無教訓・意味なし演劇の華麗なる意味を求めて三千里、「意味があること」への高度な反論としての『地蔵中毒の人力ネットフリックス vol.1~紅茶の美味しい粘液直飲み専門店』雑感(あるいは、ヴェルタースオリジナルおじさん補完計画)
地蔵中毒について書くべきことは何一つない。
Gremlins 2: The New Batch (1990) Trailer
Mars Attacks [1996] Main Titles Blu-Ray
Federico Fellini - 8 1/2 (New Trailer) - In UK cinemas 1 May 2015 | BFI Release
Le Fantôme de la liberté luis bunuel à la table
The Holy Mountain - Official Trailer | ABKCO Films
2000 Maniacs! (1964) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]
Week-End / Week-end (1967) - Trailer French
Kantoku Banzai (JAPAN 2007) - Trailer
Faster, Pussycat! Kill! Kill! (1965) Trailer
'Monty Python and the Holy Grail' 40th Anniversary Official Trailer
plan 9 from outer space (trailer)
The Dinner Game (Le Diner de Cons) - Film Trailer With Subtitles
The Kentucky Fried Movie (1997) Official Trailer
Bloodsucking Freaks (aka The Incredible Torture Show) (1976, USA) Trailer
最近観た映画の備忘録#7(スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスな映画たち)
DVDにて。カラックスは『汚れた血』がオールタイムフェイヴァリットに大好きで、あとは『ホーリー・モーターズ』と『TOKYO!』の『メルド』も大好きで、実はアレックス三部作それ自体への思い入れはそこまで過多しているわけではないけれど、久しぶりに観た本作は、やっぱりどう考えてもスゲー映画で感銘を受けた。こんな映画、マジで一生に一本しか撮れない類のヤツじゃん。あの有名な、フランス革命200年祭で花火ボッカンボッカンなポンヌフで乱舞するドニ・ラヴァンとビノシュのシーンよりも、地下に貼られたビノシュの顔面デカポスターを全部ブチ燃やすシーンが泣ける。カラックスの心の叫びに全映画ファンが共鳴……。世界のすべてとすれ違ったとしても、それでも走り続けたいと願ったカラックスが、最もすれ違いたくなかったビノシュとのすれ違いを経て、映画による再現/復讐/救済/成就まで辿り着く、ラストの「まどろめ、パリ!」へと辿り着く、映画少年とミューズの世界一美しい失恋のカタチ。ヌーヴェルヴァーグの孫と呼ばれたゴダール大好きカラックスが、その失恋の仕方までゴダールと同じになる辺り、宿命とは恐ろしい。取り返しのつかない気持ちは、映画によって取り返せる。恋も失恋も、映画があれば怖くなんかない。面会にやって来たビノシュの顔のヨリ、からの「治らないものはないわ」、からのこぼれ落ちる一粒の涙、オールタイムベストシーンの一つ。どのビノシュよりも、最も美しいビノシュ。ゴダール然り、カラックス然り、やっぱりカレシが撮るカノジョがいちばん綺麗なんでしょうか。『汚れた血』のスカイダイビング同様に、ビノシュにガチで水上スキーさせて無茶させる辺り、とても可愛い。眼帯トラックスーツ姿のビノシュも可愛い。ドニ・ラヴァン、車に足轢かれてたけど大丈夫なん?!としばらく心配しながら観てしまった。映画が最高潮にジョイフルに到達するポンヌフでの二人の再会シーンで幕を下ろさず、ちゃんとビノシュへ怨念をぶつける行為があって、からの、すべてを水に流そうと言いたげな水中落下があるの、カラックスのことを考えると泣けてしまう。カラックスとビノシュが打ち上げた最後の花火。花火そのものが刹那的な事象であるかの如く、アレックス三部作は事実上、カラックスにとって呪われた映画群となった。しかし、事ここにおいて歴然としていることは、カラックスからビノシュへの愛と私怨以上に、本作は製作過程も含めて「呪われまくった映画」であり、若き映画作家にとっての呪いとは、祝福と同義の機能をしていることに他ならない。ということで、借金、撮影延期、どんどん不機嫌になるビノシュといった地獄のようなメイキングも面白い。
『ファイアbyルブタン』(2012/ブリュノ・ユラン)
DVDにて。最ッ高オブ最ッ高。自分が好きなもの、愛してやまないもの、恍惚するもの、憧れを抱くもの、興奮するもの、恐ろしいもの、エロいと感じるもの、そして何よりも超絶に美しいと感じるもの、そのすべてが詰め込まれていた。素晴らしい映画と出会うたびに「もしかして、コレって俺のために作られたんじゃね?」とパラノイア的自意識過剰が起きてしまうのだけれど、クリスチャン・ルブタン監修による「FIRE」という芸術が、まさにそれだった。俺の好きなものしか映らない!やっほう!多幸感!やっぴー!以前『ムーラン・ルージュ』や『NINE』の感想でも記した通り、ぼくはキャバレーやバーレスクやストリップへの強烈なオブセッションとフェティッシュを抱いている。豪華絢爛・ゴージャスフルな空間で歌い踊る女性の肉体/裸体に対する憧れと恐怖は、恐らく死ぬまで続く。そんな自分にとって、本作が最上級の歓びに満ちたものだったことは言うまでもない。パリの老舗ナイトクラブ「クレイジーホース」で、たった80日間のみ披露されたルブタン演出のナイトショー。その映像化を試みた本作。音楽にはデヴィッド・リンチも参加していて、実はほとんどリンチ的なヴィジョンや世界観を漂うことができるというのも、彼のファンには果てしなく嬉しい。もう冒頭のヌード美女兵隊たちからして最高のパフォーマンスだし、エロティックだったりサイケデリックだったりポップだったりモダンだったりして、全パフォーマンス漏れなく素晴らしい。圧巻はラスト。『ブレードランナー』のセクサロイドオマージュな女性たちが、やっぴぃやっぴぃ!くれいじぃくれいじぃ!とファンタスティックに歌い踊る映像には、感情それ自体の震撼を経験した。一生観ていられる。一生観ていたい。映像だけでこの多幸感ならば、もし自分が実際のクレイジーホースを観劇してしまったら、泡吹いて昇天してしまうんじゃないか。いやもう絶対死ぬまでに行くぞクレイジーホース。その夢叶うまでは、DVDを購入したので、今後も繰り返し鑑賞しつつ浸り続けたい。なるべく色鮮やかなカクテルを片手に乾杯しながら観ます。
『アクロス・ザ・ユニバース』(2007年/ジュリー・テイモア)
DVDにて。よしんば「ビートルズの楽曲だけでミュージカル映画を作っていいよ」と言われたら、どの曲をどんな場面で如何にして並べるか誰しもが高度に夢想してしまうことだけれど、それをホントにやりました、ハイ33曲オールビートルズ、どんなもんじゃい、な映画。ミュージカル映画スキー+ビートルズスキー=自分なので、あまりにもちょろく「最高の映画だ!」と好きな映画の一本になっていたけれど、久しく再見できていなかった(と、思っていたけれど、記憶を辿ればダニー・ボイルの『イエスタデイ』を観る前になんとなく観ていたことを思い出した)。見直して観ると、やっぱりビートルズのみが歌唱されるミュージカルってだけで満点ですという甘々な感想になってしまうのだけれど、映像面でも、良い意味で荒唐無稽でサイケデリックでとても楽しかった。映画の文法に重きを置くというよりは、気持ちイイように繋ぐんだい!という健全なでたらめさに好感が持てる。Strawberry Fields Foreverが流れる中、映写映像でアメリカとベトナムを連結してみたり、バーの鏡に映る主人公・ジュード(めちゃフラグネーム)にマックスがオーバーラップしてHey Judeを歌ったり(ジュードの母ちゃんも「彼女のとこ行ってき」と歌うのが可愛い)、I've Just Seen a Faceを歌いながらのボウリングシーンでは、皆テンション上がりすぎて人間ボウリング会場と化してしっちゃかめっちゃかヘルタースケルター、と、ずっと映像が楽しい。舞台装置バコバコ使うぞーい!という勢いで割と機械仕掛けに動くセットが多くて、特にベルトコンベア式の横移動が印象深かった。I Want You (She's So Heavy)を徴兵スローガンと絡めたり、Oh! Darlingの歌詞を使って舞台上で喧嘩したり、ビートルズのこの曲のこの歌詞だから物語が展開するんです!という逆プレハブ方式シナリオ術によって関連性をちゃんと持たせているのも良い。Happiness Is a Warm Gunのシーンでエッチなナース服のお姉さんが5人も登場してエッチに注射を打っていたので加点対象です。吹き替えなし、しかも生録音で挑んだ俳優陣の芝居・歌唱力も素晴らしかった。ヒロインのエヴァン・レイチェル・ウッドは、どうしても『サーティーン』のゴスっ娘とマリリン・マンソンの元カノという、なんだかダークな印象があったのだけれど、本作では心機一転、学生運動に励む純真かつ燃える正統派ヒロインを見事に演じ切っていた(翌年の『レスラー』ではミッキー・ロークの娘、翌々年の『人生万歳!』ではウディ・アレンの分身のジジイと恋仲になったり、なんとなく女優としてのシフトチェンジに挑んだ3年間だったと思う)。主人公のジム・スタージェス、ペ・ドゥナの元カレだ!ジョー・アンダーソンが演じるヒロインのルーシーの兄貴・マックスがナイスガイで、ちょっとこのキャラクターへの想いは忘れ去れない。ずっと酒飲んでタバコ吸ってひねくれながらも楽観主義で自由なヒッピー青年なのだけれど、要はめっちゃ「俺たち」側なのだ。ガキの頃にビートルズを聴いて、ロックってカッケー!フリーダム!オールユーニードイズラブ!と憧れていた「俺たち」が、あの兄ちゃんへの親近感に集約されている。加えて、「愛こそはすべてさ」と愛する女性に向かって歌うダチの後ろで「彼女は!マジで!お前のことを!愛してるぞおおお!」と歌い叫ぶ彼の優しさに爆泣き。このShe Loves Youの使い方はすごい。これは完全に脱帽。本当にラスト直前の歌唱だけれど、このアンサンブルにめちゃくちゃ胸を打たれてしまった。映画の中でちゃらんぽらんだった人がクライマックスでかっこ良いところ全部持ってくの、あれズルいよね?泣いちゃうじゃん。
『メリー・ポピンズ』(1964年/ロバート・スティーヴンソン、ハミルトン・S・ラスク)
DVDにて。いつ何度観ても圧倒的に素晴らしすぎるアルティメット・オールタイムベスト。そりゃもちろん、人生や人格形成にあらゆる影響を与えてきたオールタイムベスト級の映画は山のようにあるけれど、仮にも「俺が一番好きな映画は『メリー・ポピンズ』だ!」と豪語してしまっても過言ではないくらいに、何度も観ているし、永遠不滅の愛すべき大切な一本。
とにかく「映画が喜んでいる」という楽しさでみなぎっている。ほとんどドラッグ的な幸福感の連べ打ち。ジュリー・アンドリュースは生きて歌って踊る「幸福」そのもの。ウルトラナイスガイの我らがディック・ヴァン・ダイクは、彼が楽しそうに思い切り踊っているだけで、涙が出るような感動が湧き上がる。本作が名作たる所以は、漏れなく画面に映っているすべての事柄が最高という点もあるけれど、実は物語の深部に込められた想いにこそ、今尚、ぼくらの感情を揺さぶる力がある。
『メリー・ポピンズ』は極めて重層的な作品になっている。この映画の主人公はメリー・ポピンズではない。本編内でメリー・ポピンズは、全く成長しない、言わばスーパーヒーロー/超人/天使として君臨する。彼女が救いに降りた人物とは、果たして子供たちだったのだろうか。否、誰よりも成長すべき登場人物がいたはずだ。それは、彼らの厳格で頑固な父親・バンクス氏のことだ。
現実は誠に辛く厳しい。想像すらできない絶望がそこら中で息を潜めている。しかしメリー・ポピンズは子供たちに対して、そんな「現実の厳しさ」を教えるのではなく、「厳しい現実を生き抜くための武器」を与えていく。例えば、面倒くさい片付けは「ゲームのように楽しくやる」、落ち込んだ時は「意味もない言葉を喋ってみる」、貧しく苦しんでいる人を見かけたら「慈悲とお金を恵んであげる」など。メリー・ポピンズは言う。「苦いお薬も、ひとさじのお砂糖さえあれば飲めるようになるわよ」ここでの「苦いお薬」とは「現実」のことを、「ひとさじのお砂糖」とは「笑顔やユーモア」を指している。バートと共に屋上に登った子供たちは「世界を上からの視点と広い視野で見ること」を学ぶ。そしてバートはこうも教える。「お父さんは寂しくて孤独な人なんだ。お父さんは檻に入っている。銀行という形をした檻だよ」バンクス=銀行という洒落は、ここで意味が付帯される。その後のディズニー映画がそうであったように、実は物語がターゲットにしているのは子どもではない。その子供を連れて来た親だ。すなわち、メリー・ポピンズやバートは、子供ではなく、親に向けて間接的に「厳しい現実を生き抜く術」を伝授している。なぜなら、親たちは「厳しい現実」というものを既に知っているからだ。メリー・ポピンズは、親が子供たちに対してどのように教育をするべきか、そして子供を持つ親たちはどのように生きるべきなのかを説き続ける。
『メリー・ポピンズ』の真の主人公は父親であるバンクス氏だ。彼は出世こそが男の生きる道だと自らに定め、その固定観念の中で不器用にもがき苦しむことになる。それはまるで「これまでも、これからも、父親とはそうであって然るべき」という自縛の中で、本来最も大切にするべきだったものを見失っているかのようだ。彼に「大切にするべきだったもの」を気付かせたのは、メリー・ポピンズやバートであり、子供たちの優しい心によるものだった。『メリー・ポピンズ』の真の物語は、バンクス氏の苦悩と、その状況からの脱却にある。鮮やかな色調の果てに到来する、あの夜道を歩く惨めな男の後ろ姿たるや。あまりにも、あまりにも切なく、泣けてしまう名ショットだ。それでも歩き続け、社会や時代や固定観念の象徴たる社長や重役の前に立った彼は、子供たちから教わった「魔法の言葉」をつぶやいて成長する。仕事や出世よりも、家族を愛して、一緒に笑って楽しく生きることを、俺は選ぶ!バンクス氏はここで初めて敵対者と逃げずに「闘い」、「勝利」した彼は笑顔で家へと帰宅する。最初は子供たちと共に上げられなかった凧を、今度は家族4人揃って、一緒に……。
本作の公開年である1964年とは、アメリカにビートルズがやって来たヤァ!ヤァ!ヤァ!の年として重要で、ここで『アクロス・ザ・ユニバース』と本作は繋がってくる。ビートルズのアメリカデビュー以降、アメリカはカウンターカルチャーの時代へと突入した。それまでの古臭い固定観念はすべて撤廃し、ラブ&ピースのために若者たちが「闘い」を始めた。そのアゲインストの様子こそ、『アクロス・ザ・ユニバース』で描かれていたベトナム戦争への反対運動だ。バンクス氏の「闘争心」は、まるで歴史を予言するように、現実の若者たちへと伝播していっている。カウンター・カルチャーにとってのメリー・ポピンズこそが、バンクス氏だったのかもしれないと連結させるのは暴論だろうか。
と、あまりにも愛している映画なので初めて改行して記してしまったけれど、まあ、あれです、いつか自分も子を持つ親になったら、絶対に家族でこの映画を観たいということ。メリー・ポピンズが空から降りてこないように、当たり前に子供を愛してあげたいです。そして、ぼくにとっては「映画」こそが、「苦い薬」を飲ませるための「ひとさじの砂糖」であることを、『メリー・ポピンズ』はいつも実感させてくれます。
余談だけれども、いつ観てもペンギンちゃんたちが超絶に可愛い。映画史上最高のペンギン。『メリー・ポピンズ』を観るたびに、脊髄反射的にペンギンに逢いたくなって水族館への欲求が高まるのがやめられない。いやでも『バットマン・リターンズ』のペンギン軍団もすこぶる可愛いくて仕方なかったな……まあいいや!みんなも営業再開した水族館へ行く前に『メリー・ポピンズ』を観よう!(暴論)
『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)
Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!
最近観た映画の備忘録#6(なんとなく読み続けている読者の方は察すると思うのですが、わたしは女優について特に書くことが多く、それは美しい女優へのファナティックな幻想によるものと言うよりは、スクリーン一杯に映る女優の顔に対する、うっすらとしたフォビア(恐怖)があり、その美しさとグロテスクさに、魅惑されながらも脂汗を流してしまう、人生で最も興味を抱く存在だからなのかもしれません。そんなこんなで、今回も女優について書いている感想が多いです)
『スキャンダル』(2019年/ジェイ・ローチ)
U-NEXT先行配信にて。観たかったのだけれど劇場鑑賞のタイミングを逃してしまったので配信にて初見。めちゃくちゃ面白かった。『オースティン・パワーズ』シリーズのジェイ・ローチが監督?と疑うほどに、ストレートに社会派やってた。ぼくはこの手のセクハラ告発モノは結構苦手で、というのも、どうしたって女性が酷い目に遭う様子を生々しく見せられるのは、男女関係なく怒りが湧くし嫌悪感を覚えてしまうからだ(同様の理由でレイプ描写も超苦手)。本作も愛しのマーゴット・ロビーがそういうシーンに挑戦するのだけれど、ヒヤヒヤして動悸が激しくなりほんとキツかった。しかし、便宜上「女ナメんな」映画でもある本作は、キモくて最低な男たちへのリベンジ&アゲインストとしてのカタルシスもしっかりと用意されているので、紛うことなきエンターテインメント。観ながら共に「ふっざけんなクソジジイ!!」とムカついた人ほど「ザマア!!」感は強い。セクハラオヤジ、ロジャー・エイルズをジョン・リスゴーが久しぶりに悪意たっぷりに怪演していて、往年の彼のファンには嬉しい芝居だった。加えて、エイルズ自身を単なる悪役・敵役と定型化せずに、アメリカの政治とテレビジョンの癒着関係の、その悲しき犠牲者の側面もある「かわいそうなひと」として哀愁漂わせる着地に導いているのも良かった。エイルズ自身は最低のファックオフ野郎なのに変わりはないけれど、作り手からのキャラクターへの眼差しとしてはとても好感を持てた。エイルズ以上にファックオフなルパート・マードックに、『時計じかけのオレンジ』でマチズモ的象徴みたいなアレックスを演じたマルコム・マクダウェル御大をキャスティングしている辺り、皮肉が効いていてサムズアップ。兎にも角にも、カズ・ヒロ氏による特殊メイクアップが神業の素晴らしさ。画面にシャーリーズ・セロンが登場した瞬間「マジでか」とその変貌ぶりに、あまりにも自然な顔つきに超びっくりした。シャーリーズ・セロンの真ん丸ふっくらした顔つきが、メーガン・ケリーのシャープな骨格に「見えるように」陰影や目の錯覚を利用したその技術は、誠にオスカー受賞にふさわしいとしか言いようがない。カズ・ヒロ氏は現代のディック・スミスだ。もちろん、シャーリーズ・セロン本人も、その発声法からしてほとんどメーガン・ケリー本人の完コピで素晴らしかった。実際のトランプとの映像を、映画ならではの詐術で半強制的にカットバックしてしまう暴力性も良かった。セクハラオヤジのキモ発言に対して、台詞では社交辞令で礼儀正しく対応するも、その実モノローグの声では「クソッ!キモすぎる!」とか言っている描写も面白かった。ケイト・マッキノンはどんな映画でも本当に最高のパフォーマンスを披露する女優で大好きだ。顔もいいし声もいい。『ゴーストバスターズ』でファンになって以来ずっと好きな女優のひとりだけれど、今後もかっけー彼女の活躍が見たい。飾るべき写真を飾れない状況について、耐えるか、逃げるか、それとも闘うか。状況は現在進行形なので、しばらく、まだしばらくこの問題に関しては考え続ける他ない。また、あまりにも地味な演出なのだけれど、終盤でセクハラ告発を決意したメーガン・ケリーに対して、名もなき女性社員が「一杯の水」を差し出すアクションがあり、これはバストサイズからアクション繋ぎしてわざわざ丁寧にロングショットで撮られているのも踏まえて、かなりグッときた。毒入りのコーヒーを飲んで嘔吐していたケリーに対して、辛過ぎて言えなかった過去の傷を癒すように、映画から彼女に授けられた「一杯の水」のように思えたからだ。「大丈夫、あなたも水を飲んでいいのよ」という救いと慈悲。その水を見つめるケリーが、意を決して過去を語ることのエモーショナル。こういう派手でもなんでもない、一見すると見落としがちなスマートな演出をこそ見習っていきたい。
『ジュディ 虹の彼方に』(2019年/ルパート・ゴールド)
U-NEXT先行配信にて。休業前の劇場で滑り込み鑑賞できたけれど、『オズの魔法使』を観たので改めて観た。レニー・ゼルウィガーのドヤ演技博覧会!これに尽きる。ジュディ・ガーランドというよりは、どちらかと言えば娘ライザ・ミネリに似てるじゃん?と思っていたレニー・ゼルウィガーが、ステージで歌唱する際にあのジュディのバッキバキの瞳を完全再現していて超絶すぎた。こりゃ確かに主演女優賞だわ。『シカゴ』でキャサリン・セタ・ジョーンズばかりが褒められたのがよっぽど悔しかったのか、とりあえず良かったねレニー。当たり前のように『オズの魔法使』ファナティックなので、冒頭で黄色いレンガのセットが出てきた時点で泣けた。もちろん、嫌われジュディの一生パートも楽しく観たけれど、どうしても過去ジュディパートをもっと観たかったなあという印象が残ってしまった。と言うか、ビハインド・オブ・『オズの魔法使』を、『ハリウッド・バビロン』的な舞台裏暴露映画を観てみたいと思った(ジュディだけじゃなくマンチキン関連のゴシップネタもめちゃくちゃあるので)。『キャリー』の「おいっちに!おいっちに!」なバカみたいな体操がフェティッシュな映画ファンなので、ちゃんと過去ジュディがダンス・レッスンで「おいっちに!おいっちに!」とバカみたいな振り付けをしていたのは加点対象ですね。ロンドン公演でジュディの世話役をしていたロザリン・ワイルダーさんを演じた女優(ジェシー・バックリー。脳内メモ済み)がめちゃくちゃ綺麗な人で、ちょろいので普通にファンになってしまったし、ロザリンさんがジュディにめちゃくちゃ困り果てつつ陰ながら支えるので、世話役・マネージャー奮闘映画としても素晴らしい。ダンブルドアことマイケル・ガンボンは全然仕事してねーなと感じた。個人的に大変印象に残ったのは、ジュディと子どもたちがクローゼットに入るシーン(ひとりで先に入ったレニー・ゼルウィガーの、暗闇で哀しみを噛みしめる表情も素晴らしい)と、ロンドンの赤い電話ボックスからジュディが娘へ電話を掛けるシーンが対比されているのがとても良かった。別れの象徴のように描かれる同じ箱が、希望と絶望のコントラストで結ばれる構成には涙が出た。その数日後にジュディが棺桶という「箱」に入ることを認知している観客からすると、より一層切ない。こうしてロケーションやアイテムで物事や感情を繋げていく行為がぼくは好きなので、地味ながら概ね楽しい映画だった。ただし、なにがなんでも、あのラストの幕切れは酷すぎる。豪速で欺瞞と偽善にギアチェンジされて、一気に興醒めした。あんなウソのハッピーエンド、ジュディのことを想えば想うほど失礼だよ。加えて、あのゲイマリッジの二人のキャラクターには文句は無いけれど、フィナーレの説得力を保持するだけの演技力を持ったキャスティングをしなくてはならないはずだろう。あの程度の芝居では、レニーのドヤ演技とは全く釣り合わず、映画は宙に浮いたまま何処にも着地せずに、なんとなく終わってしまう。ダメだそんなの。たとえば『ダークナイト』における例の客船爆破選択シークエンスも、乗客を演じた俳優の芝居に全く説得力が無さすぎて、ぼくは未だにピンときていない。脇役にこそ、主要登場人物と張れるだけの「上手い」俳優をキャスティングしてほしい。というのが、近年のハリウッド映画へ抱くぼくの小さなシュプレヒコールなのですが。
『オズの魔法使』(1939年/ヴィクター・フレミング)
U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。何もかもが健全に狂っていて最高。セピアカラーからテクニカラーの景色がひろがる瞬間の絶対的多幸感ヤバすぎる。改めて観たら、やっぱりデヴィッド・リンチってこの映画からの影響力莫大なのだなと感じた。『ワイルド・アット・ハート』、と言うか『マルホランド・ドライブ』じゃん。トト名犬すぎる。マンチキンランド楽しすぎる。西の悪い魔女の手下の空飛ぶサルが一斉に飛行するシーンの悪夢感ヤバい。北の良い魔女ことグリンダ、いつ見てもアホで自分勝手で嫌なオンナで可愛いな。ライオンは『CATS』観た後だと、あのCGではなく自在に揺れ動く尻尾とかに感動して、なんだか胸いっぱいになる。「やっぱりおうちがいちばんだわ!」とか、田舎出身者としては、いやカンザスなんか嫌に決まってるだろ、ドロシーの悪夢は続くんだなあとひねくれ思考が働いてしまう。エメラルドシティのショットごとに体毛の色が変わる馬、地味にすごかったな。「どれだけ愛するかではなくて、どれだけ人から愛されるかが大事なのだ」ウーン、泣ける。
『バッファロー'66』(1998年/ヴィンセント・ギャロ)
U-NEXTにて。オシャレ版『タクシードライバー』。ダメ男と小太りのぽちゃ娘の拉致から始まる恋愛という設定からしてヘンテコなのだけれど、やっぱり面白い。ヴィンセント・ギャロのナルシズムが(良い意味で)キモくて可愛くて、アーティスティックな作風にてらいが無いのも、今になればとても好感が持てる。この作品自体がぼくにとって、なんとなく微妙な位置・距離にあった感覚というのは、たとえば「『バッファロー'66』が好きな自分=オシャレ」という、映画をファッションとして機能させたがるバカを生んだことが多分にあったと思われる(よしんば『アメリ』やウェス・アンダーソンやあらゆるミニシアター系の観客にもそういう層がいることは伺えるけれど、作品単体を純粋に愛している個人を否定しているつもりは微塵もない)。そういう勘違い錯覚幻想ファックオフ野郎とは映画の話なんか一瞬もしたくないのだけれど、とは言え、ひねくれたルサンチマンを忘却して久々に観た本作は、ちゃんと面白かったし好きな映画だった。カメラ位置とかコンテとか、シネフィルに怒られそうな小津オマージュがたくさんあるのも楽しかったし、プログレ音楽の選曲や鳴らし方・魅せ方もいちいち痒いところに手が届く気持ち良さがある。何よりも、既存のコードとは異なるコードで映画を作ってやる、というヴィンセント・ギャロのオリジナル(俺ジナル)なクリエイティビティは、今なお色褪せていない。配役がユニークで、チョイ役で出演しているミッキー・ロークやロザンナ・アークエットが、チョイ役ゆえに印象深い(どっちも嫌な役)。ベン・ギャザラとアンジェリカ・ヒューストンが演じる夫婦がずっと頭おかしくて最高。居心地の悪い食卓シーン(特に家族との会食)がある映画は、たとえば『悪魔のいけにえ』とか『ヘレディタリー』然り、それだけで偉い。白眉なのはクリスティーナ・リッチ。あの『アダムス・ファミリー』のウェンズデーちゃん役で世界中のロリコンの症状を発症させた彼女が、ぽちゃぽちゃキュートにまたもや我々を誘惑する。クリスティーナ・リッチは本当に大好きな女優のひとりで、『キャスパー』や『スリーピー・ホロウ』を観てきた自分にとって、文字通り天使のような存在感がある。ボウリング場で彼女が突然、キング・クリムゾンの『Moon Child』に合わせてタップダンスを踊るシーンは、ベタ(とか言うヤツはブッ殺すぞ)なのだけれど大好きすぎる。このタップダンスのシーンは、物語には一ミリも関与しない。映画には「あってもなくてもいいシーン」というものがある。それは、物語の文脈とは切り離された、関係のない時間や空間が切り取られたシーンだ。そして逆説的に、それらのシーンは「あった方がいいシーン」として忘れ去ることができないものがほとんだったりする。映画とは、過去でも未来でも現在でもない、ただ「スクリーンにしか存在しない時間」というものを描くことができるのだ。
『午後の網目』(1943年/マヤ・デレン)
DVDにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。なにもかもが悪夢的フェティッシュに満ちていて素晴らしい。デヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』は、実質この映画の3時間版リメイクです。
『アイズ・ワイド・シャット』(1999年/スタンリー・キューブリック)
U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。どこまでも現実で、どこまでも夢。目を開いて見る悪夢と、目を閉じている夫婦のアクチュアリティ。裸やセックスというよりは、ニコール・キッドマンがトイレで排泄しているシーンが冒頭にある通り、これは「排泄すること/排泄できないことの悦びとおぞましさ」についての映画だといえる。加えて、抑圧と解放の映画。人間はあらゆる意味で「排泄」をする生き物だ。キューブリックの映画には必ずと言っていいほどトイレ(バスルーム)が登場するけれど、そこには人間の原初的な本質があることを彼は知っている。キューブリックが作品を通して生涯遂行していたことは、人間の本質を暴いてやりたいという衝動に他ならない。友人や奥さんまでもが性的欲求に満ちていて、自分の周囲がセックスに溢れていることを知ったトム・クルーズは、両手をバシン!と叩いて「ちくしょう!俺だってセックスしてやる!」と夜の街を彷徨い歩く。性のオデッセイ。セックス版『2001年宇宙の旅』。フロイト的な夢の論理で紡がれる挿話の数々は、やがて朝を迎えると同時に消えてゆく。まるで、昨日見た夢の内容を忘れてしまうかのように。夫婦のベッドルームには、夜の会話と朝焼けの会話があることをキューブリックもまた知っている。しかし、どんな問題に直面しようとも、夫婦がするべきことはただ一つ。「ファック」。とりあえず喧嘩したらセックスしておけ、という親戚のエロオヤジのような結論になるのがすごいし、それが遺作なのがすごいし、と言うか遺作が乱行パーティのハナシってマジで最高すぎるのだが。ぼくは、もし自分が死ぬ直前に観る映画を一本選ぶとすれば、この『アイズ・ワイド・シャット』だと妄想している。ニコール・キッドマンに「ファック」と言われて生き絶えるなんて、それこそ、人生の本質を表しているようで、とても素敵じゃありませんか。
『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)
Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!
最近観た映画の備忘録#5(緊急事態の解除は自粛期間の終焉ではない、ので、まだまだ自宅で映画を観まくるぞ!とか甘えた幻想を言ってられないくらいには映画館で新作が観たいです。大嫌いなNO MORE映画泥棒のCMを観て、妙な安心感とノスタルジーを感じてしまうのだろうか……だとしたら、それは嫌だな……)
『SUNNY 強い気持ち・強い愛』(2018/大根仁)
アマプラにて。個人的には『サニー 永遠の仲間たち』がオールタイムフェイヴァリットに大好きな人間なので、この日本版リメイクには拭い切れない違和感がどうしてもあった。とは言え、興味深く観た点も確かにあったし、結構引き裂かれて曖昧な印象にはなってしまっている……。何よりも、劇中で鳴らされる90年代J-POPは、驚嘆するレヴェルで果てしなく映像と合致していない。90年代リアルタイムを知る/知らないの前提は関係なく、あまりにも不細工な選曲、映像素材とのミスマッチ、フェードアウトは聞くに耐えない。たとえば、あの名曲『Reality』が流れる『ラ・ブーム』パロディ名シーンの再構築で、CHARAの『やさしい気持ち』が流れたときは顔から火が出るほど恥ずかしかった(言うまでもなくCHARAは好きです、そのテキトーな使われ方に赤面した)。その後、過去と現在が交錯する映画的マジックとしか言い様のない『サニー』屈指の失恋シーンにおいても、『Reality』ではなく『やさしい気持ち』が、でもなく、アムロちゃんの『SWEET 19 BLUES』が流れる。ごちゃごちゃしている。よしんば、ぼくがオリジナル版主義者だということを隅に置いたとしても、その篠原涼子や広瀬すずを捉えたショットのサイズや編集が、なぜそんなアンチ・エモーショナルでテキトーな繋ぎ方ができるのだろうかと疑問に感じるほどに、平坦で凡庸。そして「恥ずかしい」。というか、そもそもオザケンが、やっぱり「恥ずかしい」のだ……。また、中盤で広瀬すずがいじめっ子にお好み焼きを投げつけるシーンがあり、ここはスローモーションとおどけたポージングでスラップスティックに済ませようとするのだけれど、なぜかこのような「歌が流れ出してほしい瞬間」には、本作は小室哲哉による腑抜けた劇伴しか流さない。大根監督は音楽的な編集とサブカルへの博識が感じられる人だった。過去パート導入と同時にコギャルたちによるダンス(ミュージカル)シーンが始まり、その辺は『モテキ』ライクな画に成っていくのだけれど、さりとて、本当に『モテキ』を撮った監督なのだろうか。と、疑うほどの音楽的な配置ミスの数々。この本編映像との不一致な違和感は、音楽的なマッチングやコントロールに長けていた大根監督の仕事とはにわかにも信じ難い「ダサさ」だ。そういった音楽/音楽的な多幸感を排した大根作品には、ちょっと自分は惹かれない。大根さん、本当は『サニー』も90年代J-POPもギャルも好きじゃないのでは……今回は職人監督に徹したと信じますが……。ノスタルジーに目配せしているようでいて、その実ディテールは即物的でしかなく、タイムカプセルのように時間は閉じ込められておらず、なんら実在感はない(マクドナルドの昔のデザインのカップとか確かに懐かしいのだけれど、それには"それ"以外の意味は何も無い)。カルチャーへ言及する台詞も、妙なリアリティラインで喋らせていて、これは口語ではなく文語に近いなと感じた。たとえば「福山雅治のオールナイトニッポン」とか「伊藤家の食卓」とか「小沢健二」というワードが台詞として発声されるけれど、劇中の登場人物の「リアルな」口調ならば「福山の〜」「伊藤家」「オザケン」と発せられるのが本来のリアリティラインだと思う。正式名称という呪い。と、なんだか文句が多くなってしまったけれど、まあ、ギャルがいっぱい出ているんだしええじゃないかと、心を無理やり和らげるムーヴを起こしたりもした(実際、ぼくは90年代生まれなので、コギャル文化へのノスタルジーは無く、どちらかといえばプレモダンとしてのフェティッシュな憧れの方が強い。あとギャルは自由でいい。きゃぴきゃぴしているのもとてもいい)。とりわけ、女優陣は皆とても良かった。映画が開始しても中々加速しないなあと腕組みしていると、ミューズ・山本舞香さんが登場した瞬間から、画面が色合いを増して一気に魅力的になる。この山本舞香さんは、文字通りに好演している。山本舞香さんが兼ね備えている「ヤンキー感」は異様な美しさだ。ヤンキーが好きなのではなくて、ヤンキーが似合ってしまう女優は勝手に加点対象となってしまう(まあ、劇中ではあくまでもコギャルなんだけれど)。実際に身体アクションが特技である彼女は、やはり肉体の動きが大変美しく、どんな時も揺れ動くことなく安定しているので、静止している時でさえ凛としている。山本舞香さんに蹴られたい。終始アンニュイな表情と流し目で我々を殺しにかかる池田エライザさんにも感謝を表する。広瀬すずに関しては、演技巧者というより、ちゃんと監督の演技指導を聞いて芝居に落とし込んだ方がいいのではないかしらと思うくらいには暴走していて、これはあまり好印象には感じられなかった。あるいは、監督が彼女に的確な"演技指導"をしていないのかもしれない。渡辺直美のコメディエンヌとしての器用さは言うまでもないけれど、小池栄子が本当に素晴らしい。映画に祝福されている女優。もっと彼女をスクリーンで観たいと切に願い続けている。そして無いものねだりだけれども、降板してしまった真木よう子と山本舞香さんを、マジで顔がキツネ顔でヤンキー感があるからという理由で繋げようとした大根監督を、やっぱり信頼してしまう。山本舞香さんの顔が20年経つと真木よう子の顔になる映画の魔術を、是非ともこの目で見たかった。オバサン4人で制服コスプレして宮崎吐夢をボコボコにリンチするシーンは、オリジナル同様楽しかったけれど、鉄パイプで人の顔殴っちゃっていいんですかね?!めっちゃ血出てましたけど……。
DVDにて。何度観ても最高のオールタイムフェイヴァリット。元祖ミッドナイトムービーであり元祖カルト映画であり元祖自主映画。俺はまだまだアートをやりたいのにカミさんが妊娠してしまったー!父親になりたくなーい!赤ちゃん怖ーい!んぎゃー!という制作当時のリンチが見た悪夢が原作であり、男性版マタニティ・ブルーみたいな、逆『反撥』、逆『ローズマリーの赤ちゃん』。そんな超個人映画を完全にセルフコントロールして作り上げた本作は、処女作にしてリンチの代名詞的な役割を未だに備えている(その後、娘リンチのジェニファーちゃんはパパと同じく映画監督になりました。娘からしたらどんな気持ちだこの映画)。改めて観たら美術すごすぎるな。ほとんど全部リンチが自分で作ったらしいけれど、もうモノとかセット自体がキャラクターの一部というか、言語の一種みたいな。というか、ちゃんと自分で作って偉い。スパイクこと赤ちゃんは造型の不気味さに着目しがちだけれど、あのピーピーという金切り声に神経を逆撫でするおぞましさがあった。終盤でヒャッハッハと笑うのも嫌だったな。そういう点で考えると、終始工場や胎内音のようなノイズが鳴り続けている本作は、リンチ自身によるサウンドデザインの見事さもまた素晴らしい。電気や照明のスパークは、その後の『ツイン・ピークス』などリンチ映画のキービジュアルになるので、処女作から一貫してやること変わらないなこのオッサン!と思った。ラジエーターレディがへその緒みたいな、胎児みたいなよくわからんミミズをぷぎゅ!と足で踏み潰した後に「てへへ」と笑うのが可愛い。メアリーX家での夕食で、チキンが股から血噴き出しながら絶叫しているとオカンも一緒に絶叫するの可愛い。メアリーXが寝ながら眼球をぐりんぐりんこするの生理的嫌悪感ありまくりで良い。メアリーXが実家帰る!とヒステリー起こしてベッド下からキャリーバッグ抜き取ろうとするけど中々抜けないの良い。スパイクの眼球がギョロっと動く超クローズアップ超こわい。エレベーターのドア全然閉まってくれないの最高。エロいおねえさんとセックスしている時に、エロいおねえさんがキスしながらスパイクを見てドン引きするの良い。ドン引きした後、そのままベッドの中に文字通りに二人が沈んでいって、エロいおねえさんの髪の毛がちょっと浮いて残っているのも良い。ヘンリーの首が抜け落ちてスパイクの頭がおぎゃあと出てくるの笑う。でかいスパイクの顔が三頭くらいフラッシュしながら部屋で動いてるの、あれ欲しい。そして何度観ても、消しカスを手ではらい落とした後に、宙を舞う消しカスをバックにヘンリーがガビーンって顔してるの、もう何度観ても、何度観ても面白い。
アマプラにて。簡潔に言えば、ウディ・アレン版『ラ・ラ・ランド』。より厳密に言えば、『ラ・ラ・ランド』のラスト10分間についての映画とも言える。30代の若手監督と80代の高齢監督が、ほぼ同様の題材を同じ時代に作っているのは大変興味深い。そしてそれは、ウディ・アレン前作のヒロインがエマ・ストーンであったことを考えると、つくづく映画というのは繋げて観るのが面白いなあと感じる次第。兎にも角にも、名匠ヴィットリオ・ストラーロの撮影!これに尽きる。やはりストラーロは今尚健在していたという喜び。しかもデジタルにして鮮やかな画面設計、キャメラの動きは凄まじく、満席の場内でジサマとバサマたちに挟まれながら「ぎゃあ!」とか「うわぁ!」と叫びそうになったのを憶えている。もっと早くウディ・アレンと組むべきだったのではと感じた。ロサンゼルスなのにニューヨークに見えるし、何ならイタリア映画のようにも見えてしまうから、勘弁してくれよおじいちゃんたち。ジェシー・アイゼンバーグは超良い。元々早口なのがウディ・アレンそっくりだし、『ミッドナイト・イン・パリ』のオーウェン・ウィルソンと言い、ウディ・アレンの物真似をさせている俳優をウディ・アレンが撮る、という構造がある彼の作品は大変楽しい。モストオブ目つき悪いティーン女優のクリステン・スチュワート様は、浮世離れした美しさが映画本編からも浮いている節は否めないものの、またそこが非常に良い。何よりも美しく、ウディおじいちゃん相変わらず若い娘がお好きなのがよく分かる。ブレイク・ライブリーは勿体なかったな。シャネルが衣装を監修しているので人物が身に着けている服が素敵なのだけれど、少し時代考証としてそれはどうなのかしら?な箇所もあった。もっとも、クリステン様は短パン衣装なのだけれど、40年代のハリウッドでは、それはスポーツ用の衣装だったりするのだ。あとは否応なく、いよいよウディ・アレンが自身の過去を整理し始めた気配を感じた。その辺が、野心に燃えるデイミアン・チャゼルくんとは別の結論。言い換えればネチネチしていない。チャゼっちゃんが「忘れられないんだよおお(;_;)」なのに対して「ま、忘れとこか(^.^)」って感じ。本作に関するチャゼっちゃんの感想をお聞きしたいものです。
『オースティン・パワーズ:デラックス』(1999年/ジェイ・ローチ)
U-NEXTにて。人間は平等にクソで、平等になんの意味もない。そして、そんな人間の100年も無い人生なんてクソまみれだ。苦しみや絶望が止まない雨のように降り続け、欺瞞と嘘で溢れ返った最低の世界で、ぼくらは今日も「クソッタレが」とつぶやきながら、腹にクソを溜め込んで生き続ける。クソッタレが。しかし、どんなに辛いときにも、芸術や表現はすぐ隣でぼくらに微笑みかけてくれる。待ってくれている。歓迎してくれている。そして、このクソみたいなすべてを、一瞬だけでも忘れさせてくれる凄まじいパワーを宿している。パワー。オースティン・パワーズ。ぼくは辛いとき、絶望の淵に追いやられたとき、なにもかもブチ壊してやりたいと拳を握るとき、もういっそ死んでしまいたいと嘆き悲しんでいるときに、いつも必ず本作のオープニング・クレジットを観るようにしている。これは映画を利用したライフハックだ。『オースティン・パワーズ:デラックス』のオープニング・クレジットは、あまりにもバカで、あまりにもアホで、あまりにも美しい。前作であんなに意気投合して結婚までしたヴァネッサが、本作の冒頭で実はオッパイマシンガンロボットのフェムボットだったと発覚し自爆する。最愛の妻を目の前で喪ったオースティンは、しかし涙ひとつ見せずに「ちゅーことは、独身に戻れたってことじゃ〜ん!いえ〜い!」と裸一貫で文字通りに狂喜乱舞する。映画をクリエイトしたスタッフやキャストの名前は、次々とオースティンの股間を隠すためだけに表示される。最終的にはシンクロナイズドスイミングを披露しながら、アホみたいにギンギラブルーのタキシードを着たオースティンが登場してフィナーレを迎えるのだ。そう、これも人間の正体であり、人間の生き様だ。人間は、どんな絶望に直面しようとも、それを乗り越えられるだけのバカな頭もちゃんと持っている。悲しみ以上のユーモア。大の大人が、ここまで真剣にバカをやってくれている。クソみたいな人生をペシミスティックに嘆き悲しむよりも、全裸で一瞬一瞬を笑い飛ばすような人間に、ぼくはなりたい。自滅なんかしてたまるか。そして、バカでアホでどーしようもない映画には、それだけでちゃんと価値があるということは強く述べておきたい。
『その男ヴァン・ダム』(2008年/マブルク・エル・メクリ)
アマプラにて。確か公開当時、シネコンが一軒しかない田舎(実家)に住んでいたぼくは、ヴァン・ダムのメタ映画!俺の住む街ではやらない!でも観るっきゃない!と、この映画を観るためだけにユナイテッド・シネマ豊洲まで片道2時間掛けて上京したのだった。豊洲のロビーには007の『慰めの報酬』のバカでかいポスターが吊るされていて、やっぱり東京はスゲーやと胸躍らせながら客席へと向かった。豊洲の映画館はガラガラで、というか自分と脂汗かいたオッサンの二人しかいなかったと記憶しているけれど、終了後にそのオッサンと「ヴァン・ダム最高!」と固く握手したくなるくらいには感動した(脂汗かいていたので握手しなかった)。そういったノスタルジーと共に、本作はぼくの人生に刻み込まれている。あまりにも個人的な感情だけれど、この世の映画なんて、結局は自分にとってどれだけ意味があるか、そんなもんだ。映画を観るという行為は孤独なのだから。だから、孤独な意味を一つでも見つけていきたい。久々に本作を見返してみた際、脳内にひろがる景色は、映画の即物的な映像ではなくて、当時の映画館の暗闇の懐かしさだ。映画館へ行くということは、鑑賞ではなく体験だ。小さな旅のような楽しさがある。鑑賞した映像は徐々に忘れてしまっても、体験したことは生涯心に残る。それが、ぼくが映画館で映画を観る理由だ。帰り道に食べた東京チカラめしの味、マジで未だに憶えているのです。アー、早く映画館へ行きたいなー。ところで作品の内容は、端的に言えば『狼たちの午後』をヴァン・ダム本人役でリメイク、プラス自虐ネタ満載、みたいなものでそれなりに楽しい。ラストもハートフルというか、人間を信じている着地でほっこりする。白眉であるヴァン・ダムのマジ独白シーン(映画のセットから文字通りクレーンが上昇していき、映画の外側でヴァン・ダムがメソメソしながら長回しワンカットで延々とボヤく)で涙を流せない男は、『キックボクサー』100回観て出直して来い!
『ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-』(2010年/三池崇史)
U-NEXTにて。なんとなくYouTubeでレディー・ガガのMVを観ていたら、なんとなく本作の仲里依紗を観たくなって、なんとなく観た。ゼブラクイーンを演じる仲里依紗がとにかく素晴らしい。終始目つきが悪いし、ギャーハッハッハ!とちゃんと空を見上げて高笑いしたり、昭和のアタマの悪い悪役感がとても可愛い。ほとんどレディー・ガガルックな歌唱シーンは、彼女のエキゾチックな顔つきと真っ黒なゴス衣裳も相まってぼくは好きです(そういえば仲里依紗はアルターエゴとして、当時のミュージックステーションにもゼブラクイーンのまま出演していたなあ)。あとはあまりにもどうでも良い内容で、というかほとんど何も憶えていない。三池とクドカンって絶対相性悪いと思うのだけれど、俺だけ……? レスリー・キーが仲里依紗を撮影しているオフショットをそのまま本編にもメタ流用している辺り、三池の健全な暴力性を感じた。ミニスカ・ゼブラポリスの皆さんもとてもいい仕事をしていた。スザンヌがバカな歌手役でほんの少しだけ出ていて、仲里依紗にモップでブチ殺されてすぐ退場するあまりにもバカな役柄でちょっと面白かった。
『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)
Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!
最近観た映画の備忘録#4(「人生は祭りだ、共に生きよう」と投げかけるほどの人生が、こうしてしばらく喪われつつある燃えるゴミのような世界で、燃えるゴミのような我々は、燃えるゴミのような映画を観ること、そして書くことによって、記録を記憶へと変換させ得て、つまり芸術に救われながら豊かさを噛み締めた、そのとき、わたし自身も、燃えるゴミから誰かが忘れ去った燃えない宝物へと変貌できる、そしてあなたに投げかけられる「人生は祭りだ、共に生きよう」)
『8 1/2』(1963年/フェデリコ・フェリーニ)
U-NEXTにて。何度観てもオールタイムベストの大傑作。こうして改めて見返してみると、現在自分が好きな映画や監督たちとの親和性が極めて高く、あらゆる芸術の祖たる存在であることを意識する。たとえば、『オール・ザット・ジャズ』、『スターダスト・メモリー』、『仮面/ペルソナ』、『TAKESHIS'』、『未来世紀ブラジル』、『鏡』、『風立ちぬ』、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』、『脳内ニューヨーク』、『バードマン』、『マルホランド・ドライブ』、『アメリカの夜』、『気狂いピエロ』……すべて、本作が存在し得なければ産声をあげることがなかったのかもしれないと思うと寒気がする。映画史は星座を繋げるようにして影響し合い、決して単体では成立していない。そのマッピングにパラダイムシフトを起こす作品というのは必ずあって、『8 1/2』とはまさに、新たな地図を拡張させるための大事件だったと感じる。逆に言えば、所謂「よくわからない」とされている映画群は、本作さえ履修しておけば嚙んで含めるが如くスルスルと理解でき、同時に楽しめるはずだ(よしんば、岩切一空監督の『花に嵐』や『聖なるもの』が「よくわからなかった」観客は、まずは本作を観てみましょう)。構成は勿論のこと、構図や照明など、どの場面の映像も美しすぎて至福。おしゃれでかっこよくてエロくてバカみたいでおそろしい。映画って自由で最高だ。世界一眼鏡が似合う女優、アヌーク・エーメ。我が愛しのクラウディア・カルディナーレは、実はちょびっとしか出演していないにも関わらず、グイドも映画も、すべてを救済する。まさにミューズ、愛しのCC。それにしても、マルチェロ・マストロヤンニって本当に嫌味のない、めちゃくちゃいい俳優だよなあ。
U-NEXTにて。チャカチャカ高速カッティングが賛否両論のバズ・ラーマンだけれど、ぼくは「アゲ感」を重視した映画はすべからく好きなので、いえーい!どどーん!じゃーん!やっぴー!という擬音がちゃんと似合う本作も大いにフェイヴァリット。ガキの頃にミュージカル好きの母親と映画館で観て、その時は「公爵がかわいいなあ」くらいの印象で、いや当然「ニコール・キッドマン爆可愛いなあ」とも思いつつ(序盤で何度も「アウッ!アウッ!」と声出すところ最高)、既存の使用楽曲は全然知らなかったのだけれど、今になって聴けば知らない楽曲は一曲もないという、洋楽ファンはガチ泣き爆アゲのサウンドトラックで十二分に最高。久々に観たらユアン・マクレガー歌唱のエルトン・ジョン"YOUR SONG"がエモすぎて泣いてしまった。他にも、ポリス"Roxanne"のタンゴに合わせた激しいカットバックだったり、公爵とジドラーのコントみたいなマドンナ"Like A Virgin"が可愛かったり、もうここしかないいい!というタイミングでクイーン"The Show Must Go On"を高らかに歌い上げる終盤だったり、ミュージカル映画として満遍なく楽しかった。幼い頃からキャバレーやバーレスクへのフェティシュとリスペクトと憧れがある人間なので(もし自分が億万長者だったら、映画なんか作らずにキャバレーのオーナーになって死ぬまで楽しく経営する)、そういう意味でも「普通に行きてぇー、最高ー」という多幸感すらある。映像もほとんどサイケデリックなほどに色鮮やかで、衣裳や美術も抜群にゴージャス、映画が喜んでおるなーという高揚感でみなぎっている。まさに豪華絢爛。そう、ミュージカル映画なんて、豪華絢爛な世界で多幸感に身を委ねて歌って踊ってさえしてくれれば、もうそれでいい。たとえば、ここで比べてしまうのは野暮かもしれないけれど、同じミュージカル映画として『ラ・ラ・ランド』が備えていなかったと思うのは、こういった「過剰な」ゴージャスさ、豪華絢爛さだ。『ラ・ラ・ランド』がどんなにテクニカラーオマージュでカラフルを装っても、ぼくにとってはまだまだ足りない。画面いっぱいを埋め尽くすゴージャス感が、あの作品のパラノイア的な暗い構図の中からは溢れ出ていない。ワンカット長回し重視のカメラワークよりも、瞬きする間に過ぎ去ってしまう、記憶すらできない刹那的なHIGHを愛してしまう。浴びさせてほしいのだ。過剰さを。バカみたいに大金を注ぎ込んだゴージャスなミュージカル映画に、バカみたいにいえーい!と興奮し続けたい。ところで『ムーラン・ルージュ』劇中でカイリー・ミノーグ演じる緑の妖精さんトリップシーンは超超超最高である、ということは今後も強く述べていきたい。
『NINE』(2009年/ロブ・マーシャル)
U-NEXTにて。我が愛しの『8 1/2』(のブロードウェイ舞台版)のミュージカルリメイクであり、アメリカ人シェフが作ったトラットリア。つまりは、紛うことなき粗悪品でしかないのだけれど、本場トラットリアよりも時たまジャンクフードが食べたくなる愚かなぼくにとって、これはこれで残さず食べる。とは言え、ジャンクフードというよりはイタリアン・ランチ味のキャンディーみたいな劣等ぶりで、ハッキリ言って不味いのだけれど、なんかね、珍品で好きなのね、この映画。すごい珍品だと思う。すなわち、めちゃくちゃチャーミングな魅力がしっかりとある。チャーミングな粗悪品。ということで、ぼくは劇場でオバサマたちに囲まれながら鑑賞して、その後も結構な回数見直しているくらいにはこの映画が可愛くて好きだ。確かサントラも買っていたはず。だからフェリーニファナティックなシネフィルたちが「こんなのただのMVじゃん、しかもミュージカルシーンと非ミュージカルシーンをなんの美学もなしにカットバックしやがって、リズム感ねえのかよ、フェリーニに土下座したって許されないからな」と罵詈雑言に貶すほどに、この映画には移入も嫌悪もしていない。監督のロブ・マーシャルは大嫌いだったけれど、たぶん不器用なだけだからそんなに嫌わなくてもいいかな……と、最近は温厚なスタンスで迎えている。でも、ロブ・マーシャルがマジで監督として凡庸で、加えて演出力が乏しいことは、本作に招集された女優たちの芝居を見れば一目瞭然だ。本家『8 1/2』であんなにも魅力的だったキャラクターたちは、書き割りのような棒立ちでロボットのように台詞を吐き、何一つとして予定調和からはみ出さない。映画オリジナルキャラのケイト・ハドソンなんて、彼女が鏡に映るラストカット、なんであんな不細工に撮ってしまうんだろう、酷すぎる。ゴールディ・ホーンの娘だぞおいバカ。極め付けは『8 1/2』で僅か数分しか出ていないにも関わらずグイドを救済する女神、クラウディア・カルディナーレを、ロブ・マーシャルはニコール・キッドマンに全然「着衣」させない。さりとて、女優たちに罪は全くない。人物を描き込もうとしなかった、描き切らなかった監督と、粗末な脚本を断罪する。このオールスターキャスト7人の女優たちで、よしんば監督がペドロ・アルモドバルだったら、どれだけ傑作になっていただろうかと映画ファンなので夢想する(ペネロッペーをメインにするだろうな)。で、こんなに文句を垂れつつ、でも好きなんです。というか、ぼくはフランソワ・オゾンの『8人の女たち』とかが好きな人間なので、女優さんが吹き替えなしで歌って踊ってくれていれば、結局楽しくなってしまう馬鹿野郎だ。楽曲はとてもいい。ペネロッペーはそんなポーズまでしてくれるんですかというハレンチなダンスで、本人も楽しそうだったし可愛かった。唯一の現役歌手・ファーギーは見事なサラギーナっぷり(太っちょぶり)と歌唱力を発揮していて、彼女の歌う"Be Italian"は、砂を使ったエキゾチックな振り付けも相まって圧巻だった。キャラとしては残念だったケイト・ハドソンも、彼女がノリノリで歌う"Cinema Italiano"は超楽しい(だけど予告編で使われていたバージョンと本編で流れているバージョンはテイクが異なっている……予告編のテイクの方がいいのに……ロブ・マーシャルよ……)。特に今回久しぶりに観て、グイドの妻・ルイザを演じるマリオン・コティヤールが歌う二曲"My Husband Makes Movies"と"Take It All"が個人的には好きだった。前者は、ほとんど舞台照明のようなライティングの中で、夢と狂気の世界を生きる映画監督の妻としての心の叫びがエモーショナルに歌い上げられる。後者は打って変わって、スケベな旦那に堪忍袋の尾が切れた奥さんがブチ切れて、鬼の形相でストリップをするという恐ろしくて美しい曲。『ムーラン・ルージュ』の感想でも記した通り、ぼくはキャバレーやバーレスク的なものへの憧れがあるので、当然、映画にストリップシーンが出てきたら加点なわけです。って何言ってんだ自分……。そういえば、俳優業は引退すると宣言していたくせに、美女と共演できる本作にはちゃっかりと出演したダニエル・デイ=ルイスは、そういうスケベさと色気とチャーミングさが、グイドにぴったりだったとは思う。
『その夜の妻』(1930年/小津安二郎)
U-NEXTにて。NOTローアングル・NOTタタミで挑む小津流サイレント・フィルム・ノワール。とは言え、足元を映したローアングルはあるっちゃあるのだけれど、もうこれはほとんどハリウッドのサイレント映画そのものに近い。洗練された横移動ショットの美しさや、手前の対象物による豊かな奥行き表現、きっちりノワールやりまっせと明暗鮮やかな照明、そして、執拗なまでに完璧な動きと構図で捉えられたクローズアップ……す、すごすぎる。当たり前に小津はすごすぎるし、超絶モダンでかっけー。帽子を被る、というアクションによって事態が展開したり、拳銃所有の瞬間をぐいーんとトラックバックすることで形勢逆転を表したり(何度かある決定的瞬間におけるT.B演出がめちゃエモい)、配置された小道具それぞれが物語を動かしていく躍動感もすごい。たとえば、帰り際の医者が鞄を無造作に置くブレッソン的な手のヨリ、からの字幕、からの二回振り返る医者のアクション、からのドアを開けて見送る妻のお辞儀でアクション繋ぎ、からの後々反復されるドアフレームに納まった妻の正面ショットと階段を下りる医者の切り返し、からのドアを閉める妻の動作でアクション繋ぎ、からのポットで珈琲を注ぐヨリ、からの砂糖瓶の中のスプーンがキラーンと光る!なんていう運動の連鎖が、全く飽きさせることなく観客を物語に移入させてしまう。敢えてのノワールオマージュとは言え、この現代的なリズム感覚、TikTokとかやってるティーンの方にも体感してもらいたいなあ(TikTokってまだ流行っているんですか)。ぼくが今更ここで何かを書くまでもなく、小津が撮るブツ撮りや実景はすごすぎる。ショットそのものの構図の美しさや長さの的確さ以前に、どの箇所に配置するのか、挿入するのか、そういうタイミングがドンピシャすぎてもんどりうつ。ソン・ガンホに見える瞬間があるハンサム・岡田時彦(我が愛しの岡田茉莉子嬢のパパ)、顔はほとんどジョシュ・ブローリンで緊張感と共に最終的には哀愁で泣かせる刑事役・山本冬鄕、そして凛とした八雲恵美子の美しき勇姿、二丁拳銃と着物!小津はかっこいい!
『ヒッチコック/トリュフォー』(2015年/ケント・ジョーンズ)
U-NEXTにて。めちゃくちゃ勇気をいただきました、ありがとうございます。本編でオリヴィエ・アサイヤスが語っている通り、『映画術』とはトリュフォーが作った「映画」の一本である。インタビューを試みるド緊張のトリュフォーの気合の入れっぷりは、周到で入念な準備に到るまで、まるで新作映画を撮る映画監督の姿そのものだ。だから名著や必読本というよりも、『映画術』自体がトリュフォー監督による必見の名画のひとつなのだと言ってしまおう。世代も作風も異なる両者が、互いを尊重しながら行われる世紀のインタビューは、やはり音声と写真が加わることによって、活字以上にスリリングで感動的だ。ゆったりとユーモアを交えて鋭い意見を飛ばすヒッチコックは、ほとんどゴッドファーザーのような風格。そんな父の目を真っ直ぐに見つめて、てらいなく質問を投げかけるトリュフォーの純真さ。膨大な量のヒッチコック・フィルモグラフィが引用されて、その映像のどれもが当たり前のように素晴らしく、ヒッチコック作品なんて一本も見たことがないようなビギナーにとっても、入門編のような楽しさがあると思う。「サイレント映画こそ映画の言語だ。映画に音は必要なかった」と語るヒッチコックに、トリュフォーくんがウンウンと頷く。「ぼくが撮った『大人は判ってくれない』にも、ちゃんとサスペンスを生む視線の交錯があってですね……」「どんなシーンだい?詳しく」「かくかくしかじか……」「ほーう、台詞が無かったほうが良かったな」「てへへ!」なんだこの可愛いやり取り!いやしかし、ヒッチコックの言葉はどれも背中を押してくれるな。ということで、本作には背中を押されたヒッチコック大好き監督たちが10人出てきて、それぞれが熱くヒッチコックのすごさを語り尽くす構成となっている。このように、当時の関係者ではなく現役の映画監督へのインタビューが挿入されているのが興味深い。なぜなら、皆ヒッチコックのことを語っていながらも、実のところ自らの作家性を語り直している、という構成になっているから。『めまい』オマージュの『ゴーン・ガール』を撮ったフィンチャーが「『めまい』って変態映画だよな。美しい変態だけど」と話しているのも面白い。ピーター・ボグダノヴィッチ、一瞬ウィリアム・フリードキン?と思った。キヨシ、ニヤニヤしすぎ。後半でやっぱり『めまい』と『サイコ』の論考に行き着き、結論どっちも超スゲー映画と皆が煽りまくるのも楽しい。ぼくは『めまい』がオールタイムベストの変態なのだけれど、概ねこのドキュメンタリーで指摘されている事柄には納得できた。『めまい』には急速に突き進むストーリーテリングの巧みさは無くても、夢の中をさまよい続けているかのような、おぞましさと美しさが真空パックされている。『めまい』は失敗作なんかじゃない。結局、映画は「観客」にどう楽しんでもらえて、どう受け止めてもらえて、どう語られていくかが最も大事なのかもしれない。ヒッチコックを語る本作を観て、誰よりも大衆や観客を意識し続けた「作家」たるヒッチコックの高邁さを改めて感じた。
『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』(2010年/エマニュエル・ローラン)
U-NEXTにて。めちゃくちゃ勇気をいただきました、ありがとうございます。シネフィルぶってカッコつけたいわけではなくて、やっぱりぼくはゴダールもトリュフォーも、二人のことがあまりにも大好きだ。この二人はとにかく、伝統とか権威とか、あらゆるものとの「闘争」をやめなかったし、あらゆるものから「逃走」することもやめなかった。闘いながら自由に呼吸すること、それがヌーヴェルヴァーグであり、ゴダールとトリュフォーだ。本作はゴダールとトリュフォーの邂逅から、やがての決別までを膨大な映像や音声と共に振り返っていく。若い頃のゴダールがまんま菊地成孔みたいで、というか菊地成孔がゴダール学部卒なファナティックなわけだけれど、人間、好きな人に自然と似てくるものだな。先にトリュフォーがカンヌに行っちゃって、ゴダールがシネフィル仲間に「俺は文無しだしめちゃくちゃ焦ってるし、ってか俺だって映画撮りたいし、しかもトリュフォーの野郎俺のこと無視しやがったんだよ、ふざけんな」とボヤいていたというエピソードが愛おしい。その後、トリュフォーとシャブロルが、若い監督を探していたプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールに「ゴダールってすげえ奴がいます」と推薦文書いてあげたの、いい話。フリッツ・ラングにインタビューするゴダールが「もう高齢ですよね」と訊ねると「恐竜並みだよね」と笑うラングが可愛い。続けてラングが「映画は若者のためにある」とつぶやくと「僕もそう思います!映画は若者のためにあるんです!」と嬉しそうなゴダールも可愛い。トリュフォーが死んだ時、ゴダールにアンヌ・マリー・ミエヴィルが言った「トリュフォー亡き今、あなたを守る人はいない。ヌーヴェルヴァーグの中で彼だけが、既存の映画界に受け入れられ、あなたの守護神になり得た」という言葉で映画が始まるのが切ない。政治的な思想へ突き進んだゴダールと、己の映画愛へ献身的な姿勢を崩さなかったトリュフォー。五月革命を機に、異なる道を進む親友同士。『アメリカの夜』を批判するゴダールからトリュフォーへ届いた手紙には「こんな映画を作った君はウソつき野郎だ。これは悪口ではない。これは批評だ」と書かれている。それは、不器用で頭でっかちなゴダールの、彼なりの最後の叫びだったのかもしれない。トリュフォーはこの手紙におよそ20ページにも及ぶ反論を書いて、結局二人は再会することがなかった。共に協力し合って映画を作り続けた二人の、友情の終わり。共闘から別離へ。映画によって繋がった友情が、映画によって引き裂かれていく。ヌーヴェルヴァーグの息子として、二人の父親の間で揺れ動くジャン=ピエール・レオの視点が挿入されるのも素晴らしい。ゴダールとトリュフォー、二人の人生それ自体が、果てしなく映画的であることを、このドキュメンタリーは克明に証明してみせた。
『鞄を持った女』(1961年/ヴァレリオ・ズルリーニ)
U-NEXTにて。当たり前のようにクラウディア・カルディナーレが大好きなのだけれど、コレ初見。いきなり彼女の野ションから始まる辺り、「イタリア映画が始まった!」という感覚でワクワクしていたけれど、途中からぼんやりしていて眠ってしまっていた……いや、映画が決してつまらなかったわけではない。と、言い切れるほど記憶も出来ていないし曖昧なのだけれど……しかし、我が愛しのCCが主演だというのに寝落ちしてしまったというのは、誠に信じがたい愚行をやってのけたなと我ながら思う。自責の念。俺は愛するCCの映画で、寝たのだ。寝ちまったのだ。こんな感想、ちゃんと改めて再見してから書けばいいのだろうけれど、俺には、俺にはできないよ、そんなこと。愛しのCCに、ちゃんと懺悔しておきたい。ごめんなさい。君がちゃんと大きな鞄を持って怪訝そうな表情をしていたのは憶えています。重そうな鞄だった。俺は瞼が重かった。嗚呼、クラウディア。本当に申し訳ない。君はいつもと変わらず、ちゃんと、しっかり、べらぼうに美しかったよ。それだけは間違いなく、間違いようのない真実だ。愛する資格がないなんて言わないでおくれ、クラウディア。誰だって過ちは犯してしまうものだ。罪のない人間はいない。そこから何を反省して、どう生きていくかが大切じゃないか。だからクラウディア、俺は変わらずに、君へのアモーレを送るよ。送らせてくれ。正座して、また君に会いに行くよ、クラウディア……Ti amo,Claudia……Non posso vivere senza di te……Amore……
『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)
Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!
最近観た映画の備忘録#3(第二次大戦の時もそうなんだが「こんな有事の際に芸術や文化なんてどうでもいい」と人間の愉しみを規制したがるアホがいたわけだ。たとえば老人ホームでおばあちゃんたちにメイクをしてあげただけで全員の健康状態が上がったという研究結果もある。絶対、人間はそういったアートやクリエイティビティによってしっかりと生かされている。ドイツで絵描きを蔑ろにしてヒトラーが誕生したことを忘れたとは言わせない。だからアートやエンターテインメントを蔑ろにするファックオフ野郎は早く死んじまえ。水でも飲んでろボケ。
『玉城ティナは夢想する』(2017年/山戸結希)
YouTubeにて。バイオレンス映画。皮肉ではなく、これは暴力についての映画だ。「今そこにある美に対してカメラを向ける」ということの暴力性を山戸結希は認識しつつ、欲望のままに被写体を「傷付ける」。そして、傷付ければ傷付けるほどに、被写体・玉城ティナの刹那的な美しさが増すことも承知している。激しいカット割はまさしく被写体そのものを「解体/切断」していて、カメラは「ナイフ」のようである。「ポップで可愛らしい記号よりもティナちゃんには背徳と退廃が似合うの!」という作家の願望を、全身で享受する玉城ティナの揺るぎない強固な美を証明できている傑作だと感じる。加えて、すべての女の子たちの集合的無意識になりたいと欲求しているのは、むしろ玉城ティナではなく山戸結希の方であって、そのナルシズムもまた暴力的だと感じる。もう1つ重要なのは、本編の中で玉城ティナが「玉城ティナになりたい」と「あこがれ」を抱くことだ。シラフで言ってしまうが、ぼくだって玉城ティナになりたい。玉城ティナを愛でたいとか応援したいとか恋したいとかではない、玉城ティナに「なりたい」のだ。野球少年がイチローみたいになりたい、という「あこがれ」とは異なる。なぜなら、それは本人の才能と努力次第で達成可能だからだ。しかし、ぼくが「玉城ティナ」になることは、絶対にない。絶対的に成就できない願い。それこそが「あこがれ」のエレガントだ。よしんば一本の作品が、男性観客に「女になりたい」と思わせられたら、それこそフェミニズムとして成功しているといえる。もしくは「女に生まれたかった」ということでも良い。あこがれさせられたら。異性目線の恋愛や性愛でなく、ただ純粋に「なりたい」という目線。が、本作においては最も大切だと感じる。逆に女性観客にとっては「女に生まれてよかった」ということなので、女であることを誇れるという、それこそが当たり前のフェミニズムである。だから本作はぼくにとって、極めて正しいフェミニズム作品だと思っている。しかし、これ言っていいのか知らんけど、玉城ティナってメガネ似合わなくないか? とアンチコメントしてしまうくらい、装飾としてのメガネ選びは慎重に演出してもらいたい。この命題については、メガネっ娘ヲタ界隈でもっと激論されてよいはず。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007年/庵野秀明、摩砂雪、鶴巻和哉)
YouTube無料公開にて。超久々に観たら面白かった。『序』に関しては、めちゃくちゃグラフィックの美しさが向上したのは確かだけれど、テレビシリーズ・ヤシマ作戦までの総集編という印象が個人的にはどうしても強かった。よしんば、旧エヴァを認知していない人にとって、『序』は一本の映画として歪な作品になっているはずだよなー、くらいには思っていた(ストーリーテリングとして)。劇場鑑賞時も「おさらいあざっす、で、破の予告早く見せて!」というダメなヲタ状態だったので。とは言え、丁寧で洗練されたダイジェスト感が一周回って新鮮で、つまり展開が早くて、このスピードはまさしく庵野らしいともいえる。テレビシリーズを除いた劇場版の中では『序』が、特撮オマージュ満載ロボットアニメとして最も安心して観ることができた。それほどに『シト新生』や『Air/まごころを、君に』や『破』や『Q』は特殊な作品だったから。庵野が楽しそうに特撮ロボットアニメをやっているという、「庵野が楽しそう」という感覚をしばらく失念してしまっていたけれど、ファンとしてその寄り添い方は大事だと感じた(まあ、エヴァは庵野が壊れれば壊れるほど面白くなる節もあるけれど……)。『シン・ゴジラ』と『序』は、庵野の精神的にはある意味、躁のディメンションに位置付けられる類似した作品だと思われる。やっぱりヤシマ作戦は燃えるよねー。アスカ推しの自分としては綾波の話ばかりでナンダカナーと思ったりもしますが、ニッコリ綾波超可愛かったです。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年/庵野秀明、鶴巻和哉)
Netflixにて。オールタイムベストとしか考えられないアルティメット大傑作。ドロッドロの病みの闇。庵野秀明の個人映画として完成された鬱屈的感情吐露。が、エンターテインメントとして機能していることの凄さ。観客の能動性までをも拒否し、彼らの心も、記憶も、強烈にえぐってみせる暴力性。作家の闇が、作家の憂鬱が、作家の暴力衝動が、映画を傑作たらしめる模範解答みたいな映画。つまり、観客におもねった映画を作る必要なんて1ミリも無い。観客なんか、心の闇で黒く塗りつぶせ。と、教えてくれた映画。こんな映画が作りたいものです。中学校の給食の時間に、校内放送で『甘き死よ、来たれ』を流していた超ヲタの女の子がいたけど、元気かしら。
DVDにて。本作公開年の2004年は『下妻物語』の公開年でもあり、ぼくが土屋アンナに一目惚れして胸キュンするには十分なほどの彼女が揃っていたわけです。で、久々に本作の鈴石アオイに会いに行った。強風を浴びながらもしかめっ面を崩さないハイスピード撮影の彼女、最高だ。異性の好みということではなく、ぼくは映画の中で元ヤンっぽい女の子が出てくると大体は好きになるので、漏れなく本作のアンナ嬢も最高に好きなのだけれど、まあ映画としても可愛くて奇妙で大好きです、『茶の味』。実景含めた栃木の自然が大変フォトジェニック。しかし、なぜ元ヤンっぽい女の子にフェティッシュを感じるのだろうかと考えてみると、ぼくの地元(茨城)にはヤンキー/元ヤンがウンザリするほどいて、偏見するまでもなく結構みんないいやつだったりしたし、カッコ良かったし、カッコエロかったし、そんなアホみたいなノスタルジーを想起してしまっているのかもしれない。元ヤンちゃんは我がふるさと。ってソレまんま『下妻物語』だな。
『疑惑』(1982年/野村芳太郎)
アマプラにて。松本清張原作!桃井かおりVS岩下志麻!全くタイプの異なる女優同士の演技合戦にめちゃくちゃ燃える!野村芳太郎フィルモグラフィにおいても、きっちりエンタメしてくれていて楽しかった。車が海中に転落、乗っていた大金持ちの旦那は溺死、その妻である桃井かおり演じるクマコだけが生き残る。このクマコが最低最悪の毒婦で悪女。夫に3億円の保険金をかけていたことが判明し、容疑者として逮捕される。連日マスコミが騒ぎ立てるクマコの弁護を受け持つこと自体が弁護士にとってはデメリットでしかなく、誰も弁護士がつかない。そんな中、民事事件専門の弁護士・佐原律子こと岩下志麻が彼女の弁護に任命される。しかしクマコと律子の間には、信頼関係はゼロ。ほぼ100%夫を殺している悪女の弁護を、律子も負けじとこなしていく。果たして事件はどう決着するのか……というオモシロあらすじ。徹底して脚本通りに演じる岩下志麻に対して、脚本無視でほとんどアドリブで好き勝手に喋って暴れる桃井かおり!岩下志麻は背筋をピンと伸ばして一歩も引かない!桃井かおりは余裕の表情!「あたし、あんたの顔嫌いだわ〜」という桃井かおりのアドリブ、その時の岩下志麻の素でムカついている顔!やっぱり相反するモノ同士をぶつけると映画は面白くなるよなー、という正解を教えてもらった。若い頃の柄本明とチャランポランだけど憎めない鹿賀丈史も良いキャラだった。数分しか登場しない丹波哲郎が弁護バックれるのにも笑った。これからも繰り返し観たいし、女優の皆さんにもおすすめします。
『コンテイジョン』(2011年/スティーブン・ソダーバーグ)
U-NEXTにて。ソダーバーグ苦手なんだけどコレは淡々としたドキュメンタリータッチ(≒シミュレーション風)がパンデミック描写の恐怖とifの強度を補強していて好み。『インフォーマント!』も『サイド・エフェクト』も面白かったし、ソダーバーグというより脚本のスコット・Z・バーンズとの相性が良いのかもしれない。ってかソダーバーグの映画、「相変わらず真面目だねえー」とニタニタしながら観てしまう。観ていると、グウィネス・パルトロウが初っ端で頭蓋骨オープンするので笑ってしまった。ミヒャエル・ハネケかよな赤い素っ気ないフォントのDay2から始まり最後は……な展開にも、自業自得というか風が吹けば桶屋が儲かる的な種明かしで笑ってしまった。もしソダーバーグがゾンビ映画を撮ったらこれくらい地味なんだろうなあと思いつつ、狙ってスベるよりは誠実にカメラを据えて、オールスターキャストで共感性も保持しつつ、ほどよくシリアス、ほどよくエンタメに仕上げている辺り、職人としては及第点以上だと思う。誰が観てもそれなりに楽しめる普遍的な完パケ感も含めて、映画芸術というよりも、世界仰天ニュースの傑作回を見たような余韻……。マリオン・コティヤールのように、誰かのために走り出すことができるか。ケイト・ウィンスレットのように、自分がどんなに苦しくても、隣の人に毛布を渡すことができるか、が問われる世の中になってしまった。劇場鑑賞時は震災以降で、日本は劇中のマッドマックス化する市民たちのようにパニックにならず皆助け合うことが出来ていて、まだまだ人間を信じられるかもしれないとヒューマニズムに目覚めかけたりもしたもんだけれど、現実でパンデミックが発生し、アンタッチャブルな状況下で買いだめに猛進する人々がいたり総理大臣がバカだったり、悠々とフィクションを超えてくるディストピアっぷりに絶望しながら観た本作は、ちょっとホラー感あった。劇中のジュード・ロウみたいな最低デマ野郎は現実にもたくさんいるけれど、果たして彼を信じない保証はどこにもない。自らの審美眼を鍛えるためにも、これからも映画を観なくてはな。劇場で観たとき、とりあえず、帰宅してめちゃくちゃ手を洗ったのを思い出しました。
『それいけ!アンパンマン キラキラ星の涙』(1989年/永丘照典)
U-NEXTにて。幼少期ぶりに観た……ノ、ノスタルジー……懐かしすぎてドーパミン分泌量ヤバかった……。ナンダ・ナンダー姫の「わたしの名前はナンダ」という幼稚園児も安心して笑えるギャグセンス、ドキンちゃんの女王様ソング、そのドキンちゃんのプリケツ、「冬になったらまた会える」と言い残して溶けるユキダルマンの勇姿、謎の殺傷機能を備えたアンパンマン号、作画が怖すぎるドロンコ魔王、ボコボコにされるパン工場三人衆、そして随所の『オズの魔法使』オマージュ……。ナンダー姫の「もうやめて!」を受けてもボコボコにされながら猪突猛進してくるアンパンマン、めっちゃ漢じゃん……。幼い頃、母親と一緒に観て「涙にも価値があるの、だから泣いてもいいんだよ」と教育されました。いい話です。
DVDにて。完全にポスト・コロナ時代の悪夢的世界観じゃん。謎の花粉を防ぐためにマスクしていたり、人々がソーシャルディスタンスを保っていたり、そしてとにかく、世界から人間が「消えていく」感覚というのが金太郎飴みたいに詰まっている。ので、今観たらより面白かった。ミレニアム直前で終末感ヤバい公開当時も、ほとんど同じような感覚だったのかしら。そして、「消えてしまう」ということと「死んでしまう」ということは異なっている。本作がもたらす感動は「映画では誰も死ぬことはない」という救いでもある。死ぬことを目指して消え続けることによって逆説的にみんな生きてしまっている、そんな映画。また、すべての自主映画少年たちに観てもらいたい。ちゃんと撮ってさえいればどんだけバカやってもいいんだと、とても勇気をもらえる。
DVDにて。ぼんやりと得体の知れないものがこちらを見ているという表現ではなく、幽霊が半径3センチ以内にいる!という表現をやってのけたエポックメイキング。つまり本作は、幽霊/心霊映画というよりはモンスター映画に近い。モンスター映画の文法で撮られた幽霊映画。呪われた家に関係すると不特定に全員死ぬ、というハードコアな設定も改めてすごい。即物的な恐怖を突き詰めるとコメディになるということも発見できている。時系列が破綻しているのも、悪夢的円環構造を生み出していて不気味極まりない。顎なし少女は未だにトラウマだった……。
U-NEXTにて。何回観ても最高の死に様博覧会。出てくる死に様が何もかも素晴らしいし、前作よりもドンドコ人が死にまくるのも評価に値する。前作の首チョンパに当たるエレベーターでの人体ワイヤー切断は、ちゃんと切断面を見せてくれる上に、ちゃんとスローモーション、そして切られた瞬間の「うげえ」という表情、本当に偉い……。断面からはみ出る「具」のあたたかみが感じられるのも良くて、湯気が出ているようなホカホカ感は、作り物だからこそ感銘を受ける。他にも、カラスにズビズバつつかれて血まみれになるおばさんや、氷の張った湖の中に落ちた人がもがいても氷が叩き割れないとか、トラウマ残酷表現が多すぎる。イケメンに成長したダミアン自身が、悪魔の子であるというハードコアな事実を知って葛藤する思春期映画でもある。オープニングの始まった瞬間からジェリー・ゴールドスミスの音楽がテンションアゲアゲで狂っていてそれも最高に好き。
U-NEXTにて。子どもの頃に観たときはビックリ描写の連続で案の定ブラウン管テレビの砂嵐が怖くて仕方なくなったけれど、久々に観たら超楽しかった。砂嵐が怖いって感覚、デジタル世代には通用しないのだろうか。雷とピエロのシーンとかめちゃくちゃ怖かった記憶があるな。全編にわたって、ホラー描写出し惜しみしない!というサービス精神が本当に偉い。スピルバーグが演出したと言われている鏡見ながらの顔面グチャグチャドロドロシーンも、いやココだけどう考えてもやり過ぎだろ、ほとんど『レイダース』のラストじゃん、という過剰な残酷描写で最高。思えば、本作はトビー・フーパー御大の作品というより、やっぱりスピルバーグPのエンターテインメント性の方が強い。フーパー本人は不服だったんだろうが……。しかし、どんなバケモノよりも最高なのが、そう、霊媒師のおばちゃんだ!この人の不気味で崇高なキュートさは特筆しておかなくてはならない。あの声最高だもん。逆にガキの頃はこのおばちゃんこそがトラウマだったけれど、今観たらこんなにテンション上がるナイスキャラはいない。嗚呼でも、本作がドミニク・ダンの遺作であることに変わりはない……。本作出演後に恋人に刺殺され、享年22歳。ゆえに呪われた映画扱いされてしまったわけだけれど、悲しい……。ぼくは『アフターアワーズ』という映画が大好きで、ドミニクは、その主演のグリフィン・ダンの妹である。彼女がトンデモなく酷い目に遭う本作は、実際の事件とは別に考えて、映画なのだから楽しめばいいのだけど。でも悲しいのは悲しいので……。
『イメージの本』(2018年/ジャン=リュック・ゴダール)
U-NEXTにて。『アワーミュージック』以降だと一番好きだし、ほとんど『映画史』+『時間の闇のなかで』+『アワーミュージック』という構造なので好みでない理由がなく、89歳のイタズラじじいが、結局ラブ&ピースを打ち出した辺り、エモすぎて泣けた。新型コロナウイルスが感染拡大してから新作映画が次々と公開延期になり、撮影すらストップされている状況が続いている。つまり、新しいものが作れない状況の中に「映画」はいるといえる。ゴダールの『愛の世紀』にあった「すべてそこに在るのに、人は何故作るのだろう」という言葉は、本作を鑑賞した際に思い出したものであったし、今こそまさに問われるべきものだ。ゴダールは本作で「すべてはアーカイブされているし、アーカイブされているのだから"映画"は大丈夫なんだよ」という「消えない/死なない」ことへの優しさを訴えてくれた。同時に、自身で撮り下ろした「新しい」映像も加えて「それでも"新しい"ものを作って残したいという気持ちは超大事」と勇気付けてくれた。ポスト・コロナ時代は、ゴダールの予言通りにアーカイブの時代へと突入しつつある。こうして、ぼく自身でさえ、閉館している映画館に足を運べず、自宅で今日も今日とてアーカイブされた映画たちと遭遇するしかない。果たして、映画にとってこれは絶望なのか、それとも希望なのか。先日突然インスタライブに登場したゴダールは「ウイルスはコミュニケーションだ」と述べた。「ある種の鳥のように他人を必要とし、仲間の所に行き、家の中に入ろうとする。私たちがネットでメッセージを送る時のように。ウイルスは今私たちがしているようなコミュニケーションだ。それによって死ぬことはないが、うまく生き抜くことは恐らくできない」それでも、ゴダールはあくまで楽天的な様子だった。「テレビは忘却を、映画は記憶を創る」つまり、残された映画たちがこれからも消えることが無ければ、これから映画を残していこうとすれば、それもまた消えることはないのだ。ポスト・コロナ=アーカイブ時代のぼくらの聖典は、聖書でもコーランでもなく、『イメージの本』だ。
『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)
Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!
最近観た映画の備忘録#2(「コ」と「ロ」と「ナ」を組み合わせると「君」になります、素敵やん)
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009年/庵野秀明、摩砂雪、鶴巻和哉)
YouTube無料公開にて。ぼくはレイかアスカかと問われたら完全にアスカ派なのだけれど、それまでの旧エヴァの惣流アスカとは、ファンと言うことをためらわれるくらいに痛い子だった。それに比べて、式波アスカは本当に可愛い。レイに自分の立場を譲ったり、人のために何かを出来るいい子になっていて、彼女なりに自立へと向かっている姿が本当に可愛い。そんなアスカとレイの板挟み『マクロス』状態になるシンジは、クライマックスで旧エヴァを文字通りに「破壊」する熱血主人公と化し、公開当時初日の劇場で、マジで観客全員で「マ?!」と発声しながらスクリーンに釘付けになったことは、未だに鮮明な記憶として残っている。ビックリしすぎてポップコーンをブチ撒いたオッサンは元気にしているかな、なんてことを本作を観るたびに思い出すのだ。久々に観てみると、本作は旧エヴァを破壊することにベクトルが向かっていて、つまりサプライズ的な改編に確かに驚くのだけれど、ゆえにエヴァっぽさという感覚も稀薄されてしまっていると思う。エヴァがポスト・エヴァ以降のアニメーションにもたらした功罪を、エヴァそのものがなぞっている奇妙な構造によって、これはエヴァであってエヴァではない、という引き裂かれた余韻が残る。エヴァ、というか庵野がソレをやる必要ってある?という。それを吉と見るか凶と見るかで評価も分かれるだろうけれど、まあやっぱり頭の上にエクスクラメーションマークが浮かび続ける展開だったし、ちゃっかり燃えたし、病み要素がデトックスされたエヴァとして見れば、フツーに楽しい映画でした。でも、鬱屈した自分にとってのエヴァとは、病みすぎ、黒すぎ、ドロドロすぎの居心地の悪いアニメーションであったことを忘れない。鷺巣詩郎のサントラは神掛かってたな。伊吹マヤさん推しでもあるので『太陽を盗んだ男』流しながらの街の目覚め、出勤シーンはとても好き。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年/庵野秀明、摩砂雪、前田真宏、鶴巻和哉)
YouTube無料公開にて。新エヴァで唯一繰り返し観ているほど好きなのは『Q』なのだけれど、その理由はまず、『破』で前述した旧エヴァ特有の病み感、真っ黒なドロドロ感、居心地の悪さみたいな鬱屈したヤバイ感覚に、本作が最も近いからなのだと思う。よしんば、『破』でせっかく新しいことをしたのに結局鬱アニメに戻るのかよ、という批判があったとしても、「戻ってしまう」のが庵野の作家性だと信じていたぼくのようなファンにとっては、こんなに嬉しい絶望感は無かった。絶対に庵野以外にこんな絶望映画は作れない。主人公の行動や意志のすべてを全否定し、それを楽しんで消費した観客も道づれに地獄へと叩き落とす。キャラクターへ、エヴァ自体へ、作者自身へ、そしてファンへ、全方向に向けられた絶望感、自他殺願望、ペシミズム、それら強度の高さたるや。なんて純粋無垢な厭さだろう。公開当時は震災の翌年ということもあって、劇中のカタストロフには震災を想起せざるを得ない共感もあった。そして絶望的な今こそ、純度の高い絶望を。毒には毒をだ。しかし、『Q』を作って鬱になった庵野が(駿の『風立ちぬ』は置いておいて)『シン・ゴジラ』で復活するとは誰も考えられなかった。しかも、鬱の原因がエヴァなら鬱克服もまたエヴァ・コラージュな『シン・ゴジラ』という。『シン・エヴァ』の公開延期は、延期に慣れたファンであっても悲しい。完結が拝めるその日まで、俺は『Q』を観続けるぞ。
『LOOPER/ルーパー』(2012年/ライアン・ジョンソン)
アマプラにて。ジョセフ・ゴードン=レヴィットの頭皮が徐々に寂しくなっていって、カットが切り替わると完全にハゲ果てたブルース・ウィリスになっていくモンタージュに人生の悲哀を見る。このようなモンタージュ含めて、ワンフレームズラしのタイムトラベル描写など、映画の力を信じているのが流石ライアン・ジョンソンだと思う。現在のポール・ダノの肉体が破損していくと、未来のポール・ダノの肉体も破損していく描写がフレッシュで最高。前半と後半で「LOOP」の意味が変わるのもツイストが効いていて嫌いになれない。後半からのガキが『オーメン』のダミアン味があって、うるさいし怖いしとても良かった。ライアン・ジョンソンはケレン味徹底主義な方向性なので、作劇の強引さやプロットホールは喜んで目をつぶります。『最後のジェダイ』もそうだったけど、やっぱり撮影がいいよねー。あのフレアはアナモルフィックレンズかな?「タイムトラベルやタイムパラドックスのツッコミどころなんかどうでもいいだろ!」と念押しさせられるブルース・ウィリス。エミリー・ブラントがオナニーしようかと股に手を伸ばすも、いややめておこうとジョセフを呼び出してセックスをおっ始めるのが斬新すぎて爆笑しました。
DVDにて。オゾンの撮るブラックコメディはどれも好きなのだけれど、最もエレガントでジョイフルな多幸感があってコレは何度も観るほど好き。フランス映画を愛した者にだけ与えられるご褒美のようなオールスターキャスト。もれなく8人全員が歌って踊るけれど、やっぱり愛しのドヌーヴが踊るたびに顔がほころんでしまうなー。久々に観たら、存在感で言えばイザベル・ユペールが優勝って感じだった。キーキーと金切り声で超絶情緒不安定に騒ぎ立てるメガネババア、からのドレス姿の美魔女へ変身!がいぇーい!とアガる。メイドのエマニュエル・べアールが胸元を開けて髪をほどいた時のいぇーい!という幸福感も最高。あのダニエル・ダリュー御大まで大トリで歌うのだから、やはりすごい映画だ。テクニカラーへのリスペクトが感じられる色彩や美術も素晴らしいけれど、なんてたって衣装の映画ファン泣かせっぷり!ギャビーの豹の毛皮は『母の旅路』のラナ・ターナー、グリーンのドレスは『荒馬と女』のマリリン・モンロー、ピレットは『裸足の伯爵夫人』のエヴァ・ガードナー、シュゾンは『麗しのサブリナ』のオードリー・ヘップバーン(顔も似てる!)、カトリーヌは『巴里のアメリカ人』のレスリー・キャロン、オーギュスティーヌのドレス姿は赤毛のリタ・ヘイワ―ス、ルイーズは『小間使の日記』のジャンヌ・モロー……50年代ディオールからのインスピレーションを受けて製作された衣装の数々は、それだけで本作の立派な見どころの一つになっていて、何度観ても目が喜んでいる。
『ヘレディタリー/継承』(2018年/アリ・アスター)
Blu-rayにて。まさか空前の『ミッドサマー』ブームが日本でも起きて、新作映画が掛からない中、『ミッドサマー』のディレクターズ・カット版が映画館で流れ続ける世の中が到来するとは思いも寄らなかった。作品への好き嫌いはともかく、アメリカからヤバイ映画がやって来るらしい、という「おそろしいものへの興味」を観客が抱き続けることは絶対に大切だと思う。そういう点で『ヘレディタリー』は「おそろしいものは楽しくて面白い」という、恐怖に対する原初的な快楽を思い出させてくれるのが良かった。本作は、アメリカから恐ろしい映画が到来してくるという果てしなき期待から、観客の多くはあの映画をホラー映画として消費したけれど、今になってつぶさに考えてみると、あの演出の数々が「笑えるような事態」を「笑わせない」ことに心血を注いでいたようにも感じられる。もちろん、あの映画に漂う異様な不穏さは、数多のホラー映画とはディメンションが異なる、磁力と強固さを備えている(あざとさすら)。したがって、劇中の展開は、予想もつかないおそろしいツイストを帯びて転がっていく。ゆえに、撮影や照明、音響や芝居以前に、文字通り暗闇へと突き進む「展開」が異様だったという印象が強かった。実のところ、アリ・アスターの作家としての興味は、人間を描くことよりも作劇に移入している傾向があるとぼくは考えている。『ヘレディタリー』はこうして久々に見直すと「こんなにも周到な伏線を張り巡らせていたなんて」と改めて驚かされるのだけれど、これらは人物描写への深み、ではなく、あくまでも作劇としての強度を補正するディテールになっている。よしんば、アリ・アスター自身があの兄に移入して撮っていたにせよ、「本当にそう撮っていたならば」、あそこまで観客を母親へとミスリードさせることはない。主人公と思わされていた母親ではなく、「実は」兄がヘイル、ペイモン!な結末を迎えることになるという、その「展開」のための「作劇」を選んでいるように見られる。つまり、本作は「こういう人間たちが右往左往した結果によって悲劇として完成した」のではなく「悲劇を完成させるために登場人物たちを絶望的に追い込んだ」という「作劇」がもたらされていると考えられる。そういった作劇が間違いである、と言いたいわけではなく、アリ・アスターの作家としての暴力性とは、あくまで「展開」に表れるものだというのがぼくの感想だ。彼が『ヘレディタリー』でおこなった暴力は、登場人物や観客それ自体ではなく、その彼らが無意識のうちに望んでいる「定型化された物語展開」そのものを惨殺することによって、間接的に登場人物や観客にも傷を与えるという構造がある。当たり前のようでいて新たな発見だったことは、ぼくらは定められたコードがズタズタに刺されていたり、ボコボコに殴られていたりする哀れな姿を見ると、本能的に不穏さや不安を感じてしまうのだなということだった。ぼくは、その計画的かつ無差別的な彼の「展開」への殺意に、大変心を惹かれた次第。まあ今回はめちゃくちゃ笑って観たけれど。地獄の門は予想もつかない形で、いつだって自分の隣で開き続けている。「家族」という絶対に逃れられない最恐の呪いについての映画であって、逆説的に「家族仲良くできて、みんなが幸せになれたらいいなあ」と夢想するくらいが今の世の中では丁度いいです。
U-NEXTにて。被写体として主役に徹する黒沢清を愛でられるただ一本の映画。最近になってよく考えることは、俺は黒沢清の映画が好きなのか、それとも黒沢清本人のことが好きなのか、ということである。まあこんな問いはくだらなくて、もちろん答えは、どっちも超好きなんだけれど、自分が作家主義な映画ファンだということを抜きにしても、黒沢清という人間の魅力についてはこれからも考えていきたい。あの野球ベースのような直角的な輪郭、ゴブリンのような顔、なのに俳優顔負けのハンサム、ヘンな髭、死んでいるようでキラキラしている眼、オマエそれしか服持ってねえのかよというポロシャツ、映画館の闇のような真っ黒い服、口を開けば独特の声色と丁寧な日本語でずっと映画の話。B級映画の話。なんだこのオッサンは。なんだこの生き物は。何考えてんだコイツは。可愛いなあ。黒沢清の演出術を映像として拝見できる、のならまあそれは普通のドキュメンタリーなんだけれど、本作はオタオタする清、投げやりな清、鬼畜な清、テキトーな清、険しい清、テッペンを越えない清、『北国の帝王』をニヤニヤと語る清など、やはり黒沢清という一匹の、間違えた一人の生き物、いや間違えた人間を愛でる癒しの映像集として、いつまでも何度でも観れる面白味に溢れている。
『オクジャ』(2017年/ポン・ジュノ)
Netflixにて。堂々巡りで出口なしの地獄を目の当たりにしても尚、二元論的な正しさにおもねることなく、「わたしはこうしたいんだ」という少女の無垢な個人主義にすべてを託す辺り泣ける。序盤でブタちゃんの主観ショットがあって、そりゃ『グエムル』を撮ったポン・ジュノなので当然なのだけれど、モンスター映画における文法、主に視点の統制までそつなくこなしてしまうのだから脱帽の域。プロットそれ自体に目新しさは無い(もちろんエンターテインメントとして十二分に面白いので批判ではない)のだけれど、本作は演者が全員いい。ティルダ嬢の一人二役は余裕のよっちゃんだし、ジェイク・ギレンホールはほとんどヒース版ジョーカーでマッドなムツゴロウさんだし、ポール・ダノはおとなしいなーと思いきや、出た、やっぱり『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』大好き人間としてはポール・ダノはこうでなくっちゃとヒヤッとする芝居があり、俳優陣を眺めているだけで十分に楽しい。スティーヴン・ユァンの翻訳ボケも笑った。みんな良い意味で肩の力を抜いてて楽しそうだった。主人公ミジャの疾走やブタちゃんのソウルでの逃走やトラックによる並走チェイスなど、移動ショットがとにかく凄まじいのだけれど、その辺は『グエムル』で洗練され尽くしていたのでお手の物という感じ。ドローンやステディカムを使って一つの移動の中にもメリハリがあり、ポン・ジュノから学ぶべきことはまだまだ多い。屠畜映画としても、終盤で手加減なく残酷描写を見せ付けてくれるので、今日ソーセージを食べたキミも観ていたたまれない気持ちになろう!
『ブレードランナー2049』(2017年/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
Netflixにて。コレもう3年前になるのかー、時早ーっ。いや、ヴィルヌーヴ版『DUNE』のヴィジュアルが先日初公開されて、嫌われてるリンチ版も幻のホドロフスキー版の構想も大好きな自分の感想ではあるけれど、どう考えてもダサいじゃん、何コレ『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクじゃん、いやでも『宇宙からのメッセージ』のハリウッド・リメイクは面白そうだな……とモヤモヤしてしまったわけです。それで3年ぶりに再見してみようと思い立ち観たわけですが、やっぱりヴィルヌーヴという監督は、自分にとっては重要な監督ではないと思った。『プリズナーズ』も『複製された男』も『ボーダーライン』もとても興味深く観れたし、特に『アイズ・ワイド・シャット』ミーツ『ファイト・クラブ』な『複製された男』は好きなのだけれど、賢く振る舞ってるスノッブ感にあまり惹かれない、というか心に残らない感じが……。映画ってもっとでたらめでバカじゃんと信じている人間なので、たとえば『ピラニア3D』に対して「これは3D映画への冒涜だ」みたいな発言をしたキャメロンのような「賢くて正しくて健全なフリをした」映画監督にはあまり興味を抱けない……(キャメロンは『アバター』が苦手だったので……)。『メッセージ』は嫌いな映画ではないけれど、タコ型エイリアンの造形にはガッカリしたし……。とにかく、くだらないことを頭良さげに見せる「風な映画」は、自分とはあまり関係がないと思ってしまう。本作は公開当時、初日に駆け付けたけれど、長えー、遅えー、暗えーという印象が最も強かった。でもブレランの続編として考えたら、無いよりは有った方がいい映画だとは思う。ブレランがSFノワールだったのに対して、本作はヴィルヌーヴの一貫した「自分探し」というテーマにしっかりと落とし込めているし。孤独な男がメソメソする映画は好きなので、無表情でどんよりしているライアン・ゴズリングは緊急事態に観るには大変ふさわしかった。レイチェルの上目遣い泣き顔……そりゃ泣くよ。かまってちゃんなラヴちゃんの頬をつたう涙……そりゃ泣くよ。完全に初音ミクなアナ・デ・アルマス演じるジョイちゃんが最高。2049年になってもロリコンが完治できない人類。喧嘩の途中にプレスリーの『好きにならずにいられない』が流れて「この歌が好きなんだ」と喧嘩を中断するデッカード可愛い。ハリソン・フォードがクライマックスで溺れそうになるのがとても可愛い。あのデッカードが、あの強い男がとかではなく、単におじいちゃんが車中で溺れそうになる映像なのがとても楽しかった。
『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)
Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!
最近観た映画の備忘録#1(緊急事態宣言には映画が合う、とか言っておかないとストレスフルで気が滅入るので、今こそ自宅映画鑑賞を崇めつつ、その記録を残しておこうと考えた、そんな趣旨による雑記)
『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019年/ J・ J・エイブラムス)
U-NEXT先行配信にて。劇場鑑賞以来なので約4ヶ月ぶりに観た。当時は、ものすごくおもしろいものを観たという躁の感情と、ものすごくつまらないものを観たという鬱の感情にアンビバレンスに引き裂かれていて、思考に逃げ道が無かったけれど、落ち着いて観たら普通に楽しかった。ここに於ける「落ち着いて観たら」とは、端的に言えば「これはスター・ウォーズサーガの完結編だ!」と、あまり期待しないで観るスタンスのことだ。それでも、スター・ウォーズなのだから雑多な感情が湧き上がることもまた事実だけれども「まあどうせまだまだ続くし……これもまた一つの通過点に過ぎないのだから……」という達観思想を持つことこそが、寿命を縮めない最善の策だろう。ぼくはディズニーが製作したシークエルは、もうカイロ・レンが素晴らしかったからお釣りは返ってきた、と楽天的に捉えている。カイロ・レンというか、マーケットにおけるアダム・ドライバーの発見、という意味では重要なシリーズだったと思う。カイロ・レンについては賛否両論の『最期のジェダイ』の時点で、やっぱりコイツが主役じゃん!厨二病!エモい!いぇーい!と高揚していたので、本作もカイロ・レンさえ良ければ及第点なのでは、くらいの気持ちで観てしまっていたけれど、やっぱりカイロ・レンは変わらず最高だった。アダム・ドライバーの演技力も相まって、クライマックス、アレを受け取った時のポーズや、レイちゃんとアレした後の「俺たち、やっちゃったねえ〜」な照れ笑いなど、悶絶級に可愛いかった。あとはパルパティーンが楽しそうにバカ悪役に徹していて、いつの世も映画の中で悪い人が悪いことを楽しそうにしているのは可愛いなあ、と癒された。ランドが元気そうだったのも救いだった。ただ、例えばレイア姫がアレした後に咆哮するチューバッカのショットを、すぐにヒキで捉えて、すぐに佇むカイロ・レンに移行しちゃう辺りが、キャラクターの悲壮感に寄り添ってあげられていないと思えてあまり好きになれない。あのようなシーンでヨリを徹底できないのが、J Jとルーカスの差だろう。もしくはスピルバーグとの差。ご丁寧にチューバッカの咆哮にリバーブを掛けてフェードアウトさせるのも、逆に観客の移入を阻害させる。めちゃくちゃ泣けるはずだったシーンなのに……(まあその後のカイロ・レンとあの人の会話できっちり泣くのだけれど)。しかしチューイにメダルを……のくだりでは涙腺決壊したわけで、やはりスター・ウォーズは観るたびに感情の起伏が激しく波打ってしまう。健康に悪いです。
『アルファヴィル』(1965年/ジャン=リュック・ゴダール)
Blu-rayにて。「ゴダールの中で一番好き」という作品がゴダールのフィルモグラフィにはいくつもある、という矛盾を孕みながら、本作に関する想いを堂々と宣言する。ゴダールの中で一番好き。現在のパリそのままでSF未来都市をやっちゃうという異化。すべての自主映画少年たちに贈りたい。ジッポライターを通信機と言い張って撮ってしまえば、それはもうジッポライターではない!『午後の網目』オマージュがあるので、そのための敢えてのモノクロか?と推測してしまうくらいにモノクロームが美しい。撮影も照明もショットもモノクロゴダール作品の中でも特にすごい。かっこいい。「愛してると言え!」「…………愛してる」が切なすぎる。当時のゴダールとアンナの過渡期な関係を想起して観ると、カメラ目線で愛の告白をするアンナ、それを撮るゴダールの姿、切なすぎる。ってかこのシーンはまんま『ブレードランナー』にパクられたわけだ。ブレランも「未来はやって来ずに近未来だけが続く」というポストモダンであり、雨の日に歌舞伎町を傘差して歩けばそこはもうブレランの世界という、現代都市は未来なんだというセンス・オブ・ワンダーにめっぽう弱いのかもしれない。本作におけるノワール感マシマシのアンナの美しさは、陳腐な言葉で書き残せない。この同年に『気狂いピエロ』というすごさ。恋が完全に終わりを告げた年の二本。その二本こそ、愛する人を最も美しく撮れてしまっているという哀愁たるや。愛にしがみつきながら、愛を葬る。ぼくの中では本作と『気狂いピエロ』のアンナが、どのアンナよりも最もチャーミングで、哀しくて、エロティックで、健康的で、恐ろしくて、美しいと思います。
『CUBE』(1997年/ヴィンチェンゾ・ナタリ)
U-NEXTにて。中学生ぶりくらいに観た。ヴィンチェンゾ・ナタリは誰が何と言おうと、あの愛すべき『スプライス』が最高傑作だけれど、コレはコレで、アイデア一発の低予算ワンシチュエーション・スリラーを突き通す気概に満ちていて好き。というかこの手のハナシはやったもん勝ちで、先にやっちゃったやつが偉い。単純に役者の「顔」の選び方も最適で、こいつはこういうやつだろう、という観客の固定観念を徐々にひっくり返していく展開も楽しい。もはや人間それ自体が立方体のように様々な面から成っている、みたいな微妙な入れ子構造とでも言ってしまおうか。どのタイミングで謎を明らかにするかよりも、どの窮地でハプニングやアクシデントを投入するか、その手腕こそ最も評価したい。精神障害が疑われるカザン投入のタイミングなんか、観客全員が「あちゃー」と冷や汗を垂らすけれど、その「あちゃー」という感情こそが人間の負の側面を浮き彫りにさせる。「光を見上げる」というショットがちゃんとあるのも嬉しい。久々に観たら数学女子のレブンちゃん可愛かったですね。ちゃんと「メガネメガネ……」と手で探すくだりがあるのも信頼できる。ペシミストのワースは『ジョーカー』みたいだった。脱獄のプロのおじいちゃんが「お前ら油断すなよ」と言った刹那に酸ぶっかけられるの笑った。クソ野郎のクエンティンは、今回観ていたらアルコ&ピースの平子さんを、似ているというか想起したのだけれど、全国のアルピーファン同感いただけないでしょうか。
『ブラック・スワン』(2010年/ダーレン・アロノフスキー)
U-NEXTにて。何回観てもナタポーがオナニーしていると横で母ちゃんが寝ていてギャッ!となるシーンが素晴らしい。間違いなく『レイジング・ケイン』における、昏睡状態の奥さんの前で不倫相手とキスしていたら奥さんの目がドドーンと見開いててカメラがガンガンガン!とズームしてギャッ!となるシーンのパクリなんだろうけど。本作はそんな感じで『反撥』だったり『回転』だったり『パーフェクトブルー』だったりと、数多のニューロティック・スリラーのモザイク画として完成されているのも映画ファンには楽しい。ミラ・クニスがザ・ビッチというフェロモン満々。一度でいいから騙されてみたいものです。ナタポーとレズるシーンもちゃんとエロくて最高。「家帰ってオナってこい!これは宿題だ!」とセクハラするヴァンサン・カッセルも終始楽しそうで良かった。あとクラブのシーンが『サスペリア』ミーツ・ギャスパー・ノエみたいに狂ってて、フレームごとでナタポーの顔がバケモノになっていたりするので、あまり健全な見方ではないけれど一時停止しながら確認したら楽しかった。
U-NEXTにて。久しぶりに観たらオープニング・クレジットから六ちゃんのシークエンス終了までで「やさしすぎて」泣けた。悲哀のラプソディ。とは言え、貧困の中で紡がれる人の情も、一周回って、地獄の温度を肌身で感じているような恐ろしさすらある。ほとんどオムニバスというよりブニュエルの『自由の幻想』に近い作風だけれど、どの登場人物のエピソードも、それだけで一本の映画として物語られるくらいの厚みと魅力があるのが楽しい。同時に、当時の黒澤明の自滅/自殺願望を経て獲得した「芸術」と「人間」へのささやかな希望も真空パックされていて、やっぱり『夢』に一番近い。そりゃ売れないわ。『トラ・トラ・トラ!』の挫折を経て、日本映画の復興を目指して木下恵介、市川崑、小林正樹らと結成された四騎の会は、結局本作と小林の『化石』のみ。もっと観たかったし、木下・市川の監督作も拝みたかった。瞳孔開いた布びりびりおじさんを演じる芥川比呂志のシークエンスだけ、貧困と孤独によって狂い終わった人間を刻々と見つめていて、演出は野村芳太郎ですか?ってくらいホラーでめちゃくちゃ怖かった。フツーにトラウマ。
『HOUSE ハウス』(1977年/大林宣彦)
U-NEXTにて。追悼大林監督。悪魔的ヴィジョンすぎて続けて2回観た。キュートでファンシーであることと人体破壊を徹底することによって、映画のマジックから未だに解かれていない永遠のアヴァン・ポップ。ぼくは女友達が仲良くやっぴー!と楽しそうにはしゃいでいる映画は、それだけで100点差し上げるというくらい女友達映画が大好きなので、本作もずっとずっと楽しくて仕方がない。南田洋子のおばちゃまも踊ったり猫ちゃんポーズしたりあくびしたり楽しそうで可愛い。「こうやって若い皆さんがたくさん訪ねてくださったんですもの……よかったわ」の言い方で吹き出す(劇伴が一瞬消えるのも笑う)。猫がピアノにジャンプして上がったり下りたりするのを逆再生してニャンニャンとループするシーンがツボすぎて爆笑してしまいます。見るからにアホっぽい再婚相手を演じる鰐淵晴子の首のスカーフが必ず全シーンなびいているのも「映画最高!」というでたらめさで大好きだ。大林監督の訃報を受けて観ると、ラストの台詞がエモい……。「たとえ肉体が滅んでも、人はいつまでも誰かの心に残り、その人と共に生き続けている。愛の物語はいつまでも語り継がれていかなければならない。愛する人の生命を永遠に生き永らえさせるために。永遠の命を。失われることのない人の思い。たった一つの約束。それが愛」生涯クンフーちゃん推し。
『フォクシー・レディ』(1980年/エイドリアン・ライン)
DVDにて。我らがジョディ・フォスター圧勝かと思いきや、ランナウェイズのシェリー・カーリーの優勝。二人がベッドで友達のメガネちゃんの処女喪失を聞いて「大人になっちゃったネ……」とまどろむショットがヤバすぎた。展開が意外にも読めない。特に後半は少女が逢いたくない出来事が連発して、悪夢的で衝撃的な結末を迎えるので「エッ……!」と驚嘆しつつポカーンと取り残される余韻が怖くてヤバい。あの人が絶対にそんなことにはならないだろうとか、そんなバカみたいなことにはならないだろう、という因果律を破壊してくるショックがちゃんとあって、ゆえに実人生に近い。まあ、あのショックバリューな悪夢映画金字塔『ジェイコブス・ラダー』を撮ったエイドリアン・ラインの初監督作なので、頷けなくもない。当然、バッキバキに照明が決まっていて陰影が美しく、めちゃくちゃ『フラッシュダンス』への助走感があってそれもヤバい。『HOUSE』でも書いた通り、ぼくは女友達が仲良くやっぴー!していればもうそれだけで満足するくらいの変態なので、『フォクシー・レディ』も余裕で大好きだ。チャンネーたちが朝日を受けながらグースカ添い寝している姿や、その彼女たちの太ももやくびれを強調するカメラワークがどうしたって素晴らしく、もんどりうつ美しさで、この健康的エロな感覚は、流石はエイドリアン・ラインです、と口角が上がります。めちゃくちゃ『フラッシュ・ダンス』を見直したくなった。
『アンダルシアの犬』(1928年/ルイス・ブニュエル)
DVDにて。オールタイムベスト級に好きだし短いのでもう何度観たか分からないけれど、いつ観ても笑ってしまう。服の上から胸揉んでたら服が消えて「うひょー生チチだー」とよだれ垂らしながら揉み続けていたら徐々にケツになっていく、とか書いていてバカすぎる。女の脇毛が男の口に移動してドヤ顔したりするのもバカすぎる。ラスト砂浜にぶっ刺さってるのもバカすぎる。バカ映画クラシック。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005年/デヴィッド・クローネンバーグ)
U-NEXTにて。クローネンバーグの映画なので当然セックスシーンがキモいし重要事項なわけだけれど、最初のコスプレセックスにおけるクンニリングスもキモいのだけれど、旦那の暴力性を目の当たりにして以降奥さんがそれを嫌悪しながらも興奮してきちゃうという、ほとんど暴力行為に近い2回目の階段でのセックスシーンが圧巻の感動。冒頭の長回しの不穏さだけでも頭が上がらない。家のセットが完璧に映画的な設計ですごすぎる。クローネンバーグのフィルモグラフィでは最も分かりやすく肩の力を抜いてエンタメしていた。イラク戦争からの帰還兵、というメタファーを通して観れば、こんな人間を大量生産してしまった事の恐ろしさと馬鹿馬鹿しさについて考えさせられる、つまり逆説的にピースフルを目指した暴力映画。最後の10分くらいしか出てないのに助演男優賞獲ったウィリアム・ハートも可愛かった。エド・ハリスはいつも通りに怖すぎ。
『愛と誠』(2012年/三池崇史)
U-NEXTにて。「純愛はバカ」という真実から徹頭徹尾逃げない姿勢が本当に素晴らしい。純愛もバカだし、幸せすぎて急に歌い出す人もバカという、ミュージカル映画へのアンチテーゼとメタが機能しているのも天才的な客観視点。バカを台詞ではなく人物やカメラの距離感で表現しているのも、映画屋・三池の技術力の高さを雄弁に語っている。最近の三池映画はどれもほとんど例外がないのだけれど、撮照の技術が高すぎるし、ショットは正解しか出さないのに、現象や脚本がバカすぎて乖離しているオリジナルな異化がすこぶる愛おしい。このような「おとなの悪ふざけ」「技術の無駄遣い」はもっと評価されていい。三池の中でもかなりフェイヴァリットの大好きな作品で、しかし『愛と誠』リアルタイム世代のぼくの両親は「最低の実写リメイク」と酷評していた。果たして、梶原一騎の世界観を現在の視点からメタ化して語り直す、その脚色こそ賛美しようじゃないですか。前半30分はほぼ5分おきくらいにバカミュージカルを展開していくが、中盤以降で母性へとベクトルが向かうと、これもまた良い。ぼくは母ちゃんがボロボロになってメソメソしていたりする映画に大変弱いので、クライマックスの踏切のシーンでは恥もなくびーびー泣いてしまった。そして最も特筆すべきトピックは、武井咲のコメディエンヌとしての才能開花である。彼女が歌唱する『あの素晴らしい愛をもう一度』の、あまりの馬鹿馬鹿しさと可愛らしさ。メイド服コスプレで嫌々ストリップさせられたり、縄で縛られて硫酸かけられそうになったり、三池が嫌がらせしたくなるのも分かる。斎藤工がサビを歌う直前で突然バシッとポーズを決めるたびに、ビクッ!と怯えてドン引きする武井咲なんて、本当にフェティッシュで素晴らしいです。
『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年/ブライアン・デ・パルマ)
Blu-rayにて。いつどんな時に何度観ても、俺の人生で最高の映画!オールタイムベストワン!「何の取り柄もなく/人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る/お前が死ねばみんな喜ぶ/ダラダラといつまでも生き続けるより/思いきりよく燃え尽きよう」何も残さず凡庸に生きるなら、何かを残すために燃え尽きようぜ。早く燃え尽きられる日常が戻って来ますように!!
魔女の映画よりも『アンダー・ザ・シルバーレイク』を信じた者が辿り着いた『マウス・オブ・マッドネス』の「再映画化」を「演劇」で完遂する試み、を、ポスト演劇と銘打つことに一片の恥じらいも無い【盛夏火『ウィッチ・キャスティング』雑感】
何故、白石麻衣を「黒石さん」として召喚せず、悲劇の似合う美女として撮らないのか『闇金ウシジマくん Part3』(2016年/山口雅俊)雑感
ファンと公言できるほどに『闇金ウシジマくん』シリーズが好きだ。原作漫画にせよテレビドラマにせよ、そして映画にせよ、どのエピソードも全くハズレが無いと断言できてしまうほどのクオリティが輝きを放っている。ウシジマくんは現代社会を生きる人々にとっての出逢いたくない「寅さん」であり、このシリーズは「人情悲劇」の傑作だと考えている。
特に、2013年に公開された『闇金ウシジマくんPart2』は、お世辞を抜きに高い完成度に到達している傑作であった。若手実力派俳優を筆頭としたキャストアンサンブルは絶妙であり、且つ群像劇として各々の「着地点」と「視点」の置かれ方が巧みかつ周到であったことも評価したい。人情悲劇の金字塔として、早くもマスターピースを叩き出してしまった快挙の感覚は未だに鮮烈で、プログラムピクチャーとして永遠に続けてほしいと願うほどだった。
さらに、2016年に放送されたテレビドラマのシーズン3では、原作エピソード中、最も映像化不可能との呼び声高かった「洗脳くん編」をドラマ化した。犯罪マニアで無くとも承知であろう「北九州監禁殺人事件」を下敷きとしたこのエピソードは、その事件を扱うこと自体がタブー視されているにも関わらず、一切のブレーキ無し、自主規制を放棄したハードコア描写にあっぱれと歓喜した。主人公を演じる光宗薫は、これがフィルムなら新人賞総なめの名演を見せて、今後の彼女の動向にまばゆい期待を抱いたのだった(ちなみに、同じ題材を脚色した園子温のNetflixオリジナル映画『愛なき森で叫べ』よりも、このテレビシリーズを推す)。
そんなウシジマくんシリーズが終結する運びとなり、映画が二作連続上映、Part3とThe Finalと銘打たれた。ミーハーで恐縮だが、超期待していた。ただでさえ好きなシリーズの新作であるし、あのPart2と洗脳くん編を創造した布陣が、最後には一体如何なる傑作を作り上げるのか、と。
さて、『闇金ウシジマくんPart3』のカンソウなのだけれど、非常にガッカリした。
むしろ、箸休めとしても機能していない様子は許容範囲外で、崇高なシリーズにPart3が名を連ねるというだけで溜息が漏れてしまう。
本作が従来のシリーズと異なるのは、物語的な構造の一切を関係なしに、あからさまに不細工な編集にある。「ファイナル」と並行して撮影されたという本作は、素人目から見ても、撮影スケジュール確保の乏しさが垣間見られる。それは例えば、明らかに必然性の感じられない長回しが異常な回数で多用されたり、一連のシークエンス内における「事務的な」カット割がただ羅列される、まるで作家性や職人性すら感じられない早撮り優先のショットが多すぎる。その為、映画のリズムは極端に崩壊し、画面設計の凡庸さも相まって、単調で「運動」が皆無な映像が露わになった。極めつけはMAにおける劇伴の添え方なんだが、これが学生映画でさえもう少し「意図」を明示するだろう不憫さで、シリーズを通してデフォルトとして鳴らされた音楽たちの壊滅的な使われ方に、怒りよりも戸惑いが生じてしまった。一体全体、何故ここまで「テキトウ」にできてしまうのか。あるいは、誰も完パケまで気づけなかったのか。同じ布陣とは思えない、思いたくない悲壮感に襲われた。ファンであるがゆえに。
このような問題点は今までのシリーズ作品には一度たりとも見受けられなかったし、先に書いてしまうが、前述した編集は「ファイナル」では改善、と言うより元通りに成っており、製作陣が如何に「ファイナル」に勢力を注いでいるのかが判明した。とは言え、それがPart3を「軽く」仕上げて良いという免罪符にはならない。大抵の観客は、1800円+120分間×2を支払うのだから。
メインストーリーの強度も風が吹けば吹き飛ぶレベルで、演者を責めるつもりはハナから無いものの、魅力的な人物像が一人も描かれないし、何なら描こうともしていない。あくまでも焦点は、「マネーゲーム」と称されるカタチを伴わないカネの増減に絞られており、それらを操作する、と見せかけて実のところ操作されている側の欲望も人情も共に薄っぺらく、もはや誰がどんな顛末を迎えようがこちらは痛くも痒くもない。
「俺はビッグになってみせるんだ!」とほざく主人公は、さして葛藤も代償も払わず、勝手にカネを手にしては失い、勝手に成長したようなツラを見せる。ファックオフだ。そこに傍観者、ウシジマくんによる制裁も用意されておらず、一体この溜まり込んだフラストレーションはどこに発散すればいいのか唖然とした。「ファイナル」まで待てとジラすのなら、頼むからこんな映画は作らないでくれ。こんなことを観客に思わせるようなシリーズでは無かったはずなのに。
と、文句ばかりを書き連ねてしまったものの、前述した通り、役者陣は批判の対象とならないほど(この不細工な撮影と気味悪い脚本の上で)誠実に職務を全うしようとしている。もちろん、そこには「演出」が希薄な為に「芝居」と呼ばれる運動は無いのだけれど、それでも、印象深く器用な役者たちは輝いていた。
中でも、オリエンタルラジオの藤森慎吾は眼球の動かし方からして巧く、彼のチャラ男というパーソナリティを知らずとも、この役柄の説得力は素晴らしい。生理的な瞬きを抑えて、あくまでも役柄として瞬きをする彼の技量はたかく評価されていい。もっと演技の仕事が増えればいいのにと願った。あと、この人モテるんだろうなと思った(笑) 演出側はもっと彼を、バスター・キートン並に縦横無尽に動かすべきだったと感じる。
藤森慎吾と対峙する筧美和子は、マア、少々ぎこちない滑舌と立ち振る舞いなものの、それも含めてキャバクラ嬢の本音か建前か判断できないヘタウマな魅力があり、好印象を抱かせる。グラマラスな体型以前に、こういうキャスティングこそ見透かしてはならない。しかし、セックスシーンはしっかりと脱ぐべきだった……と言うのは野暮を承知で、藤森慎吾と筧美和子が配置された両者のシークエンスは、それが作品全体の強度を高めることには残念ながら連結していなくとも、忘れがたい余韻を残すだけ及第点だった。他にも、秒速で1億を稼ぐ浜野謙太や、吉本興業所属の月見草しんちゃんとAV女優のさくらゆらのカップルの異様さもまた特筆に値するが、論旨をシフトする。
さて、本作には乃木坂46のメンバーである白石麻衣がヒロインとして出演している。ぼくは乃木坂46を認知しているものの、全くもってコアなファンと自称できるような人間ではない。とは言え、ウシジマくんの世界に白石麻衣が参入するという情報を見聞きした際の期待は甚だしく大きかった。恐らく、映画というフィールドは彼女にとって、より一層、美が乱舞する空間としてふさわしいと予想していたからだ。
彼女のような浮世離れした美しさが「運動」する姿、それも歌やダンスではない、キャメラに焼き付ける芝居という運動が、スクリーンに映えないわけが無かった。彼女のヴィジュアルからして、大袈裟ながらかなり稀有な女優だと思っていた。加えて、悲劇が似合う女優であると、あまりにも感覚的ではあるが確信に至っていた。Part2における門脇麦の不憫さ、Season3における光宗薫の悲壮感を、今度はあの白石麻衣が体現するとは、生きてて良かった、と真剣に思っていた。観る前までは。
結論、本作の白石麻衣は「あからさまな不正解」とされる演出が施されており、映画の不細工具合も相まって、個人的には劇中で最も不可思議な人物に成らざるを得なかった。あの美女を、よくぞここまで不恰好にレンズに収めやがったな、と、途方もなく哀しくなった。
こと此処で批判しているのは、白石麻衣の演技力に関する点ではない。そんなもの、彼女の職業はアイドルであって演技巧者では無いのだから、名演なんて賛美は必要ない。必要なのな、白石麻衣を「最も美しく撮る」という演出側のオブセッションだ。本作には、そういったオブセッションは皆無で、白石演じるヒロインは、主人公の青年を動かしている「ような」記号でしかない。飾りにもなっていない。さらに、ここ10年で最も無感動な接吻や、情事後の起床姿として汚いキャミソール姿を着用させる始末。何処までも空虚で、無意識で、まるでマネキン人形のような彼女は、正気とは思えないショットの渦で漂流し続ける。一体、なんだこの女は? 白石麻衣という磨き上げられた原石を、演出側はバービー人形と勘違いしていないか? 人情も、悲劇も、この女には無い。無いくせに、「有る」と言い張るキャラクターだ。やがて、僕はこのヒロインに対して腹が立ってきた。
私見、あるいは知ったかぶりとして述べると、白石麻衣にはこんなレベルではない被写体としての存在感があり、誰しもがその運動に敗北宣言をし得る魅力があると信じている。端的に言えば、「顔」の良さである。「顔」の良さとは、決して美醜に限ったことでは無い。キャメラを通して拝見するだに、その目、口、眉、鼻、頬、顎、額、舌、歯と言った、各々のパーツが動き、ひしめき合う「運動神経」の高さを指している。次に「身体」だ。腕、脚、胸、腰、姿勢、長さ、幅、質感、およそ完璧な肉体美に対して、映画は何を映すべきか問われるはずだ。本作は何一つとして映していない。映しているつもりなだけで、本質的にはその一片も切り取られていない。
こうして、アイドルヲタクでも無い映画好きの端くれのぼくが、如何にして彼女を擁護、絶賛し得るのか。もしかして、単に面食いで好みってだけじゃね? ああ、面食いだよ。悪いか! しかしながら、白石麻衣は、悲劇によって追い込まれ、やがて哀しみながら、怒りを表明するべきだった。理由は、乃木坂46出演のバラエティ番組内に登場する、白石麻衣の別人格「黒石さん」を見ていたからである。
黒石さんとは、白石麻衣のオルターエゴとして呼称されているキャラクターで、要するに「怒った白石麻衣」のことを指している。容姿端麗の彼女がひとたび眉間にシワを寄せると、その迫力は凄まじい磁力を帯び始める。普段の表情との差異によって、睨まれた者は怖気付く。同時に、「怒っているのに美しい」という差異も発生しており、睨まれた者はその怨念を心置きなく享受する準備が無意識に整ってしまう。だから、黒石さんはおそろしい。怨念を発散すればするほど、美麗さが増大するとは、美女にのみ許されたオブセッションだ。白石麻衣は自身の特異性を巧妙に発揮し、黒石さんを番組内で人気キャラクターとして召喚させる。
したがって、ぼくは本作において「黒石さん」は必要であったと豪語したい。真っ白い素肌の彼女が、漆黒の闇に全身を染め上げる。闇の女。闇が似合う女。それこそが「映画」の女だ。もっとも、ホワイトの役割は本郷奏多が(その純白の肌も含めて)担っているので反復の必要はない。黒石さんと対峙する本郷奏多や山田孝之の画を想像するだけで高揚する。本作における白石麻衣のショットが一つでも黒石さんならば、それだけで映画は豊かになるはずだったのに。「顔」そのものが憤怒と悲嘆で「戦場」と化すとき、ぼくらはその戦火の美しさとおぞましさを知るに至る。戦況が激しさを増すほど、彼女の眼差しは呪いとして研磨されていく。真っ白なスクリーンは女の哀しみと怨念によってドス暗くブラックアウトし、ぼくらはもう、彼女のあの「目」が一生忘れられなくなる。黒く塗れ。ローリング・ストーンズが叫んでいた通りだ。黒く塗れ。白石麻衣を、映画は黒く塗れ。
白石麻衣の現状の映画出演作は、本作、『劇場版BAD BOYS』、『あさひなぐ』、『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』の4本のみとなっている。端的に言って、なんという惨状だろうか。彼女がファムファタールを演じるフィルムノワールは、なぜ撮られていない?
『劇場版BAD BOYS』では、ぼくが『溺れるナイフ』で胸打たれた重岡大毅の恋人役なのだが、ここでは雨を伴う女として若干のディメンション・オブ・黒石さんを魅せており、まだ鑑賞に耐え得る。んが、まだまだ足りない!
『あさひなぐ』における、電車内の窓越しから白石麻衣を捉えたショットは未だに印象深い。直後、電車は右側へ進行して彼女は左側へフレームアウトする。いや、だから?と問われたら、困るな。当たり前に撮られた、ごくありふれた表現だけれど、これがよかったのだ。無表情をしっかりと美しく切り取り、切り取った直後に横へ移動しながら葬り去る、こういう画があっただけでも好印象なのだ。しかし、本作は伊藤万理華の最高傑作として君臨しており、黒石さんがスパーキングしたとは言いがたい。まだまだ足りんのだ!
『スマホを落としただけなのに2』は、恥ずかしながらまだ観ることができていない。大学の同級生がスタッフとして参加しているので、友情の証としていずれは観に行くつもりなのだけれど、スマホを落としただけで酷い目に遭う映画に、中々食指が動かない……観た方の感想によると、白石麻衣のタイツをズタズタに破いたり、身体を張ってレイプシーンに挑んでいるらしい。彼女の本気度が期待される。本作において、悲劇を纏ったヒロインとしての完成に至ったのかどうか、己の目で確かめたい。しかし、あらゆることはどうでもいいのだ。黒石さん。黒石さんさえスクリーンに映っていれば、もう他には何もいらないのだ。
2020年3月25日発売の25枚目シングルをもって、白石麻衣は乃木坂46から卒業することを発表した。モデルとしても華々しく活躍している彼女が、特に卒業後において、映画というフィールドでどのように花開くのか、あるいは花散るのか、前者を期待しつつ、陰ながら応援したい。優秀な監督との邂逅が果たせますように。そして必ずや、黒石さんがスクリーンでぼくらを睨みつける日を夢見て。
ほぼ同時期に、欅坂46を脱退した平手友梨奈が、容易くスクリーンに祝福されてしまっている現代において、白石麻衣/黒石さんの歩みは、計らずも険しいものなのかもしれない。
余談。本作のPR番組として『さしめし』内でテレビ通話をする白石麻衣は、例え電波の影響で画面がフリーズしようが、そんな事象は屁でも無いほどに美しく静止していた。結果、本作のどのショットよりも、このスマートフォン内の静止画が美しいという痛烈な賛美を残して、この稿を閉じる。