、プロダクション・ノートを拝見するだに、撮影現場は険悪そのものだったという。関係者曰く、監督のコダワリや我の強さが垣間見られ、指示が二転三転するなどして予定していたテイクが撮影できないこともあったとか。大いに結構だと感じる。仲良しこよしでお偉いさん達にペコペコ頭を下げるよりは、鋭い作家性を貫いてワガママに現場を生きてほしい。というより、ぼくは山戸結希をそういう作家だと信じている。彼女が『溺れるナイフ』でメジャーデビューすると見聞きした際に期待したのは、極めて失敬ながら、どうか満足せずに後悔しまくってほしい、という願望だった。これは呪詛の言葉ではない。『溺れるナイフ』には「不発」のスパイスが絶対に必要だと確信していたし、これまでに見たことのない山戸結希によるフラストレーションの吐露を感じたかったからだ。

願いは叶った。僅か17日間の撮影スケジュールでは到底撮り切れないシーンが多々あったと、監督はインタヴューで語る。事もあろうに監督の分身でもある小松菜奈も、どうしても撮りたかったシーンが撮れず「悔しい」思いをしたと答えている。もっとやりたかった。もっと出来ることがあった。『溺れるナイフ』を輝かせているのは、そうした監督や役者陣の「後悔」が、劇中の登場人物たちと激しくリンクしているという、そういう奇跡だ。小松菜奈の後悔は夏芽の後悔だ。菅田将暉の後悔はコウの後悔だ。映画が持つ後悔は監督自身の後悔だ。それらの後悔は、もう二度と戻れない時間が織りなす永久不変な「きらめき」を倍増させる。不発の夏。不発に終わったからこそ、あの一夏は美しい。夏芽とコウにとって。そして、2015年の小松菜奈菅田将暉にとっても。山戸結希にとっても。

ラストシーン、オートバイが角を曲がり、トンネルをくぐるたびに、青春が終結に近付いていく予感が漂う。そして本編は、夏芽とコウのストップモーションで終わりを迎える。まるで、確かにそこにあったものとして、その時間を永遠に切り取るかのように。青春の弔いは、終了する。

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割と嫉妬している。この映画に溺れてしまったからこそ、この完璧な不発感を独占した山戸結希に激しく嫉妬している。俺の嫉妬も、感動も、後悔も、あの立川シネマシティのどよめきと共に永遠に閉じ込められてしまった。ちくしょう。山戸め。何しやがるんだ。あんたのおかげで、最高の気分だよ。

山戸結希が最上級の大きさで叫んだのだから、今度はこちらが、それ以上に大きな声で叫び返したい。