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20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

非・映画愛宣言

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"映画愛"という言葉が嫌いだ。
 
幸せそうな顔で「映画愛」とか「映画の記憶」とかいう奴を見ると、絞め殺してやりたくなる。
 
僕にとって、映画は常に暗い思い出の対象だ。能天気に愛せるようなものじゃなかった。映画館の暗闇は鬱屈を抱えてうずくまるものだった。なんの鬱屈か? それは映画を観に来ていることへの鬱屈である。
 
僕にとって、映画は青春だった。そして青春とはひたすらつまらないものだった。他にも楽しいことがあれば年に三百本も四百本も映画を観ているわけがない。何もやることがなかったから、毎日のようにアテネ・フランセやフィルムセンターの列に並び、池袋新文芸坐や神保町シアターではしごをしていたのだ。暗闇の中、誰とも口をきかず。
 
当然、自分が無為徒食の徒であることくらいは分かっていた。それに気付かないほどのバカじゃない。映画に何かあると信じるほどナイーヴでもない。実際、映画館の人たちがどう信じていようと、映画に人生に対するポジティヴな意味なんかないのだ。それは単に2時間の暇つぶし、時間制の現実逃避でしかない。毎日のように映画を観ているというのは、つまり1年365日が現実逃避であるような人生ということである。誰がそんな生活に誇りを持てものか。
 
だが、僕は映画を観ていたし、今も観つづけている。
 
今も相変わらず他にやることもない。鬱屈も続いている。でも、それだけでもない。思えば映画の中にはいつも、自分の中に押し込めた鬱屈にも触れてくるものがあった。自分の卑小さや、自分のエゴの醜さや、愚かしさや、世間の無理解や世の中の理不尽さにうんざりしたとき、それが誰にとっても同じなのだということを教えてくれるものがあった。たぶん僕にとっても、人生は面倒で辛くて汚らしいものなのだ。
 
僕にとって、映画はそのことを教えてくれるものである。美男美女や無敵のヒーローなんかどうでもいい。ちょっぴりどこかに障害を抱えた人間が周囲の愛に助けられてハッピー・エンドを迎えるなんてものでもない。たぶん、世界はそんな風には動いていない。主人公は障害の重荷におしつぶされ、誰も救うことなどできないだろう。
 
まあ、中には美男美女のラブストーリーに救われる人もいるのだろう。だけど、僕にはそれじゃ足りない。自分の鬱屈を映画に向けざるを得ない人間にとっては、そんなものじゃあ全然足りないのだ。僕を救ってくれるのはエゴイスティックな人間が惨めに死ぬも、善人が報われず、悪が栄えず、誰も救われないような話だ。それはどうしようもない怒りと鬱屈を抱えながら生きているのは自分だけじゃない、と教えてくれるものでもある。
 
"映画愛"なんてセリフをしゃあしゃあと口に出せる奴は絶対に信用しない。僕にとって、映画は愛するものなんかじゃない。それはどす黒く、濁って中の見えない淀みだ。つつくと何が出てくるか分からないけれど、でも手を伸ばさずにはいられない暗闇だ。見たくもないのに目をそらせないもの、好きでもないのにやめられない麻薬だ。それは自分の一部、人生のかけらだ。
 
このブログは、映画館の暗闇にいるとき、どうしようもなく惨めな思いをしていた人間が運営している。映画の誘惑に敗れ続け、敗れる度に、その美麗なる快楽に浸り続けることができる。それを感じられる人にだけ、このブログを捧げる。
 
ということで、挨拶代わりの句点を打つ。
 

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