20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

緊急時代の恋【1】この最低に美しい春を脱いで、やがて夏を着るまで

f:id:IllmaticXanadu:20200414121734j:image志村けんが亡くなったことはね、そりゃあもちろん悲しいけど、アタシ、高木ブーが89歳ってことを知って、なんかそっちの方にすっごいビックリしちゃったんだよね」と、生まれながらに大きな瞳をさらにまん丸とさせた表情で、彼女はスマホをいじっている。

彼女がセブンイレブンで買ってきたホットコーヒーを一口もらう。少し冷めていたが、猫舌のぼくには十分に美味しかった。

ぼくと同じで喫煙者の彼女は、スターバックスのことを「喫茶店のくせにタバコが吸えねえとか絶対に行かねえ。なーにがグランデよ」と罵倒していて、ぼくらは一度もスターバックスでデートしたことがなかった。スターバックスが当面の間、臨時休業することを発表するちょうど5日前、ぼくらは初めてそこでデートをした。ぼくが禁煙をしたのだ。新型ウイルス感染症拡大を受けての決断ではない。ハイライトのパッケージデザインがあまりにも粗末になってしまい、急に欲求が薄れたとでも言うべきか、そんなぼんやりとした理由で禁煙を始めた。彼女は「なにもタバコだけいじめなくてもいいじゃない。だったらインターネットにも『健康への害や悪影響をもたらします』って常に載せるべきだよ。ミクシィには心療内科のバナーがちゃんとぶらさがってたけど」と、ぼくが禁煙すると伝えたときの会話で嘆いていた。赤いマールボロの煙を、吐息と共にもくもくさせながら。

ぼくのわがままで、一緒にスターバックスへ行ってみないかと誘ってみた。彼女は、まずぼくの禁煙に対しては寛容でいてくれたが、「いいよ」という返答を、数秒間だけ渋っていた。きっと彼女がそういった反応をするだろうと予感していたので、思った通りに可愛らしくて安堵してしまった。

彼女はスターバックスでホワイトモカのグランデを飲みながら、一度も美味しいとは口にしなかった。ぼくよりも先に飲み干しながら、「『ファイト・クラブ』でもスタバを爆破しようとしてたじゃん。つまり、ほんとそういうことなのよ」と上唇にミルクを付けながら話していた。

スターバックスのコーヒーがしばらく飲めない。そして、セブンイレブンのコーヒーは、いつどんな時でも絶品だ。

「70歳って、確かにまだまだ若いと思うんだけどさ、でも本当は、いつ亡くなってもおかしくない年齢じゃない? 普通に考えて。アタシって不謹慎かな? 要は志村けんの精力、っていうか生命力がすごかったってことじゃないかな。だってあの人、ずっと女性にモテてたでしょ? すごくダンディで可愛かったわけじゃん。偉大なコメディアンってより、アタシの世代からすると、かっこよくて可愛い独身貴族の代表って感じだったんだよ。高田純次みたいなね。あれ? 高田純次って独身か……な?」

「いや、高田純次は既婚者だよ」

「ありゃ、そうだったか。でもまあ、アタシが言いたいことわかってくれるでしょ?」

「うん。そして高田純次は73歳だね」

「え、ウソ。若っ。やっぱり躁ってアンチエイジング効果があるのかな。ってかアナタ高田純次に詳しくない?」

椎名林檎と対談している映像を見てから好きはなってたよ」

「その理由はナイけど。とにかくさァ、志村けんの死を殊更に悲劇的に報道するじゃん。それで小池百合子が『死をもって我々にコロナの恐ろしさを教えてくれた』とかコメントしちゃってるわけ。いや、めちゃくちゃ論外というかさ。マジでそういう使い方するなよっていう。コロナのオマケでも教訓でもないんだよ志村けんは。消費しちゃダメなんだよ、絶対。面白くてダンディで可愛い70歳の独身貴族が死んじゃったことをさ、もっと、なんていうの、ちゃんと弔うべきなんじゃないかなって。で、高木ブーが89歳って知って、アタシ最低なのかもしれないけど、ビックリしてめちゃくちゃ笑っちゃったの。結局さ、ドリフってみんな元気で若いなーって。アタシ、ドリフってYouTubeでヒゲダンスくらいしか見たことないけど。はは。ねえ、アタシ、笑ってるの変かな」

「ううん。変じゃないよ。都知事は変なおじさんの悪夢にうなされるだろうから」

「ははっ! 百合子、後ろ後ろって!」

付き合う前の彼女は、あまり笑顔を見せない女性だった。根が暗かったという意味ではない。彼女はよく笑っていた。口角が上がると、頬にえくぼができて、真っ白いぴかぴかの歯と桃色の舌が見えるくらいに、大きく口を開いて笑っていた。楽しい話が好きで、愚痴や弱音を吐いたことは一度もなかった。赤いマールボロは、元カレ4番が吸っていたらしい。元々喫煙者ではなかった彼女だったけれど、別れたあとに会った男友達がそれを吸っていて、あらゆる意味で煙が目にしみて、その場で貰いタバコをしたという。それ以来、彼女は喫煙者だ。ぼくは幸いにも、彼女にとって5番目の恋人になった。赤いマールボロではなく、ハイライトを吸っていたのに。あるいは、吸っていたから。「アタシはね、呪われてるんだよ。アイツに。どうせ忘れられないから、解放を拒む生き方を選んじゃったの」彼女は楽しそうに、笑いながらぼくに話していた。

ぼくには、彼女が悲しみを隠しているように見えていた。まるで道化師のように、あまりにも大袈裟に笑顔を演じてみせるからだ。大きな澄んだ瞳の奥からは、深い疲労感が感じられた。彼女はよく笑っていたけれど、「笑顔」を見せない女性だった。ぼくは彼女がギャハハと腹を抱えて笑うたびに、少しずつ悲しくなっていた。たまに、頬杖をついて遠くを見つめている彼女を目撃した。ぼくと目が合うと瞬時に口角を上げて「なあに? 好き?」と冗談交じりでつぶやく。「大嫌いだね」と返した。

ぼくは彼女が好きだった。ぼくらは共通の友人の紹介で、今年の2月に知り合った。つまり、ぼくらはまだ知り合ったばかりで、付き合い始めたばかりだ。友人の職業はナイトクラブのDJで、ぼくも彼女も、友人の店でよく踊っていた。ぼくはひょうきんな性格ではないけれど、音楽が好きで、音楽に合わせて身体を動かすことが好きだった。彼女は幼い頃からピアノを習っていたし、ぼくの何倍も音楽への造詣が深かった。「二人とも趣味が似ているから気が合うかもしれないよ。仲良くなりなよ」と、友人がぼくに彼女を紹介してくれて、彼の店で初めて彼女と話す機会があった。

かなり酔っていた彼女は「音楽が鳴っていても踊れない人は、セックスも絶対にできない人だと思うのね」と言った。「それ、どういう意味?」「音楽に一番近い行為は、セックスだと思うの。だってほら、音楽ってね、聴いていたり演奏している間って、ほんとに死から遠くに行けるんだよ。だからセックスと同じじゃん。それに、楽器を演奏することとさ……ごめんアタシこういうの抵抗ないから言っちゃうけどさ、ほら、お互いの性器を舐め合ったりするのってさ……」ぼくは爆笑してしまった。爆笑しながら「きみはすごいよ。きみに同感するよ。踊ろう」と言った。エロティークな会話によって興奮したわけじゃない。彼女の音楽への信仰心を、ぼくは瞬く間にキャッチできた。ぼくたちは同じだ。同じ星の住人だった。ぼくたちは一緒に踊った。

その夜から、ぼくと彼女は頻繁にクラブで会い続けた。彼女の職業はモデルで、そのことは、くっきりとした目鼻立ちとスラッと伸びた腕や脚を見れば、まったく不思議なことではなかった。「モデルってさ、音楽が鳴っていても、無表情でウォーキングしなきゃならないじゃない。どんなに最高なダンスミュージックが流れていても、踊れないことへのフラストレーションがすっごい生まれちゃうのね。それで、アタシはモデルを始めてからクラブで踊るようになったんだ」「音楽に合わせてランウェイを歩くと、行進みたくなっちゃうよね」「そうなの、だからわざとズラして歩いたりするように言われるわけ。アレは信じられないくらい体力も精神力も使うのよ。その点、トーキョーガールズコレクションなんかは、ほら、もう踊っちゃっていいわけ。モデルも客もみんな、曲に合わせてね。批判するつもりじゃないけど、羨ましくは思うんだよね」「でも、ぼくはガールズ系は苦手だな。ショウというよりはパーティに近くて、ファッションショウの神聖さが無くなりかけてるように感じる。ぼくはウォーキングと音楽のズレにこそ、唯一無二のエレガンスとクールを感じるから」「ねえ、アナタってこういう話もできてしまうの?」「こういう話?」「モデルのアタシの話。音楽だけじゃなくて」「知ったかぶりのレベルだよ。ぼくはキミの話なら、なんだって聞きたいんだ」「無理してない?」「していないし、そんなことは尋ねないでよ」「そうね、ごめん、だってアタシ、嬉しいから。嬉しいだけなの。今度ランウェイを歩くとき、きっとあなたのことを考えるわ」

彼女が歩く予定だったAWファッションショウは中止となった。ぼくは彼女が着る予定だったメゾンのカタログを見せてもらって、可愛くて華麗なプレタポルテの数々を、脳内で彼女に着衣させた。足を運んでこの目で目撃したかった。ショウの夜は、きっとクラブに直行して、歩いた分だけ溜め込まれた欲求を、音楽とアルコールによって発散しただろうに。

彼女は微笑んでいたけれど、明らかに落ち込んでいるのが分かった。彼女はカタログを眺めながら「結局ね、アタシたちの世代って、ブランドに弱いだけなんだよね」と静かにつぶやいた。「向こうのブランド名がついていると、アンダー・ライセンスの日本製でも、なんとなくいいものに見えてきちゃうじゃない。でも、そこに付いているタグを取っちゃったら、絶対売れないよね」ブランドにこだわるなんてことは、バニティーなのかなと考えてしまう。「でも、それで気分が良くなるならいいじゃないか」と、ぼくは彼女に言った。「ブランドが一つのアイデンティティーを示すことは、どこの世界でも共通のことだよ」ふいに、ぼくの母親がバブル全盛期に、どんなに蒸し暑くてもクリスチャン・ディオールのスカーフを首に巻いていたバニティー・フェアな女性であったことを、アルバムの写真を見せてもらって知ったのを思い出した。今は、女の子たちがお洒落に着飾って、この春を謳歌することさえ出来ないでいる。

「今年の夏は海に行けるのかってことが重要なのよ」と、防衛庁の向かい側にあるハリーズ・バーの店内で、彼女は言った。細長いテーブルに二人で横並びに座って、互いにクラフトビールを飲んでいた。その4月の夜は、暖冬だった。ぼくはコートを脱いでもまだ暖房が暑かったので、ニットも脱いでしまおうとしたのだけれど、下に着ているTシャツがディズニーランドのお土産だったことを思い出し、脱ぐのをあきらめた。そもそも、彼女との8回目のデートでそんな格好をしてしまった自分の不甲斐なさに呆れ果ててしまう。でも、ぼくらはそんな友人同士だった。

ぼくがニットを脱ごうと考えた刹那に、彼女は突然、今年の夏についてつぶやいた。ぼくは「海?」と聞き返して、彼女は「そう、海」と答えた。ぼくは直感で、彼女が海そのものについて、本当は考えていないことが分かった。彼女は海に行きたいのではない。水着を着たいのだ。果たして水着を着ることが可能なのかどうかという欲求不満と予期不安が、今まさにぼくらを包み込む蒸し暑さによって無意識のうちにもたらされて、彼女はまず第一に「服を脱ぎ捨てたい」と感じたに違いない。加えて、最近は満足のいく形でモデル業に勤しむことができていない彼女は、「服を着ること」自体に対する陰鬱な感情が徐々に蓄積されつつあったように感じられた。それらの意識が集合体となって、「今年の夏の海」という幻想に結実したと推測することができる。

ここまでの論旨展開において、ぼくは自分が気色の悪いパラノイアと化していることを自覚し、心の中で微笑してしまった。こういった思考も自覚も、今までに一度もなかった。反射的に雷鳴のようなスピードで「彼女は服を脱ぎ捨てたいに違いない」と導き出した自分自身が、不思議なことに誇らしかった。だから、笑ってしまったのだ。

ぼくの方こそが、無意識に考えていたのだ。彼女の裸を。

「アタシは山よりも海が好きだったんだ、小っちゃい頃から。プールでもいいんだけど、でもやっぱり海だよねえ。砂によるエキゾチック効果を過大評価してる。だからちゃんと行きたいなあ、海」
「行こうよ、海。今から」
「え? 今からは無理でしょ? ってか、今は」
「都会にもあるんだよ、海が」
「それってどういう意味?」
「リゾートホテルみたいな内装の部屋があるんだよ、新宿のラブホテルに」
「いやだあ、それレトリックのつもりなの? 最高にダサいじゃん」
「そうだね、自覚してる」
「それに、それは海じゃないわ」
「いや、海だよ。キミと一緒に、海だと想像すれば」
「……わかってるんだけど、聞くね。これからどうしたいの」
「じゃあ、抱きたい」
「……」
「だって、結局はそこに行き着くわけでしょ、最終的に」
「そう言われてしまうと、確かに男の子と女の子の間には、それしかないのかも」
「ずっと前からキミのことが好きだった。愛しているんだ」
「それも最高にダサいじゃん。嬉しいんだけど」
「ぼくはキミの嫌がるようなことはしたくない。だから確認させてほしい」
「確認だなんて、別に。する必要ないわ。それに、嫌がってるわけじゃない」
「珍しく照れていて可愛いね」
「違うよ。嬉しいだけ。そう言ってくれて」
「こんな世の中で、キミに付き合いたいって言ったら、ぼくは非難されてしまうのかもしれない」
「誰によ? ペストが流行っていようが戦争をしていようが、恋はあるじゃない」
「恋が伝染病や戦争のように狂っているからね」
「それに、こんなときだからこそ、アナタのことを考えるもん」
「恋、でいいんだよね?」
「だから、確認なんかしないでよ。アタシは、今の今まで、アナタのことは最高の友達だと思っていた。まだ会ったばかりで、お互いに知らないことも多いし、不安もあるんだけど、これからも一緒にいたいとはずうっと思ってた。思ってたし、今、もっと思えてるわけ」
「ぼくは幸福なタイミングだと思ってるよ。キミと2月に出逢って、3月で互いを理解して、4月に告白をしている。新型ウイルスが感染を拡大させているこの最悪な状況と比例して、ぼくのキミへの想いは強まっていった。世界がこんなにも鬱屈して暗いから、ぼくの肉体も精神もヘルシーにするキミの存在をより欲求するし、キミにとっても、ぼくはそうありたい」
パンデミックが起きていなかったら、アタシのことは好きになっていないの?」
「そういう意味じゃないさ。より一層、キミの大事さと大切さを感じられている。大事で大切なら、こうして外で逢うべきではないのかもしれないし、濃厚接触という意味でキスもセックスもしてはならないのかもしれない。だけど、ぼくは正しく恋ができないよ。というより、正しく恋ができる人間なんて誰もいやしないじゃないか。ぼくの判断は間違っている。でも、間違えた二人の中で正しいと思える瞬間が少しでもあるのなら、ぼくは堂々と間違ってみせたいんだ」
「不要不急、ではなかったよね、お互いが」
「その表現の方がスマートかもしれない。本当に罰当たりな男だけれど、手を握るなと言われると、ぼくは手を握りたくなってしまったんだ」
「コドモみたいね」
「キミは、そうだなあ……大人だったかもしれない。今までも」
「……あのね、アタシ人間関係の中で、いちばんエロティックでヘルシーな関係性って、お互いがセックスしたいってわかってんだけど、絶対にしないって関係だと思うの。一生しないの。今って、何かがやりたいけどできないってことが、すごく怨念的に響いちゃうと思うだけど、そういうのとは全然違う。『アタシたちは誤解や勘違いではなく、はっきりとお互いにやりたいと思っている。言葉にはしていないけど。だけど、やらない。なぜなら友達だから』って時間をね、過ごすわけ。極端に言っちゃうと、そういう時間を楽しむわけ。アタシは、それが大人になることだとも思ってるの」
「人間には抑止力があるよね。もし抑止力が無ければ、オイディプス・コンプレックスによる父親の死体の山が世界中で溢れてしまう。これがやりたい、あれが欲しい、誰々に会いたい、あの子とセックスしたい、そう考えているうちには、本当の愛にはたどり着くことができない。抑止力を学ぶってのは、キミの言う通り大人になることと同義だよ。抑止力をエレガントに楽しむことができるかどうかが、子供と大人の違いなんだ。だからキミのその考えは、恋愛でも性愛でもない、抑止による美しさを説いていて、ぼくも同意したい」
「同意するではなく、同意したいって言ったのには、意味がある?」
「ある」
「……友情か恋愛か性愛か、わからなくなっちゃうことってある? この関係、どうしようって動揺したことってある?」
「あるよ、ぼくだって。ただ、キミに対しての気持ちはわかっているつもりだよ」
「アタシたち、初対面のとき一緒に踊ったね」
「踊ったよ」
「一緒に踊ることができたよね。そのあとも、友達なんだけど、ちょっと気持ちが一線越えちゃったと思い合ってる二人が、なんか一緒に踊れちゃったよね。体が触れ合ったとかじゃなくてさ。結局、同じ曲で踊れちゃった。もうそれで、それだけで充分にセクシーだったし、幸せだったよね」
「幸せだった」
「それは、もうそれだけでちゃんと、素晴らしいことだったよね」
「あたりまえだよ」
「うん。それだけ伝えたかったの。アタシは、それだけでも本当に嬉しかったんだよってことを」
「ありがとう」
「ううん、ありがとう。夏が楽しみになってきた」
「こんなに待ち遠しい夏はないよ」
「ねえ」
「なに?」
「水着買っていいかな、今から」
「あははっ。つまらないことを聞くけど、どうして?」
「だって今から海に行くんでしょ? だったら水着が必要じゃない。あたりまえでしょ」

ぼくらはそのまま、新宿の伊勢丹で本当に水着を購入して、タクシーでホテルへと向かった。タクシー運転手がチューニングしていたカーラジオから、ニュースではなくジョン・コルトレーンが流れていた。マスク姿の運転手は「シートね、アルコール消毒してますからね、一応ね」とにっこりと笑うので、なぜかぼくらもにっこりと微笑んでしまった。もし、ぼくが彼女と初めてセックスするのなら、神様からの託宣を受けたかのように、部屋にはジョン・コルトレーンのBalladsを流していたに違いない。

緊急事態宣言が発令されたのは、この夜から二日後のことだった。

伊勢丹もラブホテルも、臨時休業してしまった。でも、ぼくらはあの夜、あの伊勢丹で購入した水着を着て、あのラブホテルで海を体験したのだ。水着を着てジャグジー風呂ではしゃぐ彼女は、それまでで最も愛らしい表情をしていた。彼女は笑っていた。それだけで、本当にセクシーで、ぼくらはヘルシーだった。

それからしばらくして、久しぶりに二人で新宿に出掛けた。外出自粛要請の最中、あらゆる店が閉まっていたし、まばらに歩く夜の住人たちの数は、あまりにも少なく、尊かった。

ぼくらは、この春を愛でていた。人生のつまらなさを、この春のせいにしてはならないと考えていた。春が終われば、夏が始まる。ぼくが夏に抱く憧れは、彼女となら、そのすべてが可能に思えた。この夏が始まると同時に、恋が始まるかもしれない。この夏が始まると同時に、恋が終わるかもしれない。この夏が始まると同時に、恋が始まりもせず、終わりもしないかもしれない。それがすべてだ。間違いなく。もしぼくが記憶喪失になっても、この最低に美しい春と、やがて訪れる夏についての記憶だけは、絶対に忘れたくないと、思った。

 

【2】につづく。

※このお話は、人生のように一部がフィクションです。