20世紀ゲネラールプローベ

電影永年私財法を発布するべくゲネプロ中の備忘録。

排水口の出現、排気口の循環(または、ミナミの方から香水の音色が)【排気口『いそいでおさえる嘔気じゃない』雑感】

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『香水』という曲が孕む危険性について、21世紀の日本人は果てしなく無防備だ。ここで唄われている失恋の痛みと安いノスタルジーには、鬱病の誘因となり得る要素が金太郎飴のように詰め込まれている。というより、そもそもノスタルジーやトラウマは、陰鬱の因子を追尾的に発生させかねない。『香水』の罪深さは、甘っちょろい即席のノスタルジアを、ギター演奏のみでメロウに仕上げつつ、凡庸な表現性の一端も見られない言語感覚で通底させていることに他ならない。つまり、一般層から「消費されやすい」姿をしている。

曰く「"別に"君を求めてないけど」「横に"いられると"思い出す」「その"香水のせいだよ"」である。これらの男性主観は、あたかも自分にはアカウンタビリティが無いことを主張しながら、すべてを相手の所為にすることへ何ら葛藤がない。こんなものはラブソングではない。甘ったれた男ビッチソングだ。

特に症状を悪化させる可能性が高いのが、女ビッチの姫君、もしくは異性に対してセックス・フレンドの関係性にある者、である。彼らにとって、自身がベクトルを向けている側、対峙している側からの「俺だってちゃんと傷付いているんだよ」という告白は、優れた殺傷能力を備えている。そんなことを、明文化されなくては悟ることも出来なくなってしまったのか、混血列島の猿たちは。

加えて、この曲が巷で流行しているJ-POPであるがゆえに、日常のあらゆる瞬間に、その音が鳴らされる可能性は高い。いつ、どこで、誰にとってトリガーになり得るか。この曲が孕む陰鬱とした誘発効果は、地雷のように足元に埋まっている。これはある種の人間にとってのテロリズムだ。

「ドルチェ&ガッバーナ」という歌詞、特に「ガッバーナ」部分の歌唱法の、恐ろしいほどのダサさについては討論されるべきであるが、ここでは控える。

21世紀の我が国は、呪いへの免疫が明らかに低下している。暴論ではあるが、特にJ-POPが乱発する「勇気」「友情」「愛」「恋」「青春」「キミ」「アタシ」「桜」などという凡庸極まりない言語感覚は、呪詛への防衛本能を著しく低下させる。隠蔽化された呪いは、仮の姿を身に纏い、より消費されやすい姿をして、民たちの首元へ刃物を近付けるのだ。

ここに拍車をかけるのは、言うまでもなく、SNSという退行のための遊具だ。インスタントな呪いに弱体化した暁には、「呪われているのに気付かない、知らぬ間に肉体も精神も蝕み、やがて発症した際には手遅れ」という患者が大量発生することだろう。否、瞬きをしている間に、また一人。

 

排気口の菊地穂波が手掛ける著作物には、インスタント性、ポップカルチャーへの敬愛、あるいはヴェイパーウェイヴ的なアンビエントがあるともいえる。流動的なアーバンレトリックと、飛躍するメタフォリカル、多用される固有名詞、がもたらす、美しき不正解のファンタジア。

彼の書く著作には、「手を離すために手を握る」といったようなアティテュードが通底されており、これが巷間言われる「死」の表象化という行為に直結している。

これらの所作が、仮にも菊地穂波自身による予防線だったとしても、氏の無意味なまでの間違い方は、恍惚するほど甘美である。まず美しいし、面白いのだ。言わずもがな、彼はあらかじめ「誤用」を信仰しているし、それは「間違えてしまう」という業の肯定へと帰結している。

再び仮にも、だが、排気口と『香水』の効能を「喪失のためのレクイエム」と規定した場合、菊地穂波の言語感覚と『香水』の言語感覚を見比べてみるとする。つぶさに考える必要もなく、この両者の呪いへのアジテーションは異なり、また圧倒的に差が開いている。『香水』がリフレインする「ドルチェ&ガッバーナ」という語句と歌唱法には、信仰心が絶無だ。それにまず美しくないし、面白くもない。

 

前述した通り、菊池穂波の綴ることば/文章に付加されているアンビエント性とは、同時に無視への否定を含有している。排気口は「無視をしてもいいが、我々は無視をされた者たちを決して無視しない」というドグマによって、先行的に発生されるはずだった「死」を回避させる。繰り返し参照するのは無礼千万だが、『香水』にはこうした回避能力が絶無であり、逆に自滅の直面へと詐欺的に導く。

排気口が履行する一時的な回避の時間は、漏れなく生者全員に付与された「死」という呪いに対するアゲインストに他ならない。

 

『いそいでおさえる嘔気じゃない』は再演2・新作1の三つの短編からなるオムニバス公演だ。これらに共通する真理は「笑っているとあっという間に何かが喪失され、哀しみに暮れているとあっという間に世界は再生される」という排気口のベーシック・マインドだった。

『明るい私たちのりびんぐでっど』ではゾンビ、『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』では風俗、『右往私達左往』では幽霊たち、といった具合で、分かりやすくキャラクターやエレメントが設定されている。この「よるべない住人たち」は、本公演において大きな意味を含んでいる。そのことに関する言及は、本稿最終ブロックにて後述する。

 

本作が「死」よりも、それまでの公演以上に「喪失」を想起させるのは、排気口元劇団員・田んぼ氏の卒業によるものが高い、ということも指摘しておく。排気口にとって、彼を「喪失」した以降の公演は、本作が初である。彼を知る者も知らない者も、本作に漂う異様なまでの喪失感は、容易くキャッチできるはずだと信じている。

喪失を補完するべく、並外れた生命力と意志を明瞭化したのが、残る排気口の面々であった。彼らとの知己の有無を関係なく、彼らの演技への純粋な絶賛を残しておく。

 

佐藤あきらは三作品すべてに出演しているが、筆者は、本公演における彼の俳優としてのバイタリティを高く評価したい。特に、二作目の『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』のヒデキ、この佐藤あきらは素晴らしい。まるで闇金ウシジマくんの世界から這い出たかのような俗悪なおそろしさは、実生活において絶対に関わりたくない/遭遇したくないと恐怖を想像させる。スタイリングも相まって、ちゃんとその場の空気を停止させる人物像を完成させていた。

同時に、決して間違えてしまう人々を否定しない排気口のアティテュードに沿って、そんな彼のキャラクターへのかすかな悲哀も演技に刻印されている。彼の持つ、異様なまでのアンビバレントは、おそろしい人が感じるおそろしさ、おそろしい人が感じる寂しさを色濃く印象付けることに成功しており、キャスティングの妙にうなった。これはきっと、菊地穂波自身が彼に感じるアンビバレントでもあるだろうし、観客の移入とも共鳴して、忘れられないキャラクター像を創造したと言って過言ではない。

 

坂本和という俳優がもたらす最大の補強性は、やはり「良すぎる声」と「良すぎる滑舌」だろう。この良すぎる音の使い手は、前作『怖くなるまで待っていて』では教師を演じていた。筆者は、声質と観客からの信頼度/移入度というものを関連付けて考えてしまうパラノイアであるが、少なくとも、坂本和は前作においては、観客をその声によって安心させていた。一方、本作で彼が演じる二役は、そのどちらもがクレイジーな住人だ。あのナレーター的な声の良さが、ひとたび狂気の側へと移ると、こんなにも気持ちが悪く可笑しいのかと大変興味深かった。

特に『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』におけるタカシは、(これは観劇後に知ったことであるが)まさかのアテ書きではなかったという不条理に爆笑してしまった。あれこそ、坂本和のための狂気ではあるまいか。というのは称賛である。筆者はタカシが包丁を手にしてバブバブと騒ぐ時間以上に、彼が椅子に腰掛けてヒデキと会話する、あの美しい時間が大好きだった。「飛び道具」たる彼が、文字通り道路に飛び出すオチまで含めて完璧である。

 

ウルトラナイスガイ俳優・小野カズマの圧倒的な存在感と演技力には、意を決して脱帽する。今回はアンタが優勝だ。これは満場一致の賞賛だと思われる。この小野カズマはすごい。ではない。やっぱり小野カズマはすごい俳優だ、なのである。観客の信頼と期待を己に集約させながら、その遥か彼方の次元から虚構を身に纏って飛来する。そして小野カズマの演技を目撃している時間、我々は「虚構とは哀しみによって形成されている」ことを知る。可笑しさに笑う際も、救われなさに同情する際も、漏れなく悲哀が付帯している。小野カズマという俳優それ自身が持つスラップスティック性の所以は、悲壮感から切り離せない。

筆者は本作の小野カズマによって、正確に18回ほど爆笑し、4回ほど泣きそうになった。場末のホスト・サブジの宙を舞うような柔軟性と浮遊性。後半、かつての友情と現在の疎遠、それを彼の発声や表情、佇まいだけで魅せる憂愁。自殺したサラリーマン・ヤスの神経症的な肉体の運動は、やがて「生き辛さ」というハラスメントと克明に呼応し、見ているだけで痛々しくなる。歌唱されるJ-POPの切なさではなく、それが過去に鳴っていた時間、そして未来から鳴り響いていることを示すノンリニアな時間感覚の、ささやかな流動性があまりにも切ない。スラッとした長身に、タキシードもスーツも見事に調和するスタイリングの華麗さ。もちろん、ゾンビハンター松崎の荒唐無稽な風貌も含めて。改めて、排気口の小野カズマが大好きになってしまった。

 

中村ボリは(少なくとも千秋楽においては)見事に安定しており、キャスティングの範囲で考えてみても、彼女以外にあの役が出来ただろうかと疑問が残ってしまう。客演である村上奈々美、森吐瀉物との叫びにも似た掛け合いは、実のところ、中村ボリが軸となって律動されている。この、舞台上における主役/端役のリージョンを保有しない「中心的な安定感」は、筆者が彼女の演技を鑑賞する際には、常に表れている。おせっかいの範疇ではあるが、"ろれつ"に関して、彼女自身は悔やむことが多いと以前話していた。ところが、筆者の私見においては、全く気にならなかった。そもそも、正しく聞き取りやすい発音、という"正しさ"を、筆者は演劇に求めてはいない。早口になったり、音が外れたり、ろれつが回らなかったり、そういったリアルタイムな感情の起伏と事故的なパフォーマンスに、滅法弱い。我々は文字ではなく、ことばを聴きに観劇しているのだ。ぐっちゃぐちゃな心情は、ぐっちゃぐちゃに発話してもらっていいし、つぶさに考えて、中村ボリの音楽的な発話の素晴らしさは、より評価されていい。

前作『怖くなるまで待っていて』におけるラスト、中村ボリは笑いながら泣いてみせる。この名演の余韻に完全にヤられた筆者は、間髪入れずにボリフォロワーになった。彼女は呑みの席で「笑いながら泣くという芝居は誰にでも出来る」とボリボリ言っていた。しかし、それは誤りだ。あの芝居は中村ボリにしかできない。演技の技術力や正解なんてどうでもいい。中村ボリは、中村ボリが演じているものが正解なのだ。本当にいい俳優だと思う。

 

さて、筆者は本公演のための客演を募るワークショップ兼オーディションにオブザーバーとして参加した。単にワークショップを見学した部外者に変わりはないが、そのことから少なくとも、一般的な観客よりも「客演」への期待と移入度が高かったことを告白する。筆者は彼らのことをあらかじめ認識してしまったがゆえに、一体本番では如何なるメタモルフォーゼが繰り広げられるのか、十二分に待望していた。

そういった欲求によって、ここからは客演の演技に着目しつつ、その雑感を書き残しておくこととする。

 

結論、客演参加者を「客演」と総体的に一括りにすることが甚だ失礼なのを承知で、本公演の「客演」は「排気口」への順応に過誤があったと指摘する。

 

はじめに、これは批判でも揶揄でもない。というエクスキューズ自体が、筆者のための予防線でもない。各論としては、客演で参加した俳優たちは各々が有意義に職務を全うしている。したがって、ここから述べることは総論としての過誤について、である。また、排気口それ自体への順応というタームが、本来の意味で必要であるかどうか、その点も論旨展開に沿って考えていきたい。

 

端的に言って、「排気口」と「客演」の最たる相違点は「台詞の発声/発音」である。このことは、音感の優位性を主張するものではないが、排気口において、発声/発音される「音」の抑制や起伏は必要不可欠な特性であると筆者は考える。

たとえば、はっきりと、大声で叫びすぎている発声法は、俳優個人のアドレナリンや演技解釈を抜きにして、あからさまに興味の持続を欠落させる。なぜか。観客に「それが演劇である」というアクチュアルを自覚させるような、「演劇の芝居」の範疇からはみ出ていなかったからだ。そのような発声法には「伝えたい」という俳優の自意識はあっても、キャラクターが「話している」というリアリティラインは著しく阻害される。なぜなら、極論、キャラクターは第四の壁に向かって話しているのではない。キャラクターは、また別のキャラクターに向けて声を届けようとしているのだ。観客に届ける必要は、作劇上は全くない。台詞の一文字一文字が、あるいは言葉の頭文字が「太文字化」しているこの現象は、カッコ書きの「演劇」という予定調和から一歩もはみ出ないのである。

さりとて、この「観客」というやつらへの対応は、一概には定言できない。

 

この点に関して追尾すれば、この「観客に向けられた過剰な発声」の要因として、観客の観劇リテラシー低下、あるいは能動性の失念も挙げておく。観客が自ら声を「聴きに行く」姿勢は崩壊しつつあり、実は各々がカメラ・アイを持った主観であるにも関わらず、観客は安心してサービスを提供「される」側でいる。この受動性こそが諸悪の根源だ、とは言い過ぎかもしれないが、表現を待つのではなく自ら獲得へと向かうこと、内部で完結するのではなく外部へと発信を続けること。それこそが文化の循環なのではないだろうか。演劇は貴様を癒すためのカスタマーサービスではない。

筆者は外野の人間であるがゆえに、こうして生意気な提言をしつつも、小劇場界隈における観客層のインポテンツ加減には呆れ果てている。内輪の褒め合いも仲良しごっこも、自意識過剰なだけの観劇おじさんも観劇おばさんも、即席的なエセ批評も、というかエセ批評さえ無い現状を把握して、心から失望した。特に、観劇おじさん/おばさんへの緩やかな差別心を抱いているため(個別への差別心ではなく、界隈における機能としての差別心)、頼むから年寄りは黙っててくれよ、若者のアソビをいちいち注意すんなファック。とは、あまりにも言い過ぎだが、もし意見や感想があるならば、作り手を向上させるための「おためごかし」のない批評を待ち望んでいる。テメェはそんなに威張れるほどちゃんと観劇できているのか、と、問われれば、貴様よりはマシだと思っている。悔しかったら俺を殺す勢いで何か書いてみろ。そしてその感想を、作り手たちへと間違いなく配達するのだ。

 

と、意図に反して呪詛が蔓延してしまった。新型ファッキンコロナウイルスじゃあるまいし。そしてこのような、醜く不快で下品で頭が悪く、しかもその頭の悪さを堂々と誇示しうる破廉恥さ加減と時代錯誤を露呈する自称・演劇ファンの病は、筆者が片足を突っ込む自主映画界隈においても同様に感染拡大している。彼らにコロリと人が騙されてしまうのも、日本が徹底して平和な証拠だろう。論旨を巻き戻す。

 

「客演」に対して、排気口の面々の発声法とは、最も簡潔に述べれば「唄うように」発音されている。このことは、つぶさに考えて最的確な技法だ。オペレッタやデュエットに近い感覚で、相手のメロディ、コードに順応しながらも、自らの音色を印象深く奏でていく。ひとえに相手が存在する場合、その相手のリアクションに寄り添いながら、相手の音とチューニングを合わせて芝居を展開させている。排気口所属の俳優は、これらの試みに漏れなく成功している。

「はみ出る」ということへの恐れや不安が、全く感じられなかった排気口の面々に対して、「演劇とはこういうものである」という正解が羅列されたのが「客演」の演技だったように感じられた。正解には間違いが無いが、定められた地点から飛躍する躍動感と驚嘆も無い。頭では分かる芝居と、心で分かってしまう芝居というものは、絶対的に違っている。

たとえば初見の観客が、排気口所属の俳優は一体誰なのか、と、判明できないほどの溶け込みについて、さらなる研磨が必要だったのではないだろうか。菊地穂波の書いた物語は、一体どのように読み、どのように発声するべきだったのか。読解力はそのまま、発声法へと連結する。仮に、台本の〆切が遅れてしまっていたとしても、時間は言い訳できないほどに確保されていたはずなのだ。

 

筆者の私見になるが、このことを指摘した人物は、恐らくヴァージン砧主宰の盟友・香椎響子しかいない。彼女の感想と指摘は、筆者と同様の類であり、それはやはり「発音/発声」について批判的であった。計らずも、筆者と彼女は共にワークショップを見学した者同士である。ゆえに、この違和感は我々特有の病理なのか定かではないが、誰かに教示されたような教科書通りの舞台芝居を待ち望んでいたつもりは断じてない。

すなわち、キャストアンサンブルとは、そういった個々の俳優による抑制の技量によって変容していくのだ。

 

このことに関する責任言及は、あらかじめ作・演である菊地穂波本人に向けてのみ発揮される。良い意味で放任的な信頼関係下における演出の術と、菊地穂波語を読解するための台本を読む力、そして解釈を体現する個々のアプローチ、その抑制とコントロールこそが、本公演に付加されるべきメソッドであったと筆者は推論する。

また、これは演出担当の菊地穂波のアカウンタビリティというよりも、5月公演だった予定が延期となった未曾有の状況など、不可抗力によって「過剰接待」が完成してしまった節も推測できる。

筆者が「客演」と邂逅を果たしたのは、3月後半。パンデミック直前のグッドタイミングであった。それから約5ヶ月間。「客演」にとって、本当に長い長い期間だったと思う。

 

ところが、筆者は彼らが排気口のアティテュードに寄り添いながらも、決して同化しなかったという事実に関して、言葉そのものの意味で評価している。

ここに於ける、年齢問わずの若々しさは誠にダイナミズムであるし、総論としての実存よりも各論としての存在表明へと推進する個々の俳優陣の熱量は、気迫という意味においては絶対値を凌駕している。こうした、正しさへと向かいながらも燃えたぎって猛進している状態の俳優を、シニシズムで切り棄てることに、筆者は価値を見出さない。事実、客演の俳優陣が運動している時間、彼らを常に視野におさめようと必死に追いかけたし、一瞬も彼らの芝居に飽きることがなかった。

筆者は「客演」の演技巧者としての見誤りを指摘したいのでない。彼らが「排気口」と同化しなかったことに関するオリジナルな異物感は、ゾンビ・風俗・幽霊といった、日常生活からなんとなく切り離された存在たちを想起させる。まさに、統合することへのよるべなさを感じて右往左往する人々を「無視しない/無視させない」というアティテュードは、総体的な意味で排気口の精神を強く感じさせる。もしも、彼らがいとも容易くアジャストしていたとするならば、似合っていたとするならば、各短編の魅力は半減していたと予想する。

然るに、「排気口であって排気口でない者」が多数出演している本公演は、「人間であって人間でない者」へのロマンティックな眼差しが徹底されたナラティブとの親和性によって、かなり高い水準で帰結できている(ちなみに、風俗に勤しむ人々を非人間扱いしているのではなく、少なくとも、作品内では全員が"人間"を諦めかけている点を指している)。筆者はこの効能について、菊池穂波による明瞭なセンチメンタリズムよりも、排気口・劇団員と客演との「あまりにも本公演にふさわしかった」アンサンブルによる作用が大きかったと考える。

したがって、本公演における「客演」は、彼ら以外にはあり得ない。ということを、私は春から知っていた。我ながらラッキーを掴んだぜ。

 

彼らは排気口ではなく「排水口」であった、という痛烈な皮肉と賛辞をもってして本稿の句点を打とうと思う。ここまで記してきたあらゆる言葉は、再び世界を循環させるために必要な指摘だったと信じて。

 

 

 

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「わたし、あなたのそういうカタイところは矯正したいと思っています」

「ミ、ミナミちゃん?!?!」

「お久しぶりです。浜辺美波です」

「うっわあー、お、お久しゅう……排気口のワークショップ裏口入学のためのテキスト以来の登場じゃないかー……アレがちょっと評判が良かったからって、こうしてまた君が出現することによって、そのお、メタ視点で調子に乗ってるように思われたり、し、しないかなあーなんてね。ハハ、アハハハ」

「何を言ってるんですか。排気口の新作公演も再演が含まれていたのでしょう? わたしたちがリユニオンしてはならない理由はどこにもないじゃない」

「そだね……」

「散々偉そうに書いておいて、急にわたしが声を掛けたら滝のような冷や汗。どうしたんですか? 後ろめたいことでもありましたか? ねえ」

「いや、これはその猛暑によるね、体温並みの夏の暑さによるね、新陳代謝の結果としての汗なのよさ💦」

「排気口の新作公演、さぞかし楽しかったみたいですね」

「う、うん……」

「一緒に行くって、約束、したよね」

「いやあ、そのお……」

「なんで」

「べ、別の人からも誘われてしまってね、仕方なかったんだよ」

「嘘つき。誘ったのはあなたでしょ」

「違うんだよ。ミナミちゃん」

「……恋人が出来たのね」

「ミナミ……」

「いいの。ほんとにね。わたしの幸せはあなたの幸せだもの。それに別に、わたしとあなたってそういう関係でもなかったし。だからいいんだ。愛する人と出逢えたのなら。それって素晴らしいことだよ……でもね。わたしね……」

「ミナミやめてくれ、君のジェラスが真っ黒いオーラとなって表象化されている。『金色のガッシュ』にそんなキャラがいたよな。そうだブラゴだ!宿敵ゾフィーを恫喝する時のブラゴの肉体から出ていたドス黒いオーラそのものだ!ミナミちゃんブラゴになっちゃってるよ!って、ガッシュってミナミちゃんは直撃世代ではない、のかな??」

「阿佐ヶ谷は恋の街なんだって、だからミナミと行きたいんだって。あなたはわたしに話してくれたのに。なのに」

「阿佐ヶ谷が恋の街と言ったのは菊地穂波だよ!」

「どうせあなたも、あの甘えん坊のメガネに同調しているのでしょ」

「メガネって言うなよ!甘えん坊の部分にはエクスキューズしないけども!」

「じゃあなんで恋の街なんて言い方したのよ!わたしに対して!恋人にじゃなくて!」

「それは……」

「……恋人にも言ったんだね」

「ごめん」

「女の子ってね、そういうのだけで恋の仕組みが分かっちゃうんだよ。わたしも見たかったなあ。『明るい私たちのりびんぐでっど』みたいに、一緒に打ち上げ花火を。『サッド・ヴァケイションはなぜ死んだのか』みたいに、一緒に旅行だって行きたかった。ちなみにわたしはじゃらん派。それはそうと『右往私達左往』はお盆前にぴったりな劇だったよね……」

「あれ?もしかしてミナミちゃん、観たの?」

「はい。ひとりでね」

「ごめんって……でもいつ観たの?」

「今」

「今ってキミ、ど、どういうことよ」

「わたし、5次元的情報統合思念体だから、過去も未来も現在も、あらゆる場所へ原子レベルで行き来自由なの」

「キミそんな超人的設定があったの?!?!」

「今は暗殺されたケネディの飛び散った脳味噌を見ながら、火星で火星人と麻雀をしながら、排気口短編公演を観ながら、あなたと話しているのよ」

「なに?!神?!」

「あなた、客演に対して排水口だとかくだらないこと言っていたけど、全員とても素晴らしかったじゃない。排気口への順応? あなたは前からずっとそう!口を開けば世界の中心が排気口みたいな言い方ばっかり!ばっかじゃないの?! 長谷川まるさんのポポちゃんの絶対的な存在感と臨場感!支配力!あの当たり役っぷり!みんな大好きポポちゃん!は、彼女以外考えられないよ!るい乃あゆさんの真面目な雰囲気を逆手に取った逆行する狂気!文学フェティッシュ!るい乃さん!坂本さんから離れて!危ない!亀井理沙さんは前作のププ井をグレードアップさせたような苛立ちの乱反射!怒れば怒るほど輝く!からの港で魅せるかすかな希望の乱反射!四家祐志さんの店長のチョロQ!土下座!ああいう頼りないけど憎めない先輩いた!バイト先に!東雲しのさんの「いっけー!」を忘れられないわたしたちの鼓膜!衣裳も超かわいい!そして時折見せる哀しみの表情が抜群で!泣かないでしのちゃん!森吐瀉物さんのヨチヨチ姿!顔!声!からだ!なんだあの生き物ぜんぶずっと面白い!ボリさんに怒られるの世界一似合ってる!村上奈々子さん!奈々子ちゃん天使!血まみれと頭の三角布かわいい!豊かな表情の中に見え隠れする必死の訴え振り絞る声!ああああああああ!!最高ッ!!こうして今思い出してみても全員ほんっっとに良かった!!!アンタ!!!それでもまーだ排水口とかヌかしやがるのかってんだよアァア!!!?」

「どどど怒涛の同感だよ!ミナミちゃん怒りによって活動弁士よりも饒舌になってるよ!」

「だいたい、排気口がそんなに偉いですか」

「俺が排気口にこだわり過ぎたんだ」

「こだわり過ぎたんじゃなくて、愛し過ぎたんでしょ」

「……」

「男の人って、一度に何人もの人を愛せるのね。女もそうだったらいいのに」

「で、でも良かったね、公演観れてさ。ミナミちゃんはどの短編が好きだった?」

「わたしは"あなたと一緒に"観たかったんだよお!!!」

「……悪かったよ」

愛する人と聴く音は、すべてがラブソングになるんだよ」

「演劇の音も、かい?」

「演劇の音もよ。この世界のあらゆる音は、ああ、自分は今、恋をしているんだなって気付くために鳴っているんだから

「ミナミ……本当にごめん」

「もう謝らないでよ。あなたを責めたいわけじゃない。でも、あなたは自分で自分を欺いている。本当は、ただ純粋に"面白かった"と言いたいはずなのに。他人のせいにして、信じられる何かを向上させるために、その口から呪詛を吐くことをやめられないでいる。まるで、夜にすべきことを昼にしているみたいに

「俺は……俺は呪われているんだ。演劇について"書く"という行為の、残酷さと愚かさに」

「人間は誰しも人に傷付けられて、それで自分を欺いて生きている。それは仕方がないの。お互い様だから。でも、自分を欺いていることを教えてくれるのは自分じゃない。自分に掛かっている呪いがとけると、今度はそれで人の呪いをとくことができるの。ねえ、あなた。夜にすべきことは、夜にすべきなのよ」

「……キミの恋は、夜にすべきことかい」

「夜にすべきことだわ。そしてその夜が来なくたっていいの。夜を待つことは得意だから」

「俺は恋人を愛している。でも、キミの想いはよく分かった。キミはこんな俺のことを、それでも好きでいるのかい?」

「あなたが、あなた自身を欺くことをやめられるまではね。わたしは恋人さんを憎んだりしないわ。だって、あなたの幸せだけを願っているんだから」

「じゃあ……やめたよ」

「うん……偉いよ」

「あのさ」

「ん?」

「もしいつか、もしかすると来年になるかもしれないけれど、それでも、今度また排気口が公演をやるとしたら、そのお、ミナミ、一緒に……」

「心から愛してる人と行ってきて。約束だよ。それにわたし、もう観たんだよ、次の公演」

「え。あ、そうか。未来にも同時存在しているのか。改めてすげえや」

「すごいことになるよ。楽しみのために内緒にしておくけど。本当に素敵な舞台になるの」

「そっかあ、ちゃんとやるんだね。排気口。良かった。楽しみにしておくよ」

「……ねえ」

「ん?」

「最後に夏の思い出、作ってよ?」

「なんだい、突然。花火大会も祭りも無いけれど……」

「ほら、これ着けて」

「え。イヤホン半分こ?」

「しよう。ほーら」

「ああ。ありがとう」

「えっと……これこれ!一緒に聴きたかったんだ。再生っと」

「……これは」

「わたし、この曲好き。特に、♪ドルチェ&ガッバーナの部分!」

「……」

「どんなに耳をつんざくような嫌いな音楽も、愛する人と聴けば上質なラブソングになるのよ」

「……ほんとだ。いい曲だなあ」

「ありがとう。ようやく、夏がはじまったよ」

「やっぱり俺のおかげ?」

「ばか。『香水』のせいだよ」

 

【MULTIVERSE】

誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくい母性のすべてについて教えましょう、というメンドウな誘惑とメンドウな演劇【ヴァージン砧『孕み孕ませ産み産まれ』雑感】

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筆者と主宰の香椎響子は、事もあろうに大親友(と言って過言ではないほどのフィーリングをゲットして、初対面でハイタッチ&ハグした仲なのだ。筆者は異性に対して、彼女以外を指して「オマエ」と読んだことはない。彼女とやっていない/やる予定がないことは、戦争と恋愛と殺害くらいしかない)の関係性に落ち着いている。つまり、本稿は主宰のパーソナリティを認知した人間が記して「しまっている」。この事実は、いささか健全と呼べるものではない。内輪の褒め合い/貶し合いほど、醜い行為は無いからだ。

さりとて、関係性を獲得したからこそ、読み解くことが可能な事象も存在する。本稿は、なるべく第三者による客観的な視点を保持しつつ、それでも尚、劇作家自身のパーソナリティに寄り添う形で執筆することを目指す。

 

筆者のアイデンティティからの指摘になるが、本作『孕み孕ませ産み産まれ』という作品の根幹には、『ローズマリーの赤ちゃん』や『イレイザーヘッド』や『反撥』からの影響が「存在していない」、ということをまずは挙げておく。これらの作品群は、一般的なシネフィル諸氏には明瞭な事実である通り、どれも妊娠への恐怖や不安を描いたマリッジブルー/ニューロティック・スリラーの傑作である。御多分に洩れず、筆者もまた三作品をオールタイムフェイヴァリットに愛好している。

ヴァージン砧の最新公演は、登場人物が妊婦二人、妊娠と出産、さらには母性へと想いや疑念を馳せて、互いにディスカッションの限りを尽くす二人芝居だ。この接見に際して予感されるのは、マリッジブルー/ニューロティック・スリラーの名作群たちからの影響、もしくはそれらへのオマージュが「ある」という、映画ファンなら決して罰が当たらないであろう純粋な思考だった。

にも関わらず、さも当然に作・演の香椎響子は、全くそれらを参照せず、言及もパスティーシュもしないというバイタリティによって、筆者のような映画ファンをひれ伏せさせた。本人に確認していないので推測の範疇を超えることはないが、恐らく100%、彼女はこれらの映画を観ていない。単に認知せずに観ていなかった、という理由も、認知してはいたが参考にはしなかった、という理由も、すべて真空を切る。元ネタになり得る素材を排して、元ネタと同類の新しい作品を生み出してしまう技量の高さに、ひとりの映画ファンとして驚愕した。

 

しかし、「女性の劇作家が書き上げた、妊婦二人による母性への疑念を巡る問答」というキャッチに対して、観客が抱く居心地の悪さというものは決して否定できない。端的に、大きめの主語として扱われる「女性」や「妊婦」「母性」、それらが組み合わさったことへの一般的なインプレッションは「面倒」である。面倒くさそう、という居心地の悪さを感じながら、観客はその「面倒」と対峙することを余儀なくされる。

 

と、こうした論調が引き起こす次なる現象は、筆者の思想がミソジニーやアンチフェミニズムである、という疑惑であり予想かもしれない。曰く「メンドウとは何事か!失礼だろ!」と、自称ウォッチメンが騒ぎ始める予感がしなくもない世界になってしまった。ヒステリーにも近いこの感覚は、さらなる別のメンドウを生み出し、トートロジカルに終わりがない。なので、男女二元論を推奨するつもりは皆無でありつつ、ひとりの個人としてのフェティッシュを述べてしまおう。

筆者は「女性」も「妊婦」も「母性」も、そのどれもがおそろしいし、信じられないし、ロマンティークで、美しいと感じている。

筆者が映画館で映画を観る理由の一つは、大きなスクリーンに映る女優の大きな顔面に対して、おぞましさとエロティークを摂取するためでもある。自分の身の丈よりも巨大な女優のクローズアップが内包している、強度の高いグロテスクとエロティシズムは、他と代替可能なフェティッシュではない。これは祝福でも自慰行為でもなく、単なる呪いだ。

4歳年下の妹を身ごもった母親の腹部が大きく膨れ上がっている様子と接見した際には、あまりにも恐ろしく、ついには手を触れることができなかった。肉体の変容というグロテスクを、周囲の人間が「めでたい現象」として祝福している様子も、気味が悪く、吐き気を覚えた。これは妊婦差別ではない。筆者にとって、こうした肉体への嫌悪感という感情は、トラウマでありオブセッションになっている。

前述したマリッジブルー/ニューロティック・スリラー系の映画を愛好しているのも、母性への飽くなき探究心と興味が、今尚全身にみなぎっているからだ。

筆者にとって「女性・妊婦・母性」と呼ばれるものたちがもたらす感情は、必ずしも陽性の反応ではなく、不気味で、おぞましくて、官能的で、疑い続けている対象である。

 

本作においても、それと全く同じとまでは言わないが、妊婦や母性への「一般論」はシャットアウトされながら、スムースにグロテスクへと論旨展開が遂行される。たとえば、序盤で披露される「セックスにおける体位と産まれてくる子どもの関係性」のエピソードは、内容のフレッシュな痛快さ、スピード感溢れる俳優陣の熱演、そしてあまりにもオリジナルな言語感覚をもってして、一気に惹きつけられる。こういった台詞が書けてしまうことへの、筆者の香椎響子への信頼は厚い。

ここで描かれる妊婦二人は、かろうじて自立しながらも、果てしなく戸惑い続けている。

片方の妊婦が発する「産みましょうよ」という台詞は、もう片方の妊婦が「産みたくない」と懇願したから発話されている。この状況下において、めでたさや祝福は希薄化される。本作に通底する「面倒」な印象は至極当然の感情であって、否定や非難されるべきものではない。要するに、「女性」も「妊婦」も「母性」も、ちゃんと「面倒」なのだ。まずはその感情から幻想へと逃避しなかった、作家の負の強度に対して賞賛したい。何から何まで、少しでもネガティヴな姿勢を見せると全否定されるファックオフな世界は、小劇場にはいらない。面倒なものは面倒なのだと、真っ直ぐに突き詰めてほしい。それこそがアクチュアリティであり、その解答を模索する行為自体が演劇であり観劇に他ならない。

香椎響子の著作には、そういった本音のことばが無防備に散布されている。そこには、貴様のマスターベーションのためのファンタジーも無ければ、チャリティショー的な欺瞞も絶無だ。建前に殺されかかっている人々を、本音を駆使してどうにか救いあげたいという衝動が疾走し続けている。香椎響子が本作で選定したテーマそれ自体が、彼女のそのようなことばたちを待っていたかのように躍動し、うずく。この一見メンドウでセンチメンタルにも思える作品は、実のところ「女性・妊婦・母性」へのブラインドされた真実を、克明に観客へと伝播させるために鼓動している。誰かにとっての祝福は、誰かにとっての呪いなのだと。

 

前作『ポップコーンの害について』も、語弊を招くつもりは無く、果てしなく「面倒」な作品だった。インターネットで体得したことばたちによって、インターネットで呪われた者たちの悪魔祓いを完遂するという、そのあまりにもメンドウな所業は、アンニュイやメンタルヘルスという鬱屈性に着目するべきではなく、誠に評価すべき爽快感に満ちていた。

こうした除霊a.k.a浄化にも似た構造は、香椎響子の著作には必ず見られる。彼女のパブリシティ上のエクスキューズは「今もどこかで傷ついている人を救いたい」というご立派な人命救助精神だろう。

しかしながら、こうして彼女が試みている除霊の所作は、ベクトルが彼女自身へと向いていることも指摘しなくてはならない。これはメンタリティ上の特徴であって、決して否定されるべきものではない。加えて、才人に許された自慰性の美麗さに対しては、表現に呪われた者が異議を唱えるべきではない。彼女のことばは、究極的には彼女自身にも投げ掛けられており、それを公然化するのは、「彼女自身=あなた」のためでもあるからだ。あらゆる表現がそうであるように、香椎響子の作品も、漏れなく「99人」のためではなく「たったひとりのあなた1人」のために創作されているといえる。

 

前作が一人芝居だったことに対して、本作は二人芝居の演劇へとカムフラージュを遂げている(ちなみに、次作は三人芝居らしい)。たった一名の増員、ではあるが、香椎響子の紡ぐことばにとって、これは大きな差だ。

彼女の書くことばは基本的に、呪詛/祝福の作用を持っている。その効果が最も色濃く発揮されるのは、ポエトリーリーディングライクの「一人語り」である。一人であるということがもたらす多人数性は、匿名性を獲得すると同時に、ことばそれ自体の残酷さと強度を倍増させている。「もうそこにはいない人物」への想いや怨念がダイレクトに乱射される清々しさは、前作を観た者には容易く享受されるはずだ。率直に述べれば、この作法はヒップホップマナーに酷似している。事実、ジャパニーズ・ヒップホップのファナティックを公言している香椎響子は、まるでリリックやヴァースの如き音感を台詞に宿らせることに何ら衒いがない。

一方、本作は二人芝居という構造を以ってして、ヒップホップマナーを遵守する形でMCバトルが繰り広げられる。互いが剥き出しの感情吐露を遂行する上で、明確なリズム/アクセント/イントネーション解釈を忘却することはない。これは会話劇というよりも、目には見えないマイクリレーをしているように思えて仕方ない。まるで8マイル先の「あなた」へと念を飛ばすかのように。こうした香椎響子の便法は、現時点においてヴァージン砧の魅力の一つとなっていることを強く述べておく。

 

この華麗なマイクリレーを魅せた二人の俳優・東雲しの、竹内朋子へのチアーは、両者へのおもねりや世辞を抜きに、最大量で贈らなくてはならない。

東雲しのがもたらすのはカッコ書きの「貧弱さ」だ。筆者は、彼女の芝居を排気口『怖くなるまで待っていて』にて今年1月に拝見した。その際に記した雑感で述べたのは、彼女の「声」の素晴らしさだった。戯画化された強い口調が誘発させる、ツンデレ/サディスティックな侘しさが黄色いジャンパーを着て、次々と登場人物たちに睨みをきかせる。そのリリカルな生命力の所以は、彼女の実年齢や容姿以前に、その声色=音にあると着目した。単刀直入に言って、あの声、で、あの強気な態度、なのである。こうしたケミストリーの発見を容易にこなしてしまうのが、作・演である菊地穂波の健全なスケベ心だと指摘するが、一先ず本題に戻る。

本作における東雲しのは明確に呪われている。という設定自体は、香椎響子の著作において準備体操レベルの設計に過ぎない。特筆すべきは、香椎響子が東雲しのに付与させた「呪われた身」というオプションをもって、彼女を導かれるべき「音」の発生源へと確立させた、という成功例である。排気口の公演における、苛立ちや怒りを纏った彼女の説得力は、本作ではさらに陰性の強度を含みながら増す。ここでは怨念以上の、ナイーブな哀しみが提示される。彼女の顔に浮かぶあきらめにも似たアンニュイな表情は、それ単体よりも、悲壮感を帯びた声が加わることによって、高い利便性を得ている。東雲しのが本作で完遂している「か細い声ではっきりと発音する」という技法は、あざとさのかけらも無い音の響きと同時に、キャラクター内面の表象化をクリアしている。高い音域で発せられた音によるカラ元気なグロテスクさは、可愛さ/陽気さよりも、より一層、彼女のアンニュイを研磨している。

これは筆者の邪推でしかないが、彼女自身のパーソナリティは、実のところハピネスフルな楽天性よりも鬱々としたアンニュイが多分に含まれていると察する。ルッキズムを支持する気は全く無いが、他意なく、彼女のような可憐な容姿が引き寄せる磁場には、いつだって憂鬱が含有されている(容姿の指摘、という行為によって誤解を招きたくないが、東雲しのが俳優であることを考慮して進めてしまう)。例えば「しのちゃんホントかわいいねえ〜」とか「しのちゃんは綺麗で美しいねえ〜」とか、そういった具合だ。ウンザリするだろう。筆者の私見になるが、間違いなく、美しい人は傷付いている。民たちは美を前にして、欲望の殺傷性に拍車をかけてしまう。対象となる本人自身、身に覚えのない欲望のカルマによって、人々が己を欲求し、殺し合う様を見て混迷するしかない。ちなみに、筆者は美しい人に「美しい」と伝えたことは一度たりともない。第一に、本人にとっては最も聞き飽きた台詞であり、第二に、その言葉は「呪い」でしかない。

これを「呪い」と書いてしまうことが不適切だとは思わない。なぜなら、東雲しのも香椎響子も、紛れもなくその「呪い」と対峙した上で表現を試みているからである。我々はあらゆる「呪い」に自覚的にならなくてはならない。それが21世紀のマナーであり生きる術だ。東雲しのがあの役を演じたことは、つまり必然的だったといえる。

こうした指摘が無礼千万に値するのであれば、詫びると共に「東雲しのにはナイーブな憂鬱が似合う」と提言する。

対する竹内朋子の豊かな表現能力の高さについては、陳腐な賛辞ながらも素晴らしいとしか言いようがない。どの場面を切り取ったとしても、本作の竹内朋子の「面白さ」は隔離されない。身体の動きを、きめ細やかに抑制しつつコントロールされたパントマイム的な愉しさは、観客の視線を奪う。彼女の肉体性の安定は、この呪われた時間の中で観客の安堵感を発生させている。安定しているのは彼女の演技巧者としての実力であって、演じられるキャラクター自体はとめどなく不安定であり続ける。

彼女の安定/不安定のバランスによって、例えば実年齢が年下である東雲しのに対して、決して目上の立場から意見を発言せず、対等な意見交換の場を提供することに成功している。一見すると、竹内朋子が東雲しのをさとすようなコンストラクションが予感される本作は、二人の妊婦を通してボーダーレスに母性論が展開されていく。このように、二元論あるいは天使と悪魔のような相対性からかけ離れた地点で繰り広げられる言論の様は、東雲しのの技量と共に、竹内朋子による掛け合いの秀逸さを物語っている。

腕や脚の動き、姿勢や表情筋、指先に至るまで、彼女の的確なマイムの数々には恍惚する。一先ず、演劇を観劇する際に生じる「生身の俳優を間近で目撃する」という行為の魅力は、竹内朋子の安定した不安定さによって担保されている。

加えて、彼女もまた「声=音」の魅力を体得している演者だといえる。東雲しののか細くも高めのキーに対して、押し絞るような必死さの中に紛れ込んだ自意識と優しさが、竹内朋子の発声からは確認できる。この音によるアンサンブルの上品さは、耳の良い作家である香椎響子の勝算だろう。前述の通り、一人芝居で発揮された魔力を、二人芝居の磁場でも発生させることへの飽くなき挑戦が、俳優同士のケミストリーによって結晶化されている。交響的に二つの生きた音を重ね合わせながら、ついに香椎響子は両者にライミングを披露させる。こうしたフロウ感/グルーヴ感の付与は、なんともヴァージン砧らしい。と、第二回公演で観客に言わせしめるほど、音感にこだわりを徹底している。竹内朋子、東雲しの、香椎響子と共にカラオケに行きたい。

 

さて、最終ブロックにおいて、いささか暴力的な筆致になることをご容赦いただきたい。

実のところ、筆者は憤慨している(爆笑しながら)。その理由は「noteに書かれている文章の方が面白い」という類の感想を見聞きしたから、である。

追尾して、ダチを擁護するつもりはないが、筆者はこの凡庸で平和ボケしたぬるま湯のカンソーに対して反論する。

もちろん、香椎響子に対して「二度と公演よりも面白いnoteを書くな」と注意喚起する気はゼロだ。どんどんグロテスクでポップな乱文を量産するべきだと思う。当然だ。筆者の警告の矛先は、観客へと向けられている。

仮に、だ。「香椎響子が書くnoteのように面白いヴァージン砧」に、価値はあるのだろうか。

筆者は、note /日記/ブログと演劇作品が、解離していればいるほど魅力的に感じる。なぜなら、ぞれぞれの分野において使用される「言語/ことば」は異なっており、一方によって補完可能なものであれば、それぞれのフィールドで開戦する必然性は無いと考えられるからだ。演劇のような文章は舞台で披露してもらいたいし、noteに紡がれた感情吐露をそのままシームレスに作劇に流用するのであれば、やはり、それはnoteで完結させれば済むことだ。少なくとも、香椎響子が俳優の生身の肉体を借りてまで「表現」している事柄は、文学的な陰鬱さではなく、音楽的なヒーリングを孕んでいる。であるならば、それは音と肉体とステージによって表象化されるべきなのだ。

ここに於いて、"noteの方が面白かった"という民の甘えは、サッカーより野球が好きだ、サッカーみたいな野球をやってくれと野球選手に懇願していることと等しいといえる。甘えん坊の民たち、特にネチズンによる「引き摺り下ろしたい」という願望に、作者が屈服する必要はない。

筆者は、それぞれに補完能力と互換性が確保されているとしても、本公演とnote は、明確に別離された表象として受容するべきだと考える。別種のことばを行使して展開される各々のアカデミック性とエモーションを、それぞれ異なるものとして楽しめばいいだけだ。「noteは面白いのに」とか「公演は面白いのに」といったようなオプションは、付与すればするほど無駄でしかない。何らオプション抜きに作品単体を評価しろ、とまでは(このファックオフな情報化社会においては)言わないが、少なからず、観客の能動性とは、その努力の賜物なのではないだろうか。

気に入らなかったからすぐ切り捨てる、という作業は、作業であって観劇ではない。そんなことはSNSのブロック/ミュート機能と同じだ。演劇はSNSではない。生身の人間をより密接に感じられる磁場において、我々観客が遵守すべきアティテュードは大前提だ。もう一度言う。演劇はSNSではない。そして貴様のためのファーストフードでもない。食べたいものだけ摂取したいのであれば、当店のメニューをご覧ください。

 

やはり香椎響子はSNSに呪われている。

前作『ポップコーンの害について』の雑感で筆者が指摘した通り、彼女はインターネット時代の子どもであり、SNS時代の子どもではない。インターネットは彼女の武器になるが、SNSは敵軍の殺傷兵器だ。筆者の極論ではあるが、彼女はSNSによって自滅しかねいとすら予感している。

彼女のこの呪いを解くために必要なのは、紛れもなく「作品」である。そしてその作品の一部に、我々のような観客も含まれていることを決して失念してはならない。自縛された自身の精神と、内輪のサイクルに安堵し続けるネチズンたちの、愚かな魔法を溶かしてやるのだ。チョコレートのように。ヴァージン砧には、そういった表現の魔女へと成長する兆しが垣間見られる。

とは言え、筆者は彼女が呪われ続け、悩み苦しみ続けることを心から渇望している。

プライヴェートにおける幸福度のハナシではない。とにかく、どんなに幸せになっても、永遠に逃れられない「おそれ」と共に歩み続けてほしい。香椎さん、あなたが胸の中で、あなた自身で抱えている限り、その「おそれ」からは決して逃げられない。この呪いを祓うために、あなたは作劇という別の呪いで対抗を続けるべきだ。歩き続けてほしい。ドス黒いヴァージンロードを。8マイル先まで。俺はその先では待っていない。アンタの後ろで笑って見てるよ。

 

 

【MULTIVERSE】

無教訓・意味なし演劇の華麗なる意味を求めて三千里、「意味があること」への高度な反論としての『地蔵中毒の人力ネットフリックス vol.1~紅茶の美味しい粘液直飲み専門店』雑感(あるいは、ヴェルタースオリジナルおじさん補完計画)

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地蔵中毒について書くべきことは何一つない。

 
ぼくが初めて地蔵中毒という異教徒との接近を果たし、驚嘆の旨をSNSに投稿するなり「ブログに感想書いてください!」という熱烈なラブコールを、一度ではなく幾度となく頂戴した。そういった声そのものは有難い。映画ファンという異教徒である自分が、演劇という聖域への侵入を許されたような気さえする。しかし、重ねて結論は、地蔵中毒について書くべきことは何一つない。
 
なぜなら、地蔵中毒について「書く」という行為それ自体が、彼らへの失敬と敗北を意味するからだ。よしんば、地蔵中毒の公演を観劇した際に、あまりにも果てしないナンセンスとアイロニーの完璧な設計に思わず泣けてしまったぼくは、「これは間違いなく天才が作った演劇だ」と唇を噛み締めながらダラダラと流血していたわけだけれど、その類の賛辞が、彼らに「似合わない/ふさわしくない」という実感は、芸術を愛する者として十二分に理解しているつもりだ。「地蔵中毒とは天才である」という絶賛の言葉は、まるで無理やり着用させられた七五三の衣装のように、よっぽど「着させられている感」がある。そういった絵に描いたようなあからさまに健全な言葉よりも、「頭おかしい」「狂ってる」「どーかしている」とゲンナリするくらいの反応が、より良く彼らを活気付けることも心得ている。
 
加えて、地蔵中毒が創作するユーモアの根底には、人間や虚構そのものへの「おぞましさ」や「かなしみ」に寄り添う美しさが絶対的に存在している。人間や虚構を、どうしようもなく「あきらめながら」、仕方なく「信じている」。作・演の大谷さんが綴る台詞や物語には、必ずこの磁場が出現している。この磁力に引き寄せられる哀しき獣は、決してぼくだけではないはずだ。そういった磁場の発見を、これ見よがしに報告する行為自体が、作者のしなやかな「粋」に反する醜さであると認識している。ピエロに向かって「キミは心では泣いている」と指摘することに、粋もへったくれもない。指摘した側が容易く敗北する、それだけのことだ。
 
ぼくは地蔵中毒に関して、もはやファナティックな観客のひとりへと成り下がってしまった自負がある。だから、愛すべき彼らへの無礼な真似はしたくないし、決して彼らへの負けを認めたくない。
 
それでも、こうしてキーパンチしながら駄文を記そうと試みたのはなぜか。ぼく自身が、多少の失敬を承知で彼らのことを言語化しなくてはならないと欲求し得たこと、そして、彼らにならば大喜びで敗北を提示して白旗を振りながら捕虜と化すことを望む、からである。結局、書くべきことはオール・ナッシングと記しつつ、この劇団に対する感情を吐露せずにはいられない、という鬱屈したオブセッションは、地蔵中毒を愛する異教徒、並びに我々映画ファンにも理解が簡単な事柄だと思う。人間には、野暮と承知しつつも言葉にせずにはいられない瞬間がある。筆はそのためにある。
 
コロナ禍がもたらした不幸中の幸いは、地蔵中毒の過去公演がストリーミング配信されたという事実以外、特筆すべきことは見当たらない。何よりも、現実は地蔵中毒の作品よりも「遥かにどうかしていて狂っていた」ということは、間違いなく記憶するべき事象である。この配信は赤字補填を目的として、人力ネットフリックスというふざけたネーミングを銘打たれていた(実際、赤字は免れたようで幸い極まりない)。
 
そしてそれは、演劇という非・映像表現を映像化することへの健康的なアゲインストと軽やかなアジャストをもってして、不肖ぼくらのような映画ファンにこそ与えられた最高のオモチャだった。ぼくはそれまで、地蔵中毒の公演を目にしたことは一瞬もない。ぼくが演劇について何かを書くときに繰り返し注釈してしまうことだけれど、映画ファンの端くれであるぼくは、演劇に関するマッピングがほとんど白紙に近い。その上で、異教徒たる演劇への興味を持続させながら、出逢うべき作品や団体との邂逅を遂行している。地蔵中毒の存在は当然のように認知していた。延期となった公演も、もちろん足を運ぶつもりだった。何より、「キミはたぶん地蔵中毒が好きだよ」と、演劇界隈の友人たちから何度も薦められてきた。今回、そうした身分である自分が、地蔵中毒の過去公演を観劇できる機会に巡り合えたのは、造物主のお導きだと思わずにはいられなかった。結果、いくつかの過去公演を通過したぼくは、当たり前のようにこの劇団のファンになっていた。
 
 
 
 
−ラウンジ・タイム#1−
 
「という具合で書き進めているのだけれど、キミ、率直にどう思うかね?」
「いやさ、エッセイストが地蔵中毒とタクシーの運転手との会話を書き始めたら失職の前触れだってよく言うじゃありませんか。こんなに世の中が大変なんですよ? 他に書くべきことはいくらだってあります。そこで地蔵中毒についてって……ちょっと、ねえ……」
「キミみたいな偏見まみれのクソ溜めゴミクズファックオフ野郎が、彼らの絶対的な価値の獲得を妨げるのだ。いいかね。地蔵中毒こそが、真の、最も享受されるべき芸術表現だよ。彼らの天才的な術を、キミもその目で見たじゃないか。ええ?」
「まあ、観ましたけど、観た上でですね……」
「そんな審美眼の持ち主だからパーソナルコンピューターと空気清浄機を間違えて冷凍庫に入れて凍らせてしまうんだ。恥を知ってリア・ディゾンが今どこで何やってるのか教えたまえ!」
「そ、それは知らない……誰も知らない……」
「『誰も知らない』の監督って野田秀樹だっけ?」
「そんなわけないじゃないですか。『学校の怪談3』で人体模型やってた人でしょあの人。確か監督はリュック・ベッソンでしたよ」
「そうか、ベッソンか。キミは亀頭のような小指をしながらも、大変に物知りだな。そうだ、媚薬の生成方法は知っているかね?」
「え、媚薬ですか。一体何に使うんですか」
「キミとのアナルセックスだよ。最近は全然求めてくれないじゃないか。さびしいじゃないか。わびしいじゃないか」
「はあ……流石に媚薬の作り方までは僕も存じ上げてませんで……」
「キミはマクドナルドのキャラクターの泥棒みたいな格好をしたヤツみたいだな」
「紫色のナスみたいなヤツも不気味極まりなかったですね」
「得体が知れない……誰も知らない……」
「僕、 マクドナルドのキャラクターの泥棒みたいな格好をしたヤツと呼ばれるのは自宅に『パルプ・フィクション』と『トレインスポッティング』のポスターを貼っている男よりも屈辱なので、親戚の叔父の従兄弟の妹の彼氏のセフレの通っている明光義塾でバイトしているどエロいチャンネーに媚薬の作り方を聞いてきます!」
「塾講師でどエロいのなら絶対に知っているはずだ。我々のためのミッションだぞ。ゆけゆけ!いっちまえ!」
「すたこらさっさ!」
 
− (暗転)−
 
 
 
他意なく告白してしまうけれど、ぼくは地蔵中毒に対する偏見と誤解を抱いていた。なんとなく、意味もないことを意味もなくやっている、とてもアンダーグラウンドな集団だと勝手に推測していた(ちなみに、同ジャンルであると定義するつもりは皆無だけれど、ゴキブリコンビナートに対しても類似した感覚があったことは認めておきたい)。そういった表現がもたらす一種の虚脱感のようなものを、今の自分には受容できるか自信がなかった。こういった感覚は、演劇の門外漢である自分にとっては不思議なものではない、ということをご理解いただきたい。
 
ところが、そんな予感は邂逅を果たした途端に砕け散った。偏見も誤解も容易に撤回できたし、無知な自分を心から恥じた。地蔵中毒が構築するナンセンス、ユーモア、マジックリアリズム、シュルレリスム、デペイズマンは、あらゆる意味で才覚に富んでいた。経験したことのない「くだらなさ」と「でたらめさ」に襲われた。この「くだらなさ」と「でたらめさ」のセンスは、言葉そのものの意味で常軌を逸している。
 
ぼくは「くだらなさ」や「でたらめさ」のファンダメンタリストである。芸術、もとい演劇や映画は「くだらなくて」「でたらめな」ものであってほしい。「くだらなさ」や「でたらめさ」が無い芸術を蔓延させてはならないと思っている。くだらないことはくだらないんだ、でもそれはすごく高度なことなんだ、と、ぼくらはバランスを保つことよりも、アンバランスな歪さに向かっていく必要があると考えている。完璧なんて求めてはいけない。くだらなさやでたらめさをあらかじめに回避しては、芸術はつまらなくなるに決まっている。地蔵中毒には、それらへの崇高なリスペクトとほとばしる愛が、ぼくなりに明確に感じられた。
 
あらゆる国のあらゆる作家が、同時代的な風俗に知らぬ間におもねってしまっている。だから、不気味さが芸術から失われてしまっているように感じられる。優れた芸術は、影がないくらいに明るくて、その透明さがかえって気味悪かったものだ。あの透明性こそ、今の日本になくてはならない。何処の国にもおさまりがつかない、国籍不明の不気味さが、絶対に必要なのだ。そして、地蔵中毒こそが、ぼくが欲求していた「影がないくらいに明るくて気味の悪い透明」、そのものだった。
 
 
 
−ラウンジ・タイム#2−
 
「これを飲むんです。ヤル前に。そうすると、アソコであろうがアヌスであろうが、すぐにじゅんわりとしてくるんです。透明で、ダイエットマウンテンデューの味がする液体が出ます。アソコやアヌスのびらびらを通って。びらびらを通った、じゅんわりした液体が、カラダの奥底から滲み出てきます」
「男のアヌスにもびらびらはあるのかい」
「あるに決まってるじゃない。あなた自分のカラダのことを何も知らないのね」
「ところで、相手は炭酸飲料が飲めないんだ。だからダイエットマウンテンデューと同じ味というのは、少しばかり心配だな」
「烏龍茶とヤクルトを1:1の割合で混ぜたことはありますか」
「いや」
「もちろん、シェイクした後にステアするのを忘れてはいけません」
「ないよ、そんな飲み方をしたこと」
コーヒーフレッシュを1滴垂らすと、神秘なんです。びらびらを通ったじゅんわりした液体と同じ味になります」
「そうなのか。想像できないな」
「あなた、コーヒーフレッシュと精液をメタフォリカルに連結させて、今、勃起していますね」
「している。しかし、君と話し始めた時から勃起はしているんだ」
「煙草は吸いますか?」
「ああ」
「喫煙者の精液が苦くなるって、あの迷信はちゃんとウソですよ」
「これは徳を得た。ユリイカ。ならば僕の精液を飲んでくれるかい」
「わたしは精液の味が苦手です」
「食わず嫌い王で見たよ。実食の時、君は我慢できずにタカさんの隣でザーメンをドロドロと吐き出してしまっていた」
「トラウマは、発話してしまうとその根深さを増します。もしくは、あの瞬間に克服したのかもしれません。みなさんのおかげでした
「さあ、もういいだろ。僕のペニスを舐めてくれ」
「ペニスを舐める前に、一度ケンタッキーフライドチキンの骨を舐めないと、わたし動脈が破裂してしまうの」
「なんてこった。間違えてシェーキーズのフライドチキンを買ってしまったよ。なんだかクソ不味いと思っていたんだよ」
「では代わりの方法があるわ。ハイネケンの瓶の中に、日清カップヌードルの圧縮合成肉を4粒入れてシェイクして。それでうがいが出来れば、なんとかあなたのペニスを舐められるはず。さあ。早く。急いで」
「わかった………………ああ。瓶を振ったら溢れてしまった」
「ペニスを見て」
「あれ? いつのまに射精している」
「これがファムファタールのテクニックよ」
「こりゃあ、参ったなあ」
 
− (暗転)− 
 
 
 
ぼくが初めて観劇した公演は『つちふまず返却観音』だった。結論から言えば、この作品は自分にとって、演劇作品のオールタイムベストに入る。と、宣言するほどの観劇数を持ち合わせていないものの、自身が念願する「くだらなさ」や「でたらめさ」が、あまりにも素晴らしい純度と技術によって構築されていながら、同時に、あまりにも映画的な感覚に満ちている作品だった。
 
この作品からは、ぼくが敬愛するあらゆるレファレンスを感じ取ることができた。ルイス・ブニュエル、サミュエル・ベケット筒井康隆フェデリコ・フェリーニアレハンドロ・ホドロフスキーガブリエル・ガルシア=マルケスジャン=リュック・ゴダールトマス・ピンチョンカート・ヴォネガット高橋源一郎チャールズ・ブコウスキーモンティ・パイソンなど。作品から漂うそれらの香りに、反射的に嗅覚が反応していた。しかも、それらの「くだらなさ」や「でたらめさ」の設計が、的確な配置によって強固さを保っていた。
 
客演として参加していた日本のラジオ・屋代さんがアフタートークにて仰っていた通り、本作は映像作品としても強固だった。それは、「映画」に最も近いかたちで「活劇」を披露できていたし、とめどないスラップスティック性が見事なまでに俳優陣のアクションと結実していたからに他ならない。ただ饅頭を食べるだけの、その光景を延々と提示し続ける時間には、まるでタルコフスキーアンゲロプロスの神聖な長回しシーンを目撃しているかのような奇跡が起きていた。恥も外聞もなく断言してしまうが、こんな作品、馬鹿には絶対に作れない。天才が作ったとしか思えない。IQ(もしくは運)がめちゃくちゃ高い人間にしか、作ることができない。
 
この感覚は、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』二部作を鑑賞したときと酷似している。一般的に(つまりパンピーの視野において)、『キル・ビル』はタランティーノの好きなものを詰め込んだひっちゃかめっちゃかで奇抜な映画だという評が多く確認できる。肉ばかりで骨がない、といった具合に。さりとて、少しでも映画と接見を果たしてきた人間ならば、あの映画の計算高い完璧なまでの構築力と、ポスト・モダン最終結論と呼べるまでの論旨展開の見事さに、天才が作ったとしか思えないという感覚が残るはずだ。実際、タランティーノのIQは160ある。大谷さんのIQは、一体いくらあるのだろうか。かくして、ぼくは真っ直ぐに「天才」と絶賛を示すことから逃れられない。
 
 
 
 
 
−ラウンジ・タイム#3−
 
※諸事情により、この会話は公安警察とFC2動画運営によって削除されました。
代わりに、筆者の独断と偏見による「地蔵中毒を感じさせる映画作品」をセレクトしましたので、
読者の皆さまにおかれましては、ご理解の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
 


Gremlins 2: The New Batch (1990) Trailer


Mars Attacks [1996] Main Titles Blu-Ray


Federico Fellini - 8 1/2 (New Trailer) - In UK cinemas 1 May 2015 | BFI Release


Le Fantôme de la liberté luis bunuel à la table


Pink Flamingos, live homicide


どですかでん(プレビュー)


The Holy Mountain - Official Trailer | ABKCO Films


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Climax | Official Trailer HD | A24

 
− (暗転)− 
 
 
 
たとえば、演劇作品や劇団それ自体について書くときに、俳優(彼らのことは"役者"ではなく、敢えて前述の通り"俳優"と呼称する)の魅力について綴ってしまうということは、ぼくにとっては内輪的な閉塞感と界隈における戯言のような機能を備えているように感じられる。しかしながら、地蔵中毒の俳優陣は、本当に、本当に素晴らしい。ひとり残らず、漏れなく魅力的な面々が、縦横無尽にアクションを起こしていく様は、誠に「演劇」を「観劇」しているという躍動感に包まれる。こういった瞬間に遭遇した際に、彼らのパーソナリティは宙吊りとなって、(役名は実際の固有名がほとんどにも関わらず)作品内のキャラクターとしての存在感・立体感という圧が、客席へと難無く奇襲する。俳優がキャラクターを演じているという次元ではなく、その場に「虚構」を身にまとった人間が生きているという感覚が場内を支配し、その呼吸音がぼくらに笑いと、失笑と、おそろしさとかなしみを付与していく。ぐちゃぐちゃの人々を見つめながら、次第に観客の心もぐちゃぐちゃにかき乱されていく。その高揚感。多幸感。は、何ものにも代え難い地蔵中毒のオリジナルな才気に他ならない。ぼくらが地蔵中毒ジャンキーへと変貌を遂げることに成功するのは、作・演の大谷さんが売人だとするならば、素晴らしい俳優陣は副作用バチボコな薬であり、並外れに優れた毒のようだからだ。
 
キャストアンサンブルの秀逸さについて、印象深かった事柄を個人の裁量で書き残しておく。
 
徹頭徹尾、ぼくはかませけんたさん、関口オーディンまさおさん、立川がじらさんが何かを発声するたびに、可笑しくてたまらない気持ちになる。もちろん、これは揶揄ではない。三者が備えている「喜劇俳優」としてのポテンシャルの高さは、老若男女共通の「おかしさ」の境地に達していると思う。人を笑わすことへの、気品と技術と愛が感じられる芝居だ。そして、「おかしさ」と「おそろしさ」が表裏一体であるが如く、実はこの三者は恐ろしくもある。そのアクセントが素晴らしい。思えば、かませさんは(これは後述する小野カズマさんが指摘していたことだけれど)時折『ワールド・イズ・マイン』のモンちゃんを彷彿とさせる鋭い眼差しを覗かせるし、関口さんは超絶に人が良さそうな印象とは真逆のベクトルで狂気のペルソナが大声を張り上げるし、がじらさんのあの口調と声色とニヤケ顔がもたらすペテン感には静かな不気味さが垣間見られる。ぼくは、ユーモアの奥に闇を意識させるような芝居が好きだ。闇に潜みながら、光を求めて右往左往する狂人には、それだけのエネルギーとダイナミズムがある。これは暴論だけれど、おもしろい役を演じられる俳優は、おそろしい役を演じることも絶対にできるはずだ。ふつつかながら、この御三方が悪人を演じ切った暁には、御三方とそのキャスティング担当者に、精一杯の祝杯を挙げさせていただきたい。
 
声という側面においても、地蔵中毒の俳優陣は絶妙に職務を全うしている。ぼくは演劇を観劇する際、個人的に最も着目する点は「声」にある。俳優がどのような「音」を出すのか、演出家はその「音」をどのように「発声」させているのか。ライブ会場で生演奏を聴くかのように、視覚と共に聴覚を研ぎ澄まさせる。振り返れば、元々演劇なんて全く観劇したことが無かったぼくが惹かれていった劇団は、排気口、肉汁サイドストーリー、盛夏火、ヴァージン砧、ゴキブリコンビナートといった、どれも発声的調和とコントロールが完遂されていたものばかりだった。映画では「画」に惹かれるけれど、演劇では「音」を摂取したいと願っている。そしてまたもや当たりくじを引いたような趣きに浸りながら、地蔵中毒が作り出す「音」が好きだった。事ここに於いて歴然としていることは、作・演の大谷さんもまた「声」あるいは「発声」についてこだわり抜く作家だということだろう。それは、台詞におけるアクセントの置き方、イントネーションの独自性を聴くだに予想できる。彼と、俳優陣が鳴らす「音」が、ぼくにはたまらなく心地良かった。
 
もっとも、東野良平さんの「声」は、その美声、滑舌、的確なリズム感覚からして特筆すべき「音」のひとつだろう。東野さんの役柄は、たとえば何かを話したりやってみた後に、くっきりとした大声で「〜を〜で〜してみたんだ!」と発声する、みたいな言い回しがあって、ぼくはこの言葉の流れと音のリズムがツボになってしまった。つまるところ、東野さんがパニックになればなるほど、面白くて仕方なかった。彼にコサックダンスや全く無意味な踊りをさせたりする辺りが、観客の望む「キャラクターの困惑」というものをすこぶる承諾している。「はっきりと発声可能なキャラクターがしどろもどろになる」ことへのユーモアを、決して失念してはいない。また、そんな東野さんにこそ、キザだったり不良だったりする人格を当てはめるのも、累乗するかたちで面白味が倍増していく。純朴な狂気。そして、あんなに眼鏡が似合う人はいない(ところで、無意味な踊りで想起したことと言えば、かませさん扮する祭男の舞いもまた印象的で、かませさんご自身はトラウマだとアフタートークでおっしゃっていたけれど、観客のぼくらにとっては、大谷さんの軽快な悪意という感覚があり、他意なくとても楽しく拝見しました。し、残酷なことに、やはり俳優陣が困惑しつつ完遂を試みる勇姿に対して、ぼくら観客は否応なく感動を覚えてしまうのだと改めて感じられた)。
 
エキゾチックな顔立ちのhocotenは、そのボディランゲージによってエロティークを憑依されがちだけれど、彼女の「声」もまた、もっと評価されて良いはずだ。hocotenの発声の美しさは、もちろんエロティークを遂行する際の、色っぽくなまめかしい発話法にも表れており、地蔵中毒におけるあでやかなキャラクターは、彼女以外には考えられない確立した魅力が散見される。しかし、その力量が最も色濃く噴出する時間は、彼女が何かを「叫んだ」とき、である。意味不明な教育概念を咆哮したり、天丼ネタのように重ねられる「やめてよ!」の発声だけで、彼女は作品と観客を関係させていく。彼女は叫ぶことが許されている女優だ。その役柄が被害者であれ加害者であれ、空間を切り裂く腹の底からの音色が、可笑しくも美麗に耳に残ってしまう。あの音を認知している大谷さんが、彼女をボソボソと喋らせたがらないのがよく理解できる。加えて、彼女の「顔」がもたらすデペイズマンについては勝手ながらココ(https://filmarks.com/movies/86970/reviews/75857189)に記したのだけれど、たとえば『ずんだ or not ずんだ』において彼女が演じたお母さん先生や天草四郎といったキャラクターは、その「和」を意識させる衣裳も相まって、西洋の香りが漂いながらも彼女が備える「和との調和性」を克明に証明してみせていた。こうして、彼女に掛け算のように要素を付帯させることでもたらされる異化効果は、地蔵中毒の魅力のひとつであると言って過言ではない。
 
個人的に、声によるアンサンブルの極点を叩き出したのが、『つちふまず返却観音』における小野カズマさんと中村ナツ子さんの共演場面だった。小野カズマさんのスラッとした肉体から発声されるツッコミの鋭さとボケの異常さによって、ぼくら観客の視線と興味は迷わず彼へと向けられる。豊かな身のこなしを行使して、とぼけたような表情を炸裂させながら、どこかでぼくら観客を安堵させている存在でもある。対する中村ナツ子さんは、宝塚オマージュと呼称すること自体が勿体ない、透き通るような力強い声が容易にインパクトをもたらす。まずもって、真っ直ぐにピンと伸びた背筋と立ち方からして脱帽の佇まいだけれど、そこから発せられる音の強さによって、ぼくらは目が離せなくなる。そんな両者がついに対峙する。「火事火事!火事ッ!火事カジッ!」と叫び続ける狂気に対して「どうしたんですかぁ?」と言い残して暗転。この音。この発音。この台詞。このタイミング。完璧すぎる。墓場まで忘却できない音と出逢ったような感覚に、ぼくは笑いながら思わず涙してしまった。
 
 
 
 −ラウンジ・タイム#4
 
「どうしましょう!このままだと世界中の人間がヴェルタースオリジナルのCMのおじいちゃんに侵食されてしまいます!」
「旧エヴァまごころを、君に』の人類補完計画シーンの、一番やっちゃいけないオマージュを現実が始めてしまったな!」
「なんてこった……僕が媚薬を貰いに行って射精なんかしてしまったから……」
「時を同じくして、地蔵中毒について書いていたら、主宰の大谷氏が会社をクビになってしまったじゃないか。ぎゃふん!」
「大谷さんが無職になったと見聞きして、ほくそ笑みながら楽しそうに書いていたじゃないですか。なにがぎゃふんですか。ぎゃふんじゃ済まされませんよ。ぎゃふん!」
「しっかし、つくづく面白いことが転がっているものだなあ、こんなドッポン便所みたいな世の中にも。絶対にますます面白くなるに決まってるぞ。無職で無教訓意味なし演劇なんて、素晴らしきアウトサイダーアートではあるまいか」
「会ったこともない主宰の不幸を蜜の味として楽しまないでください……」
「それはそうと、地蔵中毒について書くという行為は、だし巻きたまごを作るくらいに肉体浪費を伴うな。観劇して感激、ただでさえブレインダメージを受けているというのに、後からその素晴らしさを論じようとすると、まるで正しい言葉が浮かばない。キミの忠告通り、ポスト・コロナ時代におけるAV女優のツイートにリプライする人々について論じるべきだった」
「僕は深田えいみに一度だけ「よーいドンのつもりで、尿意ドン、と言っておしっこしたことある?」とリプしたことがあります」
「彼らがもたらす虚脱的な破壊力は、よっぽど天才の手腕として足立区辺りでも評価されて然るべき功績だ」
「足立区辺りなら、もう評価されてるんじゃないですか」
「足立区をナメんなよ貴様。じゃあ、パプアニューギニア
「ふつうにパプアニューギニアでもウケそうですけどね」
「地蔵中毒は国境を越える」
「……越えるかな」
「もう少しで脱稿する。書き上げたら、キミに推敲と訂正をお願いするよ」
「承知しました。……しかし、先生」
「ん?」
「先生はどうして、地蔵中毒について書こうと思われたんですか? だって、無教訓意味なし演劇ですよ? 意味、ないんですよ? ってか無かったじゃないですか! 意味のないものに意味を見出すって、それって逆張りというかひねくれというか……だって、意味ないんですよ。意味……」
「意味がないことをすることは、意味のあることへの反論なんだよ」
「反論……」
「意味のないことは、意味がないから劣っているだとか間違っているだとか、そんなことはない。無意味、であるということの認識さ。無意味であることへの理解だよ。人間も、人間が作ったあらゆるモノも、その人間を作った神も、皆等しく意味がない。だからこそ、無意味の状態である限り、我々は意味を追い求めることを決してやめない。たとえこの世界にも自分自身にも、意味が無かったとしても、意味が無いと感じている自分が今ここにいるということ、それだけは確かだ。それ以上の意味も、それ以下の意味もない。地蔵中毒こそが、人間の原初的な全裸の姿であって、胎内であって、我々はいつだって"無意味"を認識するために、そこへと向かうんだ。地蔵中毒はこれからも生き続ける。母のように、我々の無意味さを包み込む。私のおじいさんが教えてくれた初めての劇団。それは劇団・地蔵中毒で、 私は4才でした。それは甘くてクリーミーで、こんな素晴らしい劇団を教えてもらえる私は、きっと特別な存在なのだと感じました。今では私がおじいさん。孫に教えてあげるのはもちろん、劇団・地蔵中毒。 なぜなら、彼もまた、特別な存在だからです」
 
− (爆発音)− 
 
− (沈黙)− 
 
− (暗転)− 
 
 
 
とは言え、こうした過剰なまでの賛辞の享受を、地蔵中毒もとい大谷さんが目的としていないことは、作品を観ることによってスムースに把握できる。天才を天才と呼ぶことのよるべなさ。演劇を言語化することの「醜さ」を前にして、シロウトが無教訓・意味なし演劇に関する「意味」や「価値」を説くこと自体が、無礼と敗北に値することは明瞭な事実だ。しかしながら、その「醜さ」を前提としながら、地蔵中毒に一歩でも、否、半歩でも寄り添うかたちで言葉を残す試みをすることで、初めて現出する「美しさ」もまたあるはずだ。「地蔵中毒を言葉で語ること」のどうしようもなさと真正面から対峙して、ぼくら観客は意志表明を目指せねばならない。くだらなくて、でたらめで、意味のないものを、そう言い切るだけで消費してはならない。地蔵中毒がぼくらに誘発させる多幸感は、紛れもなく、高度な技術と、俳優陣の絶えまない努力と、尽きぬ表現への愛ゆえのものだ。褒め称えずに、愛さずにいられるわけがない。
 
大谷さんが書き上げた作品には、潜在的に「罪の意識」が内包されている。それは「演劇を書くこと」に対するアンビバレントな意識と、「物語やフィクション」に対する憧れとあきらめのようなものだと思われる。
 
『つちふまず』のラスト、文字通りに「嘘を本当にすること」へと突入する美しい運動は、彼が心から「物語」へと寄り添っている誠意を感じさせる。「間違ってしまう人々」に対する、肯定でも否定でもない、ただ「存在を認めること」の優しさがみなぎっている。だから大谷さんは、本当はウェルメイドな物語が書ける作家だとぼくは感じる。それでも尚、「褒められたもんじゃない」という意識が、霧のように作品を覆っていることも確かだ。そういった書き手に対して、賞賛の金切り声を贈ること自体がナンセンス極まりない。賞賛すればするほど「いや、そんなに褒められたモンじゃないっスよ」と、距離は遠のき、届くことがない。
 
「無教訓・意味なし」と銘打たれた演劇を言語化する行為の「醜さ」は、地蔵中毒について何か書こうとするたびに露呈される。地蔵中毒は、こうしたぼくの言葉から逃げ続ける。逃げ続けていくのが素晴らしい。天衣無縫で、無責任で、デタラメの限りを尽くしながら、あらゆる観客に己の痕跡を焼き付けていく。混血列島に落とされた「地蔵中毒」という名の未確認生物は、遊撃と逃走を繰り返し、ジグザクな逃走線を描きながら、その才覚を照れ笑いで隠しつつ、こうしてぼくらを虜にしてみせる。
 
そして、トリコロールケーキとの合同公演『懺悔室、充実の4LDK』における、ラストの美しさを失念してはならない。トリコロの今田健太郎さんと大谷さんが、墓石へ肩肘を乗せたまま微動だにしない。その二人の「書き手」を乗せて、出演者一同が墓石を移動させようと押し続ける。力一杯に押す。動かない。それでも、押し続ける。少しずつ、確実に動いていく暮石。まるで「書き手」たちは、彼ら俳優陣の結束した力を信頼しているかのように、全く動かない。この光景は、あまりにもエモーショナルで、映画のクライマックスのような大団円で、もんどり打つほどに美しかった。自分が演劇を観る「意味」が、しっかりとそこにはあった。
 
演劇はものを考えさせるためにあるのではない。考えていたことがぐらぐらと崩れるようなものこそが、ぼくが演劇に求める最たる衝動だ。地蔵中毒は、そういった震源地だ。ぐらぐらと、近づく者を揺れ動かすし、揺れ続けているし、揺れ動いてすらいない。ともすれば、そんな不気味で、くだらなくて、でたらめで、可笑しくて、おそろしくて、かなしくて、ちょっと幸福な、この世界そのものに似た劇団・地蔵中毒への追走は、これからも続く。どんな乗り物に乗っても追い付けないので、ゆっくりと後を追いながら、狂喜乱舞する彼らを見ていたい。もちろん、劇場の座席で。

最近観た映画の備忘録#7(スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスな映画たち)

f:id:IllmaticXanadu:20200520103717j:plainポンヌフの恋人』(1991年/レオス・カラックス)

DVDにて。カラックスは『汚れた血』がオールタイムフェイヴァリットに大好きで、あとは『ホーリー・モーターズ』と『TOKYO!』の『メルド』も大好きで、実はアレックス三部作それ自体への思い入れはそこまで過多しているわけではないけれど、久しぶりに観た本作は、やっぱりどう考えてもスゲー映画で感銘を受けた。こんな映画、マジで一生に一本しか撮れない類のヤツじゃん。あの有名な、フランス革命200年祭で花火ボッカンボッカンなポンヌフで乱舞するドニ・ラヴァンとビノシュのシーンよりも、地下に貼られたビノシュの顔面デカポスターを全部ブチ燃やすシーンが泣ける。カラックスの心の叫びに全映画ファンが共鳴……。世界のすべてとすれ違ったとしても、それでも走り続けたいと願ったカラックスが、最もすれ違いたくなかったビノシュとのすれ違いを経て、映画による再現/復讐/救済/成就まで辿り着く、ラストの「まどろめ、パリ!」へと辿り着く、映画少年とミューズの世界一美しい失恋のカタチ。ヌーヴェルヴァーグの孫と呼ばれたゴダール大好きカラックスが、その失恋の仕方までゴダールと同じになる辺り、宿命とは恐ろしい。取り返しのつかない気持ちは、映画によって取り返せる。恋も失恋も、映画があれば怖くなんかない。面会にやって来たビノシュの顔のヨリ、からの「治らないものはないわ」、からのこぼれ落ちる一粒の涙、オールタイムベストシーンの一つ。どのビノシュよりも、最も美しいビノシュ。ゴダール然り、カラックス然り、やっぱりカレシが撮るカノジョがいちばん綺麗なんでしょうか。『汚れた血』のスカイダイビング同様に、ビノシュにガチで水上スキーさせて無茶させる辺り、とても可愛い。眼帯トラックスーツ姿のビノシュも可愛い。ドニ・ラヴァン、車に足轢かれてたけど大丈夫なん?!としばらく心配しながら観てしまった。映画が最高潮にジョイフルに到達するポンヌフでの二人の再会シーンで幕を下ろさず、ちゃんとビノシュへ怨念をぶつける行為があって、からの、すべてを水に流そうと言いたげな水中落下があるの、カラックスのことを考えると泣けてしまう。カラックスとビノシュが打ち上げた最後の花火。花火そのものが刹那的な事象であるかの如く、アレックス三部作は事実上、カラックスにとって呪われた映画群となった。しかし、事ここにおいて歴然としていることは、カラックスからビノシュへの愛と私怨以上に、本作は製作過程も含めて「呪われまくった映画」であり、若き映画作家にとっての呪いとは、祝福と同義の機能をしていることに他ならない。ということで、借金、撮影延期、どんどん不機嫌になるビノシュといった地獄のようなメイキングも面白い。

f:id:IllmaticXanadu:20200601183136j:plain『ファイアbyルブタン』(2012/ブリュノ・ユラン)

DVDにて。最ッ高オブ最ッ高。自分が好きなもの、愛してやまないもの、恍惚するもの、憧れを抱くもの、興奮するもの、恐ろしいもの、エロいと感じるもの、そして何よりも超絶に美しいと感じるもの、そのすべてが詰め込まれていた。素晴らしい映画と出会うたびに「もしかして、コレって俺のために作られたんじゃね?」とパラノイア的自意識過剰が起きてしまうのだけれど、クリスチャン・ルブタン監修による「FIRE」という芸術が、まさにそれだった。俺の好きなものしか映らない!やっほう!多幸感!やっぴー!以前『ムーラン・ルージュ』や『NINE』の感想でも記した通り、ぼくはキャバレーやバーレスクやストリップへの強烈なオブセッションとフェティッシュを抱いている。豪華絢爛・ゴージャスフルな空間で歌い踊る女性の肉体/裸体に対する憧れと恐怖は、恐らく死ぬまで続く。そんな自分にとって、本作が最上級の歓びに満ちたものだったことは言うまでもない。パリの老舗ナイトクラブ「クレイジーホース」で、たった80日間のみ披露されたルブタン演出のナイトショー。その映像化を試みた本作。音楽にはデヴィッド・リンチも参加していて、実はほとんどリンチ的なヴィジョンや世界観を漂うことができるというのも、彼のファンには果てしなく嬉しい。もう冒頭のヌード美女兵隊たちからして最高のパフォーマンスだし、エロティックだったりサイケデリックだったりポップだったりモダンだったりして、全パフォーマンス漏れなく素晴らしい。圧巻はラスト。『ブレードランナー』のセクサロイドオマージュな女性たちが、やっぴぃやっぴぃ!くれいじぃくれいじぃ!とファンタスティックに歌い踊る映像には、感情それ自体の震撼を経験した。一生観ていられる。一生観ていたい。映像だけでこの多幸感ならば、もし自分が実際のクレイジーホースを観劇してしまったら、泡吹いて昇天してしまうんじゃないか。いやもう絶対死ぬまでに行くぞクレイジーホース。その夢叶うまでは、DVDを購入したので、今後も繰り返し鑑賞しつつ浸り続けたい。なるべく色鮮やかなカクテルを片手に乾杯しながら観ます。

f:id:IllmaticXanadu:20200531062616p:plainアクロス・ザ・ユニバース』(2007年/ジュリー・テイモア)

DVDにて。よしんば「ビートルズの楽曲だけでミュージカル映画を作っていいよ」と言われたら、どの曲をどんな場面で如何にして並べるか誰しもが高度に夢想してしまうことだけれど、それをホントにやりました、ハイ33曲オールビートルズ、どんなもんじゃい、な映画。ミュージカル映画スキー+ビートルズスキー=自分なので、あまりにもちょろく「最高の映画だ!」と好きな映画の一本になっていたけれど、久しく再見できていなかった(と、思っていたけれど、記憶を辿ればダニー・ボイルの『イエスタデイ』を観る前になんとなく観ていたことを思い出した)。見直して観ると、やっぱりビートルズのみが歌唱されるミュージカルってだけで満点ですという甘々な感想になってしまうのだけれど、映像面でも、良い意味で荒唐無稽でサイケデリックでとても楽しかった。映画の文法に重きを置くというよりは、気持ちイイように繋ぐんだい!という健全なでたらめさに好感が持てる。Strawberry Fields Foreverが流れる中、映写映像でアメリカとベトナムを連結してみたり、バーの鏡に映る主人公・ジュード(めちゃフラグネーム)にマックスがオーバーラップしてHey Judeを歌ったり(ジュードの母ちゃんも「彼女のとこ行ってき」と歌うのが可愛い)、I've Just Seen a Faceを歌いながらのボウリングシーンでは、皆テンション上がりすぎて人間ボウリング会場と化してしっちゃかめっちゃかヘルタースケルター、と、ずっと映像が楽しい。舞台装置バコバコ使うぞーい!という勢いで割と機械仕掛けに動くセットが多くて、特にベルトコンベア式の横移動が印象深かった。I Want You (She's So Heavy)を徴兵スローガンと絡めたり、Oh! Darlingの歌詞を使って舞台上で喧嘩したり、ビートルズのこの曲のこの歌詞だから物語が展開するんです!という逆プレハブ方式シナリオ術によって関連性をちゃんと持たせているのも良い。Happiness Is a Warm Gunのシーンでエッチなナース服のお姉さんが5人も登場してエッチに注射を打っていたので加点対象です。吹き替えなし、しかも生録音で挑んだ俳優陣の芝居・歌唱力も素晴らしかった。ヒロインのエヴァン・レイチェル・ウッドは、どうしても『サーティーン』のゴスっ娘とマリリン・マンソンの元カノという、なんだかダークな印象があったのだけれど、本作では心機一転、学生運動に励む純真かつ燃える正統派ヒロインを見事に演じ切っていた(翌年の『レスラー』ではミッキー・ロークの娘、翌々年の『人生万歳!』ではウディ・アレンの分身のジジイと恋仲になったり、なんとなく女優としてのシフトチェンジに挑んだ3年間だったと思う)。主人公のジム・スタージェスペ・ドゥナの元カレだ!ジョー・アンダーソンが演じるヒロインのルーシーの兄貴・マックスがナイスガイで、ちょっとこのキャラクターへの想いは忘れ去れない。ずっと酒飲んでタバコ吸ってひねくれながらも楽観主義で自由なヒッピー青年なのだけれど、要はめっちゃ「俺たち」側なのだ。ガキの頃にビートルズを聴いて、ロックってカッケー!フリーダム!オールユーニードイズラブ!と憧れていた「俺たち」が、あの兄ちゃんへの親近感に集約されている。加えて、「愛こそはすべてさ」と愛する女性に向かって歌うダチの後ろで「彼女は!マジで!お前のことを!愛してるぞおおお!」と歌い叫ぶ彼の優しさに爆泣き。このShe Loves Youの使い方はすごい。これは完全に脱帽。本当にラスト直前の歌唱だけれど、このアンサンブルにめちゃくちゃ胸を打たれてしまった。映画の中でちゃらんぽらんだった人がクライマックスでかっこ良いところ全部持ってくの、あれズルいよね?泣いちゃうじゃん。

f:id:IllmaticXanadu:20200601151345j:plainメリー・ポピンズ』(1964年/ロバート・スティーヴンソン、ハミルトン・S・ラスク)

DVDにて。いつ何度観ても圧倒的に素晴らしすぎるアルティメット・オールタイムベスト。そりゃもちろん、人生や人格形成にあらゆる影響を与えてきたオールタイムベスト級の映画は山のようにあるけれど、仮にも「俺が一番好きな映画は『メリー・ポピンズ』だ!」と豪語してしまっても過言ではないくらいに、何度も観ているし、永遠不滅の愛すべき大切な一本。

とにかく「映画が喜んでいる」という楽しさでみなぎっている。ほとんどドラッグ的な幸福感の連べ打ち。ジュリー・アンドリュースは生きて歌って踊る「幸福」そのもの。ウルトラナイスガイの我らがディック・ヴァン・ダイクは、彼が楽しそうに思い切り踊っているだけで、涙が出るような感動が湧き上がる。本作が名作たる所以は、漏れなく画面に映っているすべての事柄が最高という点もあるけれど、実は物語の深部に込められた想いにこそ、今尚、ぼくらの感情を揺さぶる力がある。

メリー・ポピンズ』は極めて重層的な作品になっている。この映画の主人公はメリー・ポピンズではない。本編内でメリー・ポピンズは、全く成長しない、言わばスーパーヒーロー/超人/天使として君臨する。彼女が救いに降りた人物とは、果たして子供たちだったのだろうか。否、誰よりも成長すべき登場人物がいたはずだ。それは、彼らの厳格で頑固な父親・バンクス氏のことだ。

現実は誠に辛く厳しい。想像すらできない絶望がそこら中で息を潜めている。しかしメリー・ポピンズは子供たちに対して、そんな「現実の厳しさ」を教えるのではなく、「厳しい現実を生き抜くための武器」を与えていく。例えば、面倒くさい片付けは「ゲームのように楽しくやる」、落ち込んだ時は「意味もない言葉を喋ってみる」、貧しく苦しんでいる人を見かけたら「慈悲とお金を恵んであげる」など。メリー・ポピンズは言う。「苦いお薬も、ひとさじのお砂糖さえあれば飲めるようになるわよ」ここでの「苦いお薬」とは「現実」のことを、「ひとさじのお砂糖」とは「笑顔やユーモア」を指している。バートと共に屋上に登った子供たちは「世界を上からの視点と広い視野で見ること」を学ぶ。そしてバートはこうも教える。「お父さんは寂しくて孤独な人なんだ。お父さんは檻に入っている。銀行という形をした檻だよ」バンクス=銀行という洒落は、ここで意味が付帯される。その後のディズニー映画がそうであったように、実は物語がターゲットにしているのは子どもではない。その子供を連れて来た親だ。すなわち、メリー・ポピンズやバートは、子供ではなく、親に向けて間接的に「厳しい現実を生き抜く術」を伝授している。なぜなら、親たちは「厳しい現実」というものを既に知っているからだ。メリー・ポピンズは、親が子供たちに対してどのように教育をするべきか、そして子供を持つ親たちはどのように生きるべきなのかを説き続ける。

メリー・ポピンズ』の真の主人公は父親であるバンクス氏だ。彼は出世こそが男の生きる道だと自らに定め、その固定観念の中で不器用にもがき苦しむことになる。それはまるで「これまでも、これからも、父親とはそうであって然るべき」という自縛の中で、本来最も大切にするべきだったものを見失っているかのようだ。彼に「大切にするべきだったもの」を気付かせたのは、メリー・ポピンズやバートであり、子供たちの優しい心によるものだった。『メリー・ポピンズ』の真の物語は、バンクス氏の苦悩と、その状況からの脱却にある。鮮やかな色調の果てに到来する、あの夜道を歩く惨めな男の後ろ姿たるや。あまりにも、あまりにも切なく、泣けてしまう名ショットだ。それでも歩き続け、社会や時代や固定観念の象徴たる社長や重役の前に立った彼は、子供たちから教わった「魔法の言葉」をつぶやいて成長する。仕事や出世よりも、家族を愛して、一緒に笑って楽しく生きることを、俺は選ぶ!バンクス氏はここで初めて敵対者と逃げずに「闘い」、「勝利」した彼は笑顔で家へと帰宅する。最初は子供たちと共に上げられなかった凧を、今度は家族4人揃って、一緒に……。

本作の公開年である1964年とは、アメリカにビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!の年として重要で、ここで『アクロス・ザ・ユニバース』と本作は繋がってくる。ビートルズアメリカデビュー以降、アメリカはカウンターカルチャーの時代へと突入した。それまでの古臭い固定観念はすべて撤廃し、ラブ&ピースのために若者たちが「闘い」を始めた。そのアゲインストの様子こそ、『アクロス・ザ・ユニバース』で描かれていたベトナム戦争への反対運動だ。バンクス氏の「闘争心」は、まるで歴史を予言するように、現実の若者たちへと伝播していっている。カウンター・カルチャーにとってのメリー・ポピンズこそが、バンクス氏だったのかもしれないと連結させるのは暴論だろうか。

と、あまりにも愛している映画なので初めて改行して記してしまったけれど、まあ、あれです、いつか自分も子を持つ親になったら、絶対に家族でこの映画を観たいということ。メリー・ポピンズが空から降りてこないように、当たり前に子供を愛してあげたいです。そして、ぼくにとっては「映画」こそが、「苦い薬」を飲ませるための「ひとさじの砂糖」であることを、『メリー・ポピンズ』はいつも実感させてくれます。

余談だけれども、いつ観てもペンギンちゃんたちが超絶に可愛い。映画史上最高のペンギン。『メリー・ポピンズ』を観るたびに、脊髄反射的にペンギンに逢いたくなって水族館への欲求が高まるのがやめられない。いやでも『バットマン・リターンズ』のペンギン軍団もすこぶる可愛いくて仕方なかったな……まあいいや!みんなも営業再開した水族館へ行く前に『メリー・ポピンズ』を観よう!(暴論)

f:id:IllmaticXanadu:20200606061706j:plainファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#6(なんとなく読み続けている読者の方は察すると思うのですが、わたしは女優について特に書くことが多く、それは美しい女優へのファナティックな幻想によるものと言うよりは、スクリーン一杯に映る女優の顔に対する、うっすらとしたフォビア(恐怖)があり、その美しさとグロテスクさに、魅惑されながらも脂汗を流してしまう、人生で最も興味を抱く存在だからなのかもしれません。そんなこんなで、今回も女優について書いている感想が多いです)

f:id:IllmaticXanadu:20200528021719j:plain『スキャンダル』(2019年/ジェイ・ローチ)

U-NEXT先行配信にて。観たかったのだけれど劇場鑑賞のタイミングを逃してしまったので配信にて初見。めちゃくちゃ面白かった。『オースティン・パワーズ』シリーズのジェイ・ローチが監督?と疑うほどに、ストレートに社会派やってた。ぼくはこの手のセクハラ告発モノは結構苦手で、というのも、どうしたって女性が酷い目に遭う様子を生々しく見せられるのは、男女関係なく怒りが湧くし嫌悪感を覚えてしまうからだ(同様の理由でレイプ描写も超苦手)。本作も愛しのマーゴット・ロビーがそういうシーンに挑戦するのだけれど、ヒヤヒヤして動悸が激しくなりほんとキツかった。しかし、便宜上「女ナメんな」映画でもある本作は、キモくて最低な男たちへのリベンジ&アゲインストとしてのカタルシスもしっかりと用意されているので、紛うことなきエンターテインメント。観ながら共に「ふっざけんなクソジジイ!!」とムカついた人ほど「ザマア!!」感は強い。セクハラオヤジ、ロジャー・エイルズをジョン・リスゴーが久しぶりに悪意たっぷりに怪演していて、往年の彼のファンには嬉しい芝居だった。加えて、エイルズ自身を単なる悪役・敵役と定型化せずに、アメリカの政治とテレビジョンの癒着関係の、その悲しき犠牲者の側面もある「かわいそうなひと」として哀愁漂わせる着地に導いているのも良かった。エイルズ自身は最低のファックオフ野郎なのに変わりはないけれど、作り手からのキャラクターへの眼差しとしてはとても好感を持てた。エイルズ以上にファックオフなルパート・マードックに、『時計じかけのオレンジ』でマチズモ的象徴みたいなアレックスを演じたマルコム・マクダウェル御大をキャスティングしている辺り、皮肉が効いていてサムズアップ。兎にも角にも、カズ・ヒロ氏による特殊メイクアップが神業の素晴らしさ。画面にシャーリーズ・セロンが登場した瞬間「マジでか」とその変貌ぶりに、あまりにも自然な顔つきに超びっくりした。シャーリーズ・セロンの真ん丸ふっくらした顔つきが、メーガン・ケリーのシャープな骨格に「見えるように」陰影や目の錯覚を利用したその技術は、誠にオスカー受賞にふさわしいとしか言いようがない。カズ・ヒロ氏は現代のディック・スミスだ。もちろん、シャーリーズ・セロン本人も、その発声法からしてほとんどメーガン・ケリー本人の完コピで素晴らしかった。実際のトランプとの映像を、映画ならではの詐術で半強制的にカットバックしてしまう暴力性も良かった。セクハラオヤジのキモ発言に対して、台詞では社交辞令で礼儀正しく対応するも、その実モノローグの声では「クソッ!キモすぎる!」とか言っている描写も面白かった。ケイト・マッキノンはどんな映画でも本当に最高のパフォーマンスを披露する女優で大好きだ。顔もいいし声もいい。『ゴーストバスターズ』でファンになって以来ずっと好きな女優のひとりだけれど、今後もかっけー彼女の活躍が見たい。飾るべき写真を飾れない状況について、耐えるか、逃げるか、それとも闘うか。状況は現在進行形なので、しばらく、まだしばらくこの問題に関しては考え続ける他ない。また、あまりにも地味な演出なのだけれど、終盤でセクハラ告発を決意したメーガン・ケリーに対して、名もなき女性社員が「一杯の水」を差し出すアクションがあり、これはバストサイズからアクション繋ぎしてわざわざ丁寧にロングショットで撮られているのも踏まえて、かなりグッときた。毒入りのコーヒーを飲んで嘔吐していたケリーに対して、辛過ぎて言えなかった過去の傷を癒すように、映画から彼女に授けられた「一杯の水」のように思えたからだ。「大丈夫、あなたも水を飲んでいいのよ」という救いと慈悲。その水を見つめるケリーが、意を決して過去を語ることのエモーショナル。こういう派手でもなんでもない、一見すると見落としがちなスマートな演出をこそ見習っていきたい。

f:id:IllmaticXanadu:20200528022209j:plain 『ジュディ 虹の彼方に』(2019年/ルパート・ゴールド)

U-NEXT先行配信にて。休業前の劇場で滑り込み鑑賞できたけれど、『オズの魔法使』を観たので改めて観た。レニー・ゼルウィガーのドヤ演技博覧会!これに尽きる。ジュディ・ガーランドというよりは、どちらかと言えば娘ライザ・ミネリに似てるじゃん?と思っていたレニー・ゼルウィガーが、ステージで歌唱する際にあのジュディのバッキバキの瞳を完全再現していて超絶すぎた。こりゃ確かに主演女優賞だわ。『シカゴ』でキャサリン・セタ・ジョーンズばかりが褒められたのがよっぽど悔しかったのか、とりあえず良かったねレニー。当たり前のように『オズの魔法使』ファナティックなので、冒頭で黄色いレンガのセットが出てきた時点で泣けた。もちろん、嫌われジュディの一生パートも楽しく観たけれど、どうしても過去ジュディパートをもっと観たかったなあという印象が残ってしまった。と言うか、ビハインド・オブ・『オズの魔法使』を、『ハリウッド・バビロン』的な舞台裏暴露映画を観てみたいと思った(ジュディだけじゃなくマンチキン関連のゴシップネタもめちゃくちゃあるので)。『キャリー』の「おいっちに!おいっちに!」なバカみたいな体操がフェティッシュな映画ファンなので、ちゃんと過去ジュディがダンス・レッスンで「おいっちに!おいっちに!」とバカみたいな振り付けをしていたのは加点対象ですね。ロンドン公演でジュディの世話役をしていたロザリン・ワイルダーさんを演じた女優(ジェシー・バックリー。脳内メモ済み)がめちゃくちゃ綺麗な人で、ちょろいので普通にファンになってしまったし、ロザリンさんがジュディにめちゃくちゃ困り果てつつ陰ながら支えるので、世話役・マネージャー奮闘映画としても素晴らしい。ダンブルドアことマイケル・ガンボンは全然仕事してねーなと感じた。個人的に大変印象に残ったのは、ジュディと子どもたちがクローゼットに入るシーン(ひとりで先に入ったレニー・ゼルウィガーの、暗闇で哀しみを噛みしめる表情も素晴らしい)と、ロンドンの赤い電話ボックスからジュディが娘へ電話を掛けるシーンが対比されているのがとても良かった。別れの象徴のように描かれる同じ箱が、希望と絶望のコントラストで結ばれる構成には涙が出た。その数日後にジュディが棺桶という「箱」に入ることを認知している観客からすると、より一層切ない。こうしてロケーションやアイテムで物事や感情を繋げていく行為がぼくは好きなので、地味ながら概ね楽しい映画だった。ただし、なにがなんでも、あのラストの幕切れは酷すぎる。豪速で欺瞞と偽善にギアチェンジされて、一気に興醒めした。あんなウソのハッピーエンド、ジュディのことを想えば想うほど失礼だよ。加えて、あのゲイマリッジの二人のキャラクターには文句は無いけれど、フィナーレの説得力を保持するだけの演技力を持ったキャスティングをしなくてはならないはずだろう。あの程度の芝居では、レニーのドヤ演技とは全く釣り合わず、映画は宙に浮いたまま何処にも着地せずに、なんとなく終わってしまう。ダメだそんなの。たとえば『ダークナイト』における例の客船爆破選択シークエンスも、乗客を演じた俳優の芝居に全く説得力が無さすぎて、ぼくは未だにピンときていない。脇役にこそ、主要登場人物と張れるだけの「上手い」俳優をキャスティングしてほしい。というのが、近年のハリウッド映画へ抱くぼくの小さなシュプレヒコールなのですが。

f:id:IllmaticXanadu:20200517125809j:imageオズの魔法使』(1939年/ヴィクター・フレミング)

 U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。何もかもが健全に狂っていて最高。セピアカラーからテクニカラーの景色がひろがる瞬間の絶対的多幸感ヤバすぎる。改めて観たら、やっぱりデヴィッド・リンチってこの映画からの影響力莫大なのだなと感じた。『ワイルド・アット・ハート』、と言うか『マルホランド・ドライブ』じゃん。トト名犬すぎる。マンチキンランド楽しすぎる。西の悪い魔女の手下の空飛ぶサルが一斉に飛行するシーンの悪夢感ヤバい。北の良い魔女ことグリンダ、いつ見てもアホで自分勝手で嫌なオンナで可愛いな。ライオンは『CATS』観た後だと、あのCGではなく自在に揺れ動く尻尾とかに感動して、なんだか胸いっぱいになる。「やっぱりおうちがいちばんだわ!」とか、田舎出身者としては、いやカンザスなんか嫌に決まってるだろ、ドロシーの悪夢は続くんだなあとひねくれ思考が働いてしまう。エメラルドシティのショットごとに体毛の色が変わる馬、地味にすごかったな。「どれだけ愛するかではなくて、どれだけ人から愛されるかが大事なのだ」ウーン、泣ける。

f:id:IllmaticXanadu:20200528021502p:plainバッファロー'66』(1998年/ヴィンセント・ギャロ)

U-NEXTにて。オシャレ版『タクシードライバー』。ダメ男と小太りのぽちゃ娘の拉致から始まる恋愛という設定からしてヘンテコなのだけれど、やっぱり面白い。ヴィンセント・ギャロのナルシズムが(良い意味で)キモくて可愛くて、アーティスティックな作風にてらいが無いのも、今になればとても好感が持てる。この作品自体がぼくにとって、なんとなく微妙な位置・距離にあった感覚というのは、たとえば「『バッファロー'66』が好きな自分=オシャレ」という、映画をファッションとして機能させたがるバカを生んだことが多分にあったと思われる(よしんば『アメリ』やウェス・アンダーソンやあらゆるミニシアター系の観客にもそういう層がいることは伺えるけれど、作品単体を純粋に愛している個人を否定しているつもりは微塵もない)。そういう勘違い錯覚幻想ファックオフ野郎とは映画の話なんか一瞬もしたくないのだけれど、とは言え、ひねくれたルサンチマンを忘却して久々に観た本作は、ちゃんと面白かったし好きな映画だった。カメラ位置とかコンテとか、シネフィルに怒られそうな小津オマージュがたくさんあるのも楽しかったし、プログレ音楽の選曲や鳴らし方・魅せ方もいちいち痒いところに手が届く気持ち良さがある。何よりも、既存のコードとは異なるコードで映画を作ってやる、というヴィンセント・ギャロのオリジナル(俺ジナル)なクリエイティビティは、今なお色褪せていない。配役がユニークで、チョイ役で出演しているミッキー・ロークロザンナ・アークエットが、チョイ役ゆえに印象深い(どっちも嫌な役)。ベン・ギャザラとアンジェリカ・ヒューストンが演じる夫婦がずっと頭おかしくて最高。居心地の悪い食卓シーン(特に家族との会食)がある映画は、たとえば『悪魔のいけにえ』とか『ヘレディタリー』然り、それだけで偉い。白眉なのはクリスティーナ・リッチ。あの『アダムス・ファミリー』のウェンズデーちゃん役で世界中のロリコンの症状を発症させた彼女が、ぽちゃぽちゃキュートにまたもや我々を誘惑する。クリスティーナ・リッチは本当に大好きな女優のひとりで、『キャスパー』や『スリーピー・ホロウ』を観てきた自分にとって、文字通り天使のような存在感がある。ボウリング場で彼女が突然、キング・クリムゾンの『Moon Child』に合わせてタップダンスを踊るシーンは、ベタ(とか言うヤツはブッ殺すぞ)なのだけれど大好きすぎる。このタップダンスのシーンは、物語には一ミリも関与しない。映画には「あってもなくてもいいシーン」というものがある。それは、物語の文脈とは切り離された、関係のない時間や空間が切り取られたシーンだ。そして逆説的に、それらのシーンは「あった方がいいシーン」として忘れ去ることができないものがほとんだったりする。映画とは、過去でも未来でも現在でもない、ただ「スクリーンにしか存在しない時間」というものを描くことができるのだ。

f:id:IllmaticXanadu:20200422033557j:plain『午後の網目』(1943年/マヤ・デレン)
DVDにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。なにもかもが悪夢的フェティッシュに満ちていて素晴らしい。デヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』は、実質この映画の3時間版リメイクです。 

f:id:IllmaticXanadu:20200528022221j:plainアイズ・ワイド・シャット』(1999年/スタンリー・キューブリック)

U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。どこまでも現実で、どこまでも夢。目を開いて見る悪夢と、目を閉じている夫婦のアクチュアリティ。裸やセックスというよりは、ニコール・キッドマンがトイレで排泄しているシーンが冒頭にある通り、これは「排泄すること/排泄できないことの悦びとおぞましさ」についての映画だといえる。加えて、抑圧と解放の映画。人間はあらゆる意味で「排泄」をする生き物だ。キューブリックの映画には必ずと言っていいほどトイレ(バスルーム)が登場するけれど、そこには人間の原初的な本質があることを彼は知っている。キューブリックが作品を通して生涯遂行していたことは、人間の本質を暴いてやりたいという衝動に他ならない。友人や奥さんまでもが性的欲求に満ちていて、自分の周囲がセックスに溢れていることを知ったトム・クルーズは、両手をバシン!と叩いて「ちくしょう!俺だってセックスしてやる!」と夜の街を彷徨い歩く。性のオデッセイ。セックス版『2001年宇宙の旅』。フロイト的な夢の論理で紡がれる挿話の数々は、やがて朝を迎えると同時に消えてゆく。まるで、昨日見た夢の内容を忘れてしまうかのように。夫婦のベッドルームには、夜の会話と朝焼けの会話があることをキューブリックもまた知っている。しかし、どんな問題に直面しようとも、夫婦がするべきことはただ一つ。「ファック」。とりあえず喧嘩したらセックスしておけ、という親戚のエロオヤジのような結論になるのがすごいし、それが遺作なのがすごいし、と言うか遺作が乱行パーティのハナシってマジで最高すぎるのだが。ぼくは、もし自分が死ぬ直前に観る映画を一本選ぶとすれば、この『アイズ・ワイド・シャット』だと妄想している。ニコール・キッドマンに「ファック」と言われて生き絶えるなんて、それこそ、人生の本質を表しているようで、とても素敵じゃありませんか。

f:id:IllmaticXanadu:20200529024417j:plainファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#5(緊急事態の解除は自粛期間の終焉ではない、ので、まだまだ自宅で映画を観まくるぞ!とか甘えた幻想を言ってられないくらいには映画館で新作が観たいです。大嫌いなNO MORE映画泥棒のCMを観て、妙な安心感とノスタルジーを感じてしまうのだろうか……だとしたら、それは嫌だな……)

f:id:IllmaticXanadu:20200528051055j:plainSUNNY 強い気持ち・強い愛』(2018/大根仁)

アマプラにて。個人的には『サニー 永遠の仲間たち』がオールタイムフェイヴァリットに大好きな人間なので、この日本版リメイクには拭い切れない違和感がどうしてもあった。とは言え、興味深く観た点も確かにあったし、結構引き裂かれて曖昧な印象にはなってしまっている……。何よりも、劇中で鳴らされる90年代J-POPは、驚嘆するレヴェルで果てしなく映像と合致していない。90年代リアルタイムを知る/知らないの前提は関係なく、あまりにも不細工な選曲、映像素材とのミスマッチ、フェードアウトは聞くに耐えない。たとえば、あの名曲『Reality』が流れる『ラ・ブーム』パロディ名シーンの再構築で、CHARAの『やさしい気持ち』が流れたときは顔から火が出るほど恥ずかしかった(言うまでもなくCHARAは好きです、そのテキトーな使われ方に赤面した)。その後、過去と現在が交錯する映画的マジックとしか言い様のない『サニー』屈指の失恋シーンにおいても、『Reality』ではなく『やさしい気持ち』が、でもなく、アムロちゃんの『SWEET 19 BLUES』が流れる。ごちゃごちゃしている。よしんば、ぼくがオリジナル版主義者だということを隅に置いたとしても、その篠原涼子広瀬すずを捉えたショットのサイズや編集が、なぜそんなアンチ・エモーショナルでテキトーな繋ぎ方ができるのだろうかと疑問に感じるほどに、平坦で凡庸。そして「恥ずかしい」。というか、そもそもオザケンが、やっぱり「恥ずかしい」のだ……。また、中盤で広瀬すずがいじめっ子にお好み焼きを投げつけるシーンがあり、ここはスローモーションとおどけたポージングでスラップスティックに済ませようとするのだけれど、なぜかこのような「歌が流れ出してほしい瞬間」には、本作は小室哲哉による腑抜けた劇伴しか流さない。大根監督は音楽的な編集とサブカルへの博識が感じられる人だった。過去パート導入と同時にコギャルたちによるダンス(ミュージカル)シーンが始まり、その辺は『モテキ』ライクな画に成っていくのだけれど、さりとて、本当に『モテキ』を撮った監督なのだろうか。と、疑うほどの音楽的な配置ミスの数々。この本編映像との不一致な違和感は、音楽的なマッチングやコントロールに長けていた大根監督の仕事とはにわかにも信じ難い「ダサさ」だ。そういった音楽/音楽的な多幸感を排した大根作品には、ちょっと自分は惹かれない。大根さん、本当は『サニー』も90年代J-POPもギャルも好きじゃないのでは……今回は職人監督に徹したと信じますが……。ノスタルジーに目配せしているようでいて、その実ディテールは即物的でしかなく、タイムカプセルのように時間は閉じ込められておらず、なんら実在感はない(マクドナルドの昔のデザインのカップとか確かに懐かしいのだけれど、それには"それ"以外の意味は何も無い)。カルチャーへ言及する台詞も、妙なリアリティラインで喋らせていて、これは口語ではなく文語に近いなと感じた。たとえば「福山雅治オールナイトニッポン」とか「伊藤家の食卓」とか「小沢健二」というワードが台詞として発声されるけれど、劇中の登場人物の「リアルな」口調ならば「福山の〜」「伊藤家」「オザケン」と発せられるのが本来のリアリティラインだと思う。正式名称という呪い。と、なんだか文句が多くなってしまったけれど、まあ、ギャルがいっぱい出ているんだしええじゃないかと、心を無理やり和らげるムーヴを起こしたりもした(実際、ぼくは90年代生まれなので、コギャル文化へのノスタルジーは無く、どちらかといえばプレモダンとしてのフェティッシュな憧れの方が強い。あとギャルは自由でいい。きゃぴきゃぴしているのもとてもいい)。とりわけ、女優陣は皆とても良かった。映画が開始しても中々加速しないなあと腕組みしていると、ミューズ・山本舞香さんが登場した瞬間から、画面が色合いを増して一気に魅力的になる。この山本舞香さんは、文字通りに好演している。山本舞香さんが兼ね備えている「ヤンキー感」は異様な美しさだ。ヤンキーが好きなのではなくて、ヤンキーが似合ってしまう女優は勝手に加点対象となってしまう(まあ、劇中ではあくまでもコギャルなんだけれど)。実際に身体アクションが特技である彼女は、やはり肉体の動きが大変美しく、どんな時も揺れ動くことなく安定しているので、静止している時でさえ凛としている。山本舞香さんに蹴られたい。終始アンニュイな表情と流し目で我々を殺しにかかる池田エライザさんにも感謝を表する。広瀬すずに関しては、演技巧者というより、ちゃんと監督の演技指導を聞いて芝居に落とし込んだ方がいいのではないかしらと思うくらいには暴走していて、これはあまり好印象には感じられなかった。あるいは、監督が彼女に的確な"演技指導"をしていないのかもしれない。渡辺直美のコメディエンヌとしての器用さは言うまでもないけれど、小池栄子が本当に素晴らしい。映画に祝福されている女優。もっと彼女をスクリーンで観たいと切に願い続けている。そして無いものねだりだけれども、降板してしまった真木よう子山本舞香さんを、マジで顔がキツネ顔でヤンキー感があるからという理由で繋げようとした大根監督を、やっぱり信頼してしまう。山本舞香さんの顔が20年経つと真木よう子の顔になる映画の魔術を、是非ともこの目で見たかった。オバサン4人で制服コスプレして宮崎吐夢をボコボコにリンチするシーンは、オリジナル同様楽しかったけれど、鉄パイプで人の顔殴っちゃっていいんですかね?!めっちゃ血出てましたけど……。

f:id:IllmaticXanadu:20200528082832p:plainイレイザーヘッド』(1977年/デヴィッド・リンチ)

DVDにて。何度観ても最高のオールタイムフェイヴァリット。元祖ミッドナイトムービーであり元祖カルト映画であり元祖自主映画。俺はまだまだアートをやりたいのにカミさんが妊娠してしまったー!父親になりたくなーい!赤ちゃん怖ーい!んぎゃー!という制作当時のリンチが見た悪夢が原作であり、男性版マタニティ・ブルーみたいな、逆『反撥』、逆『ローズマリーの赤ちゃん』。そんな超個人映画を完全にセルフコントロールして作り上げた本作は、処女作にしてリンチの代名詞的な役割を未だに備えている(その後、娘リンチのジェニファーちゃんはパパと同じく映画監督になりました。娘からしたらどんな気持ちだこの映画)。改めて観たら美術すごすぎるな。ほとんど全部リンチが自分で作ったらしいけれど、もうモノとかセット自体がキャラクターの一部というか、言語の一種みたいな。というか、ちゃんと自分で作って偉い。スパイクこと赤ちゃんは造型の不気味さに着目しがちだけれど、あのピーピーという金切り声に神経を逆撫でするおぞましさがあった。終盤でヒャッハッハと笑うのも嫌だったな。そういう点で考えると、終始工場や胎内音のようなノイズが鳴り続けている本作は、リンチ自身によるサウンドデザインの見事さもまた素晴らしい。電気や照明のスパークは、その後の『ツイン・ピークス』などリンチ映画のキービジュアルになるので、処女作から一貫してやること変わらないなこのオッサン!と思った。ラジエーターレディがへその緒みたいな、胎児みたいなよくわからんミミズをぷぎゅ!と足で踏み潰した後に「てへへ」と笑うのが可愛い。メアリーX家での夕食で、チキンが股から血噴き出しながら絶叫しているとオカンも一緒に絶叫するの可愛い。メアリーXが寝ながら眼球をぐりんぐりんこするの生理的嫌悪感ありまくりで良い。メアリーXが実家帰る!とヒステリー起こしてベッド下からキャリーバッグ抜き取ろうとするけど中々抜けないの良い。スパイクの眼球がギョロっと動く超クローズアップ超こわい。エレベーターのドア全然閉まってくれないの最高。エロいおねえさんとセックスしている時に、エロいおねえさんがキスしながらスパイクを見てドン引きするの良い。ドン引きした後、そのままベッドの中に文字通りに二人が沈んでいって、エロいおねえさんの髪の毛がちょっと浮いて残っているのも良い。ヘンリーの首が抜け落ちてスパイクの頭がおぎゃあと出てくるの笑う。でかいスパイクの顔が三頭くらいフラッシュしながら部屋で動いてるの、あれ欲しい。そして何度観ても、消しカスを手ではらい落とした後に、宙を舞う消しカスをバックにヘンリーがガビーンって顔してるの、もう何度観ても、何度観ても面白い。

f:id:IllmaticXanadu:20200520055453p:image『カフェ・ソサエティ』(2016年/ウディ・アレン)

アマプラにて。簡潔に言えば、ウディ・アレン版『ラ・ラ・ランド』。より厳密に言えば、『ラ・ラ・ランド』のラスト10分間についての映画とも言える。30代の若手監督と80代の高齢監督が、ほぼ同様の題材を同じ時代に作っているのは大変興味深い。そしてそれは、ウディ・アレン前作のヒロインがエマ・ストーンであったことを考えると、つくづく映画というのは繋げて観るのが面白いなあと感じる次第。兎にも角にも、名匠ヴィットリオ・ストラーロの撮影!これに尽きる。やはりストラーロは今尚健在していたという喜び。しかもデジタルにして鮮やかな画面設計、キャメラの動きは凄まじく、満席の場内でジサマとバサマたちに挟まれながら「ぎゃあ!」とか「うわぁ!」と叫びそうになったのを憶えている。もっと早くウディ・アレンと組むべきだったのではと感じた。ロサンゼルスなのにニューヨークに見えるし、何ならイタリア映画のようにも見えてしまうから、勘弁してくれよおじいちゃんたち。ジェシー・アイゼンバーグは超良い。元々早口なのがウディ・アレンそっくりだし、『ミッドナイト・イン・パリ』のオーウェン・ウィルソンと言い、ウディ・アレンの物真似をさせている俳優をウディ・アレンが撮る、という構造がある彼の作品は大変楽しい。モストオブ目つき悪いティーン女優のクリステン・スチュワート様は、浮世離れした美しさが映画本編からも浮いている節は否めないものの、またそこが非常に良い。何よりも美しく、ウディおじいちゃん相変わらず若い娘がお好きなのがよく分かる。ブレイク・ライブリーは勿体なかったな。シャネルが衣装を監修しているので人物が身に着けている服が素敵なのだけれど、少し時代考証としてそれはどうなのかしら?な箇所もあった。もっとも、クリステン様は短パン衣装なのだけれど、40年代のハリウッドでは、それはスポーツ用の衣装だったりするのだ。あとは否応なく、いよいよウディ・アレンが自身の過去を整理し始めた気配を感じた。その辺が、野心に燃えるデイミアン・チャゼルくんとは別の結論。言い換えればネチネチしていない。チャゼっちゃんが「忘れられないんだよおお(;_;)」なのに対して「ま、忘れとこか(^.^)」って感じ。本作に関するチャゼっちゃんの感想をお聞きしたいものです。

f:id:IllmaticXanadu:20200528055753j:plainオースティン・パワーズ:デラックス』(1999年/ジェイ・ローチ)

U-NEXTにて。人間は平等にクソで、平等になんの意味もない。そして、そんな人間の100年も無い人生なんてクソまみれだ。苦しみや絶望が止まない雨のように降り続け、欺瞞と嘘で溢れ返った最低の世界で、ぼくらは今日も「クソッタレが」とつぶやきながら、腹にクソを溜め込んで生き続ける。クソッタレが。しかし、どんなに辛いときにも、芸術や表現はすぐ隣でぼくらに微笑みかけてくれる。待ってくれている。歓迎してくれている。そして、このクソみたいなすべてを、一瞬だけでも忘れさせてくれる凄まじいパワーを宿している。パワー。オースティン・パワーズ。ぼくは辛いとき、絶望の淵に追いやられたとき、なにもかもブチ壊してやりたいと拳を握るとき、もういっそ死んでしまいたいと嘆き悲しんでいるときに、いつも必ず本作のオープニング・クレジットを観るようにしている。これは映画を利用したライフハックだ。『オースティン・パワーズ:デラックス』のオープニング・クレジットは、あまりにもバカで、あまりにもアホで、あまりにも美しい。前作であんなに意気投合して結婚までしたヴァネッサが、本作の冒頭で実はオッパイマシンガンロボットのフェムボットだったと発覚し自爆する。最愛の妻を目の前で喪ったオースティンは、しかし涙ひとつ見せずに「ちゅーことは、独身に戻れたってことじゃ〜ん!いえ〜い!」と裸一貫で文字通りに狂喜乱舞する。映画をクリエイトしたスタッフやキャストの名前は、次々とオースティンの股間を隠すためだけに表示される。最終的にはシンクロナイズドスイミングを披露しながら、アホみたいにギンギラブルーのタキシードを着たオースティンが登場してフィナーレを迎えるのだ。そう、これも人間の正体であり、人間の生き様だ。人間は、どんな絶望に直面しようとも、それを乗り越えられるだけのバカな頭もちゃんと持っている。悲しみ以上のユーモア。大の大人が、ここまで真剣にバカをやってくれている。クソみたいな人生をペシミスティックに嘆き悲しむよりも、全裸で一瞬一瞬を笑い飛ばすような人間に、ぼくはなりたい。自滅なんかしてたまるか。そして、バカでアホでどーしようもない映画には、それだけでちゃんと価値があるということは強く述べておきたい。

f:id:IllmaticXanadu:20200520101636j:image『その男ヴァン・ダム』(2008年/マブルク・エル・メクリ)

アマプラにて。確か公開当時、シネコンが一軒しかない田舎(実家)に住んでいたぼくは、ヴァン・ダムのメタ映画!俺の住む街ではやらない!でも観るっきゃない!と、この映画を観るためだけにユナイテッド・シネマ豊洲まで片道2時間掛けて上京したのだった。豊洲のロビーには007の『慰めの報酬』のバカでかいポスターが吊るされていて、やっぱり東京はスゲーやと胸躍らせながら客席へと向かった。豊洲の映画館はガラガラで、というか自分と脂汗かいたオッサンの二人しかいなかったと記憶しているけれど、終了後にそのオッサンと「ヴァン・ダム最高!」と固く握手したくなるくらいには感動した(脂汗かいていたので握手しなかった)。そういったノスタルジーと共に、本作はぼくの人生に刻み込まれている。あまりにも個人的な感情だけれど、この世の映画なんて、結局は自分にとってどれだけ意味があるか、そんなもんだ。映画を観るという行為は孤独なのだから。だから、孤独な意味を一つでも見つけていきたい。久々に本作を見返してみた際、脳内にひろがる景色は、映画の即物的な映像ではなくて、当時の映画館の暗闇の懐かしさだ。映画館へ行くということは、鑑賞ではなく体験だ。小さな旅のような楽しさがある。鑑賞した映像は徐々に忘れてしまっても、体験したことは生涯心に残る。それが、ぼくが映画館で映画を観る理由だ。帰り道に食べた東京チカラめしの味、マジで未だに憶えているのです。アー、早く映画館へ行きたいなー。ところで作品の内容は、端的に言えば『狼たちの午後』をヴァン・ダム本人役でリメイク、プラス自虐ネタ満載、みたいなものでそれなりに楽しい。ラストもハートフルというか、人間を信じている着地でほっこりする。白眉であるヴァン・ダムのマジ独白シーン(映画のセットから文字通りクレーンが上昇していき、映画の外側でヴァン・ダムがメソメソしながら長回しワンカットで延々とボヤく)で涙を流せない男は、『キックボクサー』100回観て出直して来い!

f:id:IllmaticXanadu:20200528073816p:plainゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-』(2010年/三池崇史)

U-NEXTにて。なんとなくYouTubeレディー・ガガのMVを観ていたら、なんとなく本作の仲里依紗を観たくなって、なんとなく観た。ゼブラクイーンを演じる仲里依紗がとにかく素晴らしい。終始目つきが悪いし、ギャーハッハッハ!とちゃんと空を見上げて高笑いしたり、昭和のアタマの悪い悪役感がとても可愛い。ほとんどレディー・ガガルックな歌唱シーンは、彼女のエキゾチックな顔つきと真っ黒なゴス衣裳も相まってぼくは好きです(そういえば仲里依紗アルターエゴとして、当時のミュージックステーションにもゼブラクイーンのまま出演していたなあ)。あとはあまりにもどうでも良い内容で、というかほとんど何も憶えていない。三池とクドカンって絶対相性悪いと思うのだけれど、俺だけ……? レスリー・キー仲里依紗を撮影しているオフショットをそのまま本編にもメタ流用している辺り、三池の健全な暴力性を感じた。ミニスカ・ゼブラポリスの皆さんもとてもいい仕事をしていた。スザンヌがバカな歌手役でほんの少しだけ出ていて、仲里依紗にモップでブチ殺されてすぐ退場するあまりにもバカな役柄でちょっと面白かった。

f:id:IllmaticXanadu:20200520044750j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#4(「人生は祭りだ、共に生きよう」と投げかけるほどの人生が、こうしてしばらく喪われつつある燃えるゴミのような世界で、燃えるゴミのような我々は、燃えるゴミのような映画を観ること、そして書くことによって、記録を記憶へと変換させ得て、つまり芸術に救われながら豊かさを噛み締めた、そのとき、わたし自身も、燃えるゴミから誰かが忘れ去った燃えない宝物へと変貌できる、そしてあなたに投げかけられる「人生は祭りだ、共に生きよう」)

f:id:IllmaticXanadu:20200517140005j:image8 1/2』(1963年/フェデリコ・フェリーニ)

U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。こうして改めて見返してみると、現在自分が好きな映画や監督たちとの親和性が極めて高く、あらゆる芸術の祖たる存在であることを意識する。たとえば、『オール・ザット・ジャズ』、『スターダスト・メモリー』、『仮面/ペルソナ』、『TAKESHIS'』、『未来世紀ブラジル』、『鏡』、『風立ちぬ』、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』、『脳内ニューヨーク』、『バードマン』、『マルホランド・ドライブ』、『アメリカの夜』、『気狂いピエロ』……すべて、本作が存在し得なければ産声をあげることがなかったのかもしれないと思うと寒気がする。映画史は星座を繋げるようにして影響し合い、決して単体では成立していない。そのマッピングパラダイムシフトを起こす作品というのは必ずあって、『8 1/2』とはまさに、新たな地図を拡張させるための大事件だったと感じる。逆に言えば、所謂「よくわからない」とされている映画群は、本作さえ履修しておけば嚙んで含めるが如くスルスルと理解でき、同時に楽しめるはずだ(よしんば、岩切一空監督の『花に嵐』や『聖なるもの』が「よくわからなかった」観客は、まずは本作を観てみましょう)。構成は勿論のこと、構図や照明など、どの場面の映像も美しすぎて至福。おしゃれでかっこよくてエロくてバカみたいでおそろしい。映画って自由で最高だ。世界一眼鏡が似合う女優、アヌーク・エーメ。我が愛しのクラウディア・カルディナーレは、実はちょびっとしか出演していないにも関わらず、グイドも映画も、すべてを救済する。まさにミューズ、愛しのCC。それにしても、マルチェロ・マストロヤンニって本当に嫌味のない、めちゃくちゃいい俳優だよなあ。

f:id:IllmaticXanadu:20200517140140j:imageムーラン・ルージュ』(2001年/バズ・ラーマン)

U-NEXTにて。チャカチャカ高速カッティングが賛否両論のバズ・ラーマンだけれど、ぼくは「アゲ感」を重視した映画はすべからく好きなので、いえーい!どどーん!じゃーん!やっぴー!という擬音がちゃんと似合う本作も大いにフェイヴァリット。ガキの頃にミュージカル好きの母親と映画館で観て、その時は「公爵がかわいいなあ」くらいの印象で、いや当然「ニコール・キッドマン爆可愛いなあ」とも思いつつ(序盤で何度も「アウッ!アウッ!」と声出すところ最高)、既存の使用楽曲は全然知らなかったのだけれど、今になって聴けば知らない楽曲は一曲もないという、洋楽ファンはガチ泣き爆アゲのサウンドトラックで十二分に最高。久々に観たらユアン・マクレガー歌唱のエルトン・ジョン"YOUR SONG"がエモすぎて泣いてしまった。他にも、ポリス"Roxanne"のタンゴに合わせた激しいカットバックだったり、公爵とジドラーのコントみたいなマドンナ"Like A Virgin"が可愛かったり、もうここしかないいい!というタイミングでクイーン"The Show Must Go On"を高らかに歌い上げる終盤だったり、ミュージカル映画として満遍なく楽しかった。幼い頃からキャバレーやバーレスクへのフェティシュとリスペクトと憧れがある人間なので(もし自分が億万長者だったら、映画なんか作らずにキャバレーのオーナーになって死ぬまで楽しく経営する)、そういう意味でも「普通に行きてぇー、最高ー」という多幸感すらある。映像もほとんどサイケデリックなほどに色鮮やかで、衣裳や美術も抜群にゴージャス、映画が喜んでおるなーという高揚感でみなぎっている。まさに豪華絢爛。そう、ミュージカル映画なんて、豪華絢爛な世界で多幸感に身を委ねて歌って踊ってさえしてくれれば、もうそれでいい。たとえば、ここで比べてしまうのは野暮かもしれないけれど、同じミュージカル映画として『ラ・ラ・ランド』が備えていなかったと思うのは、こういった「過剰な」ゴージャスさ、豪華絢爛さだ。『ラ・ラ・ランド』がどんなにテクニカラーオマージュでカラフルを装っても、ぼくにとってはまだまだ足りない。画面いっぱいを埋め尽くすゴージャス感が、あの作品のパラノイア的な暗い構図の中からは溢れ出ていない。ワンカット長回し重視のカメラワークよりも、瞬きする間に過ぎ去ってしまう、記憶すらできない刹那的なHIGHを愛してしまう。浴びさせてほしいのだ。過剰さを。バカみたいに大金を注ぎ込んだゴージャスなミュージカル映画に、バカみたいにいえーい!と興奮し続けたい。ところで『ムーラン・ルージュ』劇中でカイリー・ミノーグ演じる緑の妖精さんトリップシーンは超超超最高である、ということは今後も強く述べていきたい。

f:id:IllmaticXanadu:20200520043339j:image『NINE』(2009年/ロブ・マーシャル)

U-NEXTにて。我が愛しの『8 1/2』(のブロードウェイ舞台版)のミュージカルリメイクであり、アメリカ人シェフが作ったトラットリア。つまりは、紛うことなき粗悪品でしかないのだけれど、本場トラットリアよりも時たまジャンクフードが食べたくなる愚かなぼくにとって、これはこれで残さず食べる。とは言え、ジャンクフードというよりはイタリアン・ランチ味のキャンディーみたいな劣等ぶりで、ハッキリ言って不味いのだけれど、なんかね、珍品で好きなのね、この映画。すごい珍品だと思う。すなわち、めちゃくちゃチャーミングな魅力がしっかりとある。チャーミングな粗悪品。ということで、ぼくは劇場でオバサマたちに囲まれながら鑑賞して、その後も結構な回数見直しているくらいにはこの映画が可愛くて好きだ。確かサントラも買っていたはず。だからフェリーニファナティックなシネフィルたちが「こんなのただのMVじゃん、しかもミュージカルシーンと非ミュージカルシーンをなんの美学もなしにカットバックしやがって、リズム感ねえのかよ、フェリーニに土下座したって許されないからな」と罵詈雑言に貶すほどに、この映画には移入も嫌悪もしていない。監督のロブ・マーシャルは大嫌いだったけれど、たぶん不器用なだけだからそんなに嫌わなくてもいいかな……と、最近は温厚なスタンスで迎えている。でも、ロブ・マーシャルがマジで監督として凡庸で、加えて演出力が乏しいことは、本作に招集された女優たちの芝居を見れば一目瞭然だ。本家『8 1/2』であんなにも魅力的だったキャラクターたちは、書き割りのような棒立ちでロボットのように台詞を吐き、何一つとして予定調和からはみ出さない。映画オリジナルキャラのケイト・ハドソンなんて、彼女が鏡に映るラストカット、なんであんな不細工に撮ってしまうんだろう、酷すぎる。ゴールディ・ホーンの娘だぞおいバカ。極め付けは『8 1/2』で僅か数分しか出ていないにも関わらずグイドを救済する女神、クラウディア・カルディナーレを、ロブ・マーシャルニコール・キッドマンに全然「着衣」させない。さりとて、女優たちに罪は全くない。人物を描き込もうとしなかった、描き切らなかった監督と、粗末な脚本を断罪する。このオールスターキャスト7人の女優たちで、よしんば監督がペドロ・アルモドバルだったら、どれだけ傑作になっていただろうかと映画ファンなので夢想する(ペネロッペーをメインにするだろうな)。で、こんなに文句を垂れつつ、でも好きなんです。というか、ぼくはフランソワ・オゾンの『8人の女たち』とかが好きな人間なので、女優さんが吹き替えなしで歌って踊ってくれていれば、結局楽しくなってしまう馬鹿野郎だ。楽曲はとてもいい。ペネロッペーはそんなポーズまでしてくれるんですかというハレンチなダンスで、本人も楽しそうだったし可愛かった。唯一の現役歌手・ファーギーは見事なサラギーナっぷり(太っちょぶり)と歌唱力を発揮していて、彼女の歌う"Be Italian"は、砂を使ったエキゾチックな振り付けも相まって圧巻だった。キャラとしては残念だったケイト・ハドソンも、彼女がノリノリで歌う"Cinema Italiano"は超楽しい(だけど予告編で使われていたバージョンと本編で流れているバージョンはテイクが異なっている……予告編のテイクの方がいいのに……ロブ・マーシャルよ……)。特に今回久しぶりに観て、グイドの妻・ルイザを演じるマリオン・コティヤールが歌う二曲"My Husband Makes Movies"と"Take It All"が個人的には好きだった。前者は、ほとんど舞台照明のようなライティングの中で、夢と狂気の世界を生きる映画監督の妻としての心の叫びがエモーショナルに歌い上げられる。後者は打って変わって、スケベな旦那に堪忍袋の尾が切れた奥さんがブチ切れて、鬼の形相でストリップをするという恐ろしくて美しい曲。『ムーラン・ルージュ』の感想でも記した通り、ぼくはキャバレーやバーレスク的なものへの憧れがあるので、当然、映画にストリップシーンが出てきたら加点なわけです。って何言ってんだ自分……。そういえば、俳優業は引退すると宣言していたくせに、美女と共演できる本作にはちゃっかりと出演したダニエル・デイ=ルイスは、そういうスケベさと色気とチャーミングさが、グイドにぴったりだったとは思う。

f:id:IllmaticXanadu:20200518162420p:plain『その夜の妻』(1930年/小津安二郎)

U-NEXTにて。NOTローアングル・NOTタタミで挑む小津流サイレント・フィルム・ノワール。とは言え、足元を映したローアングルはあるっちゃあるのだけれど、もうこれはほとんどハリウッドのサイレント映画そのものに近い。洗練された横移動ショットの美しさや、手前の対象物による豊かな奥行き表現、きっちりノワールやりまっせと明暗鮮やかな照明、そして、執拗なまでに完璧な動きと構図で捉えられたクローズアップ……す、すごすぎる。当たり前に小津はすごすぎるし、超絶モダンでかっけー。帽子を被る、というアクションによって事態が展開したり、拳銃所有の瞬間をぐいーんとトラックバックすることで形勢逆転を表したり(何度かある決定的瞬間におけるT.B演出がめちゃエモい)、配置された小道具それぞれが物語を動かしていく躍動感もすごい。たとえば、帰り際の医者が鞄を無造作に置くブレッソン的な手のヨリ、からの字幕、からの二回振り返る医者のアクション、からのドアを開けて見送る妻のお辞儀でアクション繋ぎ、からの後々反復されるドアフレームに納まった妻の正面ショットと階段を下りる医者の切り返し、からのドアを閉める妻の動作でアクション繋ぎ、からのポットで珈琲を注ぐヨリ、からの砂糖瓶の中のスプーンがキラーンと光る!なんていう運動の連鎖が、全く飽きさせることなく観客を物語に移入させてしまう。敢えてのノワールオマージュとは言え、この現代的なリズム感覚、TikTokとかやってるティーンの方にも体感してもらいたいなあ(TikTokってまだ流行っているんですか)。ぼくが今更ここで何かを書くまでもなく、小津が撮るブツ撮りや実景はすごすぎる。ショットそのものの構図の美しさや長さの的確さ以前に、どの箇所に配置するのか、挿入するのか、そういうタイミングがドンピシャすぎてもんどりうつ。ソン・ガンホに見える瞬間があるハンサム・岡田時彦(我が愛しの岡田茉莉子嬢のパパ)、顔はほとんどジョシュ・ブローリンで緊張感と共に最終的には哀愁で泣かせる刑事役・山本冬鄕、そして凛とした八雲恵美子の美しき勇姿、二丁拳銃と着物!小津はかっこいい!

f:id:IllmaticXanadu:20200519185250j:plainヒッチコックトリュフォー』(2015年/ケント・ジョーンズ)

U-NEXTにて。めちゃくちゃ勇気をいただきました、ありがとうございます。本編でオリヴィエ・アサイヤスが語っている通り、『映画術』とはトリュフォーが作った「映画」の一本である。インタビューを試みるド緊張のトリュフォーの気合の入れっぷりは、周到で入念な準備に到るまで、まるで新作映画を撮る映画監督の姿そのものだ。だから名著や必読本というよりも、『映画術』自体がトリュフォー監督による必見の名画のひとつなのだと言ってしまおう。世代も作風も異なる両者が、互いを尊重しながら行われる世紀のインタビューは、やはり音声と写真が加わることによって、活字以上にスリリングで感動的だ。ゆったりとユーモアを交えて鋭い意見を飛ばすヒッチコックは、ほとんどゴッドファーザーのような風格。そんな父の目を真っ直ぐに見つめて、てらいなく質問を投げかけるトリュフォーの純真さ。膨大な量のヒッチコック・フィルモグラフィが引用されて、その映像のどれもが当たり前のように素晴らしく、ヒッチコック作品なんて一本も見たことがないようなビギナーにとっても、入門編のような楽しさがあると思う。「サイレント映画こそ映画の言語だ。映画に音は必要なかった」と語るヒッチコックに、トリュフォーくんがウンウンと頷く。「ぼくが撮った『大人は判ってくれない』にも、ちゃんとサスペンスを生む視線の交錯があってですね……」「どんなシーンだい?詳しく」「かくかくしかじか……」「ほーう、台詞が無かったほうが良かったな」「てへへ!」なんだこの可愛いやり取り!いやしかし、ヒッチコックの言葉はどれも背中を押してくれるな。ということで、本作には背中を押されたヒッチコック大好き監督たちが10人出てきて、それぞれが熱くヒッチコックのすごさを語り尽くす構成となっている。このように、当時の関係者ではなく現役の映画監督へのインタビューが挿入されているのが興味深い。なぜなら、皆ヒッチコックのことを語っていながらも、実のところ自らの作家性を語り直している、という構成になっているから。『めまい』オマージュの『ゴーン・ガール』を撮ったフィンチャーが「『めまい』って変態映画だよな。美しい変態だけど」と話しているのも面白い。ピーター・ボグダノヴィッチ、一瞬ウィリアム・フリードキン?と思った。キヨシ、ニヤニヤしすぎ。後半でやっぱり『めまい』と『サイコ』の論考に行き着き、結論どっちも超スゲー映画と皆が煽りまくるのも楽しい。ぼくは『めまい』がオールタイムベストの変態なのだけれど、概ねこのドキュメンタリーで指摘されている事柄には納得できた。『めまい』には急速に突き進むストーリーテリングの巧みさは無くても、夢の中をさまよい続けているかのような、おぞましさと美しさが真空パックされている。『めまい』は失敗作なんかじゃない。結局、映画は「観客」にどう楽しんでもらえて、どう受け止めてもらえて、どう語られていくかが最も大事なのかもしれない。ヒッチコックを語る本作を観て、誰よりも大衆や観客を意識し続けた「作家」たるヒッチコックの高邁さを改めて感じた。

f:id:IllmaticXanadu:20200519201852j:plain『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールトリュフォー』(2010年/エマニュエル・ローラン)

U-NEXTにて。めちゃくちゃ勇気をいただきました、ありがとうございます。シネフィルぶってカッコつけたいわけではなくて、やっぱりぼくはゴダールトリュフォーも、二人のことがあまりにも大好きだ。この二人はとにかく、伝統とか権威とか、あらゆるものとの「闘争」をやめなかったし、あらゆるものから「逃走」することもやめなかった。闘いながら自由に呼吸すること、それがヌーヴェルヴァーグであり、ゴダールトリュフォーだ。本作はゴダールトリュフォーの邂逅から、やがての決別までを膨大な映像や音声と共に振り返っていく。若い頃のゴダールがまんま菊地成孔みたいで、というか菊地成孔ゴダール学部卒なファナティックなわけだけれど、人間、好きな人に自然と似てくるものだな。先にトリュフォーがカンヌに行っちゃって、ゴダールがシネフィル仲間に「俺は文無しだしめちゃくちゃ焦ってるし、ってか俺だって映画撮りたいし、しかもトリュフォーの野郎俺のこと無視しやがったんだよ、ふざけんな」とボヤいていたというエピソードが愛おしい。その後、トリュフォーとシャブロルが、若い監督を探していたプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールに「ゴダールってすげえ奴がいます」と推薦文書いてあげたの、いい話。フリッツ・ラングにインタビューするゴダールが「もう高齢ですよね」と訊ねると「恐竜並みだよね」と笑うラングが可愛い。続けてラングが「映画は若者のためにある」とつぶやくと「僕もそう思います!映画は若者のためにあるんです!」と嬉しそうなゴダールも可愛い。トリュフォーが死んだ時、ゴダールにアンヌ・マリー・ミエヴィルが言った「トリュフォー亡き今、あなたを守る人はいない。ヌーヴェルヴァーグの中で彼だけが、既存の映画界に受け入れられ、あなたの守護神になり得た」という言葉で映画が始まるのが切ない。政治的な思想へ突き進んだゴダールと、己の映画愛へ献身的な姿勢を崩さなかったトリュフォー五月革命を機に、異なる道を進む親友同士。『アメリカの夜』を批判するゴダールからトリュフォーへ届いた手紙には「こんな映画を作った君はウソつき野郎だ。これは悪口ではない。これは批評だ」と書かれている。それは、不器用で頭でっかちなゴダールの、彼なりの最後の叫びだったのかもしれない。トリュフォーはこの手紙におよそ20ページにも及ぶ反論を書いて、結局二人は再会することがなかった。共に協力し合って映画を作り続けた二人の、友情の終わり。共闘から別離へ。映画によって繋がった友情が、映画によって引き裂かれていく。ヌーヴェルヴァーグの息子として、二人の父親の間で揺れ動くジャン=ピエール・レオの視点が挿入されるのも素晴らしい。ゴダールトリュフォー、二人の人生それ自体が、果てしなく映画的であることを、このドキュメンタリーは克明に証明してみせた。 

f:id:IllmaticXanadu:20200429065924j:image『鞄を持った女』(1961年/ヴァレリオ・ズルリーニ)

U-NEXTにて。当たり前のようにクラウディア・カルディナーレが大好きなのだけれど、コレ初見。いきなり彼女の野ションから始まる辺り、「イタリア映画が始まった!」という感覚でワクワクしていたけれど、途中からぼんやりしていて眠ってしまっていた……いや、映画が決してつまらなかったわけではない。と、言い切れるほど記憶も出来ていないし曖昧なのだけれど……しかし、我が愛しのCCが主演だというのに寝落ちしてしまったというのは、誠に信じがたい愚行をやってのけたなと我ながら思う。自責の念。俺は愛するCCの映画で、寝たのだ。寝ちまったのだ。こんな感想、ちゃんと改めて再見してから書けばいいのだろうけれど、俺には、俺にはできないよ、そんなこと。愛しのCCに、ちゃんと懺悔しておきたい。ごめんなさい。君がちゃんと大きな鞄を持って怪訝そうな表情をしていたのは憶えています。重そうな鞄だった。俺は瞼が重かった。嗚呼、クラウディア。本当に申し訳ない。君はいつもと変わらず、ちゃんと、しっかり、べらぼうに美しかったよ。それだけは間違いなく、間違いようのない真実だ。愛する資格がないなんて言わないでおくれ、クラウディア。誰だって過ちは犯してしまうものだ。罪のない人間はいない。そこから何を反省して、どう生きていくかが大切じゃないか。だからクラウディア、俺は変わらずに、君へのアモーレを送るよ。送らせてくれ。正座して、また君に会いに行くよ、クラウディア……Ti amo,Claudia……Non posso vivere senza di te……Amore……

f:id:IllmaticXanadu:20200429101358j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#3(第二次大戦の時もそうなんだが「こんな有事の際に芸術や文化なんてどうでもいい」と人間の愉しみを規制したがるアホがいたわけだ。たとえば老人ホームでおばあちゃんたちにメイクをしてあげただけで全員の健康状態が上がったという研究結果もある。絶対、人間はそういったアートやクリエイティビティによってしっかりと生かされている。ドイツで絵描きを蔑ろにしてヒトラーが誕生したことを忘れたとは言わせない。だからアートやエンターテインメントを蔑ろにするファックオフ野郎は早く死んじまえ。水でも飲んでろボケ。

f:id:IllmaticXanadu:20200429033049j:image玉城ティナは夢想する』(2017年/山戸結希)

YouTubeにて。バイオレンス映画。皮肉ではなく、これは暴力についての映画だ。「今そこにある美に対してカメラを向ける」ということの暴力性を山戸結希は認識しつつ、欲望のままに被写体を「傷付ける」。そして、傷付ければ傷付けるほどに、被写体・玉城ティナの刹那的な美しさが増すことも承知している。激しいカット割はまさしく被写体そのものを「解体/切断」していて、カメラは「ナイフ」のようである。「ポップで可愛らしい記号よりもティナちゃんには背徳と退廃が似合うの!」という作家の願望を、全身で享受する玉城ティナの揺るぎない強固な美を証明できている傑作だと感じる。加えて、すべての女の子たちの集合的無意識になりたいと欲求しているのは、むしろ玉城ティナではなく山戸結希の方であって、そのナルシズムもまた暴力的だと感じる。もう1つ重要なのは、本編の中で玉城ティナが「玉城ティナになりたい」と「あこがれ」を抱くことだ。シラフで言ってしまうが、ぼくだって玉城ティナになりたい。玉城ティナを愛でたいとか応援したいとか恋したいとかではない、玉城ティナに「なりたい」のだ。野球少年がイチローみたいになりたい、という「あこがれ」とは異なる。なぜなら、それは本人の才能と努力次第で達成可能だからだ。しかし、ぼくが「玉城ティナ」になることは、絶対にない。絶対的に成就できない願い。それこそが「あこがれ」のエレガントだ。よしんば一本の作品が、男性観客に「女になりたい」と思わせられたら、それこそフェミニズムとして成功しているといえる。もしくは「女に生まれたかった」ということでも良い。あこがれさせられたら。異性目線の恋愛や性愛でなく、ただ純粋に「なりたい」という目線。が、本作においては最も大切だと感じる。逆に女性観客にとっては「女に生まれてよかった」ということなので、女であることを誇れるという、それこそが当たり前のフェミニズムである。だから本作はぼくにとって、極めて正しいフェミニズム作品だと思っている。しかし、これ言っていいのか知らんけど、玉城ティナってメガネ似合わなくないか? とアンチコメントしてしまうくらい、装飾としてのメガネ選びは慎重に演出してもらいたい。この命題については、メガネっ娘ヲタ界隈でもっと激論されてよいはず。

f:id:IllmaticXanadu:20200426162759j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007年/庵野秀明摩砂雪鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。超久々に観たら面白かった。『序』に関しては、めちゃくちゃグラフィックの美しさが向上したのは確かだけれど、テレビシリーズ・ヤシマ作戦までの総集編という印象が個人的にはどうしても強かった。よしんば、旧エヴァを認知していない人にとって、『序』は一本の映画として歪な作品になっているはずだよなー、くらいには思っていた(ストーリーテリングとして)。劇場鑑賞時も「おさらいあざっす、で、破の予告早く見せて!」というダメなヲタ状態だったので。とは言え、丁寧で洗練されたダイジェスト感が一周回って新鮮で、つまり展開が早くて、このスピードはまさしく庵野らしいともいえる。テレビシリーズを除いた劇場版の中では『序』が、特撮オマージュ満載ロボットアニメとして最も安心して観ることができた。それほどに『シト新生』や『Air/まごころを、君に』や『破』や『Q』は特殊な作品だったから。庵野が楽しそうに特撮ロボットアニメをやっているという、「庵野が楽しそう」という感覚をしばらく失念してしまっていたけれど、ファンとしてその寄り添い方は大事だと感じた(まあ、エヴァ庵野が壊れれば壊れるほど面白くなる節もあるけれど……)。『シン・ゴジラ』と『序』は、庵野の精神的にはある意味、躁のディメンションに位置付けられる類似した作品だと思われる。やっぱりヤシマ作戦は燃えるよねー。アスカ推しの自分としては綾波の話ばかりでナンダカナーと思ったりもしますが、ニッコリ綾波超可愛かったです。

f:id:IllmaticXanadu:20200426163312j:image新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年/庵野秀明鶴巻和哉)

Netflixにて。オールタイムベストとしか考えられないアルティメット大傑作。ドロッドロの病みの闇。庵野秀明の個人映画として完成された鬱屈的感情吐露。が、エンターテインメントとして機能していることの凄さ。観客の能動性までをも拒否し、彼らの心も、記憶も、強烈にえぐってみせる暴力性。作家の闇が、作家の憂鬱が、作家の暴力衝動が、映画を傑作たらしめる模範解答みたいな映画。つまり、観客におもねった映画を作る必要なんて1ミリも無い。観客なんか、心の闇で黒く塗りつぶせ。と、教えてくれた映画。こんな映画が作りたいものです。中学校の給食の時間に、校内放送で『甘き死よ、来たれ』を流していた超ヲタの女の子がいたけど、元気かしら。

f:id:IllmaticXanadu:20200427164633j:image茶の味』(2004年/石井克人)

DVDにて。本作公開年の2004年は『下妻物語』の公開年でもあり、ぼくが土屋アンナに一目惚れして胸キュンするには十分なほどの彼女が揃っていたわけです。で、久々に本作の鈴石アオイに会いに行った。強風を浴びながらもしかめっ面を崩さないハイスピード撮影の彼女、最高だ。異性の好みということではなく、ぼくは映画の中で元ヤンっぽい女の子が出てくると大体は好きになるので、漏れなく本作のアンナ嬢も最高に好きなのだけれど、まあ映画としても可愛くて奇妙で大好きです、『茶の味』。実景含めた栃木の自然が大変フォトジェニック。しかし、なぜ元ヤンっぽい女の子にフェティッシュを感じるのだろうかと考えてみると、ぼくの地元(茨城)にはヤンキー/元ヤンがウンザリするほどいて、偏見するまでもなく結構みんないいやつだったりしたし、カッコ良かったし、カッコエロかったし、そんなアホみたいなノスタルジーを想起してしまっているのかもしれない。元ヤンちゃんは我がふるさと。ってソレまんま『下妻物語』だな。

f:id:IllmaticXanadu:20200429055500j:image『疑惑』(1982年/野村芳太郎)

アマプラにて。松本清張原作!桃井かおりVS岩下志麻!全くタイプの異なる女優同士の演技合戦にめちゃくちゃ燃える!野村芳太郎フィルモグラフィにおいても、きっちりエンタメしてくれていて楽しかった。車が海中に転落、乗っていた大金持ちの旦那は溺死、その妻である桃井かおり演じるクマコだけが生き残る。このクマコが最低最悪の毒婦で悪女。夫に3億円の保険金をかけていたことが判明し、容疑者として逮捕される。連日マスコミが騒ぎ立てるクマコの弁護を受け持つこと自体が弁護士にとってはデメリットでしかなく、誰も弁護士がつかない。そんな中、民事事件専門の弁護士・佐原律子こと岩下志麻が彼女の弁護に任命される。しかしクマコと律子の間には、信頼関係はゼロ。ほぼ100%夫を殺している悪女の弁護を、律子も負けじとこなしていく。果たして事件はどう決着するのか……というオモシロあらすじ。徹底して脚本通りに演じる岩下志麻に対して、脚本無視でほとんどアドリブで好き勝手に喋って暴れる桃井かおり岩下志麻は背筋をピンと伸ばして一歩も引かない!桃井かおりは余裕の表情!「あたし、あんたの顔嫌いだわ〜」という桃井かおりのアドリブ、その時の岩下志麻の素でムカついている顔!やっぱり相反するモノ同士をぶつけると映画は面白くなるよなー、という正解を教えてもらった。若い頃の柄本明チャランポランだけど憎めない鹿賀丈史も良いキャラだった。数分しか登場しない丹波哲郎が弁護バックれるのにも笑った。これからも繰り返し観たいし、女優の皆さんにもおすすめします。

f:id:IllmaticXanadu:20200429043922j:imageコンテイジョン』(2011年/スティーブン・ソダーバーグ)

U-NEXTにて。ソダーバーグ苦手なんだけどコレは淡々としたドキュメンタリータッチ(≒シミュレーション風)がパンデミック描写の恐怖とifの強度を補強していて好み。『インフォーマント!』も『サイド・エフェクト』も面白かったし、ソダーバーグというより脚本のスコット・Z・バーンズとの相性が良いのかもしれない。ってかソダーバーグの映画、「相変わらず真面目だねえー」とニタニタしながら観てしまう。観ていると、グウィネス・パルトロウが初っ端で頭蓋骨オープンするので笑ってしまった。ミヒャエル・ハネケかよな赤い素っ気ないフォントのDay2から始まり最後は……な展開にも、自業自得というか風が吹けば桶屋が儲かる的な種明かしで笑ってしまった。もしソダーバーグがゾンビ映画を撮ったらこれくらい地味なんだろうなあと思いつつ、狙ってスベるよりは誠実にカメラを据えて、オールスターキャストで共感性も保持しつつ、ほどよくシリアス、ほどよくエンタメに仕上げている辺り、職人としては及第点以上だと思う。誰が観てもそれなりに楽しめる普遍的な完パケ感も含めて、映画芸術というよりも、世界仰天ニュースの傑作回を見たような余韻……。マリオン・コティヤールのように、誰かのために走り出すことができるか。ケイト・ウィンスレットのように、自分がどんなに苦しくても、隣の人に毛布を渡すことができるか、が問われる世の中になってしまった。劇場鑑賞時は震災以降で、日本は劇中のマッドマックス化する市民たちのようにパニックにならず皆助け合うことが出来ていて、まだまだ人間を信じられるかもしれないとヒューマニズムに目覚めかけたりもしたもんだけれど、現実でパンデミックが発生し、アンタッチャブルな状況下で買いだめに猛進する人々がいたり総理大臣がバカだったり、悠々とフィクションを超えてくるディストピアっぷりに絶望しながら観た本作は、ちょっとホラー感あった。劇中のジュード・ロウみたいな最低デマ野郎は現実にもたくさんいるけれど、果たして彼を信じない保証はどこにもない。自らの審美眼を鍛えるためにも、これからも映画を観なくてはな。劇場で観たとき、とりあえず、帰宅してめちゃくちゃ手を洗ったのを思い出しました。

f:id:IllmaticXanadu:20200424031921j:imageそれいけ!アンパンマン キラキラ星の涙』(1989年/永丘照典)

U-NEXTにて。幼少期ぶりに観た……ノ、ノスタルジー……懐かしすぎてドーパミン分泌量ヤバかった……。ナンダ・ナンダー姫の「わたしの名前はナンダ」という幼稚園児も安心して笑えるギャグセンス、ドキンちゃんの女王様ソング、そのドキンちゃんのプリケツ、「冬になったらまた会える」と言い残して溶けるユキダルマンの勇姿、謎の殺傷機能を備えたアンパンマン号、作画が怖すぎるドロンコ魔王、ボコボコにされるパン工場三人衆、そして随所の『オズの魔法使』オマージュ……。ナンダー姫の「もうやめて!」を受けてもボコボコにされながら猪突猛進してくるアンパンマン、めっちゃ漢じゃん……。幼い頃、母親と一緒に観て「涙にも価値があるの、だから泣いてもいいんだよ」と教育されました。いい話です。

f:id:IllmaticXanadu:20200427152848j:image大いなる幻影』(1999年/黒沢清)

DVDにて。完全にポスト・コロナ時代の悪夢的世界観じゃん。謎の花粉を防ぐためにマスクしていたり、人々がソーシャルディスタンスを保っていたり、そしてとにかく、世界から人間が「消えていく」感覚というのが金太郎飴みたいに詰まっている。ので、今観たらより面白かった。ミレニアム直前で終末感ヤバい公開当時も、ほとんど同じような感覚だったのかしら。そして、「消えてしまう」ということと「死んでしまう」ということは異なっている。本作がもたらす感動は「映画では誰も死ぬことはない」という救いでもある。死ぬことを目指して消え続けることによって逆説的にみんな生きてしまっている、そんな映画。また、すべての自主映画少年たちに観てもらいたい。ちゃんと撮ってさえいればどんだけバカやってもいいんだと、とても勇気をもらえる。

f:id:IllmaticXanadu:20200426192119j:image呪怨(ビデオ版)』(2000年/清水崇)

DVDにて。ぼんやりと得体の知れないものがこちらを見ているという表現ではなく、幽霊が半径3センチ以内にいる!という表現をやってのけたエポックメイキング。つまり本作は、幽霊/心霊映画というよりはモンスター映画に近い。モンスター映画の文法で撮られた幽霊映画。呪われた家に関係すると不特定に全員死ぬ、というハードコアな設定も改めてすごい。即物的な恐怖を突き詰めるとコメディになるということも発見できている。時系列が破綻しているのも、悪夢的円環構造を生み出していて不気味極まりない。顎なし少女は未だにトラウマだった……。

f:id:IllmaticXanadu:20200429050238j:imageオーメン2/ダミアン』(1978年/ドン・テイラー)

U-NEXTにて。何回観ても最高の死に様博覧会。出てくる死に様が何もかも素晴らしいし、前作よりもドンドコ人が死にまくるのも評価に値する。前作の首チョンパに当たるエレベーターでの人体ワイヤー切断は、ちゃんと切断面を見せてくれる上に、ちゃんとスローモーション、そして切られた瞬間の「うげえ」という表情、本当に偉い……。断面からはみ出る「具」のあたたかみが感じられるのも良くて、湯気が出ているようなホカホカ感は、作り物だからこそ感銘を受ける。他にも、カラスにズビズバつつかれて血まみれになるおばさんや、氷の張った湖の中に落ちた人がもがいても氷が叩き割れないとか、トラウマ残酷表現が多すぎる。イケメンに成長したダミアン自身が、悪魔の子であるというハードコアな事実を知って葛藤する思春期映画でもある。オープニングの始まった瞬間からジェリー・ゴールドスミスの音楽がテンションアゲアゲで狂っていてそれも最高に好き。

f:id:IllmaticXanadu:20200429051340j:imageポルターガイスト』(1982年/トビー・フーパー)

U-NEXTにて。子どもの頃に観たときはビックリ描写の連続で案の定ブラウン管テレビの砂嵐が怖くて仕方なくなったけれど、久々に観たら超楽しかった。砂嵐が怖いって感覚、デジタル世代には通用しないのだろうか。雷とピエロのシーンとかめちゃくちゃ怖かった記憶があるな。全編にわたって、ホラー描写出し惜しみしない!というサービス精神が本当に偉い。スピルバーグが演出したと言われている鏡見ながらの顔面グチャグチャドロドロシーンも、いやココだけどう考えてもやり過ぎだろ、ほとんど『レイダース』のラストじゃん、という過剰な残酷描写で最高。思えば、本作はトビー・フーパー御大の作品というより、やっぱりスピルバーグPのエンターテインメント性の方が強い。フーパー本人は不服だったんだろうが……。しかし、どんなバケモノよりも最高なのが、そう、霊媒師のおばちゃんだ!この人の不気味で崇高なキュートさは特筆しておかなくてはならない。あの声最高だもん。逆にガキの頃はこのおばちゃんこそがトラウマだったけれど、今観たらこんなにテンション上がるナイスキャラはいない。嗚呼でも、本作がドミニク・ダンの遺作であることに変わりはない……。本作出演後に恋人に刺殺され、享年22歳。ゆえに呪われた映画扱いされてしまったわけだけれど、悲しい……。ぼくは『アフターアワーズ』という映画が大好きで、ドミニクは、その主演のグリフィン・ダンの妹である。彼女がトンデモなく酷い目に遭う本作は、実際の事件とは別に考えて、映画なのだから楽しめばいいのだけど。でも悲しいのは悲しいので……。

f:id:IllmaticXanadu:20200427152534j:image『イメージの本』(2018年/ジャン=リュック・ゴダール)

U-NEXTにて。『アワーミュージック』以降だと一番好きだし、ほとんど『映画史』+『時間の闇のなかで』+『アワーミュージック』という構造なので好みでない理由がなく、89歳のイタズラじじいが、結局ラブ&ピースを打ち出した辺り、エモすぎて泣けた。新型コロナウイルスが感染拡大してから新作映画が次々と公開延期になり、撮影すらストップされている状況が続いている。つまり、新しいものが作れない状況の中に「映画」はいるといえる。ゴダールの『愛の世紀』にあった「すべてそこに在るのに、人は何故作るのだろう」という言葉は、本作を鑑賞した際に思い出したものであったし、今こそまさに問われるべきものだ。ゴダールは本作で「すべてはアーカイブされているし、アーカイブされているのだから"映画"は大丈夫なんだよ」という「消えない/死なない」ことへの優しさを訴えてくれた。同時に、自身で撮り下ろした「新しい」映像も加えて「それでも"新しい"ものを作って残したいという気持ちは超大事」と勇気付けてくれた。ポスト・コロナ時代は、ゴダールの予言通りにアーカイブの時代へと突入しつつある。こうして、ぼく自身でさえ、閉館している映画館に足を運べず、自宅で今日も今日とてアーカイブされた映画たちと遭遇するしかない。果たして、映画にとってこれは絶望なのか、それとも希望なのか。先日突然インスタライブに登場したゴダールは「ウイルスはコミュニケーションだ」と述べた。「ある種の鳥のように他人を必要とし、仲間の所に行き、家の中に入ろうとする。私たちがネットでメッセージを送る時のように。ウイルスは今私たちがしているようなコミュニケーションだ。それによって死ぬことはないが、うまく生き抜くことは恐らくできない」それでも、ゴダールはあくまで楽天的な様子だった。「テレビは忘却を、映画は記憶を創る」つまり、残された映画たちがこれからも消えることが無ければ、これから映画を残していこうとすれば、それもまた消えることはないのだ。ポスト・コロナ=アーカイブ時代のぼくらの聖典は、聖書でもコーランでもなく、『イメージの本』だ。

f:id:IllmaticXanadu:20200424030506j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#2(「コ」と「ロ」と「ナ」を組み合わせると「君」になります、素敵やん)

f:id:IllmaticXanadu:20200421192957j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年/庵野秀明摩砂雪鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。ぼくはレイかアスカかと問われたら完全にアスカ派なのだけれど、それまでの旧エヴァの惣流アスカとは、ファンと言うことをためらわれるくらいに痛い子だった。それに比べて、式波アスカは本当に可愛い。レイに自分の立場を譲ったり、人のために何かを出来るいい子になっていて、彼女なりに自立へと向かっている姿が本当に可愛い。そんなアスカとレイの板挟み『マクロス』状態になるシンジは、クライマックスで旧エヴァを文字通りに「破壊」する熱血主人公と化し、公開当時初日の劇場で、マジで観客全員で「マ?!」と発声しながらスクリーンに釘付けになったことは、未だに鮮明な記憶として残っている。ビックリしすぎてポップコーンをブチ撒いたオッサンは元気にしているかな、なんてことを本作を観るたびに思い出すのだ。久々に観てみると、本作は旧エヴァを破壊することにベクトルが向かっていて、つまりサプライズ的な改編に確かに驚くのだけれど、ゆえにエヴァっぽさという感覚も稀薄されてしまっていると思う。エヴァがポスト・エヴァ以降のアニメーションにもたらした功罪を、エヴァそのものがなぞっている奇妙な構造によって、これはエヴァであってエヴァではない、という引き裂かれた余韻が残る。エヴァ、というか庵野がソレをやる必要ってある?という。それを吉と見るか凶と見るかで評価も分かれるだろうけれど、まあやっぱり頭の上にエクスクラメーションマークが浮かび続ける展開だったし、ちゃっかり燃えたし、病み要素がデトックスされたエヴァとして見れば、フツーに楽しい映画でした。でも、鬱屈した自分にとってのエヴァとは、病みすぎ、黒すぎ、ドロドロすぎの居心地の悪いアニメーションであったことを忘れない。鷺巣詩郎のサントラは神掛かってたな。伊吹マヤさん推しでもあるので『太陽を盗んだ男』流しながらの街の目覚め、出勤シーンはとても好き。

f:id:IllmaticXanadu:20200421193129j:imageヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年/庵野秀明摩砂雪前田真宏鶴巻和哉)

YouTube無料公開にて。新エヴァで唯一繰り返し観ているほど好きなのは『Q』なのだけれど、その理由はまず、『破』で前述した旧エヴァ特有の病み感、真っ黒なドロドロ感、居心地の悪さみたいな鬱屈したヤバイ感覚に、本作が最も近いからなのだと思う。よしんば、『破』でせっかく新しいことをしたのに結局鬱アニメに戻るのかよ、という批判があったとしても、「戻ってしまう」のが庵野の作家性だと信じていたぼくのようなファンにとっては、こんなに嬉しい絶望感は無かった。絶対に庵野以外にこんな絶望映画は作れない。主人公の行動や意志のすべてを全否定し、それを楽しんで消費した観客も道づれに地獄へと叩き落とす。キャラクターへ、エヴァ自体へ、作者自身へ、そしてファンへ、全方向に向けられた絶望感、自他殺願望、ペシミズム、それら強度の高さたるや。なんて純粋無垢な厭さだろう。公開当時は震災の翌年ということもあって、劇中のカタストロフには震災を想起せざるを得ない共感もあった。そして絶望的な今こそ、純度の高い絶望を。毒には毒をだ。しかし、『Q』を作って鬱になった庵野が(駿の『風立ちぬ』は置いておいて)『シン・ゴジラ』で復活するとは誰も考えられなかった。しかも、鬱の原因がエヴァなら鬱克服もまたエヴァ・コラージュな『シン・ゴジラ』という。『シン・エヴァ』の公開延期は、延期に慣れたファンであっても悲しい。完結が拝めるその日まで、俺は『Q』を観続けるぞ。

f:id:IllmaticXanadu:20200416181734j:imageLOOPER/ルーパー』(2012年/ライアン・ジョンソン)

アマプラにて。ジョセフ・ゴードン=レヴィットの頭皮が徐々に寂しくなっていって、カットが切り替わると完全にハゲ果てたブルース・ウィリスになっていくモンタージュに人生の悲哀を見る。このようなモンタージュ含めて、ワンフレームズラしのタイムトラベル描写など、映画の力を信じているのが流石ライアン・ジョンソンだと思う。現在のポール・ダノの肉体が破損していくと、未来のポール・ダノの肉体も破損していく描写がフレッシュで最高。前半と後半で「LOOP」の意味が変わるのもツイストが効いていて嫌いになれない。後半からのガキが『オーメン』のダミアン味があって、うるさいし怖いしとても良かった。ライアン・ジョンソンケレン味徹底主義な方向性なので、作劇の強引さやプロットホールは喜んで目をつぶります。『最後のジェダイ』もそうだったけど、やっぱり撮影がいいよねー。あのフレアはアナモルフィックレンズかな?「タイムトラベルやタイムパラドックスのツッコミどころなんかどうでもいいだろ!」と念押しさせられるブルース・ウィリスエミリー・ブラントがオナニーしようかと股に手を伸ばすも、いややめておこうとジョセフを呼び出してセックスをおっ始めるのが斬新すぎて爆笑しました。

f:id:IllmaticXanadu:20200422150322j:image8人の女たち』(2002年/フランソワ・オゾン)

DVDにて。オゾンの撮るブラックコメディはどれも好きなのだけれど、最もエレガントでジョイフルな多幸感があってコレは何度も観るほど好き。フランス映画を愛した者にだけ与えられるご褒美のようなオールスターキャスト。もれなく8人全員が歌って踊るけれど、やっぱり愛しのドヌーヴが踊るたびに顔がほころんでしまうなー。久々に観たら、存在感で言えばイザベル・ユペールが優勝って感じだった。キーキーと金切り声で超絶情緒不安定に騒ぎ立てるメガネババア、からのドレス姿の美魔女へ変身!がいぇーい!とアガる。メイドのエマニュエル・べアールが胸元を開けて髪をほどいた時のいぇーい!という幸福感も最高。あのダニエル・ダリュー御大まで大トリで歌うのだから、やはりすごい映画だ。テクニカラーへのリスペクトが感じられる色彩や美術も素晴らしいけれど、なんてたって衣装の映画ファン泣かせっぷり!ギャビーの豹の毛皮は『母の旅路』のラナ・ターナー、グリーンのドレスは『荒馬と女』のマリリン・モンロー、ピレットは『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナー、シュゾンは『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘップバーン(顔も似てる!)、カトリーヌは『巴里のアメリカ人』のレスリー・キャロン、オーギュスティーヌのドレス姿は赤毛のリタ・ヘイワ―ス、ルイーズは『小間使の日記』のジャンヌ・モロー……50年代ディオールからのインスピレーションを受けて製作された衣装の数々は、それだけで本作の立派な見どころの一つになっていて、何度観ても目が喜んでいる。

f:id:IllmaticXanadu:20200422150916j:image『ヘレディタリー/継承』(2018年/アリ・アスター)

Blu-rayにて。まさか空前の『ミッドサマー』ブームが日本でも起きて、新作映画が掛からない中、『ミッドサマー』のディレクターズ・カット版が映画館で流れ続ける世の中が到来するとは思いも寄らなかった。作品への好き嫌いはともかく、アメリカからヤバイ映画がやって来るらしい、という「おそろしいものへの興味」を観客が抱き続けることは絶対に大切だと思う。そういう点で『ヘレディタリー』は「おそろしいものは楽しくて面白い」という、恐怖に対する原初的な快楽を思い出させてくれるのが良かった。本作は、アメリカから恐ろしい映画が到来してくるという果てしなき期待から、観客の多くはあの映画をホラー映画として消費したけれど、今になってつぶさに考えてみると、あの演出の数々が「笑えるような事態」を「笑わせない」ことに心血を注いでいたようにも感じられる。もちろん、あの映画に漂う異様な不穏さは、数多のホラー映画とはディメンションが異なる、磁力と強固さを備えている(あざとさすら)。したがって、劇中の展開は、予想もつかないおそろしいツイストを帯びて転がっていく。ゆえに、撮影や照明、音響や芝居以前に、文字通り暗闇へと突き進む「展開」が異様だったという印象が強かった。実のところ、アリ・アスターの作家としての興味は、人間を描くことよりも作劇に移入している傾向があるとぼくは考えている。『ヘレディタリー』はこうして久々に見直すと「こんなにも周到な伏線を張り巡らせていたなんて」と改めて驚かされるのだけれど、これらは人物描写への深み、ではなく、あくまでも作劇としての強度を補正するディテールになっている。よしんば、アリ・アスター自身があの兄に移入して撮っていたにせよ、「本当にそう撮っていたならば」、あそこまで観客を母親へとミスリードさせることはない。主人公と思わされていた母親ではなく、「実は」兄がヘイル、ペイモン!な結末を迎えることになるという、その「展開」のための「作劇」を選んでいるように見られる。つまり、本作は「こういう人間たちが右往左往した結果によって悲劇として完成した」のではなく「悲劇を完成させるために登場人物たちを絶望的に追い込んだ」という「作劇」がもたらされていると考えられる。そういった作劇が間違いである、と言いたいわけではなく、アリ・アスターの作家としての暴力性とは、あくまで「展開」に表れるものだというのがぼくの感想だ。彼が『ヘレディタリー』でおこなった暴力は、登場人物や観客それ自体ではなく、その彼らが無意識のうちに望んでいる「定型化された物語展開」そのものを惨殺することによって、間接的に登場人物や観客にも傷を与えるという構造がある。当たり前のようでいて新たな発見だったことは、ぼくらは定められたコードがズタズタに刺されていたり、ボコボコに殴られていたりする哀れな姿を見ると、本能的に不穏さや不安を感じてしまうのだなということだった。ぼくは、その計画的かつ無差別的な彼の「展開」への殺意に、大変心を惹かれた次第。まあ今回はめちゃくちゃ笑って観たけれど。地獄の門は予想もつかない形で、いつだって自分の隣で開き続けている。「家族」という絶対に逃れられない最恐の呪いについての映画であって、逆説的に「家族仲良くできて、みんなが幸せになれたらいいなあ」と夢想するくらいが今の世の中では丁度いいです。

f:id:IllmaticXanadu:20200416185327j:image『曖昧な未来、黒沢清』(2003年/藤井謙二郎)

U-NEXTにて。被写体として主役に徹する黒沢清を愛でられるただ一本の映画。最近になってよく考えることは、俺は黒沢清の映画が好きなのか、それとも黒沢清本人のことが好きなのか、ということである。まあこんな問いはくだらなくて、もちろん答えは、どっちも超好きなんだけれど、自分が作家主義な映画ファンだということを抜きにしても、黒沢清という人間の魅力についてはこれからも考えていきたい。あの野球ベースのような直角的な輪郭、ゴブリンのような顔、なのに俳優顔負けのハンサム、ヘンな髭、死んでいるようでキラキラしている眼、オマエそれしか服持ってねえのかよというポロシャツ、映画館の闇のような真っ黒い服、口を開けば独特の声色と丁寧な日本語でずっと映画の話。B級映画の話。なんだこのオッサンは。なんだこの生き物は。何考えてんだコイツは。可愛いなあ。黒沢清の演出術を映像として拝見できる、のならまあそれは普通のドキュメンタリーなんだけれど、本作はオタオタする清、投げやりな清、鬼畜な清、テキトーな清、険しい清、テッペンを越えない清、『北国の帝王』をニヤニヤと語る清など、やはり黒沢清という一匹の、間違えた一人の生き物、いや間違えた人間を愛でる癒しの映像集として、いつまでも何度でも観れる面白味に溢れている。

f:id:IllmaticXanadu:20200422032208j:image『オクジャ』(2017年/ポン・ジュノ)

Netflixにて。堂々巡りで出口なしの地獄を目の当たりにしても尚、二元論的な正しさにおもねることなく、「わたしはこうしたいんだ」という少女の無垢な個人主義にすべてを託す辺り泣ける。序盤でブタちゃんの主観ショットがあって、そりゃ『グエムル』を撮ったポン・ジュノなので当然なのだけれど、モンスター映画における文法、主に視点の統制までそつなくこなしてしまうのだから脱帽の域。プロットそれ自体に目新しさは無い(もちろんエンターテインメントとして十二分に面白いので批判ではない)のだけれど、本作は演者が全員いい。ティルダ嬢の一人二役余裕のよっちゃんだし、ジェイク・ギレンホールはほとんどヒース版ジョーカーでマッドなムツゴロウさんだし、ポール・ダノはおとなしいなーと思いきや、出た、やっぱり『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』大好き人間としてはポール・ダノはこうでなくっちゃとヒヤッとする芝居があり、俳優陣を眺めているだけで十分に楽しい。スティーヴン・ユァンの翻訳ボケも笑った。みんな良い意味で肩の力を抜いてて楽しそうだった。主人公ミジャの疾走やブタちゃんのソウルでの逃走やトラックによる並走チェイスなど、移動ショットがとにかく凄まじいのだけれど、その辺は『グエムル』で洗練され尽くしていたのでお手の物という感じ。ドローンやステディカムを使って一つの移動の中にもメリハリがあり、ポン・ジュノから学ぶべきことはまだまだ多い。屠畜映画としても、終盤で手加減なく残酷描写を見せ付けてくれるので、今日ソーセージを食べたキミも観ていたたまれない気持ちになろう!

f:id:IllmaticXanadu:20200422023029j:imageブレードランナー2049』(2017年/ドゥニ・ヴィルヌーヴ

Netflixにて。コレもう3年前になるのかー、時早ーっ。いや、ヴィルヌーヴ版『DUNE』のヴィジュアルが先日初公開されて、嫌われてるリンチ版も幻のホドロフスキー版の構想も大好きな自分の感想ではあるけれど、どう考えてもダサいじゃん、何コレ『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクじゃん、いやでも『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクは面白そうだな……とモヤモヤしてしまったわけです。それで3年ぶりに再見してみようと思い立ち観たわけですが、やっぱりヴィルヌーヴという監督は、自分にとっては重要な監督ではないと思った。『プリズナーズ』も『複製された男』も『ボーダーライン』もとても興味深く観れたし、特に『アイズ・ワイド・シャット』ミーツ『ファイト・クラブ』な『複製された男』は好きなのだけれど、賢く振る舞ってるスノッブ感にあまり惹かれない、というか心に残らない感じが……。映画ってもっとでたらめでバカじゃんと信じている人間なので、たとえば『ピラニア3D』に対して「これは3D映画への冒涜だ」みたいな発言をしたキャメロンのような「賢くて正しくて健全なフリをした」映画監督にはあまり興味を抱けない……(キャメロンは『アバター』が苦手だったので……)。『メッセージ』は嫌いな映画ではないけれど、タコ型エイリアンの造形にはガッカリしたし……。とにかく、くだらないことを頭良さげに見せる「風な映画」は、自分とはあまり関係がないと思ってしまう。本作は公開当時、初日に駆け付けたけれど、長えー、遅えー、暗えーという印象が最も強かった。でもブレランの続編として考えたら、無いよりは有った方がいい映画だとは思う。ブレランがSFノワールだったのに対して、本作はヴィルヌーヴの一貫した「自分探し」というテーマにしっかりと落とし込めているし。孤独な男がメソメソする映画は好きなので、無表情でどんよりしているライアン・ゴズリングは緊急事態に観るには大変ふさわしかった。レイチェルの上目遣い泣き顔……そりゃ泣くよ。かまってちゃんなラヴちゃんの頬をつたう涙……そりゃ泣くよ。完全に初音ミクなアナ・デ・アルマス演じるジョイちゃんが最高。2049年になってもロリコンが完治できない人類。喧嘩の途中にプレスリーの『好きにならずにいられない』が流れて「この歌が好きなんだ」と喧嘩を中断するデッカード可愛い。ハリソン・フォードがクライマックスで溺れそうになるのがとても可愛い。あのデッカードが、あの強い男がとかではなく、単におじいちゃんが車中で溺れそうになる映像なのがとても楽しかった。

f:id:IllmaticXanadu:20200422034104j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!

最近観た映画の備忘録#1(緊急事態宣言には映画が合う、とか言っておかないとストレスフルで気が滅入るので、今こそ自宅映画鑑賞を崇めつつ、その記録を残しておこうと考えた、そんな趣旨による雑記)

f:id:IllmaticXanadu:20200415221548j:imageスター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019年/ J・ J・エイブラムス)

U-NEXT先行配信にて。劇場鑑賞以来なので約4ヶ月ぶりに観た。当時は、ものすごくおもしろいものを観たという躁の感情と、ものすごくつまらないものを観たという鬱の感情にアンビバレンスに引き裂かれていて、思考に逃げ道が無かったけれど、落ち着いて観たら普通に楽しかった。ここに於ける「落ち着いて観たら」とは、端的に言えば「これはスター・ウォーズサーガの完結編だ!」と、あまり期待しないで観るスタンスのことだ。それでも、スター・ウォーズなのだから雑多な感情が湧き上がることもまた事実だけれども「まあどうせまだまだ続くし……これもまた一つの通過点に過ぎないのだから……」という達観思想を持つことこそが、寿命を縮めない最善の策だろう。ぼくはディズニーが製作したシークエルは、もうカイロ・レンが素晴らしかったからお釣りは返ってきた、と楽天的に捉えている。カイロ・レンというか、マーケットにおけるアダム・ドライバーの発見、という意味では重要なシリーズだったと思う。カイロ・レンについては賛否両論の『最期のジェダイ』の時点で、やっぱりコイツが主役じゃん!厨二病!エモい!いぇーい!と高揚していたので、本作もカイロ・レンさえ良ければ及第点なのでは、くらいの気持ちで観てしまっていたけれど、やっぱりカイロ・レンは変わらず最高だった。アダム・ドライバーの演技力も相まって、クライマックス、アレを受け取った時のポーズや、レイちゃんとアレした後の「俺たち、やっちゃったねえ〜」な照れ笑いなど、悶絶級に可愛いかった。あとはパルパティーンが楽しそうにバカ悪役に徹していて、いつの世も映画の中で悪い人が悪いことを楽しそうにしているのは可愛いなあ、と癒された。ランドが元気そうだったのも救いだった。ただ、例えばレイア姫がアレした後に咆哮するチューバッカのショットを、すぐにヒキで捉えて、すぐに佇むカイロ・レンに移行しちゃう辺りが、キャラクターの悲壮感に寄り添ってあげられていないと思えてあまり好きになれない。あのようなシーンでヨリを徹底できないのが、J Jとルーカスの差だろう。もしくはスピルバーグとの差。ご丁寧にチューバッカの咆哮にリバーブを掛けてフェードアウトさせるのも、逆に観客の移入を阻害させる。めちゃくちゃ泣けるはずだったシーンなのに……(まあその後のカイロ・レンとあの人の会話できっちり泣くのだけれど)。しかしチューイにメダルを……のくだりでは涙腺決壊したわけで、やはりスター・ウォーズは観るたびに感情の起伏が激しく波打ってしまう。健康に悪いです。

f:id:IllmaticXanadu:20200420232345j:imageアルファヴィル』(1965年/ジャン=リュック・ゴダール)

Blu-rayにて。「ゴダールの中で一番好き」という作品がゴダールのフィルモグラフィにはいくつもある、という矛盾を孕みながら、本作に関する想いを堂々と宣言する。ゴダールの中で一番好き。現在のパリそのままでSF未来都市をやっちゃうという異化。すべての自主映画少年たちに贈りたい。ジッポライターを通信機と言い張って撮ってしまえば、それはもうジッポライターではない!『午後の網目』オマージュがあるので、そのための敢えてのモノクロか?と推測してしまうくらいにモノクロームが美しい。撮影も照明もショットもモノクロゴダール作品の中でも特にすごい。かっこいい。「愛してると言え!」「…………愛してる」が切なすぎる。当時のゴダールとアンナの過渡期な関係を想起して観ると、カメラ目線で愛の告白をするアンナ、それを撮るゴダールの姿、切なすぎる。ってかこのシーンはまんま『ブレードランナー』にパクられたわけだ。ブレランも「未来はやって来ずに近未来だけが続く」というポストモダンであり、雨の日に歌舞伎町を傘差して歩けばそこはもうブレランの世界という、現代都市は未来なんだというセンス・オブ・ワンダーにめっぽう弱いのかもしれない。本作におけるノワール感マシマシのアンナの美しさは、陳腐な言葉で書き残せない。この同年に『気狂いピエロ』というすごさ。恋が完全に終わりを告げた年の二本。その二本こそ、愛する人を最も美しく撮れてしまっているという哀愁たるや。愛にしがみつきながら、愛を葬る。ぼくの中では本作と『気狂いピエロ』のアンナが、どのアンナよりも最もチャーミングで、哀しくて、エロティックで、健康的で、恐ろしくて、美しいと思います。

f:id:IllmaticXanadu:20200421214310j:image『CUBE』(1997年/ヴィンチェンゾ・ナタリ)

U-NEXTにて。中学生ぶりくらいに観た。ヴィンチェンゾ・ナタリは誰が何と言おうと、あの愛すべき『スプライス』が最高傑作だけれど、コレはコレで、アイデア一発の低予算ワンシチュエーション・スリラーを突き通す気概に満ちていて好き。というかこの手のハナシはやったもん勝ちで、先にやっちゃったやつが偉い。単純に役者の「顔」の選び方も最適で、こいつはこういうやつだろう、という観客の固定観念を徐々にひっくり返していく展開も楽しい。もはや人間それ自体が立方体のように様々な面から成っている、みたいな微妙な入れ子構造とでも言ってしまおうか。どのタイミングで謎を明らかにするかよりも、どの窮地でハプニングやアクシデントを投入するか、その手腕こそ最も評価したい。精神障害が疑われるカザン投入のタイミングなんか、観客全員が「あちゃー」と冷や汗を垂らすけれど、その「あちゃー」という感情こそが人間の負の側面を浮き彫りにさせる。「光を見上げる」というショットがちゃんとあるのも嬉しい。久々に観たら数学女子のレブンちゃん可愛かったですね。ちゃんと「メガネメガネ……」と手で探すくだりがあるのも信頼できる。ペシミストのワースは『ジョーカー』みたいだった。脱獄のプロのおじいちゃんが「お前ら油断すなよ」と言った刹那に酸ぶっかけられるの笑った。クソ野郎のクエンティンは、今回観ていたらアルコ&ピースの平子さんを、似ているというか想起したのだけれど、全国のアルピーファン同感いただけないでしょうか。

f:id:IllmaticXanadu:20200415221903j:imageブラック・スワン』(2010年/ダーレン・アロノフスキー)

U-NEXTにて。何回観てもナタポーがオナニーしていると横で母ちゃんが寝ていてギャッ!となるシーンが素晴らしい。間違いなく『レイジング・ケイン』における、昏睡状態の奥さんの前で不倫相手とキスしていたら奥さんの目がドドーンと見開いててカメラがガンガンガン!とズームしてギャッ!となるシーンのパクリなんだろうけど。本作はそんな感じで『反撥』だったり『回転』だったり『パーフェクトブルー』だったりと、数多のニューロティック・スリラーのモザイク画として完成されているのも映画ファンには楽しい。ミラ・クニスがザ・ビッチというフェロモン満々。一度でいいから騙されてみたいものです。ナタポーとレズるシーンもちゃんとエロくて最高。「家帰ってオナってこい!これは宿題だ!」とセクハラするヴァンサン・カッセルも終始楽しそうで良かった。あとクラブのシーンが『サスペリア』ミーツ・ギャスパー・ノエみたいに狂ってて、フレームごとでナタポーの顔がバケモノになっていたりするので、あまり健全な見方ではないけれど一時停止しながら確認したら楽しかった。

f:id:IllmaticXanadu:20200416180538j:imageどですかでん』(1970年/黒澤明)

U-NEXTにて。久しぶりに観たらオープニング・クレジットから六ちゃんのシークエンス終了までで「やさしすぎて」泣けた。悲哀のラプソディ。とは言え、貧困の中で紡がれる人の情も、一周回って、地獄の温度を肌身で感じているような恐ろしさすらある。ほとんどオムニバスというよりブニュエルの『自由の幻想』に近い作風だけれど、どの登場人物のエピソードも、それだけで一本の映画として物語られるくらいの厚みと魅力があるのが楽しい。同時に、当時の黒澤明の自滅/自殺願望を経て獲得した「芸術」と「人間」へのささやかな希望も真空パックされていて、やっぱり『夢』に一番近い。そりゃ売れないわ。『トラ・トラ・トラ!』の挫折を経て、日本映画の復興を目指して木下恵介市川崑小林正樹らと結成された四騎の会は、結局本作と小林の『化石』のみ。もっと観たかったし、木下・市川の監督作も拝みたかった。瞳孔開いた布びりびりおじさんを演じる芥川比呂志のシークエンスだけ、貧困と孤独によって狂い終わった人間を刻々と見つめていて、演出は野村芳太郎ですか?ってくらいホラーでめちゃくちゃ怖かった。フツーにトラウマ。

f:id:IllmaticXanadu:20200415222355j:image『HOUSE ハウス』(1977年/大林宣彦)

U-NEXTにて。追悼大林監督。悪魔的ヴィジョンすぎて続けて2回観た。キュートでファンシーであることと人体破壊を徹底することによって、映画のマジックから未だに解かれていない永遠のアヴァン・ポップ。ぼくは女友達が仲良くやっぴー!と楽しそうにはしゃいでいる映画は、それだけで100点差し上げるというくらい女友達映画が大好きなので、本作もずっとずっと楽しくて仕方がない。南田洋子のおばちゃまも踊ったり猫ちゃんポーズしたりあくびしたり楽しそうで可愛い。「こうやって若い皆さんがたくさん訪ねてくださったんですもの……よかったわ」の言い方で吹き出す(劇伴が一瞬消えるのも笑う)。猫がピアノにジャンプして上がったり下りたりするのを逆再生してニャンニャンとループするシーンがツボすぎて爆笑してしまいます。見るからにアホっぽい再婚相手を演じる鰐淵晴子の首のスカーフが必ず全シーンなびいているのも「映画最高!」というでたらめさで大好きだ。大林監督の訃報を受けて観ると、ラストの台詞がエモい……。「たとえ肉体が滅んでも、人はいつまでも誰かの心に残り、その人と共に生き続けている。愛の物語はいつまでも語り継がれていかなければならない。愛する人の生命を永遠に生き永らえさせるために。永遠の命を。失われることのない人の思い。たった一つの約束。それが愛」生涯クンフーちゃん推し。

f:id:IllmaticXanadu:20200415222352j:imageフォクシー・レディ』(1980年/エイドリアン・ライン)

DVDにて。我らがジョディ・フォスター圧勝かと思いきや、ランナウェイズのシェリー・カーリーの優勝。二人がベッドで友達のメガネちゃんの処女喪失を聞いて「大人になっちゃったネ……」とまどろむショットがヤバすぎた。展開が意外にも読めない。特に後半は少女が逢いたくない出来事が連発して、悪夢的で衝撃的な結末を迎えるので「エッ……!」と驚嘆しつつポカーンと取り残される余韻が怖くてヤバい。あの人が絶対にそんなことにはならないだろうとか、そんなバカみたいなことにはならないだろう、という因果律を破壊してくるショックがちゃんとあって、ゆえに実人生に近い。まあ、あのショックバリューな悪夢映画金字塔『ジェイコブス・ラダー』を撮ったエイドリアン・ラインの初監督作なので、頷けなくもない。当然、バッキバキに照明が決まっていて陰影が美しく、めちゃくちゃ『フラッシュダンス』への助走感があってそれもヤバい。『HOUSE』でも書いた通り、ぼくは女友達が仲良くやっぴー!していればもうそれだけで満足するくらいの変態なので、『フォクシー・レディ』も余裕で大好きだ。チャンネーたちが朝日を受けながらグースカ添い寝している姿や、その彼女たちの太ももやくびれを強調するカメラワークがどうしたって素晴らしく、もんどりうつ美しさで、この健康的エロな感覚は、流石はエイドリアン・ラインです、と口角が上がります。めちゃくちゃ『フラッシュ・ダンス』を見直したくなった。

f:id:IllmaticXanadu:20200416150217j:image『アンダルシアの犬』(1928年/ルイス・ブニュエル)

DVDにて。オールタイムベスト級に好きだし短いのでもう何度観たか分からないけれど、いつ観ても笑ってしまう。服の上から胸揉んでたら服が消えて「うひょー生チチだー」とよだれ垂らしながら揉み続けていたら徐々にケツになっていく、とか書いていてバカすぎる。女の脇毛が男の口に移動してドヤ顔したりするのもバカすぎる。ラスト砂浜にぶっ刺さってるのもバカすぎる。バカ映画クラシック。

f:id:IllmaticXanadu:20200416145359j:imageヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005年/デヴィッド・クローネンバーグ)

U-NEXTにて。クローネンバーグの映画なので当然セックスシーンがキモいし重要事項なわけだけれど、最初のコスプレセックスにおけるクンニリングスもキモいのだけれど、旦那の暴力性を目の当たりにして以降奥さんがそれを嫌悪しながらも興奮してきちゃうという、ほとんど暴力行為に近い2回目の階段でのセックスシーンが圧巻の感動。冒頭の長回しの不穏さだけでも頭が上がらない。家のセットが完璧に映画的な設計ですごすぎる。クローネンバーグのフィルモグラフィでは最も分かりやすく肩の力を抜いてエンタメしていた。イラク戦争からの帰還兵、というメタファーを通して観れば、こんな人間を大量生産してしまった事の恐ろしさと馬鹿馬鹿しさについて考えさせられる、つまり逆説的にピースフルを目指した暴力映画。最後の10分くらいしか出てないのに助演男優賞獲ったウィリアム・ハートも可愛かった。エド・ハリスはいつも通りに怖すぎ。

f:id:IllmaticXanadu:20200416164118j:image『愛と誠』(2012年/三池崇史)

U-NEXTにて。「純愛はバカ」という真実から徹頭徹尾逃げない姿勢が本当に素晴らしい。純愛もバカだし、幸せすぎて急に歌い出す人もバカという、ミュージカル映画へのアンチテーゼとメタが機能しているのも天才的な客観視点。バカを台詞ではなく人物やカメラの距離感で表現しているのも、映画屋・三池の技術力の高さを雄弁に語っている。最近の三池映画はどれもほとんど例外がないのだけれど、撮照の技術が高すぎるし、ショットは正解しか出さないのに、現象や脚本がバカすぎて乖離しているオリジナルな異化がすこぶる愛おしい。このような「おとなの悪ふざけ」「技術の無駄遣い」はもっと評価されていい。三池の中でもかなりフェイヴァリットの大好きな作品で、しかし『愛と誠』リアルタイム世代のぼくの両親は「最低の実写リメイク」と酷評していた。果たして、梶原一騎の世界観を現在の視点からメタ化して語り直す、その脚色こそ賛美しようじゃないですか。前半30分はほぼ5分おきくらいにバカミュージカルを展開していくが、中盤以降で母性へとベクトルが向かうと、これもまた良い。ぼくは母ちゃんがボロボロになってメソメソしていたりする映画に大変弱いので、クライマックスの踏切のシーンでは恥もなくびーびー泣いてしまった。そして最も特筆すべきトピックは、武井咲のコメディエンヌとしての才能開花である。彼女が歌唱する『あの素晴らしい愛をもう一度』の、あまりの馬鹿馬鹿しさと可愛らしさ。メイド服コスプレで嫌々ストリップさせられたり、縄で縛られて硫酸かけられそうになったり、三池が嫌がらせしたくなるのも分かる。斎藤工がサビを歌う直前で突然バシッとポーズを決めるたびに、ビクッ!と怯えてドン引きする武井咲なんて、本当にフェティッシュで素晴らしいです。

f:id:IllmaticXanadu:20200421213553j:imageファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)

Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!